02/17の日記

09:12
【必読書150】スピノザ『エティカ』(3)―――科学の実験にたえる「神」は、いるか?

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(2)からのつづきです。






 【10】“必然性”に、決まった方向はない。



 前回のテーマ:《自由》を、もうすこしだけ続けよう。

 前回の最後は、



 神にも人間にも、「自由意志」は無い。



 ということだった。私たちには「人間」が気になるが、「神」はどうか? きょうは「神」からはじめよう。



「1 スピノザは神を擬人化する概念、つまり神が人間に似ているとする概念を拒絶する。
〔…〕

 神は欲望や感情は持たない。神が誰かを愛したり憎んだりすることはない
〔…〕神が怒ったり、復讐したり、嫉妬することもない。神は王や立法者、裁判官のようなものでもない(神は命令を出すことはないし、服従や不服従を理由に、報いたり罰したりしようと模索することもない)。

 だから、神の行動を、人間の行動を説明する際の紋切り型で説明することはできない。
〔…〕

 このことから明らかにこう結論できそうだ。スピノザの見解によれば、宇宙には何の目的もない。宇宙には方向性がない(あるいは先端がない)と言ってもよいかもしれない。

 2 1とも密接に関係するのが、神は(スピノザの見解によればわれわれも)自由意志を持たないという命題だ。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.58-60.



 つまり、《神イコール自然》は、“目的”ないし「方向性」をもたない。スピノザの考えでは、「必然性」は、なにか一定の方向をもったものではないのだ。

 私たちは、「必然性」というと、何か特定の方向をもったものだと、言外に考えてしまう傾向があります。マルクス主義者やら“史的唯物論”やらが、そういう先入見を浸透させたせいかもしれないし、それだけではない、彼らに反対する“近代化論者”だって“明治維新論者”だって、けっきょく同じことを言っている。社会は進歩する、われわれは、科学は、世界は、未来に向かって発展している。……そもそも、「維新」というコトバが、新しいことはいいことだ‥という先入見をふり撒いている。

 しかし、《神イコール自然》の「必然性」には、方向性などない。この世界の法則は、という力が加わると、質量の物体は加速度F/mで動き出すと言っているだけで、そこには方向性も目的もない。宇宙全体にも、方向性が与えられているわけではない。宇宙の法則は、光速を超える速度では運動できない、質量の物質はmc2のエネルギーに転化すると言っているだけで、だから何がどうなるというような決められた方向性はないのだ。

 これまでに判明した自然法則の中で、唯一、方向性をもった法則は、「エントロピーは増大する」という熱力学第2法則だけだろう。しかし、その意味は、宇宙全体が崩壊に向かっている、いつかは均質化してスープのようになってしまう方向をもっている、というだけだ。われわれが身近に見る現象は、それとは逆に、樹々が芽生えたり、動物や人間が成長したり、生物やさまざまな物質がしだいに複雑な組織を造って行ったりしている。けっきょく、われわれの世界は、人間が気にしなければならないような“方向性”を備えてはいないのだ。

 そのように考えてみると、スピノザは、私たちに、恐ろしい空洞のような、まっ暗な世界を見せているような気がします。“方向性がない”ということは、どこに向かっているかわからない、目の前がまっ暗で何も見えない、ということだから。私たちは、自分たちはどこかに向かっているのだと信じたい、“方向性”があってほしい、と思う。それが、消そうにも消しようのない人間というものの性癖なのでしょう。それならば、それでよいではないか。“方向性”を持ちたいという感情、“方向性”があるという誤った観念(想像知 イマギナチオ)、それはそれでよいのだ。夢を見ることが有益な場合もある、ただ、ほんとうはそんなものはない、ということさえ知っていればよい。スピノザは、そう言うのです。

 だから、神は《自由意志》をもたない

 ……こうして、「必然性」には方向がない、ということになれば、むしろ「必然性」のほうから、《自由》のイメージに近づいてきたような気がします。“《自由》イコール「必然性」”という瞠目のパラドックスが、いくらか理解できるものになってきたと思います。













「スピノザは、神が意志を持つことを否定するのではなく、神の意志は神の知性や悟性であるとし、神が何かをどうかしたいという意志を持つことは、神がそれはそのようなものであると理解ないし認識することに等しいと主張する。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.60.



 つまり、スピノザの考えでは、「意志」とは、たんに認識することにすぎない。「意志」と「認識」のあいだに違いはない。なぜなら、「神」にとってすべては“必然性”だから。神が、「こうしたい」と思って、「こうした」としても;‥あるいは、「それは必然的に、こうだ」と理解して、「こうした(こうなった)」としても、どちらもまったく同じことなのだ。

 「お人形さんが壊れちゃった。」と言って泣く子に対して、大人は言う:「壊れたんじゃなくて、あなたが壊したんでしょ?」‥しかし、子供の言うことにも、何分の一かは真理がある。子供の言の何分の一かは、神の言葉だからだ。



「また、スピノザはこう主張する。神の意志は、他のあらゆるものと同様に、神の本性や本質から必然的に生じるものであり、だから
〔ギトン注―――《神=自然》の中に〕決定的な原因を持っている。神は必然的に神が行動するように行動するが、これは神の本性ないし本質のせいであって、神が自由な(つまり、原因のない)意志を持っているからではない。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.60-61.



 しかし、それならば、神の《自由》とは何なのか? 神は、いかなる意味で《自由》なのか?



「ただし、スピノザは、神はまったく別の意味で自由であるとも主張する。なぜなら、神は自己の有り様を完全に自己決定しているからである。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.61.



 この“自己決定”の意味での《自由》が、前回に詳しく見た〔定義7〕でしょう:



「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されるものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるものである。〔第1部、定義7〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.4-5.



 《神イコール自然》《自由》とは、《神》自身の本性である・方向のない「必然性」にほかならない。



「スピノザの『自由』の定義(定義7)
〔…〕

 スピノザは自己決定権としての自由という概念を提案する。
〔…〕

 神は、その本性の必然性によって存在し(定理11)、その本性の必然性のみによって行動するのだから(定理11)、完全に自由である(スピノザはここで、行動を、何かを生むこと、あるいは何かの原因になることと捉えている)。また、完全に自由なのは神のみである(他のすべてのものは神から生まれているからである)。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.76.



 それでは、人間の《自由》については、どうなのでしょうか?



「スピノザは『エチカ』の後半で、人間の自由も同じような意味で(つまり我々の行動が我々の本性を理由に決定される範囲内で)可能であると主張する(第4部の定理68, 第5部の定理36の備考)。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.76-77.



 つまり、人間にも《自由》はある。それは「必然性」と切り離せないものだが、それでも、人間の《自由》はある。それは、『エティカ』の後半に書かれている。

 こうしてようやく、スピノザの考える人間の《自由》―――その糸口をつかむことができました。

 そこで、ジャレットが指摘する〔第5部・定理36・註解〕をちょっと見てみたいと思いますが、そのまえに、『エティカ』の前半と後半の関係について、参考書で調べておきます。






 
  ヒルスツェンベルク「ダ・コスタと幼少のスピノザ」
  ウリエル・ダ・コスタは、ユダヤ教の信仰を求めて
  迫害のポルトガルからアムステルダムにやってきた
  ユダヤ人。しかし、当地のユダヤ教会から2回破門
  されて自刹した。スピノザ8歳の時だった。






 【11】『エティカ』の構想の変遷



「彼の主著は『エティカ』であるが、彼は 1662年の終わり頃からそれを書き始め、翌63年のはじめには第1部の「神について」の草稿が彼のアムステルダムの友人たちのあいだで回覧されていた
〔…〕 65年3月、友人にあてた書簡〔…〕から見て、この時期には相当進捗していたようである。

 この時期の『エティカ』は3部から成るものとして構想されていた。それは『エティカ』の前身、『神、人間および人間の幸福に関する短論文』の主題としての神、人間および人間の幸福に対応するものであった。同年 6月にはこの第3部の終わりのところを書いており、ほぼ完結に近づいていたのである。

 ところが、同年秋にはそれを中断して、『神学・政治論』の執筆に取りかかった。この書物には約5年の歳月がかけられ、70年に出版された。スピノザはその後ただちに『エティカ』の執筆を再開し、3部から成るものを5部に改め、1675年に完成させることができた。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.2-4.



 つまり、『神学・政治論』による中断の後に、『エティカ』の構想変更ないし拡充があったようです。章立てを比較してみると:



「神について」     →「第1部 神について」

             「第2部 精神の本性と起原について」

「人間について」     「第3部 感情の起原と本性について」

             「第4部 人間の隷従あるいは感情の力について」

「人間の幸福について」 →「第5部 知性の能力あるいは人間の自由について」



 当初構想の「第2部 人間について」が第2・3・4部に拡充され、「第3部 人間の幸福について」は、人間の自由をテーマとする第5部に改められています。

 完成された『エティカ』を見ると、第5部のテーマは「人間の自由」で、「序文」のはじめには、↓下のように書かれています。しかし、「第5部」の内容に「自由」というコトバは、ほとんど出てこないのです。第5部全体は、むしろ人間の究極の幸福を扱っているように見えます。



「最後に私は、われわれを自由へと導く方法あるいはその手段に関する倫理学の他の部分にうつる。それゆえ、この部では理性の能力について論じ、理性そのものが感情にたいして何をなしうるか、さらに精神の自由あるいは至福とは何であるかを示すであろう。
〔…〕〔第5部、序文〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.413.



「『エチカ』第5部では2つの話題が出てくる。最初の話題は、理性は我々の受動的な感情をどの程度、またどのような手段で消滅させる(ないし弱める)ことができるかというものだ(スピノザはこれを自由に導く方法として描写している)。この話題を取り扱う際、スピノザは心理療法を提示している。

 2番目の話題は、人間の自由そのもの(あるいは人間の至福)について、また、賢い者は無知な者よりどれほど強いかを取り扱うものである。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.241.



 『神学・政治論』出版と、『エティカ』完成のあいだに、例の共和派政権崩壊の政変とデ・ウィット虐殺事件が起きています。期待を寄せていた自由主義のリーダーが、誤解を吹き込まれた民衆によって無残に殴り殺された事件をきっかけに、スピノザは、人間というものについて、よりいっそう思索を深めたでしょう。第2〜4部の拡充は、それと関係があるかもしれません。

 しかし、《自由》に関しては、どうだったのでしょうか?

 たしかに、第5部の標題は、旧構想第3部の「人間の幸福」が「人間の自由」に変更されています。「第4部」までは、ハードな、隙のない論理的演繹、機械的な因果関係や力の衝突を思わせる考察がまさっているのに対し、「第5部」では、感情に対する「心理療法」など、ソフトな面が見られます。







アムステルダム、涙の塔






 それでも、〔第4部・付録〕の最後のところでは、↓次のように書いています。この〔付録〕は、『エティカ』の成立過程で、時間的に最後にできあがったとされているのです。スピノザは、いったい、どういうものを、人間の《自由》と考えていたのか? 『エティカ』をもっと読みこんでゆく必要がありそうです。



「32 しかし人間の能力は、きわめて制限されているものであり、また外部の原因の力によってかぎりなく凌駕されている。
〔…〕

 だが、たとえわれわれの利益を考慮したいという要求に対立することが生じても、われわれは、自分たちの責務を果たしたこと、われわれの力はそれをさけうるほど十分でなかったこと、またわれわれが全自然の一部分であり、その秩序に従っていることなどを自覚しているならば、冷静にそれにたえるであろう。もしこのことを明瞭・判明に認識するならば、知的認識によって規定されるわれわれのかの部分、いいかえれば、われわれのよりよき部分は、それに完全に満足し、そのうえ、その満足を固持するように努力するであろう。なぜなら、われわれには知的認識のゆるすかぎり必然的なもの以外には何も欲求することができないし、また一般に、真なるもののうちにしか心の平和をえることはできないからである。

 以上のことから、われわれがこのことを正しく認識するならば、それだけでわれわれのよりすぐれた部分の努力は、全自然の秩序と一致するのである。〔第4部、付録〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.411-412.



 そこで、さきほど宿題にしておいた〔第5部・定理36・註解〕を読んでみるとします:



「〔定理35〕 神は自分自身を無限の知的愛をもって愛する。

 〔定理36〕 神にたいする精神の知的愛は、神が自分自身を愛する神の愛そのものである。しかしこの場合の神は無限であるかぎりの神ではなく、永遠の相のもとで考察される人間精神の本質によって説明される神である。いいかえれば、神にたいする精神の知的愛は、神が自分自身を愛する無限の一部である。
    〔系〕 この帰結として、神は自分自身を愛するかぎりにおいて人間を愛し、したがってまた、人間にたいする神の愛と神にたいする精神の知的愛とは同じものであるということになる。

   〔註解〕 以上のことからわれわれは、自分たちの救済あるいは至福、あるいは自由が何にもとづいているかを明瞭に理解する。すなわちそれは、神にたいする不変の、永遠の愛あるいは人間にたいする神の愛の中にある。だがこの愛あるいは至福は、聖書において栄光
(グロリア)と呼ばれているが、これは不当なことではない。〔…〕

 
〔…〕われわれの精神が、その本質と存在に関して、どのようにして、またどのような仕方で、神的本性から生じてくるか、そしてたえず神に依存しているのであるか、ということが明らかとなる。〔…〕私は、第1部においていっさいが〔したがって人間精神も〕、本質と存在に関して神に依存していることを一般的に示したけれども〔…〕あらゆる個物の本質そのものから、このことを結論する場合ほど、われわれの精神を感動させることはないのである。〔第5部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.452-454.


 人間は、ほかの生物や物体と同じように、《神すなわち自然》の一部ですから、人間の神への「知的愛」は、「神が自分自身を愛する無限の愛」の一部であることになります。そして、「神が自分自身を愛する愛」は、「人間にたいする神の愛」をふくんでいます。

 スピノザは、人間の《自由》も、至福(最高の幸福、喜び)も、この“神の自己愛”、すなわち神と人間のあいだの双方向の・同一の「愛」の中にあるとするのです。

 そして、「あらゆる個物の本質そのものから、このことを結論する場合ほど、われわれの精神を感動させることはない」とまで述べています。あらゆる個物の中に、《神》の存在と《神》の《自然》に対する愛を発見する喜び。“神は、細部にこそ宿り給う”ということでしょうか?

 しかし、そこに人間の《自由》があるという意味は?‥‥

 やはり、スピノザの“結論”が記された「第5部」を、一足跳びに理解しようとしても難しいようです。 

 まずは、「第1部」からはじめることとしましょう。






 【12】“神の存在証明”の難しさ



 スピノザにとって、「第1部」最初の難関は、“神の存在証明”であったろう。「神は存在する」―――これが言えない哲学は、無神論になってしまう。無神論が“市民権”を得たのは、19世紀末にニーチェが「神は死んだ」とぶちあげてからのことだ。それまで、ヨーロッパには、「神は存在しない」と開き直った哲学者はいなかった。

 キリスト教信仰が人びとの心にしみわたっていた世界では、“神の存在”を信ずることは、たやすい。しかし、これを理論で、《理性》で証明するとなると、実にやっかいなことになる。






 






 哲学史上、神の
「『存在論的証明』にはいくつかバージョンがあるが、基本的には『神には存在するということが必然的に属する』と認めさせておいて、『だから神は必然的に存在する』と結論する。問題はその、思考必然から現実への移行である。頭の中で『ううむ、たしかに存在しないような神は神とは言えなくなるよなあ』と納得したからといって、『だから神は現実に存在しているのだ』と言うだろうか。〔…〕

 これは当然の疑惑だと思う。」

上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,p.93.



「神が存在することを証明する方法は、 伝統的に三つある(とカントがまとめた)。 それらは通常、 存在論的証明(ontological argument)、 宇宙論的証明(cosmological argument)、 目的論的証明(teleological argument)と呼ばれる。

 [存在論的証明] 中世の神学者アンセルムスが定式化した神の存在証明。『神は完璧である。ところで、存在しない神と存在する神を比べた場合、 明らかに存在する神の方が完璧である。したがって、神は存在する。』この証明に対しては、カントが批判した。」

児玉聡氏HP――神の存在証明



「存在論的証明

 神の存在の証明法の一つ。このうえなく大なる存在という神の観念を考えると,神は概念的に存在するだけでなく実在しなければならない。そう考えなければ,このうえなく大なる存在という観念に矛盾することになる。なぜなら,概念的存在よりも実在のほうが,より大なる存在であるはずだから,というもの。アンセルムスが提出し,デカルトも独自の立場から同様の証明を提出した。アンセルムスに対してはトマス・アクィナスが批判し,デカルトは『省察』に対する第一の駁論への答弁で,このトマスの批判を論じている。カントも,この証明法を批判している。」

コトバンク――ブリタニカ



 しかし、スピノザの場合には、“存在証明”のハードルは低かったのではないか‥という気がします。というのは、《神すなわち自然》ということであれば、この宇宙の存在を否定する人はいないでしょうから、そういう素朴な実在感の上に立って、「それは神だよ。」と説得すればいいわけです。デカルトのように、私に見えてる世界は悪魔がかどわかして見せている幻影ではないか? 地面も空も、ほんとうは無いのではないか? いや、そう思って疑っている“私”だけは、絶対にいる。われ思う、ゆえにわれあり。‥‥などとまわりくどい理屈をこねる気は、スピノザにはさらさらないのです。

 私たちの素朴な生活感覚を信じて、それに立脚し、そこに理性の光を当ててさらに考えてゆく―――そういうのが、スピノザのやり方なのだと思います。

 たしかに、『エティカ』の「第1部」では、“神の存在証明”をやっていますが、“存在証明”自体には、大きな力点はないのではないか?

 例がよいかどうかわかりませんが、スピノザは、“山の神の存在証明”と似ていると思うのです。「ほら、そこの山が“山の神”だ。」と言われたら、誰も、その山の存在を否定することはできません。ただ、問題は、その山に神格があるかどうかだ―――という笑い話です。

 「《自然》がすなわち神である。」とスピノザは言います。哲学的な論証の当否はともかく、感覚的には誰も、“《自然》が存在する”ということを否定できません。それよりも、問題はむしろ、《自然》は、神と呼ぶにふさわしいのか? この大宇宙は、神と呼ばれるにふさわしい、どんな性質や機能をもっているのか?‥そういうことではないか。

 つまり、人間と《自然》《自然》の中のさまざまな現象が、どのように存在し、どのように働きあっているのか?――スピノザにとっては、そちらのほうが、“神の存在”そのものよりも重大な問題なのだと思います。したがって、それに対しては、この著作全体が答えになっているのです。

 もうひとつ、スピノザの場合の特色は、“もしも神が存在するとしたら、こういうものでなければならない”という論理展開になっていることです。そういう観点から、はじめに「神」の基本的な性質・属性が定義され、そういうものは、《自然》全体であるほかないことが示され、さらに、《神=自然》の中で起こるさまざまな現象が展開されていきます。

 つまり、


〇 「神」が存在するとしたら、《自然》とイコールの神以外には、ありえない。


 という否定的な向きに、より大きな狙いがあるのではないか? そういう印象があります。ですから、同時代の人びとに、この著作が“無神論”のように見えたのも、しかたのないことだったかもしれません。

 しかし、『エティカ』を読み進めていくと、《自然》に対するスピノザの畏敬が、あちこちで感じられます。コトバと文章は、数学の教科書のようで、味もそっけもない論証が延々とつづくだけですが、ひとまとまりを頭の中に入れて、反芻しながら理解しようとしていると、著者の主張の全体から、《自然すなわち神》への畏敬―――スピノザは「神への知的愛」と言っていました―――が、まぎれもなく感じられます。

 “《自由》イコール「必然」”の論理も、それを詰めてゆけばゆくほど感じられるのは、《自然》への畏敬、神に対する崇高さの感情です。













 ところで、『旧約聖書』には、神が自分で、「わたしは存在する。」と言明している箇所があります。トマス・アクィナスが、『スンマ(神学大全)』の“神の存在証明”を扱った章の冒頭で、そこを引用しています:



「第3章 [I, Q. 2, Art. 3]

 神は存在するか?

 神ご自身が:『私は存在する者である。』(Ex. 3:14)と仰っている。」



「神モーセにいひたまひけるは我は有て在る者なり〔明治元訳聖書・出埃及記 3:14〕」

明治元訳旧約聖書、出埃及記3



「13 Moses said to God, “Suppose I go to the Israelites and say to them, ‘The God of your fathers has sent me to you,’ and they ask me, ‘What is his name?’ Then what shall I tell them?”
 〔出エジプト記 3章13節 モーセは神に言った、『考えてみてください。私がイスラエルびとらのところへ行って、彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたに遣わされた。」と言うと、彼らは、「その方は、何というお名前ですか?」と尋ねるでしょう。そうしたら、私は彼らに何と答えるのでしょうか?』〕

 14 God said to Moses, “I am who I am. This is what you are to say to the Israelites: ‘I am has sent me to you.’”
 〔14節 神はモーセに言った、『わたしは、わたしが在る者である。あなたがイスラエルびとらに言うべきは、こうである:「わたしが在るが、私をあなたがたに遣わされたのだ。」』〕」

Exodus 3 New International Version (NIV)



 じつは、この部分は、むかしからさまざまな読み方があるところで、NIV(新共同訳)の訳も、国ごとさまざまです。関心のある方は、各宗派の説明を、こちらで:⇒新共同訳・編集委員 ⇒バプテスト ⇒神の教会連盟

 日本語訳も、共同訳と新共同訳では違っているくらいです。ここでは、英訳を採りました。“I am who I am.”は、ほとんどヘブライ語原文の直訳だそうです。

 意味深な解釈はいろいろあるようですが、私はこの箇所を読むたびに、なにか、神がモーセをからかって言っているような気がするのです。こんなトンチンカンなことを言って、イスラエル人たちが納得するとは、とうてい思えないからですw

 しかし、トマス・アクィナスも引用しているくらいですから、これは“神の存在”のいわば根拠条文です。(これ自体は、存在証明ではありません)

 どうも、スピノザは、この根拠条文に忠実に沿って、論証をしているようなのです。






 【12】科学と矛盾しないのは、どんな「神」か?



 教会に行けば、童心に帰り、科学のことなどすっかり忘れて神に向かって祈る。家に帰って来ると、頭を切り替えて、神のことは忘れて実験をはじめる。こんなことをわれわれは、いったいいつまで続けるのか?

 スピノザは考える。いくら実験を重ねても、神の存在が見えて来ないのだとしたら、……こういうふうにすると、どうしても神の存在が証明されてしまうような、科学とも矛盾しない公理を、立てればよいのではないか? そういう公理が立てられれば、科学は神の存在と矛盾しない。矛盾しないだけでなく、科学は宗教と一致する!






 
  Kimi Schaller






 そこで、“公理”では最初から「神」を出さすのではなく、@まず、「実体」というものを考える。「実体(スブスタンチア)」とは、“真に存在するもの”“他の助けを借りずにそれ自身で存在するもの”というような意味です。

 A「実体」を、「有りて在るもの」――存在することが本質であるようなものとして、定義する。

 B次に、「神」を定義する。「神」というものがもしあるとすれば、このようなものでなければならないだろう、そういう定義をする。

 Cその定義から演繹すると、「神」とは「実体」にほかならない―――ことを示す。したがって、「神」は、存在することを本質とするものである。

 こうすれば、神の存在が証明されるのではないか? スピノザは、このような“戦略”を立てて、論証をはじめます。



「1 自己原因とは、その本質が存在をふくむもの、いいかえれば、その本性が存在するとしか考えられないもののことである。

 2 同じ本性をもつ他のものによって限定されるものは、自己の類において有限といわれる。たとえば、物体は有限であるといわれる。なぜなら、われわれは常により大きな他の物体を考えることができるからである。同じように、思想は他の思想によって限定される。だが、物体は思想によって限定されないし、また思想は物体によって限定されない。

 3 実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。いいかえれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。〔第1部、定義〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.3.



 ラテン語を翻訳するのがメンドウなので、【逐語訳】はいちいち出しませんが、【原文】は、こちらで見ることができます。

 ザックリ言うと、〔定義1〕の「自己原因(causa sui)」とは、〔定義3〕の「実体(substantia)」、すなわち「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの」とイコールです。つまり、〔定義3〕は、「実体」とは自己原因であると定義し、〔定義1〕はこれを受けて、自己原因とは、「その本質が存在をふくむもの」にほかならないと言っているわけです。

 〔定義2〕では、「有限なもの」には2種類あって、「物体」と「思想(cogitatio)」だと言っています。「思想(コギタチオ)」は、“世界の大思想”のような狭い意味ではなく、デカルトの「われ思う(cogito)、ゆえにわれあり」の「思う」、つまりおよそ考えることのすべてを含んでいます。英語の thought と同じ広い意味です。



「3 実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。いいかえれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。〔第1部、定義〕

      
〔…〕

 5 様態とは、実体の変様、いいかえれば、他のもののうちに存在し、また他のものによって考えられるもののことである。〔第1部、定義〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.3.



 〔定義3〕の「それ自身において存在」するということの意味は、〔定義5〕と並べてみるとわかります↓



「実体」: それ自身において存在する それ自身によって考えられる

「様態」: 他のもののうちに存在する 他のものによって考えられる



 つまり、「様態(modus モード)」は、他のものの内部に含まれている‥‥自分のまわりに、自分より大きなものがかならずあるが、

 「実体」は、そういうことがなく、何かに含まれるということはない。「実体」の外側には何もない、ということです。

 図示すると、↓こうなるでしょう。







説明図: 実体と様態






 つまり、「様態」とは、〔定義2〕の“有限なもの”のことです。“有限なもの”には、眼に見えるもの――体積のあるもの、すなわち「物体」と、眼に見えない「思想」とがあるのでした。「観念」「理念」「感情」、そういった眼に見えないものは、みな、広い意味での「思想」にふくまれています。「思想」は、ある「観念」が別の「観念」を含みこむことができますから、“有限なもの”です。

 これに対して、「実体」―――それ自身で存在するもの―――は、他のものに含まれることはありません。「それ自身において存在し(id quod in se est)」は、他の人の翻訳では、「それ自身の内にあり」となっています。「実体」「実体」を含むということもありえません〔定理2〕。けっきょく、「実体」は、無限の大きさをもっていることになります〔定理8〕。

 しかし、「実体」は、「実体」以外の有限なものを含みこむことはできますから、「様態」を含むことは可能です。つまり、「様態(modus)」―――物体と思想―――は、「実体」のさまざまな「変様(modificatio)」にほかならないのです〔定義5〕。

 こうして、イメージ的にはもう、「実体」とは、さまざまな物体をふくみこんだ無限のもの、つまり宇宙全体のことではないか、という感じになってきます。ただ、「物体」だけでなく、「思想」「観念」も、「実体」には含まれています。あるいは、すべての「物体」を包みこんだ「実体」のほかに、すべての「思想」や「観念」を包みこんだ「実体」がある。「実体」の数が、一つだけなのか、複数あるのかは、この段階ではまだ決定していません。

 このへんが、スピノザの宇宙観のおもしろいところです。唯物論でも唯心論でもなく、二股をかけていますw

 しかも、スピノザの「物体」は、「実体」の「モード(様態)」だというのです。「実体」―――《神すなわち自然》―――が水だとすれば、水面に立つ波のようなものだとされます。物体は波である‥‥まるでアインシュタイン以後の物理学を予言するようなイメージです。

 そこでたとえば、原子という「物体」(モード)は、分子という別の「物体」に含まれ、分子は人間という「物体」に含まれる。その人間もまた、まわりの大気を含めた地球という「物体」に‥、さらに太陽系という「物体」に‥、銀河系という「物体」に含まれている、というように、この“ふくむ”関係は、限りなく広がって行きます。

 スピノザの時代の科学の考えでは、宇宙は無限でしたから、どこまで広がっても、「物体」のまわりには、それを含む別の「物体」があるわけです。

 同じことが「思想」についても言えて、‥‥スピノザの考える“宇宙”には、無限に重なったたくさんの「思想」も、ふくまれている。ただ、それらの「思想」を考える神様や天使のような擬人的なものは、いないわけです。



〔…〕実体が他のものから産出されることはありえない〔…〕〔第1部、定理6、系〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.10.



 さきほどは、〔定義3〕と〔定義1〕の関係を大雑把に言ってしまったのですが、ていねいに言うと、↑この〔定理〕を介してつながることになります:


@「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの」つまり、他のものに含まれることがないものである〔定義3〕
       ↓
A「実体は、他のものによって産出されない」〔定理6・系〕つまり、「実体」は「自己原因」である。

B「自己原因とは、その本質が存在をふくむものである」〔定義1〕

A+B 「実体とは、その本質が存在をふくむものである」



「実体の本性は存在することである。〔第1部、定理7〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.11.






 【13】スピノザの“多世界宇宙”?



 ここでようやく、「実体」とはどういうものなのかが、すこしハッキリしてきました。「実体」とは、「存在」を本性とするもののことである。

 スピノザにかぎらず、「実体」というコトバは、そういう意味のコトバなんですね。“ほんとうに存在するもの”とか“真実在”とか言い換えられます。私たちの常識では、眼に見える物体も人間も、みな「実体」でしょう。映画やパソコンの画面に映る人物や風景は、「実体」ではないでしょう。

 しかし、人間や動植物が「実体」かどうかは、科学的に言っても疑問があります。時間のスケールを長くとると、私たちの身体は新陳代謝(物質交替)をしています。10年足らずで、中身がすっかり入れ替わってしまいます。にもかかわらず、一人の人間が、生まれてから死ぬまで同じ人間として存在するのだと――人間は「実体」なのだと、もし考えるのならば、逆に、流れてゆく物質のほうが、「実体」ではないことになってしまいます。

 むかしの人は、人間も草花も村も、そういう移ろいやすいあやふやなものは、諸行無常、そんなものは「実体」ではないと考えました。大乗仏教では、ほとけさまだけが「実体」だ、ということになってるんでしょうかね。

 スピノザの場合は、“実体とは仏様だ”とか“人間だ”とか最初から言わずに、「実体」というものがあるとしたら、それは、こういうものであるはずだ、という定義をするわけです。

 その定義によれば、「それ自身において存在するもの」で、「それ自身によって考えられるもの」ですから〔定義3〕、絶対に、ほかのものには含まれないようなものです。つまり、「実体」の外側には何もない。また、「実体」は無限である。

 「様態(モード)」(「物体」と「思想」)は、「実体」の中に含まれているものです。

 そうすると、「実体」というのは、なにもかもひっくるめた全部、ということになります。






 
Sacrevoir   






 しかも、「実体」の内部には、「様態」以外のものは含まれていない。というのは、有るものはすべて「それ自身の内にあるか、または、他のものの内にある」〔公理1〕。したがって、「実体」「様態」以外には、何も存在しないからです(上野修『スピノザの世界』,講談社現代新書,p.82)。


 そうすると、‥‥なにもかもひっくるめた全部だとすると、「実体」は、ただ一つしかないのか? しかし、ここがスピノザのおもしろいところなんですが、以上の定義(〔定義5〕までと、そこから導出された定理群)だけだと、「実体」は、たくさんあるとも考えられるんです。



 「実体A」には、「様態」a1,a2,a3, ...,a∞ が属している。

 「実体B」には、「様態」b1,b2,b3, ...,b∞ が属している。

 「実体C」には、「様態」c1,c2,c3, ...,c∞ が属している。

     ‥‥‥‥‥‥‥‥



 こういう“多世界宇宙”みたいなものが考えられてしまいます(『スピノザの世界』,p.87)。「物体」は「物体」の世界、「思想」「観念」は「観念」の世界、‥‥というように、「属性」ごとに別の“全体”がある――「実体」がある。。。

 じっさいに、スピノザが、そこまで考えたのかどうかはわかりません。「神」の定義が導入されると、たちまちこの“多世界宇宙”は消滅し、唯一・無限・永遠の《神すなわち自然》世界が現出することになります。

 もしも「神」が存在しなければ、宇宙は無限にたくさんの世界に分裂してしまう……ひょっとすると、スピノザは、そう考えていたのかもしれません。






 【14】「神」の出現、“この世界”の現出



 「属性」というコトバが出てきましたから、「属性」の定義を見ておきます:



「属性とは、知性が実体に関してその本質を構成するものとして認識するもののことである。〔第1部、定義4〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.3



 「属性」については、「第2部」で具体的に出てくるのですが〔第2部・定理1,2〕、「延長」「思惟」という2つの「属性」があります。この考え方は、デカルトから受け継いでいます。

 「延長」というと1次元のような言い方ですが、哲学でいう「延長」は3次元です。つまり、“体積がある”ということです。つまり、「物体」の性質です。

 「思惟」は、“考えられる”という性質です。つまり、「思想」「観念」です。スピノザの場合には、「感情」や「欲望」のようなものまで「観念」に含めてしまいます。きょうの前半の話のなかで、「意志」も、たんなる観念(認識)にすぎない、ということでしたよね?

 「延長」と「思惟」については、デカルトも述べています。ところが、スピノザが考えている「属性」は、この2つだけではないんです。「延長」「思惟」以外にも、無限にたくさんの「属性」がある。ただ、……奇妙なことに……「延長」「思惟」以外の「属性」を人間は認識できないんだと(「神」は、ずべての「属性」を認識できる)。認識できないのだから、いったいどんな「属性」なのやら皆目わからないけれども、とにかくたくさんある、無限にたくさんあるんだと。。。

 わかったようなわからないような話ですけれども、スピノザは大まじめです。

 つまり、スピノザの基本的な考えとして、何かが“ある”ということになると、限定する根拠がないかぎり、それは無限だ、ということになってしまうらしいんです。おそらく、それを認識する「神」の知性が無限だから、認識の対象も無限でなければならない、ということになるのでしょう。とほうもない考えですが、ある意味で徹底しています。人間の知能を超えようとする考え方‥‥と言ったらいいんでしょうか。

 そこで、この“無限数の「属性」”ということを前提にして、「神」の定義は、↓次のようになります:



「神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。〔第1部、定義5〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.4.













 スピノザは「神」を、無限数のすべての「属性」を備えた包括的存在として定義しました。しかも、「神」の各「属性」もそれぞれすべて無限大です。「延長」つまり体積も無限、「思惟」つまり観念のスケールも無限です。すべてをふくむ「実体」ならば、そうならざるをえません。

 しかし、もしもそうでなく、「ひとつの属性からなる実体」と定義すれば、多神教になります。その場合、「神」は「属性」ごとにひとりずついることになり、「神」の人数は無限です。つまり、マンダラの宇宙になる。

 スピノザは、「神」の属性は無限数と定義したので、一神教になりました。「神」は唯一であり、「神」以外に「実体」は存在しません〔定理14〕。つまり、《神イコール自然》です。科学と両立する唯一神を考えるなら、《自然》とイコールにならざるをえないのです。

 しかし、「神」は、唯一か、無限数かのどちらかで、有限数の「神」にすることはできません。多神教の「神」には、定員はないのです。



 マンダラ宇宙の場合なら、ありうる無限数の各「属性」ごとに、各1個の「実体」=「神」が存在することになります。つまり、こうなります:



「属性A」:「実体A」={「様態」a1,a2,a3, ...,a∞} 

「属性B」:「実体B」={「様態」b1,b2,b3, ...,b∞}

「属性C」:「実体C」={「様態」c1,c2,c3, ...,c∞}

     ‥‥‥‥‥‥‥‥



 「属性」のうち2つは、人間にも認識できて、ひとつは「延長」、もうひとつは「思惟」ですから、具体的に書くと↓こうなります。「属性C」以下は、認識不能です。



 「延長」:「物体界」={「物体」a1,a2,a3, ...,a∞} 

 「思惟」:「精神界」={「思想」b1,b2,b3, ...,b∞}

「属性C」:「実体C」={「様態」c1,c2,c3, ...,c∞}

     ‥‥‥‥‥‥‥‥



 しかし、唯一神を導入すると、これら無限数の「実体」=「神」が合体して、全「属性界」を束ねることになります:



 「延長」| 自 |={「物体」a1,a2,a3, ...,a∞} 
     | 然 |
 「思惟」| す |={「思想」b1,b2,b3, ...,b∞}
     | な |
「属性C」| わ |={「様態」c1,c2,c3, ...,c∞}
     | ち |
 ‥‥‥‥| 神 |‥‥‥



 こうして成立した《神=自然》は、唯一の「実体」です。そして、「実体」とは、存在を本性とするのでしたから、「神」は、存在を本性とする、すなわち必然的に存在する:



「〔定理5〕 自然のうちには、同じ本性あるいは同じ属性をもつ二つあるいは多くの実体は存在することができない。

 〔定理6〕 一つの実体から他の実体が産出されることはありえない。
   〔系〕 この帰結として、実体が他のものから産出されることはありえないことになる。
〔…〕

 〔定理7〕 実体の本性は存在することである。
  〔証明〕 〔定理6・系より〕実体は他のものから産出されえない。それゆえそれは自己原因であろう。すなわち、〔定義1により〕その本質は必然的に存在をふくんでいる。いいかえれば、その本性は存在することである。かくてこの定理は証明された。

 〔定理11〕 神、すなわちそのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体は、必然的に存在する。〔第1部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.10-11,18-19.



 こうして、スピノザの“神の存在証明”が完了しました。どうでしょうかね? 「必然的に存在する」と論証されて、なるほど、たしかに存在するなあ、と思えましたか? 私にはやはり、“この宇宙は存在する”という素朴実在感に支えられた論証のように思えますけれど‥。「神」はこの《自然》全体とイコールだ、というほうにアクセントがあるような気がします。



「〔定理14〕 神以外にはいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない。
   〔系1〕 このことから次のことがきわめて明瞭に帰結されてくる。まず第1に、神が唯一のものであること、いいかえれば〔定義6により〕自然の中にはただ一つの実体しか存在しない、しかもそれは絶対無限であるということである。
〔…〕

 〔定理15〕 存在するものはすべて神のうちにある。そしていかなるものも神なしには存在しえないし、また考えられることもできない。〔第1部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.25-26.






 




【必読書150】スピノザ『エティカ』(4) ―――につづく。   











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