07/24の日記

17:41
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(8)

---------------
.




 







 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(7)からのつづきです。


  マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。

 上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。



「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」



「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」



「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」



 この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【20】「本論三2」――私的所有・分散的経営、と共同社会






「住居の建設、遊牧民が家族ごとに別々の天幕をもっているように、未開人の場合も家族ごとに自分たちの穴居ないし小屋をもっていることは言うまでもない。私的所有が発展してくると、こうした分散的家事経営がますます必要になった。農耕民族の場合、共同の家事経営は共同の土地耕作と同様に不可能である。

 都市の建設は一大進歩であった。それでも、これまでのどの時期にも、分散的経営の廃止――これは私的所有の廃止と切り離せない――は、そのための物質的諸条件が現前していなかったので、この理由からしても不可能であった。共同の家事経営という仕組みは、機械装置や自然力利用の発展、その他多くの生産諸力――例えば水道、ガス灯、スチーム暖房等――の発展を前提とする。

 都市と農村の止揚

こうした諸条件がないうちは、共同的経営は、それ自体が今度は新たな生産力になるというところまでいかないだろうし、
〔…〕単なる妄想に終わるか、せいぜい修道院経営にしかならないだろう。――可能だったものといえば、都市の人口密度の高まりと、個々の特定の目的で建てられた共同建造物(刑務所、兵営、等々)に見られるぐらいである。分散的経営の廃止が家族の廃止と切り離せないことは、言うまでもない。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.169-170.



 「農耕民族の場合、共同の家事経営は共同の土地耕作と同様に不可能である。」――マルクス/エンゲルスは、この時点ではまだマウラーもモルガンも読んでいない。後年は認識を改めるはず。逆に彼らは、遊牧は共同だと思っているようだが、まったく事実に反するだろう。それぞれの歴史的・タイプ的な構成体で、共同の契機がどのように現われるか、個別の契機がどう現われるかが重要。一方的な傾向とは限らない。

 「それ自体が今度は新たな生産力になるというところまでいかないだろうし」――つまり、「分業」「交通」形態は、それ自体が新しい「生産力」であるとともに、さらに新しい「生産力」が生じて来れば桎梏にもなる‥‥という構想らしい。古い「生産力」=「交通形態」と新しい「生産力」=「交通形態」が矛盾するという考え方。しかも、新しい交通形態は、(「生産力」となって)旧い交通形態を破砕するには至らない場合も多い、ということ。破砕に至らしめる条件は、エンゲルスによれば「水道、ガス灯、スチーム暖房等」の物質的技術的条件。マルクスによれば、「都市と農村の止揚」という、もっとダイナミックな全社会的条件。













 ↑「分散的経営の廃止が家族の廃止と切り離せないことは、言うまでもない。」――共同化を、共産主義化として、「家族の廃止」を伴うような根本的な変革として考えている。しかも、マルクスによれば、現実批判のための理想の提示でも、実現されるべき計画でもなく、「現実の中にある運動」でなければならないという。{8}c=[18],p.71:



共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの状態、それに則って現実が則されるべき一つの理想ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を止揚する現実的な運動だ。僕らは単に〔次のことを〕記述するだけにしなければならないこの運動の諸条件は眼前の現実そのもにのに従って判〔定〕されるべき今日現存する前提から生じる。

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.71.



 ↑廣松氏によれば、エンゲルスにあてたマルクスのコメント。抹消部も含めれば、「今日現存する・この運動の諸条件を記述するだけにしなければならない」→共産主義社会のようすを描写などしてはならない。きわめて慎重な姿勢。『資本論』も、マルクスの構想は、「現存する条件の記述」だけで終わる予定だった。






 【21】「本論三2」――階級の形成






「都市の市民たちは、中世には土地貴族から必死にわが身を護るために、結合し合うよう余儀なくされていた。商業の拡大や通信網の整備は、個々の都市に、同じ相手との闘争で自分と同じ利害を貫いてきた他の諸都市を知らしめた。個々の都市の多数の地域的市民集団から、徐々にではあるがようやく、市民階級が成立した。

 個々の市民の生活諸条件は、これら個々人の結合によって
〔…〕現存の諸関係との対立によって、またそれに条件づけられた労働様式によって、同時に、彼らの全員に共通した、〔…〕彼らの一人一人からは独立した諸条件になった。市民たちは、封建的な結語組織から脱却した限りにおいてこれらの諸条件を創出した。そして、彼らが眼前の封建制との対立によって条件づけられていた限りにおいては、これらの諸条件によって彼らが創出されていた。個々の都市間の結び付きが登場すると、それにつれて、この共通の諸条件は階級的諸条件へと発展した。同一の諸条件、同一の対立、同一の諸利害は、概してどこでも同一の習俗を生じさせずにはおかなかった。

 ブルジョアジーそのものは、彼らの諸条件が整うにつれて、ようやく漸次的に発展を始め、分業に応じて再び種々の部分に自己分裂し、そして、ついにはあらゆる既存の有産階級を自分の中に――あらゆる既存の所有が産業資本または商業資本に転化されるのと歩調を合わせて――吸収する

 ブルジョアジーはまず国家に直属する労働諸部門を、次いで、多かれ少なかれイデオロギー的なあらゆる諸身分を、吸収する。

(その一方で、ブルジョアジーは、既存の無産階級の大部分と旧来の有産階級の一部分を一つの新しい階級、つまりプロレタリアートへと発展させる)。

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.170-172.



 シュティルナーによれば、彼ハ何々デアルという命題では、個人は、普遍的述語「人間」「キリスト教徒」「ブルジョワ」などの一見本としてしか認められず、個人の生身の存在がまるごと承認されることはない。しかも、そうやって個人を一面的に規定するのは、彼自身ではなく世間であり、最終的には国家である。「類」「階級」のような、個人を一見本に貶めてしまう普遍的存在を、シュティルナーは批判した。しかし、エンゲルスによれば、このように「階級」と「個」を対立させてしまうと、「階級」を不滅の普遍的存在として無条件に前提してしまうことになり、「階級」という《疎外》態が「どこからどのようにして生じたのか」が見えなくなってしまう。そこで、以下、「歴史過程の記述というよりも」「階級の成立機制を叙述」している。(岩波文庫版、訳者註:pp.261-262)

 すなわち、もともと中世都市で「市民(ブルジョワ)」という自意識が生まれたのは、封建貴族の圧迫に対抗するためであった。そして、同じ利害関係をもつ都市どうしが連帯することによって「市民階級」が成立したが、その時から、「市民階級」は、個々の市民個人とは別の「独立した諸条件」となって、逆に個々人を規定してゆくこととなる。

 「分業」が発展するとともに「市民階級」は内部的に分裂したが、外部から既存のさまざまな有産階級(旧貴族の一部、有産化した農民の一部、商人、官僚、聖職者、法律家、新興知識階級など)を取り込んで、一つの支配階級に成長した。

 ブルジョアジーに限らず、「階級」は、前提的・絶対的な即自存在ではなく、生活諸関係のメカニズムによって、力学的な網の目に形成される機能的存在なのだ。「階級」は、特定の機能関係が存続している間だけ存在する。「階級」の存在を支えている機能・力関係が変更・消失すれば、その「階級」自体が消滅する。そういう考え方。

 「同一の諸条件、同一の対立、同一の諸利害は、概してどこでも同一の習俗を生じさせずにはおかなかった。」――「習俗」に着目しているのは特筆に価する。「習俗」も、「生産力」「分業」「交通形態」による社会発展論理の重要な要素なのだ。






 






「個々の個人が一階級を形成するのは、他の一階級に対して彼らが共通の闘争を遂行せざるをえない、その限りにおいてでしかなく、それ以外の場合には、競争の中で再び彼ら自身互いに敵同士となって対立しあう。他面では、階級の側は、これはこれで諸個人に対して自立化するので、諸個人の側は自分たちの生活諸条件をあらかじめ決定済みのものとして見出し、自らの社会的地位とそれに伴う自らの人格的発展を階級の側から指定されたものとして受け取り、階級の下に服属させられる。

 これは個々の諸個人の分業の下への服属と同じ現象であり、私的所有と労働そのものの廃止によってのみ除去することができる。諸個人の階級の下へのこの服属が、さらに各種の表象等々の下への服属へと進展していく次第については、すでに何度か示唆しておいた通りである。――――」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.172-173.



 前の段で述べた「階級」の機能的存在性格を、ここでは、個人の生活関係――「現実的諸関係」――から説き起こして説明している。

 「階級」という《疎外》態、「階級」への隷属は、「私的所有と労働そのものの廃止によってのみ除去することができる」。エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』草稿で、「労働の廃止」を何度も述べている。彼にとって共産主義社会は、「労働」(職業労働、あるいは、必要に迫られてする労働)が廃止された社会なのだ。Vgl.:pp.66-67:{8}b=[17]。人間の活動が「自由意志によってではなく、自然発生的に分掌されている」ために、《疎外》された威力として人間を圧服するのが「労働」である。この[17]の労働論は、シュティルナー(互恵としての職業労働)に対抗して書かれているために、捉え方が一面的すぎるようだ。「社会が生産の全般を規制して」いることを、共産主義社会の必要条件としている点でも問題は大きい。⇒片岡啓次・訳『唯一者とその所有』,1967,現代思潮社,上,p.158.



「もし、諸個人のこういう発展を歴史的な連鎖をなす諸身分・諸階級に共通する生存諸条件に即して、哲学的に考察するならば、なるほど、これらの諸個人のうちで類やら人間なるものが発展してきたとか、あるいは、諸個人が人間なるものを発展させてきたのだとか、簡単に思い込むことができる。この思い込みは、歴史に強烈な平手打ちをくらわせるようなものだ。そう思い込んでしまった後では、これらのさまざまな身分や階級は、
〔…〕人間なるものの諸発展相として、了解されることになる。

 一定の階級の下への諸個人のこうした服属は、支配階級に立ち向かうにあたって特殊な階級利害を貫くことなどもはや必要としない一階級が形成を遂げるまでは、廃止されえない。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.173-174.



 「諸個人のうちで類やら人間なるものが発展してきた」「諸個人が人間なるものを発展させてきた」――発展し密接化する「交通」諸関係が、そういう理念を生み出しているようにも見える。しかし、むしろ、(相互に金銭ずくになってゆく進展の中で)個人間の「競争」が、意識形態として自立化したものにほかならない。そして、「身分」「階級」、個人の「孤立」などの実態は覆い隠される。“ブルジョワもプロレタリアもみな人間だ”

 しかし、プロレタリアに階級意識が必要だとは言っていない。むしろ、プロレタリアートは、「支配階級に立ち向かうにあたって特殊な階級利害を貫くことなどなどもはや必要としない一階級」なのだと言う。プロレタリアートは、他の虐げられた諸階級すべてを糾合して「全大衆を牽引」する(p.166)と。






     






 【22】断章――「大きい束」の《第1ブロック》と異稿



 「大きい束」の《第1ブロック》の最初:{6}a=[8] は、そこにつながる草稿がなく、文の途中から始まっている。

 《第1ブロック》は、フォイエルバッハに対する“物質生産史観”からの批判で始まっているが、{6}d=[11] あたりから、批判をつづけながら脱線して、“物質生産史観”そのものを展開してゆく。といっても、まだ具体的な歴史叙述ではなく、あくまでも“史観総論”の域を出ない。しかし、その“史観総論”は、「分業」概念が前面に出ている点に特徴がある。これは、“最古層”ではなく、“最古層”を改訂した・少し新しい層ではないか? 廣松氏はそれと違うことも言っているので、廣松説はのちほど確認したい。

 ところで、同様の“史観総論”が、「小さい束」の <{1?}>c-<{2?}>a_-{5}a-d にも出てくる。<{1?}>a-<{2?}>a_-{5}a-d は、一続きに読むことができる断片稿で、うち<{1?}>a-b の抹消部分(の大部分)を浄書した異稿が <{1}>a-b である。<{2}> は、「1 イデオロギー一般、特にドイツ哲学」∽「A イデオロギー一般、とりわけドイツの」という見出し以外は <{1?}>c とまったく別で、<{1?}>c のような“史観総論”はない。

 <{1?}>c- の“史観総論”には、「分業」は出てこない。《生態史観》からつづく「生産」と「交通」による史観で、そこから「社会的編制と国家」「理念、表象、意識」が生み出されるとしている。

 さらに、<ア> 断片は、フォイエルバッハほか哲学イデオロギーに対する批判だが、そのなかに、


「現実的な解放は現実の世界の中で、現実的な手段によって成就する以外には不可能だということ、

 [地質学的、水理学的、等々の諸条件。]
 [人間の身体。欲求と労働。]


奴隷制は蒸気機関や精紡機なしには廃止できないし、農奴制は農業の改良なしには廃止できないということ、
〔…〕『解放』は歴史的事業なのであって、思想の事業ではない。それは歴史的諸関係によって、つまり工業、〔商〕業、〔農〕業、交〔通……用紙破損……〕の状〔態〕によって、もたらされる。〔……用紙破損……〕」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.214-215: {ア}[1].


 というクダリがある。


 廣松説の確認:<{1?}>c〜 と {6}d=[11]〜 の新旧関係。

@ 1965年の論文では、テクストの形式・文脈からの考証(<{1?}>a-b の抹消部分が<{1}>に清書されている、など)によって、<{1?}>a-d_-<{2?}>a_-{5}a-d ⇒ <{1}>a-b_-<{2}>a-d_-{6}a=[8]〜(第1ブロック) という改訂順序を結論。(『著作集』,8,pp.447-455,460,695.)

A 1974年の諸論文では、ヴィーガント季刊誌3号のバウアー論文「フォイエルバッハの特性描写」への反論を意図して執筆が開始されたとのバガトゥーリア論文に傾いて、<{1}>a-b_-<{2}>a-d_-{6}a=[8]〜{11}d(第1ブロック)…<ア> が「最古層」であるとする。<{1?}>-<{2?}>-{5} は、<{1}>-<{2}>-{6}〜…<ア> の「改訂異稿」であるとする。どちらからどちらへ改訂されたのかは曖昧になる。しかし、@の考証を否定するような論拠は示されない。(『著作集』,8,pp.497-499,510-512,521-523,629,635,659-660,695-697.)

 ∴ @説は、維持されていると考えてよい。

 なお、<{1?}>d と {6}d=[11] にある「山水誌的」云々のマルクス欄外注記が、<ア> にもある。しかも <ア> の本文の内容とは無関係なのに。これは、<ア>が、<{1?}>a〜よりもさらに古い「最々々古層」であることを示していないか。たしかに、<ア>の“史観”的内容は、もっとも原初的・素朴。


 そうすると、㋑もっとも古い <ア> に、マルクスが、[地質学的、水理学的、等々の諸条件。]/[人間の身体。欲求と労働。]と欄外注記し、これらの要素にも注意せよと指示した。枠囲み付きの強い指示。㋺そこで、エンゲルスは、自然的条件について考え、<{1}}>c〜 の“生態史観”総論を書いた。しかし、「地質学的……」については、そこまでは知識がないから「立ち入らない」という断り書きだった↓。㋩マルクスはもちろん、それでは不満なので、その後エンゲルスが {6}d=[11]〜 で“史観総論”を改訂した時に、もう一度同じ注記を書いた。――――こういう次第ではなかったか?

 だとすると、マルクスは、よほどこの“自然と社会にまたがる歴史”⇒「生態史観」にこだわっていたことになる。













 そこで、「最々古層」となる <{1?}>a-d_-<{2?}>a_-{5}a-d の“史観総論”部分:<{1?}>c-d_-<{2?}>a_-{5}a-d。わけても原基的な <{1?}>c-d について、『生態史観と唯物史観』(原1978年)は、次のように述べる:



われわれはただ一つの学、歴史の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察されることができ、自然の歴史と人間の歴史とに区分されることができる。しかし、両側面を時間によって切り離すことはできない。人間が生存する限り、自然の歴史と人間の歴史は相互に条件づけあうのである。自然の歴史、いわゆる自然科学には、われわれはここでは関説しない。しかし、人間の歴史には、立ち入っておくべきであろう。
〔…〕
廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫,p.24.



「われわれが出発点とする諸前提は何ら恣意的なものではなく、ドグマでもなく、仮構の中でしか無視できないような現実的諸前提である。それは現実的な諸個人であり、彼らの営為であり、そして、彼らの眼前にすでに見出され、また彼ら自身の営為によって創出された、物質的な生活諸条件である。それゆえ、これらの諸前提は純然たる経験的手法で確定することができる。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,p.25.



「人間史全般の第一の前提は、いうまでもなく、生きた人間諸個人の生存である。これらの諸個人が自らを動物から区別することになる第一の歴史的行為は、彼らが思考するということではなく、彼らが自らの生活手段を生産し始めるということである。第一に確定されるべき構成要件は、それゆえ、これら諸個人の身体組織と、それによって与えられる身体以外の自然に対する関係である。われわれは、ここではもちろん、人間そのものの肉体的特質についても、また人間が眼前に見出す自然的諸条件、すなわち地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係、についても、立ち入ることはできない。
〔…〕歴史記述はすべて、この自然的基礎ならびにそれが歴史の行程の中で人間の営為によってこうむる変容から、出発しなければならない。

 
〔…〕人間自身は、自らの生活手段を生産し始めるや否や、自らを動物から区別し始める。〔…〕人間は自らの生活手段を生産することによって、間接的に自らの物質的な生そのものを生産する。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.25-26.



「人間たちが生産手段を生産する様式は、さしあたりは、すでにそこにあって再生産されなければならない生活手段そのものの特質に依存する。

 この生産の様式は、
〔…〕すでに、これら諸個人の活動の一定の方式なのであり、自分たちの生を発現する一定の方式、諸個人の一定の生活様式である。諸個人がいかにして自分の生を発現するか、それが、彼らの存在の在り方である。彼らが何であるかということは、それゆえ、彼らの生産と合致する。すなわち、彼らが何を生産するか、ならびにまた、彼らがいかに生産するかということと合致する。それゆえ、諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.26-27.



「見られる通り、マルクス・エンゲルスは、唯物史観の視座を設定するに際して、まさしく、生態学的な了解から出発しているのである。

     
〔…〕

 マルクス・エンゲルスが歴史を観ずるに当り、
〔…〕人間的主体と自然的環境との、生態系的な相互規定態を表象していたこと、これには疑いを容れないであろう。」
廣松渉『生態史観と唯物史観』,1991,講談社学術文庫,pp.45-47.



 『ドイデ』執筆をめぐるマルクス/エンゲルスの役割分担について、@エンゲルス主導・執筆説(廣松)、Aマルクス主導・口述説、Bエンゲルス執筆部分とマルクス口述部分の仕分け説(武藤)がある。

 私は、両者討論・エンゲルス書記説を考えてみたが、@を検討した現在では、両者討論のあとでエンゲルスがそれに基づいて著述し、マルクスが加除・追記を加えているのではないか、という印象をもっている。エンゲルスの通常の癖よりも“書きながらの訂正”が多いのはなぜか、という問題は残るが。当時イギリス産業史の著述を目指していたエンゲルスにとって、マルクスによる強引な“イデオロギー指導”的指示のうるさい『ドイデ』執筆は、負担だったのではないだろうか。





 






 【23】「本論三2」――分業物象化




(フォイエルバッハ、存在と本質)

 人格的な諸威力(諸関係)は、分業によって、物象的なそれへと転化した。こうした事態は、事柄全般に関する表象を丸ごと頭から叩き出したからといって、止揚できるものではない。これが止揚されうるのは、ひとえに、諸個人がこれらの物象的諸威力を再び自分たちの下に服属させること、そして分業を止揚することによってである。このことは、共同社会なくしては生じえない、そして共同社会によってもたらされる諸個人の完全な、自由な発展なくしては不可能である
〔…〕共同社会において初めて、各個人にとって自己の素質をあらゆる面で陶冶する手段が実存するようになり、それゆえに、共同社会において初めて、人格的自由が可能になる。

 従来の共同社会の代用物――国家その他――においては、人格的自由は、支配階級の諸関係の中で育成された諸個人にとってしか、しかも彼らが支配階級の個人でいられた間しか、実存しなかった。これまで諸個人がそこへと結合した見かけ上の共同社会
国家など〕は、常に諸個人に対して自立化した、同時にまたそれは一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会であったばかりか、新たな桎梏でもあった。

 現実的な共同社会
〔現実化された共同社会、つまり共産主義社会〕においては、諸個人は彼らの連合〔アソツィアツィオーン〕において、かつ連合によって、同時に彼らの自由手に入れる。――――――」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.174-175.



 「分業」による、人格的諸関係の《物象化》。《物象化》・自立化によって、共同社会とその諸関係は、個人に対して桎梏となる。近代的な「人格的自由」も、その中に含まれる。「人格的自由」は、支配階級成員にとっては実存するが、被支配階級にとってはまったくの幻想だとする。

 1段目は、「分業」ある限り《物象化》あり。共産主義社会では「分業」は廃止されなければならない。というように読める。しかし、著者らの主意は、(シュティルナーに対する?)論争的主張で、……「人格的威力」の抑圧は、近代では《物象化》されているから(たとえば、階級、国家)、たんなる“改心”や“意識の変革”によってなくすことはできない、という点にある。

 したがって、《物象化》をなくすために「分業」を廃止せよ、と主張していることには、必ずしもならない。「分業」の概念が、そもそも曖昧だ。《物象化》が生じないような・透明な「分業」もありうるかもしれない。要は、「諸個人がこれらの物象的諸威力を再び自分たちの下に服属させること」が必要なのだ。

 「分業を廃止」することの意味は、「各個人にとって自己の素質をあらゆる面で陶冶する手段が実存するように」し、そうやって、「人格的自由」の享有を可能ならしめることである。

 そのような「自由」は、生産および生活全面にわたる assoziation によって可能になる、とする。


    アソシエーション、共同社会  ⇔  分業物象化
           人格的自由      階級,usw.表象への服属


 したがって、まずは、耐え難い《物象化》の実態を摘出し、それを緩和ないし消失させるしくみを考えていったほうが実践的。



「諸個人はいつでも自分自身から――
〔…〕与えられた歴史的諸条件・諸関係の枠内での自己から〔…〕――出発した。ところが歴史が発展していくうちに、そしてまさに分業の枠内では不可避な社会的諸関係の自立化によって、各個人の生活のうちに乖離が現われる。彼が人格的である限りでの生活と、彼が何らかの労働部門やそれに付随する諸条件に服属している限りでの生活との乖離である。(このことを、例えば、金利生活者や資本家等々が人格的存在であることをやめるかのように理解すべきではない。むしろ彼らの人格の在り方が、まったく特定の階級関係によって条件づけられ変容させられ規定されているものと理解されるべきである。乖離は、他の階級との対立の中で初めて顕著になる〔…〕

 身分においては(部族においてはなおのこと)これはまだ覆われていて、例えば貴族はあくまでも貴族、平民はあくまでも平民であり続け、そのことが
〔…〕彼の個性と切り離せない特質である。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,pp.175-176.


















【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(9) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




BLランキング  
.
カテゴリ: ユーラシア

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ