06/19の日記

17:09
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(3)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(2)からのつづきです。


  マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。

 上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。



「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」



「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」



「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」



 この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【7】「本論一」――「市民社会」の現出、“世界システム”への成長






「生産諸力によって条件づけられつつ、かつまた同時に生産諸力を条件づける交通形態、それが市民社会である。
〔…〕この市民社会は、単一家族と複合家族――いわゆる部族制――をその前提とし基礎としている〔…〕この市民社会こそが全歴史の真の汽罐室であり舞台である。〔…〕

 これまでわれわれは主として人間活動の一面だけを、つまり、人間たちによる自然の加工だけを考察してきた。もう一つの側面、人間たちによる人間たちの加工――――国家の起源、および市民社会に対する国家の関係。

 交通と生産力

廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫,pp.74-75.



 「生産力」と「交通形態」が互いに条件づけ合いながら弁証法的に発展する社会を「市民社会」と呼んで、それが「全歴史の真の汽罐室であり舞台である」とする。「生産関係」よりずっと広くて多様な意味をもつ「交通形態」という語が使われている。ともあれ、「形態」であるがゆえに、「生産力」が走るレールであるとともに、その桎梏となりうる。

 しかしそれ以上に眼を惹くのは、これは「人間活動の一面」であって、《自然との物質代謝》の面なのだと言っていること。経済活動や物質生活(家族など)を、単なる人間の活動とは見ないで、つねに《自然》との関係で見る視点がある。《自然》との関係は詳しく関説されてはいないが、にもかかわらず常に念頭にあると見なければならない。

 これに対して、もう一つの側面:「人間たちによる人間たちの加工」の面とは、「国家」、宗教、哲学等であると。



「歴史は個々の世代の連鎖に他ならず、どの世代も先行の全世代から遺贈された原料、資本、生産諸力を利用する。したがって、各世代は、一面ではまったく変化した環境のもとで伝来の活動を継続し、他面ではまったく変化した活動で旧来の環境を変容させるわけである。
〔…〕人々が前代の歴史の『使命』『目的』『萌芽』『理念』といった言葉で指し示しているものは、実際には、後代の歴史からの抽象、〔…〕成果と所産からの前代の歴史が後代の歴史に及ぼす〔…〕影響からの、抽象に他ならない。

 さて、この発展の過程で、相互に作用しあう個々の領域が拡大すればするほど
、つまり個々の民族性の原初的な閉鎖性が――より成長した生産様式や交通によって、またこれらによって自然発生的にもたらされる諸国民間の分業によって――廃棄されればされるほど、それだけますます歴史は世界史になっていく。例えばイギリスである機械が発明され、それがインドや中国で無数の労働者から生活の糧を奪い、これらの国々の生活形態全般を根本から変えるような場合、この発明は一つの世界史的な出来事となる。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.76-77.



 資本主義が“世界システム”に成長する過程。しかし、重要なのは、↓次のパラグラフで示される・その結果。すなわち、《物象化》の飛躍的進展である。







Henry Scott Tuke: Ruby, Gold, and Malachite






「確かに次のこともまた経験的な一事実である。すなわち、個々の個人は活動が世界史的な活動へと拡大するにつれて、ますます、彼らにとって疎遠なある威力――ますます大規模になってきて、最終的には世界市場として本性を現わす一威力――の下に隷属させられてしまった
〔…〕ということである。

 しかし、次のこともまた同様に経験的に基礎づけられている。すなわち、共産主義革命
〔…〕による現存社会状態の転覆によって、〔…〕私的所有の廃止によって、〔…〕
この威力は解消されるということ、そしてその時、個々の個人それぞれの解放は、歴史が世界史へと完全に転化するのと同じ度合いで遂行されるということである。

 個人の現実的な精神的豊かさがまったく彼の現実的な関連の豊かさに依存するということは、上述のところから明らかである。個々の諸個人は、このことによって初めて、さまざまな国民的・地方的な制約から解放され、全世界の生産(精神的生産を含む)との実践的な関連の中におかれ、そして全地上のこの全面的な生産(人間たちの創造物を享受する能力が与えられる
〔…〕

 全面的な依存性、諸個人の世界史的な協働のこの最初の自然発生的形態は、この共産主義革命によって、これらの諸威力
〔…〕の制御と意識的支配へと変えられる。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.78-80.



 《世界資本主義》の成長の、《物象化《疎外》の威力とともに、世界中の諸個人を「国民的・地方的制約から解放」し、全世界の物質的・精神的生産物を享受することができるようにする面が述べられる。たとえば、西欧先進圏で“生産”された革命理論を、非西欧の労働者も摂取し利用することができるようになるのだから、「威力」は悪いことだけをするのではない。「個人の現実的な精神的豊かさ」は、「現実的な関連の豊かさ」なしにはありえない。これが、「交通」という概念で指されている発展の内容であろう。

 もちろん、ここで著者らは、「共産主義革命」後に初めて誰でもが享受しうるようになる“発展の果実”について述べているのだが、それらの果実を生産したのは、「革命」ではなく《資本主義》なのである。

 この《資本主義の世界化》がもつ“光明化(enlightenment 啓蒙)”の面こそは、“人間の解放”の基礎である:「個々の個人それぞれの解放は、歴史が世界史へと完全に転化するのと同じ度合いで遂行される」。



「最後に、以上展開してきた歴史観から、われわれはなお次の結論を得る。

 (一)生産諸力の発展中に、現存する諸関係の下では害悪しか惹き起こさないような、もはや生産力ではなく破壊力であるような(機械装置と貨幣)、そういう生産力と交通手段が呼び出される一段階が現われる。――そしてこのことと関連して、社会に利益は享受することなく、社会のあらゆる重荷を背負わざるをえないような、
〔…〕一階級が呼び出される。〔…〕この階級から根底的な革命の必然性の意識、共産主義的な意識が出てくる。〔…〕

 (二)一定の生産諸力は諸条件の範囲内で利用可能となるが、この諸条件はまた、社会の特定の一階級の支配の諸条件である。
〔…〕彼らの占有から生起する威力は、そのつどの国家形態の内にその実践的−観念論的な表現をもつ。

 人々は現行の生産態勢を維持することに関心をもっているということ

そして、それゆえに市民社会の最終段階ではどの革命闘争も、それまで支配してきた一階級に立ち向かう。

 (三)従来のどの革命においても、活動の様式は手付かずのまま残され、ただこの活動の別様な割り振り、つまり別の諸人格への労働の新たな配分だけが問題にされた。これに対して、共産主義革命は従来の活動の様式に立ち向かい労働近代的な……の支配の下にある
〔…〕を除去し、そして、あらゆる階級の支配を、階級そのものとともに止揚する。〔…〕

 (四)この共産主義的意識の大衆的規模での創出のためにも事柄そのものの完遂のためにも、大衆的規模での人間変革が必要である。大衆的規模での人間変革は実践運動のさなかでのみ、革命においてのみ、進捗しうる。
〔…〕革命のさなかでのみ、古い残滓をわが身から一掃して、社会の新たな礎石を築く能力をもてるようになる、という理由からしても必要なのである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.81-84.



 (三)の「活動の様式」が意味不明。生産の様式ないし生産関係をいうのか? あるいはもう少し広く、精神労働、司祭、戦士、王侯等の“労働”まで含む人びとの社会的「活動」か?

 「革命」による「人間変革」論。ドイツ・イデオローグの「意識の変革」を批判しながら、けっきょく「人間革命」になってしまった。「革命」は、労働者の精神を鍛錬するために必要なのだと(笑嗤)。著者らは、資本主義による《疎外》から、労働者の自律性、主体性を取り戻す意味で言っているのかもしれないが、自律性・主体性の回復は、「革命」ではなく、生産過程において行われなければならないはずだ。

 況や、マルクス/エンゲルス以後の「マルクス主義」は、二人の意図にさえ反して、労働者の「人間変革」を、新たな隷属化の手段にしてしまった。「古い残滓をわが身から一掃」せよ! 自己批判せよ! 「一掃」できないやつは、そいつの生命もろとも粛清だ!






 






「この歴史観は、それゆえ次のことに基づいている。すなわち、現実的な生産過程を、それも直接的な生
〔せい〕の物質的な生産から出発して、展開すること、そしてこの生産様式と連関しながらこれによって創出された交通形態を、したがって市民社会を、そのさまざまな段階において、およびそれの実践的−観念論的な鏡像、つまり国家において全歴史の基礎として把捉すること、そして市民社会を、それの国家としての営為においても叙述すること、ならびにまた、宗教、哲学、道徳、等々、意識のさまざまな理論的創作物と形態のすべてを、市民社会から説明し、そしてそれらのものの生成過程をそれらから跡付けること、――そうすれば当然そこではまた事象がその全体性において〔…〕叙述されうる

 
〔…〕この歴史観は、次のことを示す。〔…〕歴史においてはどの段階にあっても、ある物質的な成果、各世代に先行世代から伝授される生産諸力の一総体、歴史的に創造された対自然ならびに諸個人相互間の一関係が見出される。生産諸力・諸資本・環境の一総和、これは、なるほど一面では新しい世代によって変容せられるが、他面では当の世代に対してそれ固有の生活諸条件を指定し、この世代に一定の発展、特殊な位置性格を付与する。――こうして、人間が環境を作るのと同様、環境が人間を作るのである。各個人ならびに各世代が所与のものとして眼前に見出す、生産諸力・諸資本・社会的交通諸形態の総体、これこそが、『実体』とか『人間の本質』とかとして哲学者たちが表象し〔…〕神格化したり挑戦したりしてきたものの実在的な地盤である。〔…〕各世代が眼前に見出すこ〔れら〕の生活諸条件は、また、歴史上周期的に反復再現する革命的激動の強さが現存するもの一切の土台を転覆するのに十分なほどになるかどうかをも、決定する。〔…〕すなわち、一方では既存の生産諸力が、他方では革命的な大衆の形成が――旧来の交通社会の個々の条件に対してだけでなく、旧来の『生の生産』そのものに対して、つまり社会の基礎になっているこの『総体的活動』に対して革命を起こす大衆の形成が――
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.86-89.






 【8】「本論一」――環境汚染と“プロレタリア”状態の相同性



 ↓つぎの長大な欄外追補は、フォイエルバッハの《人間哲学》への・まとまった批判になっているが、そこでは、工場排水や蒸気船による河水汚染が、魚や人間の「存在」を「本質」から乖離させてしまう。その場合、《自然》も人間も、《疎外》された「諸活動」:《疎外》された人間労働――《疎外》された物質代謝――によって生存を害される。と述べている。



フォイエルバッハは(『ヴィ―ガント季刊誌』1845年第2巻)『共同人』という資格づけによって、自分は共産主義者だと言明し
〔…〕いるが、そこで彼がいかにはなはだしい思い違いをしているかということである。

 人間たちの相互関係に関するフォイエルバッハの全演繹は、人間たちはお互いを必要としあっており、またいつも必要としあってきたということの証明に尽きる。彼はこの事実についての意識を構築しようとし、したがって彼は、
〔…〕現存する事実についての正しい意識を生み出そうとするだけである。〔…〕われわれは、もちろん、フォイエルバッハがまさしくこの事実についての意識を作り出そうと努力していることによって、およそ理論家たる者が理論家や哲学者たることをやめることなしに行けるぎりぎりのところまで行っているということ、このことを全面的に承認する。しかし、彼は依然としてはなはだしい思い違いをしている。

 フォイエルバッハの主張が
現存するものの承認であると同時に誤認である例として、『将来の哲学』のあの箇所を想起しよう。そこで彼は、事物であれ人間であれ、それの存在が同時にそれの本質なのだという主張や、また動物であれ人間であれ一個体の、一定の生存諸関係・生産様式・活動は、その個体の『本質』がそこで満足を感じる場なのだ、という主張を展開している。ここでは明らかに、例外はいずれも不幸な偶然として、変えようのない異常として捉えられている。だから、何百万というプロレタリアが彼らの生活諸関係の内でどうしても満足を感じない場合、つまり、彼らの『存在』が彼らの『本質』におよそ照応しない場合、上述の箇所によれば、これは人々がじっと耐え忍ばざるをえない一つの避けがたい不幸だ、ということになってしまう。〔…〕

 こういうわけで、フォイエルバッハはそうした例外の場面に出合うと、人間界については黙して語らず、そのつど外的自然に、しかもまだ人間たちに支配されていない自然なるものに逃げ込む。ところが、新しい発明のたびごとに、産業の進歩のたびごとに、この未支配の地域は一片また一片と新たに剥ぎ取られていき、こうして、こうして、フォイエルバッハの同趣の諸命題の例証となるものが生育する地盤はますます小さくなっていく。

 一つに命題に絞るなら、魚の『本質』は魚の『存在』たる水である。川魚の『本質』は川の水である。しかし川の水は、その川が工業に従属させられるや否や、川が染料その他の廃物で汚染され、蒸気船が運行するようになるや否や、そして川の水が掘割へ引かれて人が流れを変え、人がただ排水するだけで掘割の魚から生存媒体
〔本質としての水〕を奪えるようになるや否や、――水は魚の『本質』たることをやめ、もはや魚にとって不調和な生存媒体となる。〔フォイエルバッハは〕この種の矛盾をすべて避けがたい異常だと言明する〔…〕

 ところが、
〔フォイエルバッハのような自称「共産主義者」とは異なって、〕現実の共産主義者たちにとって肝腎なのは、この現存するものを転覆することなのである。
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.97-99,102-103.













 「川魚」の例は、プロレタリアに対する比喩として述べられているのではない。人間たちと《自然》とのあいだの《物質代謝》の亀裂が、一方では労働者を《疎外》し、他方では《自然》の生き物を《疎外》する。そのメカニズムの変遷こそが、『自然史=人間社会史』にほかならないのだからである。





【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(4) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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カテゴリ: ユーラシア

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