03/31の日記

18:11
【宮沢賢治】風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(2)

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伊良湖岬  









 こんばんは (º.-)☆ノ








 宮沢賢治の童話小品『龍と詩人』をとりあげています:


 風と雲と波のうた―――『龍と詩人』(1)






【5】登場人物名の謎



 『龍と詩人』の登場人物は、「龍」「わかもの」「いちばん偉い詩人」というだけでなく、「チャーナタ」「スールダッタ」「アルタ」というカタカナの名前を、それぞれ持っています。しかも、これらの外国風――インド風?――の名前には、それぞれ意味があるようなのです。

 『龍と詩人』で、「古い詩人のアルタ」「いちばん偉い詩人のアルタ」と呼ばれている詩人「アルタ」については、「ドイツ語の alt(形容詞〈古い〉)から作った」名前だとする意見があります(須田浅一郎「作品研究『龍と詩人』」,in:続橋達雄・編『〈初期作品〉研究』,1976,学芸書林,p.173)。しかし、このドイツ語の発音は「アルタ」ではなく「アルト」です。

 ところで、賢治が学習していたエスペラント語には alta(アルタ) という、そのものズバリの形容詞があって、これは「高い、高級な、高貴な」という意味です。『龍と詩人』で、アルタは、自分の「高い座」から下りて来て、スールダッタをその「高い座」に座らせたと書かれています。さらに、そのエスペラントの単語のもとになったラテン語を見ると、altus という形容詞があります。altus は男性形で、女性形は alta です。こちらは、「高い、深い、偉大な」という意味。「いちばん偉い詩人のアルタ」には、ラテン語の意味のほうが適合するかもしれません。

 賢治が、エスペラント、ドイツ語、ラテン語のいずれからヒントを得て造語したのかはわかりませんが、それらを参照して意味のある語として命名したことは、まちがえないでしょう。

 同じようにして見ていくと、意味のある名前は「アルタ」だけではなく、「スールダッタ」「チャーナタ」などもみなそうなのです。

 「スールダッタ」は、エスペラントの surda(スルダ:つんぼの) を連想させます。もとになったラテン語は surdus, 女性形は surda です。意味はエスペラントと同じ。フランス語では sourd、発音は、スールです。これは、エスペラントが最も近い。「ッタ」は、インド風にするために賢治が付けたのでしょう。

 詩人のスールダッタは、「つんぼ」と関係ないじゃないか、と思うかもしれませんが、『龍と詩人』の中では、スールダッタは一度も「詩人」とは呼ばれていないのです!「詩人」と呼ばれているのは「アルタ」だけです。

 スールダッタは、「一人の立派な青年」「わかもの」としか呼ばれていません。アルタがスールダッタを讃えた「偈」の中で、スールダッタは:



「風がうたひ雲が應じ波が鳴らすそのうたをたゞちにうたふスールダッタ」



 と歌われています。つまり、スールダッタは、風や雲や波の「うた」を聞き取って「ただちにうたふ」者として讃えられているのですが、そのことと、彼の名前に、耳の聞こえない「スルダ」の意味があることとは矛盾します。じつは、この矛盾、ギャップこそ、この童話を解き明かす重要なカギなのですが、そのことは、のちほど詳しく論じます。ともかく、スールダッタの名前に“耳が聞こえない”という意味があることは重要です。作者がスールダッタを、決して「詩人」と呼ばないことは、これに関係します。

 つぎに、龍の「チャーナタ」は、どうでしょうか? “chanata”に、ぴったりの語は見つかりませんが、エスペラントの c^anto(チャント), 英語の chant は、「歌、聖歌」の意味です。cantata(カンタータ) という語もあります。これらを踏まえて、神聖な“歌”というような意味をふくめているのかもしれません。

 その他のカタカナ固有名についても、推測が可能です。「長者のルダス」は、エスペラントの動詞(現在形) ludas(ルーダス:遊ぶ,演奏する,競技をする) が考えられます。「詩賦の競ひの会」は、「長者のルダス」の家で行われます。「ミルダの森」という地名は、エスペラントの milda(ミルダ:温和な), 英語の mild(マイルド) かもしれません。

 全体として、この童話のカタカナ固有名は、聖なる「うた」、それを聞き取る、あるいは聞き取りえないこと、古さ、あるいは高貴さ、「うた」を奏でること、自然の“やさしさ”‥‥それらによって、この物語の背景とテーマを暗示しているといえるのです。

 ちなみに、宮沢賢治は、どうしてこんなにエスペラントの名前を付けるのか、エスペラントじゃ誰にもわからないじゃないか、と仰るかもしれません。しかし、それは賢治の見込みちがいがあったのだと思います。当時(第1次大戦後)は、永久平和思想、民族自決主義の影響で、エスペラントのような中立的な人工言語が、将来はもっと広まるだろうと思われていました。とくに、日本では、国民の大部分が小学校卒で、英語を習う機会がありませんでしたから、習得容易なエスペラントの学習熱はかなりあったのです。おそらく、賢治は、エスペラントの名前にしておけば、将来世界中の人に、名前の意味がスグにわかるだろう‥そう考えたのだと思います。













 このような、登場人物や場所の性質ないし役割を表すような“名前”が使われていることは、賢治童話のなかでも、『どんぐりと山猫』の「一郎」、『かしはばやしの夜』の「清作」、『風の又三郎』の「嘉助」、『銀河鉄道の夜』の「ジョバンニ」といった“ありふれた名前”が登場する作品とは対照的です。「一郎」はもちろん、「清作」「嘉助」も、当時の岩手県のような地方ではありふれた名前でした。「ジョバンニ Giovanni」は、外国人名ではあっても、イタリアやラテン系諸国では、もっともありふれたファースト・ネーム(英語のジョン、フランスのジャン、ドイツのヨハンと同じ)なのです。

 柄谷行人氏によれば、登場人物に“ありふれた名前”をつけることは、近代小説・近代絵画の特質である“シンボル思考”と関連があります。



「ありふれた固有名は個体 individual を示す。近代リアリズムは、このような個体に注目する。
〔…〕かつての〔江戸時代以前の―――ギトン注〕画家が『松』という概念を形象化しようとしていたとすれば、近代画家は、この松、あの松といった、〔…〕固有名で呼ばれるべき個々の松を描く。いいかえれば、近代リアリズムは、固有名で呼ばれるべき個体をとらえようとするのである。しかも、注目すべきことは、この個がそれによっていつもある一般性(普遍性)を象徴することである。たとえば、特殊な個々の松を描くことによって、逆に『松』という普遍を描き出す。あるいは描きうるという信念こそが、リアリズムなのである。」
『定本 柄谷行人集 第5巻 歴史と反復』,2004,岩波書店,p.109.



 例えば、葛飾北斎の浮世絵『東海道五十三次』に描かれた街道筋の松並木を思い浮かべてみましょう。北斎の松は、どれも同じような枝ぶりで、ステレオタイプを表しています。それらは、私たちに、“東海道の松”“街道の松”という伝統的な風景のイメージを与えます。これらの松は、じっさいの風景の写実というよりは、むしろ、日本のじっさいの風景のほうが、浮世絵の伝統的イメージに従って整形されているのです。今日に至るまで、国道の並木や庭園の松は、浮世絵によって作られた私たちの伝統的イメージに合うように剪定されて、あのような形になっているのです。それは、野山に自然に生えている松の枝ぶりと比べてみればわかります。

 あるいは、外国――たとえば韓国や中国の風景に、なにか理由の分からない異和感を感じる場合、その原因はたいてい、松などの形が――同じ植物種なのに――日本で見慣れたものとは違うからです。

 つまり、浮世絵画家が描く「松」も、植木屋さんが市役所や住民の意向を忖度して造り上げる「松」も、いわば人工的に作られたものであって、この国の伝統的な「『松』という概念」の形象化にほかならないのです。

 これに対して、近代画家は、樹木でも人でも、伝統的な概念にとらわれずに、“ありのまま”に描こうと努めてきました。松という自然の生命を、伝統的な決まりきった“型”から解放して、個々の樹木の個性をとらえて、生き生きと描くこと―――それこそが芸術なのだ、という信念が、近代の絵画や小説を特徴づけています。

 近代芸術が、伝統的な先入見を排し、個別のものを個別に描くことにこだわってきたのは、それによって、伝統的思考が妨げてきた・より高い価値に達しうるという信念があったからです。これは、近代科学思考の影響のもとに、そのアナロジーとして出てきた考え方だったと言えます。近代科学は、宗教や魔術のような、先駆的な宇宙観を前提とすることなく、“虚心に”対象を観察することによって、より真実に近い認識に達することができる――という信念のもとに営まれてきました。この信念、つまり“啓蒙思想”が、芸術活動にも影響を及ぼして生まれたのが、近代絵画、近代小説のリアリズムであったのです。



「日本で最初の近代小説といわれる、二葉亭四迷の『浮雲』(1887年)の主人公の名は内海文三である。柳田國男は、この作品を読んで、普通の平凡な人物が主人公となっていることに驚いたと記しているが、実は、文三という平凡な名にこそ驚くべきであろう。
〔…〕『浮雲』が画期的なのは、〔…〕平凡な名によって指示される個が、ある一般性を担うようになっていることであり、そのようなものとしての個が出現したということである。

 ありふれた固有名は個体 individual を示す。近代リアリズムは、このような個体に注目する。」

『定本 柄谷行人集 第5巻』,p.110.






 
  伊良湖岬 日出の門






 近代小説のリアリズムは、なんでもない平凡な個人を、“ありのまま”に、生き生きと描くことによって、作家は、その時代、その社会の《典型的な個人》を描き出すことになり、虚構(フィクション)によって真実を表出することができる――という信念に基づいています。その場合、登場人物の名前も、読者に特別な先入見を与えないように、ごく平凡な・ありふれた名前が選ばれることになります。

 たとえば、島崎藤村の『破戒』の主人公「丑松」、志賀直哉の「大津順吉」、『暗夜行路』の「時任謙作」「信行」「お栄」「直子」といった人物名は、みな、その当時にありふれた名前です。

 そして、このように、特別な枠組みなしに、平凡に描かれた日常的なことがらの集積が、結果として《典型的》な《真実》を表出することになるのだ、とされました。いわば、これらの平凡な登場人物、その平凡な体験は、その時代と社会一般を言外にあらわす《象徴(シンボル)》にほかならないと考えられたのです。これが、近代小説の根幹をなす“シンボル思考”です。



「こうしたシンボル的な思考の装置は、今日つぎのようにある。

 たとえば、作家は自分の特殊な体験、特殊な自己を書きながら、それが普遍的な意味をもつことを信じている。のみならず、読者は、それを読んで『自分のこと』のように追体験する。
〔…〕近代文学が前提しているのは、特殊なものが普遍的なものを『象徴』するという一つの信念なのである。そうでなければ、私小説作家があれほどとるに足らないことを書きつづけるということなどありえないであろう。

 今日においても、
〔…〕この『象徴』という考えは文学者のなかで有力である。たとえば、特殊な個別的表現が、当の作者自身『それと知らずに』、時代状況の本質を表現しているといった批評が今なおくりかえされているのである。」
『定本 柄谷行人集 第5巻』,p.112.



 この“シンボル思考”に対立するのは、“アレゴリー思考”です。

 「アレゴリー」は、もともと「たとえ話」「寓話」といった意味で、「シンボル」と似ていますが、「シンボル」と違うのは、一種の“謎解き”をふくんでいることです。たとえば、『聖書』でイエスは、弟子たちに向って、さまざまな“たとえ話”をしますが、弟子たちは、それらの“たとえ”が何を意味するのか、解くように求められているのです。そして、後世のキリスト教会の教義の多くは、そうした“たとえ”の解釈に関するものです。

 つまり、「シンボル」が、象徴するものをそれとなく“おのずと”示すのに対して、「アレゴリー」は、最初から“たとえ”として語られ、読者に対し、何を暗示しているのかを考えよと促しているのです。

 近代、現代においても、“シンボル思考”という支配的な傾向に逆らって、あえて古めかしい“アレゴリー思考”で小説を書く作家がいないわけではありません。柄谷氏によれば、たとえば大江健三郎は、そうした“アレゴリー思考”をする作家のひとりです。

 アレゴリー的な小説のひとつの指標は、登場人物の名が、平凡なありふれた名前ではなく、なにか意味ありげな、暗示的な名前であることです。柄谷氏は、それを「タイプ名」と呼んでいます。



「大江
〔健三郎――ギトン注〕の作品のもう一つの特徴は、固有名がないということである。〔…〕登場人物の名がタイプ名であるといってよい。『万延元年のフットボール』(1967年)では、蜜三郎や鷹四といった名は、文字どおり彼らの性格を示している。兄の『蜜』が内向的で非行動的であるのに対して、弟の『鷹』は行動的で暴力的である。〔…〕 さらに、彼らの姓、『根所〔ねどころ〕』は、もっと露骨に作品のテーマを示している。彼らが、それぞれの根、アイデンティティまたはルーツを探る者たちであることは、名前からして明瞭なのである。〔…〕

  タイプ名は、
〔…〕近代小説以前には一般的であった。むしろ、ありふれた名の人物が登場することが『近代文学』の特質だといってもよいほどである。〔…〕

 蜜三郎や鷹四という風変わりな名は、一応固有名であるが、それらは、
〔…〕あるタイプ(類)を意味している。」
『定本 柄谷行人集 第5巻』,pp.106-109.



 つまり、大江健三郎の『万延元年のフットボール』に登場する人物の名前は、固有名詞のように付けられていても、その実は、一定の種類を示す名前なのです。













 このことは、宮沢賢治について見ると、たいへんに示唆的です。賢治もまた、大江健三郎と同様の“アレゴリー作家”として見ることができます。賢治の散文作品の大部分は“童話”として書かれました。童話、とくに動物や植物が擬人化して登場する童話では、登場人物(登場生物)は、「きつね」「かばの木」「土神」「かしはの大王」「絵描き」といった“種類名”で呼ばれます。彼らは、その呼ばれた種類を代表し、種類の性格を体現しています。たしかに、宮沢童話に登場する「きつね」や「山猫」は、イソップ童話のような類型的タイプではありません。「きつね」が女性にやさしい文学青年だったり、「山猫」が権威のある裁判長だったりします。しかし、それはそれで、宮沢賢治が考える独自の「きつね」像、「山猫」像――それらの“種類”を示しているのです。

 『よだかの星』の「よだか」は、夜行性、虫を食物とする捕食性、醜い顔かたち、といった、「よだか」という鳥類種の特性を体現しています。その一羽の「よだか」に対して、種類を体現する「よだか」という名前を捨てて、「市蔵(いちぞう)」という・ありふれた名前に改名しろという「鷹」の命令は、アレゴリーを捨てて近代社会のなかに埋没せよと命じていることにほかなりません。「よだか」は、その命令を拒否して、近代社会には受け容れられない自己を保存するために、どこまでも高く昇って行き、そして命を落として永遠に光り輝くのです。

 『龍と詩人』での命名のしかたも、適当にカタカナを並べているわけではなく、↑上のように“謎解き”をしてみれば、大江健三郎の小説と同じように、各人物の性格、役割、この童話全体のテーマを暗示するような“タイプ名”になっていることが、わかります。






【6】いつ書かれたのか?



 『龍と詩人』の内容に入ってゆく前に、基礎的な考察をもう一つやっておきたいと思います。この童話は、いつごろ書かれたのか、ということについてです。

 『龍と詩人』の現存草稿の末尾には、


「一〇、八、二〇」


 という漢数字が書かれています。これは、「大正10年8月20日」のことだと理解されています。つまり、大正10年(1921年)8月20日にこの童話が書かれたのだと、深く考えなければ、そういうことになります。

 そして、これを、賢治自身が公刊した唯一の童話集『注文の多い料理店』の目次に記された《作品日付》と比較してみると、童話集中もっとも《作品日付》の早い「かしはばやしの夜」(大正10年8月25日付)の5日前に、『龍と詩人』が書かれたことになります。

 また、唯一の公刊詩集『春と修羅』収録作の《作品日付》は、約半年後の 1922年1月からはじまっています。

 そこで、通説的な見解は、『龍と詩人』は、童話集『注文の多い料理店』の諸作品が執筆される直前に、いわば童話と「詩への出発」の「宣言」として書かれたものだとしているのです:



「大正十年は彼の生涯の最も生彩に富む年であった。全集の年譜によれば、この年に於いて、上京を決行したこと・多くの童話作品の制作に没頭したこと・短歌との訣別・音楽への関心・農学校教諭に就任などのことがあった。そして作詩の道を踏み出したのは実にこの年と目されるのである。それだけに『龍と詩人』は、若々しい調子の張ったものとなっている。

     
〔…〕

 この作品の中でスールダッタを以て賢治自身に擬していることは明かである。

     
〔…〕

 この作品は彼の詩観が明かにされ、直接には『春と修羅』に先行し、広く言って彼の文学全般に対する創作態度の基盤と見なすことができる。 

     
〔…〕

 詩人時に 26歳、美丈夫スールダッタとして詩への出発を宣言した。青春の覇気と憧憬とに匂う秀作であろう。」

恩田逸夫「『龍と詩人』――詩作への宣言」,in:続橋達雄・編『〈初期作品〉研究』,1976,学芸書林,pp.150,153,156-157.






 
伊良湖岬 恋路ヶ浜  






 童話集『注文の多い料理店』のなかで
「最初の日付を有する『かしはばやしの夜』の 5日前に書かれた『龍と詩人』について考えておく。これは、すでに東京での生活から吸収すべきものは吸収して、その生活に終止符を打つ心構えが出来、これからの新生活への抱負を示した作品である。〔…〕

 『龍と詩人』に盛られた抱負は、
〔…〕つまり、彼の帰郷後の新しい生活とは、文芸意識の高揚と、自然に主体を置く郷土性の尊重、という二点を特色としているのである。

 『かしはばやしの夜』は、制作年次を接している点で、『龍と詩人』と並んで当時の創作意欲の高揚を示す具体的な現れと考えてよいであろう。『龍と詩人』が新しい詩業開始――実は詩のみではなく文芸をふくむ彼の世界観の基底を示すものであるが――の宣言であるとすれば、『かしはばやしの夜』は、本格的に童話を書こうと意図した折の第一作である。」

恩田逸夫「『童話集』作品の制作年次」,in:続橋達雄・編『「注文の多い料理店」研究T』,1975,学芸書林,pp.87-88.




 つまり、通説によれば、宮沢賢治は、この『龍と詩人』で、「彼の詩観」・童話観を明らかにしたうえで、詩と童話の制作を開始した、つまり、この作品は“宮沢文学のマニフェスト”である、―――ということになります。

 なるほど、このように言うと、たいへんにカッコいいのですが、しかし、はたしてそんなことが、実際にありうるのでしょうか? 《作品日付》(『春と修羅』と『注文の多い料理店』の目次に記された各作品の日付)を見ると、『注文の多い料理店』の収録作品は、1921年8月25日から22年4月7日までの約半年間、『春と修羅』に至っては、1922年1月6日から23年12月10日までの約2年間にわたっています。

 詩や童話の創作は、工場生産ではありません。これだけ長い期間をかけて書かれた作品が、最初に計画したとおりに整然と作りだされて行くなどということは、ちょっと考えられないのではないでしょうか。むしろ、作者の詩観・童話観というようなものは、1作書いては考え直し、また1作書いては考え直し‥‥というようにして、最終的に全作品を書き終えた時点で、おのずと形成されてくるものではないでしょうか?

 まして、宮沢賢治の場合には、いちど書かれた詩や童話が、度重なる推敲と改作によって、大きく変貌してゆく場合が大部分なのです。その過程で、作者の創作姿勢と文学観もまた、変更・発展を免れないと思われます。

 そういうわけで、『龍と詩人』が、制作に先立って書かれた“開始宣言”だとする通説に対しては、大きな疑問を抱かざるをえません。むしろ、すべてを書き終えた後で、出版を前にして、執筆の中で熟してきた詩観・童話観を、物語の形に託して一気に書き下ろしたのが、この童話なのではないか? ―――そのようにも考えられるのです。

 『注文の多い料理店』の「序」は、1923年12月20日、『春と修羅』の「序」は、翌1924年1月20日という日付を持っています。これらは、賢治が、それぞれの作品の出版準備を一応終えた時点で書いた“まえがき”です。したがって、『龍と詩人』が、これらの童話集、詩集の内容に関連する詩観・童話観を表明したものだとすれば、その執筆時期も、これらの「序」と同じころではないかと考えられます。



 もちろん、作品の成立時期という客観的なことがらを、頭の中の考え方によって決めつけてしまうのは危険です。断定するためには、客観的なデータによる実証が必要です。しかし、それはたいへん細かい話になりますし、『龍と詩人』の内容の分析が前提になる部分もありますから、のちほど‥‥何回かあとに論じたいと思います。

 ここでは、とりあえず、


 『龍と詩人』が書かれたのは、『注文の多い料理店』と『春と修羅』の出版に先立つ 1923年末〜1924年はじめころ。


 という仮定―――のちほど“実証”を経たうえで、ほぼこのとおりの結論になるのですが―――で話を進めたいと思います。







『龍と詩人』現存草稿 最終葉






 さいごに、『龍と詩人』草稿について、客観的なデータを少し紹介しておきます。

 すでに述べたように、現存草稿の末尾には、「一〇、八、二〇」という《作品日付》が記されているのですが、この日付(1921年8月20日と解される)について、『新校本全集・校異篇』には、つぎのような但し書きが書かれています:



「但し本文の字体からいえば本稿成立は大正十一年以後と推定される。」



 つまり、草稿の賢治の筆跡は、1922年以後のものだというのです。宮沢賢治の場合、年代による筆跡の変化は非常にはっきりしていて、例外がなく、筆跡による年代の推定には信頼性があります。

 ↑上に張りつけたのは、『新校本全集』に掲載された草稿の写真ですが、「お」の“点”が繋げて書かれています。『新校本全集・草稿通観篇』,p.12.によれば、



「つなげて書かれるようになる変化が起るのは大正11年中のことかと推定される(大正12年4月に新聞発表の『やまなし』の初期形下書稿[和半紙使用]では、すでにすべてつなげて書かれている)」



 そうすると、『龍と詩人』の現存草稿も、『やまなし』初期形と同じころか、それ以後ということになります。↑写真を見ると、点の繋げ方は過剰なくらいです。『龍と詩人』現存草稿の成立は、1923年(大正12年)以後と推定できるでしょう。

 したがって、少なくとも現存草稿の成立は、『注文の多い料理店』の全《作品日付》(最終は「山男の四月」の 1922年4月7日)よりも、ずっと後になるのです。

 もっとも、ここで問題になるのは、現存草稿は『龍と詩人』の最初の草稿なのか、それとも、破棄されたもっと古い草稿があって、現存はそれを清書したものなのか、ということです。

 『新校本全集・校異篇』によると、この草稿は、4枚の「和半紙」(うち3枚のみ現存)の各片面に鉛筆で書かれています: 



「草稿の第1形態は、用紙のおもてに鉛筆でなされた下書であり、これに対する推敲は、第1形態成立時およびその直後の、鉛筆による手入れのみ。」



 どこにでもある「和半紙」ですから、用紙の種類から執筆年代を推定することはできませんが、原稿用紙ではなく「和半紙」であるという点、および鉛筆で書かれている点から見ると、清書ではなく、インスピレーションの湧くまま、メモのようにして書き下ろされた最初の草稿とも考えられます。↑上の写真を見ても、書きながらの大きな訂正が何ヶ所もあり(訂正挿入を書いたあとで、少し開けて次の行を書いている)、ある程度の速さで一気に書き下ろされたようにも見えます。

 その場合、《作品日付》は、何を意味するのでしょう? 詩の場合には、宮沢賢治の《作品日付》は、完成年月日ではなく、最初に「スケッチ」をメモした日付、ないし、その詩が生まれたきっかけとなるできごとのあった日付だと理解されています。というのは、10年近くにわたって何度も書き直された詩作品でも、最初の《作品日付》が、そのまま最後まで踏襲されていくからです。

 『龍と詩人』の場合もそれと同様だとすれば、「一〇、八、二〇」(1921年8月20日)は、最初の思いつき、ないしきっかけのあった日、……たとえば、芥川の『龍』をその頃に読んだ、といったことが考えられます。

 しかし、現存草稿は清書であって、もっと前に、もっと不完全な、手帳のメモ書きのようなものがあった、ということも考えられなくはありません。その場合には、「一〇、八、二〇」は、最初のメモ書きを記した日なのかもしれません。

 いずれにせよ、現存草稿が、1921年に書かれたものでないことは、筆跡から見て間違えありません。

 そういうわけで、『龍と詩人』の成立時期、つまり現存テクストとほぼ同じものが最初に書かれたのはいつか?‥という問題に関しては、筆跡は決め手にならない―――ということになります。“実証”は、なかなか難しいのです。






 








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カテゴリ: 宮沢賢治

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