06/13の日記

13:05
【宮沢賢治】外山の夜―――同性へのセレナーデ(7)

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盛岡市乙部   








 こんばんは (º.-)☆ノ






 文語詩「セレナーデ」とその周辺を洗っています:

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(1)

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(2)

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(3)

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(4)

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(5)

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(6)






 【16】じっさいにあった殺人事件



 前回引用した小沢さんの論文の中で、「重瞳の妻」を「異才」と表現していたのが的確に思われました。

 歴史上の「重瞳」の人物も、その特徴をひとことで表せば、「異才」と言ってよいのではないでしょうか? 常人にない特異な能力と、それを支える芯の強い意志、秘められた気高さ、闇の中を疾駆するような隠れた烈しさ―――それが、宮沢賢治のとらえた「重瞳」の情念、心性なのかもしれません。






 そのときに酒代
〔さかて〕つくると、夫(つま)はまた裾野に出でし。
 そのときに重瞳の妻
(め)は、  はやくまた闇を奔りし。
 柏原風とゞろきて、      さはしぎら遠く喚
(よば)ひき。
 馬はみな泉を去りて、     山ちかくつどひてありき。

『文語詩稿五十篇』〔そのときに酒代つくると〕〔定稿〕




「2連とも書き出しが『そのときに』であり、一気に劇の中へ飛びこんでしまう
〔…〕『そのときに』が2回繰り返して使われていることは、夫の行為に対し、間髪を入れず妻の行為がなされたことを表わしている。その上、夫の行為にも妻の行為にも『また』が冠されていることで、夫婦それぞれの行動が習慣的に何回も繰り返されていることがわかる。」
小沢俊郎「重瞳の妻」in:栗原敦・他編『小沢俊郎宮澤賢治論集 3 文語詩研究・地理研究』,1987,有精堂,p.18.



 小沢氏は、このように解説していますが、「夫」が、何をして「酒代」を作るのか、「妻」が何のために「闇を奔(はし)」るのか、この〔定稿〕のテクストから読み取ることは、じっさいには困難です。氏は、テクストを精読すれば事情がわかると言うのですが、氏自身も、ほんとうは逐次稿から読み取ったことを、〔定稿〕の字句に関連づけて、そこから読み取ったかのように述べているのではないか‥‥そう思われるのです。

 やはり、これら“文語詩定稿”は、作者が夭折しなければ、より大きな叙事詩的作品の部品となったであろうような、いわば“半製品”としてまとめられたと思うのです。〔定稿〕のテクストだけで作品の意味が読み取れなくても、それはまだ部品なのだから、しかたのないことなのです。

 もっとも、小沢氏が説明されるとおり、「奔」には、「正式の礼を経ずに結婚する」という意味があり、「淫奔」(性関係がみだらなこと)「私奔」(駆け落ち)などの熟語があります。小沢氏によれば、「奔女」(駆け落ちする女)という言葉もあるそうです。それにしても、「奔(はし)る」の語だけで、情夫のところへ行くことを想像させるのは無理でしょう。「奔走」「奔放」「狂奔」いずれも、性行為の意味はないのですから。













 〔定稿〕に、「妻」の不倫をほのめかす部分があるとしたら、むしろ「重瞳」ではないかと思います。(D) の外観イメージならば、たがいに矛盾する2つの視線を追っているような、分裂した心中を思わせなくはありません。心中に分裂を秘めた、謎めいた眼。

 そして、「重瞳」が、小沢氏の指摘する「奔」とあいまつならば、たんに“二重の目と心”を持つだけでなく、それを「はやく」――ただちに、烈しい行動に移す“貴人の魂”を装えた女性像が、浮かび上がります。



「こうして、夫は野へ、妻は男への行為が繰り返される生活(すでにドラマである)のさ中へ、たった2行で読者は連れこまれてしまう。
〔…〕

 
〔…〕第3・第4連では、〔…〕底深く沈んだ裾野の夜が描かれている。柏の原生林に夜風がとどろき、遠くさわしぎの呼ぶ声が響き、何か起りそうな不安な感じが聴覚を中心に表わされている。〔…〕詩の後半2連は自然描写であるが、その描写を通して緊迫感・不安感を感じさせる。描写された自然は闇に消えた夫と妻のドラマのなりゆきと直接的には関わりないのだが、その緊迫感と不安感が二人の運命に重なり、異様な雰囲気を湛えた時の刻みが生れている。」
小沢俊郎「重瞳の妻」,op.cit.,p.19.



 小沢氏は「後半2連は……夫と妻のドラマのなりゆきと直接的には関わりない」としていますが、そんなことはないと思います。放牧馬の群れが、「泉を去りて、 山ちかく」に集まっているのは、馬泥棒の「夫」の手から逃れるためでしょう。馬たちは、いつもは「泉」(「馬返し」に現在もある自噴泉でしょう)の近くにいるので、「夫」も馬を捕らえにそこに来るので、馬たちは避難しているのだと理解できます。

 その状況は、「妻」が一時的にせよ「夫」の手を逃れて、密夫のもとへ「奔」ることと通底します。「さはしぎ(ヤマシギ)」の


 グウ グウ キッ …… グウ グウ キッ ……


 という鈍い啼き声(「さはしぎ」鳴き声【音源】⇒:同性へのセレナーデ(4)【10】)も、



「さはしぎら遠く
(よば)ひき。」


 とあるように、「呼ばひ」、すなわち求愛行動です。「呼ばひ」は、近代になると「夜這い」などと書かれますが、もともとは男が女の名を呼ぶことで、「呼ばふ」は何度も呼ぶ意。


〔…〕 この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告(の)らさね 〔…〕 われこそは 告らめ 家をも名をも」


 という『万葉集』の歌からわかるように、上古代には、人に自分の名前を呼ばせることは、相手に身も心も許す意味があったのです。

 サワシギの「よばひ」は、性行為の相手を呼び求める声であり、「妻」を放縦な性の渦中に呼び寄せているかのようです。灌木の闇に沈むような、その低い地啼きが示すのは、底のない暗い深淵なのです。



「夫が外へ出るや否や妻も密夫のもとへ奔るという、夫に目もくれぬ烈しさである。この烈しさへの推敲は、妻の行為への賢治の考えをより明確に示したものと思われる。
〔…〕

 それら
〔詩の後半――ギトン注〕の自然描写に重ねられているのは、生活の荒びの中で卑小な夫から一時の解放を求める妻の思いと、その行動が生む悲劇的結果への不安と緊張ではなかろうか。」
小沢俊郎「重瞳の妻」,op.cit.,pp.22-23.



 「悲劇的結果」―――小沢氏がこの論文を書いた時点では、これらの作品にモチーフを提供した“事件”が、じっさいに 1919年に柳沢部落で起きていたことは、まだ知られていませんでした。にもかかわらず、テクストから「悲劇的結果」を感じとった小沢氏の洞察力は、驚嘆に値します。

 榊昌子氏によれば、それは次のような事件でした。



「大正8年7月19日未明、滝沢村で殺人未遂事件が起こった。内縁の夫が妻に情夫のあることを疑い、凶行に及んだものである。妻が一命を取り留めたので未遂に終ったのだが、20日の『岩手日報』は、『瀧澤の女房殺し』というセンセーショナルな見出しを掲げて大々的に事件を報じた。

 『日報』によれば、加害者の夫は、これより 11年前に自分の情婦の夫を殺害するという事件を起こしている。捕らえられて北海道樺戸集治監に送られたが、恩赦により大正6年出所。実家のある滝沢村大更に帰った。その後前科を隠して未亡人であった被害者と同棲。しかし、やがて夫の過去を知った被害者に疎まれるようになる。被害者が先夫の弟と通じているという風評を真に受けて殺意を抱き、鎌で喉を滅多切りにしたというのが事件の顛末である。九死に一生を得た内縁の妻は、『瀧澤村大字柳澤322ノ2巌手山神社々務所下』で『旅人宿業』を営む女性であった。」

榊昌子『宮沢賢治「初期短篇綴」の世界』,pp.172-173.






 






「重瞳の眼を持っているとされた
〔…〕舜・項羽・顔回等々、列挙された名は非凡の大人物たちである。〔…〕

 この詩の『重瞳の妻』も、大物として設定されていると読むことができよう。小人物の夫に配する大人物の妻という組み合せの下で、妻が密夫のもとへ奔ることを、賢治は一概に非とすることができなかった。むしろ、その切なさに同情に近いものを抱いた
〔…〕

 下書稿(一) の第1形態では、男を待つ妻を『あやしく』と表現した。推敲時に妻の方から男の許へ行くと設定を変えた時、『あやしく』は削られ、代って背景にある焼石の山塊に対し『けしく』の語が与えられた。
〔…〕人間の妖しさが、自然の怪しさに移ったのである。〔…〕

 
〔…〕女性が不当な忍従を強いられている時代の中で、非凡な力を内蔵するゆえに、性という面から自己解放を求めずにいられなかった一人とされている。

 
〔…〕抑圧された女性が遂にこらえきれずに抑圧をぶち破らずにいられなくなった時の悲しく暗い爆発を描いたのである。〔…〕それは、古く重い村の中で、ほかにどのような突破口も見出せぬ、力量ある女にとって、残された唯一の方法と思われたものだったのだ。」
小沢俊郎「重瞳の妻」,op.cit.,pp.24,26.



 「重瞳の妻」を「大人物」とするのは、核心を外れている感じがします。やはり、「重瞳」の人は、「異才」をもつ「貴人」でよいのではないでしょうか。そして、その「重瞳の妻」の行動とそれを描く賢治の心情を、「切なさ」「同情」と読むのも、やや見当違いに思えます。むしろ、「重瞳」の謎めいた「あやしい」眼がうかがわせる内心の闇は、サワシギの呼ばう原野の深い闇と呼応しているのです。


 前回引用したように、〔下書稿(一)手入れ@〕には、


「重瞳のその妻は家内にしも
 はやくまた暗を奔りて
 みそかをの戸や叩くらん
 そこにたゞ杉のみくろし


 という部分がありました。「妻」が密夫の家の「戸を叩く」かたわらで、杉の樹立ちのシルエットだけが黒く聳え立っている光景は、初期散文『女』の描写を想起させます:



「そらのふちは沈んで行き、松の並木のはてばかり黝んだ琥珀をさびしくくゆらし、

 その町のはづれのたそがれに、大きなひのきが風に乱れてゆれてゐる。気圏の松藻だ、ひのきの髪毛。

 まっ黒な家の中には黄いろなラムプがぼんやり点いて顔のまっかな若い女がひとりでせわしく飯をかきこんでゐる。

 かきこんでゐる。その澱粉の灰色。

 ラムプのあかりに暗の中から引きずり出された梢の緑、

 実に恐ろしく青く見える。恐ろしく深く見える。恐ろしくゆらいで見える。」

 段落の1行空けは引用者。



 黄昏の風に乱れて揺れる「大きなヒノキ」、また、夜の闇に黒く聳え立つ杉の樹、それらの光景が表しているのは、暗く鬱屈した性の欲望でしょう。人の意識を超え、かえって人を支配して行動に駆り立ててゆく欲望が、自然物の光景の「あやしさ」と呼応しているのです。



「    
〔…〕
 はやくまた暗を奔りて
 みそかをの戸や叩くらん
 そこにたゞ杉のみくろし

 焼石の黒きたゞずみ
 風鳴るは柏の群か
 山の上にちらとひかりて
 青き星ふたゝび消えぬ
 そこをかも雲の行くらん
 野のはてのわづかに明き
 あゝあらき風のなかにも
 さはしぎはよばひて鳴らす」

『文語詩稿五十篇』〔そのときに酒代つくると〕〔下書稿(一)手入れA〕






 






 【17】《イーハトーヴ》を超えて



「『69〔どろの木の下から〕』は、盛岡から外山まで、夜を徹して歩いた時のスケッチである。
〔…〕

 外山へ至る道で、とある農家のそばを通った時、その家の馬の胸に吊されたと覚しき鈴の音を聞いた。夜の歩行と眠さで却って過敏になった意識は、馬盗人に間違えられるのではという罪障感にとらえられるのである。」

榊昌子『宮沢賢治「初期短篇綴」の世界』,pp.168-169.



「    
〔…〕
 ひるの仕事でねむれないといって
 いまごろこゝらをうろつくことは
 ブラジルでなら
 馬どろぼうに間違はれて
 腕に鉛をぶちこまれても仕方ない」

『春と修羅・第2集補遺』〔どろの木の根もとで〕〔下書稿手入れA〕=『第2集』#69〔どろの木の下から〕〔下書稿(三)手入れA〕より。



 しかし、この「罪障感」は、じっさいにナイト・ハイクをした 1924年の時点では、(4)で引用した初稿(↓)のように、意識下から間歇的に現れる混乱した想念にすぎませんでした。しかも、「馬盗人」とまちがえられるのは、あくまでも第三者です:



「  ……誰かが馬盗人とまちがへられて
     腕にピストルを射込まれた……」

『春と修羅・第2集』#69〔どろの木の下から〕1924.4.19.〔下書稿(一)〕より。



 ところが、1928年頃以後の改作形と思われる(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,pp.131-132.参照)〔下書稿(三)〕では、この想念が追体験によって肥大化しています。そして、語り手自身が「馬どろぼうに間違はれて/腕に鉛をぶちこまれても仕方ない」という、攻撃が自分に向かってくる危惧におびえているのです。

 これは、路傍の農家をはじめとする“むら”の人びとに対する恐れの観念
(28年労農党大弾圧後の情勢と関連か)ですが、1929年以降に書かれた『疾中』詩篇になると、それ以上に、“自然”に対する恐怖の意識が顕著になります。



 おもてで風が呼んでゐる
 起きあがり
 赤いシャツと
 終りのぼろぼろの外套を着て
 暗いみぞれの風のなかに出て行き
 葉のない黒い林のなかで
 早くわたくしと結婚しろと
 風がおもてで叫んでゐる

『疾中』〔風がおもてで呼んでゐる〕〔下書稿(一)〕



 その恐ろしい黒雲が
 またわたくしをとらうと来れば
 わたくしは切なく熱くひとりもだえる
 北上の河谷を覆ふ
 あの雨雲と婚すると云ひ
 森と野原をこもごも載せた
 その洪積の台地を恋ふと
 なかばは戯れに人にも寄せ
 なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
 青い山河をさながらに
 じぶんじしんと考へた
 あゝそのことは私を責める

      
〔…〕

 あゝ友たちよはるかな友よ
 きみはかゞやく穹窿や
 透明な風 野原や森の
 この恐るべき他の面を知るか

『疾中』〔その恐ろしい黒雲が〕



 宮沢賢治は、『春と修羅・第1集』の時代にも、またそれ以前の初期短歌の時からすでに、“自然”の中にある怪異なものに対する畏怖の意識は、顕著にあり、作品にもそれを表現していました。しかし、それは、現実の恐怖というよりは、幻視による畏怖というべきものだったと思います。それらは、「かゞやく穹窿や/透明な風 野原や森」の美を享受し、“自然”との一体性を求める意識と矛盾することはなかったと言えます。

 しかし、いま、自分が死ぬかもしれない病床にあって、「暗いみぞれの風」や「黒い林」「恐ろしい黒雲」が、約束通り「早くわたくしと結婚しろ」、俺たちと一体になれと叫び、捕って行こうとすることは、作者にとって現実の死の恐怖にほかならないのです。それは、かつて《心象スケッチ》の対象として馴れ親しんだ“自然”とは異なる、その「恐るべき他の面」として感じられたのです。

 こうした体験を経て、1930-31年ころ開始された『文語詩稿』の編集と書き下ろしでは、“むら”に親和せず流れる者や、“むら”の常軌からドロップアウトした男女の行動に焦点を当てるなど、窮乏した農村の現実と底暗い闇を、その外部から見る視線が現れてきます。同時に、それらの「人間ドラマ」を包みこむ“自然”の役割も、“自然”共感にみちた『春と修羅・第1集』の時期とは、大きく異なる相貌を呈してくるのです。













【同性へのセレナーデ】――終り。 








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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