04/05の日記

22:02
【宮沢賢治】風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(3)

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北海道余市町 シリバ岬  








 こんばんは (º.-)☆ノ



 宮沢賢治の童話小品『龍と詩人』をとりあげています:


 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(1)

 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(2)






【7】理想としての「詩」は、オペラか?



「龍のチャーナタは洞のなかへさして來る上げ潮からからだをうねり出した。

 洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。

 チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のやうにきらきら光る海の水と淺黄いろの天末にかゝる火球日天子の座を見た。

 (おれはその幾千由旬
〔ゆじゅん〕の海を自由に潜〔かづ〕き、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。それだのにおれはこゝを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛〔から〕く外をのぞくことができるに過ぎぬ。)
 (聖龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪
〔のろひ〕をお解きください。)

 チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかへり見た。そのとき日光の柱は水のなかの尾鰭に射
〔さ〕して青くまた白くぎらぎら反射した。」
宮沢賢治『龍と詩人』より。



 リンク先の《青空文庫》のテクストは、古い1956年版『宮澤賢治全集』を底本にしています。そのため、何か所か、賢治の草稿とは異なる部分があります。上の引用中では、「潜(かづ)き」などが、そうです。ギトンの引用は、『新校本全集』を底本とし、適宜同全集の『校異篇』を参照して、賢治の原テクストに合わせています。リンク先と引用文が異なるのは、そのためです。

 さて、この冒頭部分は、すでに1回読んでいますから(⇒こちら)、意味不明な箇所はないでしょう。ここで、あらためて考えてみたいのは、この「チャーナタ龍」の正体―――アレゴリーだとすれば、何の喩えなのかということです。

 一見して明らかなように、この作品は、冒頭からすでに、近代の一般の小説や童話とは、語り方が異なっています。ふつうの人間が、ふだん、このように独り言を言うことはありえません。「チャーナタ」の独り言は、あくまでも、物語としてのセリフであり、いわば、オペラのアリアのようなものです。おおげさな身振りをまじえて朗誦すれば、そのままオペラか詩劇になるようなセリフなのです。つまり、前回の柄谷行人氏の言い方でいえば、“シンボル思考”に基づくリアリズムではなく、“アレゴリー思考”による古いタイプの文章なのです。

 しかも、『龍と詩人』は、最初から最後まで、このタイプの文章で占められています。このようなものは、宮沢賢治の散文作品では珍しいといえます。しいて挙げれば、『めくらぶだうと虹』とその改作である『マリヴロンと少女』があるくらいでしょう。『めくらぶだうと虹』の草稿は、「かしはばやしの夜」「山男の四月」の各初期形と同じ《10-20 イーグル印 草色罫》という原稿用紙に書かれており、1921年後半〜1922年初めころの成立と推定されます。1921年6-7月ころの〔蒼冷と純黒〕は、戯曲断片ですが、よりはっきりとオペラ風のセリフです。

 これらの対比から考えると、『龍と詩人』も、その《作品日付》――1921年8月――に近い時期の成立ではないか、という感じもしてきます。しかし、成立時期の議論は、あとに回しましょう。














 ↑上の引用につづく部分で、「わかもの」スールダッタが、洞窟の外に登場します:



「そのとき龍は洞の外で人の若々しい聲が呼ぶのを聽いた。龍は外をのぞいた。

 (敬ふべき老いた龍チャーナタよ。朝日の力をかりてわたしはおまへに許しを乞ひに來た。)

 瓔珞をかざり黄金の太刀をはいた一人の立派な青年が外の疊石の青い苔にすはってゐた。

 (何を許せといふのか。)」

宮沢賢治『龍と詩人』より。



 「瓔珞(ようらく)」は、仏像が首にかけている大型のネックレスです。ネックレスの輪から、飾りが垂れているのが特徴です(【画像】⇒:瓔珞)。おそらく、昔のインドで男性が首にかけていたものなのでしょう。高貴な身分を示すステイタス・シンボルの意味があったかもしれません。

 チャーナタにいきなり「許しを乞ひに來た。」と言うスールダッタですが、チャーナタに問われて、許しを乞いに来た事の次第を語ります。この物語は、現実の場面としては、洞窟の中のチャーナタと、洞窟の外のスールダッタが、岩の「隙間」を通して語り合う、この何十分かのシーンだけです。この時点までの事件の進行は、もっぱらスールダッタの語りによって、述べられるのです:



「(龍よ。昨日の詩賦の競ひの會に、わたしも出て歌った。そしてみんなは大へんわたしをほめた。

 いちばん偉い詩人のアルタは座を下りて來て、わたしを禮してじぶんの高い座にのぼせ□□の草蔓をわたしに被せて、わたしを賞める四句の偈をうたひ、じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓に去った。わたしは車にのせられてわたくしのうたった歌のうつくしさに酒のやうに醉ひみんなのほめることばや、わたしを埋める花の雨にわれを忘れて胸を鳴らしてゐたが、夜更けてわたしは長者のルダスの家を辭してきらきらした草の露を踏みながらわたしの貧しい母親のもとに戻るとき月天子の座に瑪瑙の雲がかゝりくらくなったのでわたくしがそれをふり仰いでゐたら、誰かゞミルダの森で斯うひそひそ語ってゐるのを聞いた。

  (わかもののスールダッタは洞に封ぜられてゐるチャーナタ老龍の歌をぬすみ聞いてそれを今日歌の競べにうたい古い詩人のアルタを東の國に去らせた) わたしはどういふわけか足がふるへて思ふやうに歩けなかった。そして昨夜一ばんそこらの草はらに座って悶えた。考へて見るとわたしはこゝにおまへの居るのを知らないでこの洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたはある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。そこで老いたる龍のチャーナタよ。わたくしはあしたから灰をかぶって街の廣場に座りおまへとみんなにわびやうと思ふ。あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。)」

宮沢賢治『龍と詩人』より。



 「□□の草蔓」は、2字分が空白ですが、ギリシャで、詩作の競技の優勝者に授けられた“月桂冠”にあたるものでしょう。「詩賦」の「賦」は、漢詩の形式のひとつで、対句と脚韻を持つが、絶句、律詩のような字数・行数の決まりはないものだそうです。

 「詩賦の競ひ」という言い方から、宮沢賢治が理想とした詩が、どういうものなのか、推しはかることができます。漢詩のような高踏的なものを、ほんものの“詩”と考えていたのではないでしょうか。



「詩の雑誌御発行に就て、私などまで問題にして下すったのは、寔
〔まこと〕に辱〔かたじ〕けなく存じますが、前に私の自費で出した『春と修羅』も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とか完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。〔…〕出版者はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくものでした。亦恥かしかったためにブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山あります。〔…〕私はとても文芸だなんといふことはできません。そして決して私はこんなことを皮肉で云ってゐるのではないことは、お会ひ下されば、またよく調べて下されば判ります。そのスケッチの二三編、どうせ碌でもないものですが、差し上げやうかと思ひました。そしたらこんどはどれを出さうかと云ふことが、大へんわたくしの頭を痛くしました。これならひとがどう思ふか、ほかの人たちのと比較してどうだらうかなどといふ厭な考がわたくしを苦しめます。わたくしは本統にそんなに弱いのですから、笑ってもようございます。どうかしばらく私などは構はないでこゝらにそっと置いて下さい。〔…〕
宮沢賢治書簡[200] 1925年2月9日付 森佐一宛て より。






 






 『春と修羅』と『注文の多い料理店』を出版した後で、詩の同人誌への掲載の誘いに対して、このように書いています。宛先の森佐一は当時まだ中学生ですが、賢治は、これを書いた時点では、相手が立派な大人の詩人だと思っていました。

 「到底詩ではありません。」は、この手紙では謙遜にも見えなくはありません。しかし、そうではなく、賢治は同時代のほかの詩人の作品も含めて、すべて、こんなものは「到底詩では」ないと考えていたのだと思います。つぎの岩波書店主宛ての手紙では、それがもっとはっきりと書かれています:



「わたくしは岩手県の農学校の教師をして居りますが六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。
〔…〕わたくしはあとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。その一部分をわたくしは柄にもなく昨年の春本にしたのです。心象スケッチ春と修羅とか何とか題して関根といふ店から自費で出しました。友人の先生尾山といふ人が詩集と銘をうちました。 詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほり記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。〔…〕
宮沢賢治書簡[214a] 1925年12月20日付 岩波茂雄宛て より。


 この手紙では、世間で出版されているほかの詩人たちの詩集を「いままでのつぎはぎしたもの」と呼んでいるのです。

 この2通の手紙は、宮沢賢治が自身の詩作について述べた貴重な記述として、多くの論文で引用されているものです。しかし、その多くは、「或る心理学的な仕事の支度に、……いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチ」「あとで勉強するときの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました」という部分に着目して、「スケッチ」ないし「記録」としての詩作という、賢治の特異な詩観が強調されてきました。

 しかし、よく読んでみると、賢治は、そういう「科学的」な「記録」行為もまた「到底詩では」ないと書いているのです。賢治が「詩」や「文芸」一般を、意味のないもの、無価値なものと考えていたのでないことは明らかです。それどころか、ほんとうの「詩」は価値のあるものだと考えていることが、これらの手紙全体の行間から、強く感じられます。単に、彼自身の書いたものを含めて、世間で「詩」としてもてはやされているものが「みんな到底詩では」ないのです。

 したがって、この2通の手紙における消極的“否定的評価”の裏側にある、理想としての「詩」を、積極的に語った文章として、『龍と詩人』は、たいへん重要だと思います。そこでは、古代インド風の装いのもとに、ギリシャで行われたような“詩の競技”について語られ、それは、「詩賦の競ひ」と呼ばれているのです。

 そうした宮沢賢治の詩観も、1926年に農学校教師を辞めた―――同時に、「正統な勉強」をするために東京に出る計画を断念した―――あとは、やや変化があったようです。詩作の方針を書いたメモなどで、自分の書いたものを、ためらいなく「詩」と呼んでいます。しかし、晩年には文語詩作の傾向を強め、『文語詩稿五十篇』『文語詩稿一百篇』『文語詩未定稿』という、それぞれ大部の文語詩集を残しています。高踏的な古い形式の「詩賦」を理想とする「詩」の理念は、生涯持ちつづけられたのだと思います。






【8】《ことば》がもたらす栄光と不幸



「昨日の詩賦の競ひの會に、わたしも出て歌った。そしてみんなは大へんわたしをほめた。

 いちばん偉い詩人のアルタは座を下りて來て、わたしを禮してじぶんの高い座にのぼせ□□の草蔓をわたしに被せて、わたしを賞
〔ほ〕める四句の偈〔げ〕をうたひ、じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓に去った。わたしは車にのせられてわたくしのうたった歌のうつくしさに酒のやうに醉ひみんなのほめることばや、わたしを埋める花の雨にわれを忘れて胸を鳴らしてゐた〔…〕



 スールダッタの歌った「うた」は、満座の聴衆から褒められただけでなく、高座にいた「いちばん偉い詩人のアルタ」―――前チャンピオン―――もそれを認めて、スールダッタに“桂冠”を贈り、チャンピオンの交代を表明した、ただ、ここで注意すべき点は、この物語の中で「詩人」と呼ばれているのはアルタだけで、スールダッタは、一度も「詩人」とは呼ばれていないことです。そこにも、作者賢治の詩観が反映していると思いますが、このことは、のちほど論じます。

 「わたしを埋める花の雨」は、すでに見た「瓔珞」と同様の古代インド風の装いで、仏典ではしばしば、天地の祝福を受けて栄光に輝くようすを、「花の雨」が降ると表現します。その時のスールダッタの心持ちは、「わたくしのうたった歌のうつくしさに酒のやうに醉ひみんなのほめることばや、わたしを埋める花の雨にわれを忘れて胸を鳴らしてゐた」と書かれています。つまり、周囲から浴びせられる讃辞と、祝福の「花の雨」のなかで「われを忘れ」、自分の「うた」に酔っていた、というのです。

 自分そのものの「うつくしさ」、偉大さに酔ってしまうナルシックな自己幻想とは、少しちがうかもしれません。しかし、自分の歌を“自分の歌”として、それに酔っている状態です。つまり、「うた」とその作者個人との結びつきが非常に強い状態なのです。浴びせられる讃辞は、「うた」に対する讃辞というよりは、スールダッタその人に対する讃辞にほかならないのです。

 このことが、物語のこの先の展開で、重要な意味をもつことになります。













「夜更けてわたしは
〔…〕貧しい母親のもとに戻るとき〔…〕誰かゞミルダの森で斯うひそひそ語ってゐるのを聞いた。

  (わかもののスールダッタは洞に封ぜられてゐるチャーナタ老龍の歌をぬすみ聞いてそれを今日歌の競べにうたい古い詩人のアルタを東の國に去らせた) わたしはどういふわけか足がふるへて思ふやうに歩けなかった。そして昨夜一ばんそこらの草はらに座って悶えた。」



 スールダッタは、「夜更け」に「ミルダの森」から聞こえてきた話し声に恐怖を覚え、そのまま家へは戻ることなく、「草はら」で朝まで身悶えしていた。ここは、《青空文庫》のテクストが賢治の原テクストと少し違っている箇所です。本来の賢治テクストに直して読んでいきます。

 「ミルダの森」の話し声が、じっさいに誰かが陰口を噂しあっていたのか、それとも、「森」そのものの声なのかは、わかりませんが、前者だと考えてよいでしょう。あとのほう↓を読むと、スールダッタは、彼が毎日瞑想と詩作にふけっていた岬の高台の下に洞窟があって、そこにチャーナタ龍が幽閉されていることを知りませんでした。しかし、ほかの人びとはそれを知っていて、また、スールダッタが岬の上にいるのを見ていたので、そういう疑いを持ったのかもしれません。

 ともかく、この“噂”は、スールダッタの「うた」を“剽窃”として非難するものです。

 スールダッタが、この“噂”にショックを受けたのは、その「うた」を、自分の「うた」として讃辞を浴び、有頂天になっていたからだ、と、さしあたっては考えることができます。

 作品の良さを作者の才能に帰して、作者をほめること;逆に、他人の「うた」の剽窃だと断じて、“偽作者”を非難すること―――そのいずれも、「うた」と、(真の)作者個人との結びつきを自明の前提とするものです。



「考へて見るとわたしはこゝにおまへの居るのを知らないでこの洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたはある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。そこで老いたる龍のチャーナタよ。わたくしはあしたから灰をかぶって街の廣場に座りおまへとみんなにわびやうと思ふ。あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。)」


 スールダッタが「詩賦の競ひ」で歌った「うた」は、この岬の上でインスピレーションを受けて作詩したものなのですが、いま彼は、桂冠の興奮がさめた時に非難の“噂”を聞いた衝撃のためか、「あのうた」は「まどろみのなかで聞いたやうな氣がする。」と言うのです。

 じっさいに「うた」を聞いたのか、それとも、ショックのあまり「聞いたやうな氣がする」のかは、はっきりしません。いずれにせよ、その時に何らかのインスピレーションを受けて「あのうた」ができあがったことはまちがえない―――と考えてよいでしょう。

 しかし、奇異に感じられるのは、それに対するスールダッタの反応です。スールダッタは、「あしたから灰をかぶって街の廣場に座りおまへとみんなにわび」るという“贖罪”を決意しているのです。なぜ、それほどまでの“贖罪”と懺悔が必要なのでしょうか?

 たしかに、スールダッタに対する聴衆の賞讃と桂冠の授与は、その「うた」がスールダッタ自身の“ものである”という《詩と作者の結びつき》を前提にしていました。この前提が、誤解だった、あるいは「ミルダの森」の声が言うように剽窃ないし詐欺であった★としたら、戴冠の前提が崩れてしまいます。

 しかし、それだけならば、スールダッタは桂冠を返して、優勝の栄誉を取り消してもらえばすむこと、とも考えられます。もっとも、桂冠を返そうにも、スールダッタと交替した先の桂冠詩人アルタは、もうここにはいない:


「遠く東の方の雪ある山の麓に去った。」


 それは、追いかけて訪ねてゆくこともできないような人跡未踏の場所かもしれません。つまり、スールダッタの「うた」は、すでに取り返しのつかない結果をもたらしてしまっているのです。



【註】★ 『注文の多い料理店』の「広告文」には、


「🈪 これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない

  多少の再度の内省と分折とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」

宮沢賢治『注文の多い料理店・広告文』より。


 と書かれた部分があります。「これら」の童話が、「偽(いつはり)でも架空でも」ない、というのは解るとしても、「窃盗」ではないというのは唐突で、どうして、ここで急にそんなことを言うのかわかりません。しかし、この「広告文」が、『龍と詩人』を書いたあとで、そこで考えたことにまだ拘りながら書かれたのだとしたら、理解できそうです。たとえば、この童話集に収録された「かしはばやしの夜」は、メーテルリンクの戯曲「青い鳥」に似ている点があります。賢治は、読者から、これは本当におまえが書いたのか? 誰かの剽窃じゃないのか? と言われることを、じっさいに危惧していたのでしょう。

 その点から言っても、『龍と詩人』の成立は、1921年ではなく、『注文の多い料理店』の諸作品を書き上げたあと。出版の計画が立ち上がった時点以後、ないし「広告文」作成前後と思われるのです。

 なお、賢治がここで、「偽でも仮空でも窃盗でもない」根拠として、「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」という《内心の真実》を挙げているのも重要です。これについては、“近代文学”の特質との関係で、別途の考察を必要とします。






 






 しかし、スールダッタが「灰をかぶって街の廣場に座」って“贖罪”しなければならないと思う理由は、「アルタを東の國に去らせた」ことだけでもないと思います。

 このあとで引用するように、アルタは、スールダッタに桂冠を授けるにあたって、次の言葉ではじまる頌詩を朗誦しているのです:


「風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ」


 つまり、スールダッタは、風や雲や波の「うた」を「たゞちにうたふ」者として讃えられているのです。しかし、スールダッタの自己認識はそのような者ではなく、


「わたしは……この洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたはある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。」


 というのです。つまり、何日にもわたって岬の上で「風」にさらされ「雲」を眺め「波」の音を聞きつづけていても、けっしてそれらの「うた」が聞こえてくることはなく、ある日の「まどろみのなかで」はじめて「あのうた」を聞いた。しかもそれは、岬の下にいる「チャーナタ龍」の吟じる歌の「ぬすみ聞」きであった、とスールダッタは思っているのです。

 つまり、スールダッタの受けた賞讃と自己認識の間には、大きなギャップがあるのです。



「(東へ去った詩人のアルタは、
  どういふ偈でおまへをほめたらう。)

 (わたしはあまりのことに心が亂れて、あの氣高い韻を覺えなかった。けれども多分は

   風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ
   星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
   あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
   設計者スールダッタ と かういふことであったと思ふ)」

『龍と詩人』より。



 「偈(げ)」は、サンスクリット語「ガーター」の漢訳で、もともとは、「詩句」一般を意味します。仏教では、経典の中の韻文の部分をいいます。この狭義の「偈」は、簡潔な表現で教理のエッセンスを述べたり、仏陀・菩薩をたたえる詩句です(⇒:「偈」 ⇒:「ガーター」)。しかし、ここでは、仏典ではなく本来の「詩句」の意味で使っているようです。前の引用部分に「四句の偈」とあったように、この頌詩は4行のはずですから、《青空文庫》のテクストの行分けは誤りです。

 1行目の


「風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふ」


 の部分ですが、「風」「雲」「波」の「うた」を「たゞちにうたふ」と讃えています。しかし、それら自然物の唄う「うた」を聴きとって歌うのか、聴きとる以外の方法で「たゞちにうたふ」のかは、ここでは明らかではありません。



「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
 あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくり」


 2〜3行目の↑この部分では、「星」や「陸地」、すなわち自然界は、「さうならうと思ひ」「さういふ形をとらうと覺悟」して変化してゆく。つまり、“自然界”は、偶然の重なり合いの結果として変遷するのではなく、“自然界”ないし“自然物”自身が、一定の意思と予想を抱いていて、自らの意思または覚悟に基づいて変化していった結果が、「あしたの世界」なのである―――という思想が述べられています。

 そして、スールダッタが「うたふ」のは、その「あしたの世界」に「叶ふ」ような「まことと美との模型」にほかならないと言うのです。

 「かなう」には、@適合する(適う)A実現する(叶う)―――という2つの意味がありますが、ここでは、Aの意味でしょう。つまり、「あしたの世界」となって実現するような、「まことと美との模型」。

 星や陸地が、「さうならうと思ひ……覺悟する」のは、「あしたの世界」でしょうか? それとも、「まことと美との模型」のほうでしょうか? 1行目で、スールダッタの「うた」は、風・雲・波、つまり地球という「星」や「陸地」の一部が唄う「うた」そのものである、とされていたことと考えあわせますと、その「うた」が表現する「模型」とは、「星」や「陸地」自身が「なろうと」欲する未来の「かたち」にほかならないと考えられます。

 つまり、スールダッタは、自分の人間としての理想や夢を、未来の世界のユートピアとして歌うのではなく、“自然界”そのものが希む未来の姿―――それこそが「まことと美との模型」である―――を、人間の《ことば》にして歌い出しているのだ、ということになります。













「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
 設計者スールダッタ」



 アルタのうたうスールダッタは、いわば、「星」や「陸地」の依頼を受けた「設計者」であって、風・雲・波の唄うとおりの「模型」をつくることによって、「星」や「陸地」が、そうなりたいと願う、未来の「まことと美」の「かたち」を示すわけです。「星」や「陸地」が意思してはいても、具体的に「かたち」として描くことができない未来の姿を、スールダッタが、代って表現することができるのは、スールダッタが《ことば》を使用するからです。すなわち、彼は「豫言者」にほかならない。

 スールダッタが《ことば》によって描く「模型」は、“自然界”に対して、かれらが成ろうする未来の世界像を提供します。「模型」がなければ、たとえ「まことと美」に向かう覚悟を持っていたとしても、盲目の努力を重ねることにしかなりません。“自然界”は、「模型」として提示された未来像を目標とすることによって、「まことと美」を体現した世界として生成することができます。

 こうして、スールダッタの示した「模型」は、「あしたの世界」として実現することになります。すなわち、「世界」はやがて、スールダッタの描いた「模型」に「かなふ」――適合するようになるのです。

 頌詩に述べられたアルタの思想は、このように理解することができます。それは、“自然界”自身が、「まことと美」に向かって変化していこうとする意思を抱いているのだ―――という確信にもとづいています。しかし、自然そのままでは、その意思は必ずしも実現しない。人間が《ことば》によって「豫言」し、「模型」をつくって示したときはじめて、「まことと美」は、「あしたの世界」に実現することとなるのです。








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カテゴリ: 宮沢賢治

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