03/22の日記

04:28
【吉本隆明】の宮沢賢治論――選ばれた者のユートピアか?誰でもの「さいはひ」か?(2)

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 おはやうございます (º.-)☆ノ






〇 吉本隆明「賢治文学におけるユートピア」, in:『国文学―――解釈と教材の研究』,23巻2号,1978年2月号,学燈社,pp.6-29.


 ↑この論文を検討しています。連載第2回。





(ロ)自然景観のスケッチに対して、大乗仏教信仰による「先駆的統制」が作品に導入される。すなわち、「繰返しあらわれる<無償>の構造」(p.14)。「弱小なもの、さげすまれているものの<善意>や<無償>」が与える衝撃(p.16)
――― p.12上段 〜 p.18下段第1段落





 前回検討した(イ)節は、引用の童話テキストの解釈などをめぐって、吉本氏の論旨に多少の混乱があり、整理するのに苦労しました。

 今回の節は、それとは対照的によくまとまっていて、読みやすかったです。おそらく、吉本氏が宮沢賢治に熱をあげる理由は、この(ロ)で述べられた賢治の仏教信仰―――というより、信仰以前の、いわば宮沢賢治の資質的な情緒的確信だったのではないかと思われます。

 吉本氏は、これを、「先駆的統制」「先駆的な自己統制機能」と呼んでいます。この「先駆的」とは、人生に先立ってある、その人の絶対的な確信とでも言い換えたらよいでしょうか。宮沢賢治には、そういうものがあったと言うのです。

 その「自己統制機能」「統制意志」とは、具体的に何だったのか?どんな信念――考え方だったのか? ……少し先のほうから、吉本氏の結論部分を先に引いてしまいますと、こうなります:



「この『山男』
〔童話『祭りの晩』の登場人物―――ギトン注〕の構造にあるものは、『よだかの星』の『よだか』や『虔十公園林』の『虔十』などとおなじものである。この『オロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ』る構造における<善意>や<無償>に最上の意味がおかれる。この最上の意味にたまたま遭遇したときは、それに酬いるに<天上>をもってしてもまだ足りないという想念は、また作者の固執してやまないところであった。

     
〔…〕

 『オロオロ』したものの<善意>あるいは<無償>と、それへの無限に拡大された感受性の尊重、そしてそういう場に形成される磁力、といったものは宮沢作品を貫く本質的な特異さだ」

「賢治文学におけるユートピア」, in:『国文学』,23巻2号,p.17.



 つまり、「虔十」「よだか」、また『祭りの晩』の山男や、『銀河鉄道の夜』でジョバンニたちの前に現れる「鳥捕り」の男、また、『なめとこ山の熊』で猟師「小十郎」に、約束どおりの日に死んで自らを獲物として捧げる熊
(吉本隆明「『銀河鉄道の夜』の方へ」, in:ders.『宮沢賢治』,1996,ちくま学芸文庫,pp.208-216.)、―――これら作中人物たちの“無償”の行為は、それに遭遇した者に衝撃を惹き起こし、そうした“弱者の善意”に対する「感受性」を「無限に拡大」させずにはおかないのです。

 注意しなければならないのは、吉本氏の考えでは、「雨ニモマケズ」に謳われた「デクノボー」とは、宮沢賢治自身のことではありえない、ということです。

 賢治自身は、在地の有力者の一員であり、しかも聡明で道義的にも敏感でしたから、「デクノボー」などと呼ばれることはありえなかったのです
(「賢治文学におけるユートピア」,p.15上段)。賢治は、むしろ「デクノボー」の“無償の善意”に遭遇して、どうしてあげたらよいかもわからずに、ただ「オロオロ」と狼狽する側にいるのです。

 その「オロオロ」する側にいることによって思念せずにはいられない避けがたい思いが、賢治をして「先駆的な自己統制機能」を発動させる根拠となるのです。

 吉本氏の主張は、このように解されます。











 この“弱者の善意、無償の行為”ということの具体的内容は、のちほど吉本氏の論旨を追いながら、各童話に即して検討するのですが、……いまここで、さしあたってもう少しわかりやすくしておきますと、

 『なめとこ山の熊』の例がよいかと思います。



 猟師の小十郎は、ある時、1頭の熊を樹の上に追い詰めた。すると熊は、
『おまへはなにがほしくておれを殺すんだ。』と問いかけます。小十郎は、『おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。〔…〕ほんたうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云はれると、もうおれなどは』熊を獲るのをやめて木の実でも食って、それで死ぬなら死んでもいい気持になる‥などと呟きます。すると熊も、おれももうお前のために死んでもかまわない。ただ2年だけ待ってほしい。やり残した仕事もあるので、2年後に『おまへの家の前でちゃんと死んでゐてやるから。』と言って、「変な気がしてじっと考へて立って」いる小十郎の前を、ゆっくりと歩いて去って行った。

 ところが、それからちょうど2年目の朝、小十郎が家の外に出ると、かきねの下に、
「あのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れてゐた。」⇒:『なめとこ山の熊』より。



 『なめとこ山の熊』に登場する猟師の小十郎と熊は、どちらか一方が“弱者”で、どちらかがどちらかを虐げているとか、さげすんでいるという関係にはない。言ってみれば、両方とも、虐げられた“弱者”と言えます。熊を殺して生活の糧にする小十郎も、町の商人のところへ獲物を持ってゆく時には、さんざんに買いたたかれて虐げられる“弱者”なのです。



「たがいに好意をもちながら、切迫した場面では相手を殺さなければ、逆にじぶんの方が殺されてしまう関係にあるもののあいだで、どうすれば納得がゆく関係がつくれるか。それを解きあかそうとして作者はこの場面をこしらえた。
〔…〕作者の理念では〔…〕じぶんから死んで身体を相手にあたえてしまうよりほかに、理想の解決はかんがえられなかった。〔…〕

 死は贈与の対象でありうるか。死を贈与されたものはどうすればいいのか。また死の贈与によってなにが起こるのか。」

吉本隆明「『銀河鉄道の夜』の方へ」, in:ders.『宮沢賢治』,1996,ちくま学芸文庫,pp.211-212.



 まもなく、ある日、死の予兆を感じながら猟に出た小十郎は、狙った熊に逆に襲われて死んでしまう。作者の理念のなかでは、小十郎は、“約束”を果たした熊の自己犠牲を受けた時に、自らの死を運命づけられたと言えます。

 “死の贈与”を受けた者は、自らの死をもって贈与し返すよりほかに、なすべきすべはない―――それが、宮沢賢治の透徹した理念の帰結であったと思います。

 小十郎と熊が最初に樹の上で遭遇した時、“たがいに好意をもちあっている者”という両者の関係を、作者は、言葉を通じさせることによって物語の中で実現させてしまいます。考えてみれば、これこそが、『銀河鉄道の夜』の中でブルカニロ博士が言う“ほんとうとうそを分ける実験”のひとつではないでしょうか。

 しかし、言葉を通じ合った結果は、けっしてメルヘン的なものではなく、身の毛のよだつような事態が将来されるのです。“たがいに好意をもちあっている者”たちが、切迫した場面で意志を通じ合った結果、たがいに“自分は相手のために死んでもいい”と認め合い、まず、熊のほうが“約束の日”に「口からいっぱいに血を吐いて」倒れ、それを受けた小十郎はクマに襲われて、「熊ども、ゆるせよ。」と呟きながら殴り殺されます。

 吉本氏が『国文学』論文で摘出した宮沢賢治の<無償>ということの背景には、このような透徹した理念の構造があったのだと思います。吉本氏は、書籍版『宮沢賢治』のほうでは、その構造全体により深く分け入って考察を進めています。



「小十郎と熊とのあいだが、憎んだり、いじめたり、さげすんだりしあう関係だったとしたら、きっと、憎まれたり、いじめられたり、さげすまれたりするものの方が、状態の構図をこわす力をもつとみなされたにちがいない。」

吉本「『銀河鉄道の夜』の方へ」, in:ders.『宮沢賢治』,pp.211-212.



 すなわち、「憎まれたり、いじめられたり、さげすまれたりするもの」が発揮する「状態の構図をこわす力」とは、『よだかの星』の「よだか」、『虔十公園林』の「虔十」など“さげすまれた者”が、“さげすむ者”“虐げる者”に対して向ける<無償>の<善意>にほかならないのです。

 そのような“無償の善意”を向けられた者は、覚醒しているかぎり、“さけすむ者”の側に自分がいることを発見しないではいられないし、いったいどうしたらよいかわからず、ただオロオロするほかはありません。これこそが、吉本氏の指摘する<無償>の構造であり、宮沢賢治は、いわば自然の秩序に対して、果敢な“異議申し立て”をしようとしているのです。



「作者は自然のなかの生物の秩序を、節理として諦める考え方に挑戦しようとしている。
〔…〕人間(ひと)が〔…〕自然の生命循環の秩序のうえに生活の秩序という余計なものをつくりあげ、自然の秩序をなおさら複雑に、みにくくしてしまっていることにも異議をたてている。」
吉本「『銀河鉄道の夜』の方へ」, in:ders.『宮沢賢治』,p.215.





 





 <無償>の死に対して酬いるには、自らも<無償>の死によるほかはない―――という賢治のラジカルな理念は、『グスコーブドリの伝記』のブドリの父母の死と、ブドリの自己犠牲死とのあいだにも適用されています。

 宮沢賢治は、社会の秩序を自然の秩序と同様に考えていた、ということがよく言われます。しかし、かりにそうだったとしても、そのことは、彼が社会の秩序を、変えようのないもの、従順に従うほかないものと考えていたことを意味しません。

 賢治は、自然の秩序に対してさえも、異議を申し立てていたのです。それは不可能な異議であったかもしれないのですが、しかし賢治は、同様の異議を、社会に対してもつねに申し立てていたのだと思います。





◇    ◇



 

 それでは、前回検討したところにまでもどって、こんどは吉本氏の行論に即して見ていきたいと思います。



「わたしたちはとうぜん、宮沢賢治の心象的スケッチがもつ自然の景観への白熱した過剰なのめりこみ方と、それに逆比例するような人間関係の不在と空白とに、メタフィジカルな意味をあたえなければならないところである。
〔…〕心象スケッチのもつ「心理学的な」空白と饒多な自然景観への交歓の意味が問われてしかるべきである。

 過剰な景観の装飾されたスケッチがもっている空白さ、白熱した燃え上がる空白さはかれ自身によって気づかれていた。けれどどうすることもできなかった部分で、それは資質であった。この資質に反立させるような意味でもって、かれの先駆的な自己統制機能ともいうべき大乗仏教の信仰の言葉と理念の諸断片が、かなり生のままで作品に導入された。

 先駆的な自己統制機能だというのは、資質のようにへばりついて宮沢賢治の思春期以後の不安や、環境への不調和な適応の仕方を、特異なものにしているからである。これは無意識とはいいえないかもしれない。思春期以後のかれの行為を決定する統制意志となってあらわれたものであった。」

「賢治文学におけるユートピア」, in:『国文学』,23巻2号,p.12.



 さきほど、この論文のあとのほうを読んで理解したところから言えば、

 「思春期以後のかれの行為を決定」した「自己統制機能」と、ここで吉本氏が言うのは、つまるところ、“弱者の無償の善意”を至上のものとする感受性となって現れた宮沢賢治独特の“信仰”であった―――ということになりそうです。しかし、いまは先を急がずに、そこに至る吉本氏の行論を追いかけてみたいと思います。





「このころは盛岡高等農林学校の卒業をひかえて、卒業後にどうすべきか思い惑っていた時だった。」

a.a.O.



 ここで吉本氏は、宮沢賢治が父にあてた書簡を要約して述べていますが、私たちは、書簡の原文から引用して読んでおきたいと思います。

 “そうろう文”で読みにくいかもしれませんが、あえて現代語訳はつけませんw たかが 100年前に親子の間で交された手紙をすらすら読めなくて、なにが日本人だ、なにが日本文化だ、ということですから、すくなくともウヨクを自認する人は、苦しんででも読んでもらいたいと思います。



「毎度申し上げ候如く実は小生は今後二十年位父上の曾つての御勧めにより静に自分の心をも修習し教典をも広く拝読致し幾分なりとも皆人の又自分の幸福となる様、殊に父上母上又亡祖父様乃至は皆々様の御恩をも報じたしと考へ自らの及びもつかぬ事ながら誠に只今の如何なる時なるか吾等の真実の帰趣の何れなるやをも皆々様と共に知り得る様致したくと存じ只今の努力はみな之に基き候処小生の信仰浅きためか縷々父上等にも相逆らひ誠に情無く存じ居り候 就ては帰盛御
〔「帰盛後」の誤記か―――ギトン注〕常に思ひ居り候〔…〕

 誠に仮に世間にて親孝行と云ふ如く働きて立派なる家をも建て賢き子孫をも遺し何一つ不自由なき様に致し候ともこの世に果して斯る満足は有之べく候や 報恩には直ちに出家して自らの出難の道をも明らめ恩を受けたる人々をも導き奉る事最大一なりとは就れの宗とて教へられざるなき事に御座候 小生にとりては幸にも念仏の行者たる恩人のみにて敢てこの要もなく日本一同死してみな極楽に生るゝかとも見え候へども斯てだもの尚外国の人人総て之れ一度は父一度は母たる事誤なき人人はいづれに生れ候や ましては私の信ずるごとくば今の時念仏して一人が生死を離るべきやと誠に誠に身の置き処も無之次第に御座候

 願はくゞ誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先づは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をもつくのはしめ進みては人々にも教へ又給し若し財を得て支那印度にもこの教を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様、皆々様のご恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償をも致すことゝ存じ候」

宮沢賢治書簡[44],1918年2月2日付 宮澤政次郎宛て。











 字を黄色くしておいた部分からわかるように、賢治はここで、非常に遠回しで控えめな言い方ですが、『国柱会』などの日蓮宗諸派が当時華々しくふれまわっていた主張をなぞっています。

 「今の時念仏して生死を離れられるものはひとりだにいないはずだ」
(吉本,op.cit.,p.12)つまり、浄土真宗にしたがって念仏を唱えても、成仏できる者など一人もいない。念仏を棄てて『法華経』と日蓮に帰依せよ―――と言うのです。

 「只今の如何なる時なるか吾等の真実の帰趣の何れなるや」と、緊迫した現今の世界情勢……前年、ロシア革命が起き、列国は日本に“シベリア出兵”を要請していました……のなかで、“革命”の波及を食い止めるには何をすべきか考えよ。日本一国にとじこもって、あんのんと念仏を唱えていられるだろうか。むしろ、神国である日本を足場に、“正しい”『法華経』の教えを世界に弘めなければならないのだ。―――当時の日蓮宗諸派の主張をなぞったような狂信を、賢治もまた父に向って述べていたと思われます。

 ところで、吉本氏は言及していませんが、この書簡は↓つぎのように続いています:



「依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

 依て先づ暫らく山中にても海辺にても乃至は市中にて小なる工場にても作り只専に働きたく又勉強致したくと存じ候 就れにせよ結局財を以てするにせよ身を以てするにせよ役に立ちて幾分の御恩を報じ候はゞ沢山に御座候間何卒人並外れながら只今より独身にて勉強致し得る様又働き得る様御許し下され度く本日も又極めて不整頓ながら色々と御願申し上げ候」

宮沢賢治書簡[44],1918年2月2日付 宮澤政次郎宛て。



 ↑これは、この書簡の末尾でして、まさにこれこそが、賢治がこの手紙で父に対して言いたかったことであり、その前に長々と書かれているのは、(賢治の主観においては)父を説得するための前置きにすぎなかったと思われます。さまざまな賢治研究者に引用されているのも、この部分です。

 つまり、長男として家業の古着商――事実上の半違法高利貸し業―――を継ぐことは勘弁してほしい、独立して“工場でもたてて”生活することを「御許し下され」たい、というのが賢治の究極の本意と思われるのです。

 世界情勢がどうの、インドに布教するのなんのは、それをもっともらしく主張するための理由づけと言ってもよいくらいだと思います。

 しかし、吉本氏は、むしろ『法華経』の弘宣を主張する部分から、賢治の「自己統制意志」の内実を解明しようとします。



「すでにこのとき宮沢賢治はじぶんで『法華経』の護持者であると自認し、家宗である浄土真宗に疑義を感じ、父親に改宗を迫る勢にあった。この勢は昂じて2年後
には田中智学らの国柱会に入り、花巻の町なかを題目をとなえて歩くという挙にでた。翌年には父親を改宗させようとする葛藤が限界に達して家出する。〔…〕

 青年が荒野をめざすというのは通俗作家の書くうそっぱちの心情だが、青年は<無償>をめざす、そのために世界が逆さまに視えても知ったことではないというのは本当だ。デカダンスの<無償>と理念的な<無償>とがあるとすれば宮沢賢治はあとの方であった。
〔…〕宮沢賢治のアドレッセンスというのは、世界が逆倒してみえたところの宮沢賢治というのとおなじで、アドレッセンスは大なり小なり世界を逆さまに倒錯しているということの過剰なあらわれとしかいいようがない。

 宮沢賢治にとって重大なのは、ここにすでにあらわれた<無償>の構造であった。ただその質であった。
〔…〕その感性と論理の行方といってもよい。

 じつは宮沢賢治の作品のなかで、その自然への感性的な浸透力の特異さ、景物にたいする特別な視線、無限の遠方にある<眼>の登場に対立し、それに優に拮抗しているのはこの<無償>ということの質とその構造、あるばあいにその展開の仕方と停頓や宗教への変成の仕方であるといってよい。」

「賢治文学におけるユートピア」, in:『国文学』,23巻2号,pp.13-14.

☆ 最近の研究では、宮沢賢治の国柱会入会はもっと早く、1919年初め、あるいは 1918年のこの書簡の頃すでに入会していた可能性もあると、推定されています。





 





 ギトンは、五木寛之の『青年は荒野をめざす』の信奉者ですから、吉本氏に言わせれば「うそっぱちの心情」を体現して青春を突き抜けたことになるのでしょけれども(笑)、‥吉本氏によれば、宮沢賢治の「自己統制意志」とは、思春期の青年がめざす、世界を転倒させることさえ恐れない<無償>という目標なのであり、賢治においてはそれは「理念的な<無償>」の追求となって現れたというのです。

 そして、吉本氏のこの後の議論は、その<無償>の「感性と論理の行方」を追いかけたすえ、つまるところ、それは、“弱者の<善意><無償>に遭遇した時の衝撃と、その至上性への固執”となって信仰の理念として結晶し、宮沢賢治の作品を「統制」した―――という結論に至ります。

 しかし、“アドレッセンスの<無償>”から、“弱者の<無償>への固執”へ……という、吉本氏のこの論理に、飛躍はないでしょうか?‥表面的に視ても、“弱者の<無償>”は、前者でいう「デカダンスの<無償>と理念的な<無償>」のどちらにもあてはまりません。

 “弱者”の無償な行為は、坂口安吾的な、あるいは太宰的なデカダンスと無縁であることはもちろん、賢治のような自らは“弱者”でない者が頭のなかで考える理念とも異なります。それは、「無償」をほどこしているという意識すら伴うことなく、素朴になされる“弱者”の行為なのです。この2つを同じ<無償>という言葉でつなぐのは、無理があるのではないかと、ギトンは考えます。

 吉本氏は、つまるところ“弱者の<無償>の至上性”への固執として現れるところの「統制意志」が、賢治作品において、「自然への感性的な浸透力の特異さ、景物にたいする特別な視線、無限の遠方にある<眼>の登場」と対立し、拮抗する関係にあると考えるのですが、……両者ははたして対立関係なのでしょうか?

 むしろギトンの考えるところでは、吉本氏がいくつかの賢治童話において指摘する“弱者の<無償>の至上性”への固執とは、賢治の《心象スケッチ》のいわば情緒的核ではないでしょうか?‥諸理念を相対化して、現象にこだわり、“見たまま”の現象をどこまでも追尾してゆこうとする現象学的方法を、彼に採らせた動機は、このような感情的確信ではなかったかと思うのです。

 だとすれば、いくつかの童話に現れる“弱者の<無償>”のモチーフ、またそれに遭遇した者の驚き、衝撃と混乱の描写は、《心象スケッチ》の感情的核として作者の中にあるものが、ある場合にその纏いを脱ぎ捨てて、作品の表面に露出してしまったものだと考えることができるかもしれません。











 ちなみに、この論文が『国文学』誌に掲載された 1978年といえば、すでに『校本全集』は前年までに出そろっており、そこには、保阪嘉内宛ての膨大な賢治書簡が、すべて収録されていました。保阪宛て書簡を公にした『友への手紙』の刊行からは、すでに 10年が経過し、これに基いた小菅千恵子・蒲生芳郎両氏の提起と、天澤退二郎氏との間の論争も一段落していました。

 ところが、吉本氏はここで、もっぱら賢治の父宛て書簡だけを見ているのです。そこには、賢治の本心というより、父との論争のために構えた“よそゆき”の所信表明が述べられています。これに対して、同時期の賢治の保阪宛て書簡には、たとえば↓つぎのように、賢治の《心象スケッチ》につながってゆく「自然への感性」と「視線」が現れています。そして、それらは、仏教や「統制意志」とは異なる源泉から流れ出ていることを、見てとることができるはずです:



「けれどもあの銀河がしらしらと南から北にかゝり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐたこと、そのたいまつは或は赤い小さな手のひらのごとく、あるひはある不思議な花びらのやうに、暗の中にひかってゐたこと、またはるかに沼森といふおちついた小さな山が黒く夜の底に淀んでゐたことは、私にこゝろもちよい静けさを齋します」

宮沢賢治書簡[94](1918年12月10日前後)保阪嘉内宛て より。

「私共は一諸に明るい街を歩くには適しません。あなたも思ひ出された様に裾野の柏原の星あかり、銀河の砂礫のはなつひかりのなかに居て火の消えたたいまつ、夢の赤児の掌、夜の幻の華の様なたいまつを見詰めてゐるのにはいゝのですが。私は東京の明るい賑かな柳並木明滅の膠質光のなかではさびしいとしか思ひません。」

宮沢賢治書簡[153](1919年8月上旬)保阪嘉内宛て より。

 ⇒:『心象スケッチ論序説』第5章(iii)




 ギトンの考えを述べるのは、このへんで止めておきます。ここに見られる吉本氏の宮沢賢治観は、やや古い賢治批評の常道に――つまり、かなり月並みな見方に―――立っておられるようにも感じます。しかし、けっしてそこにとどまってしまうのではなく、先の行論において、吉本氏独自の鋭い洞察が光ってくることを、あらかじめお断りしておきたいと思います。

 (この節(ロ)は次回に続きます。)







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カテゴリ: 宮沢賢治

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