12/13の日記

14:58
【宮沢賢治】「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(2)

---------------
.




 









 こんばんは (º.-)☆ノ





 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(1)

 からのつづきです。








 【4】岩手の秋と北方のオブジェ




 先住民と北方の大地に対して戦前の日本人が―――もちろん、ロシア人とソヴィエト共産党員も日本人に劣らず―――行なってきた収奪について、戦後の私たちは、あまりにも無知、無感覚ではなかったでしょうか?

 宮沢賢治自身はと言えば、戦前のきわめて厳しい時代的制約のなかにいたにもかかわらず、彼特有の詩人感覚、いわば詩的な社会感覚によって、近代化・植民地化の問題点を鋭く嗅ぎつけていました。なるほど、賢治がそれを正面からの議論として主張したことは、おそらく無かったでしょう。しかし、その痕跡は作品のはしばしに残されているのです。



      ◇      ◇



 『サガレンと八月』の執筆年代については、1923年8月のサハリン旅行以後、1925年以前と推定されています(入沢康夫『プリオシン海岸からの報告』,pp.21-22)。サハリン旅行より後と見られるのは、前回引用した冒頭の「風」「波」と語り手の海岸での対話が、サハリン・栄浜(スタロドゥプスコエ)海岸の体験を踏まえていると思われるからです。この海岸での散策と休息については、『春と修羅』収録の「オホーツク挽歌」に、心象スケッチ詩という異なる形式・観点で描かれていて、両者の比較が参考になります。

 他方、「火薬と紙幣」のほうは、サハリン旅行から帰ってきた後の岩手での心象スケッチ詩で、『春と修羅』の目次に、「1923.9.10.」の日付が付いています。ただ、この詩の本文には:


「酸性土壌ももう十月になったのだ」


 と書かれた部分があり、また、目次の前後から判断して、この日付は「1923.9.30.」「1923.10.9.」等の誤植と思われます。



∇ 参考記事⇒:
《ゆらぐ蜉蝣文字》【82】火薬と紙幣




 この詩は、サハリンではなく岩手の風景を書いているのはまちがえないと思われるのですが、「ギリヤーク電線」ということばが出てくるだけでなく、描写のあちこちに、日本ばなれした北方、ないし寒い土地の自然を思わせる表現が目につきます。

 「火薬と紙幣」を、最初の行から読んでみたいと思います。『春と修羅』初版本として発表される前の【印刷用原稿】のテクストで、まず見ておきます:






「萓
〔かや〕の穂は赤くならび
 カシュガルの苹果
〔りんご〕の果肉よりもつめたい雲
 鳥は一ぺんに飛びあがって
 ラッグの音譜をばら撒きだ

    古枕木を灼いてこさえた
    黒い保線小屋の秋の中では
    四面体聚形の一人の工夫が
    米国風のブリキの缶で
    たしかメリケン粉を捏ねてゐる

 鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
 一ぺんつめたい雲の下で展開し
 こんどは巧に引力の法則をつかって
 遠いギリヤーク電線にあつまる

    赤い碍子のうへにゐる
    そのきのどくなすゞめども
      
〔…〕
『春と修羅』「火薬と紙幣」【印刷用原稿】

 1行空けの段落は引用者



 この部分では、【初版本】テクストとの相違は、内容にかかわらない言葉づかいの異同以外ありません。



 「カシュガル」はシルクロードの要衝都市で、タリム盆地の西の端、西域北道(天山南路)と西域南道が出会う地点。北緯39°ですが、7月の平均気温25.6℃、1月の平均気温 -5.1℃と、冬はかなり寒いです。緯度の高い札幌(北緯43°,8月の平均気温22.3℃、1月の平均気温 -3.6℃)よりも冬は寒い。もちろん、サハリン(ユジノサハリンスクが北緯47°,1月の平均気温 -12.2℃)ほど寒くはないですが。

 しかし、賢治は、「カシュガルのりんごの果肉よりもつめたい雲だ」と言っていますから、非常に寒い土地をイメージしていたようです。天山山脈の麓ということから、そう思ったのでしょうか。リンゴが名産なのは、そのとおりです。


∇ 参考画像(カシュガル,四面体聚形)⇒:
【ラグタイム(1)】





 そのつぎの字下げの5行。「古枕木を灼い」た「保線小屋」があるということは、作者の目の前には鉄道の線路があるということです。場所は、花巻の近くなのか、盛岡方面なのか、わかりませんが、『春と修羅』収録の一つ前の詩「第四梯形」が、橋場線(現・秋田新幹線田沢湖線)の車窓から見た《七ツ森》をスケッチしていますから、ここは《七ツ森》を過ぎた雫石付近かもしれません。ともかく、ここには、収穫まじかの水田と、その傍らを走る鉄道、そして「電線」があります。

 「四面体聚形の一人の工夫」については、のちほど詳しく検討しますが、「四面体聚形」とは、四面体(三角錐)がいくつか集まった立体図形のことです。↑上の参考画像にあるような、角ばった固形のイメージで人体をとらえているということだけ、ここでは押さえておきたいと思います。

 この角ばった立体は、キュビスムの絵画↓を連想しないでしょうか? 「ラッグの音譜」つまりラグタイムとともに、当時最先端の流行文化だったモダニズムのイメージが加わっていると思います。







パブロ・ピカソ「素人闘牛士」(1912年)






 「火薬と紙幣」のつづき:



「鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
 一ぺんつめたい雲の下で展開し
 こんどは巧に引力の法則をつかって
 遠いギリヤークの電線にあつまる

    赤い碍子のうへにゐる
    そのきのどくなすゞめども
    きのどくさは口笛を吹いてゐるためか
    それともこんな新らしい濃い空気からくるか

 森はみんな群青に泣いてゐるし
 松林なら地被もところどころ剥げて
 酸性土壌ももう十月になったのだ

    私の着物もすっかり threadbare
    その陰影のなかから
    逞ましい向ふの土方がくしやみをする

 氷河が海にはいるやうに
 白い雲のたくさんの流れは
 枯れた野原に注いでゐる

   だからわたくしのふだん決して見ない
   小さな三角の前山なども
   はっきり白く浮いてでる

      
〔…〕
『春と修羅』「火薬と紙幣」【印刷用原稿】

 1行空けの段落は引用者



 【初版本】テクストでは、「きのどくさは口笛を吹いてゐるためか/それともこんな新らしい濃い空気からくるか」が、「口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば/たれでもみんなきのどくになる」に直されています。



 「氷河」は、さきほど見た工夫の「四面体聚形」とともに、固い塊のイメージで風景をかたどっています。

 そして、雲の「つめたい」塊りや、「カシュガル」、「ギリヤーク」、また、空の海に陥んでゆく「氷河」と「枯れた野原」の風景は、北方の大地のイメージを現出させています。

 「わたくしのふだん決して見ない/小さな三角の前山なども/はっきり白く浮いてでる」―――という字下げの3行から判るように、作者は、ふだん見なれた風景を、あらためて新しい眼で見直しているのです。


 すなわち、新たな季節のなかに身をおいて、新たに獲得した経験――ここでは、この夏のサハリン体験――を消化しつつ身の回りの風景を見直すことが、宮沢賢治お得意の《否定的‐統合的組成》のレトリック(⇒:『銀河鉄道の夜』(6)【1.13】争異するコンシストロジー ⇒:(7)【2.1】修辞的モダニズム)が現れる、ひとつの契機になっているのです。






 






「栗の梢のモザイックと
 鉄葉細工
(ぶりきざいく)のやなぎの葉
 水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
 枝も裂けるまで実ってしまった

    (こんどばら撒いてしまったら……
     ふん、ちゃうど四十雀のやうに)

 雲が縮れてぎらぎら光るとき
 大きな帽子をかぶって
 野原をおほびらにあるけたら
 おれはそのほかにもうなんにもいらない
 火薬も燐も大きな紙幣もほしくない
 ピアノのレコードだってあきらめてあきらめられなくない。」

『春と修羅』「火薬と紙幣」【印刷用原稿】

 1行空けの段落は引用者



 ↑これが、「火薬と紙幣」の最後の部分になります。この終盤では、「栗の梢のモザイック」「ブリキ細工のやなぎの葉」、「水のそばで‥‥枝も裂けるまで実ってしまった」「堅い黄いろなまるめろ」―――これらの硬質な、しかし適度に装飾的なオブジェが、冒頭のラグタイムのリズムを思い出させながら、快活なふんいきでこの作品を締めくくっています。



∇ 参考画像(栗の紅葉,マルメロ)⇒:
【ラグタイム(2)】






 「四十雀
(しじゅうから)」についての独白めいた呟きをへて、


「雲が縮れてぎらぎら光るとき
 大きな帽子をかぶって
 野原をおほびらにあるけたら
 おれはそのほかにもうなんにもいらない
 火薬も燐も大きな紙幣もほしくない
 ピアノのレコードだってあきらめてあきらめられなくない。」


 という結論的な意志表明で姿勢を正して終ることになります。もっとも、やや姿勢が退いてしまっている最後の行は、せっかくの真面目がぶちこわしになると思ったのか、印刷された【初版本】では削除されています。

 これらの意味について考えてみる必要がありそうです。









 【5】辺境へ伸びる鉄路と電柱の列






 まず、シジュウカラのくだりは、『春と修羅』8月28日付け「不貪欲戒」↓の( )書きの独白を受けています:



「油紙を着てぬれた馬に乗り
 つめたい風景のなか、暗い森のかげや
 ゆるやかな環状削剥の丘、赤い萓
〔かや〕の穂のあひだを
 ゆつくりあるくといふこともいゝし
 黒い多面角の洋傘
(かうもりがさ)をひろげ
 砂
(すな)砂糖を買ひに町へ出ることも
 ごく新鮮な企画である

    (ちらけろちらけろ 四十雀)

      
〔…〕

    (ちらけろちらけろ 四十雀
(しじふから)
     そのときの高等遊民は
     いましつかりした執政官だ)

 ことことと寂しさを噴く暗い山に
 防火線のひらめく灰いろなども
 慈雲尊者にしたがへば
 不貪慾戒のすがたです」

『春と修羅』「不貪欲戒」

 1行空けの段落は引用者



∇ 参考画像(環状剥皮,萱,シジュウカラ,防火線)⇒:
【秋 霖】













 「そのときの高等遊民は/いましつかりした執政官だ」――とは、どんな意味でしょうか?

 この時点で賢治は、県立農学校の教師でしたが、「執政官」でも役人でもありません。高等農林学校卒業時には、習得した農業技術をもとに役人になったり企業に就職したりする同級生を、あれほど軽蔑していた賢治でした:


「われは誓ひてむかしの魔王波旬の眷属とならず、

 又その子商主の召使たる辞令を受けず。」

宮沢賢治〔峯や谷は〕(1918年6月)より



「とにかくとにかく
 『私は馬鹿で弱くてさっぱり何もとり所がなく呆れはてた者であります。』
 と云ふ事をあなたにはっきりと申し上げて置きますからこれからさき途方もない間違が起って私がどんな事を云ってもあまりびっくりなさらんで下さい。

 返す返すも思ひ出します。魔王波旬に支配されてゐる世界、その子商主にへつらふ人々、あゝAも波旬と商主に齧ぢられた、Bも波旬にだまされた Cも商主に誘はれた それからXもYもZもみんなさっぱりとつれて行かれてしまった。私は又勿論今ひっぱられて泣きながらばたばた云ってゐます。

     
〔…〕
宮沢賢治書簡[83] 1918年7月25日付 保阪嘉内宛て より。



 それなのに、いまここで、「しつかりした執政官だ」というこの自負は、何を意味するのでしょう?‥‥作品そのものから一歩退いて、視野を広くして見る必要があると思います。



 ↑上で見たように、「火薬と紙幣」の最初の字下げ段落には、「古枕木を灼い」た「保線小屋」とその中で「メリケン粉」をこねている鉄道「工夫
(こうふ)」が描かれていました。つまり、ここには鉄道の線路が敷かれているということです。それに、「米国風のブリキの缶」と「メリケン粉」―――「メリケン」はアメリカンの訛り―――これらはみな、近代化を象徴する物です。

 宮沢賢治の詩、短歌、童話に、鉄道や電線、電信柱がひんぱんに出てくるのは偶然ではありません。この時代の日本でそれらは、めざましく進んでゆく“近代化”の象徴であり、“近代化”は同時に“帝国”体制の確立であり、周辺への膨張と“植民地化”でした。

 日露戦争後の 1906年公布された鉄道国有法によって、国内の主要鉄道路線が「官設鉄道」に一元化され、それと同時に対外的な植民地・権益獲得が本格化した(1905年ポーツマス条約による:サハリン島南部の領有権、関東州・南満州鉄道租借権の譲渡、ロシア沿海州沿岸漁業権、朝鮮半島の優越支配権の承認)のは、この国の“近代化”と“植民帝国化”が盾の両面であったことをよく示しています。

 日本帝国での鉄道国有化とその後の展開は、3年後の 1911年中国(清帝国)で鉄道国有化に対する反対運動から《辛亥革命》が勃発し、アジア最初の共和国国家が誕生したのと、まったく対照的です。鉄道国有化に対する国民の態度の相違が、この2つの国の近代史の方向を大きく別ったと言えます。



 官設鉄道は、“近代”と“帝国”の期待を担って、辺境へと進んでゆくのですが、その中途にある岩手県のような“準辺境”を、鉄道は通り抜けてゆくだけで、それほど大きな恩恵を落としてゆくわけではありません。むしろ一面では、線路によって地域が分断され、人と物の移動の激化によって、商品化の波と青田買い商人が自由に入り込んで来、農村の生活を景気変動に直結させました。

 賢治童話『二十六夜』には、鉄道によってフクロウの生息地が分断され、村の子供の心性は荒廃し、野生動物は生存の危機にさらされる状況が描かれています。またその中で、“近代化”への忍従を教えるだけで何ら救いとはならない浄土信仰の宗教に、人びと(野生のフクロウたち)が縋りついているすがたも描かれます。






 






 『シグナルとシグナレス』には、官設鉄道の本線と、地方の民営軽便鉄道とのあいだにある厳然たる格差、差別が描かれます。「本線シグナルつきの電信柱」は、本線の「シグナル」と、軽便鉄道の「シグナレス」の結婚を妨害するために、電信線づたいに、はるか東京の信号中継所を経由して軽便の電信柱に電信を送り、画策するのです:



「『お早う今朝は暖かですね』本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。

 『お早うございます』シグナレスはふし目になって、声を落として答えました。

 『若さま、いけません。これからはあんなものにやたらに声を、おかけなさらないようにねがいます』本線のシグナルに夜電気を送る太い電信柱がさももったいぶって申しました。

 本線のシグナルはきまり悪そうに、もじもじしてだまってしまいました。気の弱いシグナレスはまるでもう消えてしまうか飛んでしまうかしたいと思いました。

      
〔…〕

 その声は風下のシグナレスにはすぐ聞こえましたので、シグナレスはこわいながら思わず笑ってしまいました。さあそれを見た本線シグナルつきの電信柱の怒りようと言ったらありません。さっそくブルブルッとふるえあがり、青白く逆上
(のぼ)せてしまい唇をきっとかみながらすぐひどく手をまわして、すなわち一ぺん東京まで手をまわして風下にいる軽便鉄道の電信柱に、シグナルとシグナレスの対話がいったいなんだったか、今シグナレスが笑ったことは、どんなことだったかたずねてやりました。

 ああ、シグナルは一生の失策をしたのでした。シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信柱がいて、知らん顔をしてすまして空の方を見ながらさっきからの話をみんな聞いていたのです。そこでさっそく、それを東京を経て本線シグナルつきの電信柱に返事をしてやりました。本線シグナルつきの電信柱はキリキリ歯がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあ、まるでばかのようになってどなりました。

 『くそっ、えいっ。いまいましい。あんまりだ。犬畜生、あんまりだ。犬畜生、ええ、若さま、わたしだって男ですぜ。こんなにひどくばかにされてだまっているとお考えですか。結婚だなんてやれるならやってごらんなさい。
〔…〕』」
『シグナルとシグナレス』より。
原文は旧仮名遣い 






 そこで、『春と修羅』を、さきほどの↑「不貪欲戒」から見てゆくとします。



「油紙を着てぬれた馬に乗り
 つめたい風景のなか、暗い森のかげや
 ゆるやかな環状削剥の丘、赤い萓
〔かや〕の穂のあひだを
 ゆつくりあるくといふこともいゝし
 黒い多面角の洋傘
(かうもりがさ)をひろげ
 砂
(すな)砂糖を買ひに町へ出ることも
 ごく新鮮な企画である」


 「環状削剥の丘」――環状剥皮のように周囲を削りとられてしまった丘の森は、山野の開発によって平らな場所が耕地化・牧地化されて生ずる風景ですが、森にいる野鳥や野生動物にとっては、生息地が分断され生態系が破壊されることを意味します。つまりこれは、自然に対する“近代化”の勝利、ないしは爪痕を示す光景なのです。


「ことことと寂しさを噴く暗い山に
 防火線のひらめく灰いろ」


 この「防火線」(防火帯)もまた同様に、山火事を防いで森林資源を保全するための人間の工夫ですが、開発の傷跡にも見えます。もっとも、作者は、「寂しさを噴く暗い山」――自然の暗い森林に、人間の手が加わった明るい風景として見ているようでもあります。【印刷用原稿】では、「防火線のひらめく灰いろ」は、「防火線のはっきりした橙」となっていました。

 つまり、この「不貪欲戒」の時点では、“近代化”の行き過ぎた影響は、過度の欲望を抑えて節制することにより解決できる。むしろ、緑を保全し、資源の浪費を防いで、生活を豊かにすることができる―――という見通しに対する自信がうかがわれるのです。



「(ちらけろちらけろ 四十雀
(しじふから)
  そのときの高等遊民は
  いましつかりした執政官だ)」



 つまり、「いましつかりした執政官だ」との自負は、“近代化”を疑問なく推進する側に自分が乗っかっていることを、安心材料にしていることを意味します。「そのときの高等遊民」の「そのとき」とは、1918年7月に肺疾のために高等農林の助手を退職したあと無職で過ごした数年間のことでしょう。当時、賢治は、田中智学の「日蓮主義」に心酔し、天皇を帝王とする世界征服などという、日本帝国政府からさえ危険視されたウルトラ国家主義・膨張主義を堂々と唱える「国柱会」に傾いていました。国家主義的な“近代化”路線を奉じていたと言えます。

 シジュウカラは、そのような賢治を揶揄し嘲笑する人びとを念頭においているのでしょう。「ちらけろちらけろ」は、そのさえずり、つまり作者の噂をしている――と作者には思われる――声です。陰でこそこそ噂をする小心な市井の「シジュウカラ」たちに対して、賢治は、「散らけろ散らけろ!」自分は今では「しつかりした執政官だ」、陰口をたたかれる言われはないぞ!‥と、胸を張るのです。

 しかし、1923年8月28日というこの詩の日付に注目しましょう。この年9月1日には《関東大震災》が起きています。















 【6】《震災》後の反動のなかで





 《震災》後 9月16日の日付のある「宗教風の恋」「風景とオルゴール」「風の偏倚」「昴」の4篇を見ると、嵐が過ぎた宵の渓谷の風景のなかに、強大な自然への驚異とも畏敬ともとれる心情が吐露されています:



「なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
 燃えて暗いなやましいものをつかまへるか

      
〔…〕

 風はどうどう空で鳴つてるし
 東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて
 いまでもまいにち遁げて来るのに
 どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
 わざとあかるいそらからとるか
 いまはもうさうしてゐるときでない
     
〔…〕
『春と修羅』「宗教風の恋」より。

 1行空けの段落は引用者



「そんなに風はうまく吹き
 半月の表面はきれいに吹きはらはれた
 だからわたくしの洋傘は
 しばらくぱたぱた言つてから
 ぬれた橋板に倒れたのだ
 松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち
 電燈はよほど熟してゐる
 風がもうこれつきり吹けば
 まさしく吹いて来る劫
(カルパ)のはじめの風
 ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ
 電線と恐ろしい玉髄
(キヤルセドニ)の雲のきれ

      
〔…〕

 月はいきなり二つになり
 盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群

    (しづまれしづまれ五間森
     木をきられてもしづまるのだ)」

『春と修羅』「風景とオルゴール」より。

 1行空けの段落は引用者



「じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
 月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる

    (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)

     
〔…〕

 いま雲は一せいに散兵をしき
 極めて堅実にすすんで行く
 おゝ私のうしろの松倉山には
 用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
 川尻断層のときから息を殺してまつてゐて
 私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

     
〔…〕

   (どうしてどうして松倉山の木は
    ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
    あのごとごといふのがみんなそれだ)

 呼吸のやうに月光はまた明るくなり
 雲の遷色とダムを超える水の音
     
〔…〕
『春と修羅』「風の偏倚」より。

 1行空けの段落は引用者



「風は吹く吹く、松は一本立ち
 山を下る電車の奔り
 もし車の外に立つたらはねとばされる
 山へ行つて木をきつたものは
 どうしても帰るときは肩身がせまい

     
〔…〕

 そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
 電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
 市民諸君よ
 おおきやうだい、これはおまへの感情だな
 市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
 東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
 見たまへこの電車だつて
 軌道から青い火花をあげ
 もう蝎かドラゴかもわからず
 一心に走つてゐるのだ

   (豆ばたけのその喪神のあざやかさ)

 どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
 わたくしが壁といつしよにここらあたりで
 投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
 金をもつてゐるひとは金があてにならない
 からだの丈夫なひとはごろつとやられる
 あたまのいいものはあたまが弱い
 あてにするものはみんなあてにならない
     
〔…〕
『春と修羅』「昴」より。

 1行空けの段落は引用者






 






 《震災》を機に、自然の怖ろしさがあらためて認識され、産業の発展によって自然を征服しようとする人間の思い上がりに対して、天は「峻厳」な審判を下したように思われました。同時に、社会の“近代化”にも、行き詰まり感が見えてきたのです。

 「風の偏倚」には、↓つぎのように、第1次大戦後の不況で閉山された鉱山について述べている箇所があります。



「   (月あかりがこんなにみちにふると
     まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
     いまはその小さな硫黄の粒も
     風や酸素に溶かされてしまつた)

     
〔…〕

 ひるまのはげしくすさまじい雨が
 微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ」


 「硫黄の粒」は、上流の鉱山が繁栄していた時には、鉱石や硫黄を運び出す馬車から、この渓谷沿いの道に飛散していたのですが、いまではその匂いもしなくなっていると言うのです。

 大戦中の好景気に沸いていたころは、たくさんの鉱山が拓かれ、ダムや電鉄も引かれたのですが、それはほんの数年のできごとでしかありませんでした。電燈の普及で街も村も明るくなり、“帝国”の軍事力、経済力に推進されて国家社会は無限に進歩してゆくかに見えたのは、浅はかな幻想だったのでしょうか?



 図式的に言えば、《関東大震災》に触発された賢治の思考は、


《震災》→ 自然の怖ろしさを改めて認識 →“近代”への反省 →“帝国”への批判的洞察


 という径路を進んだと考えます。最後の「“帝国”への批判的洞察」は、賢治の場合、まとまった主張や議論の形をとることはありませんでした。しかし、詩人の鋭い感性がそれをとらえていたことは、作品のはしばしに見受けられるのです。

 そして、8年後に起きる《満洲事変》に対しては、詩草稿の中で苦痛にみちた批判を述べ、反戦の意志を明らかにしているのです↓:


∇ 関連記事(「世は愚によって滅びると」)⇒:
【ハームキヤ(17)】






 もっとも、《震災》後の当時一般の社会思潮としては、むしろ右傾化した議論が説得力を持つようになっていました。

 第1次大戦中から《震災》前までは、経済発展の波に乗るようにして自由主義的な「護憲運動」「民本主義」が力を得ていました。1917年には、初めての政党内閣が成立し、華族に代って平民の資産家が“帝国”の政治を握ったかに見えました。いわゆる《大正デモクラシー》です。

 しかし、1923年の《震災》を契機に、民本主義政党も“右旋回”していきます。《震災》時の朝鮮人・中国人虐殺を非難したのは、吉野作造ら、民本主義の中でもごく少数の人びとにすぎませんでした。《震災》の翌日に元海軍大将で伯爵の山本権兵衛が組織した華族中心の内閣のもとで、11月には『国民精神作興に関する詔書』が公布され、いっそうの思想統制が図られました。《震災》からの“復興”を旗印とする思想・風俗の引き締めが、国民運動として強力に展開されていったのです。民本主義を標榜する護憲政党も、この動きに抵抗するどころか、むしろ先頭に立って 風俗の引き締めと、自由主義、社会主義思想に対する排撃を呼びかけていきました。

 1925年に、護憲政党・民本主義運動の宿願だった男子「普通選挙法」と同時に、思想弾圧のための「治安維持法」が制定・施行されたのは、けっして偶然ではありません。



 さいきん、20世紀の終りから今世紀初めにかけて、関西と東日本で《震災》があいついだことから、“宮沢賢治圏”でも、1世紀前の《関東大震災》が賢治に及ぼした影響を主張する議論が起こってきました。そうした議論の多くは、


《震災》→ 自粛と引き締めに同調 → 農村改良活動を決意


 というような方向が考えられているようです。しかし、賢治が当時一般の“右傾化”傾向と歩調を合わせていたかのように見るのは、表面的な見方ではないでしょうか? 賢治が学校を退職して「羅須地人協会」の設立を考えるようになるのは、まだ2年以上先のことなのです。

 ↑上で見た『春と修羅』収録詩でも、最後の「昴」では、作者の分身的な“声”のひとつは、《震災》による人為と“近代”の破壊のあとで立ち上がってきた“自然”の驚異と美しさに眼を注いで、


「そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ
 電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
 市民諸君よ」


 と呼びかけます。それに対して、別の“声”が起きて、


「おおきやうだい、これはおまへの感情だな
 市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
 東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
 見たまへこの電車だつて
 軌道から青い火花をあげ
 もう蝎かドラゴかもわからず
 一心に走つてゐるのだ」


 被災地の救済と復興のために、ほかのすべてを投げうて!気を引き締めて協力しろ!自然だ、自由だ、詩や童話だなどと言ってる場合ぢゃないだろう!‥‥と、前者の“自然”の“声”を圧殺しようと叫び出すのです。ふたつの“声”のどちらが賢治の真意で、どちらが、世間に迎合して真意を覆い隠そうとする“声”なのかは、明らかでしょう。

 「もう蝎かドラゴかもわからず/一心に走つてゐる」電車とは、自分がどこに向っているのかさえももはや自覚することなく、迷走し“右傾化”してゆく《震災》後の世論の隠喩にほかなりません。













 《震災》後の“右傾化”のなかで、他方では、労働運動、農民運動、左翼運動も活発化しました。しかし、国家主義化してゆく動きと、それに対抗する動き、そのどちらの傾向にも所属しない宮沢賢治のような人はいたのです。賢治は左翼でないから前者の国家主義的傾向と一体だった――などと見るとしたら、早計でしょう。

 むしろ、前者の『国民精神作興に関する詔書』の政策的現れ:―1924年8月・9月“護憲三派”政党の加藤内閣が下した“学校劇禁止令”によって、宮沢賢治の『バナナン大将』などの諷刺劇、『種山ヶ原』などの田園劇の活動は、窒息させられてしまうのです。“右傾化”した政党内閣による“風俗締めつけ”が賢治に及ぼした弾圧的影響を、私たちは看過ごしてはならないと思います。








ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ
.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ