08/25の日記

00:19
【ユーラシア】ドゥブー『フーリエのユートピア』(3)

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Gaston Goor    







 こんばんは。(º.-)☆ノ




 【ユーラシア】ドゥブー『フーリエのユートピア』(2)からのつづきです。

 前回に引き続いて、「第1章」の読解を進めます。


 シモーヌ・ドゥブー Simone Debout,今村仁司・監訳『フーリエのユートピア』,1993,平凡社.

 「第1章 約束の地、あるいはシャルル・フーリエによる分析と群論」(pp.37-113)から抄録する。






 【9】 欲望と連携する「数学」、「狂気に導かれる科学」




欲望は理性を通過するが、この奇妙な夢想家
フーリエ――ギトン註〕は、欲望を最も正確な科学、すなわち数学に『連携』させると主張する。数や幾何学図形が、音の限りなく多彩な変化を精確に表すのとまったく同様に、欲望を表わすと言うのだ。音楽、フーリエにとって感覚能力と認識との特異な結合のモデルを与える。音楽は、数的関係を直観的に実践する可能性を与える。」
『フーリエのユートピア』,p.76.



 情念によって構築される未来の「調和世界」と調和的な人間関係、秩序を形成するためには理性の導入が必要だが、理性だけで理想的な人間社会を作ることは不可能である。なぜなら、人間は情念によって生きているのであり、理性の作り上げた整合的な秩序から、つねにはみ出し、秩序を崩壊させてしまうからだ。理性は、欲望を抑えて整形することはできないし、欲望が安んじて収まるような“うつわ”を設計することすらできない。

 しかし、それでも、未来の人間社会を調和的世界とするためには、情念欲望に関わってゆく何らかの手立てを講じなくてはならない。こうしてフーリエが考えたのは、「欲望を……数学に連携させる」ことだった。欲望を数学によって「計算」することができるならば、少なくとも見通しがきくようになり、どこへ向ってゆくかわからない情念の奔流の前で立ち往生しなくてすむし、欲望が「飛躍」してゆく行く先を予想することすらできそうである。

 「欲望を……数学に連携させる」と言っても、フーリエがここで考えている「数学」は、19世紀はじめに実際にあったような算術や方程式や微積分ではない。フーリエは、「群論」「加群」という、当時新たに登場した斬新な形の数学を引き合いに出している。彼が実例を出せるのはそこまでだったが、おそらく“将来”においては、もっと高度な、想像を絶するような「数学」――知のしくみが考え出されて、「欲望」や「情念」の法則を表現することができるようになる。……フーリエは、そう考えたのだろう:



「計算方法をどこに見出せばよいのか。まさしく『情念のメカニズムにである。代数が模倣しなければならないのは、まさにその
情念の――ギトン註〕方法であり、新しい道のもろもろの標識にほかならない』。情念は、有限の規則に従わせられることはない。〔…〕数学者たちは、魂全体の理論においていまだ知られていない諸方法を発見するだろう。そして、この直観の価値を証明するためにフーリエは、情念系列について語る際に、数学の新しい方法の用語を借用する――『加群(モデュール)』と『群論』。」
『フーリエのユートピア』,p.77.






  






 しかし、理性に主要な役割を与えることはできない。『理性が導き手となることはできない。』とフーリエは書いている↓。ケプラーが『宇宙の調和』〔『世界の和声』とも訳せる〕で明らかにした、感覚(音感)による方法を実践する。まず、和音を耳で聞いて、『聴覚的本能に協和するものは何かを問い』、次に、協和音と不協和音を分ける原因を、音を出すのに使われた数(管や鉉の長さの比など)のなかに求めるのだ。つまり、探究の発端は、「本能」によって、感覚によってなされなければならない。そのあとは、理性が「本能」の判断を引き継いで、和合を増大させるような「規則的構造」を作り上げてゆくことができる。しかし、「究極の審判者」は感覚能力である。すなわち、「感覚能力は、始めと終りに働く。」「導き手」となるのは感覚能力なのだ。

 「数学」と理性は、「最初の、感覚による要求」に適応した方法――「群論」よりもさらに高度な新しい「数学」――を見出すことによって、はじめて、「欲望」「情念」と『連携』して、「調和社会」の設計に参加することができる。



「フーリエはこう書いている。『引力の向かう社会的計画を計算し、決定するために、たとえあなたが理性に助けを求めるにせよ……理性はその導き手となることはできないだろう。理性は媒介者でしかないのだから……』。理性は自らに由来しない
〔したがって、感覚能力によってしか捉えられない――ギトン註〕力を推し量り、秩序づけるが、たとえ理性がそれによって、和合を保証し増大させるべき・規則的構造を発明することができるとしても、理性は媒介者にすぎない。感覚能力は、始めと終りに働く。感覚能力は導き手であり、究極的審判者である。

 したがって、フーリエがすべてを数学と連携させようとするのは、最初の、感覚による要求に適応しうる新しい方法や道
〔が、数学のさらなる発達によって発見されるだろうと――ギトン註〕を想像するからである。」
『フーリエのユートピア』,pp.76-77.




「実際フーリエは、マルクスと同様、物理的自然のように人間の現実を包摂し、非常にたしかな確率でもってその現実に対して働きかけることを可能にするような唯一の科学的鎖を想像する。だが、人間の本性が飽くことなき欲望の戯れであり、社会におけるわれわれの運動が他のすべての運動を指揮するのであれば、それらの運動を一定の規則に従わせるなどということは問題になりえない」

『フーリエのユートピア』,pp.77-78.



 まして、マルクスが考えたような、文化や人々の思想が、物質的生産と交換の構造によって決定されるなどという想像は、フーリエにとってはまったく論外である。



 文明の隘路にはまって窒息した状態から
「取り戻したいと望むもろもろの複雑な対象に見合った未曽有の『計算』を発見しなければならない。そして、われわれの埋もれていた欲望と知られざる計算方法は同時に白日の下にさらされる。生の飛躍と方法の調整は、そのダイナミズムのなかに自ら法を運び去るような唯一の研究を構成するのである。

 フーリエにおいて鍵になるのは、マルクスの場合とは違って、
〔…〕集団=群の感情的生に関する知識なのである。」
『フーリエのユートピア』,p.78.



 「われわれの埋もれていた欲望と知られざる計算方法は同時に白日の下にさらされる。生の飛躍と方法の調整は」同じ一つの活動によって遂行される。―――つまり、あらかじめ“科学”的方法で未来社会の設計図を描いて、あとはその設計図に忠実にしたがって未来社会を建設する、などということ――20世紀の「社会主義」国が目論んで失敗したこと――は不可能である。人びとを、そして社会を動かしているのは、理性でも規則でもなく、たえず野放図に飛躍する「情念」だからである。“情念の数学”は、「調和社会」をめざす運動が進展し、「埋もれていた欲望」が明るみに出てくるにしたがって、徐々に発見されてゆくのだ。未来社会への「生の飛躍」と、そこへ導いてゆくことのできる「方法」の発見・「調整」は、同時に進行するのであり、同じ一つのことがらの両面であると言ってもよいのだ。






 






 【10】「産業発展」とフーリエ



 しかし、マルクスに劣らず、フーリエもまた、「経済」発展の重要性に着目していた。「調和社会」を建設するためには、社会の物質的豊かさは不可欠の条件なのである。そこで、フーリエは、まず、『家庭的・産業的経済の慣習』に働きかけて、それらを改善することに努める。「情念新しい絆」を創ってゆくのは、そのあとで、物質的に豊かになり、合理的に改善された「経済」的条件のもとではじめて可能になることである。「情念」は、『徐々に時間と』ともに、産業経済の『風習』の革新『に比例して革新されてゆくであろう』。


 したがって、この点だけを見ると、
「経済の変革は、マルクスの場合と同様に、社会的存在の進化を導くように見える。しかし、物質的関係の科学や、家庭的農業的共同社会だけでは、〔「調和社会」を建設するには――ギトン註〕十分でない。事実この科学は、生産する人間」を忘れて、「生産にばかり眼を向けている。『〔…〕諸君の科学が、赤貧と分裂を永続させるのにしか役立たないことがはっきりした以上、むしろ狂気により導かれる科学のほうがましだ。なぜなら、それは怒りを鎮め、人々の貧困を緩和してくれるからだ』とフーリエは述べるのである。」
『フーリエのユートピア』,pp.78-79.



 「狂気により導かれる科学」とは何か? はっきり書かれていないが、‥産業革命の当時には、誰もが称揚していた産業発展に資する科学技術に対して、それよりも、人びとにもたらされる「情念」の快・不快、和合とやすらぎ、人びとを躍動させるエネルギー――といったものを重視する“科学”なのだろう。



「フーリエにとって大切なのは狂気に憑かれた科学であり、狂気に憑かれた病者の側からの分析にほかならない。彼は、産業の第一段階において新しい経済の秩序を夢想するとき、断固として世の流れに逆らう。おぞましい産業的労働すべてに情熱を吹き込むことはできない以上、彼はその規模を縮小する。すべてが過剰にある調和社会においては『桜桃、梨、白や黄色の薔薇を作っている人々の通り道』や、魅力的労働、庭や工場での絶え間ない祭りを準備するために『マッチを節約することになろう』。」

『フーリエのユートピア』,p.79.



 『マッチ』は、当時のヨーロッパでは、文明の利器の最たるものだったろう。(ちなみに、当事普及したのは、現在の安全マッチではなく、黄燐マッチだった。ファーブルの『化学のふしぎ』に書いてある)。しかし、フーリエは、マッチの生産を節約して多少不便になってでも、園芸のような・自然にふれあう労働を増やし、工場労働の苛酷さを緩和する祝祭的要素を導入するなどして、「産業」発展にともなう「労働の疎外」を緩和しようとする。そして、「産業」全体の規模は、可能な限り縮小しようとするのだ。



「フーリエは、
〔…〕いつの時代にも人間を支配してきた基本的構造、〔…〕それにより人間があらゆる可能性を実現させるであろう基本的構造を再創造することを想像する。

 それによってまさにフーリエは、革命的計画の基礎に横たわり、
〔ギトン註――フーリエ自身の〕『科学的社会主義』のなかに暗黙のうちにあるものを明らかにする。それは、すなわち理性を超える飛躍であり、跳躍を決定し、征服のための持続的努力を駆り立てるエネルギーなのである。

 情念はあらゆるところで指導的役割を演じている。」

a.a.O.







〔上〕「愛のカドリーユ」? --- McKenzie Wark @VERSO BOOKS Blog 26-2-2015
〔下〕「クイアの解放を。レインボー資本主義でなく」/ダブリン・ゲイプライド 2013






 【11】「狂宴」の和声学、「奇癖」から「愛の結集」へ



 前々回【3】、前回【7】で、フーリエは、「奇癖」「逸脱」「例外」的存在を称揚し、それらは「調和社会」建設の鍵になると看破していた。しかし、それはあくまでも、建設のための基礎、「ボルト」「継ぎ目」としてであって、「調和社会」の理想的構想が現実化していけば、「例外」はもはや「例外」ではなくなる。「奇癖」が「奇癖」のままで、「調和社会」の中心になるわけではなく、「奇癖」は「狂宴
〔オルギー〕」による「愛の結集」へと道を譲るのだ。なぜなら、「奇癖」「奇行」はその本性上、他者を排除して営まれる個人的快楽であり、社会の調和的和合とは相反するものだからだ。

 (もちろん、それだからといって、「調和社会」では「奇癖」「奇行」が禁止されるわけではない。「奇癖」の一部――同性愛同性愛者嗜好――は「愛の結集」の一部となって、もはや「奇癖」とは見なされなくなるだろう。他の一部――暴力的サディズムなどの、文明社会に抑圧されて生じた偏倚――は、社会的抑圧の解消とともに自然に消えてしまうか、穏やかで非強制的な“治療”の対象となるだろう。それでもなお、どちらの道もたどらずに存続する個人的「奇癖」は、どんな理想的社会にも存在し、社会の躍動的エネルギーとダイナミズムの源泉でありつづけるだろう)。



〔ギトン註――「調和社会」では〕オペラは欠くことのできない礼拝の場なのだ。〔…〕かくして、4人のパーティや 6人のパーティよりも『カドリーユ』が好まれる。単純な肉体的なものから『複合的なもの』への移行が可能になるからである。フーリエは、単純なものとしては男女を問わず 32人の参加者からなる、複合的なものとしては男女を問わず 64人の参加者からなる平均的カドリーユの例を挙げている。参加者の各々は他の 31人と相次いで交わるのであるが、それは『文明人の狂宴の混乱したやり方でなされるのではない。参加者たちのそれぞれを際立たせるための方法が採られるのである』。〔…〕フーリエによれば『このような結合はシンフォニーによく似ている。そこではまず、一つのモティーフがすべての楽器のあいだで受け渡される。次に、それぞれの個性が掛け合いのモティーフとなるだろう。

 
〔…〕カドリーユまたは愛のオーケストラによって、あるいはオペラにおいて『人々は、自分の享楽の一部を全体の調和のために犠牲にする』。フーリエは言う。饗宴においては人々はがつがつ食ってばかりではない。同様に、『合奏中の音楽家は演奏を休止しなければならない……そして彼は、自分の部屋で一人で演奏している場合よりもずっと多くの快感を得る。』。

 『この種の快楽は統一情念による快楽であり、快楽を飛躍させる過程でそれを抑えたり制御したりしながら快楽の強度を2倍にするという特徴がある。この種の楽しみは文明人には理解できないものである。彼らの憎悪や嫉妬は、この種の幻想にはまったく不向きであろうからである』。
〔…〕

 差異が維持され洗練されていくにもかかわらず、狂宴奇癖とは正反対のものである。『無限大のの絆とは、メンバーのあいだでの一般的混合状態を作り上げる狂宴の絆であり、無限小のの絆とは、性愛奇癖による絆、各人がや他の一切の情念によってその癖をつける習慣や奇行による絆である。

 奇癖は人々を極端な特殊性、例外性へと至らせる。これに対して、狂宴とは、原初の混沌状態への、フーリエの言うところの『混合状態』へのニュアンスをもった逆戻り、始原への回帰にも似た原始の時代の未分化状態への逆戻りである。しかし、まさにそれゆえに狂宴は『自然の欲求』であり、個人が生の熱狂へと身を任せ、原始の
〔…〕黄金時代を現在のなかに再発見するための手段である。この黄金時代には、〔…〕調和が支配していた。この幸福な瞬間はやがて衰退せねばならなかった。なぜなら、原始の人間たちは産業も、増大する人口の欲求をみたす手段ももたなかったからである。世界に対するこれまでとは異なった関係である闘争と不幸とが、新たな情況とともに出現した。」
『フーリエのユートピア』,pp.94-95.




 「統一情念による快楽」――「12のパッション」すべてにわたる「全感覚愛 omnigyne」を前回【7】で抄録したが、「愛のカドリーユ」の指導理念「統一情念による快楽」も、同じ趣向のものだろう。






 
クイア――“男/女/白/黒”を超えて  






 4組のカップルがパートナーを入れ替えながら踊るダンス「カドリーユ」については、↓下のウィキで。また、ユーチューブで、実際の演奏とダンスを視聴してイメージを得るのがよい。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A6

W. H. Basley's GALOPADE QUADRILLE (https://www.youtube.com/watch?v=_BuM_xPWYSw)


 「カドリーユ」には、先導的役割をするカップルがいて、彼らがして見せる踊りの一区切りに倣って、他の3カップルも踊る。しかも、パートナーはそのたびに交替するから、さまざまな個性の組み合わせが次々に先導してゆくことになる。リーダーの役割そのものが固定したものでなく、メンバーに拡散してゆくように見える。

 最初の4カップルの組で盛り上がった躍動を、他の4カップルの組が模倣してゆき、シンフォニーにおける・オーケストラの楽器パートの掛け合いのような、アンサンブルの楽しさが盛り上がってゆく。

 「愛のカドリーユ」が、32人、64人で行われるのは、2×4×4、また 2×4×4×2 ということではないか?

 本来の「カドリーユ」は単なるダンスだが、「愛のカドリーユ」は、相手を取り替えながら性行為を、あるいはダンスとともに性行為をするのだろう。ただ、フーリエの構想では、性交(膣ないし肛門)が中心ではないかもしれない。↓このすぐあとの引用でも、「口唇期」の幸福を称揚している。

 また、↑上のユーチューブ映像を見ていると、「カドリーユ」の過熱したクライマックスでは、単なるパートナーの順次交換を超えて、「4カップル」が一体となった集合舞踏になっていくように見える。

 同様に、「愛のカドリーユ」でも、“8人の集合性交”の状態が現出するだろう。しかもそれは、『文明人の狂宴の混乱したやり方でなされるのではな』く、一定の様式を保って披露され、休止してそれを鑑賞している・他の3つ、ないし7つの“8人組”にもその感興が伝わって、“集合性交”の状態が広がってゆき、またもとの2人ずつの交換の秩序に収まってゆくのだろう。これが、フーリエの言う「一般的混合状態」なのではないか?

 こうして、「触覚(性行為)」「視覚(他の人々のプレイを鑑賞する)」「聴覚(伴奏の音楽)」など、あらゆる「12のパッション」にわたる「全感覚」の快楽が実現する。



狂宴は、人類の幸福だった口唇期にあたる。狂宴によってその神話は永遠のものとなり、ありのままの自然と、万物を現実に支えている深層の諸力の凝集力とに触れることができるようになる。

 一切の強制が廃され、個人は自由に欲望を働かせて快楽のままに他の欲望と結びつき、自己や他者との隔たりから救出される。狂宴は、文明人のの卑小さを教えてくれる。狂宴は、自己贈与による奇妙な陶酔を作り上げる。調和し協和した愛の結集によって、調和社会人を高揚させて統一情念の快楽を味わわせ、利益計算や死への恐怖を超え出たものすべてを発展させるのだとフーリエは主張する。飽くことなく、また満たされることのない情念全面的和合へと移行する。この和合は、『お互いに面識がなく噂を聞いたこともない人々のあいだにさえ、寛大さに溢れた愛情共同の献身を誕生させる……文明社会ではこの種の絆はきわめて稀である。それは偶然にそして散発的にしか現れない。」

『フーリエのユートピア』,pp.95-96.




「『愛の結集』を実現するあらゆる能力の基礎にあるのは、性欲によって各人が自らの限界を超出しうるということである。この特権的な快楽には他人の存在が不可欠であり、それにより高次の和合が徐々に形成されていく。この快楽によって、幸福な混合状態にあった一時期とのつながりを回復し、世界の幼年期を再発見し超え出ることができる。それは、肉体の快楽が、外部と主体との間に信頼関係を打ち立てる能力をもつからである。」

『フーリエのユートピア』,p.97.













「正しい飛躍を遂げた性欲とは、他者を実在するありのままに、そして肉体そのものにおいて承認することである。
〔…〕人は、自らを肉体にして他者の肉体に達する。しかし、この運動のなかにサルトルは、ある倒錯した意図を見る。つまり人が他人を魅了しようと努めるのは、その他人をよりよく支配するため、所有するためである〔と、サルトルは、フーリエの観点から見れば誤った言説を振りまく――ギトン註〕〔…〕欲望とは根本的に倒錯したもの、他の主体を罠にかけてとらえようとする意識の隠微な策略なのだろうか。〔もちろん、そんなことはないのだが。――ギトン註〕
『フーリエのユートピア』,p.98.




する者は、される者の肉体を享受するために自分を肉体にする。
〔…〕しかし、まさにこのことにより、人はついに支配することなく他者の肉に到達できるのだ。〔…〕欲望は、意識の冷徹な静けさを揺り動かす。欲望はもはや明瞭なまなざしをもったものではなく、他者と共有された興奮である。二つの肉体は苦しみとより強烈な生とに浸されることにより、一方が支配し他方が抑圧されるということなくお互いを見出す。この錯乱状態によって、他人のなかに生を見出すことができる。欲望がみたされるのは相互性の中でのみである。欲望はそのなかでその極みに、いわゆる小さな死、閃光、肉体への思考の溶解、死のイメージ、もはや個人というもののない世界への溶解のイメージに達するのだ。

 しかし、この小さな死からまさに主体は還帰し、自らの過剰そのものによって苦しみから解放される。
〔…〕快楽によって主体は、自分の肉体や他人の肉体を試練にさらした。主体は物の世界から自分を取り戻す。〔…〕このような諸関係のおかげで、他人の肉体に、自由なかたちで、すなわち支配も隷属もなく到達し、したがって世界の事物、自然に到達することができるようになる。〔…〕

 フーリエによれば、人は感覚を介して自然に参加する。そして人が物に感動するのは、物がわれわれのなかに生きているからである。石や金属でさえ、彫刻家の手にかかると生命を吹き込まれる。それらの性質を生かしながら、彫刻家はみごとな人間的事物を作り上げる。このような・実在のものへの服従と創造とが、や芸術の運動である。一つの存在との、そして一切の存在との最も親密な結合が感覚的苦しみによって作られるとフーリエは言う。性欲は、表向きの目的を超え、芸術作品と結びつく。」

『フーリエのユートピア』,pp.98-99.






 【12】「欲望」から生まれるユートピア




「フーリエの夢は、部分的にではあるが、マルクス主義のなかに合理的な形式をとって見出される。しかし疎外の理論は、フーリエの分析と比べると不完全なままであるし、マルクスの言う『具体的人間』は、自分の情動の力を十分に使いこなしていない。マルクスは、『具体的人間』の具体的イメージを与えるのを慎重に避けている。そして、現実の問題の克服に努力を傾けたために、『具体的人間』は切り詰められ、無視され、脅かされている。社会の抑制なき機構化に抗して、最も持続的で個人的な情念(フーリエの新世界の基軸情念)を覚醒させる感覚的逆ユートピア、たとえばザミャーチンの『われら』のなかで性行動を覚醒させ、R・ブラッドベリの『華氏451度』のなかでや市場を覚醒させる感覚的逆ユートピアは、フーリエの全面的反乱の一部を引き継ぐものである。」

『フーリエのユートピア』,pp.104-105.






 






「諸感覚がいっしょになって構成する力が、自然的・社会的世界の高揚をかき立てることができるのであってみれば、この力は真理の地位を現実性の地位ともども変更することになる。真なるものはもろもろの判断力から生まれるのではなく、欲望の働き、欲望欲望に対する働きから生まれるのである。

 もはやユートピアは無害な夢想ではない。ユートピアは、祝祭や遊戯と同じく、内容に働きかける。
〔…〕ユートピアは、少しでも人がその花や果実を広めるならば、こっそりと繁殖していくのだ。それは都市や芸術のさまざまな象徴と同じ資格で解読されるべきイメージであり、生きられ引き継がれるべき象徴なのである。」
『フーリエのユートピア』,p.356.






【ユーラシア】ドゥブー『フーリエのユートピア』―――終り。   










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カテゴリ: ユーラシア

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