07/15の日記
00:57
ラヴォアジェ(6)
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。。。こうして、5月5日の「全国三部会」招集を境として、
●貴族の革命 は、●ブルジョワの革命 へと道を譲ることになります。
しかし、7月14日にバスチーユを襲撃したのは、ブルジョワではなく、ブルジョワが“指導”したのでもありませんでした。
これは、もうひとつの動き、すなわち ●都市民衆の革命 が、ここで突出したのです。
そこで、“民衆”と“ブルジョワ”は、どう違うのか?‥‥そもそも、“ブルジョワ”とは、どんな人たちなのか?☆◇‥‥‥そのへんを、ちょっと見ておいたほうがよいかもしれません:
☆(注) “ブルジョワ”対“プロレタリア”、あるいは、“ブルジョワ革命”“ブルジョワ階級”“プチブル”‥ といった左翼の人たちのジャルゴンがありますが、そういう言い方に馴れている人は、その先入見のイメージを、頭からいったん消去してほしいのです。フランス革命の当時に、フランスで“ブルジョワ”と呼ばれた社会層は、20世紀の左翼用語の“ブルジョワ”とは、かなり違っていました。そもそも、フランスで産業革命が始まったのは、“大革命”の30〜40年後でして、‥それ以前には、“資本主義”も、左翼用語の意味での“ブルジョワ”も、存在しないのです。
◇(注) “ブルジョワ(bourgeois)”という言葉は、もともと、bourg, burg, burgi (とりで,城砦都市) から派生した言葉で、本来の意味は「都市の人」ということになります。Strassbourg(ストラスブール), Salzburg(ザルツブルク), Johannesburg(ヨハネスバーグ), Edinburgh(エディンバラ)... みな、burg から派生した地名です。中世には、田舎の荘園に住む領主貴族と農奴に対して、都市に住む人を、"bourgeois", "Bürger"(ドイツ語:ビュルガー) と言ったようです。Bürger のほうは、現代ドイツ語でも、都市民、市民という広い意味で、フランス語の“ブルジョワ”のような特別な社会層を指す意味はありません。
アンシャン・レジーム末期、“大革命”前夜の時点で、都市に住んでいる第三身分の住民を、裕福な順に上から下へと並べますと、およそ↓つぎのようになります(柴田三千雄『フランス革命』,岩波現代文庫,pp.52-56):
@上層ブルジョワ: 国や地方当局に融資している大・金融業者、国際商業を営む大商人など。一部は、貴族身分を買って貴族に上昇。
A中流ブルジョワ: 国内向け商人、製造業者など。
B小ブルジョワ(プチ・ブルジョワ): 手工業の親方(職人が約20人以下)、小売店主、家族自営業者など。
C民衆(Peuple): 職人、日雇い人、売春婦など。
なお、A・Bと同等の階層として、国や市の役人、自由業(弁護士、医者、教師)、ジャーナリスト(文筆業)などがあり、彼らもブルジョワに含まれます。
およそこのようになりますが、大きな境目はBとCの間にあります。
@〜B(ブルジョワ(Bourgeois))と、C(民衆(Peuple))とは、まったく別の“階級”と言ってよいほど区別されていました:
(A)まず、見た目が違います。↓下の(1)の画像は、革命家ロベスピエールですが、キュロット(膝までの半ズボン)を履いて、頭にカツラをかぶっています。アンシャン・レジーム時代には、このような格好が、男子のいわば正装でした。今の世の中では、短髪・スーツ・ネクタイのスタイルが正装と見なされるのと同じことです。
“大革命”前には、貴族はもちろん、“ブルジョワ”も、このスタイルをしていました。
画像(1)「ロベスピエール」(ボワリー画)
ロベスピエールは、階層で言えばBプチ・ブルジョワですが、このような“正装”で肖像画を描かせていることに注意してほしいと思います。このスタイルを“正装”だと思う人々──@AB──が、“ブルジョワ”です。
画像(2)「サン・キュロット」(ボワリー画)
これに対して、Cの人々(職人など)は、長ズボン(パンタロン)を着用していました(↑画像(2))。長ズボンは、当時のフランスでは労働着でした。
そこで、Cの人々を、「サン・キュロット」(キュロットを履かない人。「サン(sans)」=without)とも言いました★
★(注) もっとも、「サン・キュロット」という言葉の指す範囲は、著者によって、かなり“揺れ”があります。「プチ・ブルジョワ」の下層まで含めて言う場合や、一定の階層の農民まで含めている場合もありますから、革命史の書物を読む場合には注意が必要です。
(B)@ABブルジョワとC民衆は、意識が違います。彼らは、たがいに、自分たちと相手とは“別の種類の人間”だと思っていました。
プチ・ブルジョワのもっとも下層の親方であっても、自分の雇っている職人たち(=民衆)と、いっしょに食事をすることは無かったといいます。たとえば、昼休みの時間でも、親方が職人たちと同じテーブルに就くことはなく、親方は“すまい”に戻って、家族と食事をしたのです。
民衆の“たまり場”は、居酒屋でしたが、
ブルジョワやプチ・ブルジョワが居酒屋に行くことはなく、彼らは、カフェ、クラブなど、もう少しハイクラスな場所で余暇を過ごしました。
ブルジョワ、プチ・ブルジョワと、民衆との間には、大きな意識の断絶が存在したのです。
ところで、ラヴォアジェですが、
ラヴォアジェ家は、もともと農村のブルジョワ領主であり、↑上の分類で言えば、A中流ブルジョワに属するでしょう。
アンシャン・レジームの終り近く、“大革命”前夜になると、お金さえ出せば、貴族の身分が非常に簡単に買えるようになりましたから、ラヴォアジェの父は、亡くなる少し前(1772年ころ)に、貴族身分を買ったのです。そこで、子孫のアントワーヌ・ラヴォアジェも貴族身分になりました。
ただ、アントワーヌ自身は、貴族身分にはあまりこだわりが無かったようです。あるいは、貴族になったことを不本意に思っていたかもしれません。
貴族としての正式の名前は、「アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ Antoine-Laurent de Lavoisier」でして、苗字の前に「ド(de)」という前置詞が付きます。これは、「みなもと・の・よりとも」の「の」と同じことで、苗字の前に「ド(de)」を付けるのは、貴族の印です。
ところが、ラヴォアジェの書き残したものを見ると、手紙でも、論文でも、署名はいつも「アントワーヌ・ラヴォアジェ」でして、「ド」を付けた署名は‥‥すくなくともギトンが見た限りでは、ひとつもないのです!
もっとも、“大革命”以前のアンシャン・レジームの社会では、貴族だというだけで、格段に発言権が増したのはたしかです◆。これは、(残念ながら)科学の世界でも、そうだったようです。ラヴォアジェが「フロギストン(燃素)説」を否定する理論を提起したのは、貴族になった後です(1779年、燃焼とは「酸素」との結合であると、はじめて主張)。発言権が増したので、言えるようになったとも考えられます。
そういうわけで、ラヴォアジェは、父が取得してくれた貴族身分をおおいに利用したことになりますが、個人的には、貴族になったことを名誉には思っていなかったかもしれません。。。
◆(注) この傾向は、“大革命”が始まってからも、しばらくの間は続きました。たとえば、1789年の「憲法制定国民議会」の有名な議員を挙げると:ミラボー(貴族)、ラファイエット(貴族)、シェイエス(聖職者)、‥など、みな貴族・聖職者です。第三身分の議員は、まだ発言権がなく、彼らは、もっぱらリベラル派貴族の議員に意見を代弁してもらっていたと考えられます。
ばいみ〜 ミ彡
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