11/26の日記

17:25
【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(1)―――村の小学校の“代用教員”

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少年啄木像 盛岡市大通2丁目       











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】、今回は、石川啄木の遺した批評文『時代閉塞の現状』を中心に、社会思想・批評家としての啄木を見ていきます。






 【1】国家という「敵」に抗して



 啄木が、この批評文を執筆したのは、1910年―――明治天皇の爆殺を計画したとして社会主義者・幸徳秋水らが逮捕・処刑された《大逆事件》が起き、《朝鮮併合》が行なわれた年のことでした。

 《大逆事件》は、この年 5月25日に検挙が開始されましたが、当時は厳格な報道管制が敷かれていて、事件の経緯などを一般国民が知ることはできませんでした。啄木は、新聞紙上に漏れ出たわずかな情報を集めて、事件の真相をさぐろうとしていました。

 『時代閉塞の現状』を執筆した後には、幸徳秋水の弁護人から、幸徳の「陳弁書」を借りて読み、膨大な裁判記録の一部にも密かに目を通すことができたので、幸徳らの検挙と裁判が、理由の無い冤罪であることを理解しました。そして、幸徳らに影響を与えた社会主義・無政府主義に関心をもち、クロポトキンの著書(当時日本では禁書)の英訳を入手して読んでいます。

 《朝鮮併合》は、『時代閉塞の現状』が執筆された 8月に、「併合条約」が調印されています。これも、当時は内密であり、政府が発表したのは、しばらく後になってからでした。しかし、『東京朝日新聞』で校正係をしていた啄木は、あるいは、8月の時点ですでにうすうす、《併合》について聞き知っていたかもしれません。

 啄木が死後に残した短歌のなかに、


 地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く


 というものがあることも広く知られています。ただし、啄木は当時、これを発表して朝鮮の植民地化を批判したわけではありません。そんなことができる社会ではありませんでした。

 この歌は、9月9日に執筆されていますが、その時点では《併合》の事実さえ極秘とされていたのですから、こんな歌を発表できるわけはないのです。この歌は遺作であり、しかも、1945年に日本帝国が倒れるまでは公表されず、啄木全集に収録さえできなかったことを、私たちは見逃してはなりません。



 『時代閉塞の現状』が、これらの時事問題に触発されていることはまちがえないでしょう。しかし、啄木の執筆意図は、それだけではありませんでした。

 日露戦争以後数年間の、啄木の思想的格闘の足跡が、この論文には結晶しているのです。






「数日前本欄に出た『自己主張の思想としての自然主義』と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索しさく的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。」

「時代閉塞の現状―――(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,p.107.


 『時代閉塞の現状』は、このように始まります。この論文は、東京朝日新聞の文芸欄に掲載された文芸批評家・魚住折蘆の論文に対する反論として、書かれたものでした(ただし、生前には発表されなかった)。

 魚住折蘆(うおずみ・せつろ 1883-1910)は、明治時代の評論家。『東京朝日新聞』に、“自然主義文学”の欠陥を批判する文芸評論を書いた。



「『自然主義論争』とは、当時隆盛を極めた『自然主義文学』の性格を論じて、『科学的決定論的な思想』(自己否定的傾向)と『自己拡充の精神』(自己主張的傾向)のどちらに重きをおくかという論争であった。
〔…〕

 魚住折蘆は、何をどう論じたのか。

 折蘆は、近代思想は反抗の性格をもっているという。『オーソリテイ』に対する反抗である。オーソリテイは中世では教会、今日では国家である。ルネサンスと宗教改革という矛盾する思想も、中世の『オーソリテイ』である教会に『聯合』して反抗した。今日の日本で、『決定論的』思想と『自己主張的』思想が『自然主義』を名乗って『オーソリテイ』(国家)に『聯合』して反抗している。これが折蘆の論旨である。

      
〔…〕

 折蘆の自然主義理解に対して啄木は敢然と反論した。私が要約する啄木の結論を書く。

 それは『未来を奪われた青年は〈時代閉塞の現状〉に目覚めよ。国家という敵の存在に目覚めよ。真の必要を発見せねばならぬ。私は文学に真の〈批評〉を求める』というのだ。」

『リベラル21』半澤健市氏







盛岡城跡(不来方城)
中学生時代の啄木は、しばしば学校を
さぼり、ここで本を読みふけった。






 私の把握は、半沢氏とはやや異なる。たしかに、この評論で、啄木は、国家という「敵の存在を意識しなければならぬ」と書いている:



「かくて今や我々青年は、
〔…〕ついにその『敵』の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。〔…〕我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。〔…〕全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。」
「時代閉塞の現状」,op.cit.,p.118.



 しかし、啄木は、幸徳のように、国家を転覆する、あるいは変革する、といった政治的、革命的目的をもって、“国家を敵として意識せよ”と言っているわけではない。

 啄木が「宣戦」する相手は、「国家」ではなく、「この時代閉塞の現状」なのである。「国家という敵」を意識することを、啄木は、「明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察」を行なうための前提条件として、主張しているのだ。

 啄木にとって、現在の「時代に対する組織的考察」とは、「明日の考察」を行なうことにほかならなかった。そこに、「必要」「明日の必要」という、啄木特有のキーワードが現れる:



「いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――『必要』! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に『今日』を研究して、そこに我々自身にとっての『明日』の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

      
〔…〕

 我々全青年の心が『明日』を占領した時、その時『今日』のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くる
〔…〕時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。」
「時代閉塞の現状」,op.cit.,p.121.



 というのである。

 啄木のいう「明日の必要」とは、社会の進歩・変革の“必然性”といった概念よりも、ずっと広いものである。それは、「国家」という「強権」のもと、社会の中で生きる個人の「自己実現」と、深いかかわりがあった。個人は、社会の中での「自己実現」を求めて生きるがゆえに、「明日の必要」を自覚するのである。

 「閉塞」状態に陥った“時代と社会”の中で、窒息に瀕した個人の息を、いかにして吹き返させ、「自己実現」を可能にすることができるのか? ―――啄木の関心は、この課題を考察することにあった。そうした主体的、人間的考察にこそ、彼の意図があった。むしろそこに、社会主義革命家をも凌駕する啄木のラディカリズムがあった。

 啄木は、「国家」の破壊・変革を、直接の目的として求めたのではない。

 啄木が意図したのは、個人の「自己実現」と人間的“自由”のために、「閉塞」状態にある“時代と社会”の「現状」を、文学批評という方法で考察することであった。「国家」に対する批判的態度は、そのための必須の前提としてあったのだ。






「明治の末年、社会変革を志してきた人びとのほとんどが、くびられるか、亡命するか、沈黙するか、信念をかえるかせざるをえなかったなかで、この青年
〔啄木――ギトン注〕は、貧乏と病気にさいなまれながら、『樹木と果実』↓註をだして、未来のために種子をまこうとし、『明日への考察』を一貫して行なってゆこうとした。隠遁からも沈黙からも挫折からも転向からも無縁であったところに、そうして未来への血路をきりひらいてゆこうとつとめてうまなかったところに、かれの姿勢の独自性とみごとさがある。『時代閉塞の現状』一篇は、その標題自体にも、状況への啄木の卓抜な認識を示している。〔…〕啄木は、必死に未来をさぐろうとしたその結果として、この表現をさぐりあてたのだ〔…〕

 社会的な関心を持って出発した文学者が、しだいにその関心の幅をせばめていったなかで、啄木は、逆に、関心をふかめまたひろげていったまれな一人であった。
〔…〕なぜひとり〔…〕啄木が、かれ独自のあゆみをなしえたのだろうか。未来への視点を失わなかったばかりでなく、それをとぎすましていったのだろうか。」
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.320-321.

 〔註〕 『樹木と果実』:啄木が、死(1912年)の1年前に知り合った土岐善麿と、発刊を計画していた文芸誌。短歌を中心としながら、ひそかに社会主義啓蒙を目的とするものだった。






 
   啄木賢治青春館 盛岡市






 【2】日露戦争―――国家主義からの転回



 『時代閉塞の現状』には、「明日(みょうにち)の考察」、「必要」の発見といった啄木特有のキーワードが頻出するだけでなく、「生活の改善」「自己主張」「自己発展」といった一般的な語にも、彼特有の意味内容が注ぎ込まれているように思われます。これらの言葉にこめられた、啄木特有の意味内容をさぐるためには、《日露戦争》以来の彼の思想遍歴を追ってみる必要があります。



「年少の啄木がするどい文明批判をもっていたことは、よく知られている。
〔…〕『現代の特徴は何ぞと云ふ者あらば、答へて生命なき技術と、巧妙なる法則との二つを挙げん。文明はかくて呪はるべき者となれり』として(「無題録」,1903年)、既存の文明への拒否の姿勢を、かれはつよくみせていた。」
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.321.



 「現代の特徴は‥‥生命なき技術と、巧妙なる法則」


 啄木のこの言葉に、私たちは、「機械化された化石化」「精神なき専門人、心なき享楽家」というマックス・ウェーバーの近代批判(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』1904-05)と遥かに響きあう、鋭敏というほかない天才的な洞察を見ないでしょうか?



 Niemand weiß noch, wer künftig in jenem Gehäuse wohnen wird und ob am Ende dieser ungeheuren Entwicklung ganz neue Propheten oder eine mächtige Wiedergeburt alter Gedanken und Ideale stehen werden, oder aber – wenn keins von beiden – mechanisierte Versteinerung, mit einer Art von krampfhaftem Sich-wichtig-nehmen verbrämt. Dann allerdings könnte für die »letzten Menschen« dieser Kulturentwicklung das Wort zur Wahrheit werden: »Fachmenschen ohne Geist, Genußmenschen ohne Herz: dies Nichts bildet sich ein, eine nie vorher erreichte Stufe des Menschentums erstiegen zu haben.« – (Max Weber:Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus)






「反俗意識にもとづく啄木の一種の理想主義的な姿勢は、日露戦争についての肥大した幻想を生んでいた。
〔…〕それだけに――戦争の結果は、啄木から幻想をとり去ってしまった。幻滅はポーツマス講和条約とともにはじまっている。『若し在京中ならば勇敢なる放火隊の先頭に白鉢巻してかけ声勇ましく交番の一つや二つは一人でも焼いてみせたきものを』と(1905年9月23日付金田一京助宛書翰)、非講和運動への共感をおさえがたかったかれは、急速に国家批判へとすすんでゆく。」
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.323.



 しかし、



「『古酒新酒』
〔1906年――ギトン注〕のなかで啄木は、『軍事を外にしては、我が大和民族は未だ決して大なる国民に非ず』といっている。〔…〕ポーツマス講和条約の屈辱≠ゥらの脱離を、かれは、より軍事的な大国へのみちではなく、『人道と世界の平和』へのみちにさぐろうとしはじめているのだ。〔…〕

 『林中書』
〔1907年――ギトン注〕では『哀れなる日本』の実情を提示する。〔…〕

 明治国家は、日露戦争での勝利を背景に、朝鮮の植民地化へのみちを驀進しはじめ、国内的には戦後経営を名として、天皇制のもとにあらたに国民統合をはかりつつあった。国家的栄光≠もって人びとをとらえつつあった。そうしたなかで、啄木は、その栄光からみずからを断絶させてゆこうとする。講和条約から『古酒新酒』をへて『林中書』にいたる1年半のあいだに、かれの内面には大きな転回がおこりつつあった、といわねばならぬだろう。」

鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.323-324.







「不来方(こずかた)の お城の草に寝転びて
空に吸はれし 十五の心」






 日露戦争の結果は、かならずしも日本の全面的勝利ではなかったのですが、政府も国民も熱狂的に“勝利”に酔い、単に軍事的にロシアに優越していると思うだけでなく、もう世界の「一等国」だ、文明国家だ、哀れな東洋からの“離陸”を果たしたと、根拠もなく自負したのでした。日露戦後すぐに“満洲”を訪れた夏目漱石、二葉亭四迷らの旅行記を見れば、日本の植民地支配と鉄道・工業施設の優秀さを自讃ししつつ、街頭の中国人の「汚らしさ」「みすぼらしさ」と対比して誇らしげに述べているのがめだちます。そして、“植民地”にこそ(自分にとっての)「自由」があるとの満ち足りた解放感に浸っているのです。

 日本近代文学は、帝国主義侵略の“成功”によってはじめてもたらされたものなのです(゙泳日・著,高井修・訳『世界文学の構造』,2016,岩波書店,pp.47-68.)

 しかし、日露戦争の結果が、日本人すべてに満足を与えたわけではありません。一時の熱狂がさめてみれば、“戦勝”の幻影と、じっさいの《ポーツマス講和》の内容のあいだには大きなギャップがありました。国内の庶民生活は貧しいままでした。10年あまりの“臥薪嘗胆”から何も得られなかったと知った時、“民衆”はさらなる戦争と征服を求めて、講和に反対し、《日比谷事件》等の騒乱をひきおこしました。啄木もまた、後者の排外主義的熱狂のなかにいたのです。

 日露戦争が社会思潮にもたらした、いまひとつのインパクトは、“目標”喪失による社会的アノミーと、社会思想の分化でした。






「日露戦争の勝利によって不平等条約が撤廃され、他の帝国主義諸国と対等な立場を獲得した日本は、明治維新以来の国家的独立の達成とそのための富国強兵という国家目標を喪失する。その結果、それまで国家目標に支えられた人びとの価値・規範意識が低下し、日本社会に急速な社会的アノミー(規範解体)が到来した。人びとのあいだで社会不安が瀰漫し、青年層には一種の神経症的緊張が広がった。個人主義や自然主義が大都市に住む知識人や青年を捉え、社会主義運動が台頭する。

     
〔…〕

 日露講和条約が調印された
〔ギトン注――1905年〕9月5日から9日にかけて、日比谷焼き打ち事件と称される都市民衆騒擾が発生した。こうした東京の騒擾は神戸や横浜にも飛び火し、各市町村での講和反対の決議が 230余を数えるなど、全国各地で講和反対運動がくりひろげられた。その後も翌年の東京市電賃上げの反対運動をはじめ、各地の大都市で都市民衆騒擾が断続的に続く。

 
〔…〕官営や民営の大企業で労働争議も頻発した。

     
〔…〕

 政府は国内の危機的な状況を解消し、帝国主義的な国際体制に対応していくため、国家体制(農村社会)の再編を試みる。

 そのための具体的な政策が、農村改良運動だった。
〔…〕具体的には町村自治の強化、農事改良や納税奨励、町村財政の改善、神社整理・合祀政策、義務教育の徹底青年会・在郷軍人会・報徳会・産業組合などの諸団体の結成と育成、風俗改良勤倹貯蓄等の生活改善といった諸施策が実施された。

     
〔…〕

 また、桂内閣
〔第2次。1908-1911―――ギトン注〕は思想対策も強化し、『社会主義に係る出版集会』を厳重に取り締まることで社会主義運動の昂揚を阻止しつつ、イデオロギー的な国民統合もおこなった。

 その具体的な政策のひとつが、明治41年(1908年)10月13日の戊申詔書の渙発だった。これは天皇の権威によって国民統合を図ろうとした教化政策の一環だった。
〔…〕教育勅語と同様に、この戊申詔書も学校や公共機関で奉読式が挙行され、全国町村への普及が指示された〔…〕

 くわえて、教育現場では教科書を通じて国体神話を普及することで、危機的状況への対応を図ろうとした。

 
〔…〕第2期国定教科書(1910年度〜1917年度)では『家』や『祖先』などの家族主義的な要素と、『天皇』などの国家主義的な要素が著しく強調された。とくに修身教科書では国民道徳が強化され、家族的国家倫理が重視された。日清戦争後に隆盛をみる家族国家観にもとづく国体論が教育現場にもちこまれたのである。」
大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか?』,2019,講談社,pp.180-183.



 “条約改正”という目標の達成による弛緩と、海外からの思潮の流入によって、国民の思想はさまざまに分化していきます。これまで、帝国主義諸国からの外圧にせかされて、“追いつき追い越せ”の富国強兵の国家主義で凝り固まっていた日本国民は、ここで一挙に枷が取れて、あらゆる思想方向がいっぺんに噴き出したかのようでした。

 こうした事態を“国家的危機”と感じた政府・支配層は、日露戦後から第1次大戦までのあいだ、さまざまな絞めつけ策によって、社会思潮の求心化をはかります。折りからの社会主義者の一部による“爆弾”闘争準備を利用して《大逆事件》をでっちあげたのも、そうした引き締めの一つですし、より一般的には、《国体》思想(日本は天皇を中心とする「神国」だという迷信)の確立・普及・教育に、もっとも力を入れたのです。

 《国体》を中心とする戦前の国民思想体制は、この時期に成立したと言ってよいでしょう。

 啄木は、このような日露戦後の引き締め・抑圧の動きの中で、むしろ“国家”に対する反発を強めていったと言えます。

 しかし、それについては、次回以後の連載で詳しく扱うとして、ここでは、小学校教師時代(1906-1907年)の啄木の思想と実践について、しばらく見てゆくこととします。






 【3】小学校教師になったフケ専学生



 1905年ポーツマス
「講和条約から『古酒新酒』をへて『林中書』にいたる1年半のあいだに、かれの内面には大きな転回がおこりつつあった、といわねばならぬだろう。

     
〔…〕

 その転回は、啄木個人の生活上の転回とかさなりあっている。」

鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.324.



 岩手郡渋民村にある曹洞宗・宝徳寺の住職だった啄木の父は、宗費(宗派への上納金)を滞納したため住職を罷免され、一家は寺を退去しなければならなくなります。その一部始終が、日露戦争中に起きています。

 他方、啄木は、第1詩集『あこがれ』を出版するのとほぼ同時に結婚していますが、盛岡市内の新居には父母と妹がころがりこんできて、啄木は一家を扶養する責任を負うことになります。が、かけだしの詩人には、これといった収入のあてもありません。

 東京の文学界への人脈を駆使して、盛岡で地方文芸誌『小天地』を出版します。岩野泡鳴、正宗白鳥、小山内薫といった錚々たる新進作家の作品を掲載しますが、地方ではほとんど売れず、収入にするどころか、資金難で刊行を続けられなくなります。

 けっきょく、1906年4月、渋民村の小学校に代用教員の職を得て、村に戻ります。臨時雇いであり、その給与も、村人に村税滞納が多かったために、支給はままならない状態でした。それでも、啄木自身は、教育事業に志を注ぐ意気に燃えていました。



「死にいたるまでつづく生活≠ニの悪戦苦闘がはじまったのであった。そのことは、月給8円の代用教員として、政府の戦後経営に正面から向かいあったことを意味する。戦後経営のもとで苛烈な収奪は強化されつつあった。」
租税負担額は急増し、「農家の負債はいやおうなくふえ、農村は疲弊のどん底にあえぎはじめていた。〔…〕

 思想上の転回は、身うごきのとれない生活と向かいあわなければならないという体験のなかで行なわれていったものであろう。それは一面では、生活者≠フ視点の樹立過程でもあった、とわたくしは考える。そうしてこの生活者≠フ視点は、やがてかれの国家観を大きくとらえてゆくのである。

 天才≠フ視点から生活者≠フ視点への転回
〔…〕
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.325.




「債鬼≠ノ苦しめられながらも、『殆ど有りうべからざる様な空想に耽り、』『普通の人間は人間と共に居り、詩人は神と共に居る』などといっていた啄木は、教員になったとたんに、
〔…〕しばられている自分を発見し、『運命は実に断てども断たれぬ永遠の鉄鎖』との感慨をもらすにいたっている。〔…〕生活の鎖の観念は、もはやかれを『あこがれ』〔啄木の第一詩集。与謝野鉄幹、晶子らロマンチシズムの影響が著しい――ギトン注〕の世界にとどまることをゆるさなかった。」
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.326.






 
盛岡中学校(模型,古写真 (c)啄木賢治青春館) 






 しかし、啄木が“代用教員”時代に書いた『林中書』や小説『雲は天才である』を見ると、そこには“生活者”というより“天才”への傾斜がいちじるしいのです。啄木が渋民小学校で意欲満々に実践した教育も、啄木自身のつもりでは「天才教育」でした。「天才教育」といっても、少数の“デキる”生徒を選び出すようなものではなく、村の子ども全員が「天才」となっても妨げないような傾斜をもっています。啄木のいう「天才」とは、“人間の能力の自由な解放”を意味すると言ってよいのです。



 『雲は天才である』の主人公
「新田耕助は、課外授業に、英語と外国史をおしえている。そうして生徒に、『「自主」の剣を右手に持ち、/左手に翳す「愛」の旗云々』という歌をうたわせている。〔…〕生活者≠ヨのというよりは天才≠ヨの傾斜をいちじるしくつよくもっている。精一杯のハイカラ趣味と反俗意識とが握手しつつ、現世の凡俗≠ノ対立していた。」
a.a.O.


 新田耕助は、作者啄木自身の教育実践がモデルであり、課外授業の「英語と外国史」は、「精一杯のハイカラ趣味」というよりも、“自由”を求める啓蒙思想を、子供たちの無垢の精神に吹きこんでゆくものだったと思われます。

 ともかく、“代用教員”時代の啄木は、―――またその後においても―――、「生活者」の視点というよりも、より多くロマンチシズムの傾きをもっていました。啄木は、小説では成功しませんでしたし、詩的ロマンチシズムは生涯にわたって彼の特質であったと思います。

 そして、その詩的ロマンチストとしての特質が、啄木をして、田山花袋らの身辺雑記的な《自然主義》からも、のちの《プロレタリア文学》につながる社会派からも、引き離していました。時流にも思潮にも流されずに、「国家」と「既成」の社会に対して強烈な批判を維持することのできた啄木の秘密は、“生活者”の領域にいやおうなく入りこんでくる、彼の詩的ロマンチシズムにあったと思うのです。

 “代用教員”時代の啄木の日記から、彼の教育観、ないし教育への抱負をひろってみると:



「かれはくりかえし日記にしるしている。

 〇学校は実に平和と喜悦と教化の大王城である。

 〇自分は、一切の不幸、憂慮、不快から超脱した一新境地を発見した。何の地ぞや、曰く、神聖なる教壇、乃ちこれである。

 〇余は遂に詩人だ。そして詩人のみが真の教育者である。

 こうして啄木は、学校という小宇宙に自由の共和国≠つくろうとした。」

鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.326-327.



「この作品
〔『雲は天才である』――ギトン注〕自体、文部省の教育方針にたいする痛烈な批判をなしており、その批判は、『林中書』の最後の部分でもなされているが、〔…〕文部省の『凡人製造教育』にたいして、『天才』(人間の能力の自由な解放を意味するが)をつくる教育の立場に、一貫して立っていた」
鹿野政直「啄木における国家の問題」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.327.



 ここで啄木のいう「天才」教育とは、じっさいにどんなものなのでしょうか? まず、“代用教員”時代に、母校・盛岡中学校の『校友会雑誌』に寄稿された『林中書』から、すこし拾ってみます:



「学制の整備という点においては、
〔…〕日本は東洋一である。しかし、学制の完全不完全は、人間を教育するという大問題を論ずる際に当っては、決して重大なる事でない。完全無欠な教育学、それから割り出した完全無欠の学制、これらは〔…〕無くても別段不自由は感じないものだ。真の人と真の精神とあれば、他に何物がなくても立派な教育は出来る。もしそれ完全な教育学と学制とがあっても、それを活用する『人』が無ければ、一切のものが無いよりもまだまだ危険な結果に陥る。〔…〕

 予は母校在学中に或一の疑問と一の煩悶とを与えられたのだ。
〔…〕

 煩悶とは? その当時、
〔…〕秘かに買った或種の書籍――先生からは禁じられた旨い旨い木の実――と、自分の心中に起った或新事件とによって、朧ろ気に瞥見した、『人生』という不可測の殿堂の俤(おもかげ)と、現在自分の修めている学科、通っている学校との間に何の関係もないらしいという感じであった。」
「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.21-22.



 こうして、朝は授業の始まるころに目を覚まし、遅刻して登校しても授業中は、ノートに短歌や、暗誦したバイロンの英詩句を書いたり、美学の本を読みふけってすごすことになります。



「予はこの煩悶のために毫厘の楽しみも『学校』なるものに認むる事が出来なくなった。そして大抵の先生をさえ、
〔…〕壊れた時計の如く、進むも退くも人生に何の影響なき人々であると思ったのである。〔…〕

 疑問とは? 叙上の如き人生の思慕――学生としての煩悶は、やがて予をして、『教育の価値』を疑わしめた。」

「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.23-24.



 それでは、啄木が思い至った「価値」のある教育とは、どんな教育なのでしょうか?







旧・渋民小学校校舎






「教育の最高目的は、天才を養成する事である。世界の歴史に意義あらしむる人間を作る事である。それから第2の目的は、かかる人生の司配者に服従し、かつ尊敬する事を天職とする、健全なる民衆を育てる事である。
〔…〕又別な言葉で云うと、教育の真の目的は、『人間』を作る事である。〔…〕智識を授けるなどは、真の教育の一小部分に過ぎぬ。」
「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,p.21.



 たしかにここには、少人数の「天才」が大衆を支配することを正当とする思想があります。これは、啄木が中学時代以来影響下にあった高山樗牛の「個人主義」と、樗牛を通じて受け入れた二―チェの超人思想によるものです。



啄木が盛岡の中学にほとんど出席せずによみふけった書物のなかに、高山樗牛のものがあった。彼は樗牛から個人主義の主張とニーチェの礼讃をうけついだ。

     
〔…〕

 明治40年3月の『林中書』(盛岡中学校校友会雑誌)では啄木はまだ樗牛のつよい影響のもとにあり、個人の自由と権利を主張しながらも、教育の最高目的は天才の養成であるというニーチェの超人礼讃から脱していない。」

松田道雄「解説」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.194,197.



 しかし、啄木の考えは、「天才」主義とはいっても、少数の「天才」だけが自由であればよい、「天才」以外の大衆は、何も考えずに「天才」に従っていればよい‥‥というようなものではなかったと思われます。

 のちほど詳しく述べますが、『林中書』の段階でも、啄木のイメージする“自由”とは、圧制に対する抵抗にほかならないのです。そしてその“抵抗”とは、「天才」と呼ばれるべきすぐれた指導者が、民衆を率いてゆくときに力をもつのです。

 “自由”を求めて闘うのは“民衆”自身なのであり、「天才」は、自分の個人的な欲望のためではなく、“民衆”の“自由”のために彼らの先頭に立つのです。 

 しかし、それはのちほど論ずるとして、いまは、教育についての啄木の主張を追いかけてゆくことにします。



「曰く、日本の教育者には、高俊、或は偉大なる人格によって、その子弟に『人間の資格』を与えるような人がたくさんあろうか。
〔…〕

 曰く、日本の教育者には、規定の時間内に規定の教材を教えれば、それで教育の能事了れりとして、更に他を省みぬ人がないであろうか。如何。

 曰く、日本の中学校には、他の学科がいかに優秀でも、一学科で40点以下の成績を得ると、落第させるという学校はないであろうか。如何。
〔…〕

 曰く、
〔…〕一切の学科へ同じように力を致せと強うる教育者、――ツマリ、天才を殺して、凡人という地平線に転輾(ころが)っている石塊(いしころ)のみを作ろうとする教育者はないであろうか。如何。

  
〔…〕
   
 曰く、日本の教育は、凡人製造をもって目的としている。
〔…〕日本の教育は、『教育』の木乃伊(ミイラ)である。天才を殺す断頭台である。〔…〕

 そして、日本の教育者は、一種の社会主義者である。貨幣鋳造者である。何故なれば、彼等は、人はその顔の違う如く心も同じでない事を忘れている。そして、何の懸隔もない、5尺2寸と相場の決定
(きま)った凡人のみを養成して置いて、太平無事な、〔…〕汚水的新時代を作ろうとしている。」
「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.26-27.



 ここで啄木が、


「彼等は、人はその顔の違う如く心も同じでない事を忘れている。」


 と言って、「日本の教育者」を批判していることに注目したいと思います。啄木は、生徒の個性を伸ばす教育を主張しているのですが、それは、「天才」教育という題目とは裏腹に、むしろ少数の「天才」ではなく、“民衆”みなの個性を尊重することになると思われます。

 高山樗牛とニーチェの“個人主義”“超人礼讃”を唱えながら、実質においてはそれらを乗り越えて、平等な万人の“個性”と“自由”の尊重を求めているのです。






 






「諸君、新建設を成就せむがためには、まず大破壊を成就せねばならぬ。破壊を始めるには、まずその目的物の最も破壊し易き箇所を偵知する必要がある。

 
〔…〕人を倒すにはやはり足を斬るのが一番よいようだ。

 『教育』の足は小学校である。木乃伊へ呼吸を吹き込むには、小学校の門からするのが一番だ。」

「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.27-28.



 啄木は、こう言って、中学校を卒業して上級の学校へ進学する(そして、役人や偉い人になる)よりも、中退して小学校教師となることを、母校の生徒たちに勧めるのです。

 上級学校への試験で「競争して勝とうとするには、勢い百科全書的な勉強を少なくとも1年位やらねばなるまい。そんな下らぬ勉強をすると、」受け持ちの教科だけ教えて了れりとする中学校教師と同様の「進むも退くも人生に些(いささか)の影響なき壊れた時計となるではないか。」

 それよりも‥‥



「予と共に、かの神の如く無垢なる、しかも各々或る特長を具えた幾十という少年少女の顔を、教壇の上から一瞥して見玉え。その一刹那に、諸君は、30年の百科全書的勉強よりも優る、一の或重大なる教訓を得るであろう。そして或極めて厳粛な、あたかも神の審判の庭に引き出されたような感情の、渾身に漲り渡るを感ずるであろう。その時は乃ち、諸君が一躍して『理想の戦士』という肩書を貰って、天帝の近衛兵となる時であるのだ。」

「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,p.28.



 啄木の調子は高く、理想に燃えているのですが、主張の内容が抽象的であることは否定できません。

 じっさいに啄木が渋民村で行なった教育ぶりを、もっと具体的に知ることのできる資料はないものでしょうか?



「つぎは就職後1ヵ月、友人小笠原氏への手紙で、教師としての日課と明るい見通しを述べている。

 『かかる境にありて、我が唯一の楽しみは、故山の子弟を教化するの大任也。小生は蓋し日本一の代用教員ならむ、
〔…〕

  朝起きて直ちに登校す、受持は尋常2年也、十分休み毎には卒業生に中等国語読本を教ふ、放課後は夕刻まで英語の課外教授をなす、一日自分の時間といふものなし、夜は種々の調査、来客等に忙殺せらる、又、時々近隣の女生徒を集めて、作文の教授をなすことあり、我が談話をきかんとする青年の来襲に逢ふことあり。

 
〔…〕我が在職は蓋し長からざらむ、しかも我は、その長からざる間に於て、十分に人格的基礎を有する善美なる感化を故山の子弟が胸奥に刻まむことを期す。これ詩人たる予の本能的要求なり、これ実に何らの報酬をも予期せざる我が心霊の希望なり、〔…〕

 生活教育はひとり子供の生活だけの問題ではない。子供の生活と教師の生活、そして地域の人間生活とのからみあった綜合的な形態でなければならない。そこに啄木の生活教育の先駆者としての歴史的意義がある。」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.215.



 受持ちの小学2年生だけでなく、「十分休み毎に‥‥中等国語読本を教」える「卒業生」「英語の課外教授」の生徒、「我が談話をきかんとする青年」など、村の青年たちを広く相手にしていることがわかります。「夜は種々の調査、来客等に忙殺せらる」というのは、老若の村人たちとの交流でしょう。「調査」については、「村の行事、祭典から郷土の伝説などにも興味をもって研究した」(p.219)とあります。

 単に研究するのではなく、「村人の間にまじって盆踊に夜を徹し、平気で米を借りに村内を歩くなど」したそうです。「学校の生徒に踊りを禁止」しようとする大人たちを攻撃したりもしています。

 啄木の教育は、“全人格的教育”という以上に、教師の生活が子供たちの生活とも村人の生活とも、分け隔てなく混りあってしまうところにまで達していたといえます。

 そこには、村人のほうも、村の“お寺”の元住職の息子ということで、気を許す雰囲気があったかもしれません。



「啄木は教室で子供とともに泣き、子供とともに笑った。
〔…〕

 啄木の教室はおそらく日本一の明るい教室であったであろう。それは彼が教育を『大人』のものから、『小児』のものに作り直したからである。
〔…〕彼は子供を『成人の父』とよび、自分を『至幸の兄』として明るい生活の場をつくった。

  猫の耳を引つぱりてみて、
  にやと鳴けば、
  びつくりして喜ぶ子供の顔かな。

      
〔…〕

 啄木歌集には子供を歌ったものが多いが、子供を『成人の父』とした生活教育は、彼が子供と楽しく遊べる人間であったればこそ実現されたのである。」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,p.216.







大正7年尋常小学校国定修身教科書。
「木口ラッパ手」の“軍国美談”






 啄木は、「人を生れた時の儘で大きくならせる方針」で教育をすると記している。



「啄木は『小児は成人の父なり。小児の心の全く死したる時、人は之を称して成人したりと謂ふ。人は成人たらむとして先づ小児を殺さざるべからず。噫、神は小児を作りき、然れども人は成人を作りぬ』といっている。

 また『生れたる儘にて死ぬる人こそこの世にて一番エラキ人なり』が彼の人生観であり、『渋民日記』には、『
〔…〕あゝ、大きい小児を作る事! これが自分の天職だ!』とある。生れたままの大きい小児を作るというのが、彼の教育に対する持論であった。」
上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.216-217.



 啄木は、「小児を殺す大人の教育を排し」、子供を「できるだけ成人化させないように」、学校でも子供を名字で呼ばず、家庭でと同じように下の名で呼び捨てにすることを主張した。



 ところで、啄木以外の当時日本の一般的な初等教育は、どんなものだったでしょうか?



「当時の教育界は国家主義的な道徳教育が行われ、いわゆるヘルバルト流の5段教授の流行時代であった。

 啄木はもとよりそうした既成の形式にこだわらず、自由自在な子供の生活に即した方法をとった。

     
〔…〕

 既成の教授細目や教案は、大人すなわち教師に都合よくできており、5段教授にとらわれたりしているので、いつも小説『雲は天才である』に出ているように校長と論争のもとになった。しかし啄木は自分で創案した新しい教案をもって自由な題材で教授した」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.217-218.



 「国家主義的な道徳教育」については、上田庄三郎氏は、「当時の政府の強制する軍国教育」とも言っています(p.220)。日露戦争直前の 1903年に始まった国定教科書制のもとで、「死んでもラッパを口から離しませんでした」とされる「木口小平」の“軍国美談”(日清戦争時)が修身教科書に採用され、日露戦争に関しては、“軍神”広瀬武夫、橘周太の戦死譚、乃木希典、東郷平八郎ほかの武勲譚が流布しました。しかし、より詳しい当時の学校教育内容、方法と状況については、ネットでは調べきれませんでした。今後の課題にしたいと思います。

 「ヘルバルト流の5段教授」:ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart, 1776-1841)は、ドイツの心理学者、教育学者。連合心理学にもとづく教育方法を提唱しました。ヘルバルトは、「4段階教育法」によって“学習者の認識過程”を明らかにしましたが、日本で支配的な影響を与えたのは、これを拡充したヘルバルト学派の「5段階教育法」でした。「5段階教育法」は、「4段階」とは逆に、学習者に対して「教師が教材を提示する順序」を示したといえます。

 もともとヘルバルトは、ルソー、ペスタロッチの“自由教育”の流れを受け継いでおり、人間精神の性質に即した合理的な教授法を提唱したのです。ところが、それが「5段階教授」になると、学習者よりも教師中心になっていき、既定の教材をどう教え込むかという、授業の進め方の固定したパターンを追いかけることになりました。こうして、日本での「5段階教授」は、寺子屋式の暗記・暗誦を中心とする教育からの脱却をめざしながら、実際上の結果としては、もっぱら教壇から一方的に知識を注入する教師中心の授業という、日本の学校教育の紋切り型を定着させたと言えます。

 しかも、脱却されるべき暗記中心の教育は、その後も改められませんでした(⇒:Educational Words 五段階教育法 ⇒:信州大学e-Learning教材 ヘルバルト教育学)。

 これに対して、啄木の渋民村での教育は、むしろ寺子屋教授の“生活教育”的な面を受け継いで、生徒の自由な心の動きに即し、教師よりも子供たち中心の、躍動にみちた学習を展開したと言えます。啄木は、ルソーも、ペスタロッチも読んではいませんでしたが、その教育は期せずして、


「すべてのものは、造物主の手から出たときは善であるが、人間の手にうつると悪くなる」
(『エミール』)


 と言ったルソーの“自由教育”“自然教育”にふさわしいものとなっていたのです。

 たとえば、啄木は、教室で子供たちの気が散って集中できないときには、“にらめっこ”をして、負けた子を立たせるというやり方で、子供たちの精神を集中させていました。



「時間割についても固定した形式にとらわれず、高等科の希望者ではじめた課外授業などは英語を2時間も3時間も続けて、中学で2週間もかかるところを2日間で教えた。

     
〔…〕

 自宅も子供たちに開放し、教師の私生活と子供たちの個人生活が混然と一体化した新しい寺子屋教授をはじめた。あるときは、自宅で朝読みをはじめ、男女20人も朝早くから押しかけて勉強した。あるいは歴史の話をしたり、自作の歌を歌わせたり、時には、眼玉を廻したり、耳を動かして子供たちを笑わせたり、詩を歌いながら子供たちと散歩したりした。
〔…〕

 こうして子供たちのいるところには、いつでもどこでも展開される自然で自由な教育であった。」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.216-218.



 さらに、啄木の教育実践の注目すべき点は、子供たちの“自治”“自主性”“自律性”を重んじたことです。のちに彼が文芸批評や論説で提唱する「自己実現」「自己発展」といった思想にも、それは共鳴します。啄木の「自己実現」の思想は、書物でも孤独な瞑想でもなく、こうした村と子供たちとの生活実践の中から会得されたものにほかならないのです。



「あくまで子供の自主、自治を重んじたことは、高等科におこった男女の風紀問題について自己反省をもとめた事件にもよくあらわれている。
〔…〕

 そして第3学期には『生徒間に自治的精神を涵養せん』との計画を立てた。そして、卒業生の送別会はすべて子供の自治的運営にまかせたので、当日は『この村開闢以来の出来事』として村民から称讃された。」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.218-219.









【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(2)―――につづく。   






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