08/12の日記

04:20
【必読書150】内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』(2)――反戦する愛国者

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旧・北海道庁舎(1888年竣工)   











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』(1) からのつづきです。






 【4】アメリカから見た母国



 流浪の地アメリカから眺めた母国は、内村には、どのように見えたでしょうか?

 それはもはや以前のように、そこにあるがままで「世界で最も美しい国」‥ではなくなっていましたが、回想と想像の中で、彼は新たに母国の「美しさ」を発見したのでした。



「遠く離れた流浪の地から眺めるとき、我が国は『ろくでもないもの』ではなくなりました。それは、目をみはるほど美しく見えはじめました。―――私が異教徒時代に見たようなグロテスクな美しさではなく、固有の歴史的性格を帯びて宇宙の場に一定のところを占める、真に均整のとれた調和的な美しさであります。その国家としての存在は天みずからにより定められたものであり、その世界と人類とに対する使命が明らかに宣せられ、今なお宣せられつつあるのです。世界と人類とのためにあるという高い目標と気高い希望とを有した、神聖な実在であるとわかりました。我が国がこのように光栄ある姿で私の目に映じたことを、深く感謝しました。」

内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,p.171.



 キリスト教に接する以前に持っていた国土“風景”の見え方を、内村は、「グロテスクな美しさ」だったと言っています。「グロテスク」は、キリスト教的観念に影響された言い方かもしれません。私たちの言葉で言い換えれば、それは、一種のアニミズムであったように思われます。

 柄谷行人氏が明らかにしたように、こんにちの私たちが“風景”として見ているものは、―――その「見え」の多くの部分は、と言ったほうが強弁にならないでしょうけれど―――近代初頭のロマンチシズムと“自然主義”によって作り出されたものです。青年期までの内村鑑三が生きていたのは、それよりも前の時代――《風景の発見》以前の時代だったのです。

 《風景の発見》とは、近代的な《風景》の見方が広まって、それが“あたりまえ”になってしまう現象です。日本では、それは明治20年代に、国木田独歩、島崎藤村らの“自然主義文学”とともに起こりました。

 私たちは、近代特有の風景の“見え方”の中にいて、いわば、近代人の“めがね”を通して風景を見ているのです。たとえば、山の風景にしても、さまざまな風景写真が私たちに影響を与えています。私たち自身、山の上から、一定の構図を切り取った写真を撮すことによって、その“見方”を反芻し、かつ強めています。



 近代以前の
「山水画家が松を描くとき、いわば松という概念を描くのであり、それは一定の視点と時空間で見られた松林ではない。

      
〔…〕

 彼らは隈なく対象を観察しスケッチするが、実際に描くときにはそれを放棄して記憶で描く。その結果、描かれたものには、一定の視点、一定の時空間による限定が無くなる。ある物の『概念』を描くとはそういうことである。」

柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』,2008,岩波現代文庫,pp.21,324-325.



「文学に関しても同じことがいえる。たとえば、松尾芭蕉は『風景』を見たのではない。彼らにとって、風景は言葉であり過去の文学にほかならなかった。」

『定本 日本近代文学の起源』,p.22.



「ヨーロッパにおいて、『風景の発見』が全面的な規模で生じたのはロマン派においてである。
〔…〕人々はルソーが見たものを見るためにスイスに殺到しはじめた。アルピニスト(登山家)は、まさに『文学』から生まれたのである。〔…〕柳田國男がいうように、登山は、それまでタブーや価値によって区分されていた質的空間を変形し等質化することなくしてありえないのである。

 総じて、ロマン派、あるいはプレ・ロマン派による風景の発見とは、エドマンド・バークが美と区別して崇高と呼んだ態度の出現にほかならない。美がいわば名所旧跡に快を見出す態度だとすれば、崇高はそれまで威圧的でしかなかった不快な自然対象に快を見出す態度なのである。そのようにして、アルプス、ナイアガラの滝、アリゾナ渓谷、北海道の原生林―――などが崇高な風景として見出された。」

『定本 日本近代文学の起源』,pp.32-33.













 キリスト教に接する以前の内村に見えていた“国土”の風景、ないしイメージは、おそらくは、無意識のうちに「風光明」といった言葉の連想があると思います。「美しい風景は、美人の眼と眉である」という“概念”を通して、風景を見ているわけです。「風光明」という“概念”を通してはじめて、風景は「美しい」と感じられる。それが、前近代における風景の見え方でした。

 「富士山」「松島」「猿沢の池」といった“名所”の概念がなければ、どんな風景も「美しい」とは感じられない。それが、前近代における“風景”なのです。

 たとえば、冠雪して聳える高山の峰の輝きを見て、なにか神々しいもの‥‥魂の奥底から揺さぶられるようなものを感じるのは、人間にとって普遍的なことだと思います。それ自体は、時代や文化によって異なるものではないと思うのです。

 しかし、そこから先へ行って、そこに神の啓示を見たり、仏法の聖地を見たり、近代的な絵画や写真の題材になるものを見たりするのは、文化的・歴史的な“意味づけ”にほかなりません。

 内村のこの本にも、冠雪した峰の輝きから神々しさを感じ取る記述がありますが、それはまもなく富士山であることが判明します。「日本」を象徴する山「富士山」―――という“概念”が、この風景を内村に「美しい」と感じさせていることは、明らかです。



「万古不易の雪を白く頂き堂々と西空にそびえ立つ、かなたの秀峰は―――それこそ母国の純潔な眉であり、
〔…〕かくも清らけく気高く愛らしき母―――その母に、どうしてその子らが忠実でなくてすみましょうか。」
『余はいかにして基督信徒となりしか』,pp.142-143.



 ロマンチシズムとアルぺニズムが日本で広まる以前の・この段階で、富士山以外の、たとえば南アルプスの峰が、「神々しい」と感じられることはないのです。

 ↑これは、すでにキリスト教に入信した後、渡米のために船に乗って、沖から静岡県の海岸を眺めた時の体験ですが、キリスト教に接する以前の“風景”もまた、“概念”を通して見ているという点は、同じです。

 キリスト教に入信した直後、札幌での野山の“風景”への接し方を、まえに引用した部分から思い出してほしいのですが、そこには、“概念”がいきなり取り払われて現出した、活き活きとした“風景”―――“名所”ではない「天然」そのものの風景―――に接した驚きが、よく描かれています。それは、キリスト教の“神”の光、遠くにある「理想のキリスト教国」からの光に照らし出された風景であったと言えるでしょう。

 しかし、その・いわば隔絶された“信仰共同体”から外へ出て見たとき、国土のほかの部分が「ろくでもない」ものに見えてしまったのは、しかたのないことだったとも言えます。内村が、《農学校》卒業後の日本での生活に、「心の真空」を感じつづけた原因は、そこにもあったかもしれません。
 
 ともかく、キリスト教入信以前に見ていた風景について言えば、それはいわば、即自的な“国土観”でした。自国の“国土”のなかに埋没して、即自的に、それは世界で最も美しい、最良であると信じこんでいる状態。ほかの国の“国土”を見たり比較したことはないのですから、それは、試されることのない即自的な観念でした。

 これに対して、アメリカという異郷の地で、回想と想像を通して新たに得た母国の観念は、いわば対自的なものです。

 ↑ひとつまえの引用文を見ると、



「固有の歴史的性格を帯びて宇宙の場に一定のところを占める、」



 とあるように、日本の国土を世界の中に位置づけて見ていることがわかります。時間的にも、空間的にも、広大な世界の中に位置づけて、いわば、外側から見ているのです。

 
 孤立した対象として、ただそれだけを見つめて、「世界一素晴らしい」とか「ろくでもない」とか、決めつけるのとは、まったく異なった見方です。



「その国家としての存在は天みずからにより定められたものであり、その世界と人類とに対する使命が明らかに宣せられ、今なお宣せられつつあるのです。世界と人類とのためにあるという高い目標と気高い希望とを有した、神聖な実在である」



 「世界と人類とに対する使命」と言っていますが、ここで内村は、日本を何か特別な使命を受けた者、ないし“神によって選ばれた者”として見ているわけではありません。日本ないし日本人に、特権的な地位を認めているわけではないのです。日本だけが「使命」を負っているとは、どこにも書かれていません。かえって、日本がなすべき努力は「世界と人類のためにある」のであり、努力の成果は、「世界と人類」が享受するのです。日本が神から、特別な利益(カミカゼとか)を与えられるわけではないのです。

 そのことは、↓以下の引用部分を見てゆくと、よりはっきりとするでしょう。






 






「12月5日―――カミの摂理が我が国民の上にあるにちがいないと考えて、おおいに感動した。もし、すべてのよき賜物がカミより与えられるものとするならば、我が国人たちの持つ賞讃すべき性格のなかには、いと高きところより与えられたものがあるに相違ない。私たちは私たち固有の賜物と恵みとをもって、カミと世とに尽くそうとしなくてはならない。カミは20世紀間にわたる訓練によってもたらされた我が国民の性格が、欧米の思想によってすっかり取り替えられることを望まない。キリスト教の美しさは、神が各国民に与えたすべての独自性を聖化できるところにある。日本もまたカミの民であるとは、恵まれた勇気のわく考えである。」

内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,p.231.



 「我が国人たちの持つ賞讃すべき性格」、つまり「異教徒」である日本人は、キリスト教の見地から見ても「賞讃すべき」徳性をしばしば発揮している。それらは、ほかならぬ“神”――唯一神、つまりキリスト教の神――が与えているものだと言うのです。ここには、内村の敬愛する亡き祖母のような人が念頭におかれているのでしょう。

 こうしてキリスト教は、“欧米人の宗教”という限界を突き破って、本来の世界宗教として理解されることになります。逆にいえば、ここで「世界」は、欧米人を中心とする「世界」という暗黙の了解から脱却することになります。


「キリスト教の美しさは、神が各国民に与えたすべての独自性を聖化できるところにある。」


 しかし、ここで内村が「各国民」と書いていることにも注意する必要があるでしょう。“神”から徳性・聖性を与えられている「異教徒」は、日本人だけではないのです。およそすべての「異教徒」が、それぞれ独自の聖性を与えられている。すなわち、世界中、どの国の国民も「カミの民である」―――ということになる。



「私は自分が異教徒の立場にあることを特権と思いました。
〔…〕

 と申しますのは、異教徒として生まれることには若干の利点があるからです。私は異教を、いまだどんなかたちのキリスト教によっても達成されなかったほど、高くて完全な段階に発展する可能性を秘めた、人間性の未発達な段階と考えています。まだキリスト教に染められていない異教国には、いつまでも尽きない希望があります。
〔…〕我が国は歴史の上では 2000年を越してはいますが、キリスト教においてはいまだ子供です。将来のあらゆる希望と可能性が、その国の急速に発達している日々のなかに隠されています。〔…〕『生まれながらのキリスト信徒』には使い古びた平凡なことでも、すべて私には新しい啓示でありました。

 
〔…〕私の内部で 18世紀にわたるキリスト教の変化と進歩とを目撃し、自分のあらゆる苦闘から抜け出られたときに、私は自分が思いやりのある人間となっているのを見いだしました。それは私が、偶像崇拝から十字架にかけられたカミの子のうちにある霊魂の解放に到るまでの、すべての精神的な展開に通じたためでした。このような光景と経験とは、カミの子すべてに与えられるものではありません。」
内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.271-272.


 異教国の異教徒は、キリスト教に改宗した場合には、生まれながらのキリスト教徒であるキリスト教国民よりも、より「高くて完全な段階に発展する可能性」があるというのです。

 なぜなら、キリスト教に改宗した異教徒は、「偶像崇拝」の段階から始めて、「十字架にかけられたカミの子のうちにある霊魂の解放に到るまでの、すべての精神的な展開」を経て、自己改革を遂げてゆくことになるからである、と。

 しかし、「このような光景と経験とは、カミの子すべてに与えられるものではありません。」キリスト教徒として生まれ、キリスト教徒であることが当たり前になってしまっているキリスト教国民には、そのような機会は与えられません。彼らは、自ら苦闘して信仰を得るということがないので、その信仰は惰性になってしまっている。

 したがって、異教徒と異教国こそが、キリスト教を、本来の宗教に立ち返らせることができるのだ―――そういう逆説を、内村は述べているのです。

 ところで、ここでもやはり、「異教徒」のなかで日本人に特別の地位を認めるような考えは、否定されています。たとえば、異教国のなかで、日本がその先頭に立つとか、異教諸国の“盟主”になるとか、アジア諸国を率いて欧米に対抗する、などといった考えが、内村にはまったく見られません。

 今回の冒頭に掲げた引用文で、内村は、日本の「国家としての存在」は、「世界と人類とのためにある」と、述べていました。しかし、そのことは、日本に特別の地位ないし特権が与えられていることを、少しも意味しません。むしろ、このような地位は、日本だけでなく他のあらゆる国家、少なくともすべての異教国にも認められるものである、―――というのが、内村の考え方なのです。













 【5】“回心”‥‥神学を学ぶ



あらすじB 大学と神学校‥‥そして帰国


「内村は『知的障碍児養育院』の仕事に打ち込んだが、そのため健康を害してしまい、7ヶ月でそこを去って、ニューイングランドへ向かった。ニューイングランドには、クラーク博士の出身校であるアマスト大学があり、内村はここの選科生として入学を許された。この著には、

 『私は、ぜひともニューイングランドを見ておかなくてはなりませんでした。私のキリスト教は、もともとニューイングランドから来たものであり、それによって生じたすべての私の心の苦闘は、その地の負うべき責任であったからです。』

 と書いている。じっさい、アマスト大学での約2年間の在学中、内村は、シーリー学長のアドバイスがきっかけとなって、生涯の転機となるような宗教的“回心”を経験した。

 アマスト大学卒業後、内村はハートフォード神学校に進んだ。内村は、この著で、職業的牧師の資格を得るつもりはなく、それを自らに禁じたうえで入学したと書いている。しかし、鈴木範久氏の前記解説文によれば、牧師資格の取得が目的であったが、疾病のために退学を余儀なくされた。それが事実であろう。

 内村は 1888年、28歳で帰国し、新潟の北越学館、東京の第一高等学校などで教えたのち、ジャーナリストに転ずるとともに“無教会キリスト者”として活動し、日露戦争では、キリスト教会の大部分が積極的に戦争に協力するなかで、一貫して“不戦論”を唱えつづけた。」






「1886年3月8日の日記に記されるように、学長シーリーが、自己の内のみをみつめて苦しんでいた内村に、その方向を変えキリストの十字架を仰ぎ見ることを勧めたのだった。この示唆により、内村の肩よりたちまち重荷が落ち、『信仰の大革新』が生じた。」

鈴木範久「若き内村鑑三と心の世界」, in:内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.380-381.



「3月8日―――私の生涯で非常に重要な日。キリストの贖罪の力が、今日ほど明らかにあらわれた日はなかった。これまで私の心をうちのめしてきたあらゆる困難の解決は、カミの子の十字架のうちにある。キリストが、すべての私の負い目を贖って、堕落前の原人(first man)の純粋と無垢とに私を戻すことができるのだ。いまや私はカミの子であり、私のなすべきつとめはイエスを信じることである。
〔…〕

 4月15日―――朝の祈り。私があなた
〔神――ギトン注〕の前にあるのは自分が清らかで汚れなく人を愛する者であるからではありません。〔…〕従順と敬虔な信仰と純潔とは、あなたからのみ来たり、私の尽くすたゆまぬ努力によって生み出すものではありません。〔…〕主よ、私は自分のまったく無能で堕落した存在であることを認め、あなたの生命で充たされんとしてあなたの前にあります。私は汚れています。私の清められんことをあなたに祈ります。私には信仰がありません。私にあなたからの信仰を授けてください。〔…〕

 4月23日―――キリスト信徒の祈りは、その願いがカミの特別な力添えによって達成されることを求めるものではない。
〔…〕カミがすでにその心にもっていたものを求めて祈らされるのである。〔…〕

 しかし、残念ながらキリスト信徒になった人々のなかには、まだ祈りにつき私の以前の考え方と同じである人々が多いのです。私は、祈りはカミを説き伏せて自然の法則すら変えさせるものだと思っていましたし、今なおそう思っている人が多いのです。私の魂よ、そうではないのだ。おまえの意志を常に善をはかるカミの意志にあわせよ。
〔…〕

 私のニューイングランドでの大学生活の終わるときが訪れました。私は重苦しい心で大学に入り、そして私の主にして救い主のうちにある輝かしい栄光を得てそこを去りました。
〔…〕そこで私はほんとうの意味での回心、つまり向きを変えたのであります。〔…〕自己にうちかつのに私自身の無駄な努力によるのでなく、そのためには宇宙の大いなる力によるように私は正されました。」
内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.238-240.



 「カミの特別な力添え」を願って祈ることは、“神”を強要して願いごとをかなえさせようとすることにほかなりません。このような“願掛け”は、神道や仏教では、ごくふつうのことです。“願掛け”の願いごとが実現するように、私たちは、お供え物をしたり、神職に代価を支払ってお祓いをしてもらったりします。

 しかし、キリスト教では、それは本来の信仰のしかたではないのです。“神の意志”は、人間が願いごとをして変えさせられるようなものではない。人間のなすべき“つとめ”は、“神”とイエスを信じることなのです。

 ここで述べられている内村の“回心”の要点は、ひとりの信徒として、あくまでも卑小な存在として、直接“神”の前に立つ―――ということではないかと思います。

 信徒がみな、それぞれ“神”の前に立つならば、すべての信徒は平等です。白人だろうと黒人だろうと、中国人だろうと日本人だろうと、“神”の前では何らの違いもないのです。

 日本人であるよりも前に、


 神のまえに立つ一人の人間である。


 という自覚。それが、内村のナショナリズムにとって本質的なことではなかったかと思うのです。

 明治・大正時代の日本の知識人にあっては、ナショナリズムは、ごく一般的なことでした。程度の相違はあれ、自分の生き方を、日本という国家の“生き方”から離れて考えることは、できなかったと言えます。

 しかし、“日本人であること”に先立つ“神のまえに立つ「ひとりの人」であること”―――その自覚があるか無いかで、その人のナショナリズムは、相当に異なったものとなるのではないでしょうか。






    






 【6】“反戦する愛国者”の誕生




帰国後の活動


「1888年帰国した内村は、新潟の北越学館の教頭に就任し、聖書やルターに関する講義と一般講演を行なう。

 しかし、同校に影響力を持つアメリカの伝道会社(アメリカン・ボード)、およびその宣教師らと衝突、生徒の多くが内村を支持したが、内村は就任後 4ヶ月で事実上解任された。なお、この時内村と対立した発起人・成瀬仁蔵らの『日本組合基督教会』は、日韓併合とともに総督府から巨額の援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げ、1920年代からは天皇制を賛美した。

 東京に戻った内村は、『日本基督教団』の教会で説教したり、『東洋英和学校』ほか各学校で教えたりしたが、『第一高等学校』の嘱託教員であった 1891年《不敬事件》が起きた。学校での『教育勅語』に対する内村の敬礼が最敬礼ではなかったとの非難が起こり、新聞が大きく取り上げて社会問題化した。事件の経緯をみると、多分に内村をスケープ・ゴートとしたスキャンダルの観が強い。翌年にも、東京帝大教授・井上哲次郎によって、この事件が蒸し返され、内村は事実誤認として反論したが、世論・メディアは井上に味方した。

 内村は、京都、熊本、名古屋等で教壇に立ち、各地を転々としたが、その間、『余は如何にして基督信徒となりし乎』ほか多数の著書・論説を発表した。1894年には、キリスト教青年会・夏季学校で行なった講演『後世への最大遺物』が評判になり、その講義録は再版を重ねた。

 97年、『萬朝報』に招聘されて入社し、英文欄を担当して二百数十篇の記事・論説を掲載し、足尾鉱毒事件をも論じた。98年には、『東京独立雑誌』を創刊しジャーナリストとして独立した。同誌には、《札幌農学校》時代からの畏友・大島正健もしばしば寄稿している。

 1900年から、新宿・角筈の自宅で聖書研究会を主宰し、ここには志賀直哉、小山内薫ら青年作家も通って聴講している。

 94年の日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を展開した。キリスト教会の大部分が積極的に主戦論を喧伝し、『萬朝報』も開戦論に転ずるなか、内村は、幸徳秋水、堺利彦とともに同誌を離れ、自発行の雑誌『聖書之研究』を通じて非戦論をつづけた。

 日露戦後は、各地に『聖書之研究』読者による聖書研究会が組織され、内村の無教会主義キリスト教は、中部、関東から東北にまで広がった。」



 内村鑑三の“非戦論”は、渡米以来の内村の信仰の核心的信念から、当然に導かれる論理的帰結であったと思います。

 しかし、内村は、アマスト大学での“回心”から、一足跳びに“非戦論”に至ったわけではありません。『余はいかにして基督信徒となりしか』には、日露戦争の 19年前ですが、ロシア帝国に対する主戦的ともとれる感想が書かれています(pp.200-201)。

 『聖書』「エレミヤ記」の読後感を記すなかで、内村は、ロシアを、ユダヤを占領して住民を拉致したバビロニア帝国に、ツァーリをネブカドネザル王に、日本をユダヤになぞらえています。しかし、彼はここでも、


「我が国を義の神を認めることによってのみ救われる無力なユダヤになぞらえました。」

 
 と書いています。敗戦し占領された日本が救われる道は、富国強兵に励むことではなく、「義の神を認めること」にのみあるのです。

 内村は、手持ちの『聖書』の「エレミヤ記」に、


「ああ我が国よ、わが帝国よ、、ユダヤの二の舞を演ずるな。」


 と書きつけました。60年後に日本に起きた事態を予言していたのかどうかはわかりませんが、これはあまりにも意味深長な言葉ではないでしょうか?

 日露戦争における内村の“非戦論”は、“神の前の平等”、‥‥異教国、キリスト教国の区別を問わず、あらゆる国家、国民は神の前に平等であるという内村の信念からすれば、当然の帰結だと思います。なぜなら、あらゆる戦争は、ある国民が他の国民を支配しようとすることから起きるのだからです。少なくとも 20世紀以後――帝国主義における戦争は、そうして起こっています。

 日露戦争もまた、日本とロシアが、朝鮮、満洲に対する支配権を争って起こしているのです。







ハルビン(戦前)






 さいごに、「兵役拒否」に関する内村の主張に触れておきたいと思います。内村は、非戦論を唱え、開戦に反対しつつ、じっさいに開戦がなされてしまった場合には、兵役と出征を拒否してはならないと訴えています。

 つまり、“不義の戦争”に対しても、兵役を拒否してはならないというのです。その根拠は、あくまでも理路整然としたもので、関心のある方は、Wikipedia を参照してください。

 しかし、神学的理論によって展開された内村の“不義兵役の受容論”は、あくまでも理論的主張であって、内村が兵役拒否を否定した・いわばホンネは別にあったのではないかと、私は思います。

 岩手県花巻で、兵役拒否・軍事費納税拒否を主張して《花巻非戦論事件》を引き起こした内村の弟子・斎藤宗次郎によると、どうもそのようなのです。

 内村の“非戦論”にしたがって、斎藤が「徴兵忌避、納税拒否も辞せず」と表明した時、内村鑑三は、花巻へ出かけて行って(当時は急行列車で一晩以上かかった)斎藤をたしなめ、主張を取り下げさせています。斎藤によれば、その際に内村が語った忠告は、“不義兵役の受容論”などの理論的なことよりも、つまるところ:


「もっと常識をわきまえよ」


 ということだったと言うのです。斎藤は、後年に至るまで、この時の内村の忠言に感謝しています。

 斎藤のこの話は信ぴょう性が高いと、私は思っています。活字の世界では理路整然と主張しながら、親しい弟子に口頭でたしなめるさいには、内村はホンネを語っていたと思うのです。

 内村としては、たいせつな弟子たちが投獄されて、呪われた人生を歩むことは、我慢できなかったでしょう。戦場に倒れた弟子に対しては、


「あなたの死は無駄ではなかった。あなたは、主に祝福をもって迎えられる。」


 と言ってやりたかったでしょう。

 内村鑑三は、人間的な強さも弱さも抱えこんだ人だった、そういう内村を、最もよく理解していたのは、斎藤宗次郎だったと、私は思うのです。



【必読書150】内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』―――終り。   








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