07/21の日記
01:17
ラヴォアジェ(8)
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こんばんは。。
前回の最後にちょっとふれましたが、ラヴォアジェは、パリ・コミューンのセクション(区評議会)と「国民衛兵」(セクションの自衛団・民兵)にも、関わりを持っていたようです。
これらは、“大革命”当初から、議会を中心とする●ブルジョワの革命 とは、別の動きをしており、●都市民衆に関わりの深い組織でした。
ラヴォアジェがブロワ区の貴族身分「全国三部会」議員のために書いた「カイエ(陳情書)」にも現れていたように、ラヴォアジェの政治改革思想は、王政を否定しない穏和なリベラリズムであり、1789-91年の憲法制定国民議会のブルジョワ穏健派、ないしリベラル派貴族の線だったと考えられます。
しかし、ラヴォアジェ自身は、憲法制定国民議会の中途で補欠議員になっただけで、議会には関係することなく、●ブルジョワの革命 に積極的に参加することはなかったと言えるのです。
このシリーズの最初にご紹介したように、1790年には、推計を駆使して、全国の人口、土地、生産高と経済価値の循環を集計し、公平な税制を確立するための基礎資料を与えた『フランス王国の領土の富』を憲法制定国民議会に提出し、議会は、これを高く評価して出版を命じています。しかし、これも、政治活動というよりは、(おそらく)リベラル派議員の依頼で、科学者としての腕を振るって貢献した活動のひとつと見るべきでしょう。
しかし、その一方で、ラヴォアジェの「自伝ノート」には、↓つぎのように、パリ・コミューンの代表会議と「国民衛兵」に───●民衆と関わりの深いこれらの組織に──一貫して関与していたことが記されているのです:
「1789年の終わりと1790年の初め、〔ラヴォアジェは───ギトン注〕パリ仮コミューンの代表であった。
革命の当初から国民衛兵として活躍していた。
〔…〕
かくして、いかなる場合にも自由を守るために武器を取り、とくに1792年8月10日〔義勇軍と国民衛兵が王宮に突入した「8月10日事件」の日!───ギトン注〕には兵器廠火薬倉庫係に任命され、1793年5月31日〔パリ国民衛兵が国民公会を包囲してジロンド派議員を追放したクーデターの初日───ギトン注〕にはピック区軍隊とともに、革命広場を確保する任務についた。」(「自伝ノート」)
パリ・コミューンは、フランス革命中、パリ市の市政と秩序維持のために住民によって組織された自治団体で、1789年7月14日バスチーユ襲撃の日に誕生しました(だから、7月14日は“パリ市誕生の日”、パリ祭なんです)。
「全国三部会」での第三身分議員たちの動き(6月20日“テニスコートの誓い”)を抑え込むために、ルイ16世は、6月22日以後、各地の軍隊を、つぎつぎにヴェルサイユとパリに呼び集めて、ブルジョワと民衆を軍事力で制圧しようとします。
そして、7月11日には、王政内部でリベラルな改革案を提案していた財務大臣ネッケルを罷免し、代わりに強硬派の大臣を据えて、議会(憲法制定国民議会と自称)を解散して権力で専断する準備を整えたのでした。
こうしたヴェルサイユの動きは、↓のちほど説明するように、“ジャーナリスト”たちによって、パリの民衆にも伝えられ、
●民衆の間には、
○ 国王と貴族は、自分たちに軍隊を差し向けて、皆殺しにしようとしている。
○ 貴族と上層ブルジョワが、食糧の価格をつり上げたり、賃金を切り下げたりして、自分たちを飢え死にさせようと企んでいる。
という噂が広がり、「廃兵院(アンヴァリッド)」など、武器のありそうな国王政府の施設を襲って武器を奪い取り、武装しようとする民衆の集団が、街頭を徘徊するようになります。
7月14日のバスチーユ襲撃も、「廃兵院」で銃器を手にした群衆が、火薬と弾丸を手に入れるために、弾薬の貯蔵されているバスチーユ砦☆を襲ったのだと言われています。
☆(注) バスチーユは、もともと城砦として建設されましたが、17-18世紀には、身分の高い囚人や政治犯を収容する監獄として使われていました。しかし、“大革命”前には、監獄としてもあまり使用されなくなり、襲撃のあった7月には、数人の窃盗犯や狂人が残っているだけでした。狂人として収監されていたマルキ・ド・サド侯爵も、しばらく前に釈放されています。
もともと、パリ市には、国王の任命した地方長官ベルティエがいたのですが、市中がこのような状態では、もはや治安を維持する能力はなく、“バスチーユ”後の7月22日に群衆に惨殺されています。
パリ市内に進駐した国王の軍隊も、一部の部隊は「国民万歳!」と叫んで退き、一部は、司令官ともども群衆を眺めているだけ、一部の外国人部隊だけが、やみくもに発砲して多数の群集を死傷させている‥という状態だったのです(文庫クセジュ,p.26; コデショ,op.cit.,pp.44-45)
パリ市庁舎
このような中で、パリ市で「全国三部会」議員を選出した第三身分の選挙人たちが集まって、市政の「常設委員会」を組織し、秩序維持のために各区(セクション)の市民・民衆による都市民兵(のちに国民衛兵と創称)を編成したのです★(市政革命)。
7月25日には、常設委員会は、各セクション2名の代表からなる代表者会(市議会)を創設しています。
★(注) パリの市政革命の動き、とくに国王の地方長官が民衆に殺害されたというニュースは、たちまち地方に伝えられ、各地の地方長官は争うように逃亡してしまいましたから、地方各都市でも、パリと同様に、第三身分の組織する自治体と国民衛兵が誕生しています。(文庫クセジュ,p.27)
パリ・コミューンとは、このようにして設立されたパリ市の自治体であり、代表の選出と民兵の組織は各セクションの自治に委ねられ、各セクションは、直接民主制的な住民集会によって決定を行ない、行動していましたから、パリ・コミューンとセクションには、民衆の意見が非常に強く反映していたのです。
そこで、“大革命”開始時における ●民衆 と政治とのかかわりについて、以下で少し考えておきたいと思います。
まず、考えておかなければならないことは、18世紀末の当時における情報の伝達ということです。
ラジオ・テレビも新聞も無い時代に、ニュースの情報が、どのようにして一般の人々に伝えられたのか?
地方各都市の特権身分(●貴族、●聖職者)と●ブルジョワは、「全国三部会」議員の報告によって、ヴェルサイユとパリで起きていることがらを知ることができました。
国王の布告や議会のデクレ◆が伝達されれば、より正確な情報がもたらされます。
人々が、政治の動きを知ったのは、このような通達、報告や、私的な手紙によってだったと思われます。
◆(注) 憲法制定国民議会から立法議会まで、議会で可決した法令(デクレ)は、国王の裁可によってはじめて正式な法令として制定されることとなっていました。しかし、ルイ16世は裁可を先延ばしにしたり、拒否したりして妨害しましたから、議会は、しばしばデクレのまま国民に発布し、国民は国王の裁可を待たずに、すでに改革が行なわれたものとして受け取ったのでした。
しかし、●民衆と●農民には、このような手段はありません。そもそも、彼らの大部分は文字が読めないのです。。。
そこで、彼らが、議会などでの革命の動きを、どのようにして知ったのかを考えてみますと‥
まず、パリの民衆に対しては、革命の動きを彼らに伝える特定の人々───“ジャーナリスト”───がいました。
オデオン通り 22-2 「この建物には、カミーユ・デムーラン(1760-1796)
が、1782年から1794年3月30日の逮捕まで住んでいた」
たとえば、カミーユ・デムーランという人がいます。
1789年7月12日ネッケル罷免の知らせを聞いて、パレ・ロワイヤルで民衆にアジテーションを行ない、国王政府に対して武器を取って抵抗するよう、また、武装デモ行進によって示威するよう呼びかけ、バスチーユ襲撃のきっかけを作った。
その後も、たくさんの新聞(瓦版ふうの1枚もの)やパンフレットを街角で配布し、ジャコバン派に近い立場で時局を論じた。しかし、93年12月にはジャコバン派を批判して寛容を説き、94年4月5日処刑された。
カミーユの父は地方の裁判所代理官でしたが、カミーユ自身は弁護士になったものの、どもりだったため客は少なく、パンフレットや雑文を売って貧しい生活をしていたと言います。
この人などは、●ブルジョワと●民衆の境界線上にいたと言ってよいのではないでしょうか。
彼以外にも、議会の動きを民衆に伝え、扇動する役割をした“ジャーナリスト”たちは多かったと思われます。
当時、“ジャーナリスト”と呼ばれたのは、文筆で世に出る決心をしてパリにやって来た地方青年たちで、彼らは、(まだ、マスコミなどは無い時代ですから)自分で書いたパンフレットを印刷しては、街頭で売って、その日暮らしをしていたのです。
しかし、このような伝達者たちの多くは、正式の教育も受けていませんから、伝える話には尾ひれが多く、また、感情的になりがちであったと思われます。●ブルジョワの革命 と王政、貴族の動きは、歪められたり、誇張されたりして民衆に伝えられたのです。
また、同様の経路で、ヴェルサイユ・パリと地方との間でも情報が相互に伝えられましたが、やはり不正確で、扇情的に拡大されて伝えられました。
とくに、地方の農村にまで噂が広がった時点では、まったく内容が逆転して伝えられることもあったようです。
ばいみ〜 ミ彡
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☆コメント☆
[あおやま] 07-22 08:35 削除
ギトンさんのホームページの<宮沢賢治リンク集>を見ました。ぼくが小学生のときは、学校の図書室にあった宮沢賢治の「注文の多い料理店」や「銀河鉄道の夜」、「セロ弾きのゴーシュ」とかを読んでいました。今、思うと懐かしいです。国語の授業では、「やまなし」や「雨ニモマケズ」を教科書で読みました。子供のころに読んだ本を大人になってから改めて読むことに最近、はまっています。今度、本屋に立ち寄る際には、宮沢賢治の本を買って読んでみようと思います。
[ギトン] 07-22 15:39 削除
あおやまくん、コメントありがとう(^.^)ノ
もし興味があったら詩も読んでみてください。「ゆらぐ蜉蝣文字」で解説しています。
暑いですね'' おまけにきょうは仕事が重なって空きません。。。 あした木曜は時間できそうです。
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