07/14の日記

01:26
ラヴォアジェ(5)

---------------
.




7月14日‥きょうは何の日か、ご存知ですか?



パリ祭 ‥‥つまり、226年前、バスチーユ襲撃によって“大革命”が開始された日です。


















しかし、いまは、「全国三部会」が招集された5月5日にもどりましょう。







「全国三部会」を招集した時点で、“絶対王政”は貴族たちに屈服したのでした。


議会を廃止し、貴族の反乱を鎮圧して(フロンドの乱 1648-53年)、専制・独断で政治を行なってきた王権が、ついに貴族たちの反抗をおさえきれなくなって、議会を再び開いた───ということは、



「もう、どうにでもしてください!」と言って、代表たちの前に身を投げ出したに等しいことだ────と、貴族たちは思ったのでした。









1789年5月5日にヴェルサイユで「全国三部会」の開会式が行なわれたとき、

ルイ16世の政府(財務大臣ネッケル)が提案する税制改革だけを審議しようと思っていた議員など、ひとりもいませんでした。




“絶対王政”が敗北して身を投げ出してきた以上、いままで絶対王権がしてきたことすべてが変らなければならない‥だれもが、そう思っていたのです。。。☆



☆(注) 議員たちは、みな、自分を選出した選挙区から、ぶ厚い「陳情書(カイエ)」を渡されて、携えてきていました。「陳情書」には、税制だけでなく、およそ国政のありとあらゆる事項について、要求すべき多岐にわたる改革案が書かれていたのです。もちろん、各議員の「カイエ」の内容は、たがいにばらばらで、一定した方向は見られませんでした。






しかし、いったい、どう変わるべきなのか?。。。 統一的なヴィジョンのようなものはなく、さまざまな構想が相争う状態でした。





最強硬派(おそらくは、貴族・聖職者議員の過半数)は、“絶対王政”が崩壊した以上、それ以前の状態、すなわち貴族たちが合議で王国の政治を決めていた中世封建制国家の状態に戻すべきだと思っていました★





★(注) ちなみに、日本の“明治国家”も、最初の段階では、同様の体制をめざしていました。「五箇條ノ御誓文」(1868年)に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とあるのは、諸藩の大名の合議によって国の政治を決めてゆくという意味でした。






「代表なくして課税なし」

という憲法原則を持ち出して、「全国三部会」開催という“勝利”を得た貴族・最強硬派(パリ高等法院の最右翼判事ら)は、そう考えていました。


しかし、彼らが、国王に対する闘いの武器として憲法原則を持ち出したのは、意図あってのことでした。これは、古い中世の原則であると同時に、英国・名誉革命(1688年)の『権利章典』にも謳われている近代的憲法原則でもあったのです。

特権貴族は、これを持ち出すことによって、開明的なリベラル派貴族やブルジョワ勢力をも味方につけることができたのです。(柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』,2012,山川出版社,pp.132-165.)






そうは言っても、特権貴族が描く未来のヴィジョンと、リベラル派やブルジョワ勢力が求めているヴィジョンとの間には、大きな隔たりがあります。

リベラル派は、むしろ税制改革は受け入れたうえで、憲法を制定して王権を制限し、経済活動に対する過剰な規制や、恣意的な逮捕・投獄による弾圧をやめさせたいと思っていました。かれらは、ヴォルテールやルソーを耽読して成長した青年たちであり、“啓蒙主義の申し子”の世代でした。














ラヴォアジェもまた、おおまかに言えば、かれらリベラル派の中にいたと言えます。彼は、ブロワ区の貴族身分選挙人として「カイエ」を起草し、その中でリベラルな改革案を起草して提言しています。

ラヴォアジェの「カイエ」は、ブロワ区の貴族総会で採択されました。(グリモー,op.cit.,pp.127-131)



「カイエ」起草に先立って書いた論文の中で、ラヴォアジェは、次のように、立憲君主制を主張しています:



『全立法権は、国王により統括される三部会に属する。

 この権威ある三部会の会議は、税を課し、または拒否し、〔…〕法律と陳情書の改正を検討し、立法、警察、商業および課税に関する一般の規則をつくる権利を有する。

 ただ国王のみが行政権を有し、法律に、必要な裁可を与えた後、それを制定し、公布し、その執行を監督し、その違反を処罰することができる。』(1788年7-11月論文:グリモー,op.cit.,pp.128-129)


この論文で、ラヴォアジェは、


○ 立憲君主政体の確立

○ 「三部会」を「国民議会」と改称し、3年ごとに招集(改選)すること。 

○ 各市町村の任命する選挙人による「国民議会」議員選挙の方式:→県議会→州議会→国民議会、各レベルの議会は、討論・互選によって上級レベルの議員を選ぶ。

○ 国王の恣意的逮捕投獄の手段であった「封印状」の廃止。出版の自由。

などを詳しく述べています。





貴族総会によって採択されたラヴォアジェの「カイエ」は、まず、その「序言」で:



『幸福は、少数の限られた人々のものではなく、すべての人々のものである。独占的特権を争いあってはならない。』


と述べています。





 そして、ブロワ区の貴族が申し立てた種々の問題、

『すなわち、個人の自由、人間の権利のうち原始の、最も聖なるものについて』

検討するとして、




○ いかなる市民も、法と裁判によることなく流刑、投獄されない権利を保障されなければならない(人身の自由

○ 警察の専横的権力の廃止

○ 出版の自由。検閲の廃止。

○ いかなる税も、免税も、国民の同意により決定されなければならない(「代表なくして課税なし」、租税法律主義)

○ 貴族の免税特権の廃止。税は、すべての人と場所において、財産と収入に比例して課されるべきである。

○ 個人の能力発揮を妨げている同職組合(ギルド)の廃止。

○ 裁判の改革

○ 農業の保護

などについて述べたあと、



「全国三部会」は、憲法を制定するまでは解散しないこと※〔…〕を要求」して、結語としています(op.cit.,p.131)






※(注) フランス革命史を紐解かれた方には周知のように、“憲法を制定するまでは解散しない”は、「全国三部会」に集まった第三身分議員たちの一致した信念となり(テニスコートの誓い:6月20日)、その結果、国王側強硬派による弾圧を招き(軍隊のヴェルサイユ・パリ集結:〜7月11日)、それを跳ね返す意図を持って「バスチーユ襲撃(7月14日)」が“大革命”の火蓋を切ったのでした。










ブロワ区の貴族身分は、ラヴォアジェの影響もあってか、ひじょうにリベラルな改革案を採択していることが分かりますが、‥しかし、ここは、あくまでも田舎でして、全国で最も進歩的な地域というわけではなく、‥そもそも、これは、貴族身分の「カイエ」なのです。



まして、各地の「カイエ」、とくに第三身分の「カイエ」には、もっともっと先進的な、過激なものがあったと想像されます。







そういうわけで。。。 税制改革の承認を求めて「全国三部会」を招集したルイ16世の意図を超えて、


じっさいに集まって来た議員たちは、“すべてを変える”ために集まって来たのであり、

ただ、その改革の方向は、ばらばらでした。







そこで、

◇ 貴族・聖職者身分は、“各身分ごとの表決”という旧来の方式を主張し (こうすれば、貴族・聖職者の多数を占める復古的意見で表決が行なわれ、第三身分がリベラルな改革案や特権剥奪を議決しても、第一・第二身分の2票で否決することができます。)


◆ 第三身分は、第三身分の議員の数を、貴族・聖職者身分の議員数の合計と同じ(つまり2倍)にして、表決は、全体の頭数で行なうことを主張します。こうすれば、貴族のなかのリベラル派を合わせて、第三身分の意見が多数を占めることになります。








ところが、ここで、ルイ16世は(結果的には自らの命取りとなる)一計を案じました。


国王にとっては、税制改革案を承認させて、枯渇した国庫を立て直すことが、何よりも急務でしたから、




第三身分を味方につければ、貴族・聖職者への課税を行なう改革案は承認されるだろうと考えたのです。


そこで、◆ 第三身分の議員の数を170年前の2倍にすることを各地方に命じました。








そして、じっさいにヴェルサイユに集まって来た議員の数は:

第三身分の議員の数は、貴族・聖職者身分の合計よりも多かったのです!








 






ばいみ〜 ミ


ランキングへ
.
カテゴリ: ラヴォアジェ

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ