06/26の日記
21：15
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(7)
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弁 慶 橋 皇居外堀にかかる。
志賀邸と有島邸(里見弴の実家)の
ちょうど中間にあった。
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛と葛藤(6) からのつづきです。
【18】「恋人同士」の関係―――里見24歳、志賀28歳
「当時｛1911年5-11月ころ｝、仲間が集まった後、解散の時が来ると、志賀が里見に『来いよ』と言い、弴が抵抗し、争うという風景がよく見られたという。志賀は、抵抗する弴に
『君は今はぐずぐず言ってるけど、結局は俺の言いなりになるんだ』
などと、女たらしが女に言うようなことを言ったという。志賀と里見の関係が、あたかも恋人同士のようなものだったことが分かる。後に弴は、そういう志賀を振り払う場面を『ある年の初夏に』※に描くが、それはこの時以来の志賀との関係の清算を意味していた。
戦後、大阪へ出奔※※した理由を村松定考に問われた弴は、『志賀から逃げるためだった』と答えている。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.74.
※『ある年の初夏に』：1917年発表。1914年5-6月に志賀直哉とふたりで松江で過ごした体験を小説にしたもの。
※※「大阪へ出奔」：里見弴は、1913年10月～1915年10月、途中松江ほかに滞在した 4ヵ月間を除いて、大阪に住んでいる。
「志賀から逃げるためだった」とは言っても、この「家出」について、里見は 1年半前から志賀に相談しています。そして、実際に大阪へ移るさいにも、志賀といっしょに来阪し、志賀は 2日後大阪を出て、城崎温泉から、寓居していた尾道へ移動し、里見は大阪に残って下宿先を探す、という経緯でした。
しかも、東京を発つ際には（1913年10月14日）、先に里見が出発して国府津で待ち合わせ、後から志賀が乗って来た汽車に乗り合わせるという方法で、人目を避けているのです。まるで、志賀と二人で“駆け落ち”するような出発のしかた。志賀が里見の「家出」に共謀していたことは明らかなのです。
志賀は、その前年の 11月から、東京の実家を出て尾道に住んでいました。当時志賀は東京にいなかったのです。ですから、客観的な外形だけを見れば、里見は、「志賀から逃げる」ために東京を出たのではなく、「家出」中たまたま帰京した志賀が尾道へ戻るのに便乗して、自分も志賀を見習って「家出」した―――そのようにしか見えません。
里見が大阪へ移った主要な目的は、「家出」――実家の拘束から抜け出すことにあったと考えるべきでしょう。ただ、実際に抜け出すためには、その決意を鈍らせていた志賀との「ずるずるべったり」の交友からも、気持の上で離れる必要があった、ということなのでしょう。
「この時分｛1911年4月ころ｝には、君と私とのぶら＼／歩きはまるでひとつの病気のやうになつて来た。どうかすると私は溝のなかへ落した鉛のやうに沈み込んで行く心から、却つてはしやぎ切つた饒舌に駆られた。なんにでもかぶれやすい私の性分は、その時分のべつに聞いてゐた落語の調子を、かういふ場合になると滑かに私の舌の上へ送つた。
〔…〕仕舞には『人生の落語家』※とまで云はれた。君には仕事の慾が益々堅い根を張つて来た時だつた。かういふだらけた気分はおろか、私たちの間には絶えることのない友達の往き来をさへ厭ひながら、矢ツ張りさういふ私から離れられなくなつて来る。夜があけて電車もとまり、行きどころもなくなつた時分に、私たちはお互のうちの丁度中間を目ざして歩いて来る。弁慶橋★の袂がどうしても別れなければならない場所だつた。
あの欄干に腰かけて私たちは幾度私たちは娓々（くど＼／）と云ひ争つたらう。君は自分のうちへ来て泊れと云ふ。私はいやだと云ふ。いつまでもそんなことを云ひ合つてゐるうちに、私は堪へられないほどいやな心持になつて来る。
その頃私はよくうちをあけては父に叱られた。その、父の前に坐つてゐる時の心持までが思ひ出される。文房具屋に売つてゐる墨汁の瓶へ口をつけて、ドク＼／と５合ばかりも飲んだあとの心持はこんなだらうと思はれるやうな、なんとも云はれない胸苦しさがジリ＼／と圧（お）して来る。
『あア、また墨汁を飲んだ！』
『だからさア、一ト思ひに来いヨ。来てしまやア癒（なほ）るヨ』
もう私たちはまるで平生の自分たちを失つたやうになつてゐた。来いと云ふ君にも、行かないと云ふ私にもなんの理由もない。私たちはたゞ反対のことを云ひ合つてゐるだけなのだ。さうしていつまでも苛立たしい溷濁〔こんだく〕と不決断の焦慮に、不知不識〔しらずしらず〕、昔の五分だめし※※の刑にみるやうな快さを自分の体に味ふのだ。君はたうとう私の胸倉を促まへて引つ張つて行かうとする。私も腕力で抵抗しながら、思ひきり悪く、まだグヅ＼／云つてゐる……。
『そいぢや、君のうちへ自動電話をかけてやらう』
『もう寝ちやツてらア』
『そいぢや、酒でも飲めヨ』
『御免だ』
『そいぢやアと、……兎も角も来いヨ』
『いやだ』
こんなことを云ひながら腕をとられてだん＼／君の家の方へ引ツ張られて行く時の胸苦しさを、私は他のいかなる場合にも経験したことがない。
それでも、さうかうしてゐるうちに君のうちへ行き着いて了へば、またケロリと忘れたやうに、快く、時には真面目な問題を夜明けまで話し合つてゐたりした。
たゞ翌日の午ごろ床を出てから、私一人離れに残して君がお母屋へ顔を洗いに行つてゐるあとだけは、私はなんとなく不安な、ゐたたまれないやうな心持に陥るのが常だつた。
『さア＼／、こんなことしちやアゐられないゾ』
俄にかう私を督促するものが迫つて来た……。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.200-201.
青字は、原書の傍点付き文字。
※「人生の落語家」：「人生の落伍家」と掛けているのであろう。もちろん、それを言ったのは志賀直哉。
★弁慶橋：↑口絵写真・↓写真参照
※※「五分試し」：うらみを持つ相手を一度に切り殺さず、少しずつ切って苦しみを味あわせること。但し、里見の場合、傷つける相手は自分。マゾヒスティックな快楽を表している。
昭和初期の弁慶橋
相方に引っ張られて、相方の“圏域”に引き込まれて行く時の、嫌悪と嗜虐的な快感が入り混じった感情。彼の部屋に入り、彼の“圏域”にはまりこんでしまうと身をつつむ幸福な安心感。そして、目覚めてから独り取り残された時の不安感。これらは、《同性愛》のひとつの型を示しています。
しかし、その不安感は、里見弴の場合、ただ「恋人」がそばにいないから寂しいとか、漠然たる実存的不安といったようなものではなく、もっと具体的なものでした。自分の家に帰れば、
「その頃私はよくうちをあけては父に叱られた。その、父の前に坐つてゐる時の心持までが思ひ出される。」
というような事態が予想されました。里見や志賀のような、富裕な士族の家庭であればこそ、当時はまだ家長の権威は高く、格式と規律は厳しかったのです。もちろんそこには、大学へ行かずに遊んで暮らしていても大目に見られるし、女中と関係を持っても、表ざたにしたり結婚を主張したりしなければ“見て見ぬふり”をされるという欺瞞がありました。
志賀直哉の場合に、そうした“家”の拘束を解かれて一定の自由を得ていたのは、すでに作家としての評価が確立しつつあったからです。この前年（1910年）『白樺』創刊号に掲載された「網走まで」は、志賀の出世作になりましたし、「濁った頭」(1911年4月）は問題作として注目されました。里見も毎号『白樺』に作品を載せていたものの、出世作となるような傑作は、まだ出ていませんでした。
またそれ以上に、里見の父（有島武）は、そもそも「戯作者（げさくしや）」(武は作家をそう呼んでいました）などというものは「髪結い、幇間（たいこもち）に次いで卑しい仕事だ」と言って、小説家になろうとする弴を叱ったほどですから（小谷野敦『里見弴伝』,p.63）、小説で世の中に認められても、家庭内で認められる望みはないのでした。長兄・有島武郎は帝大（北海道大学）の講師をしており、次兄・壬生馬は洋行帰りの名士として華族や高位軍人の知遇を得ていましたから別格。弴には、そうしたものは何もないし、今後得られる見込みもありません。
壬生馬が、弴に悪い影響を与えるなと言って志賀をなじり、その圧力のために、志賀が弴に対して、
「『然し、実際俺は伊吾｛里見弴｝にとつての悪友かも知れないヨ。悪友だネ、可なり』
『俺は、……君のことに就て少しも責任を負はないヨ。』……『伊吾がどうなつたつておいらのせゐぢやないヨ。いゝかい、そのつもりでゐてくれヨ』」
などと、里見をイライラさせることを言ったのも（前回【16】参照）、有島家の格式による圧力という背景があってのことでした。
ところで、↑上の引用文の中で、とくに問題になるのは、
「文房具屋に売つてゐる墨汁の瓶へ口をつけて、ドク＼／と５合ばかりも飲んだあとの心持はこんなだらうと思はれるやうな、なんとも云はれない胸苦しさがジリ＼／と圧（お）して来る。」
という表現です。この比喩は、何を指しているのでしょうか？
文脈からすなおに読みとれば、そのすぐ前に、「その頃私はよくうちをあけては父に叱られた。……」とあるのですから、父をその代表とする格式ある士族の“家”の圧迫がもたらす感情、ということになるでしょう。
しかし、里見は、この「墨汁」を「ドク＼／と５合ばかりも飲んだ」気持、という表現を、別の意味で使っているようにも読めます。というのは、その後の段落を見ると、
「『あア、また墨汁を飲んだ！』
『だからさア、一ト思ひに来いヨ。来てしまやア癒（なほ）るヨ』」
という、里見と志賀のやりとりが出てきます。「墨汁を飲んだ」気分は、父に叱られることではなく、志賀の家へ引っ張られてゆくことに対して生じているように読めるのです。また、
「『そいぢやアと、……兎も角も来いヨ』
『いやだ』
こんなことを云ひながら腕をとられてだん＼／君の家の方へ引ツ張られて行く時の胸苦しさを、私は他のいかなる場合にも経験したことがない。」
ともあります。この「胸苦しさ」は、「墨汁を飲んだ」気分と同じものでしょう。それを里見は、志賀の家に引っ張られて行く時以外の「いかなる場合にも経験したことがない」というのです。
これらを重視するならば、「墨汁を飲んだ」気分とは、志賀との《同性愛》、なかんずく、「愛」のない身体的交わりがもたらす重苦しい気分……と見ることができるでしょう。
小谷野敦氏が、「墨汁を飲んだ」気分について、次のように説明していることも、この読みを支持していると言えます：
「多くの青年を悩ませる『性』の問題が英夫｛里見弴｝を襲った。家にいた母親ほどの年齢の、八重という女中に童貞を破られ、以後数年、後に繰り返し里見が書いた『墨汁５合も飲んだような気持』『ずるずるべったりズム』『自己嫌悪』などの語に形容される、恋愛ではないのに肉体に惹かれる状態が続くのである。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.45.
２つの読み方の、いずれを採るべきでしょうか？
ここで、里見弴自身の説明を参照してみたいと思います。里見は、晩年（志賀直哉没後）に『全集』に付した作者「解説」の中で、この「墨汁５合も飲んだ気持」は、自分の「悪行」に対する「自己嫌悪」の気持だと述べています：
「高等科2年級の夏休中かゝつてやつと読みあげた『レザレクシヨン』(トルストイ作『復活』の英訳）で、『悪行（あくぎやう）は悔いるを得べし、されど悪心は悔いるを得じ』(私の和訳）の一句で、その後の数年間、私はがんじ搦めにされてゐた。度重なる悪行のあと、『墨汁５合も飲んだ気持』の自己嫌悪をくり返しくり返すばかりで、悪心の方は、『づる＼／べつたりズム』の旧態依然たるもの。はたからの目には白痴か狂人としか映りやうのないこの醜態〔…〕」
里見弴「解説」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.504.
つまり、「悪行」を犯したという、そのことについては、いたたまれない後悔と自己嫌悪の気持が起こってくるが、「悪行」を犯してしまう自分の中の心――「悪心」――そのものは、まったく平気で、何の反省もしようとしない。「ずるずる」と、何度でも同じ「悪行」を行なってしまう‥‥トルストイの警句を、里見は、そのように解したわけです。
そこで「墨汁５合も飲んだ気持」とは、繰り返し「悪行」を犯す自己に対する自己嫌悪の感情です。自己の中に２つの「心」があって、より意識に近いほうの「心」は、「悪行」を犯すたびに自己嫌悪にかられるが、自分ではコントロールできないような深みに、もうひとつの「心」――「悪心」――があって、そちらは反省も罪の意識もなく、繰り返し「悪行」を行なっていこうとする。まるで無辜(むこ)の者のように、決して「悔いる」ことのない・この「悪心」に対する嫌悪が、「墨汁５合も飲んだ気持」にほかなりません。
「悪心」は、無くすことも、矯めることもできない以上、この突き上げるような自己嫌悪は、運命的なものとして意識されます。
「悪行」には、“女郎遊び”によって家の財産を蕩尽することや、《同性愛》の“からだの喜び”も含まれるとすれば、上の２つの“読み”は、里見の説明によって総合されることになります。
父親から「悪行」を責められ叱られている時には、「悪行」をくり返しもたらす「悪心」に対する自己嫌悪も強まるでしょう（第１の“読み”）。また、《同性愛》の相方である直哉の圏内に引っ張られて行く時には、「悪心」に抵抗しようとする自己嫌悪の気持が起き上がることになります（第２の“読み”）。
そうすると、この 1911年前後の時点で、里見にとって志賀がどんな位置にあったかが理解されてきます。里見が、“格式ある士族の家”の拘束から自由になろうとして志賀を頼っても、志賀もまた里見に対しては年長者であり、しばしば、里見の次兄の抗議に屈服するなどして、里見を抑圧する役割を果たすのです。それでも、志賀もまた自分の“家”の拘束から自由になろうとして闘っているのであり、志賀の行動が漂わせる“自由”の匂いは、里見にとっては限りなく魅力的です。そして、しばしば志賀は、里見と共謀して彼の“逸脱”を援助し、また、里見が受ける圧力の緩衝材の役割を果たします。
「伊吾がどうなつたつておいらのせゐぢやないヨ」
などと言い放つ志賀の無責任な言動は、“板挟み”を避けるためにはやむをえないことだったとも考えられます。
ですから里見としては、精神の安定を得るためには、「墨汁５合」の嫌悪感を越えて、志賀の圏内に逃げ込まざるをえないのです。しかし、そうして得られる安定は、あくまでも一時的なもので、志賀がそばにいるあいだだけの、いわば“幻想”にすぎません。志賀が傍から離れて独りになれば、とたんに里見は、誰の保護にも頼ることのできない・荒野に放り出されていることを意識するほかないのです。
【19】遊郭浸りと「家出」の渇望―――里見24-25歳、志賀28-29歳
1911-12年のあいだ、里見弴は、格式を強いる“家”と社会からのはみ出し者として、日常生活に堪えがたい圧迫を感じながら、志賀との「ずるずるべったりズム」をつづけるばかりで、決定的な一歩を踏み出せずにいました。
八重との関係では、この前年（1910年）には妊娠問題が起き、それをきっかけに里見の八重に対する見方が、少し変わります。
八重は弴に、妊娠したらしいと告げたのは、八重との関係を志賀に打ち明けた直後のことでした（『君と私』では、その前後関係が、里見の記憶違いか、逆になっています）。弴は、たいへんに慌てますが、八重はその翌日には腹の中の児を堕胎してしまいます。そして、有島家には病気と偽って実家へ下がり、療養して来るのです。
八重という人は、情には左右されず、徹底的に実利を獲得する・したたかな女性だったようです。どうすれば主人の家（有島家）の信頼を失わないでいられるか、よく心得ており、弴に関しても、一種の“お目付け役”として重宝されていたので、弴との関係を咎められることもなかったのでしょう。
その“お目付け役”の八重は、弴の遊郭通いが繁くなり、馴染みの遊女に入り浸るようになると、心配しはじめるのです。
Hermann Lismann (1878-1943)
「一ト月ほど宿もと〔住んでいる所。自宅―――ギトン注〕へさがつてあと養生をして、どうやら健康を回復して帰つて来たいち｛八重｝から、私が嘗て流産のやうに聞かされてゐたのが、実は堕胎であつたことを打ちあけられたのは、丁度この時分｛1910年4月ころ?｝だ。
私は最初からこの女に対しては圧制的だつた。或る事柄と性質とから、女はその年齢（とし）になつて處女だつた。〔…〕それまでも母らしく私の上に注がれてゐた愛情が、忽ち烈しい恋慕の情に変つて行つた。それを虐（いじめ）ツ児のやうに意地悪くひねくれて斥けたり、また『ナヽ』などから学んだ方法で熱情を搔き廻したりした。まるで『色師』と云ふものが巧に女の感情を上下した楽しむやうな興味や、全く掌（て）のうちに握り込んでゐる者に対する残忍性、私はどうしてもさういふ類型的な小さな興味にばかり動かされてゐた。
宿もとから帰つて来てからの女に対する私は、それでもいくらか憐憫の情をもつやうになつてゐた。堕胎のことを聞いたのはさういふ時だつた。
私に一ト言の相談もしずに、さういふ思ひ切つた所業に出たいちのその時の心持を、私はいつになく哀れに思つた。〔…〕自分たちの関係をたゞ体の上だけのことにしようとしてゐた私が、さういふ考へを無理にも女へ毒注した私が、とりも直さず堕胎の下手人である。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.172-173.
そう言いながら、まもなく里見は、吉原遊郭で「君代」という遊女と馴染みになり、吉原に入り浸るようになります。1911-12年の年の瀬は、吉原で年を越しています。家を空けて遊郭に沈溺するようになったのは、堅苦しい家に居たくない「家出」願望とも結びついていました。
里見は、「君代」に嵌りはじめたことも、八重に明け透けに話してしまいます。
「よく私はいち｛八重｝に遊びに行つた先〔遊郭で買って寝た女――ギトン注〕のことなども話して聞かせてゐたが、〔ギトン注――八重は〕唯面白がつて聞いてゐた。〔…〕それがこの桂木といふ女｛君代｝のことだけは最初からいやがつてゐた。
『それアよつぽどな女ですヨ。気をおつけなさらないといまにえらい目にあはされますからネ』こんなことを云つてゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.194-195.
「或る時桂木に身受けの話しが起つた。それを私にいろ＼／相談などする。私の方でも真顔になつて相手になつてゐた。」
家から出かける里見に、八重は「その日も私の出先きをわざと五月蝿く訊いたりしたのち、
『いくら晩くとも今晩は是非帰つて来てください。今日は大変日が悪いんですから』などと云つてゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.194-195.
里見が「君代」の女郎屋「角海老」にいると、志賀から電話がかかってきます。八重が心配しているから、早く帰れというのです。八重が志賀の家に来て言うのには、
「何でも売占者（うらなひしや）に見て貰つたら今夜に禍が迫つてゐるのだから、なんでもかでも呼び戻してくれと云つてゐる。顔色を変へて息をはずませてゐた。俺に迎ひに行つてくれと云ふんだが馬鹿々々しいから」電話にしたと言うのです。
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.194.
“他の客から「身受け」の話が出ている”という「君代」の話は、ホントかウソか分かりません。里見は、自分の気を惹くために、そう言ってるだけで、だたの「芝居サ」と、志賀に言います。志賀も、騙されて本気になっているのでなければいいんだ、などと言って安心します。
しかし、里見も志賀も甘かったようです。けっきょく翌年（1912年4月）、里見は、祖母が彼の名義で積み立てていた預金を無断で下ろして、400円（現在の価値は約 200万円）を手切れ金として「君代」に渡します。この金で自分を身受けして、店をやめて自由になれ、ということだったようです。ところが、それでやっと縁が切れたのかというと、さにあらず。里見は、１ヶ月もしないうちに「角海老」へ行き、「君代」と、また「ずるずるべったり」になってしまいます。
里見が志賀に「家出」の相談をしていたのも、このころです。年譜によると、12年3月には、そば屋で志賀と深夜まで話し、家出を決行すると言っています。しかし、決意を実行することはできず、最終的に、里見が大阪へ出奔したのは 13年10月でした。
「弴はそうして、この泥沼のような日常から『蝉脱』するために家出を考え始める。」1911年「12月14日から 25日まで家に帰らず、年末は吉原で過ごした」翌1912年「2月、3月には何も発表しておらず、自ら神経衰弱だと言っており、3月21日にはだらしない生活ぶりを母に叱られて弱り、23日深夜まで志賀と語って、家出をするつもりだと言っている。
しかし当時の弴にとっての一番の問題は、志賀との縁の方だった。これは後に何度も語っていることだが、志賀離れをしなければならなかったのだ。弴は志賀を崇拝し、同性愛的な感情すら抱いている。志賀が遊郭へ行っていると聞けば、自分も行き、創作でも志賀の言葉から重圧を受けていた。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.76.
他方、志賀直哉はこの時期、友人たちがみな厭わしく思えてくる「強迫神経症に似た友人不信」に悩まされていました。
「此の時期直哉は、『濁つた頭』の書き直しをやつていた。『濁つた頭』はフィクションだから、主人公の独白をそのまま作者自身のものと見るわけに行かないけれど、作中後半、『お夏』を殺す少し前あたりに、
『其時分の私の頭と云ふものは実に変でした。或時は溶けた鉛のやうに重く、苦しく、ドロ＼／してゐる事もありますし、或時は乾いた海綿の様に、軽く、カサして中に何にもない様に感じられる事もあるのです』
との１節がある。
ドロドロした重い頭で考へてゐると、友人たちが全部、不愉快なくだらない存在に見えて来るらしかつた。特に、影響を受けた友人、手ごはいと感じてゐた友人の場合が、反発する度合ひも大きかつた。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.166.
「『白樺』の表の代表は武者小路実篤と志賀直哉といふことになる。いはゆる白樺流人道主義の旗手的存在が実篤であり、一方直哉は、小説のうまさにかけて同人中随一との定評が出来上がつてゐた。〔…〕
ただ、人道主義にせよ何にせよ、一つの旗じるしを掲げた運動に、直哉はついて行くことが出来なかつた。武者小路の同調者が多くなり、『白樺』に主義の色彩が濃くなつて来ると、直哉にとつての居心地はどうしても悪くなつた。」1912年「の日記には、再び『友達耽溺』が始まつた様子と並行して、その友人づき合ひに不愉快を示してゐる記述が、繰返し出て来る。
『自分は孤独でゐたい。大つぴらに我儘になり、独りで我儘をしてゐたい。他人と余り口をきくまい』
『「何々でなければならぬ」といふ考へは自分は嫌いである。かういふ意味で固定した宗教、道徳、主義、主張。を自分は嫌いである』
『自分の自由を得る為めには他人をかへりみまい』
『自分は又皆が嫌いになつて来た』
これが結局、直哉の家出、尾道における独り暮しへとつながつて行く」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.170-171.
青字は、原書の傍点付き文字。
【20】「君と私と」vs「モデルの不服」(1)―――里見26歳、志賀30歳
1913年3月20日、里見は志賀宛ての手紙で、小説『君と私と』に着手したことを告げました。
里見は、すでに前年秋から、志賀に『腐合ひと蝉脱』の書きかけを見せたり、11月末には、二人のあいだの「感情的疎隔について」手紙に書き、「これからそのことを小説に書く」と予告していました。
志賀とはじめて知り合った子ども時代にさかのぼって、二人の関係を時系列に書いてゆき、そうやって志賀との関係を対象化することによって、「志賀離れ」を遂行しようと考えたのです。里見は、この・避けて通れない課題に、ようやく本腰を入れて取り組みはじめました。
『君と私と』は、この年 4月から毎月、『白樺』に連載されました。この『白樺』掲載の原テクストが、現在は『明治文学全集 76 初期白樺派文学集』,1973,筑摩書房.に収録されているテクストと思われます。
『君と私と』の連載は 7月までで、その後志賀との軋轢があったり、続篇の原稿が印刷所で紛失する事件があったりして、結局中断してしまいます。里見は、ふりかかった障碍のために、この作がいやになってしまったのか、その後、自作の小説を単行本にまとめて出版した際、この小説だけは、１度も収録しませんでした。
不遇な運命に見舞われた・この小説が再び世に出たのは、1977年、志賀直哉没後に出版された筑摩書房版『里見弴全集』に、『君と私』と改題して収録された時でした。この『全集』は、里見自選の著作集というべき内容で、里見の全著作を収録しているわけではありません。
ちなみに、志賀直哉が他界したのは 1971年で、上の『明治文学全集 第76卷』も、やはり志賀没後の出版です。この小説は、直哉が生きている間には書籍として出版することができなかったことになります。おそらくそれは、偶然の結果ではないでしょう。
『君と私と』、『君と私』―――２つのテクストは、多数箇所に相違がありますが、みな表記と表現の修正のみで、内容の変更はありません。ただ、読み比べてみると、志賀の死後に修正した『君と私』のほうが、表現が直接的で明確なのです。たとえば、志賀が里見の「腕を掴んで」自分の家のほうへ引っ張った、という箇所が、「胸倉を掴んで」(p.201）に直されています。『白樺』に発表した当時は、表現を穏当に抑えていた箇所を、記憶通りの事実に近い表現に直しているように思われます。
その点から、本稿では、『全集』収録の『君と私』テクストのほうを底本としました。これまでにご覧いただいた通りです。
志賀は、前年 9月に中篇「大津順吉」を『中央公論』に掲載し、文壇の表舞台に浮上していました。11月には尾道へ転居し、翌新年、雑誌『白樺』を発行していた洛陽堂から、最初の短篇小説集を出しています。
里見が『君と私と』に本格的に着手したのは、志賀が東京から離れて、その影響が薄くなったことと、志賀の栄達に刺激されて、自分も本気で精進する気になったことによるのでしょう。
「ルソーの『告白』やゲーテの『ウェルテル』『ヴィルヘルム・マイスター』以来、近代の作家は洋の東西を問わず、自伝的作品や、自己の周囲に取材した小説から出発することが多かった。」日本でも、「自然主義以降の『芸術的』小説の世界では、それが一般的で、そうでなければ真実味は得にくかった。〔…〕
弴も、正面から自己を書くべき時が近づいていた。〔…〕何より弴が描くべきなのは、志賀との関係だった。そして弴は、『君と私と』に着手した」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.79.
『白樺』に「連載の３回目が載った６月、〔…〕その 12日、志賀は既に『君と私と』に不快を感じており、里見と話している。23日には里見から志賀宛の葉書で、邪推を発表するのはやめてくれと言っており、かなり険悪になっている。」6月29日に「できた『白樺』７月号には、『君と私と』の４回目と、志賀の『モデルの不服』が載っていた。里見はその日も志賀と話している。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.80.
この小説をめぐる志賀と里見の衝突は、避けられないことだったかもしれません。里見は、小谷野氏も指摘するように、志賀との関係を対象化して描かないことには、作家として成長することはできないだけでなく、それを遂行することは、里見の“生の必要”でさえありました。他方、志賀にとっても“生”の重要な位置を占めるに至っている里見との関係を、自分とは異なる里見の見方で描かれることは、自分の身に刃(やいば)を突き立てられるに等しかったでしょう。
『モデルの不服』で、志賀が里見に向けた攻撃は、決して論理的なものではありません。作品に対する批評として見るかぎり、焦点がずれているとも言えるし、不当な言いがかりにも思われます。
「しかし、『モデルの不服』というのは、まるで要領を得ない文章で、〔…〕感情をぶつけているような代物だ。実際、『君と私と』にせよ、後に絶交の原因となった『善心悪心』にせよ、志賀が何に不満なのか、よく分からない。〔…〕
私は志賀直哉という人間がなぜそう崇拝されるのか分からない。〔…〕〔ギトン注――作品に魅力を感じないだけでなく〕志賀という人間にも、太宰治や中村光男が指摘したとおり、偽善者臭を感じざるをえない。〔…〕結局志賀は、自分が他から観察されるのが不快だっただけだとしか思えないのである。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.80-81.
小谷野氏は、↑こう述べて志賀を断罪するのですが‥‥、私はむしろ、この論争（というより、もつれた軋轢）は、どちらがいい、悪い、と判定して解決するようなものではないと思います。
私も、『モデルの不服』を読んで、そこに書かれたことの字義通りの意味も、志賀の真意も測りかねて、何度も読み直しました。しかし、これまで『君と私と』からたんねんに読みとってきた志賀と里見のあいだのコンテクストを踏まえるならば、この論文は、かならずしも理解不能な代物ではないと思います。それを分析することによって、当時の二人の関係は、よりよく理解できると思います。
そこで、『モデルの不服』の読み込みを行ないたいのですが、それは節を改めて、次回お目にかけたいと思います。
ばいみ～ ミ
彡
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