03/16の日記

02:36
【宮沢賢治】「摩渇大魚」とホロスコープ

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マカラ(摩竭) 中国・南北朝時代の墳墓(6世紀後半) 国立オンタリオ博物館






 こんばんは。(º.-)☆ノ






(6)「秋のあぎと」補説




 『序説』の第5章(i)で、


「『秋のあぎと』とは何か。それが町を繞っているという形容から、私は、花巻の町を囲んでいる秋の山々と考える。山々の稜線が、巨大な動物または魚の大きく開けた口に並ぶ鋭い歯のように思えたのだろう。」


 という小沢俊郎氏の解釈説にしたがって賢治の草稿群を読んだわけですが、どうも、このモチーフは宮沢賢治の独創ではなく、出典があるようです。『今昔物語』に↓つぎのような話が載っています:



「今昔
(いまはむかし)、天竺ノ人、五百人ト共ニ寶ヲ求メムガ為ニ海ニ浮テ渡ル間、梶取(かじとり)有テ、楼ノ上ニ有ル人ニ問テ云ク、『汝、見ルヤ否ヤ』ト。

 上ノ人答フル様、『二
(ふたつ)ノ日ヲ見ル。亦(また)白キ山有リ。亦水流レ趣テ奔ル事、大(おほき)ナル坑(あな)ニ入ルガ如シ』ト。梶取ノ云ク、『此レハ、不知(しら)ズヤ、汝等、魚ノ王ノ出来(いでき)タル也。二ノ日ト見(みゆ)ルハ魚ノ二ノ目也。白キ山ト見ユルハ魚ノ歯也。水ノ流レ趣クト見ユルハ、魚ノ口ニ水ノ入ルガ被引(ひか)レテ流ルヽ也。此レ恐レテモ可怖(おそるべ)シ。汝等早ク各(おのおの)五戒ヲ持シ、仏ノ御名ヲ奉念(ねんじたてまつり)テ此ノ難ヲ免レム。船魚ノ口ニ近付バ、不可返得(かへりうべから)ズ。汝等、其ノ流レノ疾(と)キ事ヲ可見(みるべ)シ」ト。

 其ノ時ニ五百ノ人、皆各心ヲ一
(ひとつ)ニシテ仏ノ御名ヲ称シ、観音ノ御名ヲ唱テ、『此ノ難ヲ免レム』ト申スニ、忽(たちまち)ニ魚、口ヲ閉テ海ニ引入ニケリ。然レバ五百ノ商人平カニ本国ニ返リ来ル事ヲ得タリ。〔…〕
『今昔物語集』,巻第5 天竺付仏前,第28,「天竺五百商人、於大海値摩竭大魚語」, in:『新日本古典文学大系』,33巻,1999,岩波書店,pp.465-466.



 舟に乗った商人たちが、海の向うの「白い山」だと思ったのは大魚の歯で、太陽が2つあると思ったのは大魚の目だった。あやうく船もろとも呑み込まれるところだったが、「ナム・ブッダ」「ナム観世音菩薩」と唱えたら大魚は逃げて行って、商人たちは難を免れた。ようするに、念仏の御利益を宣伝する仏教説話ですw

 この『今昔物語』の説話にもまた出典があって、伝・龍樹『大智度論』(2〜3世紀)あたりがおおもとのようですが、それ以外にも多くの仏典に収載されていて、7世紀には玄奘がブッダガヤで採録した説話を『大唐西域記』(巻第8 摩掲陀国 上,6-13)に載せています。



「仏典頻出の説話で事例は十指に余る
〔…〕古代インド仏教圏で広く流布した説話のようで、仏典所収の同話乃至その異伝は多い」
『新日本古典文学大系』,33巻,p.507.






摩竭(マカラ) マカラの口から誕生するアスラ
クァンナム地方,10-11世紀 ヴェトナム歴史博物館





 『大智度論』で、大魚を山と見まちがえた部分を見てみますと:



〔…〕船師、楼上の人に問はく、『汝、何等をか見る』と。答へて言はく、『三の日出で、白山羅列し、水流れて奔り趣き、大なる坑に入るが如くなるを見る』と。船師言はく、『是れ、摩伽羅魚王の口を開くなり。一は是れ実の日、両日は是れ魚の眼、白山は是れ魚の歯、水の流れて奔り趣くは、是れ其の口に入るなり。〔…〕
『大智度論』,巻第7, in:『昭和新纂 国訳大蔵経』,論律部 第3巻,名著普及会,1930,p.212.



 となっていて、こちらでは、みかけの“太陽”は3つ。1個は本物で、2個は大魚の眼‥という設定です。

 ほかはほとんど同じですが、大魚に「摩伽羅
(マカラ)」という名前が付いています。






 
  摩竭(マカラ) マカラに乗るガンガ神
  インド,カマタカ州,ハレビドゥ寺院






 『大唐西域記』で同じところを見ますと:



「『山ではありません。あれこそ摩竭魚です。高い崖、険しい嶺に見えるのは鬚
(ひげ)や鬣(たてがみ)です。二つの太陽が連なり輝いているように見えるのは眼光です。」
玄奘・撰,水谷真成・訳注『大唐西域記』,3,平凡社(東洋文庫),1999,p.89.



 となっていて、大魚の歯ではなくて、ヒゲやタテガミを山と見まちがえたことになります。また、大魚の名前は「摩竭魚」となっています。

 「摩伽羅」と「摩竭」は、サンスクリット語の Makara を漢字に転写したもので、もとは同じ語です。Wikipedia によると(⇒:Wiki:マカラ):



「マカラ(Makara)は、インド神話に登場する怪魚。
〔…〕

 カーマのシンボルであるマカラは門や装身具の装飾に用いられた。象のような鼻、とぐろ巻く尾を持つが、イルカやサメ、ワニの類ともされる。水を操る力を持つため、マカラの棲むとされる川や湖、海といった場所(マカラーヴァーサー)が崇拝の対象となった。
〔…〕

 摩伽羅魚、摩竭魚などと漢訳された。」



 宮沢賢治は、摩竭(マカラ)がカーマ(性愛の神)のシンボルであることを知っていたでしょうか?‥知った上でモチーフとして使っていたと、ギトンは思うのですが...



 ところで、この「マカラ」は、じつは西洋占星術のホロスコープにある「磨羯宮」(やぎ座,カプリコルン)と同じものなのです。

 占星術は、メソポタミアで誕生したと言われていますが、アレクサンダーの東征以後に、ホロスコープがインドに伝わった時、インドにもともとあった空想上の大魚、あるいはワニのような怪物とされる「マカラ」を、「カプリコルン」に当てはめたのです。

 メソポタミアやギリシャでは、「カプリコルン」は、上半身が山羊で下半身が魚と考えられていました。それが伝えられたインドでは、「マカラ」を巨大な魚とする流派と、山羊の怪物とする流派に、分かれたのだそうです。

 『大智度論』などの仏典は、大魚派。『大唐西域記』が伝えるブッダガヤの説話は、大魚派と山羊派が混じっているようです。魚なのにヒゲやタテガミがあるというのは、山羊派の話が混じってしまったからなのでしょう。

 インドから中国に伝わっていた密教を、最澄と空海が、それぞれ日本に伝えますが、その際、インド占星術とともに「マカラ」も日本に伝わってきます。

 密教で用いる『曼荼羅』絵図には、「マカラ」が描かれています。『胎蔵界曼荼羅』を見ると、「最外院
(さいげいん)」(いちばん外側)の南東部(絵図に向って右上)に、「摩竭宮」として大魚マカラがいます。諸寺院に伝わっている古い曼荼羅を見てみましたが、たいていは「摩竭宮」を魚の形で描いています。しかし、山羊の形で描いているものもありました。

 日本にも、大魚派、山羊派、両方が伝わっていたのですね。

 いま、中国や日本では、西洋占星術の「カプリコルン」を「磨羯宮」と訳していますが、これは、密教占星術の「摩竭宮」の字を少し変えて使っているわけです。






胎蔵界曼荼羅 土佐・定福寺蔵
右上の丸印が「摩竭宮」




胎蔵界曼荼羅・最外院・南東部 東寺蔵・西院両界曼荼羅
赤丸内が「摩竭宮」





 ところで、宮澤賢治も、「阿耨達池
〔あのくだっち〕幻想曲」という詩の中では、「摩渇大魚」というマカラの名前を出しています:



  そのそらの白さつめたさ

    ……辛度海から、あのたよりない三角洲から
      由旬を抜いたこの高原も
      やっぱり雲で覆はれてゐる……

  けはしく繞る天末線
(スカイライン)の傷ましさ

    ……たゞ一かけの鳥も居ず
      どこにもやさしいけだものの
      かすかなけはひもきこえない……

  どこかでたくさん蜂雀の鳴くやうなのは
  白磁器の雲の向ふを
  さびしく渡った日輪が
  いま尖尖の黒い巌歯の向ふ側

    ……摩渇大魚のあぎとに落ちて……

  虚空に小さな裂罅ができるにさういない

『口語詩稿』「阿耨達池幻想曲」〔下書稿手入れ〕より。


 ⇒:阿耨達池
(あのくだっち)



 「摩竭」を「摩渇」と書いていますが、インド神話の大魚マカラを指しているのは、まちがえないでしょう。「辛度海」は、インド海……インド洋? 「由旬」(ヨージャナ)は、インドの距離の単位で、仏典では約7000m。

 「阿耨達池幻想曲」は、作品番号も作品日付もないので、いつごろ書かれたか分からないのですが、番号と日付が無いこと自体が、口語詩をさかんに書いていたころではなく、もっとのちの時期に書かれたのではないかと推測させます。おそらく、1927年10月よりはあとでしょう。


「けはしく繞る天末線
(スカイライン)の傷ましさ」


 という語句、また、


「尖尖の黒い巌歯の向ふ側/……摩渇大魚のあぎとに落ちて……」


 という表現は、「秋のあぎと」作品群の


「ほのじろき
 秋のあぎとに繞
〔めぐ〕られて
 杜
〔もり〕ある町の
 しづかに暮れたり」

『歌稿B』#737b738.


 という、町をめぐる巨大な「あぎと」と同じモチーフと考えてよいと思います。

 そういえば、1924年に公刊された『春と修羅・第1集』にも、↓こういう作品がありました:



  羽虫は一疋づつ光り
  鞍掛や銀の錯乱

    (寛政十一年は百二十年前です)

  そらの魚の涎
(よだ)れはふりかかり
  天末線
(スカイライン)の恐ろしさ
『春と修羅』「滝澤野」より。



 巨大な魚の口と、「天末線
(スカイライン)の恐ろしさ」は、「阿耨達池幻想曲」と共通しています。

 これも、「秋のあぎと」すなわち「摩竭大魚」のモチーフと考えてよさそうです。





 
摩竭(マカラ) カンボジア,コンポントム,7世紀前半  
パリ、ギメ博物館蔵       





 『序説』で「秋のあぎと」作品群を検討した時に、「あぎと」は、@上からかぶさってくるのか(すなわち、ギザギザの稜線に縁どられた白い空が、怪物の歯)、それとも、A下から町と大地を呑み込もうとしているのか(すなわち、山の黒いシルエットが歯)、という問題を提起しておきました。

 いま、作者の念頭にあったと思われる『今昔物語』や仏典の「摩竭大魚」説話では、マカラの歯は、もちろん下から上へ生えているわけで、その点からは、A山のシルエットが歯になります。しかし、他方、それらの典拠説話で「白い山」に見えた、つまり、白い歯という点に着目すれば、@ギザギザの空が歯、という見方もありうるわけです。

 上の「滝澤野」の場合は、空のほうが歯ではないかと思います。岩手山麓の広い大地に、上からかぶさっているマカラの喉の奥から、よだれが垂れてくるわけです。そういう恐ろしい光景が、これから山に登ろうとする作者と少年たち(農学校の生徒たち)を取り囲んでいます。


 これに対して、「阿耨達池幻想曲」のほうでは、作者を呑みこもうとする巨獣(巨魚)のよだれが降りかかってくるという、いわば主体的な恐ろしさは背景に退いているのですが、やや別種の恐怖が現れていて、全体として恐怖はより拡大されていると言えます。

 「滝澤野」では、「天末線
(スカイライン)恐ろしさ」だったのが、


「天末線
(スカイライン)傷ましさ


 に変っています。作者自身が襲われるという直接的恐怖よりも、第三者が襲われる光景を見て恐怖を感ずるという間接的な痛みの感情に変化していると言ったらよいのでしょうか。

 そのことは、「あぎと」の“めぐりかた”の変化にも表れています。もともと、「秋のあぎと」の短歌群では、作者自身が「繞
〔めぐ〕られて」いる、つまり「あぎと」は作者の周囲を“めぐって”いるのでした。しかし、「阿耨達池幻想曲」では、


  どこかでたくさん蜂雀の鳴くやうなのは
  白磁器の雲の向ふを
  さびしく渡った日輪が
  いま尖尖の黒い巌歯の向ふ側
    ……摩渇大魚のあぎとに落ちて……
  虚空に小さな裂罅ができるにさういない


 このように、シルエットの歯の山脈の「向ふ側」に日が落ちる―――「摩渇大魚のあぎと」に落ちる、ということで、「あぎと」の口は地平の山脈の向う側に開いていて、直接作者を取り囲んでいるわけではありません。あるいは、より正確に言えば、「あぎと」の歯のギザギザのシルエットは、なお作者のまわりを地平として取り囲んでいるけれども、その「摩竭大魚」のまとまったイメージは、地平の向う側へ移っている。

 そして、「摩竭大魚」は、太陽をも呑みこんでしまう。そういう想像をさせた原因の感覚表象は、「どこかでたくさん蜂雀の鳴く」ような弱弱しい高い音がかすかに聞こえるというものです。それは、太陽が「あぎと」に吸い込まれて落ちたために、そらにピシピシとひび割れが広がって「虚空に小さな裂罅ができ」てゆく音なのだと。

 つまり、「あぎと」が太陽を呑みこんでしまったことによって、世界全体が痛みを感じて弱々しい悲鳴を上げている。それは、よほど注意しなければ聞こえないようなかすかな悲鳴ですけれども、大きな声で叫ぶより以上に底知れない恐怖を感じさせます。



  ……たゞ一かけの鳥も居ず
    どこにもやさしいけだものの
    かすかなけはひもきこえない……



 生き物のけはいが、まったく感じられない死の世界。それが、「あぎと」が太陽を呑みこんでしまったあとの世界だと言うのです。

 この「阿耨達池幻想曲」の舞台「阿耨達池
〔あのくだっち〕」とは、チベット高原にある聖地マナサロワール湖です。生き物の侵入・生息を許さない氷と岩だけの高地―――それが、宮沢賢治のイメージしていた“天上に近い場所”、あるいは“天上世界”そのものだったのでしょうか?

 この詩全体を詳しく検討してみたい誘惑にかられますが、それはまたの機会に譲らなければなりません。











 ともかく、以上からわかることは、宮沢賢治は、『今昔物語集』や仏典にある原話のモチーフを、そのまま使っているわけではなく、やはり彼独自の変形をほどこして、自分の《心象》世界の中にあてはめていると言うことができます。

 賢治が、このモチーフを原典の説話類から得たのは、いつごろのことでしょうか?『今昔物語集』だとすれば、中学校時代、あるいはそれ以前かもしれません。『今昔物語集』の中で、現在よく読まれているのはもっぱら「本朝世俗部」ですが、この説話集の本来の構成は、最初に「天竺部」「震旦部」(「震旦」とは中国のこと)があって、そのあとに「本朝部」(日本の話)が続いているのです。宮沢賢治の時代には、「天竺部」から読んで行くのがふつうだったかもしれません。

 小学校高学年、あるいは中学生の賢治が「天竺部」から読み始めて、この「大魚」の話に強い印象を受けて記憶したとしてもおかしくはありません。

 賢治が、他の生命を犠牲にして生きる人間の存在に悩み、肉食を嫌っていたことは、よく知られています。当時の岩手県で、庶民の主なタンパク源は魚だったと思われますが、毎日魚を殺して食べていると、いつかは巨大な魚がやってきて食われてしまうのではないか‥という恐れを、少年賢治が抱いたことは、大いにありうるでしょう。

 賢治が、「摩竭大魚」の説話群からモチーフとして得たのは、“山脈のギザギザのシルエットは、大魚の歯だ”というモチーフに限られています。“2つの(または3つの)太陽”のモチーフは受け継いでいませんし、念仏(称名)を唱えて難を免れるという、もとの説話でいちばん肝心な部分については、まったく素通りしてしまっています。

 また、その“ギザギザの歯”が、自分を取り囲んでいるというイメージは、原話には無いものです。





 





 ところで、『大智度論』の国訳(漢文の経典を、かな交じりの読み下し文にしたもの)は、1919-21年に、『国民文庫』から『国訳大蔵経 論部』第1〜4巻として発行されており、「摩竭大魚」の説話を含む第1巻は 1919年に発行されています(なお、『論部』第11〜13巻は『倶舎論』で、21年頃発行されています。)

 この国民文庫は和綴じ本ですが、賢治の父・政次郎氏が購入して賢治も読んだ可能性は高いと思います。小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』によれば、政次郎氏は国民文庫を多く購入していたそうです。

 そして、「秋のあぎと」の最初の作品である『歌稿A』#736-737 が書かれたのは、1919年の秋と推定されます。ということは、この短歌が詠まれたきっかけは、小沢俊郎氏が言うような、友人が危機に見舞われたといった現実の“事件”ではなく、『大智度論』の国訳を読んで「摩竭大魚」の説話に接したことだったのではないでしょうか?


 もっとも、ギトンが思うに、この話は『今昔物語集』にもあることから、賢治は『大智度論』で見たのが最初ではなく、むしろ少年時に読んで記憶に残っていた説話を『大智度論』で見出したので、よけいに印象が深く、モチーフとして得ることになったのだと思います。 

 ただ、この 1919年の段階では、作品には「摩竭」または「摩伽羅」という・この大魚の名前は現れていません。1924年4月発刊『春と修羅』収録の「滝澤野」にも現れません。大魚の名前が初めて作品に現れるのは、1924年7月の日付を持つ口語詩「密教風の誘惑」においてです:



  北の十字のまわりから 摩渇大魚の座のあたり
  天はまるでいちめん
  青じろい疱瘡にでもかかったやう
  天の川はまたぼんやりと爆発する

『春と修羅・第2集』#155,1924.7.5.〔温く含んだ南の風が〕〔下書稿(一)〕(「密教風の誘惑」)より。



 ↑ここでは、「滝澤野」や「秋のあぎと」短歌群のような恐ろしいイメージは背景に退いています。「北の十字」は白鳥座。「青じろい疱瘡」は満天の星、「天の川」の「爆発」とは暗黒星雲をはらんだ銀河の姿でしょう。

 この詩で「摩渇大魚の座」が、私たちの星座名で何座を指すのかは、よくわかりません。やぎ座かもしれませんが、天の川が通過しているのは、その隣りの射手座です。






天の川 カナダ,オンタリオ州






ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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