10/17の日記
18:42
【BL週記】奥多摩のオイノさま(1)―――高水山常福院
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奥多摩、鷹ノ巣山
こんばぬわ(^.^)y
狼神社。前回は岩手県平泉の北で、“北限”の可能性が高い《衣川》の狼神社をご紹介しました。
【参考】⇒:【BL週記】奥州・衣川のオイノさま
そのさい予告しておいたのですが、東京に近い奥多摩にも、よく見てみれば、あちこちの山の祠にヤマイヌの石像があるのです。
神社の“眷属”として、鳥居の両側、拝殿の前などに2体1対のヤマイヌ石像が置かれている《狼神社》。いちばん多いのは、なんといっても埼玉県の秩父地域です。ここでは、奥秩父・三峰神社を中心に、江戸時代中期以降“狼信仰”が盛んになりました。
関東から宮城県・山形県にまで及ぶ地域の狼神社は、みな、この“三峰信仰”の影響下にあると言ってよさそうです。奥秩父の三峰から祭神と“眷属”(ヤマイヌ)を勧請し、みずから何々三峰神社と称している処が多く、そうでなくとも秩父三峰との何らかのつながりを示す由来記を持っています。
しかし、そのような「三峰神社」の広がりは岩手県南端と山形県(月山、湯殿山)までで、その北には及び得なかったのではないか?なぜなら、岩手・秋田・青森には、「三峰」とは異なる、もっと古くからの“ヤマイヌ信仰”があったからだ―――というのが、前回も述べたギトンの仮説です。
そして、北方のヤマイヌ信仰―――“オイノ”信仰―――は、神社というような形をとっていないかもしれない。
そこで想起されるのは、岩手の詩人・宮沢賢治の詩草稿にある↓つぎのような一節です:
祀られざるも神には神の身土があると
あざけるやうなうつろな声で
さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ
……雪をはらんだつめたい雨が
闇をぴしぴし縫ってゐる……
まことの道は
誰が云ったの行ったの
さういふ風のものでない
祭祀の有無を是非するならば
卑賤の神のその名にさへもふさはぬと
応へたものはいったい何だ いきまき応へたそれは何だ〔…〕
『春と修羅・第2集』#313,1924.10.5.「産業組合青年会」〔定稿手入れ〕
神社も祠も何も無くても、神格の居る場所には神格が居るというのです。
しかし、信じる人間がひとりもいなくては、たとえ神が宿っていたとしても私たちにはそのことがわからないでしょうから、人びとの信仰の宿る場所は、何の目印もない自然の中にもある――ということになります。
そのような、いわば“自然”そのもの――山、丘、岩など――を神として崇めるような信仰とともにある“オイノ”信仰が、岩手以北には残っていて、⦅狼神社⦆は、その手前でストップしたのではないか?
【参考】⇒:狼森と笊森、盗森(1)
【参考】⇒:狼森と笊森、盗森(4)
【参考】⇒:荒川の碧き流れに(36)
岩手県下閉伊郡岩泉町安家(旧・安家村)
さらに、もうひとつおもしろいのは、明治〜大正のころまでは、岩手県には本物のヤマイヌが生息していたらしいのです。
こちらのブログによりますと、明治10年前後には、岩手県では、家畜に害をする狼の駆除を目的としてオオカミ猟が行われていただけでなく、オオカミの仔を生け捕りにすることもあった―――そういうことが、岩手県庁の文書保管庫にある古文書に記されているそうです ⇒:盛岡骨董事情:
● 明治前期頃の下閉伊郡あたりの山村での、オオカミの猟法を図解入りで説明した文書がある。
● 『獲狼回議』:岩手県でのオオカミの駆除に関する文書のつづり。畜産振興のためオオカミ猟が奨励され、狼を捕まえると県から懸賞金が貰えた。
● 明治9(1876)年、明治天皇の「岩手御幸」の際、狼の毛皮と、生きた狼の仔を天皇のお目にかけた記録がある。
● 明治12(1879)年ころ、安家(あっか。岩手県下閉伊郡の三陸沿岸)の人がオオカミの子どもを6頭捕獲して、東京の内山下町博物館(上野動物園の前身)に購入を持ちかけた。
● 明治13(1880)年、安家のDさんが、オオカミの子どもを7頭捕獲して、県に懸賞金をもらいに来た。
いずれも、岩手県に生息していたオオカミですから、ニホンオオカミ(ヤマイヌ)にちがいありません。
おもしろいのは、じっさいにヤマイヌが生息している地方では、ヤマイヌは、馬などの家畜を襲う害獣として、その駆除が奨励されていたということです。
三峰神社の“オイノ信仰”は、ヤマイヌを益獣として崇めるものですから、じっさいにヤマイヌの害を蒙っている地方に、そうした信仰が入って行かなかったのは、当然と言えば当然なのです。
『遠野物語』に登場するヤマイヌも、やはり馬を襲う害獣としてです。
もっとも、ここには、“牧畜文化圏”としての岩手県以北という問題もあるように思います。かつて、第2次大戦前までは、岩手県は馬の飼育を中心とする畜産王国だったと言われています。秋田・青森も同様だったでしょう。平泉以南の“純農耕文化圏”に対して、奥羽は“狩猟・牧畜文化圏”だったと言えるのかもしれません。
このスキームで言えば、《狼神社》は“純農耕文化圏”のもので、平泉より北の“狩猟・牧畜文化圏”には入って行けなかった。なぜなら、ヤマイヌは、純農業民にとっては益獣であっても、畜産、とりわけ馬産にとっては害獣であったから。そうも言えるのかもしれません。
ともかく、文化圏の問題をしばらく置いて、ヤマイヌの絶滅という時系列の現象に即して言えば、つぎのようになると思います。
⦅狼神社⦆に関するギトンのモチーフは、‥‥その種の信仰は、ヤマイヌの絶滅した地方で、絶滅にともなって発生し継承されてきたのではないか?‥‥そのように考えてみたいと思います。
つまり…、生息していた時には、やっかいな野獣で、さんざん苦労したけれども、居なくなってみると、なつかしいというか、いとおしくなって、想像の世界でヤマイヌを“人の味方”として崇めるようになったのではないか?
これはまだ仮説ですが、調査にあたっての“みちびきの糸”になるのではないかと考えています。
しかし、そうした構想は構想として、私たちはまず眼の前にある痕跡から調査を始めなければならないと思います。
東京都の領域に入る奥多摩地方には、知られているだけで6か所の⦅狼神社⦆があります。それらを北から南へ並べると、↓つぎのようになります。
所在地 寺社名
@ 高水山 高水山常福院龍学寺
A 御岳山 武蔵御嶽神社
B 大岳山 大岳神社
C 湯久保 鑾野御前神社
D 笹ヶ久保 貴布禰神社
E 臼杵山 臼杵権現神社
(1)高水山常福院
“高水三山”は、奥多摩のいわば入門的な山域でして、ギトンも山歩きを始めたころ――中学生だったかな――には、しょっちゅう行ってました。
立川で青梅線に乗りかえて、青梅を過ぎたころに右から崖が迫って来る、その山塊です。700メートル台の手ごろな山が3つかたまっていて、全部回っても5時間程度。軽い日帰りハイキングにはもってこいです。
軍畑(いくさばた)駅で下りて、いちばん近くにあるのが高水山(759m)。御嶽(みたけ)駅から近いわりに、頂上付近には岩場もあって“山気分”を味わえる惣岳山(756m)。しかし、人ごみも岩登りも苦手なギトンは、いつも裏のほうから、いきなり最奥の岩茸石山(793m)に上がっていました。
、
岩茸石山から北方を望む。
「棒の折れ」方面から尾根伝いに来る縦走路は、
散策気分で歩ける手ごろなコース。
紅葉の時期にも静寂な境域を楽しめます。
岩茸石山から高水山を望む。
高水山常福院 山門
さて、“オイノ”さまがいると言う常福院は、高水山の頂上から少し下りたところにあります。いつもは素通りしていたのですが、今回はじっくりと参拝してみることに。
高水山常福院 不動堂
神社ではなく、お寺なんですよね。お寺のお堂の前に“オイヌ”の対が立っているのも珍しいですが、ここは不動尊なので、習合した山岳信仰なのでしょう。
神社ふうの“がらがら”まで付いています↓
ちなみに、山門には、お寺らしく左右の仁王様がいました。
高水山常福院 不動堂
高水山常福院・不動堂 右(向って左)のオイノさま
高水山常福院・不動堂 左(向って右)のオイノさま
“オイノ”と言うより、“犬”ですね。耳が垂れているのは、日本犬らしくもありません。かなり新しい年代のもの。おそらく第2次大戦後に制作された石像でしょう。
しかし、↓山頂にも小さな祠がありまして、こちらには祠の中に、やや古い石の“オイノ”さまが一対、置かれています。
高水山頂
耳が立っていること、鼻つらが突出していることから、比較的古いタイプのヤマイヌ石像と見られます。
“左”のオイノさまは、鼻つらが欠けてしまっています。
高水山頂 “右”のオイノさま
目が丸くて大きいのは、他の場所のオイノには見られない特徴です。
さて、次回は多摩川の谷をまたいで南側、みたけ山を訪ねてみたいと思います。
ばいみ〜 ミ彡
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