09/15の日記

17:59
【必読書150】アンダーソン『想像の共同体』(1)―――ナショナリズムと、どう向き合うか?

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「国民の象徴」は、なぜ高所から見下ろさなければならないか?
平成天皇・即位の礼、万歳する海部首相   











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】の4冊目。


 ベネディクト・アンダーソン著,白石隆・白石さや・訳『定本 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』,書籍工房早山,2007.
(アマゾンと楽天は宣伝したくないので、避けています。)




 本書は、《ネーション(nation)》の起源、変遷、現状に関する本で、この分野では古典的な名著となっているそうです。

 《ネーション》は、日本語の「国民」に近いコトバで、「民族」が、しばしば国境をまたいで存在するのに対して、基本的には一国の中を範囲とする存在です。

 “《ネーション》を成り立たせているのは、ナショナリズムである”―――というのが、この本の著者の基本的な視角です。カバー前そでの内容紹介によると:



「国民はイメージとして心の中に想像されたものである。

 国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。

 そして、たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。そして、この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」



 著者が、「この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」と言っているように、《ネーション》(国民)、あるいはナショナリズムは、「想像力の産物」だからといって、けっして吹けば飛ぶようなものではない。それを称揚するか、軽蔑するか、忌み嫌うかにかかわりなく、消し去りようのない根強さをもって私たちの「心の中」に深く根を下ろしているのが、《ネーション》なのです。

 20世紀は“戦争の世紀”(ホブズボーム)でした。ある国の人口動態のグラフを大きくくびれさせるほどおおぜいの人が、なぜ殺し合わなければならなかったのか? 後世の人は首をかしげるでしょう。しかし、それ以上に顕著なことは、“敵”を殺すよりもおおぜいの人が、みずからすすんで死を求め、戦場に向ったことだ、と著者は言います。

 《ネーション》とは、実体のない「想像力の産物」であるのに、そのために生命を捧げようとする人が、かくも大量にいた、また現在もいることは、いったい、どう説明されるのか? ナショナリズムが幻想にすぎないとしても、それが現在も、‥将来にもわたって、地球上の多くの場所で、おびただしい数の人間たちをとらえている、そして、いっこうに消える気配もないのは、なぜなのか? 著者の問題意識は、そこにあります。

 たしかに、「国のために死ぬ」というナショナリズムの唱道には、欺瞞があります。とくに、日本ではそれが顕著です。特攻攻撃は、じっさいには有無を言わさぬ命令によって遂行された。兵士みずから特攻を「志願」したというのは、9割以上の嘘です。あからさまな命令でない場合も、「志願」という名の強制が、大部分であった。

 この本にも述べられていますが、日本のナショナリズムの欺瞞性は、それが、「公定ナショナリズム」の一変種であることによります。

 しかし、たとえ騙されてであっても、「国のために死ぬ」ことの崇高さを信じる人びとが(たとえ誤信であれ)一定数居なければ、欺瞞的な強制さえ不可能です。ナショナリズムが信じられている、信じられうるということは、私たちが、けっして避けて通ることのできない問題なのです。






 【1】諸氏のレビューから



 比較的最近の本なので、ネットには多数の読者レビューが出ていました。検索で上位のほうから、いくつか拾ってみますと:




「近年文学・言語研究に重要な示唆を含む研究として社会科学のみならず文学研究においても必読書とされています。アメリカ合衆国の政治学者である著者は、1936年、中国の昆明生まれ。1957年、ケンブリッジ大学卒業(古典学)。1967年コーネル大学Ph.D.。コーネル大学教授(政治学・アジア研究)を経て、現在は名誉教授。専門は、比較政治、東南アジア、とくにインドネシアの政治です。」

 ⇒:一条真也の読書館



「この本の議論は、ヨーロッパ中心主義に陥らず、アメリカ、アジア、アフリカなど多様な地域を対象とし、さらに大国だけでなく小さな国家をもきちんと考察するところに大きな特徴がある。」

 ⇒:珈琲ブレイク







ベネディクト・アンダーソン(右端)
インドネシアの社会学者・ジャーナリスト:
ジョージ・アディジョンドゥロ父子とともに。






「ナショナリズム研究の古典ともいうべき本である。」

「いかに小さな国民であろうと、その大多数の同胞を知ることも、会うこともない。それでいて、ひとりひとりには共同の聖餐のイメージができている」

ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ。」

国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民の中にたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に描かれるからである。」

 ⇒:Lounge Cafe



 「共同体」といえば、家族、村、といったものがイメージされます。それらは、同居しているとか、血のつながりがある、近くに住んでいる、といったことによって存在する“現実の”共同体です。しかし、「国民(ネーション)」は、あくまでも、人びとの想像の上で存在する「想像の共同体」なのです。なぜなら、「国民」共同体のメンバーは、私たちの知らない人です。意地悪な人なのか、友好的な人なのかもわからない。にもかかわらず、“同じ国民だ”という連帯感と友愛を、私たちは感じるのです。それは、いったいなぜなのか?

 フランス革命は、「自由、平等、友愛」をスローガンにしました。「自由」と「平等」は、政治的、法律的に実現されたので、わかりやすい。しかし、「友愛」とは、何か? ―――それこそがナショナリズムなのです。

 ナショナリズムネーションは、市民革命に前後して、どこの国でも“発明”された。それは、遠い昔からあるものではないのです。






 【2】ナショナリズムを生んだもの――出版資本主義



 《ネーション》(国民)、あるいは、国民主義、ナショナリズムの形成が、近代語の確立と深い関係にあるということは、古くから言われてきました。たとえば、19世紀ドイツの哲学者フィヒテは、ナポレオンによる占領下で、ドイツ国民の一体性を強調し、フランスの支配に対する抵抗を鼓舞するために、何よりもドイツ語に注意を向けました。“われわれは、たとえばらばらに小国に分かれていても、みなドイツ語を話している、みな「ドイツ人」である”と、かれは全「ドイツ」の人びとに訴えています。



「フィヒテの場合、ネーションの核心は言語にあると考えられている。ネーションを構成するのは、血縁的地縁的共同性ではなく、政治的国家ではなく言語なのである。

  『国家と国家を分かつ最初の始源的な、そしてほんとうの意味で自然な国境とは、疑いもなくその内的な国境です。同じ言語を話す者たちは、あらゆる人為に先だって、その自然的な本性そのものによってすでに、無数の目に見えない絆によって互いに結びつけられています。
〔…〕彼らが集まって一団をなし、自然な統一体を形づくり、不可分の全体をなしているのです。〔…〕〔フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』〕

 フィヒテは、ここでネーションを国家から区別している。国家が国境をもつのに対して、ネーションは『内的国境』をもつ。そして、『内的国境』が現実化されたとき、真に理性的な国家が確立されるのである。しかし、内的国境としての言語において、すでに理性的なものが感性化=美学化されていることは明らかである。逆にいえば、感性的なものが精神化されている。たとえば、言語(文学)を通して、山や川がナショナルな風景として美学化されるのである。」

『定本 柄谷行人集 第4巻 ネーションと美学』,2004,岩波書店,pp.37-38.


 言語の共通性は、プロイセン王国の住民とバイエルン公国の住民を、フランクフルトの市民とウィーンの市民を、互いにむすびつけ、“我々はドイツ人だ”という、理屈抜きの感性に訴えかけます。そればかりでなく、ドイツ語で書かれた小説や詩歌、旅行記などは、ドイツの自然や町々の描写によって、“国民”の意識を養い、郷土愛を祖国愛に高めるのです。


「このようなドイツのロマン派・観念論の哲学が完成されるのは、ヘーゲルにおいてである。 特に、ヘーゲルの『法の哲学』は、
〔…〕家族、市民社会、国家という順で展開されている。〔…〕『市民社会』の段階で、市場経済的社会だけでなく、警察や司法、社会政策や職能集団を含む国家機構を扱っている。だが、ヘーゲルによれば、それは『悟性的な国家』にすぎない。いわば、そこにはネーションがもつような感情的契機が欠けている。それらの統合は『理性的国家』、すなわちネーション=ステートにおいてはじめてもたらされる。」
『定本 柄谷行人集 第4巻 ネーションと美学』,2004,岩波書店,pp.38-39.


 フィヒテ、ヘーゲル以後のドイツの哲学は、ナショナリズムとのつながりの中で生まれてきました。

 《ネーション》は、フランスの啓蒙主義のような単なる“理屈”(悟性)ではない。それは、何よりも感性、感情に根ざしています。






 






 しかし、この本の著者アンダーソンは、“近代語の確立が国民意識を成立させた”というような、抽象的な考えでは満足しません。アンダーソンの議論は、単に“言語”というより、もっと具体的に、印刷術によって近代語を普及させた出版資本主義に注目する点に特徴があります。

 中部ヨーロッパでは、宗教改革と近代言語の形成との間に、切っても切れない関係があります。ルターの宗教改革は、折りから登場したグーテンベルク印刷術に支えられて普及し、成功したといえます。そして、ルターの翻訳したドイツ語聖書によって、近代ドイツ語(新高ドイツ語)が普及したのです。ルターは、


「家の中の母親に、路地の子供らに、市場にいる俗人に訊ね、彼らがどうしゃべるか、彼らの口をよく見て、翻訳しなければならない。」


 と言っています。つまり、宗教改革は、言語の面では、“言文一致”運動にほかならなかったのです。そして、この“言文一致”運動を可能にしたのは、印刷術の発明によって勃興した出版資本主義でした。



「グーテンベルク聖書の出版から15世紀末までの40余年間に、ヨーロッパでは2000万冊以上の本が出版された。1500年から1600年にかけては、製造された本の部数は1億5000万冊から2億冊に達した。『ごく初期から
〔…〕印刷工房は、中世の修道院の作業場よりもむしろ、近代の工場を髣髴とさせた。1455年、フストとシェーファーが〔マインツで〕営んでいた印刷所では、規格化された生産ができるよう工夫されており、それから20年たつと、ヨーロッパ中のあちこちに大規模な印刷所が稼働をはじめていた。』〔リュシアン・フェーヴル,アンリ・ジャン・マルタン『書物の出現』原1958.〕ある特別な意味では、本は、最初の近代的大量生産工業商品であった。〔…〕

 新聞は、本の『極端な一形態』、途方もない規模で販売されるが、その人気たるやきわめてはかない本にすぎないともいえよう。1日だけのベストセラーとでも言おうか。新聞が印刷の翌日には古紙になってしまうこと――この初期の大量生産商品は、その意味で、奇妙なほどに、時間のたつにつれ陳腐化していくという近代的消費財の属性を予示するものであったが――まさにその故に、それは、異常なマス・セレモニー、虚構としての新聞を人々がほとんどまったく同時に消費(『想像』)するという儀式を創り出した」

『想像の共同体』,pp.60-62.


 印刷された書籍と新聞の登場が、人びと―――といっても、字を読むことのできる人びと―――の生活を一変させました。高価な羊皮紙に手書きされた写本の時代には考えられなかった多くの人が、同じ本(コピー)を同時に読み、考え、自分と同じものを読んで同じことを考えている数百万、数千万の“ドイツ人”がいることを意識しました。この時初めて、“ドイツ人”という、まとまった人々――たがいに会ったこともない人びとの想像上の共同体――が、地上に出現したのです。

 こうして、興隆する出版資本主義が、ますます多くの人びとを、ますます強固に結び付けていきました。しかし、結びつけられる人びとの範囲は、“出版言語”――活字印刷される言語――によって境界づけられていました。ドイツ語はドイツ語、フランス語はフランス語、スペイン語はスペイン語を読む人びとを結びつけました。こうして、《ネーション》が形成された。

 当時、ドイツには統一的な王権などはありませんでした。ドイツでもフランスでもスペインでも、宮廷と貴族官僚は、もっぱらラテン語で文書を書いていました。したがって、上のようにして形成された《ネーション》は、国家によってではなく、いわば「下から」の「民衆ナショナリズム」として形成されたのです。



「新しい想像の国民共同体
〔…〕を可能にしたのは、生産システムと生産関係(資本主義)、コミュニケーション技術(印刷・出版)、そして人間の言語的多様性という宿命性のあいだの、なかば偶然の、しかし、爆発的な相互作用であった。

 
〔…〕出版時代以前のヨーロッパにおいて、そしてもちろん世界の他の地域においても、〔…〕口語の多様性はきわめて大きなものであった。」隣りの地方あるいは村とさえ意思疎通ができないほど違う方言が行なわれていただけでなく、個人のコトバの癖(「個人言語」)の相違も大きなものでした。辞書、文字、ラジオ放送といった“統一の手段”は、民衆には一切なかったのですから。「しかし、これらさまざまの個人言語は、ある明確な範囲内ではるかに少数の出版語に組み立てることができた。」出版物の流通が始まることによって、著者たちは、どれか特定の方言を改良したり、いくつかの方言を組み合わせて“出版語”を作り出し、普及させたのです。この「組み立て」作業は、文字(「記号」)が表意的であればあるほど、容易になります。読者は、文字をそれぞれ自分の“地方語”で発音しながら、共通の意味を理解することができるからです。もっとも表意的な「記号」は、数字と数学の記号、それに次ぐのが漢字。もっとも表意的でないアルファベットも、個々の単語の綴りは表意性を持っています(英単語は綴り字が不規則なので、発音よりも、単語全体の形をパッと見て、意味を認識します)。「記号が表意文字的であればあるほど、潜在的な組み立て妥当範囲は拡大する。〔…〕

 親縁関係にある俗語の『組み立て』
〔方言を組み合わせて「出版語」を作ること―――ギトン注〕に資本主義ほど貢献したものもなかった。それは、文法と統辞法の課する範囲内で、市場によって普及しうる、機械的に複製された出版語を創造したのである。

      
〔…〕

 これらの出版語は、三つのやり方で国民意識の基礎を築いた。

 第一に、もっとも重要なこととして挙げるべきは、出版語が、ラテン語の下位、口語俗語の上位に、交換とコミュニケーションの統一的な場を創造したことである。
〔…〕この過程で、かれらは、かれらのこの特定の言語の場には、数十万、いや数百万もの人々がいること、そしてまた、これら数十万、数百万の人々だけがこの場に所属するのだということをしだいに意識するようになっていった。出版によって結びつけられたこれらの読者同胞は、こうして、その世俗的で、特定で、可視的な不可視性において、国民的なものと想像される共同の胚を形成したのである。

 第二に、出版資本主義は、言語に新しい固定性を付与した。これがやがて、主観的な国民
〔…〕あの古さのイメージを作り出すのに役立つのである。〔…〕

 第三に、出版資本主義は、
〔…〕権力の言語を創造した。」「出版語」として市場を制覇した方言は、他の方言を押しのけて、その国民(ネーション)の“標準語”たる社会的地位を独占します。
『想像の共同体』,pp.82-85.


 こうした「出版語の固定化」と「標準語・方言の地位分化」は、当初ヨーロッパでは、資本主義発展の波に乗った「無自覚な過程」として、進行しました。しかし、その過程が一段落し、その経験が“歴史”としてまとめられて、ヨーロッパ外の新興国家から来た官僚留学生に教えられるようになると、彼らは国に帰ってから、それを
「公式モデル」として「マキャベリ的精神で意識的に」模倣するようになります(p.84)。

 それが、日本、トルコ、タイなど、ヨーロッパ外の大多数の国々の場合、すなわち「公定ナショナリズム」―――いわば「上から」もたらされたナショナリズムなのです。







マルティン・ルター






「人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。」

『想像の共同体』,p.86.






 【3】ナショナリズムを生んだもの――官僚機構



 しかしながら、《ネーション》ナショナリズムは、出版資本主義のみによって生み出されたわけではありませんでした。

 こんにち、諸国民の標準語(出版語)の通用範囲と、国境とが一致しない例が非常に多いことを見ても、それは明らかです。

 ラテン・アメリカでは、同じスペイン語を「国語」とする地域が、多数の国家に分かれています。地球上には、英語を公用語とする国家が、なんとたくさんあることか。スイスは4つの公用語地域に分かれており、そのどれか一つが、「標準語」に指定されているわけではありません。アフリカには、公用語を理解しない人が「国民」の大部分を占める、多数の国家があります。

 歴史上もっとも早い、ラテン・アメリカの例を見ましょう。ラテン・アメリカは、史上最初に、ヨーロッパより一足早く「国民国家」を形成した地域なのです。



「これらの国々は、歴史的に、世界の舞台に登場した最初の国民国家であり、それ故、必然的に、国民国家
〔…〕の最初の現実的モデルを提供した」
『想像の共同体』,p.87.






 18世紀までのヨーロッパ諸国は、王侯と貴族が“臣民”すなわち臣下(けらい)を支配する王朝国家または帝国であり、「国民」という水平的な、目に見えないつながりは、意味をもちませんでした。

 しかし、ラテン・アメリカ諸国は、(ブラジルだけはやや例外ですが)いずれも「共和国」として、スペインの支配から独立したのです。独立のリーダーシップをとったのは、「クレオール」(植民地で生まれた白人)のなかでも上層部の大地主、軍人、役人(植民地官僚)でした。多くの場合に、独立の動機は、インディオ、黒人の反乱に対処するために、スペイン本国からの軍事的支援が当てにならないからでした。とくに、1789年(フランス革命勃発の年)にスペインが人道的な「新奴隷法」を発布して奴隷主の権利を制限すると、ラテン・アメリカ諸地域の白人奴隷主は、いっせいに反発して、独立運動を開始しました。

 なお、同じことは、北アメリカで独立戦争に結束した「東部13州」についても言えます。「東部13州」の


「独立運動の指導者の多くが奴隷農場主であった」

『想像の共同体』,p.94.


 そればかりでなく、1763年、イギリスがポンティアック酋長に率いられた先住民(インディアン)との間で、アパラチア山脈から西への白人の移住を停止する協定を結んだ時、「13州」の住民はこれに反発して植民地当局と離反し、最終的に独立戦争に至るのです(柄谷行人『哲学の起源』,2012,岩波書店,p.48.)


「自由か、しからずんば死を!」


 の「自由」とは、先住民を殺す自由、先住民から土地を奪う自由にほかなりません。

 もっとも、そうは言っても、植民地住民の中でごく一握りにすぎない大地主、奴隷主、軍人、役人の彼らが、“国民の共和国”を自称して独立したこともまた、事実なのです。スペイン語(または英語)を話せる者も、話せない者も、白人も先住民も、(北米以外では)黒人も、‥すべての住民を代表する国家として、諸国は独立しました。

 独立運動家シモン・ボリバルは、まもなく奴隷に対する考えを改め、彼の同志サン・マルティンは、1821年に、↓こう宣言します(pp.94-95.):



「今後、原住民を、インディオ、土民などと呼んではならない。かれらはペルーの子にしてかつ市民であり、ペルー人として知られるべきである。」



 つまり、「国民」―――ペルー国民、ボリビア国民、メキシコ国民、……―――という観念、「国民」という「想像の共同体」が、スペインからの諸国の独立には、不可欠であったのです。それは、なぜなのか?

 しかも、大きな謎は、旧スペイン領全体が、一つの国として独立したのではなく、おびただしい数の国家に分かれて独立したことです(英語圏、ポルトガル語圏は、それぞれ1国として独立したにもかかわらず)。これら諸国の境界は、スペインが設定した植民地行政単位の境界と一致しているのです。 






   
ラテン・アメリカ独立の父 シモン・ボリバル 
映画『解放者』より。   






 著者アンダーソンは、この大きな疑問に対して、つぎのように答えています。ラテン・アメリカの国民意識は、《巡礼の旅》によって形成されたからであると。

 ここでアンダーソンが比喩的に《巡礼の旅》と呼んでいるのは、絶対主義以後の国家、あるいは植民地の官僚機構がもつ、役人の“キャリア・システム”のことです。

 もともと、ヨーロッパのキリスト教世界は、聖地への《巡礼》によって、ヨーロッパ全土の人びとが、ひとつの“宗教共同体”をなしているのだという、一体性の実感を共有していました。



「出版時代以前には、想像の宗教共同体の現実性は、なににもまして、無数の、やむことのない旅に深く依存していた。信心深い求道者たちが、ヨーロッパ全土から教学の『地方的中心』たる有名な修道院へ、そしてそこからさらにローマへと、自発的に流れていった」

『想像の共同体』,p.99.


 絶対主義の時代になると、これと並んで「世俗の《巡礼の旅》」が行なわれるようになります。それが、役人のキャリア・システムです。



「絶対主義の役人にとっては、
〔…〕才能が、彼の行路をかたちづくる。〔…〕彼は、何重にも円弧を描きながら、崖道を登っていく。円弧はしだいに狭まりきつくなり、ついには頂上に到達すると考えながら。彼は、5等級の役人としてA町に派遣されて役人としての経歴を開始し、4等級で中央に戻る。ついで3等級でB州に赴任し、さらに2等級でC副王領に行き、最後には、その巡礼を1等級で首都において終える。〔…〕彼は、その上昇らせんの道程において、意欲的な巡礼仲間としての同僚の役人たちと出会う。〔…〕旅の道連れとしてかれらと行を共にするうち、そしてとりわけ、単一の国家語を共有するとき、相互連結の意識(「なぜ我々は……ここで……一緒にいるのか」)が芽生える。」
『想像の共同体』,pp.100-101.



 ところが、植民地では、このキャリア・システムの《巡礼の旅》は、植民地の中に閉ざされていました。植民地のクレオール(植民地生まれの白人)の役人は、一生かかっても、本国の役所に転勤を命じられることはありませんでした。そればかりでなく、スペイン植民地の場合には、メキシコならメキシコ、チリならチリという、狭い行政区画の中でしか移動できませんでした。メキシコ人がチリの植民地官吏になったり、その逆、というようなことは、ありえなかったのです。



「こうして、彼が円弧を描いて登りつめていく頂上、彼が任命されうる最高の行政的中心は、彼が現にいる帝国の一行政単位の首都であった。しかし、このせまくかぎられた巡礼の旅において、彼は旅の同伴者と巡り合い、かれらはその共同性が、
〔…〕大西洋のこちら側〔アメリカ大陸――ギトン注〕で生まれてしまったという共通の運命にももとづくものであることを悟るようになった。」
『想像の共同体』,pp.102-103.



 こうして、各植民地での《巡礼の旅》によって、国民=《ネーション》の意識が生れます。これは、互いに見知らぬ者どうしが同じ本を読むことによって生じた国民の意識と同様に、見知らぬ土地の見知らぬ者が、(本国の官吏には決してなれない)「植民地生まれ」の運命を共有しているという一体性の意識です。

 そして、その国民の範囲が、キャリア・システムの範囲、すなわち植民地行政区画の範囲と一致したのは、なりゆき上当然の結果でした。メキシコの役人が、ペルーやチリの役人を「同国人」と感じる、いかなる理由もなかったのです。

 ラテン・アメリカの旧スペイン植民地では、白人はみな同じスペイン語を話すにもかかわらず、国民意識は、植民地行政区画ごとにべつべつに形成され、それぞれがスペインと戦い、各個に独立した理由は、ここにあるのです。

 ヨーロッパで民衆的国民形成の原動力となった出版資本主義についていえば、それがスペイン王権の宗教政策(宗教改革に対抗するカトリックの政策)のために、18世紀半ばまで強圧的に抑えられていたことも、印刷・出版《ネーション》の形成に重要な役割を果たしえなかった原因でした。



「印刷機は、17世紀末まで、メキシコ市とリマにあるだけで、しかもその生産物はもっぱら教会関係の印刷物であった。
〔…〕

 18世紀後半には最初の地方新聞が生れた。」

『想像の共同体』,p.107.













 しかし、スペイン領アメリカは、一つの出版の範囲として成立するには、あまりにも広大であり、当時の交通手段はあまりにも貧弱でした。



「想像の共同体にとって」
重要な「時間軸に沿った着実で揺るぎない同時性の観念は、〔…〕スペイン領アメリカの広大さ、そしてその構成部分の孤立性の故に、想像することがきわめて難しかった。メキシコのクレオールは、ブエノス・アイレスで起こったことを、数か月後に知るかもしれない。しかし、それはメキシコの新聞を通してであって、リオ・デ・ラ・プラタの新聞を通してではなかった。〔…〕

 この意味で、スペイン領アメリカ人の経験は、永続的なスペイン領アメリカ全域におよぶナショナリズムを生み出すのに『失敗した』」

『想像の共同体』,p.108.









ばいみ〜 ミ




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