02/19の日記

03:06
【宮沢賢治】『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(11)

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 こんばんは (º.-)☆ノ






 『銀河鉄道の夜』草稿の失われた“欠落部分”の内容を推理してみようというこのシリーズ、興味をもたれた方は、シリーズの最初から読んでいただけたらと思います。そのほうがよく分かります:



 ⇒:『銀河鉄道の夜』の成立過程

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(1)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(2)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(3)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(4)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(5)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(8)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(9)

 ⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(10)






【3.2.3】 「黒い大きな帽子」の男は、ブルカニロ博士か?





「天沢 夢から醒める時の前後関係から言って『セロのような声』と、『講義をした歴史学者』と『ブルカニロ博士』とが、三位一体であるということがわかる。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.55.



「銀河鉄道の旅の途中でときどきジョバンニたちの耳にきこえてくる《セロのやうな声》が、このブルカニロ博士の声であり、あの、カムパネルラの消失直後に車内に現われてジョバンニにお説教をする、顔の青白い大人が、やはりこのブルカニロ博士自身の思考伝達者としての出現であったことは、前後から誰にでも読みとれることである。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.81.




 「講義をした歴史学者」とは、カムパネルラの姿が見えなくなった直後にジョバンニの前に現れる「黒い大きな帽子をかぶった大人」、「ジョバンニにお説教をする、顔の青白い大人」のことです。この“黒帽子の男”は、天沢氏も述べるように、ブルカニロ博士自身がジョバンニの“夢”の中に出現した姿であり、“テレパシー実験”によって思念を送り続けていたブルカニロ博士が、ついに自ら“夢”中人物の形をとって現れたもの――と理解するのが一般ですし、ほとんど異論は無いと言ってよいほどです。

 しかしながら、いちど落ち着いて検討してみると、この通説には不都合な点も、テクストにはいろいろと見いだされるのです。














 まず、“黒帽子の男”がブルカニロ博士の“分身”だとすれば、その風貌は博士と同じか、少なくとも似ていなくてはならないと思われます。

 残念なことに、現存するブルカニロ博士“本体”の登場シーンには、博士の風貌について何一つ書かれていません。



「ジョバンニは
〔…〕あのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。」

「博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。」



 と書かれているだけです。「しづか」な「足おと」と「かたち」だけ。これだけ読むと、まるで幽霊のような存在です。しかし、博士が“旅立ち”前の“欠落部分”に登場した時には、その風貌が描写されていたのかもしれません。

 そのため、ブルカニロ博士“本体”の風貌と“黒帽子の男”の風貌を比較してみることはできないのですが、しかし、それほど似ていないということはジョバンニの反応を見ればわかります。ジョバンニは、列車の中で“黒帽子の男”と相当の時間面談しているのに、その男がブルカニロ博士だということには、まったく気づいていないのです。ジョバンニは、すでに旅立ち前の“欠落部分”でブルカニロ博士に会っているにもかかわらずです。

 もし、“黒帽子の男”がブルカニロ博士に似ているのだとすれば、これはたいへんに奇妙なことだと思います。

 “黒帽子の男”の風貌も、



「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本を持ってゐました。」



 としか書かれていません。

 「青白い顔の瘠せた大人」―――これは、“帰還”後のジョバンニの前に現れるブルカニロ博士と似ているのでしょうか?‥ギトンには、似ているとは思えないのです。「お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。」「お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがい ゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」という博士の激励の言葉から想像される自信に満ちた風貌は、「青白い顔の瘠せた」学者風の男とはあまりにも異質です。

 “黒帽子の男”とブルカニロ博士は、見た目が似ていない。これは、両者が同一人物、ないし“本体と分身”だとする通説の理解に反する第一の点です。



 それでは、両者がジョバンニに語る話の内容については、どうでしょうか?

 (4)で検討したように、ブルカニロ博士は、“欠落部分”でジョバンニに、主に“天の川は、たくさんの星の集まりがそう見えるのだ”などの科学的な宇宙の話をしています。また、〔セロの声〕として聞こえてくるブルカニロ博士の話も、前回見たように((10))、科学的ないし空想科学的な宇宙の話にかかわるものでした。

 ところが、カムパネルラのいなくなった車内に出現する“黒帽子の男”が語る話には、こうした宇宙の話は無く、そもそも自然科学の話が無いのです!‥たしかに、“黒帽子”は、「水は酸素と水素からできてゐるといふ」化学の知識にふれています。しかしそれはあくまでも喩えとして引いているにすぎないのであって、“黒帽子”の話の主眼は、



「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、
〔…〕それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばその実験の方法さえへきまればもう信仰も化学と同じやになる。」
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 という主張にあります。そして、それにすぐ続けて“黒帽子”が語る“講義内容”は、もっぱら人文現象にかかわることであって、ブルカニロが語るような自然科学的な内容とは異なっています:



「『けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いゝかい、これは地理と歴史 の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。 いゝかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本統だ。さがすと証拠もぞくぞく出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁 だよ。紀元前一千年だいぶ、地理も歴史も変ってるだらう。このときは斯うなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから、
〔…〕

     
〔…〕

 『さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。
〔…〕』」
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。







 








 “黒帽子”の話の内容は、よく読んでみればたいしたことではありません。諸宗教の神のうちどれが「ほんたうの神さま」か、あるいは、性善説と性悪説とどちらが正しいのか、そういったことを「実験」で判定することができるなどという、いかがわしい眉唾な説を除けば、人類史の各時代にはそれぞれの歴史認識があって、人類史の進展とともにその歴史像自体が変遷してゆくという、言い古された話にすぎないのです。そして、その言い古された“歴史観”から、「ぼくたちはぼくたちのからだだって考だって天の川だって汽車だってたゝさう感じてゐるのなんだから」などという安っぽい唯心論へと、強引に持ち込んで行くのです。これは強弁以外のものではありません。

 全体として、この“黒帽子”の言説には、ギトンは、怪しげな新興宗教のプロパガンダ以外のものを感じることができませんw これが宮沢賢治本人の思想の代弁者だとは、とうてい思えないのです。たとえば、あの『春と修羅』「序詩」と比較してみれば、“黒帽子”の話の卑小さは歴然としています。「序詩」に述べられていたような、過去のみならず未来にわたる壮大な地質学的構想力は、ここにはまったく見られません。“黒帽子”の話は、人類史の時代に局限され、しかもすべてを唯心論(“こころ”の問題)に落とし込むことによって矮小化させています。新興宗教やオカルト疑似宗教のお決まりのパターンです。

 ただ、この男は人を驚愕させるような言い方で迫ってゆくことによって、なんとなく大きな真理を語っているかのように思わせ、かつ信じさせてしまうのです。そういう点では、あの「鳥捕り」の男と同種の“銀河世界”の脇役の一人にすぎないと言えます。

 “黒帽子”の話の内容からは、以上のように言わざるをえません。



 しかし、“黒帽子”の役割についての評価はともかく、ブルカニロ博士と比べた場合に、話の内容の方向が大きく異なっていることは明らかではないでしょうか?

 たとえば、「実験」という言葉の意味、ないし使い方が大きく違っています。

 ブルカニロ博士の言う「実験」は、前回も見たように、自然科学で言う「実験」と同じ意味だと考えることができます。博士の「実験」は、テレパシー現象の存在などの心霊学の仮説を検証するものであって、こんにちの私たちには、あまり科学的なものだと思えません。しかし、宮沢賢治が生きていた当時は、心霊学も、科学の一部門として認められかけた時期がありました。そして、一流の学者が大真面目に“千里眼”などの心霊現象の「実験」を行なっていたのです。

 日本での心霊学の流行は、西洋での事情に触発されるところが大きかったと言えます。たとえば、フランスの哲学者ベルグソンは、テレパシーや死者との交信を、事実として認める立場を表明していました:



「ベルグソンも、イギリス心霊学研究協会の会長をつとめ(1913-15)、テレパシーや死者との交信の報告の内には、幻覚や錯覚などが多分にあるとしても、現象としては認められるという立場をとった」

鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』,2015,左右社,p.111.



 日本では、1906年『催眠術の心理学的研究』で文学博士号を授与された東京帝国大学助教授・福来友吉が 1910年に京都帝大医学博士・今村新吉を伴って、透視能力者とされる御船千鶴子によって“千里眼”透視実験を行ない、学会に報告した。さらに東京帝大理学博士・山川健次郎の提案で公開実験が行われたが、検証には至らず新聞等から詐術を疑われ、御船は自殺した。

 その後、山川健次郎による透視・念写能力者・長尾郁子での実験、福来が東京帝大教授哲学者・井上哲次郎の立会いのもと行なった念写能力者・高橋貞子での実験などが行われたが、霊能力の存在を否定する学者らによる「透視と念写は全くの詐欺である」との見解発表もあり、1914年には福来が東京帝大の職を追われた。(Wiki:福来友吉

 それでもなお、心霊学ブームはアカデミズムの内外で 1920年代まで続いた:



「日本における〈幽霊写真〉受容の高まりを象徴的に示しているのが『科学画報』1926年10月号(新交社)である。この号は『精神現象の驚異』特集で、物理学者として著名だった東京帝国大学教授・石原純が巻頭評論『人生と運命観』と『精神と物質』を書き、その次のページに千里眼事件で東京帝国大学の職を追われた福来友吉が『神通力の存在』を書いている。

 興味深いことに、『神通力の存在』では、幽霊写真の撮影方法が説明されている。」

奥山文幸『宮沢賢治論 幻想への階梯』,2014,蒼丘書林,pp.241-242.











「大きな黒い帽子をかぶった大人」(ますむらひろし画)

ますむらひろしさんの作画では、“黒帽子の男”は
ブルカニロ博士に似た立派な紳士の姿で登場します。
もしも原作どおりに、痩せて青白い病的な人物
として描いたとしたら、“本の本”の講義の
迫力は半減していたでしょう。





 したがって、ブルカニロ博士の「実験」は、賢治が想定した語の意味としては、自然科学的「実験」の意味だと理解してよいでしょう。

 しかし、“黒帽子の男”が語る「ほんたうの考とうその考を分けてしま」う「実験」を、同じ意味にとることはできるでしょうか?‥ギトンはできないと思います。

 自然科学で言う「実験」は、現象を生起させる場の条件を、前もってできるだけ正確に管理しておくことが前提になります。条件の管理ということが「実験」の必須の前提です。たとえば、水素の燃焼によって水ができることを検証する「実験」は、試験管の底に水や他の液体が付いていないこと、燃焼するものが水素以外にないこと、などが管理されていなければ、仮説の検証は不可能になります。「実験」の際の温度、気圧なども(常温・常圧ということでもよいのですが)正確に測定しておく必要があります。“黒帽子”の言う「実験」が、このような配慮をもったものとは思えないのです。

 そもそも「実験」によって確かめることができる真理とできない真理があるのであって、「実験」という方法が通用しない宗教的・哲学的な真理に対して「実験」を適用しようとすること自体が荒唐無稽なのです。したがって、そこで言われる「実験」の意味内容は認識困難です。そこでの「実験」とは、まったく無内容で空虚なコトバだと言わなければなりません。



 “黒帽子の男”の話が、このように、宮沢賢治作品の他の登場人物と比べてレベルが低く、無内容に思われるのは、この部分が書かれた時期の問題もあるのかもしれません。“黒帽子”の登場する部分は〔第3次稿〕ではじめて書き加えられ、〔第4次稿〕では、すっかり削除されているのです。このシーンは、賢治がある時期に思いついて書き加えたものの、この作品の中にうまく定着させられないまま削除されることとなった部分なのかもしれません。

 “黒帽子の男”には、「セロの声」に見られたような二面性はありません。賢治作品のエッセンスをもたらす“《風》の声”を思わせるような面は見られないのです。“黒帽子”の語りは、“世界の本質”を語る声ではないと言えます。

 以上から、“黒帽子の男”はブルカニロ博士とは異なっている。“黒帽子の男”は、ブルカニロ博士のような、ジョバンニらの“銀河の旅”の成立に深くかかわるような存在ではない。――と言うことができると思います。



 もっともそれは、上で検討した諸点からはそう言えるということであって、ブルカニロ博士と“黒帽子”は同一人物であるという通説にはまたそれなりの根拠があります。そこで今度は、ブルカニロ博士と“黒帽子”が似ている点について、次節で検討してみたいと思います。






【3.2.4】 「セロのやうな声」は、ブルカニロ博士か?(続)





「天沢 夢から醒める時の前後関係から言って『セロのような声』と、『講義をした歴史学者』と『ブルカニロ博士』とが、三位一体であるということがわかる。」

入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』,新装版,p.55.



 「夢から醒める時の前後関係」とは、たとえば「丘」の上に帰還したジョバンニに聞こえるブルカニロ博士の語りかけが、“銀河列車”での“黒帽子の男”の話の続きに聞こえる点があります:



「『おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。』」

「『さあ、切符をしっかり持っておいで。
〔…〕天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。』あのセロのやうな声がしたと思ふと〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 ↑上は“黒帽子の男”、下はブルカニロ博士です。どちらも“ジョバンニの切符”について話しています。この童話全体の構想の中で“ジョバンニの切符”がもつ重要な役割を考えるならば、両者の話の一致を偶然と考えることはできないでしょう。

 “黒帽子の男”とブルカニロ博士が同一人物でないとしても、二人の間には作者の構想上重要なつながりがあると思わなければなりません。







 








 また、この2人の人物は、登場のしかたにも共通点があります:



〔…〕ジョバンニが斯う云ひながら ふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思いました。

 『おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。』いままでたびたび聞こえたあのやさしいセロのやうな声がジョバンニのうしろから聞こえました。

 ジョバンニははっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本を持ってゐました。
〔…〕

「『さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
〔…〕あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。〔…〕
『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。



 両者とも、「あのセロのやうな声」が聞こえたあと、ジョバンニの前に現れるのです。これも、“黒帽子の男”とブルカニロ博士と「セロのやうな声」は“三位一体”だとする根拠になるでしょう。

 このように、“黒帽子の男”とブルカニロ博士は同一人物だと読者に思わせるような工夫を、作者は非常に巧妙に仕掛けていると言えます。しかし、それにもかかわらず、両者の見かけや話の内容の食い違いは非常に大きいのです。私たちは、これをどう考えたらいいのでしょうか?‥‥



 ここでギトンの考えを言いますと、前回(10)の最後に述べたような読み方が、ひとつの解決策になるのではないかと思います。

 つまり、「セロの声」は、単にブルカニロ博士の声であるというよりは、もっと大きな流れのようなもの、ブルカニロ博士が生まれるより前から存在し、自然世界のなかに備わっている“語りの声”、注意深い人間に世界の深奥の秘密を知らせてくれる“《風》の声”なのです。博士は、学者として――あるいは霊能力者として――その不思議な声を聴きとって研究し、人類のために利用しようとする立場なのだと考えてみます。

 そういう前提に立って、あらためてテクストを読んでみると、「セロのような声」イコール「ブルカニロ博士の声」ではないようにも読めることがわかります。博士自身の声は、もっと低い、ふつうの人間の声なのでしょう。そうあってこそ、ジョバンニに対する激励の言葉も説得力を持つのではないでしょうか。しかし、博士が「遠くから」現れて来る時、話しかけて来る時には、博士の声は「セロのような声」に聞こえるのです。それは、博士が、“《風》の語りの声”を送話媒体(一種のテレパシー?)として利用しているからです。

 “黒帽子の男”についても同じことが言えるのでしょう。“黒帽子の男”が「セロのような声」で語るのは、遠くから(?)登場してきた時だけで、そのあとジョバンニと対面して話している時には、“銀河鉄道”の他の乗客と同じふつうの人間の声になっている――と考えてみます。テクストは、そう読むことも可能です。

 つまり、ブルカニロ博士が、「セロのやうな声」という大きな流れのひとつの支流に立って、それを研究しているとすれば、“黒帽子の男”は、また別の支流から浮かび上がってきた人物なのです。

 そして、ブルカニロ博士と“黒帽子の男”のあいだには、直接の関係は無い。だから二人は似ていないし、話の内容も違う。ただ、2人とも「セロのやうな声」とかかわることによって、“銀河世界”をふくむこの巨きな世界の“本質”を理解しており、ジョバンニの“切符”が、その“本質”とかかわってゆくための鍵になるものであることも知っている。だから、“切符”について2人の話は一致する。。。

 こんなふうに考えてみたら、宮沢賢治が書いた“ジョバンニの旅”も、書き終らずに亡くなった未完の部分も、もっともっといろいろなことがわかってくるような気がします...












 ちなみに、ギトンは↑上のような説を、まったく根拠もなく空想で言っているわけではありません。根拠は賢治のテクストに……その改稿過程に痕跡として残されているのです。

 〔第3次稿〕から〔第4次稿〕への改稿の際に、ブルカニロ博士と「セロの声」が出てくる部分は、ほぼ全面的に削除されたのですが、じつは1ヶ所だけ、「セロの声」が完全には削除されなかった部分があるのです。

 まず、〔第3次稿〕の形
(ブルーブラックインクDで清書後、鉛筆Eで手入れを加えた段階)を見ますと、↓つぎのような部分です:



「『この汽車石炭をたいてゐないねえ。』ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

 『石炭たいてゐない?電気だらう。』

 そのとき、あのなつかしいセロの、しづかな声がしました。

 『ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。ただうごくやうにきまってゐるからうごいてゐるのだ。』

 『あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。』

 『ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。』

 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕より。




 ↑この〔第3次稿〕テクストに対して、まず黒インク(推敲F)で手入れを加えた結果が、つぎのテクストです:




「『それにこの汽車石炭をたいてゐないねえ。』ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

 『アルコールか電気だらう。』カムパネルラが云ひました。

 『あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。』

 『ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。』

 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第3次稿〕+F





 「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない。‥‥」という「セロの声」の部分(青字部分)が削除されていますが、その「セロの声」に対してジョバンニとカムパネルラが交わす「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた‥‥」の会話は削除されずに残っているのです。

 しかし、このままでは「あの声」とは何なのか不明で、辻褄が合わなくなりますから、『新校本全集』の編集陣は2人の会話(黄色字部分)も削って、現行の『銀河鉄道の夜』〔第4次稿〕最終形テクストとして出版しています。そのへんの事情は、『全集』「校異篇」に↓次のように注記されています:



「草稿ではこの削除部分
〔青字の削除―――ギトン注〕のあと、改行して記された左のごとき第1形態の2行〔黄色字部分―――ギトン注〕が、Fの手入れをなされず、そのままになっているが、これは『セロの声』の削除とともに削除されるべきものが、誤って消し残されたものと考えられるので、本巻本文には採らなかった。」
『新校本宮澤賢治全集』第10巻・校異篇,p.193.



 このような“直し”は、編集者としては当然の配慮でしょう。その結果、現行『銀河鉄道の夜』最終形〔第4次稿〕は、↓つぎのようになっています:



「『それにこの汽車石炭をたいてゐないねえ。』ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云ひました。

 『アルコールか電気だらう。』カムパネルラが云ひました。

 ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。」

『銀河鉄道の夜』〔第4次稿〕





 






 しかしながら、賢治の残した草稿にジョバンニとカムパネルラの会話の2行が残っているのは、単なる「消し忘れ」なのでしょうか?‥ギトンはすこぶる疑問です。

 むしろ、賢治としては、あえて残していた。残しておいて、前の部分とつじつまを合わせるために何か書き加えるつもりだったが、病気の急激な悪化のために果たせずに亡くなった‥‥のではないかと思うのです。

 宮沢賢治の死の1か月ほど前に、《アザリア》の旧友・河本義行の水死の報が届いていたことが、最近になって明らかになりました↓。カムパネルラ水死場面を含む『銀河鉄道の夜』〔第4次稿〕への改稿は、河本の水死に触発されたものだとすると、賢治の改稿作業は、死の直前の病床で行われていた可能性があるのです。


 【参考】⇒:【宮沢賢治】イーハトーブ館のアザリア展



 「消し忘れ」ではなく消さずに残した……そう考えられるのは、ここでの会話の内容がたいへん重要なものだからです。作者賢治としては、ブルカニロ博士は消し去っても、「セロの声」の性格にかかわる二人の会話は残しておきたかったのでしょう。

 たしかに、「ここの汽車は、スティームや電気でうごいてゐない」云々の声は、ブルカニロ博士が語っているものですから、ブルカニロ博士とともに削除されなければならない。しかし、「あの声、‥どこかできいた」「林の中や川で、何べんも聞いた」という、「セロの声」の性格、自然世界からの“語りの声”としての性格を暗示する会話は、この童話の本質にかかわる部分なので、なんとか生かしたかったのではないでしょうか。

 つまり、「セロの声」は、ブルカニロ博士の声そのものではなく、博士を超える超自然的なものであり、博士はそれを研究し利用する立場であるにすぎない―――そう洞察するための、これは根拠になることがらだと思うのです。






ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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