08/11の日記

08:15
【必読書150】内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』(1)――魂のコミュニティー

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「札幌農学校第2農場」   
1876年(内村鑑三入学の前年)にクラーク博士の 
構想に基いて開設された。もとは、現在の  
「ポプラ並木」付近から、この「第2農場」 
まで広がる広大な演習模範農場だった。  











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】

 の3冊目です。こちらに書いたように、日本の“小説以外”の原典が、とくに読み足らないということがわかったので、とりあえず、岩波文庫で入手しやすい内村鑑三を読んでみることにしました。






 【1】この本のテーマ。おいたちと入信。



 『余はいかにして基督教徒となりしか』というタイトルそのままの内容なのですが、執筆の動機は、アメリカの教会での依頼に答えるためでした。内村はアメリカ合州国滞在中、何度か、どのようにしてキリスト教に“回心”したのか、手短かに話すようにと、求められました。アメリカの信徒たちは、日本人のような異教徒が、いったいどんな・すばらしい奇蹟に接して“回心”するのか、たいへん興味をもっていたようだったのです。

 しかし、内村にとってそれは、「手短か」になど語れるようなことがらではありません。“改宗”は、決して“一瞬の奇蹟”でも、いちどきの驚異的な事件でもなかったのです。


「わたしの回心は、ゆっくりした段階的な歩みでした。」


 《札幌農学校》で入信した後も、それどころか、洗礼を受けたあとでさえも、「キリスト教の根本的な教えに対する信仰が、私には欠けていた」(まえがき)と、内村は述懐しています。物心ついてから入信した彼にとっては、キリストのもっとも根本的な教義さえ、正確に理解することは困難でした。卒業後の国内伝道から、渡米滞在をへて、帰国後“無教会キリスト者”として自立するまでの長い期間かかって、それらは少しずつ理解され、確信されて行ったのです。したがって、このテーマについて語るには、ゆうに1冊の本を書く必要があったわけです。




あらすじ@ 生い立ちと《札幌農学校》での入信


「内村鑑三は、幕末の 1861年、上州高崎藩の武士の家に生まれた。父方の祖父は、戦いを本務とする典型的な武士であり、父には、武士としての実力とともに、すぐれた儒学の教養があった。母方の祖父母は、実直で働き者の藩役人の家庭だった。

 鑑三のキリスト教への入信は、本人にとっても家族にとっても、まったく思いがけない出来事だった。17歳で『東京英語学校』に在学していた時、北海道開拓使からの勧誘を受けて、同級生の新渡戸稲造らとともに札幌農学校に、第2期生として入学した。農学校では、副校長クラーク博士の影響のもと、第1期生全員がキリスト教に入信したばかりだった。内村らが学校に到着した日は、彼らの集団受洗の翌日だった。内村ら2期生は、熱意に燃える上級生たちから、ほとんど強要に近い夜毎の勧誘を受け、『入信契約』に署名させられたのだった。

 しかし、入信強要に対してかたくなに抵抗していた内村も、じっさいに入信してみると、それは劇的な精神的解放を意味した。というのは、それまで内村は、神社崇拝には厳格に従わなければならないと思い、毎日さまざまな神に祈願を重ね、歩いていても神社の前を通るたびに、友人との私語をやめて祈りを捧げた。そのわずらわしさのために、たくさんの神社の前を通らなくてもよいように遠回りをするほどだった。神社崇拝から解放されただけでも、彼は、快哉を叫ぶほどの精神の自由を満喫することができたのだ。」





「私はゆりかごのうちから、すでに生くるは戦うなり(vivere est militare)、戦うために生まれたのです。父方の祖父は典型的な武士でありました。
〔…〕祖父は国土が平和であるのを嘆き、一度も本務に従えなかったことを無念に思いながら世を去りました。

      
〔…〕

 父はすぐれた儒学者でありました。聖賢の書にある事がらや言葉なら、ほとんど何でもそらんじることができました。藩主に対する忠、親と師とに対する孝と敬とが、その中国倫理の中心的な徳目でありました。
〔…〕とは、三位一体でありました。〔…〕また三者の敵は自分にとりましても不倶戴天の敵となります。地の果てまでも追い求め、目には目、歯には歯でもって復讐をしなければなりません。

 
〔…〕無数の神社にはそれぞれの神が住し、その支配権の侵犯に心を配り、気に入らぬ行為をなす者はだれであれ、ただちに罰するものだと私はただ信じるだけでなく信じこんでいました。〔…〕たくさんの神々の存在は、互いの神の要求の間に矛盾衝突をひき起こすことが多くなります。〔…〕あまりにも多くの神々を満足させ、なだめようとして、私はいつの間にか落ち着きのない内気な子供になってしまいました。」
内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.18,21-24,26.







北大 クラーク像






 「無数の神社にはそれぞれの神が住し、………気に入らぬ行為をなす者はだれであれ、ただちに罰するものだ」というクダリに注目したいと思います。内村のこの観察は正確だと思います。つまり、日本の「神」は、どの「神」も自分が正義であり、自分だけが正義なのです。日本の「神」を崇拝する者は、その「神」の“都合”がいかに不合理であろうとも、それに従わなければなりません。「神」の「罰」とは、「気に入らない」というだけの理由で下される災いなのです。正しいかどうかを判断する基準は、気に入られるかどうか、それ以外には存在しません。

 儒教もまた、そうした不合理な日本特有の観念にしたがって解釈されてきました。本来の儒教では、君・父・師“三位一体”の上には「天」が存在します。「天」の「理」にもとる君・父・師は罰せられるのです。しかし、日本では、儒教のこの面はいちじるしく軽視されました。

 こうした観念は、現代、21世紀の私たち日本人にも、抜きがたく浸透していると言わなければなりません。日本の国土のどこかに「平和の少女像」を建てたならば焼き打ちしてよい、外国に建てられたものは爆破してしまえ、と国会議員が公に扇動し、そうした異常な発言が容認されています。焼き打ち、爆破の理由は、ただ「気に入らない」ということ、それだけなのです。



 しかし、キリスト教に入信した内村鑑三は、これら自分勝手で恣意的な多数の神々に対する気兼ねから、いっぺんに解放されることになりました。しかも、当時札幌には、まだ外国人宣教師さえ一人も定住していませんでしたから、彼は諸教派や教義の複雑な問題を知らず、唯一神は遠くにいて、ただ希望の光を投げかけているだけでした。



「キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。
〔…〕もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通り過ぎるたびに出あう神社に長い祈りをくり返すことも、もう要らなくなりました。今日はこの神の日、明日はあの神の日として、それぞれ特別の誓いと断ち物とを守らなくてもよくなりました。〔…〕もはや祈りを唱えなくても罰のあたることはないのだ、〔…〕唯一神信仰は私を新しい人間にしました。〔…〕カミが一つという考えは私に元気を与えてくれました。新しい信仰による新しい精神の自由は、わたしの心身に健全な影響を及ぼしました。勉強には前よりも集中できました。新しく与えられた肉体の活動力を喜び、私は野山を歩きまわり、谷の百合、空の鳥を眺め、天然を通して天然を創造したカミとの交わりを求めました。

      
〔…〕

 9月29日 日曜日――午後、『6人の兄弟』と森で過ごした。野ブドウと野イチゴを摘み、祈り、歌った。快晴。

 原生林のなかで創造主のもとまで心を高めた、いまだ忘れがたき日の一つ。

 10月20日 日曜日――『7人の兄弟』と『石山』に登った。例によって、祈り歌った。帰途、野イチゴで元気回復した。

      
〔…〕

 12月8日 日曜日――夜『7人の兄弟』とまじめに話をした。互いに胸襟を開いて語り合い、心に大改革をもたらそうと約束し合った。

 キリスト教を受容して以来最良の日でした。真夜中過ぎ遅くまで語り祈ったと思います。就寝後まもなくして夜が明けましたから。その夜は、だれもが天使のように見えました。」

内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.34-36,52-54.

 黄色字は、原文の傍点付き文字。以下同じ。



 「6人の兄弟」「7人の兄弟」とは、内村とともに入信した同級生たちで、北大教授・植物学者となった宮部金吾、国際連盟事務次長となった新渡戸稲造らが、そのなかにいました。また、1年上級の第1回生には、北大総長となった佐藤昌介、甲府中学校長となった大島正健らがいました。

 当時札幌にはまだ教会がありませんでしたから、農学校生たちは、寄宿舎で自分たちの礼拝式をおこなったのですが、それはたいへん質素なものでした。小麦粉樽に青い布をかけて説教壇とし、交替で牧師になって説教をし、他の者は、固い床に毛布を敷いた上に跪いて祈りをささげています。賛美歌も、誰もメロディーを知りませんでしたから、同じメロディーで替え歌にして歌いました。あまりにも音痴で、寄宿舎で歌うと苦情があるので、日曜日の午後に野山へ行って思う存分歌ったのは、引用にあるとおりです。






 
    北大 「ポプラ並木」






 【2】卒業・就職と《独立教会》の設立




「当時の札幌は、開拓使
〔道庁にあたる役所―――ギトン注〕と札幌農学校を中心にして成り立つ寒村だった。札幌農学校の生徒たちはみな寄宿舎に住み、授業の多くは外国人教師により英語で行なわれ、学生たちの残したノートは英語で書き留められている。制服も洋服である。あたかもアメリカの一部を切り取り、札幌の地に移し換えたような空間だった。信仰はキリスト教である。あえていえば、そのような共同体にあっては孤立は成り立たない。」
鈴木範久「若き内村鑑三と心の世界」, in:内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,p.368.



  内村らが札幌農学校を卒業した 1881年といえば、《帝国憲法》公布の8年前です。入学の年 1877年には《西南戦争》がありました。《日清戦争》《日露戦争》などは、ずっと後の話です。明治とはいっても、大名と武士が没落しただけで、社会はまだほとんど江戸時代の延長でした。

 そうした時代に、札幌は、旧・士族の屯田兵と士族の子弟を誘致して、原野のただなかに建設された人工都市‥‥人口から言えば「寒村」でした。そして、《札幌農学校》は、文化面では「アメリカの一部」、ないしアメリカの植民地といってよい状況でした。

 日本の周囲の社会からは隔絶された緊密な「空間」であったからこそ、内村らは、キリスト教徒の共同体の固い結束を結び合うことができたと言えます。

 しかし、やがて第1期生、第2期生の順に農学校を卒業する時期になると、かれらは“教会の独立”という大きな問題に直面することになったのです。

 卒業生の大部分は、札幌に残って「開拓使」の役人、技師となり、《農学校》で学んだ農業、水産、工学などの実学知識を実地に役立てました。もともとそれが、彼らを《札幌農学校》に誘致した行政府の目的でしたから。内村鑑三も、水産の専門家として開拓使民事局勧業課に勤務し、在職中に、アワビの卵子を発見して養殖の基礎を据えるという業績を残しています。

 しかし、当時、札幌でのキリスト教信徒は、《メソジスト監督教会》・《英国聖公会》の2つの宗派に分かれていました。《農学校》生徒も、双方のどちらかに属していました。これは、この2つの外国宗派が、それぞれ宣教師を派遣して布教したためで、入信する日本人にとって、どちらに所属するかは、まったくの偶然の結果にすぎませんでした。
 
 卒業によって、彼らは、それまでの“信仰共同体”であった寄宿舎を離れることになりましたが、2つの外国教会に分かれて礼拝をすることには、抵抗があったのです。



「内村たちには教派から独立した自分たちの教会建設という問題が生じた。
〔…〕

 卒業により独立した教会建設の話が加速する。まもなく入手した一軒家を教会として『一つの教会』が実現する。第4章には、この教会を中心にした礼拝と信徒たちの生活、ついで独立を目指した苦闘が活き活きと描かれる。独立とはいずれの外国の教派にも属さず、経済的にも自力で維持される教会であり、聖書に記された原始キリスト教会の再現をみるような素朴な風景が展開する。
〔…〕

 内村は、自分たちは『互いに兄弟よりも密接な関係でなければならない』と信じた。
〔…〕その信仰共同体にあっては、『身分や地位や性別や職業や財産という区別はない。これは札幌のような宣教師も職業的牧師も存在しない辺境において、はじめて実現した夢の共同体であり、そこでの生活は、原風景として内村の心の奥深く焼きつき、やがて無教会キリスト教へと展開する。」
鈴木範久「若き内村鑑三と心の世界」,pp.369-371.



「新しい教会の規約は、およそ考えられるかぎり最も簡単なものでした。
〔…〕教会は5人からなる委員会により運営され、そのうちの一人が会計でした。〔…〕教会員のだれもが教会のために何かするよう求められました。だれ一人として怠ることは許されず、何もできないときには、のこぎりでストーブの薪をひかせましょう。だれもが教会の成長と発展とのための責任をもっていて、この点では『ミッショナリー・モンク』のO〔第1期生で最年長の大島正健のあだ名―――ギトン注〕も、私たちの教会では最もちっちゃな『松子』ちゃんも、同じ責任をもちました。もちろん、私たちのうち説教をしたいと思っている人は一人もいません。そこで『ミッショナリー・モンク』のO、『クロコダイル』のW〔第1期生渡瀬寅次郎のあだ名―――ギトン注〕、『聖公会員』のジョン、それにヨナタン〔内村鑑三の洗礼名―――ギトン注〕が順番に説教壇に上りました。

      
〔…〕

 3月6日――教会の建物に引っ越した。

 教会の2階の1室が私に提供されました。ただし無料ではありません。集会の場所の掃除、教会図書館の管理、管理人と用務員とのいっさいの仕事をしたうえに、なお部屋代として毎月2円を教会の会計に支払わなければならないのです。これほど便利な教会役員には、ほかにお目にかかったことがありません。この日から、私の部屋は仲間の兄弟姉妹のたまり場になりました。」

内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.102-103,112.







「札幌農学校第2農場」






あらすじA 《独立教会》の設立


「『いずれの外国の教派にも属さず、経済的にも自力で維持される教会』『聖書に記された原始キリスト教会の再現をみるような素朴な』内村鑑三らの信仰共同体は、“社会の荒波”に抗して自己を維持して行かねばならなかった。なによりも、彼らの母体になった外国のキリスト教教派が、彼らの“独立”を歓迎しなかった。そればかりでなく、彼らは周囲にいるキリスト教内外の日本人からも批判や諌止を受けたことが、内村の言葉のはしばしから窺われる。

 しかし、内村らにとって、外国教派からの信仰者としての『独立』と、日本人としての自立は、まったく同じことがらだったのであり、それを断念することはできなかった。

 《農学校》を卒業して《札幌独立教会》を創立した翌1882年の元旦、内村らは、函館メソジスト教会の牧師D氏から手紙を受け取る。その内容は、『独立』には賛成できないということ、そして、『独立』したいのであれば、集会所建設のために援助した費用を『電信為替で』至急返済せよ、というものだった。

 もともと、『独立』の意向については、内村らはD氏を通じて、メソジスト監督教会にも何度か話をしていた。にもかかわらず、メソジスト教会は、集会所建設費用として、本国アメリカから 400ドルの援助を送って来ていた。内村らは、それを受け取るべきではなかったのだが、見通しの甘さから受け取り、集会所の木造建物を建築してしまった。

 あとから考えれば、メソジスト教会は、援助金をテコにして彼らを宗派につなぎとめ、《札幌教会》をメソジストの下部組織にしてしまう意図だったと推測できよう。《農学校》を卒業して就職したばかりの内村らにとって、400ドルの返済は並大抵の負担ではなかったからだ。

 それでも、ニューイングランドに戻っていたクラーク博士から 100ドルの送金援助があったので、これを最初の分割返済金にあて、その後も仲間で生活を切り詰めて積み立て、同年12月28日に残金全額を完済した。こうして、《札幌教会》は名実ともに独立した。」






 【3】愛国心とナショナリズム




あらすじB 職業生活と“心の空白”‥‥そして渡米


「《札幌教会》が独立を達成した 1882年、内村自身は東京での任務のために帰京し、翌年札幌県(「開拓使」の改称)を辞任して農商務省農務局水産課に勤務、翌84年には、群馬県安中キリスト教会で知り合ったクリスチャンの女性と結婚する。

 しかし、この間、内村の心の中には、職業生活によっても、教会活動によっても、結婚によっても填めることのできない“空白”が、広がるばかりだった。内村は、

 『主は私の心に真空を造り出していざない出しました。家にとどまり何ものも失われない者には、荒野へ行く必要はありません。
〔…〕私は心内に抱える空虚、いかなる信仰上の仕事の活動によっても、あるいは科学上の実験の成功によっても充たされない空虚な存在が堪えられませんでした。』(pp.124-125)

 と書いている。けっきょく、結婚生活は半年余りで破綻し別居、その 11月、内村は米国に旅立った。

 岩波文庫版の解説者・鈴木範久氏は、結婚生活の破綻が渡米の最大の原因だったとしている。しかし、内村の『心の真空』は、結婚以前からあった。結婚の破綻も渡米も、『心の真空』の結果であったと考えたい。おそらく、東京で接することになったキリスト教各派の教会、‥‥札幌で経験した同志的な“信仰共同体”とはあまりにも異なるそのあり方が、内村の心に『真空』を作り出したのではないだろうか。オルガンと説教壇の完備した教会堂は、“魂のコミュニティー”などではなく、職業的聖職者と着飾った有産子女との社交の場であった。外国人宣教師らのあたりさわりない説教は、“異教”的心性との衝突に悩む青年の“心の闇”に踏み入ることがなかったのだ。

 アメリカに上陸した内村は、まず、知的障碍児養護施設の看護人となって、キリスト教慈善事業に身を投じた。『実際的な愛の事業こそキリスト教の本質ではないのか』
(p.134)という思いが、内村にはあったのだ。障碍児たちから、『ジャップ!ジャップ!』と罵りを浴びせられながら、そこで 7ヶ月を過ごした。」




「我が国にあっては望ましい満足を見いだせなかった私は、
〔…〕キリスト教国に、私の探求を拡げようと考えました。何百年にもわたり、キリスト教がもはや議論の余地のない力と影響とを持ってきたキリスト教国でこそ、私たち異教の出身者には想像もつかないほどの平和と喜びとが見いだされるにちがいない、真理のまじめな探究者ならだれでも容易にそれを手に入れることができるにちがいない、と想像したのです。〔…〕

 我が大地の忠実な子となるためには、我が国境を越えて広がる経験と知識と観察とを必要としたのでした。まず『人』となること、ついで『愛国者』となることが、私の外国行きの目的でありました。

      
〔…〕

 キリスト教国と英語を話す国民について、私は特別の尊敬の念をもってみていました。それは私の弱点みではありましたが、弁明の余地あるものでした。
〔…〕私は、りっぱなもの、有益なもの、進んでいるものは、ことごとく英語を介して学びました。私は、聖書を英語で読みました。〔…〕キリスト教国アメリカに対して、りっぱで敬虔で清教徒的であるとの考えを抱いていました。〔…〕ハレルヤとアーメンとは、町の日用語であると思っていました。

 
〔…〕まさに私の心に描かれたアメリカのイメージは聖地だったのです。」
内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,pp.140-141,146-147.


 



    






 《札幌農学校》の仲間たちとの“純粋培養”にも似た「共同体」のなかで信仰を培った内村にとって、その後の職業生活には、つらいものがあったと想像されます。

 家庭生活では、はじめは耳を傾けなかった父も、漢訳の『マルコ伝註解書』―――ならば、漢学に強い父は関心を持つだろうと考え、入手して渡した―――を読了してからは態度が変り、教会に通い、1年後に受洗しました。しかし、職業生活では、たえざる妥協を強いられていたにちがいありません。

 たとえば、儒学者であった父が、かつて鑑三に教え込んだ徳目のなかには、「覚めては握る天下の権、酔うては枕す美人の膝」というのもありました。妾囲いが、勉学を促す目標として、公然と奨励されていたのです。また、酒づきあいを、上下関係を円滑にするための必須の手段とする職業社会の習慣も、内村の禁酒主義と衝突したでしょう。

 一言でいえば、日本の「異教」の習慣の中で、内村は苦しんだにちがいありません。

 しかし、他方で、内村は、むしろ「異教」信仰のなかに生きる人にこそ、キリスト教近代国家にはありえないような、静かで安定した敬虔な精神を見てもいるのです。



祖母は働くために生まれました―――祖母は生くるは働くなり(vivere est laborare)でありました。―――40年の間、かよわい女の働きながら精いっぱい働きました。50年間のやもめ暮しにもかかわらず、女手ひとつで5人の子供を育て上げ教育を授けました。その間、決して近所の信頼を裏切ることなく、一度も借金をしませんでした。いまや祖母は84歳であり、
〔…〕その勇ましく戦い抜いた人生から解き放たれる日の訪れを心静かに待っているのであります。この祖母に見られるような気高い人生の情調が『異教国』にはあるのです。神学や哲学については論じうる人でありましても、祖母と同じ経験のない人は、祖母の神聖さに手を触れることはできません。」
『余はいかにして基督信徒となりしか』,p.19.



「祖母の信仰は、彼女を勤勉にし、忍耐強く誠実にしました。最後の息をひきとったときの祖母の顔は、後悔の念で曇ってなどいませんでした。祖母の信仰は平和でありましたが、私の信仰は懐疑のうちにあります。祖母を偶像崇拝者と呼び、その迷信をあわれみ、その霊魂のために祈った私は、わざわいなるかな。すでにそのとき、私自身は恐怖と罪悪と懐疑とにかき乱されて、底なしの淵にはまっていたのでした。」

op.cit.,pp.165-166.



「祖母の『異教的』信仰のなかにある平和と静寂とがしのばれました。」

op.cit.,p.192.



 内村の祖母――母方の祖母――の「異教」信仰とは、神社神道と習合した仏教に儒教が混ざったような、日本の一般的な庶民信仰でしょう。それは、祖母を「勤勉にし、忍耐強く誠実にし」た。また、安定した平和のうちに臨終の「日の訪れを心静かに待」つような完成した人生の境地を可能にした、ということです。

 それは、喧騒と犯罪と闘争(政治・宗教の争い)にみちたアメリカ合州国のような近代国家の社会では、ありえないことだったのです。






「『山にある者は山を見ず』とは中国の聖賢の言った名言です。
〔…〕

 その人が自国のうちにいるかぎり、その国のことはほんとうには解りません。その真の状態、すなわち大きな全体の一部であること、その善と悪、その長所と短所とを理解するためには、国から離れたところに立たねばなりません。」

内村鑑三『余はいかにして基督信徒となりしか』,2017,岩波文庫,p.168.



 国内にいて、まだ海外へ出たことがなく、キリスト教にも接していなかった頃、鑑三は母国について、つぎのようなイメージを持っていました:



「我が国は私にとり宇宙の中心であり世界の羨望の的でした。『大地は五穀を豊かに産し、気候は世界でもっとも穏やかである。風光にはまことに恵まれ、海と湖とは乙女の目のごとく、松の緑にいろどられた丘は乙女の三日月形の眉である。国土は霊気にみなぎり、まことに神々のすみか、光の泉である。』」

『余はいかにして基督信徒となりしか』,p.169.



 しかし、《札幌農学校》でキリスト教に入信「させられた」時、すべては逆転した。


「私は『遠く遠く離れたところにある幸福な国々』について聞かされました。」


 そして、日本は、いまだキリスト教の恩恵が及んでいない「ろくでもない国」、遅れた・あわれな「異教徒」たちの境域だということになってしまった。

 こうして、いまだ神の恩恵の及んでいない“異教の国”を、欧米のように“幸福なキリスト教国”にすることが、内村の新たな目標になりました。しかしその動機は、宗教的というより、実利的、政治経済的なものでした。



「新しい信仰は、その本来の精神的価値によらずに、実利的な目的、たとえば幸福な家庭とか自由政府とかのために受容されていました。『我が国を欧米のように強大にすること』が私の生活の最高目的であり、私はキリスト教をこの意図を実現する力のある優れた」エンジンと思い歓迎したのでした。そして、なんと多くの人びとが、キリスト教を社会的、政治的理由によって今なお受容していることでしょう!」

『余はいかにして基督信徒となりしか』,p.188.



 つまり、日本近代(明治〜大正)のキリスト教は、近代化ナショナリズムと強い結びつきを持っていたのです。

 もっとも、近代日本人のキリスト教受容のしかたは、実際にはさまざまであり、内村らのように素朴な“信仰共同体”を核に持つ者は、むしろ少数でした。藩閥政府の権力者に係累を求め、政商のように国家権力の後援を受けて瀰漫するキリスト教もありました。一部のプロテスタント宗派は、植民地とした朝鮮に積極的に伝道し、朝鮮元来のカトリック信徒に対する日本軍の虐殺(ジェノサイド)を容認しながら勢力を広げていきました。

 内村鑑三は、どんなナショナリストとなったでしょうか?

 キリスト教国であるアメリカ合州国に、「聖地」のような幻想を抱いていた内村にとって、渡米して最初の衝撃は、「聖地」の理想通りでない姿―――母国よりもはるかに“神に遠い”と思われる実態を、目の当たりにしたことでした。













 アメリカ合州国の“神に遠い”実態とは、まず拝金主義神への冒涜です。港にも街にも、スリ、置き引き、窃盗が横行していました。家の外も中も、あらゆる場所に鍵がかけられているのを見て驚愕しました。親切にしてくれる黒人は、みな最後には代価を要求しました。「天」「悪魔」「神」といった聖書の言葉を、人びとは日常的に叫んでいましたが、それはみな脅迫か罵詈雑言でした(英語では、「こんちくしょう!」「ばかやろう!」といった意味で使われるのです)。



「キリスト教国には、パウロやケパ
〔ペテロのこと―――岩波文庫註〕が説いた福音とは別に、もう一つの福音があるようです。〔…〕その福音はこのように説きます。

 力は正義であり、金がその力である。」

『余はいかにして基督信徒となりしか』,p.159.



 第2に、人種差別です。街で東洋人を見かけた白人は、誰かれかまわず、


「おい、ジョン!」


 と怒鳴って呼び止め、自分の下男のようにこき使おうとします。そもそも、この広いアメリカの国土すべては、「銅色の皮膚をした森林の子たち」から「数多くの残忍かつ非人道的なやり方で」奪い取ったものにほかなりません。そして、彼ら先住民は現今においても、「相変わらず」「野牛」や牧場の「羊同然にみなされ、野獣のようにわなをかけられたり狩られたりしています。」(p.154)

 折りから合州国では、中国人移民に対する排斥運動が起きていました。



「キリスト教国のアメリカ人が中国人に反対する主な理由は、次の三者であると私は理解しています。

 一、中国人は、貯金を全部母国に持ち帰り、アメリカを貧しくしてしまうということ―――つまり、彼らがアメリカ人の気に入るためには、そのアメリカで稼いだものを残らず使い果たして、空手で帰らなくてはならないのです。勤勉と貯蓄の教訓をみずからに説く国民から聞く教えとしては、奇妙なものです。
〔…〕私たちの国に来るアメリカやヨーロッパの商人、学者、技師たち―――〔…〕私たちが彼らのそれぞれに、金貨で200ドル、300ドル、400ドル、500ドル、800ドルと支払っているというのに、ふつうはその3分の1すら我が国で使うことなく、残りを母国での安楽な生活を購うために持ち帰るではありませんか。〔…〕中国人が、ロッキー山脈を貫通する鉄道を敷く仕事を手伝い、カリフォルニアでブドウを植え水を注いだあと、アメリカでの所得を一切置いて行かなくてはならない法律が、天下のどこにありましょうか。自称キリスト信徒たちは、無防備な異教徒に銃口を向けたり、乳を含ませている母の胸からみどり子を奪い取るようなやり方で、金を手に入れることが多かったのに、中国人たちは何もせずに、金を持ち去ろうとしているわけではありません。彼らは、持ち帰るだけの金に匹敵する仕事を後に残しているのです。〔…〕私たち『あわれな異教徒』は、お雇い外国人を栄誉と儀式でもって送りますが、『祝福されたキリスト信徒』の彼らは、私たちを嘲笑して蹴り出すのです。こんなことがあってよいのでしょうか。おお復讐の神よ!

 
〔…〕もしもアメリカで無力な中国人に対し加えられている侮辱の半分でも、我が国にいるアメリカ人やイギリス人に加えたならば、どうなるでしょう。私たちは、さっそく砲艦のお見舞を受けるでしょう。

 
〔…〕広東出身の貧しい苦力(クーリー)たちがアメリカ人から受けているあらゆる侮辱と辛苦を自分の身に感じてからは、私の理性と感情とが平静に保たれていたのは、かろうじてキリスト教的忍耐があったからにすぎません。」
『余はいかにして基督信徒となりしか』,pp.156-157,159,162.






 






 それでは、このようにキリスト教の理想からは程遠いアメリカから眺めた母国は、内村には、どのように見えたでしょうか? たしかに、外国に出て苦労をする者は母国を見直します。内村も例外ではありません。

 しかし、それはもはや以前のように、そこにあるがままで「世界で最も美しい国」‥ではなくなっていました。








ばいみ〜 ミ



 
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