08/11の日記

16:29
【ユーラシア】ドゥブー『フーリエのユートピア』(1)

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Laurent Pelletier, The dreamt Phalanstère of Charles Fourier, 1868. 
ローラン・ペルティエ「シャルル・フーリエの夢想都市ファランステール」(1868年)







 こんばんは。(º.-)☆ノ




 フランスの社会主義者のなかで、マルクスと直接の交流があったのは、プルードンが第一であろう。フーリエ(Francois Marie Charles Fourier,1772-1837)は、マルクスがパリにでてきた 1843年の 6年前に物故していた。

 しかし、フーリエは、思想的系譜としては、フーリエ → チェスコフスキ → モーゼス・ヘス → マルクス と、いわば直系でマルクスにつながっている(⇒:【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(9)【25】)。マルクスフーリエの論著を精読した形跡はないが、『パリ・ノート』には、フーリエ主義者ポンペリ(Eduard de Pompéry)の著書からの詳しい抄録が含まれている(⇒:【ユーラシア】断章――『パリ・ノート』,リービヒ,usw.【2】)。

 もっとも、マルクスが、(フーリエ主義者でなく)フーリエに言及した文章は、『経哲草稿』「第三草稿」「2」の最初に、わずかな言及があるだけである。そこでは「自己疎外の克服」について、プルードン、フーリエ、サン=シモンの主張が、それぞれごくかんたんに述べられている。フーリエは、私有財産と疎外の根源を、「均質化され、細分化された不自由な労働」――工場労働?――のうちに見る。そして「フーリエは重農主義者にふさわしく、農耕労働を少なくともすぐれたものと考える。」と記している。

 サン=シモンが資本主義産業を重視する経済学者であったのと対照的に、フーリエは、農業的共同社会を理想とし、また、経済を超える人間の欲望情念の探求を重視した。



 シモーヌ・ドゥブー Simone Debout,今村仁司・監訳『フーリエのユートピア』,1993,平凡社.

 今回は、「序文 私の代わりに関係の遊戯を」(pp.5-33)から抄録する。






 【1】 フーリエ研究の新局面、フーリエ主義の功罪




「筆者が『愛の新世界』の草稿や他の未公刊の珍しい原稿を見つけだした資料保管所はフーリエの弟子たちの意のままになっていた。長い年月をかけて、彼らはこれらの草稿を書物の形で、あるいは雑誌に発表してきた。しかし『愛の新世界』からはわずかに短い文章だけが抜き出され、しかも書き換えられた――破廉恥なまでに歪められたのである。研究者たちはどうかといえば、彼らもまた草稿の実在を知っていたし、手を加えられた公刊物の価値がどんなものかを承知していた。特にH・ブルガンはフーリエについて長い博士論文を書いた権威であるが、こう記している。『(フーリエの)草稿のかなりの部分は未発表のままである。しかも死後出版は、弟子たちによって、厳密な批判的方法をほとんどもたないで、他方ではかなり教条的な偏見をもって行われたので、それらの公刊物はけっしてテクストの忠実な再現ではなかった。』
〔…〕H・ブルガンは不忠実の二つの理由、厳密でないこととテクストを教義に強制的に合わせることを非難している。〔…〕

 しかしながらフーリエは影響力をもっていた。
〔…〕彼の作品は激しく攻撃されるか、激しく称賛されるかのどちらかであって、冷静に迎えられたのではないし、全体として継承されたのでもない。無名の信奉者たちは彼の作品の断片をやみくもに繰り返す。もっとも有名な弟子たちはどうかといえば、ヴィクトル・コンシデランと彼の理工科学校出の友人たちは、このエクセントリックな思想家のあらゆる方向にはみ出す妄想を見てほとほと当惑した。彼らはフーリエの発明を過小評価し、それを経済思想の一標識として提示しようとしたが、この観点はその後も続くであろう。〔…〕人は、フーリエの仕事の異様さは前世紀の奔放な気質から生まれたと結論づけることができた。ユートピア主義者は社会思想史上に一つの位置を与えられたが、〔…〕彼は既存の規範と後世の理論に沿って評価されたのであって、彼が実際にそうであった通りにも、彼が抵抗した現実に即しても、評価されたのではない。」
『フーリエのユートピア』,pp.21-22,25.



 「H・ブルガン」:

 カール・J・ガーネリ,宇賀博・訳『共同体主義――フーリエ主義とアメリカ』,1989,恒星社厚生閣. 巻末の文献リストに、

 Bourgin, Hubert. Fourier: contribution à l'étude du socialisme français: Paris, Société nouvelle de librairie et d'édition, 1905.

 がある。


https://en.wikipedia.org/wiki/Hubert_Bourgin

 Hubert Bourgin (3 November 1874 in Nevers – 6 February 1955 in Crosne, Essonne) was a teacher, politician (from socialism to right), and French writer.

 He entered the École Normale in 1894, it is first to the aggregation of letters in 1898. He is Doctor of Letters in 1905 with a thesis on Fourier. He has a doctorate in law in 1906 with a thesis on the beef industry in the department of Oise of the nineteenth century.

 It engages very quickly in politics and among the intellectuals who are mobilizing in favor of Captain Dreyfus (Dreyfus Affair) signing (12th on the list) a petition in The Age and The Dawn on 14 January 1898, in which they "protesting against the violation of legal forms and the 1894 trial against the mysteries surrounding the Esterhazy case."[1]

 He teaches second high school in Beauvais 1889–1907, professor at Lycée Voltaire 1907–1911, professor at the Lycée Louis-le-Grand from 1911–1937 where he held his choice of a third chair.

 From 1905 to 1923, the social curiosity of Hubert Bourgin manifested itself in numerous investigations:... This incomplete list shows Bourgin Hubert is one of the most representative social historians in what might be called the three wars between (1870–1914–1939).

 Hubert Bourgin is clearly a socialist and syndicalist doctrinal position: socialism Lucien Herr and Jean Jaures. He is a member of the Socialist Party.







Károly Ferenczy






 「ヴィクトル・コンシデラン Victor Considerant」1808-1893, フランスの社会主義者。

「ヴィクトル・コンシデラン (1808-1893)はフーリエ主義者の領袖として知られる人物である。1826年の秋にかれはパリの理工科学校に入学した。そこで数学と工学,さらに化学と物理学を習得するかたわら,社会状況への不満を感じつつフーリエの『四運動の理論』(1808)と『農業組合概論』を耽読した。この学生時代にコンシデランはフーリエに何度も会うことができたらしい。

 コンシデランは1828年に理工科学校を卒業してすぐに工兵隊に中尉として入隊したが、フーリエ派の新聞創刊の誘いに応じて 1832年に退役し,フーリエ主義の宣伝活動に身を投じたのであった。

 コンシデランは1833年の春からその主著『社会的運命』の執筆をすすめ, 1834年にその第1巻が,1838年に第2巻,1844年に第3巻が公刊された。この著作の目的は,第1巻の冒頭にコンシデランが記しているように,フーリエ思想の明快な説明を与えることであった。第1巻はフーリエの社会批判,歴史分析,そしてあるべき社会の概観つまり組合ファランジュの全般的な説明にあてられている。第2巻ではファランジュの生産活動つまり労働の組織論と生産物の分配のあり方が詳説される。第 3巻ではファランジュにおける教育論が展開されている。ちなみにこの第 1巻はその後のフーリエ派のバイブルとされ,これによってコンシデランはフーリエ派の第一人者と見なされるにいたった」(大塚昇三「ヴィクトル・コンシデランの分配論:『社会的運命』(1834-1838)を中心に」, in:北海道大学『經濟學研究』, 41(4), 69-82, 1992年3月(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31899/1/41%284%29_P69-82.pdf)






 【2】 フーリエ思想の概観―――「変革」か?「治療」か?



「社会主義の考古学者
フーリエ――訳者註〕は、〔…〕記憶を超え出て、太古以来の夢想と別の歴史を孕む現在へと前進する。彼は、『情念引力』の空間のなかに、『金儲け主義の徒刑場の奴隷たち』、いたるところで労働という十字架に釘づけられた賃金労働者たちが、自分たちが創出した美的感覚に忠実な、疲れを知らぬ恋人たちに変身するのを見る。

 賤民もいなければ、垢抜けたエリートもいない。ユートピア主義者は、制度化された断絶を破壊するために伝統と手を切る。彼は神聖にして侵すべからざる諸価値、勤勉努力と禁欲の徳をひっくり返して、それらが人々のあいだに掘った溝やそれらが致命的にしてしまった身分差を埋めようとする。われわれの最も内密で暗い衝動自然の秩序と結びつけることで、彼は統治と個人の分離した状態を内部から(「情念の分析と統合」によって)免れる。」

『フーリエのユートピア』,pp.5-6.



 しかしながら、フーリエの社会主義は、次の点で、マルクスとは袂を分かつ:



「人間にとっての根源は人間自身であるとマルクスは言うであろう。しかしフーリエは
マルクスという――訳者註〕明晰な理論家以上に、社会的抑圧の理由を徹底的に追究する。たしかに、マルクスは革命を経済発展だけに結びつけたわけではないが、彼は経済と貧困の表象を、その表象が映し出している当の現実に反逆しうる力へと変える。だからこそ、革命的転覆は意志次第であるとしても、この転覆を決定するのは経済なのである。そして、〔…〕唯物史観は二重の意味で有効である。というのも、優勢な社会関係を基にして打ち出されたこの理論は大多数の人々の心を捉え、またそうすることで物質的な力になることができるからである。

 けれども、この理論の勝利を約束するものがそれを挫折させるものでもある。革命は根源にまで辿りついていないために、必ずや『情念の誤れる破壊的な飛躍』、つまり踏み外した歴史を別の形態で再現してしまう。

 
〔…〕経済理論は社会的人間を自然から切り離し、まさにそうすることで人間から自然の権利を、フーリエなら『野生人の権利』というであろうものを、奪い去ってしまう。とはいえ感性的人間の理念はマルクスの初期著作のなかに浸み透ってはいる。けれどもそれは『資本論』では消え去り、人間的自然を作りかえるとうそぶく科学が幅をきかせている。これを境にして、またもや軽蔑とエリートの時代がやってくる。過去の疲れきった主人たちに代って、もっと傲慢でルサンチマンでふくらみ自己の真理を確信した別の主人たち、知と生産の規範に合わないすべてのものを従属させたり拒絶したりするのに熱心な主人たちが現れる。

      
〔…〕

 重要なことは、事物や法則の必然性に従うことでもなければ、舞台から降りて冷静ではあるが絶望してもいる観客の役を演ずることでもない。あなたの娘が唖である理由はこうだと言うだけではだめで、どのように娘を治療するかを語らなくてはならない。フーリエは『受動的懐疑』とニヒリズムに対して、『能動的懐疑』と大胆に想像することを対置する。労働の仕方と情念引力をともども解放しなければ根本的変化はないし、さまざまの禁止を取り除くのでなければ労働者の正しい結合
(アソシアシオン)もないと確信して、フーリエは類例のない自由の風をわれわれのところまで送ってくる。」
『フーリエのユートピア』,pp.6-9.






 






「感性的人間の理念……は『資本論』では消え去り、人間的自然を作りかえるとうそぶく科学が幅をきかせている。」――ここは正確でない。『資本論』の根底には「疎外論」があり、資本主義による「物象化」に抵抗する労働者の運動が、「機械と大工業」章などで描かれている。まして、「科学」が「人間的自然を作りかえる」などというデタラメを『資本論』は主張していない(修辞としてはありえても)。しかし、それらは見過ごされてきた。『資本論』を曲解した「マルクス主義」運動――マルクスエンゲルス自身、党派に迎合してそれを黙認していた面がある――に対する批判としては、ドゥブーの非難は正当だ。(言うまでもないが、フーリエ自身は『資本論』公刊の 30年以上前に死んでいるのだから、これはフーリエの見解ではなく、彼女の見解)

 「これを境にして、またもや軽蔑とエリートの時代がやってくる。」――やってきたのは歴史的事実だが、その「境」は『資本論』ではなく、「マルクス主義」・「マルクス=レーニン主義」とマルクスの間にあった。「境」のあとの行論を見れば、ドゥブー自身、境目の正確な位置を知っているようだ。『資本論』を持ち出したのは、アルチュセール派への迎合であろう。

 「重要なことは、事物や法則の必然性に従うこと」ではなく、「あなたの娘が唖である理由はこうだと言うだけではだめで、どのように娘を治療するかを語らなくてはならない。」―――フーリエの言葉そのものかどうかはわからないが、フーリエ思想の真髄なのだろう。「哲学者たちは、世界をただ様々に解釈してきた。しかし、肝心なのはそれを変えることである。」というマルクスの言葉(『フォイエルバッハに関するテーゼ』:Ⅺ)が想起される。

 たしかに、ドゥブーが指摘するように、マルクスのテーゼはその意図とは正反対の結果をもたらした。が、それと同様に、フーリエの「治療」も、彼の意図とは異なる社会を生み出さないだろうか? フーリエの変革(治療)構想では、人びとの渦中に交じり合って行われる・一種の聖職者による「告解」が重要な役割を果たしているし、彼の構想した理想都市「ファランステール」は、画一化された統制的空間のように見える。







理想都市「ファランステール」の模型






 【3】 フーリエ思想の概観―――「奇癖」と「逸脱」が未来を拓く




「とはいえこの『発明家』
フーリエを指す――ギトン註〕が自分の観察と計算のあらゆる結果(整合的なものであれ矛盾的なものであれ)を公表するとは限らない。事実、彼の最初の書物『四運動の理論』が出版されると猛烈に攻撃され、あるものには怒りを買い、他のものには嘲笑の的になったために、フーリエは自己検閲するようになる。〔…〕彼は言う、〔…〕彼が論述の展開の途中で何度も中断するのは、『読者の良心を傷つけないようにするためである』と。〔…〕

 だが
〔…〕隠された過程を見出すためには、幸運にも古文書館に保存されてきたフーリエの覚書と草稿を探究すれば十分であった。こうした探索のなかで、筆者〔シモーヌ・ドゥブー――ギトン註〕はたいへん幸運にも、未完の長大な草稿に陽の目を見させる巡り合わせになった。この草稿の標題は『愛の新世界』であり、副題は『最終的総合』である。〔…〕実際、彼はそこで、『情念のうちで最も美しいもの』、すべてのうちで最も強力でそれ自身以外では正当化されない感情について語っている。彼は言う――『の営みには誰にも道理がある。なぜならとは非理性への情熱であるから』。そして彼はこの主張から数々の帰結を引き出す。彼は、最も高貴な感情から最も不条理な淫蕩癖まで、『の聖性』から『淫らな空想』まで、のあらゆるヴァリエーションを分析して、それらをいっそう助長し、それらに『完全なる飛躍』を与えようとする。そして彼はこれらの奇癖を、『自然があらゆる領域で増殖させる両義的なもの』に結びつける。

 
〔…〕奇癖が違法に向かうのか崇高に向かうのかどちらとも言えないように、自然界の『両義存在者』(生石灰、毛のない桃、オランウータン、蝙蝠)は、複数の可能な道に挟まれた自然の躊躇を表している。それらは規則と階層性、はっきりした尺度や分類を、いたるところで問い直す。〔…〕フーリエが『情念樹』を最後には転倒させて、ごく小さな両義的な枝を根として扱ったのもそれほど驚くべきことではない。それらの枝は系列〔数列、音階――訳者註〕体系を揺るがすかに見えるが、霊感を受けた計算家フーリエ――ギトン註〕はそれらを『調和社会の骨組みのボルトないし継ぎ目』、『運動の一般的絆』にする。フーリエがしばしば繰り返し言ったように、『両極端は一致する』。そして実際、彼は希少な奇癖を『あらゆる情念の根源にして目的である統一情念』に近づける。

 このように『愛の新世界』は、差異の上に調和を基礎づけるというフーリエの主要な逆説を正確に表し、凝縮してもいる。けれども逸脱・ボルト・継ぎ目の理論をもって極限まで突き進むならば、彼はユートピアの言説が保存していた、あの人を安堵させるものを危険にさらしてしまう。
〔…〕彼が指標もなく固定したモデルもない情念を際立たせ評価するときには、体系全体は揺るぎだし、普遍的統一は特異なものの空隙のなかで崩れだすように見える。

 けれども、脅かすもの、人を不安にする特異性を思惟の建物の土台に変えてしまう理論的転倒とともに、感覚的なものはついにその十全な権利を認められて復権され、理由と事物の窒息させそうな不動性は永遠に否定されてしまう。
〔…〕逸脱的事例はそれ固有の場所と時を選んで出来事と観念の流れを揺り動かすのだから、それらはまったく際限のない冒険を命ずることになる。

 けれどもフーリエは自分の計算を放棄するわけではない。演繹できない差異は諸系列の規則項のあいだに封じ込められていて、それらは秩序がいっそう精妙になるにつれて増殖する
〔…〕

 逆説的相互性とも言うべき奇妙な弁証法が、規則とそれとは異質なものとのあいだに、理想的正義――フーリエなら『数学的』と言うだろうが――と現実の不気味さとのあいだに、打ち立てられる。運動についての真実の思想が可能になるかに見える。

 
〔…〕無限に増加可能な、あるいは分割可能な系列は、『何十億もの変数』を、きわめて大きい集合であれ微細なニュアンスであれ、統合できるが、例外奇癖、過渡的形態は統合できない。だからこれらの『混合型』は言語(特に数学的言語)の生命とは違う感覚的なものの生命を証言している。

 逸脱的事例を理性によって同一化することなどは認めない」

『フーリエのユートピア』,pp.10-13.



 どうやらフーリエの世界観は、体系的で整合的な「数学的」コスモス調和世界と、そこからはみ出てしまう「例外」「逸脱」「過渡」「奇癖」との弁証法であるようだ。後者――例外奇癖、…――は、“コスモス”から絶え間なく生み出され、際限なく増殖してゆくが、コスモス的理性によって秩序に回収されることも、統合されることもなく、どこまでも秩序を揺るがしつづける。なぜなら、それら例外奇癖、…は、「言語の生命とは異なる感覚的なものの生命」を体現しているのだから。

 このような世界観は、ある意味でマルクスに通じる。マルクスは、古典派経済学の秩序ある予定調和の世界を、「逸脱」の側に立って執拗に批判し、その崩壊を予言する。彼の「経済学批判」は、古典派経済学を打ち壊して、新たな秩序を打ち立てるかに見えなくもない。が、彼の著作を読めば読むほど、決してそのようなことは意図していないのがわかる。どこまで行っても、けっして均衡することのない、力動的な運動の論理が展開されてゆくばかりなのだ。






 






「さてフーリエは、現実・情念・事物の全領域を包摂しうる体系を作ったのだが、突然それを解体する。偏執的なまでに破壊熱にとり憑かれて、彼は自分自身の体系のなかに切り口を刻み込み、同時に、過去のためだけ、または未来のためだけに作られた要塞を打ち壊す。彼は、絶えず動く現実と理性との一致はけっして獲得されないと指摘し、さらに進んで『地球と宇宙には科学者や哲学者が夢想してきたよりもずっと多くのものがある』とさえ言っている。

 
〔…〕彼の奇癖は演繹されうるものではないのだから、それによる発見もまた科学の厳密な方法から生まれるのではなくて、自由な探求から生まれるのであり、それらを理解することは科学とは異なるタイプの知性の仕事である。

 
〔…彼は〕自分が自由にできる手段と方策を正確に述べている――われわれは『数学的正義』以外に、アナロジーというもう一つの『羅針盤』とという『標識灯』をもっている、と。は神託であり導き手であって、それ自身が運動であるから、それだけいっそう運動を結びつけ、適切に運動を測定するのに適している。」
『フーリエのユートピア』,pp.14-16.






 【4】 フーリエ思想の概観―――「暴君ネロ」はなぜ生まれたか?




「しかし調和社会の群衆をかき立てる情念の力にみちた空間といえども、潜在的な結びつきを顕在化させはしない。そうした空間は、引き裂かれた情動を再構成し、
〔…〕抑圧された運動を解放するだけの、束縛のない交流を作り出さない。〔…〕〔ギトン註――それというのも、フーリエは、どんな人間の潜在意識にも存在する無意識の衝動内部の検閲が強制的掟よりも確実に阻止する衝動を暴いてみせる。〔このような衝動は、「掟」に強制されることなく平穏に生活する「調和社会」の人びとにおいてこそ、確固として存在するものである。――ギトン註〕これらの衝動は、『理想的な飛躍を奪われている』ために、ともすれば奇妙な怒りへと流れる。〔…〕潜在的なが憎しみになり『もともと愛すべきであった対象を破壊する〔…〕

 
〔ギトン註――「調和社会」の建設のような〕外的な解放では十分ではなく、むしろその反対である。なぜなら、いかなる掟が押しつけたわけでもなく、彼らの内的な抵抗以外に制限のない、金持ちや暴君の残酷さが証言しているように、自分自身を非難するしかないような不充足は、ますます自殺的になるからだ。

 
〔…〕彼によれば、ネロはセネカの犠牲者であり、密かな隷属の犠牲者であって、無制限の自由あるいは全能であることの犠牲者ではない。だから各人の権力を削減したり、不正を防ぐ(減少させる)ために万人に抑圧的な掟を強制するのでは十分ではない。反対に自由を極限まで推し進め、承認される前に検閲されてしまう飛躍を解放し〔つまり、検閲をやめて自由に飛躍させ――ギトン註〕、『あらゆる萌芽の開花』を助けなくてはならない。

 なるほど、『情念はすみずみまで伝播し、すでに精霊を味方につけようとしている』とフーリエは言っている。けれども情念にしぶしぶ譲歩したり、情念のどれかを選択したりすると、不幸が増大する。文明人は野心、家族、友を偏愛するが、性愛を抑圧しており、彼らがどれほど先を見越してみても、所詮はお定まりのコースを歩むのである。『二輪馬車は3つの車輪で走ることはできない』。

 
〔…〕彼は『自然は偶然の機会に応じて良くもなれば悪くもなる』と言っている。そして自然の過程ではなくて、この偶然の過程、『結合した情念』の過程をこそ彼は教えるのである。

 衝動は抑圧されてもしつこく存続するもので、『十分に飛躍するなら有益になるだろうが、抑圧されているとそれと同じほどに有害になって反作用』を及ぼす。だからあらゆる欲望自由な開花の条件を作り出す術
(すべ)を心得なくてはならない。〔…〕文明社会では情念は『鎖を解かれたライオンの情念のようなものだ』と彼は承知していた。だが『愛の新世界』のなかで彼は、残酷、支配、自発的服従、不正、殺戮などを、内面の抵抗や自己についての無知によるものとしている。だからもしこうした鈍重な壁を打ち壊さないと、禁止の解除はかえって残忍さを解き放ってしまうだろう。『情念の抑圧的体系』を維持するのか、それとも障害と危険に対処する探究と解放の手段を発明するのか、そのどちらかを採らなくてはならない。〔…〕

 告白者や情念の囚人を悔悟させたり流刑に処したり、また有罪判決を下したり、彼らの特異な趣味を排除したりするのではなくて、そうした趣味を承認し、受け入れ、明るみに出して、それらを『十全な飛躍』のなかで成就させることこそが肝心なのである。」

『フーリエのユートピア』,pp.16-18.













 マルクスは、「自然発生的」なものに対して「意識的」に手を加え変革することを重視したが、フーリエは、「意識」すなわち、人間の内部・外部の《自然》を支配し統制しようとする理性に信頼をおかない。むしろ、「情念」を、どこまでも「情念」の望むままに活動すべく解放してやることこそが重要である。

 しかしながら、フーリエも、「情念」にとらわれた人間を、“自然”のままに放任しておけば、すべてはよくなると考えているわけではない。『自然は偶然の機会に応じて良くもなれば悪くもなる』。社会の経済発展は、人間を豊かに、幸福にする場合もあるが、かえって物質的にも精神的にも貧困にする場合もある。(フーリエは、自然のままに放任された「」が、牧歌的恋仲ではなく、暴力的性愛を生み出す場合を挙げている。性愛のみならず暴力的支配一般を考えてもよいだろう。)そのような“自然”の方向を変えるためにフーリエが用いる手段は、マルクスのような「意識的」なものとは異なる。「『結合した情念』の過程」とは、そうしたフーリエの手段をいうのであろう。

 「情念は、他の情念によってしか変えられない。」というスピノザの言葉と同じ考え方を、ここに見ることができるのではないか?

 悪い結果をもたらす「情念」だからといって、それを理性によって抑圧しようとするならば、かえって、抑圧された情念の「反作用」によって、もっと悪い結果をもたらすことになる。抑圧ではなく、むしろ、「自由を極限まで推し進め、……飛躍を解放し、『あらゆる萌芽の開花』を助けなくてはならない。」「あらゆる欲望自由な開花の条件を作り出す術
(すべ)を心得なくてはならない。」ただし、「『結合した情念』の過程」を践むよう働きかけることにより、抑圧されていた欲望の爆発ではなく、欲望の「自由な開花」の条件を整えることを前提として。

 したがって、あるがままの「文明社会」において、理性と規範によって抑圧されている欲望と「情念」を、一時に解き放って、暴力と不法の支配をもたらすこと――たとえば、《フランス革命》の恐怖政治時代に現出した事態のように――は、フーリエの意図するところではない。そうなるくらいなら、現状のまま「『情念の抑圧的体系』を維持」したほうがよい。しかし、そのどちらも望まないのであれば、「情念」の解放による「障害と危険に対処する探究と解放の手段を発明する」必要がある。―――「『情念の抑圧的体系』を維持するのか、それとも障害と危険に対処する探究と解放の手段を発明するのか、そのどちらかを採らなくてはならない。」






 【5】 フーリエ思想の概観―――情念に働きかける知性、情念によって変化する知性




〔ギトン註――「調和社会」の〕聴罪司祭は告白を促し解釈するが、個性のない言語表現の決まり文句などは使わない。『贖罪劇』の演技者と同様に、彼は告白者と一緒に演技して『情念のもつれを解き』、もつれの真理を明るみに出す。フーリエは告白と贖罪の観念を転倒させ、またそれらとともに言語表現をも転倒させる。

 
〔…〕理解可能性は普遍的規則から出て来るのではなくて、語られた事物と一体化しながら、それでいてそのものに意味の光を注ぐ想像の深みから出てくる。

 この創意に富む発話がもたらす知の利益は科学よりも芸術に近いもので、快楽の利益と不可分である。
〔…〕イメージとしての言語を見れば、他人との交流なしには自己意識はなく、他人と分離した赤裸の主体などは幻想でしかないことがわかる。だから世界と自我のどちらかを選ぶ必要はない。人はもはや生き延びるために他人を傷つけ、引き裂き、破壊する必要はなく、自己主張するために他人のエネルギーを破壊する必要もない。

      
〔…〕

 最初にフーリエは、欲望と直接に結びついた普遍知の名のもとに、抑圧的で変動常ない道徳を攻撃した。最後には、彼は、道徳と科学の命令と、人間の本性あるいは事物の本性を服従させると主張する鈍感で破壊的な傲慢さとのつながりを明らかにしてみせる。
〔…〕フーリエは純粋な普遍的主体の観念を破壊するが、だからといって人間の独自性を他のなんらかの実在、同じように虚構的な物質や自然と同一視しない。彼は実際に活動している主体を考え、可能性の条件とともに現実の条件を考えようと努める。〔…〕

 すべての萌芽を開花させる新しい結合が、奇癖とみなされて密かに隠蔽されてきた未刊のテクストのなかで初めて明らかになり、
〔…〕
『フーリエのユートピア』,pp.19-21.



 「すべての萌芽を開花させる新しい結合」――前節で述べられていた「『結合した情念』の過程」の“情念の結合”のことであろうか? たとえば、フーリエが、未来の「調和社会」の建設には必須の要素としている《同性愛》とそれにまつわる「情念」の結合について、このあとの本論で紹介される。それは、『愛の新世界』公刊以前には、「奇癖とみなされて」、未完の草稿のなかに埋もれていたのである。






 






「ブルガンは
〔…〕フーリエのなかに『社会主義の先駆者』を見た。しかし彼は、〔…〕フーリエの著作の重要性を低め、その独創性をさえ縮小してしまった。

 
〔ギトン註――フーリエの〕普遍的調和の理論は、〔…〕〔ブルガンの解釈の下では――ギトン註〕他の未熟な理論と似たり寄ったりになってしまった。19世紀のさまざまのユートピアと同様に、この理論もまた正義の要求と人間的協同の希望を世俗化し」たものだ、などと表面的にしか理解されなかった。

 
「しかしながら、〔…〕効果を生む情念(語義から見て、五感と情動に由来するもの、官能、感情)が原因になるとき、道徳も認識もすべてが変化する。彼フーリエ――ギトン註〕情念の火の坩堝で、事物・他人・自然・社会に関する〔ギトン註――他の社会主義とは〕別の理解のしかたを鍛え上げる。それは実証的知ではない。なぜならフーリエは無私の純粋主体や認識の客観性をともに否定するからである。

 互いに働きかける安定した事物や、異なる実体を取り戻すという等質で空虚な空間・の信奉者に対して、彼は連続的に生成する関係と関係・の可変的空間の研究を対置する。

 これを境にして、もはやあらかじめ保証された立場も意味もないし、自然・社会・個人に法を定め、それらを審判し再構築する基準となる絶対的真理の場所もない。
〔…〕情念に基づく知は客観的と言われる領域にまで主観性を導入する。この知は事物の感覚的把握を正当化し、世界の認識を永遠に相対化して認識を個人的・社会的・歴史的・可変的諸条件に結びつけるのである。

 
〔…〕彼は例外的存在、混成存在あるいは移行的存在を根源に据える〔…〕通常の理性を最も特異なものによって『締め上げ』、先例のない両義存在を『運動の一般的絆』にするのだから、彼は不動の確実性を放棄し、それぞれの場所で、そのつどの瞬間に、すべてを苦労して再発明しようとする。」
『フーリエのユートピア』,pp.28-29.



 「フーリエは無私の純粋主体や認識の客観性をともに否定する……/もはやあらかじめ保証された立場も意味もないし、自然・社会・個人に法を定め、それらを審判し再構築する基準となる絶対的真理の場所もない。」―――ある意味でマルクスの立場に近い。マルクスは、そこから、「現実の・この世界」という一種把握しがたいものの上に拠所を定め、「世界」それ自体を「基準」ないし土台と定める。そして、「世界」の外に「基準」点を置いて、そこに立って「世界」を批判しようとする「ドイツ・イデオロギー」を嘲笑う。

 「互いに働きかける安定した事物……等質で空虚な空間・の信奉者に対して、彼は連続的に生成する関係と関係・の可変的空間の研究を対置する。」―――廣松渉氏の「事的世界観」のようなものか?



「彼は一つの体系あるいは開かれた体系的組織を想像するが、それだけでなく弟子や読者に対して自由と創意工夫を要求する。それは従順で受動的でなく積極的な承継であるべきで、著作を通じてそれを指導する運動まで遡り、著作の可能性を引き延ばさなくてはならない。

 われわれはフーリエの流儀で、つまり情熱的に、フーリエに尋ねかけるべきなのだ。

      
〔…〕

 過去の体系を他の体系に対置したり、思想や社会生活の幼年時代に退行するなどが問題なのではない。 いつも反抗を新たにさせ、世界を若返らせる誘因、生命の過剰、謎にみちた喜ばしい感情を蘇生させることこそが問題なのである。」

『フーリエのユートピア』,pp.31-32.

















【ユーラシア】ドゥブー『フーリエのユートピア』(2) ―――につづく。   











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