03/13の日記

15:15
【宮沢賢治】風と雲と波のうた――『龍と詩人』(1)

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奈良 猿沢の池  









 こんばんは (º.-)☆ノ




 芥川龍之介には『龍』という、古典説話に取材した短篇小説があり、宮沢賢治には『龍と詩人』という短い童話があります。

 この賢治の童話は、芥川の『龍』を読んで得たモチーフにもとづいて、書かれたのではないか?――というのが、今回の連載のテーマです。






【1】芥川の『龍』と賢治



 芥川龍之介の短編小説『龍』は、1919年に発表されています。


「『龍』は大正八年(一九一九)五月一日発行雑誌『中央公論』第三四号第五号に掲載され、のちに単行本『影燈篭』(一九二〇(大正九)年一月二八日発行、春陽堂)『地獄変』(一九二一(大正一〇)年九月二八日発行、春陽堂)に収められた」

芥川龍之介『龍』試論 小野塚力


 宮沢賢治には、『龍と詩人』という短篇童話があり、原稿に記された作品日付は、1921年8月20日です。芥川の『龍』が掲載された『中央公論』誌は、賢治が当時愛読していた雑誌のひとつでしたし、その後、芥川の2つの短編集に収録されていますから、賢治が『龍』を知らなかったと思うほうが無理でしょう。賢治は、芥川の『龍』を読んだのがきっかけで、また何らかのヒントを得て『龍と詩人』を書いたと推測することは、おかしなことではないと思います。

 もっとも、芥川の短篇と宮沢の童話とは、ストーリーも全然違いますし、一見して目立つような関連もありません。

 芥川の『龍』は、宇治拾遺物語の一話に取材した小説で、


 「蔵人得業」という奈良の僧が、イタズラで、猿沢の池の畔に、「三月三日この池より龍昇らんずるなり」という立て札を立てたところ、見た人々は本気にしてしまい、当日は遠来の見物客を含む人だかりが池の周囲で注視するなか、ほんとうに龍が昇ってしまう


という筋です。

 宇治拾遺のもとの説話では、人々は本気にして見物したけれども、龍は現れなかったという話になっているのを、現実に昇龍が目撃されてしまう点に、芥川の創意があるとされています。


 宮沢賢治の『龍と詩人』のほうは、


 「詩賦の競ひの會」で優勝した「スールダッタ」という青年が、彼の「うた」は、海岸の洞窟に幽閉された「チャーナタ老龍」の歌をぬすみ聞いたものだと、誰かが森でひそひそ語る声を聞いて、龍を訪ね、許しを乞う。しかし、チャーナタは、「あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。」と答え、スールダッタに、「埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げる」宝珠を与える。スールダッタは、老いた母が「天に生れたならば」この宝珠を奉じて「大經を探」ることを約束し、それまでは毎日ここに来て、「水を見、雲をながめ、新らしい世界の造營の方針をおまへと語り合はうと思ふ。」と述べる、


という筋です。

 一見して、芥川の短篇とはまったく無関係な筋書きに見えますし、両者に関連があると主張した論文は、管見の限りでは見当たりません。しかし、賢治が『龍』から得たヒントなり着想(モチーフ)はあったはずです。それは、作者の意図を超えて“言葉がひとり歩きしてしまう”ということだと思うのです。

 芥川の短篇でも、宇治拾遺でも、ひと騒ぎ起こしてやろうとして嘘の立札を立てた本人の目論見をはるかに凌駕して、昇龍の予想が遥か遠国にまで評判になってしまい、しまいには本人までが自分の嘘を半ば信じ、問題の日に見物人の群れに加わってしまう。そして、芥川の短篇では、じっさいに昇龍を目撃することになる。「蔵人得業」の立札の言葉は、書いた本人の意図を超えて、意図を覆す事態をもたらすわけです。

 賢治の『龍と詩人』では、青年スールダッタが「歌の競べ」で歌った「うた」は、勝利の栄冠を勝ち取っただけでなく、「いちばん偉い詩人のアルタ」をチャンピオンの座から降ろし、地の果てに追いやってしまった。アルタは、スールダッタを高座に昇せ、自分が被っていた「草蔓」の桂冠を彼の頭に被せて、新しい桂冠詩人を讃える「四句の偈」を唱えると、「じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓に去っ」て行った。

 それをスールダッタは、自分の剽窃した「うた」がもたらした災いと考え、


「わたくしはあしたから灰をかぶって街の廣場に座り、おまへとみんなにわびようと思ふ。あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。」

宮沢賢治『龍と詩人』より。


 と言って懺悔するのです。







奈良 興福寺






 もっとも、著者芥川が、短篇『龍』で、“言葉がひとり歩きしてしまう”というテーマを主張している、と言うことは、できないかもしれません。『龍』について、この小説が何かのアレゴリー(たとえ話)だとする評釈は、あまり無いようです。わずかに、↑上記の小野塚力氏の「試論」は、立札の「三月三日」を、芥川が教職勤務を片付けるために東京の自宅から鎌倉の下宿に移った日付に重ね、「作家として一本立ちしていこうとする決意」を、昇龍の比喩で表したものだと論じています。また、蓮實重彦氏が座談会の中で、つぎのように語っているのがあるくらいです:


「蓮實 奈良の猿沢の池だったかで、龍が昇るとか昇らないっていう話があるでしょう。最後に龍が昇ったっていう話ね。あれは要するに昇るぞ昇るぞとみんなが言っていると、昇らない龍も昇らされてしまうというだけの話なのよ。

 三浦 ファーブルですね。
〔誤った寓話に対する批判の意か? アンリ・ファーブルは、動物寓話は昆虫の生態を不正確に教えているとして、『昆虫記』で厳しく批判している――ギトン注〕

 蓮實 そう。寓話であって、彼
〔芥川龍之介――ギトン注〕の場合は昇るぞ昇るぞという、プロレタリアが来るぞ来るぞといったら本当に来ましたという、そういう話にも重なってる。」
柄谷行人・編『近代日本の批評T』,1997,講談社文芸文庫,pp.118-119.



 しかし、著者芥川の意図とは別に、賢治は、“言葉がひとり歩きしてしまう”というモチーフを、この小説から受け取ったのだと思います。じっさい、この場合に限らず、宮沢賢治の読書は、読んだものをすばやく自己流に消化してしまうような読み方だったと思われます。






【2】『宇治拾遺物語』と芥川の『龍』



 そこでまず、芥川の小説のもとになった『宇治拾遺物語』を見ておきたいと思います。長い文章ではないので、以下に全文を引用します:




      蔵人得業
(くらうどとくごふ)猿沢の池の龍の事

 これも今は昔、奈良に、蔵人得業恵印
(ゑいん)といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」といひけるを、後ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞいひける。なほ後々には、「鼻蔵(はなくら)鼻蔵」とのみいひけり。

 それが若かりける時に、猿沢の池の端
(はた)に、「その月のその日、この池より 龍登らんずるなり」といふ札を立てけるを、往来(ゆきき)の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」と、ささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を、人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中にをかしく思へども、すかしふせんとて、空知らずして過ぎ行く程に、その月になりぬ。大方大和、河内、和泉、摂津国の者まで聞き伝へて、集ひ合ひたり。

 恵印、「いかにかくは集る。何かあらんやうのあるにこそ。怪しき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行く程に、すでにその日になりぬれば、道もさり敢へず、ひしめき集る。

 その時になりて、この恵印思ふやう、ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそと思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて、 頭
(かしら)つつみて行く。大方近う寄りつくべきにもあらず。興福寺の南大門の壇の上に登り立ちて、今や龍の登るか登るかと待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。

 暗々になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、 盲
(めくら)が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、 盲とりもあへず、「あらじ。鼻くらななり」といひたりける。

 この恵印を、鼻蔵といふとも知らざりけれども、めくらといふにつきて、「あらじ。鼻暗
(はなくら)ななり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合はせたるが、をかしき事の一つなりとか。
小林智昭校注‧訳『宇治拾遺物語』,日本古典文学全集,小学館.より[PDF]






 
     興福寺 南大門跡
 南大門じたいは焼失していますが
    基壇は残っています。






 「3月3日」ではないけれど、『宇治拾遺』の立て札にも「〇月〇日」という特定の日付が書かれていました。

 立札を立てた得業恵印は、最初のうち、人々が読んで本気にするのを見て、「俺のしたことで、みんなが騒いでやがる。ばかなやつらだな。」と嘲笑っていました。ところが、問題の日が近づくと、「大和、河内、和泉、摂津国の者まで聞き伝へて」昇龍の見物をしに、おおぜいの人が集まって来ます。それを知った恵印は、「これは、ただごとではない。何か理由のあることだ。」などと思い始めるのです。そして、当日は、「きっと龍が昇るにちがいない。」と確信して、「頭つつみて」、猿沢の池のそばにある興福寺・南大門の壇の上へ上がって、池を注視しているのです。

 「頭つつみて」は、頭巾か何かをかぶって頭を隠し、坊さんであることがわからないようにして出かけたのでしょう。この時代(鎌倉時代)には、僧侶は身分の高いインテリでしたから、そういう人が、猿沢の池から龍が昇るなどといういいかげんなウワサを信じることは、恥ずかしいことだったにちがいありません。


 龍が今昇るか、今昇るかと、一日待ち続けたが、「何が登るものか。日も落ちてしまった。」

 「暗々になりて、」のあとの2段落は、芥川のほうには無い部分です。真っ暗になってから、恵印が帰宅しようとして歩いていた時、橋の上で盲人とすれちがった。恵印が、ぶつかりそうになって、「おっと、危ないめくらだな。」と罵ると、盲人はさっと言い返して、「ちがうだろ。おまえこそ、めくらじゃなくてハナクラだ。」と言ったというのです。「めくら」と罵られたので、「鼻くら」と言い返しただけなのですが、その言葉が、恵印のアダ名「鼻蔵」と一致してしまったという笑い話です。

 おそらく、『宇治拾遺』の作者の意図は、高位の僧侶は、知識を誇っているけれども、実生活においては、自分のでっち上げたウソに騙されてしまうほど愚かで、かえって、眼の見えない人のほうが賢い、――ということを言いたいのだと思います。『宇治拾遺物語』には、修業僧 vs 猟師など、僧侶を庶民と対比して風刺した説話が少なくありません。漢文のお経が読める僧侶よりも、無学の者のほうが、実際的な知恵があって聡明だ、というのです。また、網野善彦氏によれば、当時の盲人や身体障碍者は、非人や芸能民と同じ“漂泊民”であり、皇室につながる者として尊ばれていたといいます。(網野氏の日本史観の分かりやすい解説は⇒:こちら



 さて、芥川の『龍』のほうは、“昇龍”の当日に至るまでのストーリーは、『宇治拾遺』とほぼ同じです。立札を見た人々が、昇龍の予言を信じこんでゆく過程、またそれを見て得業恵印が錯覚に陥ってゆく過程が詳しく書かれており、そこには、説話物語とは異なる“心理小説”の趣きがあります。人と人との心理的なやり取り、かけひきを書くことに、この時代(大正〜昭和戦前期)の“純文学”の真面目
(しんめんもく)があったわけです。

 それを考えると、宮沢賢治という作家が、いかに同時代の“近代文学”から懸け離れていたかがわかります。賢治の作品で、心理的なやり取りが描かれているものは、『十六日』という習作短篇がただひとつあるきりなのです。

 ともかく、芥川の心理的な部分は、賢治には全く影響を与えていないので、この部分は飛ばして、得業恵印らの見ている前で“昇龍”が起きる場面を見たいと思います:




「すると恵印がそこ
〔興福寺南大門の壇の上〕へ来てから、やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のような一すじの雲が中空(なかぞら)にたなびいたと思いますと、見る間にそれが大きくなって、今までのどかに晴れていた空が、俄にうす暗く変りました。その途端に一陣の風がさっと、猿沢の池に落ちて、鏡のように見えた水の面に無数の波を描きましたが、さすがに覚悟はしていながら慌てまどった見物が、あれよあれよと申す間もなく、天を傾けてまっ白にどっと雨が降り出したではございませんか。のみならず神鳴(かみなり)も急に凄じく鳴りはためいて、絶えず稲妻が梭(おさ)のように飛びちがうのでございます。それが一度鍵の手に群る雲を引っ裂いて、余る勢いに池の水を柱のごとく捲き起したようでございましたが、恵印の眼にはその刹那、その水煙と雲との間に、金色(こんじき)の爪を閃かせて一文字に空へ昇って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として映りました。が、それは瞬く暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花がまっ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます――度を失った見物が右往左往に逃げ惑って、池にも劣らない人波を稲妻の下で打たせた事は、今更別にくだくだしく申し上るまでもございますまい。

 さてその内に豪雨もやんで、青空が雲間
(くもま)に見え出しますと、恵印は鼻の大きいのも忘れたような顔色で、きょろきょろあたりを見廻しました。一体今見た竜の姿は眼のせいではなかったろうか――そう思うと、自分が高札を打った当人だけに、どうも竜の天上するなどと申す事は、なさそうな気も致して参ります。と申して、見た事は確かに見たのでございますから、考えれば考えるほど益(ますます)不審でたまりません。

 
〔…〕後で世間の評判を聞きますと、その日そこに居合せた老若男女は、大抵皆雲の中に黒竜の天へ昇る姿を見たと申す事でございました。

 その後恵印は何かの拍子に、実はあの建札は自分の悪戯
(いたずら)だったと申す事を白状してしまいましたが、恵門を始め仲間の法師は一人もその白状をほんとうとは思わなかったそうでございます。」
芥川龍之介『龍』より。















 よく読んでみると、芥川は決して「龍が昇った」とは書いていません。「恵印の眼にはその刹那、……昇って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として映りました。」としか書いていないのです。正確に読もうとすれば、恵印の眼には昇龍のような映像が映ったけれども、それは朦朧としていて、ほんとうに龍なのか、それとも眼の錯覚なのか、判断がつかなかった、とも取れます。恵印は、見たあとで、「一体今見た竜の姿は眼のせいではなかったろうか――そう思うと、……どうも竜の天上するなどと申す事は、なさそうな気も致して参ります。と申して、見た事は確かに見たのでございますから、考えれば考えるほど益不審でたまりません。」というのです。自分のウソを信じ込んでしまった『宇治拾遺』の恵印とは違って、芥川の恵印は、あくまでも近代人です。自分がでっち上げたウソなのだから、決して実際には起こらないはずだ、という論理的思考のまわりを、堂々巡りすることになります。

 ともかく、恵印は見たし、「その日そこに居合せた老若男女」は、みな見たのです。

 芥川の『龍』は、じっさいに龍が昇った話だ、と単純に言うことはできないと、ギトンは思います。芥川はここで、“事実とは何か?”という問題を、読者の前に提起していると思うのです。

 繰り返して言いますが、芥川は、龍が昇ったとは言っていません。しかし、昇らなかったとも言っていないのです。その日そこにいた人には、龍が昇ってゆくのが見えた、龍が昇らないことをいちばんよく知っているはずの得業恵印にさえ見えた、と言っているだけです。そして、この時に龍が昇ったことは、歴史的事実として人々に記憶されてしまった。後になってから、「あれはじつは私が流したデマだった。」と、得業恵印がいくら言っても、誰も信じなかった、というのです。






【3】言葉と事実



 芥川の『龍』は、立札の予告を人びとが信じ、その噂が広まってゆく過程を、たいへん詳しく、長々と書いています。そのために、著者芥川の意図とは別に、言葉が、それを書いた人の手を離れて“ひとり歩き”し、社会的な力を持つようになる状況が、強く印象付けられることになります。

 いや、単に社会的な力にはとどまらないかもしれない。“龍が昇る”という、人間の社会を超えた自然的事実にまで、言葉は影響を及ぼすのか?‥ そういうシビアな問題にまで、ことは及んでいると思われるのです。

 いや、及ぼすわけがない‥ 自然現象は、人間の意図や願望とは無関係だ‥ そう思うのが近代人の思考です。それが正しいのかもしれない。しかし、一歩下がって見ると、いったい“事実”とは何なのか?‥という問題に逢着します。自然現象の“事実”とは、言葉(物理学は言葉だし、数も数式も図形も、一種の言葉です)と無関係にありうるものなのだろうか?‥という疑問がわきます。

 芥川の『龍』は、近代人化した得業恵印を、近代からもういちど引きはがして、中世社会の環境に放り込んだようなものです。そこでは、言葉が世界を創造するのか?。。。

 さきに引用した蓮實重彦氏の言い方を借りると、



「昇るぞ昇るぞとみんなが言っていると、昇らない龍も昇らされてしまう」



 ...そういう問題がある。これは、少なくとも社会現象としては、よくわかります。今日の社会では、たとえば、中央銀行の総裁が「公定歩合を上げる。」と発言すると、それだけで、公定歩合が実際に上がったのと同様の経済効果が現れる、といった現象があります。芥川や宮沢賢治の時代よりも、この点は、はるかにわかりやすくなっていると言えます。

 世界は、もう“近代”を離れて“ポスト近代”に入り込んでいるのかもしれません。

 賢治は、いまからちょうど 100年前に、蓮實氏にかなり近い読み方で『龍』を読んでいたのかもしれません。しかし、賢治の読みは、「みんなが言っていると」――という、言葉の集団的な効果にまで及んでいただろうか?‥言葉の社会的・集団的な効果に対して、賢治は、どう考えていたのか?‥これらの点を、のちほど賢治のテクストにあたって、慎重に見極めていきたいと思います。

 ↑さきほど書いた『龍と詩人』のあらすじでは、集団的な問題は、前面に出てきてはいないようでしたから。。。






 
奈良 春日大社 金龍神社  






【4】「龍」から見た世界



 宮沢賢治の『龍と詩人』が、『宇治拾遺』および芥川と、いちばん大きく違う点は、洞窟の中にいる「龍」自身の独白で物語が始まっていることです。宮沢の「龍」は、人間並みの内面を持ち、「龍」が思い悩む考えや、龍が見ている洞窟の中のけしきが、まず描かれるのです:



「龍のチャーナタは洞のなかへさして來る上げ潮からからだをうねり出した。

 洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。

 チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のやうにきらきら光る海の水と淺黄いろの天末にかゝる火球日天子の座を見た。

 (おれはその幾千由旬
〔ゆじゅん〕の海を自由に潜〔かづ〕き、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。それだのにおれはこゝを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛〔から〕く外をのぞくことができるに過ぎぬ。)
 (聖龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪
〔のろひ〕をお解きください。)

 チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかへり見た。そのとき日光の柱は水のなかの尾鰭に射
〔さ〕して青くまた白くぎらぎら反射した。」
宮沢賢治『龍と詩人』より。




 「潜
(かず)く」は、「(水に)もぐる」という意味の古語です。リンク先の《青空文庫》テクストが「漕ぎ」となっているのは、底本の編集ミス。ここは、『新校本全集・校異篇』によって訂正しました。

 万葉集(4-725)に、


「にほ鳥のかづく池水こころ有らば 君に吾が恋ふ情示さね」


 という歌があります。「にほどり」は、カイツブリ。

 「由旬」は、古代インドの長さの単位。ヨージャナ。約 7km。



 『宇治拾遺』の作者も、芥川龍之介も、龍は、天に昇ってゆくということしか考えません。つまり、龍は、生きた対象ではなく、何かの理念(神とか、怪物とか…)を示す記号にすぎないのです。それが、ふつうの人の考えです。

 しかし、宮沢賢治は、昇る前と後の龍を想像します。昇る前には、龍は何をしているのか? 昇ったあとは、何をしているのか? 龍は生き物である以上、昇る前にも、昇ったあとにも、生活があるはずです。


「おれはその幾千由旬
〔ゆじゅん〕の海を自由に潜〔かづ〕き、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。」



 のち(1928年以後?)の習作作品ですが、「花鳥図譜 五月」の草稿には、空を飛ぶ龍が現れます。翅
(はね)の生えた龍というのは、ユニークな想像です。「翅」という字からして、バッタか、トンボのような薄い羽根なのでしょう。『風の谷のナウシカ』に出て来る腐海の生物を思い浮かべますね:


「(あらドラゴン!)

 (まあドラゴンが飛んで来たわ)

   空気がぬるみ
   跨線橋天球面にまっ黒です

 (ドラゴン、ドラゴン! 香油をお呉れ)

 (ドラゴン! ドラゴン! 香油をお呉れ)

 (あの竜
(ドラゴン)、翅が何だかびっこだわ)

 (片っ方だけぴいんと張って東へ方向を変へるんだわ)

 (香油を吐いて落してくれりゃ、座主
(マスター)だって助かるわ)

      
〔…〕

 (あゝ竜
(ドラゴン)の香料か。あれは何でもから松か何か
  新芽をあんまり食ひすぎて、胸がやけると吐くんださうだ)」

宮沢賢治『補遺詩篇T』「春 水星少女歌劇団一行」〔下書稿(二)〕より。

 1行空けの段落は引用者。













 また、「龍」のいる洞窟の中には、「龍」以外にも、さまざまな小動物がいます。考えてみれば、一匹しか動物のいない空間など、この地球上にはありえないのですから、これは当然のことです。賢治の想像力は、どこまでも現実的かつ具体的なのです。


「洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩
〔…〕につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。」








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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