08/28の日記
20:21
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(13)
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こんばんは。(º.-)☆ノ
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(12)からのつづきです。
マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。
上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。
「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」
「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」
「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」
この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。
【34】「本論三2」――「所有」と法
「私法は、私的所有と時を同じくして、自然発生的な共同体の解体から生じてくる。ローマ人の場合、私的所有と私法の発展は、さらに進んだ工業上・商業上の帰結をもたらすことなく終わったが、それは、彼らの生産様式が総じて同じものであり続けたからである。
(高利!)
工業と商業によって封建的な共同体☆が解体された近代の諸民族の場合は、私的所有と私法の成立とともに、さらなる発展が可能となる新たな局面が始まった。中世に広範な海上貿易を営んだ最初の都市アマルフィ★は、同時に海上法をも作り上げた都市であった。初めはイタリアで、次いで他の国々で、工業と商業が私的所有をさらに発展させると、たちまち、出来合いのローマ私法があらためて採用され、権威にまで高められた。
その後、ブルジョアジーが大きな威力をもつに至り、彼らの力を借りて封建貴族を打倒すべく諸侯がブルジョアジーの利害の面倒をみるようになった時、あらゆる国々で――フランスでは 16世紀に――法の本格的な発展が始まった。この発展は、イギリスを除きどの国々でも、ローマ法典を土台にして行われた。イギリスでも、私法(特に動産所有の場合)を仕上げていく上で、ローマ法の諸原則を採り入れざるをえなかった。――(法もまた宗教と同様、独自の歴史をもつものではないということを、忘れてはならない。)」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.204-205.
註★「アマルフィ」:10-11世紀に栄えたナポリ東南の海港都市。その海事法はイタリア全体に有効で、地中海では船籍に関わりなく重んじられた。(訳者註)
註☆「封建的な共同体」:ここでは支配者の共同体、すなわちレーエン制を指すのであろう。
アマルフィの城塞
「彼らの生産様式が総じて同じものであり続けた」――ここで「生産様式」は広い意味で使われている。常識的な意味での、生産のしくみ、商業のしくみ、というほどの意味。後段との比較で見れば、共同体(ギリシャの都市や、ローマ国家)が解体することなく存続したことが、商工業発展が帰結しなかった原因だ、ということになる。著者らのシェーマからすれば、「私法の発展」という意識形態の変化が、商工業という土台の変化をもたらすことはない。“農業共同体の解体”という概念がはっきりしないために、著者らの移行の論理は未完成。
「私法においては、現存する所有諸関係は一般的意志の結果であると述べられる。使用と濫用の権利そのものが、一方では、私的所有が共同体★から徹底的に独立してしまっているという事実を表現しており、他方では、あたかも私的所有そのものが単なる私的意志、物件に対する任意処分権 die willkürliche Dispositionに基づいているかのような幻想を表現している。◆実際には、処分 das abuti は、私的所有者がもし彼の所有物、したがって彼の処分権 jus abutendi が他人の手に渡るのを眺めていたいのでなければ、彼にとって非常に明確な経済的限界を持っている。というのは、そもそも物件 die Sache は、彼の意志との関係でだけ見れば、なんら物件ではない。交通において初めて、しかも法とは独立に、物件となり、現実の所有物となるのだから。◇(哲学者たちが理念と呼ぶ一関係)
哲学者たちにとっての関係イコール理念。
彼らは『人間なるもの』のそれ自身に対する関係しか知らず、そのため、あらゆる現実的関係は、彼らにとっては諸理念となる。
――◆法〔=権利〕das Recht を単なる意志に還元する・法律家の・この幻想は、所有諸関係がさらに発展していくと、必然的に、誰かが・物件を実際に持つことなく・その物件に対する法的権原を持つことができる、というところまで行く。
たとえば、競争によって、ある地所の地代が無くなってしまう場合☆、その地所に対して所有者はたしかに法的権原を、使用・処分権 jus utendi et abutendi を含めて持っている。しかし、それで彼に何かができるわけではない。〔…〕この土地を耕作するに十分な資本を有していない限り、そうなのである。
法律家たちの同じ幻想から、次のことが説明される。諸個人が相互に諸関係を結ぶこと、たとえば契約を結ぶことは、法律家たちにとっても・どの法典にとっても・およそ偶然的な事態であるということ。そして、法典に対して、この〔私的な〕諸関係は、結ぶも結ばないも任意であり、その内容はまったく契約者たちの個人的〔恣〕意にゆだ〔ねられた〕ものと見なされることである。◇――――――
工業と商業の発〔展〕によって新しい〔交通〕諸形態、〔例〕えば保険会社、何々会社、等が形成されるたびに、法は、そのつど、それらを財産獲得方法のなかに加えざるをえなかった。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.205-208.
註★「共同体」:ここでも、支配者の共同体すなわちレーエン制を指すのであろう。しかし、農業共同体に読み換えたほうが“移行の論理”がよくわかるのはたしか。
◆……◆:河出版の原文を参照して改訳。
註☆「地代が無くなってしまう場合」:辺鄙な場所にあったり、痩せていたりして、借り手がなくなった農地を考えてみればよい。この土地は、収益が出ないわけではないが、もっと条件の良い土地がたくさんあるので、誰も、地代を払って借りようとはしないのである。そこで、所有者自身が耕そうとしても、土地改良の費用や雇い人の労賃を支払う元手がなければ、この土地は遊ばせておくほかはないことになる。処分しようにも、買い手がつかない。売ることも、貸すことも、使用することもできない・このような土地は、所有者にとって財産(所有物)の意味をもたないが、だからといって、「所有権」が消滅するわけではない。
@所有権の絶対性、A契約の自由。これらを「法律家の幻想」だと言うのだが、その「幻想」に沿って裁判が行われ、国家の暴力が発動されている以上、単なる「幻想」ではない。
【35】断章――『ドイツ・イデオロギー』の国家論
「第1章『ドイツ・イデオロギー』の国家論は〔…〕『ドイツ・イデオロギー』にみられる国家論の論理と構制を、復元的に再構成しようと試みたものである。
マルクス・エンゲルスの国家観といえば、『共産党宣言』などで述べられている『支配階級の機関』という命題が有名であるが、遺稿『ドイツ・イデオロギー』にはこの命題〔…〕の代りに、国家とは一種の利益共同体であるという提題が目につく。ここでは、国家を以て社会内の一機関と観るよりも、社会全体の統括態として扱う視角が基調になっている。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,p.323.
『ドイツ・イデオロギー』に現れた国家論は、斉一的な形に整理されているわけではなく、未定稿の性質上、複数の考え方が濃淡さまざまに混じり合っており、国家論というより「国家観」と言ったほうがよい。
単純な見方をすれば、そこには次の㋐㋑㋒㋓が見られる。
㋐ 国家は、支配階級が被支配階級を支配するために設けた「機関」である。つまり“支配階級の道具”であり暴力装置である。
㋑ 国家は、諸個人からなる市民社会がバラバラになってしまわないよう統合する機能を有する「統括体」である。国家が体現するのは、特定の個人や一階級の利害ではなく、社会全体の共同利害である。国家は、その共同利害を「普遍的利害」すなわち「公的」なものとして主張する。国家は、「公的」秩序の名において、もろもろの特殊利害の間の紛争や、階級間の対立を調停する。
㋒ 国家は、その本質において支配階級の利益を代表しているのだが、これを露わにして支配を行なおうとすれば、秩序を平穏に維持することはできない。露わな暴力的支配は永続きしない。そこで㋑の外被をまとう。すなわち、一定の統合機能を果たし、常に支配階級に奉仕するのではなく、ある程度の調停機能を発揮する。これに応じて、被支配階級には、国家は“社会全体の統合であり代表である”という幻想が生じる。
㋓ ただし、㋒の“幻想”は、啓蒙によって「頭から叩き出す」ことができるような“まぼろし”ではない。諸個人の相互的「自己活動」すなわち生産活動と交通を中心とする諸活動の絡み合いに現実的根拠を持っている。単なる幻想ではなく、それらの諸個人の諸関係が「物象化」した・疎外態にほかならない。
レーニンは、㋐だけを強烈に主張し、㋑以下を無視した。レーニンは遺稿『ドイツ・イデオロギー』を見る機会がなかったが、廣松氏によれば、㋑以下は、『ドイツ・イデオロギー』のみならず、マルクス・エンゲルスの後期の著作にも散見される。レーニンは、強権支配をしたいがために、都合の悪いことは故意に無視し、“偽マルクス”を祭り上げたのだ。
レーニンを崇拝して、㋐国家観を教条的に信奉した権力者たちが未曽有の恐怖政治を出現させたのは、論理的必然というほかない。彼らは、支配階級プロレタリアの名のもとに、被支配階級ブルジョアとみなした人びと――事実上は、全人民――を抑圧したのだ。レーニンの『国家と革命』に書かれた「プロレタリア執権」の教条的適用そのものであった。俗に「スターリン主義」と言うが、スターリン一人が悪いのではなく、元凶はレーニンとボルシェヴィキ全党であった。
㋐だけを教条にすれば、露わな暴力的支配だけが正当化されることになる。しかし、本来は、平穏な秩序の維持こそが国家統治の基礎であるし、支配階級にとっても利益なのだ。そもそも農業生産は、平穏な秩序がなければ不可能だ。ボルシェヴィキの執権によって、穀倉のウクライナが最もひどい被害を受けたのは、偶然でもナチスのせいでもない。
ところが、レーニンの死後に『ドイツ・イデオロギー』が公刊され、㋑以下が公開されてしまった。公刊したリヤザノフは粛清され追放されたが、あとの祭りだった。レーニンの㋐国家観を信奉するソ連の支配層、および他の国々の「マルクス主義」者にとって都合が悪いことに、『ドイツ・イデオロギー』の国家観は、㋑以下が中心なのだ。
「幻想的という形容詞がついていようと兎もあれ一種の共同利益共同体とする国家規定」は、「マルクス=いこ〜る♪(笑)=レーニン主義」者にとって都合が悪い。しかし、「後年におけるマルクス・エンゲルスの文典にも利益共同体としての国家という視角が存続しており、従ってマルクス・エンゲルスが〔…〕"国家=共同体"説から後に"国家=機関"説へと移行したのだと単純に言い切るわけにはいかない」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,pp.324-325.
「『ドイツ・イデオロギー』に盛られている国家論の諸提題〔…〕
一 幻想的な共同体としての国家という規定
二 市民社会の総括としての国家という規定
三 支配階級に属する諸個人の共同体としての国家という規定
四 支配階級の支配機関としての国家という規定」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,pp.342-343.
「幻想的共同体としての国家という論述は、エンゲルスの基底稿の欄外にマルクスが書込みをおこない、それをも勘案しつつエンゲルスがさらなる書込みを〔書いて〕追補するといった複雑な過程を辿って成立しているものであり、基底稿元来の文章にゲシュタルト・チェンジが生じてさえもいる。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,p.325.
ここで、廣松氏に従って、「幻想的共同体としての国家」論成立の逐次テクストをたどっておきたい。内容の検討は後回しにして、まずは、該当部分の執筆機序を追いかけてみる。
まず、{8}a=[16] 末尾から(岩波文庫版,p.64-)、Ⓐの叙述が始まる。「所有」の発生とその形態の発展を、原始社会の家族から説き起こしている部分である。この発展のキー概念は「分業」と「交通」。「分業」と「交通」の発展のなかで、「個人ないし個々の家族の利害」と「交通し合っている諸個人全員の共同的利害」が分離し、矛盾しあうようになる:↓
「Ⓐ所有は、妻と子供たちが夫の奴隷であるような家族の内に、すでにその萌芽、その最初の形態をもっている。家族内における、勿論まだ極めて粗野で潜在的な奴隷制、これが最初の所有である。それにしてもこの最初の所有は、〔…〕所有とは他人の労働力を意のままにすることだという近代の経済学者たちの定義にまったく適っている。ともあれ、分業と私的所有とは、同じことの〔異なる〕表現である――後者において活動の生産物との関係で言い表わされているものが、前者においては活動との関連で言い表わされているのである。
さらにいえば、分業と同時に、個々の個人ないし個々の家族の利害と、交通し合っている諸個人全員の共同的利害との矛盾が存在するようになっている。しかも、この共同的利害というのは、何かしら単に表象の内に『普遍的なもの』としてあるのではなく、
★
まずは現実の内に、労働を分掌している諸個人の相互依存性として実存するのである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.64-66.
Ⓐの叙述の途中の★の箇所から、右欄外に、本文と同じエンゲルスの筆跡で、長文の「書込み」が行なわれる(Ⓑ)。Ⓑに続いて、そのまま欄外に、マルクスの筆跡で書き込みⒸが行なわれる。
そのあと、エンゲルスの筆跡で本文が書き継がれる(Ⓓ↓)。Ⓓは、その内容からして、マルクスの欄外書き込みⒸを受けて、その影響のもとに、ⒶⒷとはやや異なる趣意で展開されている。したがって、エンゲルスによる本文執筆は、Ⓓの前でいったん中断し、欄外書き込みのあとで再開されたことがわかる。
「Ⓓそして最後に、分業は次のことについて最初の例を、早速われわれに提供してくれる。すなわち、〔…〕特殊な利害と共通の利害との分裂が実存する限り、したがって労働活動が自由意志的にではなく自然発生的に分掌されている限り、人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を支配する圧服する、ということである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.66.
「分業」による「所有」の発展と利害の分化に関する歴史叙述は、Ⓓでいったん終り(まだ原始時代から出発したばかりだが)、そのあとには、有名な「朝は狩りをし、午後は漁をし、……」の“超牧歌的ユートピア”で締めくくられる・“分業労働からの解放”の叙述が続く。“超牧歌的ユートピア”で {8}b=[17] が終っている。
さて、欄外書込みは、次のようになっている。まず、エンゲルスの欄外書込みⒷは、「特殊的利害と共同的利害」の分離という本文の叙述にコメントする形で、「共同的利害」から国家が発生することを述べる。というのは、「共同的利害」は、現実の「全体的利害」とも「個別的利害」とも異なる・自立的な姿を取らざるをえないからである。この意味で、「共同的利害」(戦士団・都市国家や専制王権をイメージしよう)は、人びとの現実的・日常的意識やその総和から直ちに出てくる「個別的利害」「全体的利害」とは異なる・「自立的」な意識形態であった↓。
また、このようなⒷの内容から、なぜここで本文の執筆が中断されて欄外に長々と書込みをしたのかも、なんとなくわかってくる。本文の叙述はまだ原始時代なのに、理論的な意想の展開に促されて、欄外では、もう国家が登場して、議論の中心になってしまっているのだ。
「Ⓑまさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として形成される、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる。
そして同時に幻想的な共同性として
とはいっても、〔…〕各々の家族集団や部族集団のうちに現前する、肉と血、言語、かなり大規模な分業やその他の利害といった紐帯、そしてとりわけ、〔…〕すでに分業によって条件づけられている諸階級――同じ種類の人間集団ごとに分かれ、そのうちの一階級が他の全階級を支配する――という実在的な土台の上でのことである。
ここから次のような結論が出てくる。民主政・貴族政・君主政の間の闘争、選挙権のための闘争、等々、国家の内部における一切の闘争は、さまざまな階級間の現実的な闘争がそういう形態をとって行われるところの、幻想的な諸形態にすぎない。
そもそも、普遍的なものというのは、共同的なものの幻想的形態なのだ
〔…〕そしてさらに、〔他の諸階級に対する〕支配権を目指すどの階級も――プロレタリアートの場合〔…〕でさえ――まずもって政治権力〔国家の〕を奪取しなければならない。自分たちの利害を今度は普遍的なものとして示す〔…〕ためである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.66-68.
Ⓑの結論として、「支配権を目指すどの階級も――プロレタリアートの場合……でさえ――まずもって政治権力を奪取しなければならない。自分たちの利害を今度は普遍的なものとして示すためである」とエンゲルスは書く(まだ挫折したことのない過激派熱血児!)。これを、快刀乱麻・一刀全断的に言ってしまえば、“国家は階級支配の道具だ。支配は、するか、されるかだ。ブルジョワだろうとプロレタリアだろうと、国家権力を握らなければ、支配することはできない”ということになる。しかし、そういう言い方はしていないことに注意したい。道具だから握れ、というのではなく、「自分たちの利害を……普遍的なものとして示す」――人びとに信じさせる――ためには、国家をわがものとする必要がある‥‥というのだ。
(つまり、ブルジョアジーが、その共同利害〔階級利害〕を「普遍化」するためには、市民革命によって権力を握ることが必要になった、というのだ。ここには、“生産力の発展にとって桎梏となった旧制度を打ち破るために市民革命が起こった”、という説明とは異なる・市民革命の歴史的性格の理解がある。)
国家が国家たるためには――諸個人を支配し、統合するためには――「普遍性」が重要なモメントであることが示された。そこから、「共同的利害」――国家が体現する利害――の「幻想的」性格までは、あと一歩と思われるが、エンゲルスはそこに言い及んではいない。
「そして同時に幻想的な共同性として」と「そもそも、普遍的なものというのは、共同的なものの幻想的形態なのだ」は、この欄外書込みⒷに対して、さらに行文外の書込みとして、なされている。マルクスの書込みⒸ↓を受けて、エンゲルスが自分の書込みⒷを補ったものと思われ、ここで、エンゲルスの筆跡では初めて、「幻想的共同性」としての国家‥という規定が現われる。
Ⓑのあとに続けて、マルクスの筆跡でⒸの書込みが行なわれる:
「Ⓒ◆まさしく諸個人がもっぱら彼らの特殊的な――〔…〕自分たちの共同的利害とは一致しない利害を、追及するからこそ、――このもの〔特殊的利害――ギトン註〕は彼らにとって『疎遠な』、彼らから『独立な』もの〔宗教、哲学等〕として、二重にも特殊的で、かつ独特の『普遍』利害として、まかり通ることになる◇。あるいは、民主政の場合のように、彼ら自身がこの〔特殊と普遍の〕二極分裂の中で動かざるをえないことになる。それゆえ、他面では、共同的利害および幻想的な共同的利害〔=国家〕に対立して〔…〕現われる、これら特殊利害の実践的闘争もまた、国家という幻想的な『普遍』利害による実践的な調停と制御を必要とすることになる。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.68-71.
◆……◇:この1文は、河出版の原文を参照して改訳した。
マルクスの書込みは、これまでのエンゲルスの行論とはやや異質な角度から問題を捉え、よりミクロな部分に洞察を向けており、また晦渋である。その言わんとする趣旨は、諸個人の「共同利害」たる「国家」を見るだけでなく、その内部にも目を向けよ、ということにあるようだ。都市国家の内部では、さまざまな派閥の争いが絶えなかったし、東洋的な専制王朝の内部でも、そうであったろう。それらの派閥は、個人(一家族)の「特殊的利害」と言って済むような単純なものでは必ずしもなかったし、国家の枠を超えた勢力である場合もあったであろう。例えば、ギリシャ・諸ポリス内部のマケドニア派。それらは、「特殊的利害」でありながら、「独特の『普遍的利害』」として「まかり通っている gelten」。それゆえに、「国家」という「自立」化した「共同利害」に拮抗するだけの自立性、普遍性を、人びとの意識に対して及ぼすことができるのだ。
その場合、「国家」は、成員諸個人がバラバラに分裂してしまうのを防ぐためには、もろもろの派閥――“普遍性を主張する特殊利害”――のあいだで「調停と制御」を行なわねばならない。「調停と制御」は、アテネのような民主政の場合には、公開的なルールに則って行われ、貴族共和制ならば、閥族間の力関係と闘争によることになるだろう。専制王朝ならば、王の気まぐれで決せられることもあろう(気まぐれは、籤と同様に人智を超えているゆえに、調停として機能しうる。気まぐれが気まぐれであるためには、ふだんは現実的な権力を持たない神権的な王が望ましいかもしれない)。
民主政、専制王政、いずれにおいても、「国家」が調停機能を発揮できるのは、「国家」が「幻想的」な「普遍的利害」として人びとの意識を支配しているからこそである。(本文Ⓐで述べられていたような・諸個人の現実的相互依存性に基づく「共同利害」である、というだけでは、それぞれが「普遍」化した「特殊利害」のあいだで調停を行なうには不足がある、ということであろう)
さて、以上の書込みを受けて、エンゲルスは本文の執筆を再開する(Ⓓ)。そこでは、「共同的利害」が「国家」として「自立化」する・「物象化」の機序が述べられる。「幻想の共同体としての国家」というマルクスの指摘を、エンゲルスは、「物象化論」によって受け止めたのである。
ところで、以上のⒶⒷⒸⒹを通じて、「国家」が、支配階級の利害に従属して被支配階級を抑圧するという機能は、少なくとも表面上は語られていないことに注意しよう。
以上でテクスト成立の機序をひととおり追ったので、ここで最初に戻って、内容を見てゆくと、Ⓐの本文に続けて初め書かれた書込みⒷでは、現実の個別利害とも全体利害とも離れて「国家として自立的な姿態をとる」「共同的利害」は、とはいえ(まったく)幻想的な観念なわけではなく、
「『常に実在的な土台、つまり、……肉と血、言語、かなり大規模な分業やその他の利害といった紐帯のうえに、そしてとりわけ、すでに分業によって条件づけられている諸階級』といった実在的な土台のうえに、共同的利害が国家という自立的な姿態をとるのである云々。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,p.344.
つまり、エンゲルスのもとの文では、諸個人の間の現実的な活動の「相互依存性」から、共同的利害が「国家」という姿をとって現れてくるという「実在的」な面が重視されているわけで、
Ⓑのあとにマルクスの書込みⒸが行なわれ、それを受けて「幻想的共同性」「共同的なものの幻想的形態」というエンゲルスの挿入2件がⒷに対して行われて初めて、「幻想的共同体としての国家」という新しい内容が成立している。
「エンゲルスが当初書き下ろした文脈〔Ⓐ〕では、社会的分業体制が確立しているところでは、個々人ないし個々の家族の特殊的利害と、社会成員全体の共同的利害との矛盾が存在するようになっているということ、〔…〕この『共同利害』というのは決して単なる主観的幻影ではないと、〔…〕『労働を分掌している諸個人の相互的依属性として実存する』のだということ、このかぎりで〔…〕単なる幻影ではないことを説く〔…〕
欄外書込みの最初の形〔Ⓑ〕においても、〔…〕国家となって自立的な姿態をとる共同利害は、あくまで、実在的な土台に根差しているということの指摘にアクセントがおかれております。
ここで多くの方々は、ヘーゲルの悟性国家論を連想されるでありましょう。特殊的利害と共同的利害との矛盾という論点にせよ、"普遍的なもの"云々という論点にせよ、たしかにヘーゲルの悟性国家論と深い関係があります。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,p.349.
ヘーゲルによれば、「市民社会〔…〕においては〔…〕各人はバラバラなアトムとして相互に対立し合い、万人の万人に対する戦いが現出する。〔…〕
市民社会の成員としては『諸個人はおのれ自身の利益を目的とする私的人格』である」が、「各人が各々の利己的な目的を実現しようと図ることにおいて、いわば期せずして『全面的な相互依存の体系』が形成される。〔…〕
ヘーゲルのいう市民社会は、単なる経済の王国ではなく、司法活動や内務行政を含む『悟性国家』である。」
廣松渉『マルクス主義の理路』,原1974,改装版,2009,勁草書房,pp.165-166.
「エンゲルスとしては、国家が体現すると称される"普遍"なるものは、分業的相互依属に基づく共同的利害という実在的な土台に根差すという面をさしあたり論じているのに対して、マルクスは、謂うところの『共同的利害』なるもの、ひいては“普遍なるもの”が実際には幻想的であるという面にアクセントを置いている。」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,pp.350-353.
{8}b=[17] については、以上。他の部分を見ていこう。
第二の規定「市民社会の総括としての国家」については、{91}c=[70] に、
「国家とは、……一時代の市民社会全体がそういう形で自己を総括する形式である」
という有名な言表がある。前後を含めて引用すると:
「国家とは、支配階級の諸個人がそういう形で彼らの共通の利害を押し通す、そして一時代の市民社会全体がそういう形で自己を総括する形式であるから、共通の諸制度はすべて国家によって媒介され、政治的な形式をもたされることになる。ここから、法律があたかも意志に、しかもその実在的な土台から引き剥がされた自由意志に、基づくものであるかのような幻想が生じる。そうなれば今度は、法〔=権利〕das Recht も同様に、法律に還元される。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.203-204.
となっていて、その「総括の形式」を通じて貫徹されるのは、「支配階級の諸個人」の「共通の利害」にほかならないことも述べられている。また、そこで駆使される法的論理も、「権利」も、政治的諸形式も、すべて一種の「幻想」として、「実在的な土台から引き剥がされ」て「自立」している。
{88}c=[58] には、
「これに対してプロレタリアたちは、人格的にひとかどの者として認められるためには、彼ら自身のこれまでの生存条件――これは同時にこれまでの社会全体の生存条件でもある――を、つまり労働を、廃止しなければならない。したがって、プロレタリアたちは、社会の諸個人がこれまで自分たちの連〔関〕全体的表現としてきた形態、すなわち国家に対してもまた、直接対立する立場に立っているのであり、彼らの人格的在り方を全うするためには、国家を打倒しなければならない。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.180.
というクダリがあり、抹消部分および後からの挿入部分を除くと、
「社会がこれまで自分の全体的表現としてきた in der die Individuen der Gesellschaft sich bisher einen Gesamtausdruck gaben 形態、すなわち国家」
となる。つまり、ブルジョワ社会は、「国家」において、その全体的表現が与えられる。しかし、その「全体的表現」は、被支配者にとっては欺瞞的な不当な像であり、たかだか幻影にすぎない。
{10}b=[24] の抹消部分には、
「この歴史観は、それゆえ次のことに基づいている。すなわち、現実的な生産過程を、それも直接的な生〔せい〕の物質的な生産から出発して、展開すること、そしてこの生産様式と連関しながらこれによって創出された交通形態を、したがって市民社会を、そのさまざまな段階において、およびそれの実践的−観念論的な鏡像、つまり国家において全歴史の基礎として把捉すること、」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.86-87.
とある。最後の部分は、抹消部分を復元すると、
「市民社会を、そのさまざまな段階において、およびそれの実践的−観念論的な鏡像、つまり国家において、全歴史の基礎として把捉すること」
となる。つまり、歴史上のさまざまな段階の「市民社会」が、その実際上の姿、すなわち観念論的(イデオローギッシュ)な「鏡像」である「国家」の姿において、捉えられなければならない。
{91}a=[68] には、
「市民社会は、対外的には国民的なものとして自己を押し出し、対内的には国家として自己を編制せざるをえない」
という叙述がある。「国家」は、市民社会が対内的に「自己を編制」した姿だ、というのだ。
「支配階級に属する諸個人の共同体としての国家」という・第三の規定は、多くの箇所で、古代国家、中世国家、近代国家についてそれぞれ述べられている。それらの共通項は、被支配階級に対抗する必要上、共同体を作って結束するという点にある。
たとえば、古代国家(都市国家)では、公民(自由人)は、奴隷たちに対する「威力を保有する」ために、「共同体所有という形式に繋縛されている」({3}c)。つまり、彼らは「ポリス的動物」であって、ポリスを離れれば(たとえば、追放されれば)彼らの私有財産所有は成り立たなくなる。
中世国家における「支配階級の共同体」は、「土地占有のヒエラルヒー的編制ならびにこれと連関する武装従士制」で、これが「農奴を支配する威力を貴族に与えた。」({3}d)
近代国家では、ブルジョアジーは「もはや地方的にではなく国民的に自己を組織することを余儀なくされ」「私的所有の共同体からの解放によって、国家は市民社会と並んでかつその外部にある特別な一実存となった。しかし、国家は、ブルジョアたちが……彼らの所有ならびに利害の相互的な保証のために身をゆだねる組織の形式以上のなにものでもない。」({91}b=[69])
総じて言えば、
「ある階級の諸個人が入り込んだ、そして第三者に対する彼らの共同的利害に条件づけられていた共同社会的な関係は、いつでも、これらの諸個人がただ平均的な諸個人としてのみ、しかも彼らがただ自己の階級の生存諸条件のなかで生きていた限りでのみ所属した共同社会でしかなく、彼らが諸個人としてではなしに階級の一員として参入した一関係であった。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,,p.181.
つまり、「国家」は支配階級の共同体であるからといって、支配階級の個人は、個性ある一箇の人格として、まるごとそこに所属できるわけではなく、あくまでも「階級の一員として参入」できるだけである。そこでは、「人格的個人」と「偶然的個人」の「乖離」が生じている。
「人格的個人と偶然的個人との乖離は、概念上の区別などではなく歴史上の一事実である。この区別は、時代を異にするごとに異なった意味をもつ。
例えば身分は、18世紀には、個人にとって何かしら偶然的なものであり、家族も多かれ少なかれそうであった。〔…〕
後の時代にとって前の時代とは逆に偶然的と見えるもの、したがってまた、前の時代から後の時代へ引き継がれた諸要素のうちで偶然的と見えるものでも、それは、かつての生産諸力の一定の発展に照応していた交通形態である。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.184.
「従来の見かけ上の共同社会の代用物――国家その他――においては、人格的自由は、支配階級の諸関係の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。これまで諸個人がそこへと結合した見かけ上の共同社会〔国家など――ギトン註〕は、常に諸個人に対して自立化した。同時にまたそれは一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会であったばかりか、新たな桎梏でもあった。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.175.
こうして、「支配階級の諸個人の共同体=国家」という第三の規定は、「幻想的共同体=国家」という第一の規定と結ぶことになる。
「すなわち、ここでは、支配階級に属する諸個人の利益共同体、これへと社会成員の全体が結合するということ、このかぎりで、被支配階級に属する者にとっては、当の共同体は見かけ上の共同社会、ないし共同社会の代用物にすぎないということ、このことから幻想共同体としての国家という規定が導かれている」
『廣松渉著作集』,1997,岩波書店,第11巻,「唯物史観と国家論」,p.354.
「第四の規定である『支配階級の機関としての国家』という条項は『ドイツ・イデオロギー』では言葉通りには出てまいりません。〔…〕
この規定が相当に明瞭な形で出てくるのは、第三篇の聖マックスの箇所においてであります」
a.a,O.
ばいみ〜 ミ彡
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