08/04の日記

23:10
【ユーラシア】断章――『パリ・ノート』,リービヒ,usw.

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 こんばんは。(º.-)☆ノ




 【ユーラシア】『哲学の貧困』ノート(3)からのつづきです。


 『経済学・哲学手稿』とやらを捏ねくりまわす“おしごと”は、アルチュセールのエピゴーネンに任せておきましょう。この草稿は、斎藤幸平氏が引用している部分と氏による抜粋要約だけで十分だ。

 ↓下記【2】でも述べられているが、この“著作”は、まとまった考えを述べた著述や、その準備草稿ではなく――つまり、『ドイツ・イデオロギー』のようなものではなく――、新たに国民経済学を“学習”していた際にマルクスの頭に浮かんだ思索の寄せ集めにすぎない(だから内容に意義がないとは言わないが)。たとえば長谷川宏訳(光文社古典新訳文庫)は、これがあたかも独立したマルクスの著作であるかのように持ち上げて解説しているが、このような不誠実なやり方は素人を惑わすものだ。もちろん、長谷川氏の「新訳」で刷新された個々の部分は有意義だとしても、たとえば、「第一草稿」冒頭の部分で、マルクスが用紙を3段に区切って、自分の抄録ノートから選り抜いた抜粋を書き込んで行ったというテクストの特殊な成立事情さえ、長谷川訳の読者にはまったく知らされることがない。このような「翻訳」は、“マルクスが書いたことのない架空の著作のでっち上げ”だと言われてもしかたがあるまい。内容的にも、この“手稿”は、いわば、思いつきメモの寄せ集めなのだから、テクストの特殊な性格にフタをして読まされる読者は、ごちゃごちゃした思想の切れ端を投げつけられているに等しい。そうやって、あっちへ引っ張られ、こっちへ引っ張られ、混迷のうちに「マルクス」(実はマルクス自身とは懸け離れた政治党派的教条)を崇める権威主義だけが身につくという、マルクス思想の初心者にお決まりの過程をたどることとなるのだ。

 そこで、この『パリ・ノート』に関しては、他の訳者の解説の中から、眼についた部分を拾うだけにしたい。

 なお、MEGA などの原書版では、1844年-45年初にパリで書かれたノート類は、『経済学・哲学手稿』ないし『パリ手稿』と、『パリ・ノート』の二つに分けて公刊されている。両者のテクスト的性質には大きな違いがないが、マルクスは、両者を行き来しながら研究を進めたらしい。なので、『パリ・ノート』の各部分が、『パリ手稿』のどの部分と関係するか、という細かい点になると、研究者の間で意見が割れるようだ。

 斎藤幸平氏の著書では、『パリ・ノート』と『パリ手稿』(『経哲手稿』)を併せて『パリ・ノート』と呼んでいる。






 【1】杉原訳『マルクス 経済学ノート』「訳者解説」



 杉原四郎・重田晃一・訳『マルクス 経済学ノート』,1962,1970[2.Ed],未来社.

 底本テクスト: 旧MEGA T・3,1932,hrsg.v. V. Adoratskij,Berlin, im Auftr.v. MEI,Moskva. からの訳(J.Millノートは全訳、ほかは抄訳)。「訳者解説」:pp.158-212, 「『経済学ノート』の諸版と諸解釈」:pp.213-236[1970,por 2.Ed].

 「訳者解説」中に、ブリュッセル・ノート、マンチェスター・ノートの目録あり。



 『パリ・ノート』(1844-45)は、マルクスが読書した各著作からの抄録が大部分だが、書写でなく自分の言葉で要約している部分もあり、それぞれについてコメントしている部分もある。この構成は、『パリ手稿』と異ならない。

 『パリ手稿』に含まれた抄録は、『パリ・ノート』の抄録から書写しているものが多い。

 マルクスは、読書研究を行なって『ノート』を書き溜めて行った途中で、知識を整理する必要を感じて、『手稿』に、『ノート』から選んだ抜粋を整理して書き写し、自分の体系的考察を起草し、一段落すると、ふたたび『ノート』に戻って読書研究をつづける、という往復作業を繰り返したらしい。


 『パリ・ノート』での抄録の採り方には2つのタイプと、それらの中間タイプ、合計3種類がある。



「たとえばスミス、父ミルからの抜粋
〔…〕書物の全体からそれの核心にあたる部分が非常に巧妙に抽出されていて、それを通読すれば、おのずからその書物の全体の大筋を把握しうるしくみになっている。おもうに、マルクスはスミスの『国富論』と父ミルの『綱要』の研究をとおして国民経済学の総体的な把握を企図したのであって、その痕跡がこの種の抜粋となって残されたのであろう。

 
〔…〕別のタイプの抜粋も残されている。〔…〕ローゼンベルクはつぎのようにいっている。

 『そこでは、すでに以前に表明された考えの補足としてか、あるいは同じ考えの別の表現として個々の命題が引用されているにすぎない。セー
〔Jean-Baptiste Say 1767-1832〕の著書『経済学概論』を叙述するさいに、マルクスはいくつかの引用をするにとどめている。そして同じ著者のもう一つの、もっと大冊の著書『応用経済学全講』からは、『概論』のなかにないか、あるいはそこでは十分明瞭に定式化されていないことだけが引用されている。〔つまり、スミスとJミルから国民経済学の体系は理解できたので、セイからは、それとは異なる特殊な議論を摂取すれば足りたのである。――ギトン註〕

 スカルベクやデステュット・ドゥ・トラシィからの抜粋もこの種の抜粋にはいる。』」

「訳者解説」,in:杉原四郎・重田晃一・訳『マルクス 経済学ノート』,1962,1970[2.Ed],未来社,pp.181-182.













リカード、マカロック、ボアギュベールからの抜粋は、おおむね、この二つのタイプの中間的なタイプにはいるといえよう。

 これらの抜粋はそれぞれの理論の核心を巧妙に抜きだしているという意味では
〔…〕客観的である。だが、対象それ自体の展開から、この展開の必然的な帰結としてそれの前提に対立・矛盾する帰結を導き出そうという方法意識に貫かれているのであって、〔…〕主体的であり、また〔…〕きわめて主観的な抜粋でもある。われわれは、これらの抜粋のいたるところで、国民経済学者が無意識のうちに漏らした資本主義社会の真相=否定的側面がマルクスによって意識的に抜き出され、強調されているのを見るであろう。

 
〔…〕かれはしばしば〔…〕リカードの見解をスミスセー、シスモンディ、プルードンの見解と絶えず対比している。かれの意図はこれらの対比によって、リカードの見解の一面性、抽象性をつくとともに、これら諸家の間の見解の対立も結局は、同じ基礎(=私有財産という前提)の上での対立だということを示すことにあったようにおもわれる。」
「訳者解説」,in:杉原四郎・重田晃一・訳『マルクス 経済学ノート』,1962,1970[2.Ed],未来社,p.182.



 Jean-Baptiste Say:1767 - 1832 はフランスの経済学者、実業家。古典的自由主義の信奉者であり、競争、自由貿易、および事業上の制約の引き下げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。

 Henri Sée (1864―1936):フランスの歴史家。パリ近郊のサン・ブリスに生まれる。ソルボンヌ大学で歴史学を修めたのち、1893年レンヌ大学に招かれ、1920年病のため引退するまで同大学の教授を務めた。師フュステル・ド・クーランジュから厳密な客観的研究方法を学び取り、ブルターニュに関する特殊研究のほか、中世から19世紀までのフランスおよびヨーロッパ諸国の農業・土地制度、商工業の発展などについて多数の著作を発表、フランスにおける経済史学の確立者となった。根本史料に基づく史実の探求と比較史的方法、さらに総合的歴史把握を重視し、その研究成果は『近代資本主義の起源』(1926)、『フランス経済史』(二巻、ドイツ語版1930、36、フランス語版1939、42)などに集約されている。



「『私有財産は一箇の事実であって、その事実の基礎づけは国民経済学の関するところではないが、この事実が国民経済学の基礎をなしている』(セー評註)。
〔…〕『国民経済学の基礎をなしている』私有財産という『事実を基礎づける』こと、そこにかれは国民経済学批判の起点を設定したのである。

 
〔…〕国民経済学が無批判的に、事実上かれらの諸法則の展開の基礎においた私有財産を批判的にとらえなおし、その上にたって『私的所有』の法則を『概念的に把握する』、つまり国民経済学の諸法則が『いかにして私的所有の本質から生ずるか』を指示することがこれであろう。」
「訳者解説」,in:杉原四郎・重田晃一・訳『マルクス 経済学ノート』,1962,1970[2.Ed],未来社,p.187.



「父ミルの『綱要』からの抜粋にそえられたマルクスの評註は、
〔…〕3つの部分からなっている。〔…〕第一評註(第3章第8節の抜粋に挿入)、第二評註〔…〕と呼ぶことにすると、〔…〕

 
〔…〕独自の労働把握(類的活動として労働と私的所有のもとでの自己疎外)にもとづいて、国民経済学の諸範疇の展開過程を『外在化された類的行為』、『社会的交通の疎外された形態』の展開過程とみうる立場をきりひらいた〔…〕

 第一評註におけるこの独自の立場の創出は、つぎの諸点をかえりみるとき、まことに興味深い問題を提起している。

 
〔…〕私的所有交換、価値、貨幣などの経済的諸範疇を positive に規定することは、ここでは、市民社会を人間の労働・労働関係の複合体として positive に叙述することとなって現れている。と同時に、労働の自己疎外という視角がこの規定づけの基軸をなしているのだから、市民社会を positive に叙述することは、そのまま、この社会を『疎外された人間の社会』として negative に叙述することでもある。換言すれば、『体制の叙述であるとともに、叙述を通じての体制の批判』(1858年2月22日付のラサール宛のマルクスの手紙)。」
「訳者解説」,in:杉原四郎・重田晃一・訳『マルクス 経済学ノート』,1962,1970[2.Ed],未来社,pp.187-188,193.






 






 【2】『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』――『パリ手稿』と『パリ・ノート』



 大谷禎之介,平子友長・編『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む――MEGA 第W部門の編集と所収ノートの研究』,2013,桜井書店.

 ユルゲン・ローヤーン[Jürgen Rojahn]「どのようにしてひとつの理論が姿を現わしたか――1844年に書かれた諸草稿および抜粋ノート」:op.cit.,pp.83-111.



「1844年諸草稿は、ひとつの世界観の体系的説明のようなものではなく、それが示しているのはむしろ、運動の中にあるマルクスの思想であり、言い換えれば、もろもろの新たな見解の出現と発展であり、彼の読書によって、また彼が参加した論争によって駆られていった過程なのである。それらのノートが表しているのは、彼のもろもろの思索が離陸した基地である。
〔…〕この時期にマルクスの思想はきわめて急速に発展したのであって、彼は経済学の領域にはいっていき、共産主義を受け入れ、彼の史的唯物論の基礎を据えたのである。

 
〔…〕彼は 1834年の秋にパリに到着してから経済学の研究を始めた。彼はおそらくジャン・バティスト・セーの『経済学概論』からスタートした。この著者は当時フランスで〔…〕『経済学者の祖』とみなされていたのである。そのあと、マルクスはドイツの3人の経済学者の著作を読んだ。すなわち、」
『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,pp.90-91.



 Carl Wolfgang Christoph Schütz, Friedrich List, Heinrich Friedrich Osiander.



「注目に値するのは、オジアンダーの『諸国民の交易について』から、オジアンダーが、分業は異なった『社会の諸階級[Klassen]』の形成という結果をもたらす、と述べている一章句を要約するさいに、マルクスは、〔この『諸階級』に〕「estates」(Stände)という語を使っていたことである。」

『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,p.92.



 そこより少し前のところでは、リストへの評註の中で「異なった階級[classes]の差異」と書いている。『ヘーゲル国法論批判』では「市民階級[estate]」と書いている。つまり彼はこの時点では、階級(classe)と身分(estate,Stand)を同じ意味で用いていた。



「アーノルト・ルーゲによれば、マルクスはこのとき、フランス革命の歴史、すなわち現代国家の出現に焦点を合わせていた。しばらくのあいだ、彼は『国民公会の歴史』を書くことを意図していたように見える。けれども、やはり政治生活――すなわち市民社会――の『前提条件』を十分には知っていないことを感じた彼は、モーゼス・ヘスの論文『貨幣の本質について』から刺激を受けるとすぐに、おそらく 1844年の5月か6月に、経済学の研究を再開し、こんどはアダム・スミスにとりかかった。

 セーの『概論』からの『抜粋』からは、マルクスが新たなフィールドにはいったことが見てとれる。彼は多くの章句をそっくり書き写した。そののち、スミスの『諸国民の富』のフランス語訳を読んだときには、彼はすでにもっと自由に動きまわるようになっていた。彼はいまでは、いくつものパラグラフの全体を自分自身の言葉で要約した。スミスの著作からの抜粋を始めたノートにあるマルクス自身のコメントはほんのわずかで短いものでしかなかったとはいえ、それはきわめて興味深いものである。それは、階級編成の経済的な土台という、後の著作にとっての基礎となったものを、彼がどのようにして発見するにいたったのかを明らかにしているのである。
〔…〕

 
〔『諸国民の富』〕第2巻の終りまできたところで、彼はふたたび抜粋を中止した。彼は明らかにこの時点で読むことを中断し、1枚の紙を取り、それを折り曲げ、ページを3つの欄に分けた。次にそれぞれの欄に『労賃』『資本の利潤』『地代』というタイトルを付けた。それから彼は、部分的には自分の見解を自分の言葉で説明し、部分的には自分のノートから関連する『抜粋』を書き写しながら、3つの欄を埋めていった。」
『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,pp.92-93.



 ……つまり、現存『経哲草稿』「第T草稿」の初めの部分を書き始めた。













「伝存している第U草稿の4つのページで、マルクスは第一草稿で述べたことの多くを繰り返した。」

『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,p.97.



 以下は、「第V草稿」について。『経哲草稿』の諸断片と並行して、マルクスは多くの著者からの「抜粋」(書写、要約、評註からなる)ノートを作成している。

 「第V草稿」の「第2の付論」:「2 社会的存在としての人間」でサン=シモンフーリエに触れているが、サン=シモン主義者のシュヴァリエ、フーリエ主義のポンペリの著書を読んでいる。

 Michel Chevalier 『経済学講義』1842年
 Eduard de Pompéry 『フーリエによって構成された社会科学の説明』2 ed.,1840.



サン=シモン主義者のシュヴァリエによれば、経済学は時代の道徳的観念によって導かれなければならなかった。彼の言うところでは、1789年以来、決定的な問題は自由[freedom]なのであり、現在の課題は、『平和の保護のもとで、第三身分の残りの半分である農村と都市の勤労諸階級の解放を成し遂げること』だった。自由の物質的前提諸条件を強調しつつ、シュヴァリエは産業――すなわち『あらゆる形態での物質的労働』――に望みをかけていた。
〔…〕

 シュヴァリエは一方で、資力[competense]を不可欠なものと考えた。他方で、『無制限な資力』を批判し、『組織』――すなわち、人々が『連帯、保護、安全』を見いだすことのできる諸アソシエーションと諸制度――によって資力を抑制することを訴えた。

 とりわけてマルクスを惹きつけたのは、エドゥアール・ド・ポンペリの『フーリエによって構成された社会科学の説明』である。ド・ポンペリによる生命の推進力としての『情熱』の強調は、
〔…〕フォイエルバハの人間学と適合していた。〔…〕マルクスはド・ポンペリの書のなかに、彼の考えと一致し、彼の考えの発展を刺激したかもしれない多くの考えを見いだした。

 いわく、人間は、なによりもまず、五感を通じて生きている。いわく、人間は愛し、愛される必要を感じる。いわく、人間は社会のなかで生きており、ただ労働によってのみ生きている。いわく、人間は、本性上能動的な存在である。いわく、人類を高める唯一の方法は、物質的生活の必需品から人間を自由にすることである。いわく、要求されている豊かさは、だれもが自分のさまざまな能力を、『正常な』、強制されたのではない、楽しいしかたで、他の人びとと調和しながら、発揮できるような、そのような世界ではじめて創りだされることができる。ポンペリによれば、こうしたことが実現されるのは、自由な『アソシエーション』――すなわち、それぞれ成員個人の個別的な利益が失われることなく、共同の利益の不可欠な部分となっている、そのような共同体[community]――によってである。そうなれば、人[man]は真に人間[human]となり、発展した知性、気高い心、そして洗練された感覚をもつことになろう。」

『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,pp.99-101.






 【3】『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』――「差額地代」、リービヒ



 竹永進「1860年代中葉におけるマルクスの地代論研究」:pp.173-194.



 差額地代の 第一形態 耕作地の外延的拡大による。
       第二形態 同一耕作地への追加資本投下による。

 リカードは、「第一形態」のみを論じた。マルクスは、「第二形態」と「絶対的地代」を加えた。また、「第一形態」についても、リカードを次のように批判している:



「耕作の拡大も、リカードが想定しているように必ずしも優等地から劣等地へという順序で進むとは限らず、場合によっては逆もありうることを示し、ともかく耕作条件の異なる土地が同時並行的に使用され、土地という生産手段の特性にもとづいて生産条件の平均化が生じなければ、差額地代が発生すると論じた。
〔…〕差額地代というアイデア自体はリカードとマルクスに共有されており、この点ではマルクスの差額地代論はリカード理論の拡張ということもできる。」
『マルクス抜粋ノートからマルクスを読む』,p.176.






 






 マルクスは、1850年代に1回(斎藤幸平『大洪水の前に』)、1860年代に2回、リービヒから抜粋ノート(冊子体でない紙片を含めて「ノート」という。)を作成している。

 1860年代にマルクスが抄録したリービヒの著作:


@  Über Theorie und Praxis in der Landwirtschaft, 1856.
 「1861年から63年にかけて執筆された『経済学批判』の第2草稿(23冊のノート)……と並行して執筆された一連の抜粋ノートのなかの1冊である Beiheft D(1863年6月作成と推定)に含まれる。

A〜Cは、1865年後半〜翌年にかけて作成されたと推定される抜粋ノート【105】に含まれる。

A Einleitung in die Naturgesetze des Feldbaues, 1862.

B Herr Dr. Emil Wolff in Hohenheim und die Agriculturchemie, 1855.

C Die Chemie in ihrer Anwendung auf Agricultur und Physiologie, 1862. [7.Auflage]


 @からの1文が、『資本論』T-4-2 註16 に引用されている。

 A〜CのなかではCが最も多く抜粋され、第V巻主要草稿の「地代」に関する章と、第T巻の双方で言及されている。













【ユーラシア】断章――マウラー,化学、地質学,usw. 近日うぷ ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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