12/03の日記

21:24
【宮沢賢治】ますむらひろしさんの『乱入記』などなど

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中津川と「下ノ橋」、盛岡市  









こんにつは(^。^)っ







 ミヤケンやらヤマイヌやら、どうでもいいことばっか書いて、肝心の――かどうか知らないけど――管理人の顔がじぇんじぇん見えないじゃないか……とのご指摘もありそうなくらい、日記らしい日記を書いていないので、

 たまには自分のことも書かなくっちゃね…… って、結局あんまり書かないんですけど←...



 最近、調べるついでに、盛岡の方のブログをいろいろ拝見していたら、‥‥あちこちのゴミ集積場の写真を撮ってるコレクターの方とかいて、唖然... いや、じつはたいへん重宝させていただいてるのです。ふつうの地図見ても出てこないローカルな地名が、検索一発で出てくるんですから、遠隔地にいる者にとっては神様のような存在ですw きれいな風景写真も――岩手山とか、観光になる有名な場所じゃなくて――たくさん撮っておられます。快晴の日に、さっと出かけて撮れるのは地元の強みですね。でもそれだけじゃなくて、‥ああそーか、こーゆーアングルで撮ればよかったのか、と教えられることも多いです。

 たとえば、区界
(くざかい)近くの飛鳥↓。



















 ギトンは、上から見おろすように撮ってるんですが、これでは集落全体がうまく入らない。家々が重なってしまって、ひろびろとした、この場所の風景の感じが出ないんですね。。。 しかもこの場合は逆光に近くなっています。

 下から見上げるように撮ったほうがいいんです。それを教わりました。






 また、他の方のブログを拝見していたら、‥‥有名な「ちゃぐちゃぐ馬こ」。今は夕顔瀬橋から中ノ橋を通って、まっすぐに天満宮へ行ってしまうんですね。それで、宮沢賢治は「ちゃぐちゃぐ馬こ」をどこで見たんだろうって‥‥

 ギトンは、最初から当然に下ノ橋だと思ってました。だって、賢治サンと清六サンが下宿してた「玉井方」のすぐそばですもん...

 それで、調べてみたら、やっぱ‥↓ちゃんと「下のはし」って書いてあるじゃないですかw






      ※

 夜明げには
 まだ間あるのに
 下のはし
 ちゃんがちゃがうまこ
 見さ出はたひと。

      ※

 ほんのぴゃこ
 夜明げがゞった
 雲のいろ
 ちゃんがちゃがうまこ
 橋渡て来る。

宮沢賢治『歌稿B』#537-538.



 昔は、今のコースじゃなくて、下ノ橋から城址公園の左側をぐるっと回って、中ノ橋へ抜けてたんじゃないんでしょうか。

 「ほんのぴゃこ/夜明げがゞった/雲のいろ」―――まだ空は真っ暗で、東の雲の一部が白んできたかなあ… ってくらいなのに、もう橋の上はおおぜいの見物人――「見さ出はたひと」で、いっぱいになってる。

 ギトンは、じつはまだ「ちゃぐちゃぐ」一度も見たことがないんですけど、↑この方言短歌4首で、もう十分なくらい堪能してしまってますw ふだん田畑で働いてる農耕馬が、重い武者装束の人を載せて、がちゃがちゃ音させながらやってくる。馬にとっては晴れがましい檜舞台だから、もう、「いしょけめに」ちゃんがちゃんが「馳せてく」んですけど、そのさまを見ていると、ほんとに泣きたいような気持ちになって来るんでしょうね。

 


      ※

 いしょけめに
 ちゃんがちゃがうまこ
 馳せでげば
 夜明げの為が
 泣くだぁぃよな気もす。

宮沢賢治『歌稿B』#539.





 これだけでは、なんだかまだ「泣くだぁぃよな気」がしないという向きには、こんな話はどうでしょうか?

 もともと岩手県以北は、“牧畜文化圏”だったと言われるくらい馬産がさかんで、とくに明治、大正、昭和初期にかけては国策で馬産を奨励してたんですね。農家に馬を飼育させて、“種馬品評会”みたいなのもやって、優秀に育ったのを選りすぐって県や政府が買い上げていたんです。みな、軍馬育成のためです。

 当時は、岩手県の馬疋の頭数は、ひじょうに多かったんですが、その大部分は日中戦争で供出されて中国戦線に送られ、全部戦地で潰してしまいました
(藤原彰『餓死した皇軍』)。だから、今では岩手県には馬はほとんどいません。戦後は、畜産と言っても乳牛、肉牛が主で、馬産はもう復活しなかったんですね。軍馬が時代遅れになって軍需がなくなったというだけでなくて、そもそも戦争が終った時には、殖やすもとになるような馬さえ残ってはいなかったんです。

 宮沢賢治は、1933年までしか生きていませんけれども、そういう流れの方向は、渦中で暮らしていれば、なんとなくわかるわけで、それで――「泣くだぁぃよな気もす」。

 これはイデオロギーではなくて、社会の動きの深淵をじっと見つめる詩人の感性なのだと思います。






 










 …というわけで、あいかわらずミヤケンばっか調べてるんですが、さいきんはヤマイヌにも興味が出て来て、ミヤケンと、かぶらないようなことまで狼神社に深入りしはじめてます。

 岩手県にはヤマイヌが、明治の初めまでは確実に山の中にいたようでして、明治天皇が来た時に、生きたヤマイヌを――檻にでも入れてでしょうか――お目にかけたという記録があるそうです↓


 【参考】⇒:【BL週記】奥多摩のオイノさま(1)




 ‥と書いた後で、ミヤケンの関係を見ていたら、そっちにも同じことが書いてありました:





「明治9年明治天皇東北御巡幸のことがあった。そのとき、生きたオオカミを天覧に供したが、それとともに、下閉伊、九戸あたりの山中の農民のうち、もっとも貧窮なものの着物や食べ物をお目にかけたのである。新聞には、次のように書いてある。

 『衣は極めて粗末なる麻布にて、紺色に染めたる、
〔…〕実に人間の肌に、着くべき物とは思はれず、食物は、トチの実、ナラの実をつき砕きて、わらびの粉や稗などをまぜてダンゴの如くしたる物にて、見し処は、鳥の糞かと思はれ、是また人間の口に入るべき物とは見えず。……』」
森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.313.






 「食物」のほうは、ドングリを丁寧にアク抜きした餅で、縄文以来の食料として最近もテレビで紹介していました。明治時代までは、それが主食だったのかもしれません。お菓子として食べるぶんには、なかなかオツなものですが、それが主食となると、どうですかねえ‥



 森氏は、古い新聞を見ているんでしょうけれど、…ギトンもいちど、1週間くらい岩手に逗留して、図書館にある古い新聞記事を見なくてはいけませんね。宿泊費もかなりかかるので、事前に十分準備して資料の当たりをつけてから行きたいと思っていますが。。。
















 ところで、最近ミヤケン関係で読んでいる本を、少し紹介しておきたいと思います。

 まず最初に挙げたいのは、ますむらひろしさんの、これ↓








 『イーハトーブ乱入記』,1998,ちくま新書 156.






 kindle版があるみたいですね。紙の本は絶版なので、図書館で借りて読んでます。ぜひ再版してほしいんですけどね。キンドルは、書き込みができないので、図書館の本と同じことになるので、紙の本でないと困るんですよねw

 キンドルもアンダーラインが引けるって言いますけど、面倒だし、他のアンダーライン箇所に線を引っ張れないし、参照ページを書きこめないし、全然使えませんねww 図書館の本に、付け外しできるフセンを貼ったほうがずっと便利です。痕は残りません。

 ちなみに、図書館の本に薄い鉛筆で線を引く人がいますけど、やめてほしいですね。後で読む人の参考になるとでも思ってるんですかね?ぜんぜんなりませんよ。なったためしがない。






 ますむらさんの宮沢賢治についての短文は、マンガ本についてるのをいつも楽しく読ましていただいてましたが、文章だけで本になってるのは初めて。

 結論まで一貫して論じているのを読むと、この人の大きさがわかります。

 とくに『銀河鉄道の夜』の「三角標」については、最初に描いたコミック・ヴァージョンの画像化からはじめて、結論まで書いてあります。



 ますむらさん以前の挿絵画家や賢治研究家は、上端の尖った標石か、板のようなものを想像したみたいですね。ギトンが読んだ色刷り挿絵入りの子ども用の本でも、矢印の形の板が野原に並んでました。



 ギトンが『銀河鉄道の夜』を読んだのは、小学校高学年か中学生か忘れましたけど、とにかく大人になる前でしたから、すらすらっといっぺんで最後まで読んじゃいましたね。ますむらさんが、最後まで読むのに苦労したのは、大人になってから読んだからじゃないかと思います。

 小学生は、わからない言葉があっても気にしませんからね。べつに“賢治語”でなくても、ふつうの日本語でも、わからない言葉だらけですから。どれが“賢治語”かなんて気にしません。わかる言葉が7割とか8割とか、一定の割合になれば、あとは筋の興味で最後まで読んじゃいます。『銀河鉄道の夜』は、指定図書みたいに、親に買い与えられて、ずっと積ん読してあったんですが(理由は、字が多いからw)、数年たってから何かの拍子に読み始めたら最後まで行っちゃったんですね。


 それで、「三角標」ですけど、ますむらさんの2つのヴァージョン――賢治〔第4稿〕と〔第3稿〕――で、それぞれ画像化した形が違うわけです。この本に書いてある最終的な結論は、それらとも違う。ますむらさんが、賢治の残した『銀河鉄道の夜』の文章を手がかりにして、最終的な結論まで推論してゆく――推論と言うより“イメージ思考”なんですね――過程が、とても興味深く書かれています。

 ネタバレになるので、これ以上詳しく書けないのですが……、ますむらさんの推論は、ほとんど『銀河鉄道の夜』に書いてあることだけを手がかりにして、自分勝手な想像だとか他の作家のイメージだとか混入させないのはもちろん、賢治研究家がよくやる、仏教だとか科学だとか他の本の知識の援用をしてないのも、良いと思いました。賢治が読んだ本だとしても、この童話を書く時に、その知識を使ったかどうかはわかりませんからね。「賢治が読んだ」は決め手にならないと思います。

 賢治の時代に日本じゅうでさかんに行われていた“三角測量”については、ずいぶん調べておられますが、それも、“三角測量”でこういうものがあったから、賢治の「三角標」は、これだ、というように安直には結びつけていません。





 









 ところで、ますむらさんとは別ですが、賢治が遺言のように書き残した「経埋ムベキ山」リスト。あのリストにしたがって、山の位置を地図にプロットすると、天空の星座配置と一致する――という説があります。天空の星の位置が地上に投影するようになっているわけですから、星座早見盤の星位置そのままではなく、鏡像になっているわけですが。

 この説を、ますむらさんの“最終結論”と組み合わせると……、これはすごいことになると思います。

 『銀河鉄道の夜』でジョバンニの昇天・帰還の場所に立っている「天気輪」、あれは、あの丘だけではなく、たくさんの丘や山の頂上に立っているのではないか?‥それが、「経埋ムベキ山」にほかならない。

 『銀河鉄道の夜』の〔第3稿〕には、丘の上でジョバンニが「琴の星」(琴座のα星、ヴェガ)を見ていると、その光が3つにも4つにも分かれたり、長く延びて茸の形になったりして、しまいには「三角標」になってぺかぺか光りはじめる――という場面があります。

 しかし、ますむらさんは、星が「三角標」になったのではない、と言うのです。銀河鉄道の列車で走ってゆくと、さそり座の形に「三角標」が並んでいたりするので、「三角標」とは、じつは地上で星と見えるものが、銀河世界では「三角標」なのだ…と言う意見が多いのですが、ますむらさんは、星の光が「三角標」になっただけで、星が「三角標」になったわけではないと言います。

 『乱入記』の最後まで読むと、ますむらさんの指摘の鋭さに驚くでしょう。ぜひ読んでください。

 賢治の〔第4稿〕では、「琴の星」の光が変化したあと、ジョバンニの立っている後ろの「天気輪」が変化を起こして、「三角標」になってぺかぺか光りはじめます。

 そこで、「経埋ムベキ山」に話を戻しますと、丘の上の「天気輪」が、“まわりじゅう光だらけ”のジョバンニの昇天場面の中で、ぐーんと伸びて、ジョバンニの“銀河世界”の野原の地面に頭を突き出して、三角点標石のようになったのが“星”で、それは「三角点」の形をしている。その上に、チョコレートを積み重ねたような三角形(四角錐)のヤグラが組まれると、そのヤグラが「三角標」で、それが“星のひかり”にほかならない。

 そうすると、地上の岩手県の「経埋ムベキ山」の列が、星座配置を投影した形に並んでいるのは当然であるわけです。なぜなら、山の頂上の「天気輪」が天空へ伸びて行った先が、銀河世界の“星”だからです。

 星イコール「三角標」ではなく、星イコール「三角点」だと賢治が考えていた証拠は、『銀河鉄道の夜』の↓つぎの叙述にあります。これは、ますむらさんの鋭い着眼点だと思います。





「ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすゝきの風にひるがへる中を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。

 『あゝ、りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だねえ。』カムパネルラが、窓の外を指さして云ひました。

 線路のへりになったみぢかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたやうな、すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。

 『ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせやうか。』ジョバンニは胸を躍らせて云ひました。

 『もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。』

 カムパネルラが、さう云ってしまふかしまはないうち、次のりんだうの花が、いっぱいに光って過ぎて行きました。

 と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが、湧くやうに、雨のやうに、眼の前を通り、三角標の列は、けむるやうに燃えるやうに、いよいよ光って立ったのです。」

『銀河鉄道の夜』より。







 賢治は、↑この「天の川の水」の場面でだけ、「三角標」という言葉を使わず、「三角点」と言っているのです。

 下のほうで、「りんどう」の群落とともに野原に立っているのは、「三角標」の列です。

 それに対して、上で見えている「三角点」のほうは、野原に立っているのではなく、「天の川」の川底に、小石のように点在しているのではないでしょうか?…もしそうだとすると、「三角点」とは、“星”のことではないかと思います。星を、銀河世界のなかで見ると、「三角点」に見えるのです。

 つまり、“天の川は小さな星の集まりだ”という、「午後の授業」での先生の話と一致することになります。

 もちろん、野原に立っている「三角標」の下には、それぞれ「三角点」があるはずですが、それは草に隠れているのか、いま列車の中からは見えない――と考えることができます。







 ギトンはまだ、ますむらさんの『乱入記』を1回通読しただけで、『銀河鉄道の夜』の本文と照らし合わせてみるのは、これからです。「経埋ムベキ山」を地図にプロットする作業も、いちどやってみなくてはなりませんね。

 たかが童話のテクストから、ずいぶんあれこれとひねくって理屈をこねるものだ‥と思われるかもしれませんが、これほどひねくって掘り下げても、まったく破綻しない、ぼろが出たりしないw、むしろますます“隠された深奥の秘密”を露わにしてゆくのが、“賢治世界”の信じがたい奥深さなのだと思います。

 

 なお、「青森挽歌」で賢治の乗った北海道行きの汽車が、昼間の汽車ではなく夜行列車だったことを明らかにして、通説を覆したのも(いまでは、ますむら説が通説になっている)、ますむらさんの研究者顔負けの功績です。それについては、こちらで ⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》青森(1)



















 そのほか、さいきんミヤケン関係で読んだ本で得心したのは、↓こんなところです:




@井上ひさし「岩手山麓殺人事件」, in:『井上ひさし短編中編小説集成』,第9巻,2015,岩波書店,pp.200-206。

A大塚常樹『宮沢賢治――心象の宇宙論』,1993,朝文社.

B奥山文幸『宮沢賢治「春と修羅」論――言語と映像』,1997,双文社出版.





 @は、『犯罪調書』という、日本と世界の殺人事件に取材した短編集の1篇です。この小説集は、完全なノンフィクションなのか、創作が入っているのかわかりませんが、どの篇も、たんなる猟奇趣味ではなく、各時代とその社会を浮き彫りにする事件を叙述しており、それぞれに奥行きのある作品になっています。

 「岩手山麓殺人事件」は、宮沢賢治の時代に、岩手県の山奥で起きた連続殺人事件です。宗教団体の布教をしていた村会議員が、布教の邪魔になる親族をつぎつぎに殺害してゆくが、村人はみな、犯人の布教師が、「陸羽132号」という水稲品種を村に広めた“恩人”であったことから、犯人を知りながら口をつぐんでしまいます。そのため、警察も検察も、まったく手が出せなくなってしまう。

 ところが、ある年に深刻な冷害になり、「陸羽132号」は冷害に弱いことが露呈します。この山奥の村では、稲が全滅という大被害になります。それというのも、村の稲は全部「陸羽132号」だったからです。

 収穫期を迎えると、村人たちは、来年から稲の品種を元に戻すことを決めたうえで、警察署に駆け込み、布教師は殺人を暴露されて逮捕、死刑になる―――という話です。

 「陸羽132号」と言えば、宮沢賢治も奨励したと言われている品種です。「陸羽132号」への期待を詠った詩もあります。そして、布教師が殺人犯として逮捕された 1931年には、賢治も病で倒れているのです。賢治の奨励した(?)「陸羽132号」も、山沿いでは冷害で全滅したのでしょうか?‥おそらく、そうでしょう。しかし、数ある賢治伝記にも、そこまではっきりと書いたものはないようです。

 ただ、賢治は、この年7月10日付の『岩手日報』に、「昨今の朝夕の冷気」による稲の発育不良の状況を述べて、減収を憂慮する記事を載せています。そして、西田良子氏によれば、あの『グスコーブドリの伝記』は、この7月から8月にかけて最終稿が書かれているのです
(『宮沢賢治 その独自性と同時代性』,1995,翰林書房,pp.130-134.)。そこでは、言うまでもなく冷害の悲惨さとその克服が、最重要のテーマとなっていました。



 この小説に宮沢賢治は出てきませんが、井上ひさしが賢治を意識して書いているのは、まちがえないでしょう。

 「陸羽132号」は、“米騒動”対策として政府が当時計画した食糧米増産計画の一環で、朝鮮植民地の「産米増殖計画」――飢餓輸出と朝鮮人農民からの土地略奪に拍車をかけた悪名高い植民地政策とセットになっていました。そうした背景を、井上さんは入念に描いています。

 『短編中編小説集成』を買うのは、高くてしんどいですが、この1篇は短い小説で、かんたんに読めますから、ぜひおすすめします。



 ちなみに、『宮沢賢治殺人事件』という、何を言いたいのかわからない本がありますが、この岩手山麓の事件にふれないでは、まったくタイトルを裏切った無意味な著作と言わなければなりません。



 AとBは、研究書のなかでも出色のものです。

 Aは、ガス灯→アーク灯→電灯という電気技術の発達と普及、自動車の普及といった近代技術革新が、宮沢賢治の世界観と作品モチーフに与えた重大な影響を論じています。

 灯火の変遷、近代化については、秋枝美保さんが、シーヴェルブッシュ(Wolfgang Shivelbusch 1941-)を引用して議論しているのを紹介したことがありますが(⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》8.4.5)、大塚さんは、当時の日本の産業史との関わりで具体的に論じており、目を開かれます。

 Bは、Aとは別の角度から…、映画文化の流入とのからみで、《心象スケッチ》の手法への決定的な影響を論じているもので、ベンヤミン、エイゼンシュテインなどの現代芸術論の流れに宮沢賢治を位置づけるものとして注目されます。

 A,Bともに、宮沢賢治が生きていた当時の時代思潮の中に賢治作品を置いて見る志向をもっていますが、単に、賢治が同時代の思潮に影響されたとか、新しい文化現象を模倣したというのでなしに、賢治の側からの反発や“修正”も含めて、それこそ命がけで“同時代”を生きた生涯の産物として、多面的に評価する姿勢を持っています。その点で、秋枝さんや鈴木貞美さんの“受働的な賢治像”に対して抱いた疑問は、不当ではなかったと確信させてくれました。

 Bに関しては、賢治の「心象スケッチへの助走」ということで、『冬のスケッチ』などの分析を、近々ギトンなりに論じてみたいと思っています。






 
















ばいみ〜 ミ



 
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