04/17の日記

19:00
【BL週記】ジュネ読後感―――ホモフォビアは、日本の文学界のパスポートか?

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おはよーございまする(^。^)y






 ジャン・ジュネ入門篇、いかがでしたか?⇒:ジャン・ジュネ―――『薔薇の奇跡』を読む



 ゲイ小説と言えば、フォースターの『モーリス』が有名ですけど、ぼくは読んでみて、ジュネの『薔薇の奇跡』のほうがずっといいと思ったw

 ⇒:『モーリス』!

 まぁ好みの問題でしょうけど、フォースターのほうは、イギリスの上流、中流の家庭が舞台で、‥なんというか、マホガニーずくめのへやで、洗いざらしのまっ白なスーツにいつもくるまってる感じで、ええかっこしいというか、気取ってないふりして気取ってるというか、‥そのくせ表面に見えないところで脅しも騙しもあって、いけ好かない感じがするんですよね〜w

 同性愛のエッチの描写も、もってまわった遠回しな表現が多すぎるし…

 “教育的”に『モーリス』のほうが評価が高くて、若ゲイには『モーリス』を薦める人が多いんですけど、‥どーなんでしょうかねえ? “ケンブリッジ・ゲイ”って、けっきょく特権階級の自己満足じゃないかって気がする。“まわたで首を絞められる”ってことばがあるけど、自分からマワタをぐるぐる身に纏って喜んでるような気がするんですねえ。。。 第2次大戦前のイギリスの上流・中流の同性愛者って(戦後は違うと思いますが)、そんな感じだったんですかねえ‥



 かたや、ジュネのほうは、犯罪者が(執筆当時は、ジュネはまだ足を洗っていない)犯罪を反省するどころか、一種“聖化”しながら、同性愛生活も、あからさまに、僕の男根を彼がくわえたとか、それで頭を引っ張ったら口にむしゃぶりついてきたとか、―――ポルノではない‥ことさらに欲情を煽ってはいないんだけど―――、オブラートで包まない書き方なんですね。そういう点が、“教育的”な先生方を遠ざけるんでしょうかねえ?‥

 たしかに、ジュネの小説には“悪魔的”な部分はあると思います。“悪魔的”な部分が、人生の門口に立った同性愛者を、悪いほうに導いてしまうとか心配するんでしょうかね?

 でもそれは、たとえば親鸞の『歎異抄』なんかとくらべて、それほど有害だとは思いません。

 『歎異抄』は、すごいですよ。極楽浄土は悪人のためにあるんだ。善人も信心がよければ連れてってやるけどさ。。。 て言うんですからねw






ジャン・ジュネ監督『愛の歌』より





 ジュネのほうは、こと同性愛者が読む場合に限って言えば、親鸞ほどの“毒”は無いって気がしました。というのは、『薔薇の奇跡』について言えば、語り手ジャンの、同性愛だらけw‥エッチだらけの日常生活が一方にあって、それは、セフレや収容者仲間との密な心の通い合いを求めるもので、“悪魔的”どころか、まったくふつうに“人間的”なんですね。それに対して、死刑囚アルカモーヌ、あるいはアルカモーヌに寄せるジャンの思慕の想いが代表するような“悪魔的”な世界があって、それがしばしばジャンの孤独な幻視の中に侵入してきます。そこには、孤高で“悪魔的”な‥あるいは“神”のように高貴な、なにかがあります。

 このように、語り手の同性愛―――すくなくともセックスしたりキスしたりといった日常的な同性愛は、“悪魔的”なものとは区別されていて、むしろ“悪魔的”なものに対立する位置にあるように書かれていると思うんです。

 もちろん、語り手のジャン・ジュネは、その両者の境目の縁に立っていて、“悪魔的”な幻視にしばしば陥ってゆくし、その抗いがたい魅惑を避けるのではなく、幻視においては、とことんその世界にのめりこんで行こうとします。

 しかし、のめりこんで行きつつも、つねに、語り手の背後には、なにか後方遠方から見据えているような自制が感じられるんです。いつも何かが彼の背後で、彼が深みに陥って行かないように引っ張っていて、ときどき視線をずらさして、より広い視野を見させようとしているような‥



 ですから、『薔薇の奇跡』は決して“悪魔の文学”でも“危険な文学”でもないという感じがしました。

 そして、むしろ長所のほうが目立っていると感じられます。ジュネが書くものの最大の長所は、同性愛に対して偏見が無いことだと思います。だから彼が描く同性愛は、作中の“悪魔的”な要素とは一線を劃しているのです。

 ジュネが自ら監督した短編映画『愛の歌(Un Chant D'Amour)』を見るとわかりますが、ジュネはそもそも同性愛行為に対して、“悪魔的”とか背徳的なイメージを持っていたなかったのだと思います。それは、ただ淫らなだけです。男女間の性愛・わいせつ行為と同じレベルです。非現実的に美化してもいないのです。

 ギトンがいつも残念に思うのは、同性愛、あるいは同性愛者が登場する多くの文学作品で、同性愛は、いつも何か否定的なもの、うしろぐらいもの‥、よくて“悪魔的”に超越したものとして扱われます。それは、著者が同性愛者である場合にも言えると思います。(ギトンが三島由紀夫を評価しないのは、そのことがあるからです)

 卑近な例を言いますと、石田衣良さんの『池袋ウエストゲートパーク』シリーズという短編推理小説のシリーズがあります。ギトンは、このシリーズが好きで、何度も読みかえしているのですが、そのなかで、題名は忘れましたが、その1篇に、オカマの少年が出てくるのがあります。いつもチェックのシャツに、首からチェーンをぶら下げた格好で西口公園にやってくる小柄な少年なのですが(記憶で書いているので、細部が違っていたらごめんなさい)、語り手の探偵役の青年は、そのオカマ少年に求愛される“気持ち悪さ”を描いた後で、語り手をだまして殺そうとした少年が、逆に自分が罠にはまって、水位の深いプールの底に首のチェーンが引っ掛かって溺れてしまう。語り手は、彼を見捨てて立ち去ってゆく―――という終結なのです。

 あるいは、東野圭吾さんの『灯台にて』。東野圭吾さんも、ギトンは大好きで愛読しているのですが、この短編には失望させられました。この灯台守のような同性愛者も、たしかに居るにはいるでしょうけれども、いつも異性間の愛の話ばかりで、たまに同性愛者が出てくると、こういう人というのでは、あんまり不公平に感じます。

 同性愛者と言えば、唾棄すべき“悪者”、よくて嘘つきの道化者‥という“常識”が日本の文学界にはあって、この“常識”に忠誠を誓っていないと“市民権”を保持できないのではないか‥ そう思われるような現実があります。同性愛への偏見は、いったいいつまで日本の文学界のパスポートであり続けるのか?





 





 ところで、岩波の月刊誌『世界』の最新号(2017年5月号)が「〈LGBT〉ブームの光と影」という特集記事を載せています。同性愛、同性婚、LGBTに対する制度的手当て、偏見の解消…といった問題圏の現状を、さまざまな角度からレポートしています。

 ツイッターで薦められて、‥『世界』なんてほんとに何年ぶり……十何年ぶり?……かで読んでみましたが、これはぜひ誰もが読んでみるほしいと思います。いろんな角度から書いているので、読んで得る方向もひととおりではないでしょう。

 地方自治体でぼちぼち認められ始めているようなカップル認証、あるいは同性婚に準ずる制度や差別禁止立法などは、国レベルではまったく程遠い現状にあるから、権利性を主張するのはやめよう、“理解の増進”さえ自民党内では抵抗が強いから黙ろう――――そういう方向を受け取る人もいるでしょう。

 しかし、ギトンはこの特集を読んで、むしろたとえ遠い道のりになっても、権利性をめざして行かなければどうしようもない‥ こちらから要求のレベルを下げていたのでは、まったく絶望的な未来しか望めなくなる‥ というように感じました。

 と言っても、ギトンは、ゲイ・リブではありません。この特集を読んで、いちばん心強く感じたのは、当事者のプライバシーを固く守りながら、一定の成果を上げている人たちのいることです。“自己犠牲”の運動が成果を上げる時代では、もはやないとも言えると思います。

 まぁ‥その点はいろいろな意見があるとは思います。



 気が向いたら‥ また風が吹きまわしたらw‥ この特集についても、いちどレヴューしてみたいと思っております//















ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: BL週記

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