02/21の日記

00:20
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(12)

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チベット、マナサロワール湖  









 こんばんは (º.-)☆ノ






 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようというこのシリーズ。

 興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(8)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(9)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(10)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(11)






【3.2.5】 博士の現れ方、去り方、聴こえ方の特異性



 前節で見たように、ジョバンニの“帰還”場面でブルカニロ博士が登場する時には、@まず博士の語りかける声が「セロの声」になって――あるいは「セロの声」に乗って――聞こえ、Aジョバンニは自分が“銀河世界”から離れてゆくのを感じ、B「風が吹き」、つづいて、B自分が地上の「丘」の上に立っているのを“見”、Cそして「遠くから」ブルカニロ博士の「しづかに近づいて来る」足音が聞こえる、という順序で展開します。

 このように、賢治はジョバンニの《帰還》場面もまた、“琴の星”の異変から始まる《旅立ち》場面((3)参照)と同様に、“移行”の手順をたんねんに追って書いていることに注意する必要があります。それらはいずれも2つの“空間”の境界を踏んで越境する行為であり、それがどのように展開するかは、2つの“空間”を含めた大きな全体世界の深奥にかかわることがらだからです。

 そしてそこに、「セロの声」と、“語りの声”である《風》が現れていることも注目されます。

 博士のこの“現れ方”の特異性は、もしかすると博士その人の特性ではなく、ジョバンニの“越境”によって生じている特性なのかもしれません。博士その人が、地上でふつうにジョバンニの前に現れる時に、どう現れるのかは、“欠落部分”での博士の最初の登場場面の草稿が失われてしまっているので、確かめることができません。




 








 しかし、ブルカニロ博士は、その“去り方”もまた、すこし異様な感じを与えます:



「『あゝではさよなら。これはさっきの切符です。』博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 同じ部分を〔第1次稿〕で見ると↓つぎのようです。この部分の〔第2次稿〕は、上の〔第3次稿〕と同じです:



「『あゝではさよなら。』博士はちょっとジョバンニの胸のあたりにさわったと思ふともうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらそれは大きな二枚の金貨でした。」

『銀河鉄道の夜』〔第1次稿〕より。



 〔第1次稿〕では、博士が「ちょっとジョバンニの胸のあたりにさわった」だけで、ポケットに「大きな二枚の金貨」を入れてしまうというふしぎさがあります。しかし、〔第3次稿〕の博士の神秘はそれ以上で、ジョバンニが“夢”の中で見た「緑いろの‥‥あやしい天の切符」を取り出して渡すのです。

 そういうことからすると、“形が見えなくなる”という博士の去り方も、単なる描写のしかたではなくて、背景の闇に溶暗してしまうような異様な去り方ではないかという気がします。



 「もうそのかたちは‥‥見えなくなって」いた――このような立ち去り方をする地上の人物は、ほかにもいます。カムパネルラです:



「ジョバンニは、せわしくこんなことを考へながら、さっき来た町かどを、まがらうとしましたら、向ふの雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。その笑ひ声も口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。 ジョバンニの同級の子供らだったのです。
〔…〕

 『ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。』すぐみんなが、続いて叫 びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いてゐるかもわからず、急いで行きすぎやうとしましたら、そのなかにカムパネルラが居たのです。
〔…〕

 ジョバンニは、遁げるやうにその眼を避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが過ぎて行って間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。町かどを曲るとき、ふりかへって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて行ってしまったのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 しかし、ブルカニロ博士とカムパネルラ以外の人物(ザネリ、「牛乳屋」の下女、など)は、このような「かたちが見えなくなる」「かたちが過ぎて行く」という去り方をしません。

 この2人の特別な去り方は、ジョバンニの感じようがそうなのか、それとも2人の人物の異様な性質なのか、テクストからは見きわめがたい気もします。これらの場面で、作者はもっぱらジョバンニの眼で見た情景を描写しているからです。



 現存稿ではブルカニロ博士の出ている場面が限られているために、実体を見きわめがたい憾みがあるのですが、少なくともその部分に限って言えば、ブルカニロ博士の登場のしかた、退場のしかたの特殊性――音楽か、まぼろしの映像のように、フェイド・インして、またフェイド・アウトしてゆく登退場のしかた――が、博士の人物像に神秘な性格を与えていることはたしかだと思います。






【3.2.6】 “欠落部分”でのブルカニロ博士、博士の「実験」



 “欠落部分”でのブルカニロ博士については、すでに(4)で検討しました。

 “欠落部分”で博士が語る内容は、〔第4次稿〕の「午後の授業」でジョバンニたちの学校の先生がしたような、天の川は銀河系という星の集まりだ‥という話を含んでいます。しかし、博士の話は、「午後の授業」よりも内容豊富で、もっとわかりやすい具象的な説明だったと思われます。宇宙は「がらんとした冷いとこ」だという印象を与えるような、“絶対零度”の真空の空間に、冷えきった岩石と氷の天体が浮いているイメージが語られたかもしれません。銀河系の中での太陽系の位置や、宇宙空間の真空、またその“温度”やエネルギー、空気も無い岩石だけの惑星、またガス星雲から太陽系その他の惑星系ができてきた進化の歴史などに、博士の話は及んでいたかもしれません。

 ただ、銀河系外の宇宙は、“異空間”に劈いた裂目である「石炭袋」の向う側の“不可知の宇宙”として、博士の宇宙観には含まれていなかったはずです。なぜなら、作者である宮沢賢治の宇宙観が、銀河系の範囲に限られたものであったからです。




 







 また、ブルカニロ博士の「実験」については、それがテレパシーなどの心霊学の実験であること、しかしそれは必ずしも非科学的なものではなく、自然科学の「実験」と同様の方法論をふまえたものであることを、私たちは確認しました。当時の心霊学ブームを背景に、賢治はそれを全く科学的な実験だと考えていた可能性があります。それは、“銀河の旅”の中で“黒帽子”が強弁する「実験」とは、異なったものです。((11)参照)



 ブルカニロ博士の「実験」は、“入眠”中の、あるいは“銀河世界”にいるジョバンニの脳裏に思念を送る単なるテレパシー実験なのか?‥それとも、ジョバンニの“銀河の旅”全体が博士の「実験」によって現出されたものなのか?

 “帰還”したジョバンニの前での博士の説明は、テレパシーの実験をしただけのようにもとれます。しかし、その“テレパシー”は“双方向”であったり、ジョバンニだけでなくカムパネルラにも聞こえていたり、博士が語りかけてくる「セロのような声」を、ジョバンニもカムパネルラも、「なんべんもどこかで」「林の中や川で」聞いたと回想します。なによりも、ジョバンニの“旅立ち”の際に起こる一連の異変は、人工的なエネルギー装置による「実験」を思わせます((3))。また、ジョバンニの“帰還”とブルカニロ博士の登場のしかたは、自然世界からの“語りの声”である「風」のひびき、「セロの声」の到来とむすびついています。

 つまり、ブルカニロ博士とその「実験」は、単なる心理学者の科学的な「実験」を大きく超えでているように思われるのです。そこで、多くの読者、研究者は、博士の「実験」とはジョバンニの“銀河の旅”そのものではないか、博士は“銀河の旅”を支配し、あるいは“銀河の旅”そのものを作り出し見させているのではないか?……そういう印象を抱いてきたのです。

 たとえば入沢康夫氏は、天沢退二郎氏との対談のなかで、



「入沢 ブルカニロ博士が夢を支配するアイデアは、1次稿から3次稿までずうっと通してあったわけだがね。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.134.



 と述べています。天沢退二郎氏は、後の時期の論文ですが、よりはっきりと↓次のように述べます:



「少年を夢に入らしめ、その夢の中にまで介入して語りかけて自分の考えを伝え、夢の中で発した少年(たち)の語を記録し、一つの決意へと導いたのみならず、その決意を少年が夢から現世にまで、そっくり持ち込んでくるようにと促したこのブルカニロ博士の実験は、
〔…〕
天沢退二郎「『銀河鉄道の夜』論」(初出1986) in:同『《宮沢賢治》注』,1997,筑摩書房,p.306.






 しかし、これまでの読者(ギトンも含めて)、研究者は、ブルカニロ博士、「セロの声」、「大きな黒い帽子の大人」の3者を同一の存在とする―――あるいは、「セロの声」と“黒帽子”はブルカニロ博士の分身だとする―――前提で考えてきたために、じっさいのテクストのデテールとは齟齬する局面が見られたのです。

 そこで、むしろ作者賢治の推敲過程に残されたヒントから、「セロの声」は、ブルカニロ博士より巨きな存在であり、《風》や《鉄道》が運んで来る自然世界からの“語りの声”そのものであると、私たちは考えてみたわけです。この新しい読み方は、最近中村三春氏によって解明された「否定的‐統合的組成」という『銀河鉄道の夜』のレトリック構造の発見((6)(7)(8))とあいまって、この童話――のみならず賢治作品全体――のより深い理解へと導いてくれる可能性があります。

 それにしても、このような賢治作品の“語り”そのものの深奥とかかわっているブルカニロという人物は、単なる科学者であることを超え出た存在だと言わなければなりません。

 ブルカニロ博士は“天気輪の司祭”なのか?“銀河世界”の「鳥捕り」や「燈台守」のような異世界の存在が、地上世界に現れ出た人物なのか?……考察を進めれば進めるほど、ますます謎は深まってゆく気配さえするのです。。。

















【3.2.7】 ジョバンニの切符とブルカニロ博士



 「ジョバンニの切符」は、この童話の章の名前にもなっていますし、それが登場する――検札に狼狽えたジョバンニのポケットから不意に発見される――場面のふしぎさからも、多くの読者、研究者の考察が加えられてきました。



「入沢 
〔…〕切符のことに関して重要な書き換えがある。初稿〔〔第2次稿〕―――ギトン注〕ではジョバンニとカムパネルラの二人の切符であったものが、現行のテクスト〔〔第3次稿〕と〔第4次稿〕―――ギトン注〕では、ジョバンニだけのものだということになる。

 天沢 カムパネルラは、鼠いろの自分の切符を持っていた。

 入沢 これが大きな書き換えです。

 天沢 二人の汽車に乗っている意味が違うということで、当然のことです。切符の大きさもハンケチぐらいから、はがきぐらいの大きさに書き換えられている。これは、切符の唐草模様とも関連してくる。マラルメなんかともね。
〔…〕

 入沢 問題は、ジョバンニの持っている切符は特別なものであり、カムパネルラの持っているのは、友達を助けるという自己犠牲がありながら普通の切符であるということ。

 天沢 ある種の道徳的な解釈を『銀河鉄道の夜』に与えようとすると、ぜったいここでつまずくわけです。結局、自己犠牲というのは至高善ではないということを賢治はいろいろ強調している。

 入沢 善を求めることの方が上である。だから求道者としてのジョバンニが大切な切符を持つということは当然なわけだ。

 天沢 そこでその切符が『いちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷したもので、だまって見てゐると何だかその中へ吸ひこまれてしまふやうな気がするのでした』。

 入沢 これは、マラルメの『音楽と文芸』を、そんな意識もなく読んでいても、そこにつきあたったときすぐに思い出しましたね。いままでは一般に曼荼羅のようなものではないかと言われてきたし、ぼくもそんなものではないかと思っていたけど、しかし、ここでこうしてマラルメの言葉に出会ってみると、また微妙ですね。別稿
〔↓下に引用―――ギトン注〕に資料として出しておきました。その次の『こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか』という箇処ですが、いろいろな人が言っているように、これは賢治自身の自嘲のようにもとれる。

 天沢 四次元空間が最高のものではない。

 入沢 それでジョバンニの方は『何だかわかりません』と言う。

 天沢 カムパネルラは切符を貰って、貰ったということを知っているが、ジョバンニの方は知らない。

 入沢 カムパネルラが待ち兼ねたようにジョバンニの切符を覗きこむ。やはり、唐草模様と字ということは重要ですね。

 天沢 このおかしな書体はボルヘスの作品とも関連するわけだ。それから『南十字へ着きますのは、 次の第三時ころになります』というのも非常に不思議ですね。

 入沢 結局それはひとつの区切り目ですね。終点でなくとも分岐点のひとつである。少なくともみんな降りるわけだから。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,pp.39-40.

【ギトン註】南十字駅で、青年と姉妹・弟ほかタイタニック号の難船者たちを含む大部分の乗客が降りて、キリスト教らしい“神の国”へと向うが、ジョバンニとカムパネルラは列車に乗り続ける。その南十字駅への到着予定時刻を、ジョバンニの切符を見た車掌が告げているのである。



「いっぽう『銀河鉄道の夜』における今一つの『明珠』的なディテールとしての『切符』について、
〔…〕ここで見られる『唐草模様』と、『十ばかりの文字』のうち『何だかその中へ吸ひ込まれてしまふやうな気がする』唐草模様については、

 資料9(マラルメ『音楽と文芸』入沢試訳
〔筑摩書房版『マラルメ全集』第2巻に収録―――ギトン注〕)に、ほぼ似た感じの言及があり、また『おかしな十ばかりの』文字については、

 資料10(ボルヘス『神の書跡』、土岐氏訳前掲書
〔ホルヘ=ルイス・ボルヘス,土岐恒二訳『不死の人』,1968,白水社――ギトン注〕、175-182ページ)が、きわめて興味深い。」
入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.89.







 
アステカのジャガー戦士  








資料9

 『自然』は存在しており、私たちは、それに対して、都会や、鉄道や、生活を支えるための幾つかの発明品をしか、付け加えることができません。
〔…〕

 この世を逃れ去り、欠如をかたちづくる対象を心に懐くこと、それは創造に匹敵します。

 このような仕事をおこなうため、ではどうすればよいかと言いますと、諸々の外形
(アスペクト)や、それらの諧調(ノンブル)を、それらが私たちの何気ない心をかすめるがままに、ひき比べ、つき合わせてみれば足りるのです。そうすると、それらの行き交うところに、その背景をなすごとくに、何やら美しい姿(フィギュール)のいくつかがおぼろげにうごめき出します。それらを結び合わせている唐草文様の全体には、それを認めるなり私たちが急に目がくらみ、総毛立つといったところがあり、また、いても立ってもおれないような不安な合致感があります。〔…〕それは、何かを告知するのであります。

     
〔…〕

 資料10

 ……神は時の終わりに多くの災厄と破壊が起こることを予定して、天地創造の第一日目に、それら諸悪を祓い清めるにふさわしい魔術的な一文をお書きになった……

 ……わたしは時間の最初の朝を想像し、わたしの神が、最後の人間に迎えてもらうために、洞穴や葦原や島で果てしなく愛しあい、産まれ落ちるジャガーの生きた毛皮にその伝言を託すのを想像した。

 ……わたしは斑点の種類や配列を学ぶことに長い年月を捧げた……

 ……
〔…〕人間の言葉においてさえ、全宇宙を包含しない陳述はない、とわたしは考えた。《虎》と言えば、代々生まれ継いでゆく虎、その虎にむさぼり食われた鹿や亀、鹿が食んで育った牧草、牧草の母たる大地、大地に光を与える天、と言うことである。神の言語においてはすべての語がそうした事物の無限の連環を、隠然とではなく歴然と、漸進的にではなく即座に告知するであろう、とわたしは考えた。〔…〕

 
〔…〕わたしの見たのは至高の《輪》であった。それはわたしの目の前にも、後にも、両脇にも存在しなかったが、同時にどこにでも存在した。〔…〕それはかつて存在したもの、いま存在するもの、これからするであろうもののすべてが混じりあって形成し、わたしはその横糸全体の繊維の一本であり、わたしを拷問したペドロ・デ・アルバラドもまた別の一本であった。そこには原因も結果もすべてあり、神のすべてを限りなく理解するにはその《輪》を見るだけでわたしには充分であった。〔…〕わたしはただひとつの幸福を形づくっている無限の過程を見、すべてを理解しながら、ついに虎の〔皮上の神の〕書跡をも理解するに至った。

 それは14語の偶然的な言葉(偶然的と思われる)から成るひとつの祭文で、それを高らかな声で唱えるだけで全能となることができるものである。それを唱えるだけで、この石の牢を廃し、昼を夜に侵入させ、若返り、不死となり、虎がアルバラドを引き裂き、聖なる短剣をスペイン人たちの胸に埋め、ピラミッドを再建し、帝国を再建することができた。40音綴と14語、そしてわたし、トツィナカンは、モクステマの統治した土地を統治するであろう。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,pp.99-101.

【ギトン註】モクステマ2世(1466-1521)は、メキシコ・アステカ帝国の皇帝で、スペインから来たコンキスタドール(征服者)を神の使い(または神そのもの)と誤信した結果、アステカとインディオの国々を破滅に導いた。ペドロ・デ・アルバラドはコンキスタドールの一人で、テノチティトラン(現・メキシコシティ)の虐殺と破壊を行なった。






 「ジョバンニの切符」は、『銀河鉄道の夜』の構想のなかで重要な役割を与えられているのに、その登場する場面はたいへん謎めいています。作者の意図を解明するためにも、テクスト外のさまざまな文献を参照する必要があるのだと思います。宮沢賢治がメキシコのインディオ文明に関心をもっていたことは、『冬のスケッチ』断片や、『春と修羅』収録の詩「電車」からもうかがわれます。『銀河鉄道の夜』の“黒帽子の男”の「大きな黒い帽子」も、メキシコに特徴的な鍔広の帽子を意識しているかもしれません。

 そういえば、前回((11))貼り付けた、ますむらひろしさんの描く“黒帽子の男”は、メキシコ風の服装をしているように見えます。






メキシコ革命の英雄ヴィラ・リデス(チャールズ・ブロンソン)
『戦うパンチョ・ビラ』(1968年,アメリカ)より。








 しかし、これ以上深入りすると、このシリーズはまだ無限につづいてしまいますからw、ここでは「切符」とブルカニロ博士の関係に限って検討したいと思います。



「『もう帰りたくなったって。そんなにせかなくてもいゝ。まだ二分もたってゐない。まあ安心しておいで。いつでもその切符で帰れるから。』またあのセロのやうな声がどこかでしました。」★

「『
〔…〕だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがい ゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。〔…〕』」

「『さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて 行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。』あのセロのやうな 声がしたと思ふとジョバンニは
〔…〕遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。」

「『僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。』ジョバンニは力強く云ひました。『あゝではさよなら。これはさっきの切符です。』博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。
〔…〕林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。」
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ★は〔第2次稿〕です。〔第3次稿〕では、この部分は削除されています。



 「セロの声」でブルカニロ博士が語るところによると、ジョバンニはその「切符」によって、「幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける」だけでなく、地上に戻ることさえ、いつでもできるのです。この「セロの声」が書かれた〔第2次稿〕では、「切符」はジョバンニとカムパネルラ2人のものであったことを考え合わせれば、ジョバンニは、カムパネルラを地上に連れ戻すこともできたことになります!

 ということから考えると、ジョバンニは地上に戻って来た後も、その「切符」さえなくさなければ、またいつでも“銀河世界”に旅立つことができることになります。そして、“銀河世界”をさまよっている、あるいはあの「石炭袋」の向うの“異空間”に落ちこんでしまっているカムパネルラを救い出して来ることができるかもしれません。

 削除された草稿断片((7)参照)には、ふたたび“銀河世界”へ旅立つことを夢見ているかのようなジョバンニが描かれていました‥‥




 







 書かれた作品『銀河鉄道の夜』そのものを超えた、このような巨きな力を秘めた「切符」を、ブルカニロ博士は、帰還したジョバンニに手渡しています。ジョバンニの“銀河の旅”が彼の睡眠中の夢だとしたら、博士は、夢の中の物品を現実の世界に持って来るという、誰もが渇望しつつ叶わないわざをなしとげる能力をもっていることになります。

 やはり、ブルカニロ博士は、単なる科学者であることを超えた存在であり、この作品のストーリーをも超えたところにいるのかもしれません。。。






ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: 宮沢賢治

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