02/13の日記

00:03
【宮沢賢治】エコロジーの元祖か?

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小岩井小学校跡(小岩井農場内)






 こんばんは。(º.-)☆ノ




 『ゆらぐ蜉蝣文字』の《序説》を改訂しました。今回は2回目の改訂 version 3 ですが、version 2 から大幅に書き変えています。⇒:『ゆらぐ蜉蝣文字』《序説》

 タイトルも、『‘ランプとり’の背中』から、『宮沢賢治の《いきいきとした現在》』に変えました。

 なんか平凡くさくなったな... と思いますか? でも、「いきいきとした現在」って、れっきとしたフッサール現象学の専門用語なんですよw どういう意味なのかは、↓下のほうに書いてありますw


 《序説》の改訂が終って、改訂稿(2訂版)の推敲もいちおうすんだので、ここらあたりで、改訂中に気づいたこととか、今回は盛りきれなかったこととか、順不同に書いておきたいと思います。






(1)エコロケンジスト??


 しばらく前からケンヂさんは、自然保護運動の旗印のようになっていまして、‥

 戦前期には、「雨ニモマケズ」の著者として、克己と利他心の聖者、

 戦中期には、特攻隊員の心の友、‥グスコー・ブドリの自己犠牲の精神とやら…

 戦後には一転して、「新しい時代のマルクスよ!」と呼びかけた開明的精神、自然を改造し生産力を高める農業近代化の志向が賞讃され、

 いままた180度めぐって、エコロジーの先駆者でしょうか。。。


 なんと忙しいというか、便利なものだと言うか、どうにでも祭り上げられてしまう多面的なものがあるのかもしれません...




 まぁ、そういうことに反発があったのか、故・吉本隆明氏などは、講演で、つぎのように述べていました:



「宮沢賢治の科学や自然観、エコロジーの思想はどういうところにあるかということから入っていきたいとおもいます。
〔…〕『グスコーブドリの伝記』という作品があります。〔…〕

 この中に表れている宮沢賢治の科学観、自然観を要約してみると、自然というのは変えられるという考え方だとおもいます。ぼく流の言い方をすると、天然自然というのは必ずしも最上の自然ではないということです。それが宮沢賢治の科学観であり、自然観のとても大きな柱の一つです。自然は可変であり、天然自然よりもいい自然がつくれるということです。

 もう一つの大きな柱は何かといいますと、人間も、動物も、植物も、生き物としては平等だという考え方です。
〔…〕

 ぼくならば、そのことと、天然自然は動かすことができる、天然自然よりもいい自然を人間がつくることができるという二つの考え方をエコロジーの思想として取り出すとおもいます。受け身では取り出さない。緑を大切にしようとか動物を保護しようとか、ぼくならばそうかんがえません。そういう取り出し方を最上の思想だとはちっとも思わない。ぼくが現在最上のエコロジーの思想を取り出そうとすれば、いま申し上げた二つに柱を帰着させることができるとおもいます。」

吉本隆明「宮澤賢治を語る」(1990年講演),in:ders.『宮沢賢治の世界』,2012,筑摩書房,pp.182-188.





 







 吉本氏とちがって、ギトンなどは新しい世代ですから、宮沢賢治を正面に立てて、「緑を大切にしようとか動物を保護しようとか」訴えることには大賛成なのですけれども...

 聞くところによると、いま花巻とか盛岡とかあのあたりで、宮沢賢治ファンの人たちが中心になってブナ林の保全とか、エコロジー運動がさかんになっているそうです。たいへん結構なことで、おおいにやっていただきたいと‥、遠くから声援を送りたい気持ちなんですけれども‥



 結論は大賛成なのですけれど、そのもとのところと言うか‥、賢治がほんとうに、今日的な意味でのエコロジーの先駆者だったかというと... 疑問がないこともないのです。

 なにしろ“百年前の人”です。毎年、冷害があったり、雨が多すぎたり少なすぎたり‥、そのたびに農民が痛めつけられる‥、そういう時代に生きた宮沢賢治の念頭に、まずあったのは、人間が自然に介入するのに反対したり、自然を保護したりすることではなく、むしろ、自然を改造し征服することだったと思うのです。



 おそらくブナ保全ということでミヤケンを持ち出すとしたら、『虔十公園林』あたりが典拠になるんでしょう:




「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。

 時にはその大きくあいた口の横わきをさも痒いやうなふりをして指でこすりながらはあはあ息だけで笑ひました。

 なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いてゐるか或いは欠伸でもしてゐるかのやうに見えましたが近くではもちろん笑ってゐる息の音も聞えましたし唇がピクピク動いてゐるのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑ひました。」

宮沢賢治『虔十公園林』




 ↑このあたりでしょうね。ブナという樹の美しさを知っている虔十という人は、周囲のふつうの大人たちからは、すこし頭が足りないと思われている人で、子どもたちからもバカにされている―――そういうところが、今日の自然保護運動の“核”というか、環境に対するやさしさの“核”みたいなものに、とてもよく通じるのではないでしょうか?



 しかし、この部分はそう見てよいとしても、宮沢賢治という人全体のなかで見ると、彼はブナ林を保全すべきだと考えていたかどうか...

 この『虔十公園林』のストーリーでも、虔十が植えて、彼の死後もりっぱな公園として残っていくのは、ブナではなくて、杉の林なんですね。土層が薄くて根が張らないために、杉の高さが一定以上に育たない、そのために子どもたちの遊び場として恰好な公園になるんですが、そういうところはたしかに、その後の時代の政府の植林政策とは逆の方向を打ち出している。

 それでもやはり、賢治が虔十に植えさせたのは、ブナではなく杉なんです。





 岩手県でブナの植林と言えば、小岩井農場に良い見本があります。バス通りで、小岩井駅のほうから“まきば園”へゆく途中の坂の左側―――四つ森と小岩井小学校跡のあいだ―――ミヤケンが「聖なる地点(デア・ハイリゲ・プンクト)」と呼んだあたりなんですが、整然ときれいに植えられたブナの試験林があります。樹齢から推測して、おそらく世間で“ブナ林保全”ということが言われるようになるより前から、育てていたものではないかと思います。さすがに、小岩井農場はこういう点でも目が高い―――と感服するんですが...

 しかし、そこへ行って見ると、ブナの植林はなかなか難しい点があるとも思います。フィールド植物学の先生に訊くと、「ブナはぜいたくな木だ。」と言うんですね。病虫害にやられやすいようです。葉が虫にたくさん食われてますし、虫こぶも多いし、樹皮も、山に自生しているブナのようにきれいな白にはならないんです。




小岩井農場のブナ植林 左の建物は小岩井小学校跡




 賢治は、ブナという樹木に対してどんなイメージを持っていたのかと言うと、↓こんなふうにも書いています。『虔十公園林』とはかなりちがうイメージです:




「いちいちの草穂の影さへ映る
 この清澄な月の昧爽ちかく
 楢
〔なら〕の木立の白いゴシック廻廊や
 降るやうな虫のジロフォン
 みちはひとすじ しらしらとして
 暗い原始の椈
〔ぶな〕ばやし
 つめたい霧にはいらうとする
      ……星にぎざぎざうかぶ嶺線
        月光を吸ふその青黝いカステーラ……」

『春と修羅・第2集』#179,1924.8.17.〔北いっぱいの星ぞらに〕〔下書稿(二)〕より。



 ミズナラは、「白いゴシック廻廊」と呼んでいるのに比べ、ブナのほうは、「暗い原始の椈
〔ぶな〕ばやし/つめたい霧‥」と言われています。


 そういえば、有名どころでは↓こういうのもありました:



「菩提樹皮
(まだかは)と縄とをまとふ
 気圏の戦士わが朋たちよ
 青らみわたる𤂖気をふかみ
 楢と椈
(ぶな)とのうれひをあつめ」
『春と修羅・第1集』「原体剣舞連」より。



 ここでも、ブナに対して抱かれた“暗い”“原始の森”というマイナスのイメージが、剣舞の「戦士」たちのエゾの末裔的な底暗いふんいき、先住民に対するような思い入れを引き立てています。

 つまり、賢治という人にとって、ブナは、暗い、暗愚でブ骨なイメージなんです。むしろ、そういう点にこそ、彼のこだわりがあった。

 だから、宮沢賢治を自然保護の御旗に立てるのなら‥、童話的な明るい和やかなイメージだけを前面に出すのではなく、こうした“譲れない暗さ”というか‥、叩かれても叩かれても決して死なずに山地の片隅で生き続けるしぶとさというか、そういう面にも目を向けたいものだと思います。






(2) フッサールと「いきいきとした現在」




 現象学については、何年か書店からは遠ざかっていたあいだに、手に入れやすいよい本がいろいろ出ているのがわかりました。

 数年前……10年くらい前かな?……大きい書店の書棚で見た時には、フッサールというと、高価で難しいハードカバーか、運動文献的なジャーナリスティックな翻訳本しかなかったです。

 今回、典拠を引用しようと思って、フッサールの『厳密な学としての哲学』、前に古書で手に入れておいた佐竹哲雄訳を参照してみたんですが、
 まぁ‥訳語がひどくて使い物にならないのがわかりました。ちょうど原書も持っていたので、自分でそっちから訳して‥、けっきょくこの部分の引用は《序説》には入れないことになったんですけれども‥



 かつて日本に現象学を紹介したのは、京都の西田門下の哲学者たちとか、西田哲学の影響を受けた人たちだったんで、フッサールの現象学本来のスジがなかなか伝わらなかったような気がするんです。

 現象学は、西田哲学とは真逆なものですから。。。 一見するとカントに似てるような気がするフッサールの著作もありますが、カントとも全然違います。


 「超越」「超越論的」とは
「カントでは〔…〕認識に際してわれわれがもつアプリオリな形式や概念にかかわる」
『現象学事典』,縮刷版,2014,弘文堂,p.330,「超越的/超越論的」.

 すなわち、カントの「超越的」「超越論的」は、「先駆的」「ア・プリオリ」と同じことで、「経験的」の反意語です。

  カントの言う「超越的」な概念、「超越論的」な思考とは、「数」「図形」などの数学的観念や論理学的観念のことで、これらは、「先天的
(ア・プリオリ)な観念―――つまり経験によって得られるのではなく、たとえば神によって理性に植えつけられたとでもいったかたちで生得的な、したがって同じ神によって創造された世界の存在の理法とでもいったものと対応しておりだからこそ客観的妥当性を有している観念―――とみなされてきた」
木田元『現象学』,1970,岩波新書,p.19.

 ↑これがカントの用語。しかし、同じ言葉が、フッサールでは別の意味で使われます。フッサールの「超越的」な事物には、カントの言う「経験的」事物も、「ア・プリオリ」な概念――数や図形――も、ともに含まれます。

 しかも、カントでは「超越的」≒「超越論的」だったのが、フッサールでは、この2つの用語は互に逆の意味になるのです。「超越的」対「超越論的」の対立は、フッサール現象学のキー概念と言ってよいのです↓

 「超越的」とは、
「フッサールでは、意識にとっての対象すべて」「意識〔…〕の内に所属していないものすべて」のことで、外界の森羅万象も、“こころ”の中のイメージや思考も、すべて「超越」である。

 フッサールの言う「超越論的」とは、
「既定の超越的なものをさらに超越して、それの意味を考える構成的主観」
『現象学事典』「超越的/超越論的」





  





 ↑よくわからないかもしれませんが、詳しくはギトンの《序説》を読んでください。ともかく、用語の意味がカントと全然違うんですから、ふつうの哲学のつもりでフッサールを読んだりしたら、もう何が何だかわからなくなってしまいます。


 また、現象学でよく使われる「経験」(experience, Erfahrung)という言葉も、カントやふつうの哲学とは違う意味で使われています。


「カントの言う経験が自然科学的経験であるのに対して、フッサールの言う経験は自然科学によるイデア化を解体したのちに復元される経験である。」
『現象学事典』「超越論的感性論」


 つまり、“科学以前”“思考以前”の直観・見たままの‘経験’なのです。まぎらわしいので、《序説》では「経験」という言葉を避けて、できるだけ「体験」という訳語で統一しました。






 おすすめは、上にも引用した木田元先生の岩波新書です。ただ、いきなりこれを読むのはおすすめしません。なにか入門書を、現象学でもフッサールでも、1冊読んで概略を頭に入れてから、取りかかったほうがよいと思います。いまは、書店の新書・文庫の書棚に、一般向きの読みやすい入門書がたくさん並んでいるようですから。



 フッサールの入門書を読んでいると、生涯のうちに何度か考え方の枠組みが変転していると書かれています。まぁ‥、現象学的還元などという前代未聞の大技をやってのけたのですから、試行錯誤が重なるのも当然と言わなければなりません。

 いま、とりあえず初期・中期の変遷を図式化して見ると、↓こうなるでしょう:



1891年『算術の哲学』
 @ 心理主義

1900年『論理学研究』第1巻
 Aa 論理主義

1901年『論理学研究』第2巻
 Ab 論理学の諸概念と心理体験の相関関係 心理主義への逆戻り? →「現象学」の出発

1913年『イデーンT』
 B 超越論的転回 → 純粋意識の記述的分析⇒対象が成立する構造の分析





 「心理学主義」とは、木田先生の説明によると:


「19世紀の半ばに
〔…〕自然科学に範をとった実験的方法を導入し、〔…〕科学的心理学に脱皮して以来、目ざましい発展をとげた心理学は、数学的思考も論理学的思考も経験的存在である人間の心理現象の一種なのであるから、それを心理学的に研究し、〔…〕数学的観念や論理学的観念の経験的心理学的起源を明らかにすることができるし、そうなれば、〔…〕精神的諸科学の、さらにはいっさいの科学の基礎学の役割を心理学が引き受けることになる、と考えたのである。」
木田元『現象学』,p.19.



 たとえば、「数」というものを人間がどうやって考え出したのかというと、「太陽と月」のような・たがいに異なるものを並べて“かぞえる”という行為が最初にあって、そこから、1とか2とか自然数の観念が発生して、さらに、分数、小数、というように拡張してゆくと考えるわけです。

 心理学主義そのものは、現在ではすたれていますが、最近よく読まれる本で言うと、アメリカの認知言語学――ジョージ・レイコフ『認知意味論』など―――で、「上/下」「外/内」といった人間の言語に共通する普遍的スキームを、人間という動物種に備わった特殊な生活習慣から説明しているのは、心理主義の伝統を思わせます。木の上で生活しているチンパンジーには「上」も「下」も無いわけです。「上」対「下」は、直立歩行する人間という種に特有の世界認識のスキームです。また、土器の発明以来、人間にとって身近になった「うつわ」という道具の形態が、「内」と「外」を分けて考えるという私たちの思考スキームに刻印されています。



 じつは、もともとギトンが現象学に関心を持ったのは、このへんからなのです。認知心理学からラッセル、フレーゲへ、さらにフッサールへと関心は飛んで、『論理学研究』にアタックしてみたわけです‥。歯がたちませんでしたがw

 当時は、まさか現象学が、昔からの愛読書の宮沢賢治に関係していようとは、思ってもみませんでしたが…




 バートランド・ラッセルとフレーゲの名前が出ましたが、この2人は、「論理主義」のほうの中心人物です。ラッセルなどは徹底的に論理的な人で、人文科学も社会科学も、将来は自然科学と同じようになる。正しいことと誤ったことを、客観的な方法で峻別できるようになる。いまはまだそうなっていないのは、自然科学で言えば“中世の魔女狩り”の段階に、人文・社会科学があるからだ。……と断言していて、洋書の本屋で立ち読みしてビックリしたことがあります。‥

 そういうわけで、論理的につきつめれば、戦争などというものは、同じ動物種の人間同士が殺し合うなどというのは、まったく不合理もいいとこなわけで、ラッセルは、第1次大戦にはいっさい協力しない、ドイツと戦いたい奴は戦えばいいだろう‥ と反戦をつらぬいて、刑務所に投獄されても、刑務所の中でせっせと著述に余念がなかったというのは有名な話です。










 その「論理主義」ですけれども、「数」や「図形」といった理念を、心理学で基礎づけよう‥、人間の心の働きのせいにしようなどと試みるのは無駄なことで、理念は理念として存在するのだ、いわば一種の“イデア”として存在する。それを、神が人間の心に植えつけたなどと考える必要もない。


「フッサールはここ
〔『論理学研究』1巻7章―――ギトン注〕でボルツァーノの『真理自体』の説を念頭に置いて、真なるものは絶対的で、《それ自体》真であり、判断するものが人間であれ、天使であれ神々であれ、真理は同一であると主張している。」
『現象学事典』,p.250「人類主義」



 絶対的に真なる理念は、真だから真である、それを、人間の心の働き、あるいは実験などといった経験的事実によって基礎づけることはできない―――と、この時期(Aa)のフッサールは考えていました。

 フレーゲ、ラッセルなど論理学の人びとは、それでも、諸科学を成り立たせている真理、理念、概念を、できる限り少数の“公理”に集約して基礎づける努力を続けていました。全数学を成り立たせるためにどうしても必要なのは、「ゼロと1」「点と線」のような、ごく少数の基礎的な理念で、あとは、それを公理として論理的に組み立てて行けば、高等数学でも、相対論物理学でも何でも構築できる。そして、それらの基礎的な理念も、フレーゲによれば、集合論から導き出すことができ、集合論は、論理学から導き出せるのでした。
(もっとも、フレーゲのこの壮大な努力は、ラッセルが発見した《集合論のパラドクス》によって頓挫してしまうのですが、細かいことなのでここではふれません)


 こうして、論理学も数学も、それらによって基礎づけられる全自然科学も、つぎのたった2つか3つの命題に集約されてしまいます↓



(i) A = A  Aであるならば、Aである。 

(ii) A ∧ 非A = Ø Aであり、かつAでない、ということはない。

(iii) A ∨ 非A = Ω Aであるか、Aでないかのどちらかである。

 「A」には、たとえば、「ソクラテスは、いつかは死ぬ」「2点を通る直線は1本しかない」のような命題が入ります。

 (iii)(排中律)は、無くてよいという説もあります(ブラウアーの直観数学)。排中律を無くせば、《集合論のパラドクス》は生じないとされます。



 しかし、フッサールは、Ab の時期には、すでにこうした動きからは離れていたようです。論理学の人たちが言う“基礎づけ”は、考えてみればあくまでも後知恵で、じっさいに私たちが数学を考えたり図形を思い浮かべたりする過程を説明するものではありません。

 @ の『算術の哲学』で述べたような心理学的な説明――(それは、経験的事実によって、ア・プリオリ〔先駆的〕な理念の真偽を基礎づけようとするもので、不可能な企てだとして、Aa で否定された)――ではなく、人間の意識の働き方の根源に遡って、自然科学、数学、論理学などのさまざまな理念、命題、…フッサールの言い方で言うと「イデア的なもの」が、なぜ頭に浮かぶのか、それらを私たちはなぜ理解し、使うことができるのか‥ ということに関心を移していたように思われます。

 いや‥「イデア的なもの」だけではなく、およそすべての対象にたいする私たちの認識――知覚される物体や、身の回りの世界のできごとや、芸術作品の観賞に至るまで――およそ、ありとあらゆる認識を射程に入れて、その根源のしくみを明るみに出そうとしていたのです。

 じっさいにフッサールは、このAb 〜 Bの時期に、大学の講義では、物体の知覚や、芸術作品(おもに絵画ですが)の観賞などについて分析を進めていましたが、それらが公表されたのは、もっと後の時期か、死後の遺稿によってでした。

 「イデア的なもの」は、時間も物理的空間もない“永遠の存在”ですが、現実の物理空間に存立する物体ということになると、それは時間の流れの中で存立しているものでもあります。「イデア的なもの」では必要のなかった《時間》の分析が、どうしても必要になるので、フッサールは Ab の時期(1904-05年)に、「内的時間意識の現象学」という講義もしています。

 芸術作品の観賞についての講義では、↓こんなおもしろいことも言っています。絵画を見る時に、私たちの眼の前にある対象、あるいは念頭にある対象は、つぎの3つだと言うのです:



(α)カンバスの麻布と、その上に塗られた絵具。

(β)色、線、形など、描かれたとおりのもの。

(γ)画家が描いた当の対象。皿、果物、人物、山など。




 (γ)は、たとえば、ここに貼り付けたルイ16世の肖像画ならば、革命でギロチンにかけられたルイ16世その人です。この絵を見る人は、それを絵具の混合物として見るのでもなければ、きれいなもようとして見るのでもなく、ルイ16世その人として見るのです。ギロチンにかけられたルイ16世というのは、こんなふうな人なのか、いかにも傲慢そうでいやなやつだわい、とか、なかなかスタイリストでしゃれてるじゃないか、とか思いながら見るわけです。




  
デルフィン・デュボワ「フランス王ルイ16世」  







 物理的な意味で物質として実在するのは、あくまでも(α)です。しかし、私たちが例えば美術学校の学生で、油絵具の使い方、盛り方を学ぶためにこの絵を見に来たのでないかぎり、(α)は、絵を見ている時の私たちの念頭にはありません。もちろん、私たちは、200年以上前に死んだルイ16世が生き返って目の前にいると思っているわけではないので、これが絵だということは頭のどこかにはあって、(α)を失念しているわけではありません。(α)という実在の対象の“定立”は、一時的に“括弧に入れられている”、いわば“エポケーされている”と言えます。(β)は、物理的な意味で実在する対象ではありませんが
(物理的に実在するのは、絵具の表面の分子構造と光エネルギーと私たちの眼及び視神経です)、やはり時空の特定点に局在するので、「イデア的なもの」とは違います。(β)についても、私たちが絵の前に立って見入っている時には、やはり“エポケー”されています。

 このような知覚のしかたを、フッサールは「中立性変様」と呼びました。


「中立性変様の例としては画像の知覚があげられる。たとえばある人物の肖像画を観るとき、われわれが対象とするのは実在の当の人物であり、画面上の色や線ではない。後者〔画面上の色や線―――ギトン注〕については存在様相は中立化されたままに意識されているとフッサールは述べている[IdeenT226.]」
『現象学事典』,p.328「中立性変様」




 こうして、物理的な物体や芸術作品の“知覚”も含めて論じる準備をしたうえで、B(『イデーン』第1巻, 1913年)でフッサールが立ち上げたのが《現象学的還元》という現象学の方法だったわけです。

 ところで、こうして《現象学的還元》を定式化してみると、まだまだそれでは不十分と思われるようなことがつぎつぎに現れてきたのです。誰も入ったことのない洞窟の奥を探検してみたら、その先にまだまだいくつもの坑道や割れ目が見えて来た―――というようなものです。

 そのひとつは、『イデーン』のために試行した“時間意識”の分析にかかわっていました。そもそも私たちの意識は、“現在”――“いま”というものをとらえることができるのでしょうか?“現在”をまっとうにとらえることができなければ、過去も未来もわからないことになります。

 私たちの日常の意識――“自然的態度”の意識を、研ぎ澄まして“超越論的意識”とし、さらにさらに純粋化して、私たちの“現在”をとらえ、“現在”の意識の現場で何が行われているのかを見とどけようとしても、いつもすでに“現在”は過ぎ去った後であり、つねにすでに過ぎ去ってゆく“現在”には、どんなに追いかけても追いつきません。

 愚鈍にさえ見えるほどたゆみない、哲学のドン・キホーテとさえ言えるフッサール―――そういうところは宮沢賢治に似ています―――は、どうせ追いつかないのだから無駄な努力はやめて、もっとスマートな方法を考えよう‥とはしません。あちらへ行って行き止まりなら、こんどはこちらから‥と、あきらめることを忘れた人のように、どこまでもしゃにむに“現在”を追いかけてゆくのです。

 じっさいに、フッサールはドイツ語の速記文字を自分で考案して改良したものを使って、意識の奥の奥まで分析を進め、それをすばやく書き取ろうと努力したようです。

 「いきいきとした現在(レベンディゲ・ゲーゲンヴァルト)」とは、この“つねにすでに過ぎ去っている現在”“私たちが決して出会うことのない現在”のことです。





  追っても追っても追いつかない
  ふりかえってもふりかえっても
  きみはつねにすでにそこを去っている
  ふりかえりかけもどりきみの残り香をさがす

  生けるいま と死んだいま
  「わたし」は死んだいまをあるく
  落日が長い永いかげをひき筒鳥は
  どこか後ろで青い糸を巻く

  死んだいま と生けるいま
  生けるいまが駆け去ってゆく
  径喪って荊棘
(いばら)にふみこめば
  愕きはばたく姿なき鳥

  流れるわたしと立ちどまるわたし
  不在のねぐらにはきみの刻印
  流れは決して前にはもどらない
  きみは決していまを離れない

  皁莢
(さいかち)の枝に行くて阻まれ
  見知らぬ骸
(むくろ)に躓きながら
  たどりついた木蔭には
  いつもすでにきみはいない





サイカチ





 しかし、「いきいきとした現在」の問題は、時間だけの問題ではありません。《間主観性》と《他者》の問題、《世界》の発生の問題、私たちの《意識の流れ》の発生、主観と客観の分化、「同一」と「差異」の構成、‥等々あらゆる問題がそこに胚胎しています。そして、繰り返し繰り返し《現象学的還元》を敢行しても、いつもその“いま”は、いまだ追いつかないその先にあるのです。




1916年〜 フライブルク大学へ転出
 C 受動的綜合、生活世界、「いきいきとした現在」の分析へ







「すでに『時間講義』以来、フッサールは意識を流れとみなし、この流れの『やがて』『いま』『たったいま』の各位相のその根源的流動を予持、原印象、把持の用語で表していた。この位相の流動が現在の具体性を形づくる
〔…〕この原印象を核とする統一的直観野すなわち臨前ともよばれる時間的現在は、原印象的いまの流動する相を呈している。『いま』現在的であるものは『たったいま』へと移行し、『やがて』あるであろうものが『いま』へとやってきつつある。つまり『臨前』は、『いま』を中心核とし、『たったいま』現在的であったものと『やがて』きつつあるものを含む統一的具体態であり、しかもこの位相の流動する統一であるところから『流れる現在』とよばれている。〔…〕

 このように『生ける現在』は、原印象的核位相を中心として、予持的-把持的位相を暗い周辺部としてもつ具体的な統一であるが、そこに『いま的なもの』が二重の意味で見いだされる。まず第1に、『立止まる形式』としての現在であり、第2に、流れて行く時間位置現在である。つまり原印象から把持への流動にもかかわらず、つねに『いま』の形式が恒常的な立止まる形式として残る。だかそれに対し、内容として流れゆき、変化していく複数の『いま』があるわけで、この『いま』のほうは、立止まる形式をくぐり抜け流れ去っていく時間位置を意味している。
〔…〕

 立止まる『いま』が、それを貫いて流れていくものに刻印
(スタンプ)を押すことによって、刻印された『いま』がたちまちのうちに時間位置『いま』へと転化していく。時間位置『いま』が立止まる現在をとおっていくことによって、はじめて交換不可能の個別的時間位置を占め、この時間の個別性によって知覚またはそのときの体験対象の個別性が成り立つ。〔…〕知覚対象の同一性が時間的に原初的に構成されてくるのである。〔…〕

 生ける現在は、『立止まること』と『流れること』が統一されている原初的な出来事である。
〔…〕反省によって把握されるのは、反省している原現在的自我ではなく、いつもすでに流れた時間化した自我にすぎない〔…〕反省されるときにはいつもすでに時間化した自我と化しているからである。〔…〕

 反省における自我の自己分岐、反省する自我と反省される自我との間に成り立つ距離
〔…〕反省によってこの距離が発生するのではなく、〔…〕反省が可能になるのは、すでに、自己現在態〔≒「生ける現在」―――ギトン注〕において、自我の自己自身への原的隔たりが『流れること』において発生しているからであ」る。

「また反省によって二つの自我が同一化されるのでなく、
〔…〕機能する自我が恒常的に流れていることによって隔たりがすでにいくつも架橋されており、自我は自我と合一しているから、反省によって自我の同一性の覚認が可能となるのである。」
新田義弘『現象学とは何か』,1992,講談社(学術文庫),pp.205-210.

 『生ける現在』を、思弁的に規定するのでなく、現象学的に解明して記述することは、できないものだろうか?それは、『立ち止まること』と『流れること』を統一的に記述することでなければならない。
「ヘルトによると、フッサール自身は、〔…〕それを克服不可能な困難なものとはみなさないで、集中的にそれを思惟していこうとしていた。しかるにフッサールは〔…〕記述の可能性をめぐって不安を抱き、またつねに〔…〕自分の考えに不満足であった〔…〕

 フッサールの意味での反省をとおして『生ける現在』の統一相の理解への道は、フッサールのこの最後の試みにもかかわらず、不可能であることがつきとめられた。」

新田義弘『現象学とは何か』,pp.214-216.



 読んだ印象をギトンなりにまとめると、↓こうなるでしょう:

 《いきいきとした現在》とは―――

 私たちの意識と世界がたえず生みだされてくる根源的“いま”。たえず自身との隔たりを生じて流れ続け、しかも恒に“いま”にとどまる非時間的なもの。それは、自我の同一性と自己意識、“もの”の個別性、自他の区別、主観と客観の差異を生み出す根源的な場である。





◇    ◇




 「いきいきとした現在」というタームを《序説》のタイトルに借用しながら、その意味を説明していなかったので、ほんの概略ですが、ここで書いてみました。

 じつは、《序説》のおしまいのほうで扱った↓この文語詩も、うまく説明できずに適当にお茶を濁して終っていて、大変申し訳ないと思っているのですが、

 じつはこの詩、フッサールの「いきいきとした現在」で読みとれるのではないかと考えているのです。しかし、ギトンとしてはまだ、表現の細かいところまで理解が及んでいないので、その解釈を前面に立てて鑑賞を書くには、ちょっとまだ準備が足りない気がします。なので、今回は「青びとのながれ」あたりで止めておきました次第です。。。





「遠く琥珀のいろなして、    春べと見えしこの原は、
 枯草
(くさ)をひたして雪げ水、 さゞめきしげく奔るなり。

 峯には青き雪けむり、     裾は柏の赤ばやし、
 雪げの水はきらめきて、    たゞひたすらにまろぶなり。」

宮沢賢治『文語詩稿一百篇』より〔定稿〕


 ⇒:宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ―――『心象スケッチ』論序説









ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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