06/08の日記
01:40
【宮沢賢治】旅程ミステリー:近畿篇(7)
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「志賀の大仏」石造阿弥陀如来坐像(室町時代),大津市滋賀里町。
こんばんは (º.-)☆ノ
前回からの続きです:⇒《あ〜いえばこーゆー記》旅程ミステリー近畿篇(6)
【6】 ルートE 「山中道」――「無動寺」から「山中町」まで。
地図(比叡山西南面 山中道)
比叡山西南面の参道のうち、さいごに残ったのが「山中道」です。
この参道は、4本の古道の中では異色です。というのは、ほかの3本は明治時代に造られた(あるいは参道として整備された)もので、明治の年号が刻まれた遺物(石鳥居や石標)が残っています。しかし、「山中道」に建てられているのは、もっと古い江戸時代(文政・天保年間)のものです。
そして、参道のルートも、ほかの3本が、「無動寺・弁天堂」から「桜茶屋」までは1本で、その先で枝分かれするのに対して、「山中道」だけは、「桜茶屋」を通っていないようなのです。
さいぜんから参照している『比叡山1000年の道を歩く』によると、「山中道」は、「無動寺」からまっすぐに、谷越え尾根越えして、「山中町」の東の端に達するルートをとっているのです。(pp.50-51,79-81.)
おそらく、「弁天堂」から「桜茶屋」のほうへ行く道は明治時代になってから開かれたもので、それ以前には「山中道」のルートや、琵琶湖岸へのルートが、もっぱら利用されていたのではないでしょうか?
一般的に言えば、関東でも関西でも、古い時代の山道はみな尾根路です。関東の箱根越えでも、古い時代の道ほど、足柄山の高い尾根の上を通過するルートになっています。尾根の稜線に造られた路は、積雪や嵐で崩れる心配が少ないからです。
弁天堂〜桜茶屋 間のように、山の中腹をトラバースしてゆく道は、雨や嵐があると、倒木に塞がれたり、山崩れで断裂したりしやすいと言えます。道が崩れて狭くなると、滑落の危険も倍増します。山は、尾根が一番安全なのです。
そういうわけで、弁天堂〜桜茶屋 間は、明治時代になって、定期的な整備工事によって道を維持することができるようになってから、開かれたのではないでしょうか?「山中道」が使われていた江戸時代には、「桜茶屋」経由の道はまだ存在しなかったと推定できます。
山中町の東のはずれ バス停「山中上」
ここが起点になります。
黒矢印:山中町から上がって
来る道(「山中越え」の旧道)
上の写真の「※」付近。
「山中道」は、右の細い道へ入って行きます。
道は、川に沿って遡ります。
ガードレールは、新しい自動車道。
昔からある参道は、下の道ですが、
この先で谷が二又に岐れています。
右の谷に入って行くと、「志賀峠」を越えて、大津市滋賀里町に出ます。
参道は、左の谷へ続いていますが、その入口に一対の古い石灯篭が立っています(赤丸内)。
石灯籠と石標。
石標。
灯籠には、
「辨財天」「辨財天女」
と彫られています。
石標には、
「左□□ 辨才天女/不動明王 是より/三十六丁
(裏面)文政十二年己丑九月吉日」
と刻まれています。文政12年は1829年。この参道「山中道」は、江戸時代から参道だったことがわかります。
⇒:比叡(5)
しかし、『1000年の道』によると、石灯籠の先に続いている道跡は、無理をして草を漕ぎながら進んで行っても、しばらく行くと完全に消滅してしまうようです。
そこで、いったん「山中上」バス停まで引き返して、バスで「夢見ヶ丘」に跳ぶことにします。「夢見ヶ丘」の先には、また「山中道」の残っている場所があるので。
夢見ヶ丘。
夢見ヶ丘。
「夢見ヶ丘」は、比叡山ドライブウェイの休憩スポットで、琵琶湖がよく見える展望台や、レストラン、自然遊園などがあり、ギトンが行った時も家族連れでにぎわっていました。
スーパースライダーではしゃぐ子どもたちを横目で見ながら、周辺を歩いて探ってみました。しかし、下のほうから「夢見ヶ丘」に達しているような徒歩道は、まったく見あたりませんでした。「石灯籠」からここまで伸びていたはずの「山中道」は、今では痕跡も残っていません。
さて、「夢見ヶ丘」の上部には、「山中道」の続きが残っています。ここからは「東海自然歩道」の一部になります。
夢見ヶ丘。「山中道」は、
矢印の徒歩道に入ってゆく。
↑右の徒歩道に入ってゆくと、すぐに小高いピークがあります。ここは「青山」という山です↓。道は、尾根のすぐ横を、尾根に沿って下って行きます:
青山。頂上(535m標高点)付近。
青山の頂上を巻く「山中道」(東海自然歩道)
↑路の両側が深く掘れていることに注目してください。この路が古くから使われてきた証拠です。人が通るたびに少しずつ削れて、永い年月の間に、こんなに深く掘れてしまったのです。
しばらく歩くと、道ばたに「丁石」(丁目石)が立っていました。
「山中道」十八丁石。
「山中道」十八丁石。
「[種字] 弁才天 十八丁」
「種字」とは、仏様の名前をサンスクリット語で書いた時のイニシャル(かしら文字)で、このサンスクリット文字で仏様を表します。
この種字は、ベイ(薬師如来)のようです。
これは、ほんとうに「石灯籠」から続いている――続いていた――道の「丁石」でしょうか? 地図上で距離を測ってみます。ルートの不明な部分は直線にして測ると、「石灯籠」からここまで約2km。1丁(町)=109.1m として、18丁=1963.8m。だいたい合っているようです。
この路が「山中道」の続きなのは、まちがえないでしょう。
さらに先へ歩いてゆくと、「十九丁石」が現れました。「丁石」と「丁石」の間隔は、歩測で測ってみると、やはり 100m前後でした。
「山中道」十九丁石。
「[種字] 弁才天 十九丁」
種字は、バン(大日如来)のようです。
「山中道」二十一丁石。
「[種字] 弁才天 二十一丁」
種字は、バク(釈迦如来)のようです。
「二十丁石」は見あたりませんでした。江戸時代末に設けられたものだとしたら、200年近く経っているのですから、全部残っているほうが変ですよね?w
↓道が二又に岐れ、左の、谷へ下りて行く道に、なにやら石造の柱が2本。
これは、上の部分が無くなった鳥居の柱です!
「鳥居の柱」
「鳥居の柱」。裏側(無動寺側)。
左「伏見□染組□屋町/願主 綿屋彦太郎」
右「天保九戊戌年/十一月吉日 願主 桝屋□八」
天保9年は、1838年。天保7年から大飢饉になり、8年には大塩平八郎の乱、10年には蛮社の獄が起きています。
この鳥居の銘は、彫りの深いのが特徴です。彫りが深いので、明治時代に建てられた鳥居や標石よりも摩滅が少なく、字をはっきりと読むことができます。大飢饉からの救済を求めて、比叡山に登拝した人たちの思いの深さが感じられないでしょうか?
江戸時代の人の信仰心の厚さが窺えます。
しかも、銘は、ふもと側ではなく無動寺側を向いています。
そもそも、鳥居というものは、誰に見せるために建てるのでしょうか?
明治以後建てられた鳥居には、参詣をしに参拝客がやってくるほうの面(ふもと側)に、願主(建築費を寄付した人たち)の名前を刻んでいるものが、ままあります。「桜茶屋」の鳥居が、そうでした。
しかし、江戸時代の人は、神様の居る側に寄付者の名前を彫ったと思います。神様に見てもらわなければ御利益にあずかることはできないのですから、これは当然のことでしょう。
鳥居だけでなく、寺社建築全般に、古い時代になればなるほど、神様・仏様に見てもらうために建てるという意識が強かったと思うのです。奈良の薬師寺の塔のてっぺんには、笛を吹いている天人の像が立っています。もちろん、地上からは全然見えません(白鳳時代・奈良時代に双眼鏡はありませんw)。天空からの視線のために建てた――と考えなければ、あんな高くに精巧な彫刻を取り付ける意味がわからないのです。
最近建てられた鳥居(の来拝者側)や神社の柵の外側などに、寄付した人の名前が大きく書いてあるのを見ると、ちょっと首をかしげたくなります。この人たちは、いったい誰のために寄付をしたんだろうと。。。 ほんとうは神様なんかどーでもいいのではないでしょうか。「この鳥居はオレが建てたんだぞ〜〜!!」と(神様ではなく人間に)見せびらかすのが目的で寄付をしているんじゃないか‥などと思ってしまいますw
さて、このあとの道は、まだ行ってないので、『1000年の道』の説明を参照したいと思います。
「〔…〕鳥居の柱が建つ地点に出る。ここから北側の小宅谷(こやけだに)(四ツ谷川)へいったん下る。
対岸の桜谷(カラ谷)へ入るよう道は続き、折り返して東の支尾根に登る。〔…〕
丸尾山(420b)の尾根と合わさる標高510b付近より弁天谷右岸をトラバースするのが道筋だが、斜面が崩れていて完全にたどるのは困難である。このマツ林の中に、植林を記念する大きな碑〔大正13(1924)年建立の昭和天皇成婚記念林・碑――ギトン注〕が立っている。〔…〕
弁天堂の近くには『この下 大津唐崎道……』と刻まれた明治時代の道標があり、本来の道はこの地点につながっていた。」
竹内康之『比叡山1000年の道を歩く』,2006,ナカニシヤ出版,pp.50-51.
地図(山中道:弁天堂付近)
弁天堂の近くに「この下 大津唐崎道……」という石の道標があるのを、ギトンは見逃していました。しかし、なぜ「大津唐崎道」なのでしょうか? なぜ、「京都・山中道」と表示されていないのでしょうか?
「唐崎道」は、琵琶湖岸から無動寺弁天堂に達する参道の一つで、↑地図に示したように、2本のルートがあります。
おそらく、明治時代以後は、「山中道」のこの区間は、もっぱら大津・琵琶湖岸からの参道として利用されたのではないでしょうか? というのは、その頃には、「桜茶屋」を経由する「白川道」「一乗院道」がすでに拓かれていて、京都からの参道は、そちらのルートのほうが早くて楽だったからです。「山中道」は、京都からの道としては遠回りですし、いったん夢見ヶ丘まで登ってから、また小宅谷に下り、また植樹碑まで登り返すというアップダウンの激しいルートで、険しすぎるのです。
そうすると、明治以後には、「山中道」は使われなくなっていたのではないか? 宮澤父子が来た大正時代には、「石灯籠」と夢見ヶ丘の間は、すでに廃道化していたのでは?――ということが考えられるでしょう。
考えてみれば、「山中道」のルートの中で、現在まで曲がりなりにも道の痕跡が残っているのは:@志賀峠越え道、A唐崎道、B白鳥越え、…として、ほかの道の一部として使われた部分だけなのです。「白鳥越え」については、次回説明しますが、壺笠山〜青山から一本杉方面に続く稜線の道です。
つまり、「山中道」プロパーとしての利用は、もうずっと前から無いのかもしれません。道は、歩く人がいる間だけ道として存在するのです。歩く人がいなくなれば、だんだんに消えてしまいます。
「山中道」参道としての・このルートの利用は、明治時代に「桜茶屋」ルートが開かれた時に終ってしまったのではないかと思います。
そういうわけで、宮澤父子が「山中道」を通って下山した可能性は、ほぼ無いと言ってよいと思います。父子が来た大正10(1921)年には、「山中道」はすでに廃道化して中断し、下まで繋がっていなかった可能性があるのです。
「山中道」に出会った当初に↓こちらに書いた考察は、訂正しなければなりませんですねw。‥‥まぁ、くわしくは次回に!!
⇒:比叡(5)
ばいみ〜 ミ彡
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