05/20の日記

02:11
【宮沢賢治】外山の夜―――同性へのセレナーデ(2)

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Gaston Goor   








 こんばんは (º.-)☆ノ






 文語詩「セレナーデ」とその周辺を洗っています:

 外山の夜―――同性へのセレナーデ(1)






 【4】東京での文筆活動



 宮沢賢治は、1921年1月に、突然家出のようにして上京した後、文京区本郷の菊坂下町に下宿して、昼間はアルバイトと図書館通い、夜は“日蓮主義”『国柱会』の布教活動に献身し、


「その間に爆発するような勢いで原稿を書いた。そのときのことを、小学校の恩師、八木英三につぎのように話したそうである。

 『
〔…〕1ヵ月の間に、三千枚書きました。そしたら、おしまいのころになると、原稿のなかから一字一字とび出して来て、わたしにおじぎするのです。……」

 このころ書かれたものも現在残っていて、全集にみな発表されているのである。」

宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,p.252-253.


 などと言われています。もちろんこの話は“伝説”というべき誇張です。賢治の話を伝えた八木英三氏自身が、賢治は、やってくるといつもホラばかり吹いて、自分は眼が良いからマゼラン星雲(北半球では見えない)が見えるなどと言った。ところが彼は有名になってしまったので、生前の本当の彼について人に話すことはできなくなった、と書いているのです。

 清六氏が引用している八木氏の“証言”は、宮沢賢治の“大ボラ”の例として語っていると見なければなりません。

 じっさいには、賢治は、『国柱会』には、上京早々訪ねて門前払いをくわされ、それでも日参して、昼休みの田中智学の街頭演説でサクラをしたり、夜の講演会の裏方を手伝ったりしたのは、せいぜい3月ころまで。東大生から借りた講義ノートを謄写印刷してニセ学生に売りつける『文信社』といういかがわしい店でアルバイトをしていたのも、そのころまでで、4月以降は、父から仕送りを受けながら、上野公園にある『帝国図書館』(現・国際子ども図書館)に通って、「原稿を書いたり綴ぢたり」(賢治書簡)している、という生活でした。



 【参考記事】
(賢治の下宿)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(21)

 【参考記事】
(賢治の下宿周辺)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(3)

 【参考記事】
(文信社)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(4)

 【参考記事】
(上野公園、図書館)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(8)

 【参考記事】
(帝国図書館――『図書館幻想』の舞台)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》荒川の碧き流れに(30)

 【関連記事】
(出京までの経緯)⇒:【宮沢賢治】ゼロからのエクリチュール(4) (5) (6)



 清六氏は、東京で賢治が書いた童話などが、「現在残っていて、全集にみな発表されている」と書いていますが、これも疑わしい話です。現在私たちが目にする賢治童話のなかで、東京で執筆されたと考えてよいものは、ごくわずかなのです。

 榊昌子氏によれば、《10/20(イ)イーグル印》という原稿用紙は、この時東京で購入されたもので、それに書かれた草稿は、東京での執筆の可能性が高いとされます。ギトンも、この推定に賛成です。具体的に作品を挙げると:


『双子の星』『貝の火』『蜘蛛となめくぢと狸』『月夜のけだもの』『畑のへり』『ひのきとひなげし』『いてふの実』『若い研師』『毒もみのすきな署長さん』


 の全部または一部が、《(イ)》用紙に清書されています。賢治が東京から出した書簡のなかで、図書館ないし執筆活動に言及したものは2通([193][195])あって、いずれも 6月に出されています。《(イ)》用紙が書簡に使用されるのも、[193]が最初です。したがって、原稿用紙を買って、本格的に童話などを書いたのは、6月以降と思われるのです。

 関徳弥宛ての書簡[195]では、図書館で「原稿を書いたり綴ぢたり」していると書いていますが、たしかに、『蜘蛛となめくぢと狸』『月夜のけだもの』の草稿には綴じ穴が残っています。『月夜のけだもの』は、『帝国図書館』への行き帰りの道筋にある『上野動物園』が着想に関わっているでしょう。ほかの7作品の綴じ穴は未調査ですが、今後ぜひ調査したいと思っています。













 童話以外の散文では、


『電車』『床屋』


 の2作が、在京時の習作と思われます。現存稿は、1922年ころの清書と推定されますが、付された日付は、いずれも「1921.6.-」であり、路面電車の中と床屋での会話を内容としています。

 短歌には、東京生活の途中、3月末ないし 4月初めに父と行った関西旅行の旅詠 42首、4月の東京・荒川堤での花見 7首があります。

 ほかに、詩の習作と見られる短詩・多数が、『東京ノート』にまとめられていますが、この 1921年在京時に書かれたメモ書きを清書したものと考えられます(榊昌子『宮沢賢治「初期短篇綴」の世界』,pp.264-267)。

 前回に引用した戯曲断片〔蒼冷と純黒〕は、8月に東京から出した書簡中に同封されていたもので、書簡も、戯曲も、《(イ)》原稿用紙に書かれています。東京で執筆されたことが確実です。

 『愛国婦人』1921年9月号に掲載された童謡『あまの川』、同誌同年12月号に掲載された童話『雪渡り』も、在京時の執筆と考えられます(同,pp.282-283,292-294)。榊氏の推定では、『あまの川』は「六月頃」執筆して、7月初めに投稿、『雪渡り』も、在京時に出版社に持ち込んで、その内容から冬季掲載用として採用されたと見られます。

 しかし、これらがすべてなのです。

 宮沢賢治の現存作品のなかで、1921年の在京時に書かれたと、根拠をもって言えるものは、以上がすべてなのです。なるほど、じっさいに書かれたものの大部分は、とるに足りない習作で、破棄されてしまったかもしれないし、帰郷後《(イ)》用紙を使い終ったあとで、他の用紙に清書されたものもあるかもしれない。それにしても、「1ヵ月の間に、三千枚」(執筆が 6〜8月の 3ヶ月間だけだったとしても 9000枚!)にはほど遠い量です。

 そもそも、原稿用紙は、当時何枚を一束にして売っていたでしょう? 洋半紙ならば、ひと〆1000枚ですが、原稿用紙は、一束100枚ではないでしょうか? 在京時に購入したと考えられる原稿用紙が《(イ)》1種類であることを考えると、執筆したのは 100枚ないし 200〜300枚以下。少なくとも清書段階に至った量は、その程度にすぎなかったのではないか?―――と思われるのです。






 【5】保阪との再会



「お葉書拝見致しました。
 暑くっておひどいでせう。
 私もお目にかゝりたいのですがお訪ね出来ますか。
 あなたの貴重な日曜日を私の所へお潰しになってはあまりお気の毒です。見習士官なら外泊でせう。
 どうです、御都合のいゝとき日比谷あたりか、植物園でゞも、又は博物館でゞもお待ち受けしませうか。
 私は相変らずのゴソゴソの子供ですから名誉ある軍人には御交際が不面目かも知れませんよ。
 私は夜は大低八時頃帰ります。
 いづれお目にかゝれるかと思ひます。

さよなら 
    七月三日夜
宮 沢 賢 治
   保 阪 嘉 内 様」
宮沢賢治書簡[194] [1921年]7月3日付 保阪嘉内宛て より。


 ↑7月3日付保阪宛ての書簡が残っています。

 賢治の保阪宛て書簡を 35年ぶりに公開した『宮沢賢治 友への手紙』の編者・小沢俊郎氏の解説以来、賢治と嘉内は、高等農林以後会っておらず、この時が3年ぶりの再会だったと言われてきました。

 しかし、それにしては、「どうです、御都合のいゝとき日比谷あたりか、植物園でゞも、」という言い方が、気になります。高等農林時代、二人は、東京で会ったり待ち合わせをしたことはありません。にもかかわらず、「又」とは、どういうことでしょうか?

 盛岡高等農林を一方は卒業し一方は退学して、岩手県花巻と山梨県韮崎に離れて暮らしていた・この3年間のあいだに、二人は東京で会ったことがあったと考えねばなりません。‥‥しかも、何度か会っているかもしれない。






 






 その機会としては、つぎの2つが考えられます:



@ 1919年1月〜2月

A 1921年4月



 まず、@ですが、東京の日本女子大学校にいた妹トシが急病で入院したため、賢治と母が、1918年暮れから上京して下宿し、トシの看護と世話をしています。19年1月15日に母は賢治を残して帰花。2月下旬にトシが退院し、下宿先で療養、その看護のために母と叔母が上京します。この1月15日から2月下旬までの間は、東京の下宿先に賢治が一人で居たわけで、この間に、保阪の訪問を受けた可能性が考えられるのです。

 翌 1920年と推定される 7月22日付の保阪宛て書簡[166]には、


東京デオ目ニカヽッタコロハコノ実際ノ行路ニハ甚シク迷ッテヰタノデス」


 と書いた部分があります。賢治と嘉内が「東京デ」会った「コロ」とは、前年春の賢治在京時以外考えられません。

 しかも、ちょうどこの 1〜2月の間に、保阪は、盛岡にいた河野義行(保阪と同級)に、盛岡を訪ねて同級生らに会う旨書き送ったものの、けっきょく盛岡には 3月8日すぎまで現れなかったということがありました(大明敦・編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,p.86; ders.:「宮沢賢治の書簡『あなたはむかし…』の位置」in:『京都語文』,17号,2010.11.)。保阪は、1〜2月中に盛岡へ行く計画で山梨県を出発したものの、その途上、東京で賢治に会い、賢治のところで長逗留してしまったために、‥‥あるいは、賢治に日蓮宗への改宗をしつこく迫られたショックで、けっきょく盛岡にはたどり着かなかった。そのあと、3月に改めて盛岡を訪問したのではないか、―――そのようにも考えられます。

 この時の賢治・嘉内の会見に由来すると思われる自作歌「とらよとすればその手から…」――19年1月、女優松井須磨子の自刹をきっかけに流行したオペラ『カルメン』挿入歌の替え歌――が、賢治の『春と修羅・第1集』収録「習作」に取り入れられている一方、『家庭歌』として保阪家に伝わっています。@の会見、ないし同宿は、直接の証拠はないものの、確実視する意見が多いのです。

 なお、さきほど引用した 1921年7月の保阪宛て書簡に、待ち合わせ場所として、


「日比谷あたりか、植物園でゞも、又は博物館でゞも」


 とありました。「植物園」は、小石川の東京大学付属植物園、「博物館」は、上野の国立博物館ですが、「日比谷あたり」は、1919年1月に松井須磨子の『カルメン』公演があった『有楽座』の付近を指すものでしょう。証拠はないものの、1919年に賢治は保阪と落ち合って、この公演を見たとする意見もあるのです。



 【参考記事】
(日本女子大学)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(15)

 【参考記事】
(日比谷・有楽座)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(16)




 Aについては、1921年の東京滞在中の賢治の短歌に、千住・荒川堤の桜を花見に行った際の7首があります。当時、北区西ヶ原にいた高等農林での恩師・関豊太郎に同行したことが考えられます。“千住”とはいっても、「荒川堤の桜」は、現在の千住ではなく、足立区新田・江北付近にありました。そこは、北区西ヶ原から直近の場所なのです。



 【参考記事】
(西ヶ原から荒川堤へ)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》荒川の碧き流れに(14)

 【参考記事】
(荒川堤の桜)⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》荒川の碧き流れに(15)



 その短歌のなかに、


      ※

 汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをながめたつかも

『歌稿B』#812.


 といったものがあることから、関教授のもうひとりの教え子である保阪嘉内も同行していたと推定する見解があります(宮沢俊司「隅田川」, in:宮沢賢治研究会・編『宮沢賢治 文語詩の森・第二集』,2000,柏プラーノ,pp.189-197.)。この短歌を文語詩に改作する過程の下書稿には、つぎのような逐次形もあります。



 甲斐より来たる汝が弟子
 酔はずさびしくそらを見る

『文語詩未定稿』「隅田川」〔下書稿(一)〕







Ruslahka






 もし、21年4月に二人が会っていたとすれば、7月の再会は2ヶ月ぶりで、それほどひさしぶりではないことになります。にもかかわらず、


「私は相変らずのゴソゴソの子供ですから」


 と手紙に書いている点は、疑問がなくもありません。しかし、このことは、4月と7月とでは、保阪の立場がまったく変ってしまっていることを考えれば理解できます。

 保阪は、前年1920年11月末に東京での兵役を終え、韮崎に帰っています。ちょうどそれと入れ替わりのように、賢治が翌1月に上京したわけです。軍曹に叙階されて現役から除隊した保阪は、翌19年7月1日から9月30日まで、「甲種勤務演習」に召集され、見習士官として上京します。

 もちろんこれは、当時の兵役(保阪の場合は「一年志願兵」)では、まったく予定された昇進でした。しかし、徴兵検査に不合格となって以来、軍隊の事情に疎くなっていた賢治は、保阪が急に上京して、兵営(おそらく当時皇居内にあった教育総監部)に見習士官として勤務しはじめたとの知らせは、寝耳に水だったかもしれません。同輩の友人が急に偉くなってしまったような衝撃を受けた可能性はあります。


「私は相変らずのゴソゴソの子供ですから名誉ある軍人には御交際が不面目かも知れませんよ。」


 1月に上京して以来、賢治は保阪に手紙を出すたびに、『国柱会』のプロパガンダを長々と書いて、しつこく「帰正」を迫っていました。ところが、7月3日付の上の書簡では、日蓮宗についての一言さえ出て来ないのです。



 ところで、ここで問題になるのは、〔蒼冷と純黒〕が、いつごろ書かれたのかということです。それを、保阪に会った後で書いたと見るか、会う前に書いたと見るかで、この戯曲の読み方は、大きく変って来ざるをえないからです。

 『宮沢賢治 友への手紙』での小沢俊郎氏の解説以来、賢治と嘉内は、この 1921年東京での再会をきっかけに「訣別」したとされてきました。菅原千恵子さんの議論も、この通説の上に組み立てられていると言えます:



「賢治にとって人生の目的、その望みや願いとはいったい具体的にどんなことなのかを嘉内は再会を前に問うて来たのではなかったか。しかし、この時の賢治にしてみれば、嘉内を何とか国柱会の門下にすること以外何も見えていなかった
〔…〕

 そして賢治にはその答えが見いだせぬまま、とうとう再会の日がやってきた。
〔…〕

 賢治は自分の人生の目的は何かという答えを用意できぬまま嘉内と対面。懐かしさと喜びのうちに果たされるはずの面会は、宿命的な宗教論となり、二人は互いに深い傷を負って別れた。」


 賢治は、
「二人の訣別をほのめかすような書きなぐりの作品〔[蒼冷と純黒]――ギトン注〕を関徳弥に送った」
菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,1991,角川文庫,pp.106-107,109.



 賢治・嘉内「訣別」説の大きな論拠は、つぎの4つと思われます:


@ 嘉内の日記の 7月18日の欄に、「宮澤賢治 面会来」と書かれ、斜線が引かれていること。

A 賢治が嘉内に宛てて、「訣別」の最後通牒を思わせる“手紙”を出していること。

B 再会の後で書かれた〔蒼冷と純黒〕は、「二人の訣別をほのめかす」作品である
(菅原,同書,p.109.)

C 賢治の『図書館幻想』は、嘉内との再会の状況を作品化したもので、「つめたく笑」う「ダルゲ」は、再会した嘉内の印象である。


 しかし、@の日記の現物(当時市販の『国民日記』)を詳しく観察した大明敦氏によれば、斜線は、18日だけでなく、18日に至る多数の日に付けられています。それらの日はみな空欄で、18日も、天候と「宮澤賢治 面会来」以外の記載はありません(「宮沢賢治の書簡『あなたはむかし…』の位置」in:『京都語文』,17号,2010.11.)。嘉内は、日付が印刷された『国民日記』で、書かなかった日付欄には、斜線を付ける習慣があったようです。18日の斜線も、「宮澤賢治 面会来」の上に引かれているわけではありません。賢治に対する「訣別」ないし拒絶の感情を表した斜線ではなく、たんに、他の日と同様に、内容を書かなかったという意味にすぎないと見るのが妥当でしょう。






 






 Aについては、菅原さんの『宮沢賢治の青春』以後に、大きな研究の進展がありました。筆跡の比較から、問題の“手紙”は、1921年に書かれたものではなく、1918-19年頃に書かれていることが判明したのです。そのため、1995年発行の『新校本宮沢賢治全集』は、この“手紙”の書簡番号を付け変えて、1918年末の位置に移して掲載しています。

 しかも、大明敦氏の上の論文によれば、それは“手紙”ではありません。“手紙”から、問題になる箇所を引用しますと:



「あなたはむかし、私の持つてゐた、人に対してのかなしい、やるせない心を知つて居られ、またじっと見つめて居られました。
 今また私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思はれるやうな四つの願を起した事をもあなた一人のみ知つて居られます

 まことにむかしのあなたがふるさとを出づるの歌の心持また夏に岩手山に行く途中誓わはれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。
 今あなたはどの道を進むとも人のあわれさを見つめこの人たちと共にかならずかの山の頂に至らんと誓ひ給ふならば何とて私とあなたとは行く道を異にして居りませうや。
 仮令しばらく互に言ひ事が解らない様な事があつてもやがて誠の輝きの日が来るでせう。

 どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ。しばらくは境遇の為にはなれる日があっても、人の言の不完全故に互に誤る時があつてもやがてこの大地このまゝ寂光土と化するとき何のかなしみがありませうか。

 或はこれが語での御別れかも知れません。既に先日言へば言ふ程間違つて御互に考へました。然し私はそうでない事を祈りまする。
〔…〕それで最後に只一言致します。それは次の二頁です。

   
〔…〕
   若し今までの間でも覚束ないと思はれるならば次の二頁は開かんで置て下さい。」

宮沢賢治書簡[102a] [日付不明] 保阪嘉内宛て より。



 ノートをばらした見開き頁の紙の半面に↑これが書かれ、裏面には、改宗を強く迫る内容が書かれています。そして、2つ折りにして裏面を糊付けした痕があります。つまり、裏面(「次の二頁」)が見えない形で袋綴じにして、嘉内に渡されたのです。

 大明氏によれば、これは、賢治が(1919年に東京で会ったとき)保阪に贈った『漢和対照 妙法蓮華経』の頁に挿んであったものと推測されます。しかし、用紙は、1918年6月25日付の保阪宛て書簡[76]と同じですから、書かれたのはその前後と考えるのが妥当でしょう。とすれば、『和漢対照 妙法蓮華経』は、19年に会った時渡したのではなく、18年夏ころに郵送したのかもしれません。

 いずれにせよ、1921年ではなく、もっと前なのです。それは、内容からも言えます。文中の「四つの願(がん)」とは、「四弘誓願(しぐぜいがん)」のことと思われます。これは、「大乗仏教の菩薩が初発心時に必ず立てなければならない四つの誓い」「菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願」「仏教を信ずる者として、まず誓うべき四つの基本的な誓い」などと説明されています(⇒:ウィキ)。「日本仏教のほとんどの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされている。」

 つまり、お坊さんにはならない在家信徒でも、仏教に入門したら、まず最初にこの「四つの願」を立て、かつ日常的に唱えていかなければならないとされるものです。つまり、ふつうは秘密でも何でもない日常的なものです。

 にもかかわらず、「あなた一人のみ知つて居られます」―――保阪しか知らないというのは、おそらくそれが、日蓮宗に改宗したことによる「発願」だからでしょう。おそらく、賢治はこの時に『国柱会』に入会したか、日蓮宗徒としての初めての誓いをしたと思われます。

 もし、この“手紙”が 1921年のものだとすると、すでにずっと以前に『国柱会』に入会し、前年には、うちわ太鼓を叩いて花巻の町の中を歩き、家族に改宗を迫って父と争ったあげく、『国柱会』に投じるつもりで上京した賢治が、いまさら「四弘誓願」というのも、おかしな話です。「今また……四つの願を起した」のは、『国柱会』に入会した時(1918-19年頃と推測されている)か、それ以前でなければなりません。

 Cについては、多くの批判が寄せられていますが、ともかくこれ、‥『図書館幻想』は、体験の“スケッチ”ではなく、創作的な「幻想」なのです。「ダルゲ」は保阪であるとともに、賢治自身をも投影していると思われます。たとえば、↓つぎの手紙にあるように、「私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれた」と、賢治は言っているからです。



「お手紙ありがたくありがたく拝誦いたしました。又脚気のお薬を沢山お送り下さいまして重々の思召厚くお礼申し上げます。
〔…〕先日来股引をはいたり蕎麦掻きや麦飯だけを採ったり冬瓜の汁(みんな脚気向きの飯屋にあります)を食ったりして今はむくみもなくほんの少し脚がしびれて重い丈で何の事もありません。決して決してご心配はありません。あなたの厚い思召にもいつかはきっとお答へいたします。

   七月の始め頃から二十五日頃へかけて一寸肉食をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変るでもありません。今はもうすっかり逆戻りをしました。

      
〔…〕

    あなたの弟さんが忙しくて実にお気の毒です。この紙の裏はこわしてしまった芝居です。

宮沢賢治書簡[197] [1921年8月11日] 関徳弥宛て より。







Parmigianino






 ところで、↑「こわしてしまった芝居」とは、B〔蒼冷と純黒〕のことです。この書簡は、〔蒼冷と純黒〕の断片が書かれた原稿用紙の裏に書かれています。

 菅原さんはじめ多くの人が、〔蒼冷と純黒〕は、再会⇒訣別のあとで書かれたと、無意識のうちに理解し、それを前提として考えています。しかし、〔蒼冷と純黒〕が書かれたのは、再会の前なのか、後なのか? 後だ、と推定できるような手がかりは、何もないのです。

 ここで、〔蒼冷と純黒〕の全文を再掲しましょう:



〔冒頭欠〕たいエゴイストだ。たゞ神のみ名によるエゴイストだと、君はもう一遍、云って呉れ。さうでなくてさへ、俺の胸は裂けやうとする。

 純黒 俺の胸も裂けやうとする。おゝ。町はづれのたそがれの家で、顔のまっ赤な女が、一人で、せわしく飯をかき込んだ。それから、水色の汽車の窓の所で、瘠せた旅人が、青白い苹果にパクと噛みついた。俺は一人になる。君は此処から行かないで呉れ。

 蒼冷 ありがたう。判った。判ってゐるよ。けれども俺は快楽主義者だ。冷たい朝の空気製のビールを考へてゐる。枯草を詰めた木沓のダンスを懐かしく思ふのだ。

 純黒 俺だって、それは、君に劣らない。あの融け残った、霧の中の青い後光を有った栗の木や、明方の雲に冷たく熟れた木莓や。それでも それでも。俺は豚の脂を食べやうと思ふ。俺の胸よ。強くなれ。お里の知れた少しの涙でしめされるな。強くなれ。

 蒼冷 俺は強くならうともしない。弱くならうともしない。すべては神のなるが如くになれ。
〔以下欠〕

      ――――――

 
〔前欠〕

 蒼冷 いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山地のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開かうと思ふ。

 純黒 彼処は俺は知ってるよ。目に見えるやうだ。そんならもう明日から君はあの湿った腐植土や、みゝづや、鷹やらが友達だ。白樺の薄皮が、隣りの牧夫によって戯むれに剥がれた時、君はその緑色の冷たい靱皮の上に、繃帯をしてやるだらう。あゝ俺は行きたいんだぞ。君と一諸に行きたいんだぞ。

 蒼冷 俺等の心は、一諸に出会はう 俺は畑を耕し終へたとき、疲れた眼を挙げて、遠い南の土耳古玉
(トウクォイス)の天末(てんまつ)を望まう。その時は、君の心はあの蒼びかりの空間を、まっしぐらに飛んで来て呉れ。

 純黒 行くとも。晴れた日ばかりではない。重いニッ〔ケ〕ルの雲が、あの高原を、氷河の様に削って進む日、俺の心は、早くも雲や沢山の峯やらを越えて、馬鈴薯を撰り分ける、君の処へ飛んで行く。けれども俺は辛いんだ。若し、僕が、君と同ん〔な〕じ神を戴くならば、同ん〔な〕じ見えな
〔以下欠〕
宮沢賢治〔蒼冷と純黒〕




 関宛て書簡に同封されていた現存断片は2枚で、上の引用中「―――」で区切った前と後です。


「俺は豚の脂を食べやうと思ふ。」


 という純黒のセリフに注目したいと思います。これは、関宛て手紙の


七月の始め頃から二十五日頃へかけて一寸肉食をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた


 という部分に照応しています。

 ここで、「一人の心をも理解し兼ねると思っ」たという「一人」とは、保阪のことではないでしょうか? あえて誰とも書かずに「一人」と書く、賢治の仄めかすような言い方が気になります。

 賢治は、上京以来ほとんどずっと菜食で過ごしていたようです。しかし、保阪と再会の約束をしたあとで、肉食を試みたのです。保阪と会った時に、「燃えるやうな生理的の衝動」が感じられるように、保阪と心をかよわせることができるようにと、そのために動物質を摂ったのではないでしょうか。(「生理的の衝動」とは、単に精神的に心を通わせるだけではないようにも思われます。)

 だとすれば、〔蒼冷と純黒〕が書かれたのは、保阪に再会を約する手紙を書いた 7月3日以後であり、また、「豚の脂を食べやうと思ふ」という純黒のセリフから、再会よりは前であった可能性が高いことになります。

 賢治が、〔蒼冷と純黒〕の原稿を破り棄てて、これは「こわしてしまった芝居」だと唾棄するように書いているのは、再会を前に、保阪に対する熱誠を確かめるべくこの戯曲を書いたにもかかわらず、再会の結果は落胆するようなものであったからではないでしょうか。

 したがって、再会の前に書かれたものである以上、この戯曲自体の解釈は、大きく変って来ざるをえません。これを書いている時、賢治は、保阪と「訣別」してはいないし、「訣別」することになるとも、思ってはいないのです。






 






 じっさい、この戯曲の主調は、いっしょに暮らしたいのに、別々の場所で暮らさねばならないという悲壮感です。

 思い出してほしいのですが、“書簡”[102a]では、たとえ、別々に分かれて生きていても、また誤解しあっていたとしても、同じ信仰のうちにあれば、いつかは理解しあえる日が来ると書いていました:



「人のあわれさを見つめこの人たちと共にかならずかの山の頂に至らんと誓ひ給ふならば何とて私とあなたとは行く道を異にして居りませうや。
 仮令しばらく互に言ひ事が解らない様な事があつてもやがて誠の輝きの日が来るでせう。

 どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ。しばらくは境遇の為にはなれる日があっても、
〔…〕やがてこの大地このまゝ寂光土と化するとき」、つまり、この地上に仏国土が実現する(『法華経』によれば、心がけ次第で即時に実現する)ならば、「何のかなしみがありませうか。」



 これに対して、〔蒼冷と純黒〕のほうでは、別れて暮らすことの悲しみが、より大きくなっているように思われます。信仰は異なっていても、人と自然を愛する気持は一致している。共に生活したい気持がこれまでになく大きくなっているのに、別れて暮らさねばならないのが悲しい―――という悲壮感が、深く感じられます。

 信仰や思想の対立によって衝突し「訣別」する―――という事態とは、あまりに異なる心情と思われるのです。

 そして、じっさい、二人は「訣別」などはしていないと思います。Aの論拠がなくなった時点で、「訣別」説は維持できなくなったと考えます。

 7月中、二人は東京で何度か会ったと思います。保阪宛て7月3日付[194]にあるように、嘉内が賢治の下宿に「外泊」したこともあったかもしれません。

 しかし、『図書館幻想』にも描かれているように、互いに気持が醒めていて、高等農林時代のような「燃えるやうな」思いは、もはや戻って来なかったのでしょう。信仰上の考えの隔たりも、縮まらなかったでしょう。その意味で、再会が双方を落胆させたのは、まちがえのないところです。

 とくに、賢治のほうは、保阪との“恋の終り”は、のちのちまで影を落としてゆくことになります。21年末〜22年の草稿と思われる『冬のスケッチ』には、つぎのように、「きみ」を慕う気持、自分のものにしたい気持と、「きみ」の幸いを願う気持の相剋が、顕著に現れています。そして、どうしようもない「恋しさ」に襲われるのです:



      ※

 行きつかれ
 はやしに入りてまどろめば
 きみがほほちかくにあり
     
〔…〕

      ※

 ほんたうにおれは泣きたいぞ
 一体なにを恋してゐるのか。
 黒雲がちぎれて星をかくす
 おれは泣きながら泥みちをふみ。

     
〔…〕

      ※

 まことのさちきみにあれと
 このゆゑになやむ。

      ※


 きみがまことのたましひを

      ―――

 まことにとはにあたへよと
 いな、さにあらず、わがまこと
 まことにとはにきみよとれ、と。

      ※

 ひたすらにおもひたむれど
 このこひしさをいかにせん
 あるべきことにあらざれば
 よるのみぞれを行きて泣く。

『冬のスケッチ』18:1,34:2,35:4-36:2.



 これらの詩句が、嘉内に対するものであったことは、菅原さんの主張されるとおりだと思います。













 7月中、嘉内に(おそらく何度か)会っていたあいだの動揺は、上の『冬のスケッチ』以上のものであったことが想像されます。7月13日付の関宛て書簡↓に見られる「調子が変」になったような支離滅裂な言動は、おそらくそのためであったと思われるのです。



「     
〔…〕

 おせつさまの事は父からも承って居りました。大変残念です。が私の立場はもっと悲しいのです。あなたぎりにして黙っておいて下さい。信仰は一向動揺しませんからご安心ねがひます。そんなら何の動揺かしばらく聞かずに置いて下さい

      
〔…〕

私は書いたものを売らうと折角してゐます。それは不真面目だとか真面目だとか云って下さるな。愉快な愉快な人生です。
 おゝ。妙法蓮華経のあるが如くに総てをあらしめよ。私には私の望みや願ひがどんなものやらわからない。なるほど祈祷といふものも悪いこともあるでせうな。

      
〔…〕

 図書館へ行っ見ると毎日百人位の人が『小説の作り方』或は『創作への道』といふやうな本を借りやうとしてゐます。
〔…〕どうです。私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴ぢたりしてゐるとお思ひですか。どんな顔もして居りません。
 これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。いくら字を並べても心にないものはてんで音の工合からちがふ。頭が痛くなる。同じ痛くなるにしても無用に痛くなる。
 今日の手紙は調子が変でせう。
 斯う云ふ調子ですよ。近頃の私は。

宮沢賢治書簡[195] [1921年7月13日] 関徳弥宛て より。


 「おせつ」――梅津(旧姓宮澤)セツは、賢治の叔母にあたる人で、前年に賢治と関徳弥がはじめた法華経輪読会(実質は日蓮宗の法話会)に熱心に出席していました。賢治の出京後は参加しなくなり、これは、世間体を気にした宮澤善治(賢治の祖父,セツの父)が禁止したためとも言われています。「大変残念です。」と書いているのは、檀家の浄土真宗に阻まれて、信仰の勉強も自由にできないセツの立場に同情しているのだと思います。

 賢治自身の「立場はもっと悲しい」とは、どういうことでしょうか。信仰や教団問題であれば、親しい同信者の関に「聞かずに置いて下さい」と言うはずもないでしょう。やはり、保阪との交友が影響した精神の動揺と考えてよいのではないでしょうか。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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