06/12の日記

16:36
【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(2)

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(1)からのつづきです。


  マルクス/エンゲルスの共著『ドイツ・イデオロギー』は、編集中途の草稿の状態で遺された未完成の著作です。内容的に未完成で、さまざまに矛盾する主張を含んでいますが、それこそがこの作品の魅力でもあります。また、内容だけでなく、形式面でも大きな混沌をはらんだテクストであるため、字句はもちろん篇別構成・断片の順序に至るまで、編集者の介入を必要としており、版本によって相異があります。ここでは、廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫. をテクストとして使用します。

 上記岩波文庫版からの引用中、青字はマルクスの筆跡、それ以外(白字)はエンゲルスの筆跡。草稿の抹消箇所は下線付きで、追記・挿入は斜体で示します。



「エンゲルスの筆跡エンゲマルクスの筆跡ルスの筆跡」



「人間を動物から区別するのは、生産するみたいな感じでことによってである。」



「人間が自らを動物から区別するのは、道具を用いて生産することによってである。」



 この「ノート」は、著作の内容を要約することも、著者らの思想を伝えることも目的としていません。あくまでも、私個人の思索のための抄録と、必ずしもテクストにとらわれないコメントを残すためのものです。






 【4】「本論一」――眼で見た外観と、探究して解明された「現実」と。



感性的世界の直観の場合」
フォイエルバッハは「彼の意識や感情と矛盾する事物にぶつかる。」この矛盾を解決するために「二重の直観〔…〕一つは〔…〕『肉眼に明白なもの』を看取する世俗的な直観、もう一つは事物の『真の本質』を看取する高次の、哲学的な直観である。〔…〕

 注意。
〔…〕肉眼に明白なもの、感性的な外観を、感性的事実のより精密な研究によって確定された感性的現実の下位に置くことが誤りなのではなく、問題なのは、〔…〕哲学者の『眼鏡』を通して考察するという仕方でしか、扱えないということだ。
廣松渉・編訳,小林昌人・補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,2002,岩波文庫,pp.44-45.



 ここで著者らは、フォイエルバッハの「感性主義」による現実の見方……世界を把握する方法を、一部修正したうえで受け入れる。それは、日常的・世俗的な外観そのままと、より深く進んだ探究の結果とを併存させ、後者を優位におく「二重の直観」である。

 ただ、後者は、フォイエルバッハとは違って、直観というより、かなり理性的、理念的なものになりがちであることは、押さえておいてよい。



   修正された「二重の直観」:

            ┏→ 「肉眼に明白なもの」=感性的外観。世俗的な直観。
 「感性的世界の直観」 ┫
            ┗→ 感性的事実の精密な研究により確定された「感性的現実」。




「彼をとりまいている感性的世界は、
〔…〕活動の成果であるということ産業と社会状態の産物であるということ、しかも、感性的世界は歴史的各時代において産物であり、活動の成果であるという意味でそうなのだ〔…〕それは、世代から世代へと続く一系列全体の活動の成果であって、世代の各々は先行する世代の肩の上に立ち、その産業と交通を拡張し、変化した欲求に則(のっと)ってその社会秩序を変容させてきたのである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.44.



 この「変化」「変容」のなかで、人間たちの「欲求」も変化する。ということは、「感性」も変化する。

 「世代の各々は先行する世代の肩の上に立」――つとは限らない。新しい世代に受け継がれず、捨て去られるもの、忘れられてしまうもの、そもそも認識されもしないものもたくさんある。













「かの大評判の『人間と自然との統一』なるものは、産業の場面で昔から厳存しており、産業の発展の高低に応じて時代ごとに別様な在り方で厳存してきたということ、同じくまた人間と自然との『闘争』も、人間の生産力が相応の土台の上で十分に発展を遂げるまでは厳存し続けるということ
〔…〕工業と商業、生活用品の生産と交換は、それ自身が分配やさまざまな社会的諸階級の編制を条件づけるが、逆にまたその営まれ方においては、分配や諸階級の編制によって条件づけられる。〔…〕

 工業や商業がなかったら、一体どこに自然科学がありえよう? この『純粋』自然科学といえども、その素材どころか目的をすら、商業と工業によって、人間たちの感性的活動によって、初めて手に入れるのである。
〔…〕

 それほどまでに、この活動、この間断なき感性的な労働と創造、この生産こそが、今日実存する感性的世界全体の基礎なのだ

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.46-47



 「生産」「分配」「交換」と階級編制の関係。「分配」という語は、ここにしか出てこない。しかし、マルクスの加筆によれば、この諸関係は、“人間と自然の統一/闘争”の「時代ごとの在り方」として見ることになる。単なる“生産関係と階級”という狭い見方ではない。






 【5】「本論一」――歴史把握の「第一前提」と4つの契機。






「歴史にとっての、第一前提を確定すること。それはつまり、『歴史を創る』ことができるためには、人間たちが生活できていなければならないという前提である。生活しているからには、何はおいても最低限、飲食、住居、被服、その他若干のものがそこに含まれている。それゆえ、第一の歴史的行為は、これらの欲求を充足させる手段を創出すること、つまり、物質的生活そのものの生産である。このことは、しかも、歴史全般の根本条件ともいうべき歴史的行為であって、
〔…〕

 いかなる歴史的把握であっても、第一の案件は、この根本事実をその意義及び範囲の全体にわたって観察し、それを正当に扱うことである。
〔…〕フランス人やイギリス人〔…〕ともかく歴史記述に唯物論的な土台を与えようとする最初の試みを行なった。というのは、彼らが市民社会の歴史、商業と工業の歴史を初めて書いたからである。

 第二の案件は、最初の欲求の充足が、ただちに新しい欲求を創出するということ、
〔…〕充足された最初の欲求そのものが、すなわち充足の営為とひとたび獲得された充足の用具とが、新しい欲求へ導くということ、――そしてこの新しい欲求の創出とは第一の歴史的行為なのだということである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.51-53.



 1段目の「物質的生活そのものの生産である」の付近に、↓マルクスの書き込みがある。



地質学的、水理学的、等々の諸関係。人間の身体。欲求、労働。



 つまり、「第一の歴史的行為」である「物質生活の生産」は、一方では、地質、土壌、水文などの環境から、他方では、「身体、欲求、労働」という人間の側の行為から、考える必要がある、ということ。つまりそれは、《人間と自然との物質代謝》にほかならないということである。

 “欲求の充足は新たな欲求を生み出す”――これは、《資本》の(拡大)再生産と同じ発想ではないか? しかし、これ自体は歴史貫通的な運動である。《資本》の回転は、そのひとつの・《疎外》された現われにすぎない。

 もっとも、マルクス/エンゲルスが、資本主義特有の現象を、過去に遡らせて投影しているのでないかどうか、よく検討する必要がある。彼らの意識とて、フォイエルバッハらと同様、自分の時代の「現実的物質生産」から巨きな影響を受けているはず。






 






「第三の関係は、
〔…〕そもそもの初めから、歴史的発展へと進み入るもの〔…〕繁殖を始めるということ、〔…〕家族。当初は唯一の社会的関係であったこの家族は、後に、増大した欲求が新しい社会的諸関係を、そして増大した人口が新しい欲求創出するようになると、一つの従位的な社会関係になる。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.54.



 「人口の増加」→「欲求の増大」→「新しい社会関係の創出」

 発展の動力として、人間の「欲求」を重視していることが、歴史観・社会観の特質ではないか? つまり、客観的・法則的な歴史観ではない。そもそも人間が欲求しなければ、いかなる歴史もありえない。(マルクス/エンゲルスが非難してやまない・法律家の「意思主義」に、似てないか?)

 しかし、そうだろうか? 人は伝統と《自然》にしたがってのみ欲求する、そういう社会もあるのではないか?

 ↓つぎは、「第4の案件」と明示していないが、文脈から、それにあたると見られる。



「生の生産は、労働における本人自身のそれにせよ生殖における他人のそれにせよ、そのつど
〔…〕一面では自然的な関係として、他面では社会的な関係として――現われる。社会的という意味は、〔…〕複数の諸個人の協働がここに了解されているということである。ここから次のことが生じる。一定の生産様式ないし産業段階は、常に一定の協働の様式ないし社会の段階と結びついている。そしてこの協働の様式がそれ自身一つの『生産力』なのであるということ、そして人間たちが手にしうる生産諸力の大きさが社会的な状態を条件づけるのであり、それゆえ、『人類の歴史』は常に産業及び交換の歴史との関連で、研究され論じられねばならないということである。〔…〕

 こうして、そもそもの初めからすでに、欲求および生産の様式によって条件づけられ、人間たちそのものと同時に成立している、人間相互間の唯物論的な連関が見られる。
〔…〕

 人間たちは彼らの生を生産せざるをえないがゆえに、しかも一定の様式でそうせざるをえないがゆえに、歴史をもつ。

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.54-56.






 【6】「本論一」――社会的「分業」論



「言語は意識と同い年である。言語は、
〔…〕他の人間たちにとっても〔…〕私自身にとってもまた最初に実存する現実的な意識である。そして言語は、意識と同様、他の人間たちとの交通に対する欲求と必要から、初めて生じる。

 私の環境に対する私の関係が私の意識である

 意識は、こうして、そもそもの初めからすでに、一つの社会的生産物であり、
〔…〕

 意識は、もちろん当初は、単に最も身近な感性的環境についてのの意識であり、
〔…〕同時に自然についての意識である。この自然は人間たちにとって、当初はまったく疎遠な、全能で不可侵の威力として立ち現われ、人間たちは〔…〕家畜のように畏服する。それゆえに、この意識は純粋に動物的な自然の意識なのであるが(自然宗教)、

 それは自然がまだほとんど歴史的に変容されていないからこそである

 ――しかし他面では、周囲の諸個人との結合関係に入らざるをえない必然性の意識であって、個人はそもそも社会の中で生きているということについての社会的意識の端初である。この端初は、この段階の社会生活そのものと同程度に家畜的動物的である。それは単なる群棲意識であり、
〔…〕この閹羊(えんよう)意識ないし部族意識はさらなる発展と成熟を遂げていくが、それをもたらすのは、生産性の向上、欲求の増大、そしてこれら両者の根底をなす人口の増大である。

 これに伴って分業が――本源的には性的行為における分業にすぎなかったのだが――発展していき、やがて自然的な素質(たとえば体力)、欲求、偶然等々によって、
〔…〕「自然発生的」に生じる分業が行なわれるようになる。分業は、物質的労働と精神的労働との分割が現われた瞬間から、初めて現実に分割となる。

 イデオローグの最初の形態、僧侶が同時に生じる。

 
〔…〕――この瞬間から、意識は、自己を世界から解き放って「純粋な」理論、神学、哲学、道徳、等の純粋な形成へと移ることができるようになっている。しかし、これらの理論、神学、哲学、道徳、等が現存の諸関係との矛盾に陥る場合でさえ、そのようなことが起こりうるのは、もっぱら現存の社会的諸関係が現存の生産力との矛盾に陥っていることによってである。――」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.57-60.


 マルクスは『パリ・ノート』ですでに、農奴的隷属(《大地》との一体性)から賃労働への転化、あるいは自立した小生産者の社会への転化を叙述している。しかし、ここでは一段退いて、より抽象的なレベルで、「人口の増加」→「新しい欲求」→交通分業 という連関を述べる。そうした抽象的なレベルから始めている。

 しかし、「本論三2」で、より具体的レベル(領主と農奴、中世都市、ツンフトと商人階級が現れる)になっても、「欲求」「交通」「分業」はキー概念でありつづける。













この自然宗教あるいは自然に対するこの一定の関わり合いは、社会形態によって条件づけられ、かつまた逆に社会形態を条件づける。どこでもそうであるが、ここでも自然と人間との同一性は、自然に対する人間たちの局限された関わり合いが彼ら相互間の局限された関わり合いを条件づけ、そして、人間相互間の局限された関わり合いが自然に対する彼らの局限された関係を条件づける、という具合に現われている。

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.59.



 人間と自然が一体性(「同一性」と呼んでいる)を保っていた時代について、「局限性」“狭隘性”の面だけを見ているのは大きな難点。しかし、人間と《自然》の関わり合いと、人間相互間の関わり合いとの相即性を見る視点は学んでよい。

 「自然と人間との同一性」から、農奴の人格的隷属性。しかし、労働過程における自立性、領主との・また農奴相互間の「和気あいあいとした関係」。これらは同じことがらの各面。(パリ・ノート)Vd.『大洪水の前に』、福富正実『経済学と自然哲学』。

 『ドイツ・イデオロギー』では、『パリ・ノート』より後退して、「局限された」面だけを見るようになっている。「生産力至上主義」になってしまっている。前節の人種差別正当化も参照。



「もっとも、そのようなこと
〔バウアーの「純粋理論」のような概念をはじめとして、もろもろの哲学や思想が、現存の「諸関係」との矛盾に陥ること〕は、〔…〕矛盾が〔…〕国民的な意識と他の諸国民の実践との間に、換言すれば一国民における国民的意識と普遍的意識との間に、矛盾が生じる(今日のドイツでのように)ことによっても起こりうる。――この場合、当の国民には、〔…〕国民的意識内部での矛盾として現象するので、闘争もまたこの国民的な糞尿事に限られているように仮現する。〔…〕

 われわれはこれら一切の汚物からただ一つの結論を得るだけである。
〔…〕生産力と社会的状態と意識が、相互間で矛盾に陥ることがありうるし、またそうならざるをえないということ、――というのも、分業に伴って、精神的活動と物質的活動、享受と労働、生産と消費とが、別々の個々人に帰属する可能性、いや現実性が与えられるからである――、それらが矛盾に陥らなくなる可能性は、分業が再び廃止されるということのうちにしかない、ということである。〔…〕

 
〔しかし、ブルーノに対抗するシュティルナーの諸概念も〕見かけ上個別化された個人の表象なのであり、極めて経験的な桎梏や制限――生の生産様式およびそれと連関する交通形態は、その枠内で動くしかない――についての表象なのだということである。このような、現存する経済的制限の観念論的表現は、〔…〕実践的な意識のうちにも存在する。つまり、自己を解放しつつある、そして現存の生産様式と矛盾に陥っている意識は、諸々の宗教や哲学だけでなく、諸国家をも形成するのである。
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.60-63.



 「生産力」と「社会的状態」と「意識」のあいだの矛盾――という弁証法的発展の論理(の端初)が述べられる。しかし、その論理が出てきた現実の歴史的関係(なまの事実状態)にこそ注目すべきである。「発展の論理」が、どこか宙から思弁によって出てきたように思ってはならない。

 「純粋理論」とは、バウアー:「現存諸関係との矛盾、軋轢、闘争を通じて現状を不断に批判・改革し、もって人間の『自己意識』を発展させるものと主張された。」(p.249.註(21))。バウアーは、「国民的意識内部で」哲学の「純粋理論」が政治的・宗教的意識の諸関係(国家、教会の決定や規則や取締り)と闘争しているように思っているが、ほんとうは、ドイツの遅れた意識や制度が(ドイツ人自身の産業的実践は、それと釣り合っているのだが)、他国民の「実践」(イギリス、フランスの産業発展、中産階級や労働者の現実的な要求運動)との間で、つまり「普遍的意識」との間で引き起こしている矛盾なのだと。

 その場合、バウアーの「純粋理論」は、自分がイギリス、フランスの工場主や労働者の実践から生まれてきているという出自には思い及ばず、自分こそが世界で最も純粋な「普遍的意識」だと思いこんでいる。その実、思想としては、ドイツの遅れた意識の母斑を引きずっている。↓下の・エンゲルスが描いた絵は、これを表す戯画。逆立ちした人物が、フランスのサンキュロットのように左手で帽子を振っているが、同時に右手ではサーベルを握り、右手首から下がった小旗には、マルクスの字で「宗教」「イデオロギーそのもの」と書かれている。

 このように、現実はきわめて錯綜している。発展した生産力が、古い生産関係と矛盾し破砕する、というような単純なことは、ふつうは起きないのだ。

 最後の段落↑……シュティルナーについて述べたところでは、「意識」と「生産様式」の矛盾を、より立ち入って論じている。

 かたや、@シュティルナーのようなエセ“個人”にとっての「極めて経験的な桎梏や制限」すなわち「現存する経済的制限」があり、他方に、Aシュティルナー自身を含む「見かけ上個別化された個人」の「生の生産様式およびそれと連関する交通形態」「現存の生産様式」があるが、Aは、@の「桎梏や制限」の「枠内で」しか「動」けない。そのために、Aの発展は、制限を受けて未成熟であり、自立化した(すなわち、人格的に解放され、金銭的欲求のままに行動する)「個人」とはなりえないでいる。A、すなわち現今のドイツ人は、不徹底な「見かけ上の個人」であるほかない。これが、遅れた“ドイツ市民社会”の現状である。

 それでは、彼らドイツ人の発展を「制限」している@とは、何なのか?

 マルクス/エンゲルスによれば、それは、シュティルナーのような“自分は闘争していると思いこんでいるドイツのイデオローグたち”自身の観念的意識から立ち上がる「諸宗教、諸哲学、諸国家」にほかならない。抑圧された人びとは、抑圧が続いているあいだは、宗教というアヘン中毒症の幻想を生産しつづける。「桎梏」を受け「制限」された哲学者たちも、観念論的哲学という・やや高級なアヘンを生産する。じつは、制限を受けている「実践的な意識」すなわち「自己を解放しつつある、そして現存の生産様式と矛盾に陥っている意識」そのものが、ドイツでは、「諸宗教、諸哲学、諸国家」を「形成」しているのである。






 
『ドイツ・イデオロギー』草稿の1頁。   






「上述の一切の矛盾は分業の内にあり、分業そのものはまた家族における自然発生的な分業に、そして個々の対立しあう諸家族への社会の分裂に、基づく。――分業に伴って、同時にまた配分、しかも量的にも質的にも不平等な、労働とその生産物の配分が存在するようになっており、したがって所有が存在するようになる。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.63-64.



 ここではじめて、「生産関係」が言及される。「所有」が導入されたから、概念されうるようになったのだ。ただし、まだ「生産関係」という語は用いられていない。「生産様式」という語は、すでに出ているが、別の意味で用いられていた。



所有は、妻と子供たちが夫の奴隷であるような家族の内に、すでにその萌芽、その最初の形態をもっている。家族内における、勿論まだ極めて粗野で潜在的な奴隷制、これが最初の所有である。それにしてもこの最初の所有は、
〔…〕所有とは他人の労働力を意のままにすることだという近代の経済学者たちの定義にまったく適っている。ともあれ、分業と私的所有とは、同じことの〔異なる〕表現である――後者において活動の生産物との関係で言い表わされているものが、前者においては活動との関連で言い表わされているのである。

 さらにいえば、分業と同時に、個々の個人ないし個々の家族の利害と、交通し合っている諸個人全員の共同的利害との矛盾が存在するようになっている。しかも、この共同的利害というのは、何かしら単に表象の内に『普遍的なもの』としてあるのではなく、

 そもそも、普遍的なものというのは、共同的なものの幻想的形態なのだ

まずは現実の内に、労働を分掌している諸個人の相互依存性として実存するのである。」

『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.64-66.






 家族の内部では「所有」も搾取も問題にならないとよく言われるが、マルクス/エンゲルスは、そんな甘いことは言っていない。彼らによれば、家族の内部には支配がないのではない。単に、外部(国家など)の支配が部分的にしか及ばない、というだけなのだ。













 上の「共同的利害」について、以下↓、欄外に長い書き込みがある:



まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として形成される、現実の個別的利害ならびに全体的利害から切り離された自立的な姿をとる。

 そして同時に幻想的な共同性として

とはいっても、
〔…〕各々の家族集団や部族集団のうちに現前する、肉と血、言語、かなり大規模な分業やその他の利害といった紐帯、そしてとりわけ、〔…〕すでに分業によって条件づけられている諸階級――同じ種類の人間集団ごとに分かれ、そのうちの一階級が他の全階級を支配する――という実在的な土台の上でのことである。

 ここから次のような結論が出てくる。民主政・貴族政・君主政の間の闘争、選挙権のための闘争、等々、国家の内部における一切の闘争は、さまざまな階級間の現実的な闘争がそういう形態をとって行われるところの、幻想的な諸形態にすぎない。
〔…〕そしてさらに、〔他の諸階級に対する〕支配権を目指すどの階級も――プロレタリアートの場合〔…〕でさえ――まずもって国家の〕政治権力を奪取しなければならない。自分たちの利害を今度は普遍的なものとして示す〔…〕ためである。

 まさしく諸個人がもっぱら彼らの特殊的な――〔…〕自分たちの共同的利害とは一致しない利害を、追及するからこそ、――このもの〔特殊的利害――ギトン註〕は彼らにとって『疎遠な』、彼らから『独立な』もの〔宗教、哲学等〕として、二重にも特殊的で、かつ独特の『普遍』利害として、まかり通ることになる。あるいは、民主政の場合のように、彼ら自身がこの〔特殊と普遍の〕二極分裂の中で動かざるをえないことになる。それゆえ、他面では、共同的利害および幻想的な共同的利害〔=国家に対立して〔…〕現われる、これら特殊利害の実践的闘争もまた、国家という幻想的な『普遍』利害による実践的な調停と制御を必要とすることになる。
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.66-71.

註★:この1文は、河出版の原文を参照して改訳した。



 政治闘争は、諸階級の利害をめぐる闘争だ…という単純化された見方は紋切りだが、そう思わないと当時の闘争には不都合があったのだろう。いまは通用しない見方。それよりも、諸「階級」は「分業によって条件づけられている」という着想が良い。「支配」と「所有(他人の労働を支配すること)」は、「分業」(垂直的分業)に基いている、あるいは、「分業」を別の言葉で言い換えたにすぎない。つまり、それらの背景には、人間が集団として《自然》との《物質代謝》を行なう、その形態が発展してゆく(「自然発生的に」→「ひとりでに」)、という歴史貫通的な“事実”ないし真理がある。

 「政治権力奪取」必然論も、「革命の時代」という特殊な歴史的(一時的)条件の産物。それよりも、その後のマルクス筆跡での書き込みがおもしろい。「政治権力奪取」闘争もまた、それ特有の《疎外》を生み出すというのだ



「そして最後に、分業は次のことについて最初の例を、早速われわれに提供してくれる。すなわち、
〔…〕特殊な利害と共通の利害との分裂が実存する限り、したがって労働活動が自由意志的にではなく自然発生的に分掌されている限り、人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を支配する圧服する、ということである。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,p.66.



 それでは、分業、協業が「自由意志的に」行われれば、《疎外》はなくなるのか? ‥‥これは大きな問題だが、このあとの行論で、さらに問題化するので、そこで扱おう。問題は、「自由意志的に」分業するとは、(幻想的にではなく「現実的」に、つまり、見たままには)どういう事態なのか、ということである。



「同じく、つまり労働が分業化され始めると、各人は自分に押しつけられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、それから抜け出せなくなる。彼は、猟師、漁夫、あるいは牧人あるいは批判的批判家のどれかであって、生活の手段を失いたくなければそれであり続けざるをえない。――これにひきかえ、共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。共産主義社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、
〔…〕
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.66-67,69-70,73-74.



 専門領域をもたずに「自分を磨く」ことができるだろうか?! という疑問があるが、それは置いても、「生産の全般を規制」するという「社会」とは、いったい何なのかが問題である。それは「国家」でなくて何なのか? 「国家」は、諸階級それぞれの利害とは別に、「国家」独自の利害ないし“慣性”をもつ。それゆえ、「国家」は決して自己の役割(たとえば「戦争」「交戦権」)を放棄しない。「国家」が自身の主人として戴く支配階級の利益に反してでも、「国家」は自身の役割と権力を拡張しようとする衝動をもつ。

 あるいはもし、「生産の全般を規制」する「社会」なるものが、「意識」的な「国家」でも、無意識的な市場機構でもない何かでありうると言うのなら、それはどんなものであるのかが、示されなければならない。






 






「社会的活動のこうした自己膠着、われわれ自身の生産物が、われわれを制御する一つの物象的な強制力と化すこうした凝固
〔…〕、これが、従来の歴史的発展においては主要契機の一つをなしている、そして所有において――所有〔…〕人間たち自身によって作られた仕組みだが、やがて、固有の、所有を編み出した人々さえ意図しなかったような転回点を社会に与える〔…〕社会的威力、すなわち幾重にも倍加された生産力――それはさまざまな諸個人の分業の内に条件づけられた協働によって生じる――は、協働そのものが自由意志的でなく自然発生的であるために、当の諸個人には、彼ら自身の連合した力としてではなく、疎遠な、彼らの外部に自存する強制力として現われる。彼らはこの強制力の来し方行く末を知らず、したがってもはやそれを支配することができず、反対に、今やこの強制力の方がそれ独自の、人間たちの意思や動向から独立な、それどころかこの意思や動向を第一次的に主宰する、一連の展相と発展段階を閲歴するのである。(+)

 もしそうでなければ、例えば所有がそもそも歴史をもち、さまざまな姿をとるということや、
〔…〕商業が、需要と供給の関係を通して全世界を支配するというようなことが、どのようにして生じるのか?〔…〕

 しかしながら、土台
〔隷従的な生産関係〕の廃止、私的所有の廃止とともに、また生産の共産主義的規制とともに、そしてここに含まれることだが、人間たちが自分自身の生産物に対して関わり合うさいの疎遠さの根絶とともに、需給関係の威力は無に帰し、そして、人間たちは、交換、生産、彼らの相互的な関わり合いの在り方を、再び自分たちの支配下に置くようになる。」
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.69-70,73-74.



 「分業」によって生ずる《疎外》の論述、続き。“労働する”という人間の活動が、「疎遠な対抗的威力」として立ち現れる《疎外》態は、一方では「国家」として、他方では資本主義「市場機構」となって現象する。少し前の段では、「国家」を主に念頭に置いていたので、《疎外》のメカニズムは、「分業」によって「共同利害」と「特殊利害」が対立し、この対立が「国家」を生み出す。だから、「分業」の固定化が廃棄されれば、「国家」も《疎外》もなくなるという論理だった。

 ここでは、疎外された「生産物」という「物象的な強制力」に注目し、《疎外》態の焦点は、「私的所有」と「市場」に移る。

 「倍加された生産力」すなわち「生産力発展」そのものが「社会的威力」であり、《物象化》した強制力として立ち現れるとしている。

 「自然発生的な[膠着した]分業」だから《疎外》が生じる、「自由意志的」な分業なら《物象化》も《疎外》も生じない、という基本的発想は、国家、市場、生産過程の区別なく一貫している。大いに疑問だが‥。

 人びとが「強制力の来し方行く末を知」り、「したがって(!!!!)」それを協同で(アソシエーションによって)「支配」することができるようになれば、「物象的な強制力」は「根絶」されるのだと言う。ここには、“人びとの幻想が覚めれば、社会は正常化(本源に回帰)する”という、「ドイツ・イデオローグ」の思い込みが尾を引いているのではないか? しかし、‥‥

 「……需給関係の威力は無に帰し、……人間たちは、交換、生産、彼らの相互的な関わり合いの在り方を、再び自分たちの支配下に置くようになる」――ここは少し見るべきものがある。《疎外》の無くなった理想社会にも、「交換」はあるのだと言う。つまり、自給自足の“環節社会”ではない。自給自足ではない以上、何らかの形態の「交換」が必要だ。

 ただし、この「交換」(↓次のパラグラフでは「世界交通」と呼んでいる)は、商品交換、市場交換とは限らない。実際問題としてマルクス/エンゲルスの念頭にあったのは、ゴスプランに近いような国家的分配調整機構であったかもしれない(『フランスの内乱』を研究する必要がある)。もちろん、それでは話にならない。あるいは、基本は商品交換に任せるが、何らかの人為的機構が、「需給関係の威力」を調整して、破壊的な“ゆれ”を防止する、というようにも読めるかもしれない。それが統制的な「国家《疎外》態の現出に陥らないためには、民主的決定機構に関して、よほどの工夫が必要だろう。



「(+)この『疎外
〔…〕は、二つの実践的な前提の下でのみ止揚されうる。〔…〕人々が〔…〕革命を起こすような〔耐えがたい〕威力となるためには、それが人類の大多数をまったくの『無所有者』として、しかも同時に、現前する富と教養――どちらも生産力の巨大な上昇とその高度な発展を前提とする――の世界との矛盾において、創出してしまっていることが必要である。

 別の面からいえば、生産諸力のこのような発展
〔…〕なしには、欠乏、窮迫が普遍化されるにすぎず、それゆえ、窮迫に伴って必要物をめぐる抗争も再燃し、〔強権的国家などの〕古い汚物がことごとく蘇る。さらに、生産諸力のこの全般的発展に伴ってのみ人間たちの全般的な交通が据えられる。――〔…〕『無所有』の大衆という現象あらゆる諸国民のうちに同時的に現われ〔…〕、どの国民もが他国民の変革に依存する〔…〕そしてついには世界史的な、経験的に全般的な諸個人を、局地的な諸個人にとって代わらせることとなる――〔…〕このことなしには、(一)共産主義は局地的なものとしてしか実存しえず、〔…〕土着的・迷信的な『厄介事』のままでありつづけるであろう。しかし(三)交通のどのような拡大もが、局地的な共産主義を廃止するであろう。共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは、生産諸力の全般的な発展およびそれと連関する世界交通を前提としている

 
〔…〕素寒貧の労働者大衆〔の〕このまったく不安的な状態は、世界市場を前提とする。プロレタリアートはそれゆえ、実践的・経験的な実存としての世界史を前提とする。
『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』,岩波文庫,pp.72-73.













 “未来社会”の前提として、生産諸力の十分な発展がないと、強権的国家などの「古い汚物」がよみがえる、としている。しかし、強権的国家をさらに強権的にする“必要”の最たるものは、生産物交換・分配機構の運営ではないか? その点を見誤っている。

 また、「生産力至上主義」自体が、「社会主義」国家を強大化するほうに働きやすい。‥‥その結果、生産力増大に成功するかどうかは、全く別問題だが(実際の歴史的経過では、ほぼことごとく失敗している)。

 しかし、世界の国々が経済的したがって政治的に相互依存するようになるのと並行して、「どの国民もが他国民の変革に依存する」ようになること、そして、「世界史的な、経験的に全般的な諸個人」が全地球的規模で現出することを、必要な前提条件としている点は、注目に値する。

 「局地的共産主義」(オウエンの共産主義コロニーなど)の否定も大きな誤り。歴史を見ていない。いかなる新しい社会構成体も、誰かの魔法で一挙に現出したのではなく、古い「交通」の網の目のあいだに、新しい諸関係が徐々に簇生していくことによって、最後には(しばしば、政治的カタストロフィーを経て)全社会化したのだ。「局地的共産主義」の再評価が必要だ。たとえば、内部だけをあまり共産主義に純化させないことが肝心だ、など。





【ユーラシア】『ドイツ・イデオロギー』ノート(3) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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