06/17の日記
00：42
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(5)
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こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(4) からのつづきです。
【12】カチューシャが握らされた手切れ金―――安くはない？
里見弴を、いわば自刹未遂に追い込んだトルストイ『復活』で、ネフリュードフが侍女カチューシャに握らせた“手切れ金”の「100ルーブル」とは、どのくらいの値段なのでしょうか？
結論から言うと、当時のロシアの「１紙幣ルーブル」は、当時の日本円の約半分と考えてよい‥‥したがって、「100ルーブル」は、約「50円」、現在の価値で 25万円程度、と考えられます。
19世紀後半のロシア・ルーブルの価値については、こちらのサイトで、たいへん詳しく考察されています。
明治初年における「ルーブル」を現在の日本円に換算すると、「１ルーブル＝1000円くらい」。しかし、『復活』発表から『君と私』までの 1900-1910 年ころの相場は、どうだったのでしょうか？
「19世紀を通して、ロシアの通貨の基本は、純銀17.996グラム)を含む銀ルーブルであるとされ、〔…〕それに対して、当時の日本の基本通貨であった 『一圓』 銀貨は重量26.956グラム、銀品位900、純銀分24.260グラムであった。したがって、含有純銀量で換算した場合、１ルーブル＝0.742円（74銭2厘）となる。
ちなみに、『世界新図』(六盟館,明治27[1894]年)の p.12「内外貨幣度量衡比較表」には、１ルーブル＝70銭という数値が載っている。」
つまり、１ルーブル銀貨＝約0.7円という換算率は、19世紀後半を通じて、ほとんど変らなかったわけです。
つぎに、「ルーブル」と「円」の金換算率（金平価）を比較してみますと、
「日清戦争の賠償金として受け取った金を兌換準備充当の正貨として、1897年に第2次金本位制度が確立し、ようやく紙幣の金兌換が実現した。ただし、このとき定められた1円の金平価は750mgと半減し、〔…〕
この金兌換は1917年まで継続された。」
「ルーブルと金の兌換率は 1897年に改訂され、1ルーブル＝774grams とされた。」
したがって、1897年の時点て金平価で比較すると、ほぼ
１ルーブル＝１円
と言ってよいことになります。
しかし、『復活』でネフリュードフがカチューシャに与えたのは、銀貨ではなく、ルーブル紙幣でした。ルーブル紙幣は、ロシアが大きな戦争をするたびに戦費調達のために増発されて、価値が下がって行きました。1860年代には、「正貨である銀貨幣の60％ほど」、露土戦争開戦の1877年には、紙幣「１ルーブルの価値は、60銀コペイカにも満たない有様となった」
「1897年 金本位制の確立 金ルーブルがロシアの単一の基本通貨となる。貨幣単位は３分の１に引下げられ、正貨支払が復活される。
兌換券の発行権を持たなかった国立銀行に発行権が付与され、新しい国家信用券 （国立銀行券） が発行される。 国家信用券１ルーブルは純金 17.424ドーリャ (0.774234g) を含有するものと定められる。」
『復活』の発表は 1899年ですが、物語の中で、「手切れ金」の手交は 10年前のできごととされています。したがって、「金本位制」以前の状態、つまり、１紙幣ルーブル＝0.6銀ルーブル以下、と考えてよいでしょう。
金本位制導入の際、「貨幣単位は３分の１に引下げられ」たことから推しても、世紀末にはルーブルの実質相場はよほど下落していたと見てよいでしょう。したがって、１紙幣ルーブルは、１ルーブル銀貨の半分以下の価値と見てよいかもしれません。
以上から、世紀末頃の紙幣「ルーブル」と「円」の換算率を算定しますと、
１紙幣ルーブル＝0.35～0.42円
となります。
ところで、問題は、じっさいの換算率以上に、里見弴をはじめ当時の日本の読者が、「100ルーブル」をどんな価値として読んでいたかです。
当時、日本とロシアは貿易していましたし、ロシアへ旅行する日本人も多かったですから、ルーブルと円の一般的な相場感覚が当時の人にはあったはずです。
そうすると、‥あくまで憶測ですが‥それは大ざっぱに
１ルーブル(正貨)＝１円
ではなかったか？（この換算率は、金平価の比較とほぼ一致します）。そして、紙幣ルーブルに関しては、さらに大ざっぱにその半分：
１紙幣ルーブル＝0.5円
ではないか、ということが考えられます。‥‥というわけで、いずれにせよ、日本の読者は『復活』の「100ルーブル」を、「40～50圓」と受け取ったのではないかと考えられます。
さて、その時代の「１圓」は、現在の貨幣価値で、どのくらいなのでしょうか？
1906年に発表された夏目漱石の『坊ちゃん』で、物理学校（現・理科大学）卒の「坊ちゃん」の初任給は「40円」とされています。しかし、こちらのサイトによると、当時、大卒地方教員の初任給は「25円」程度、東京帝大卒の漱石自身が松山中学で受けた給与は「80円」だそうです。
ずいぶんバラつきがありますが、大ざっぱに
１円＝現在の１万円
と見てよいのでしょうか？
『君と私』には、1908年の関西旅行を計画していた際に、志賀が里見に宛てた手紙の中で、
「一寸計算した所で、特に貧棒旅行といふ企でないかぎり、三十五圓はいる。〔…〕十日ばかりの旅に三十五圓はちと贅沢すぎるやうだが」
と書かれています(p.108)。この金額は、ひとり当たりでしょう。
「１円＝現在の１万円」としたら、10日で 35万円、１日３万5000円となって、いくら何でも学生の旅としては贅沢すぎます。大ざっぱに
１円＝現在の 5000円
あたりが妥当な線ではないでしょうか。
以上から、結論として、『復活』の「100ルーブル」を、里見らは、当時の「50円」、現在の「25万円」と受け取っていた。そう言えると思います。
その「25万円」は、高いのか、安いのか？ ネフリュードフは、復活祭の夜にカチューシャを犯して、翌日この「100ルーブル」を渡して、急用で出発して行きます。たった１回の売春の値段だとしたら、法外に高いでしょう。継続的関係を一方的に破棄する「手切れ金」としたら、安すぎるかもしれません（現在日本の家庭裁判所での和解では、100万円を下ることは考えられません）。いったい、どういう趣旨のお金なのか？ 『復活』の該当箇所を見てみましょう。
「いま彼女との恋を心ゆくまで楽しまずに立ち去るのは残念だが、続けていくのが難しくなりそうな関係をひと思いに断ち切れる点では、出発しなければならないのは好都合だ、彼はまたこんなことも考えた―――彼女に金をやらなければならない、彼女のため、つまり、彼女にその金が必要かもしれないからではなく、みんなが必ずそうするからだ。彼女を利用しておいて、その代金を払わなかったら、自分は卑劣な人間と思われるだろう。こうして、ネフリュードフはカチューシャに金を渡した――その額は自分と彼女の立場から見てふさわしいと考える程度だった。
〔…〕
『お別れを言おうと思ってたんだ』彼は百ルーブル紙幣の入った封筒を手に握りしめたまま言った。『これを、ぼく……』
カチューシャは気づいて、顔をゆがめ、首を強く振り、ネフリュードフの手を押しのけた。
『いや、取ってくれ』彼は口ごもりながら言うと、封筒を彼女のふところに押しこんだ、そして、まるでやけどでもしたように、顔をしかめ、うめき声をあげて、自分の部屋に駆けこんだ。」
トルストイ，藤沼貴・訳『復活（上)』,2014,岩波文庫,pp.136-137.
「彼女に金をやらなければならない、……みんなが必ずそうするからだ。」と言っているところをみると、「百ルーブル」は、当時、ロシアの貴族が女中に手を付けた場合の相場だったのでしょうか？
しかし、それは何の「代金」なのでしょうか？「彼女を利用しておいて、その代金を払」うと、また「その額は自分と彼女の立場から見てふさわしいと考える程度」とネフリュードフが考えた「代金」とは、何の対価だったのでしょうか？ 具体的には、“口止め料”のようなものでしょう。後日このことでネフリュードフを非難したり訴えたりしない。追加で補償を求めたりしない、要するに“黙らせる”ためのカネです。
「25万円」―――高いのでしょうか？ 安いのでしょうか？ 志賀、里見らが旅行代金として用意した「35円」よりは高い。彼らにとっては、負担になる巨額と感じられたかもしれません。
ロシアの‥（農奴解放前には農奴身分だった）女中にとっても、けっして少ない金額ではありません。住み込みの侍女が、金銭でもらう給与など、ほとんどゼロに等しかったでしょうから。
しかも、この「別れ」の時点では、カチューシャが妊娠したり、それが原因で奉公先を追い出されて身を持ち崩すことなどは予想されていないのです。彼女の主観では、必要のない高額を握らされた――それ自体が何か後ろ暗いことだ――そう思われたことでしょう。
ネフリュードフの子を出産し、自力でその子を育ててゆく全費用は、「百ルーブル」では、とうてい賄えなかったとしても。
【13】仮面の友愛―――里見21-22歳、志賀25-26歳
1908年夏の鎌倉での自刹未遂のあと、里見は志賀に「八重」の件を告白しようとしてできず、その後も志賀に“隠しながら”「八重」との情交を続けつつ、そのことに苦しんでいました。
その年7月、志賀直哉は、武者小路実篤ら同級の友人たちと回覧誌『望野』を始め、10月には、里見弴と彼の同級生も、それに倣って『麦』を始めます。回覧誌とは、同人たちがそれぞれ書いた原稿をまとめて綴じて回覧し、全員が他のメンバーの原稿に対する批評を書きこんでゆくのです。
里見は、『麦』以前に書いた創作を、志賀から「小器用」だと批判されていました。「器用」にうまく作られているが、「Life にキザミ込む」には至らないというのです。それで、１号には翻訳を載せますが、２号からはまた創作小説を書いて投稿します。『麦』は、『望野』同人にも回覧され、批評を受けていました。
「私は慥〔たし〕かに小器用で書いてゐた。〔…〕私は書き現はすべき自分を烈しい嫌悪の情なしに扱ふことが出来なかつた。而も私は君たちの前に自分を溝泥（どぶどろ）のなかに踏み躙つて見せるだけの勇気はなく、またさうさせるだけの自己に対する執着もなかつた。唯小さな虚栄のために、私はいつも出来るだけ『作りもの』を拵（こしら）へようとしてゐた。実際の自分と最も縁の遠さうな主人公ばかりを促へて来て、浅はかな、而も餘り利かない痛棒を喰はしては、やつと自己嫌悪の溜飲を下げてゐた。〔…〕
２号からはまた創作を試ることにした。
私は初めて自分に近い主人公で自分を書き現はしてみた。
〔…〕親兄弟にも友達にも情人にも心から愛を感ずることの出来ない青年を描いて、『失はれたる愛』といふ題をつけた。私は自分の『悪行』の覚られることを恐れて殆ど描写といふことをしなかつた。『彼は或る女と関係してゐた』こんな調子で書いた。〔…〕
いつも私は一番君｛志賀直哉｝の評を気にした。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.119-120.
志賀の評には、
『然し読み了つてこれがそんな問題になるものだらうかと疑つた。』
と書かれていました。里見の書き方が簡単すぎるので、同居家族に秘密で女中との継続的情交‥などということが、“愛の喪失”に関係していようとは想像もできなかったのです。「失はれたる愛」は、感じやすい青年の意識過剰くらいにしか見られませんでした。
「『只自分は伊吾｛里見弴｝の友人として、伊吾の作にかういふ傾向の出来たことを嬉しく思つた。〔…〕』
君の批評にはかう書いてあつた。そのあとには大分非難がしてあつたが。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.120.
「伊吾」は、里見弴のあだ名で、里見が使っていたペンネームのひとつから、直哉は弴をもっぱら「伊吾」と呼んでいました。
「喜ぶべき傾向」としてこの作を歓迎した志賀の評は、里見には「鞭撻」と受け取られました。しかし、それは彼にとって“苦しい鞭打ち”でした。荷馬車の荷が重すぎて動けなくなった駄馬に、ただ鞭を与えて力づくで引っ張ろうとしているような、「益なく肉を破り血を流す鞭撻」だったと、里見は書いています。
「兎に角、東久世君｛武者小路実篤｝や君の評を見て私が清々しい喜びに浸れなかつたのは事実だ。却つて私は苦しかつた。
同じ号に載せた追憶小説は誰からも好評をうけた。〔…〕私は最初の讃辞に酔つて、二度と再び苦しい道の方へ近よつてみようとはしなかつた。」
a.a.O.
こうして、“私小説”的な作者の自己分析小説が純文学の“王道”とされていた事情もあいまって、里見は、志賀との間柄が密接になればなるほど、自分の秘密を志賀に打ち明けられない苦悩に沈むことになります。
↓つぎは、回覧誌『望野』と『麦』が発行されていた 1909年ころの状況と思われます。
「君と私とはのべつ往き来するやうになつた。君が来ても私が往つても、大抵夜の12時近くでなければ腰を抬（もた）げなかつた。〔…〕文学や美術の話でも、私はもう以前のやうに聞かされてばかりはゐなかつた。イプセンの話から、文学で社会問題を扱ふことが芸術として第一義であり得るかどうかの問題で、随分ヒドく云ひ争つたこともあつた。〔…〕
いつの間にか年齢（とし）のわりに怜悧なことを云ふやうになつた『親友』｛弴の次兄・壬生馬のこと｝の弟の顔を、驚歎と愛好と満足とを現はして、餘りに率直な君の眼が見た。
〔…〕
私は君の驚歎と愛好と満足とを薄い玻璃器のやうに捧げ護らうとする弱い心に捉へられた。不幸にも私は十のものを十四にも十五にも使ふ奇術に於て勝れた技倆を現はした。君は私を買ひ被つた。君が以前から親しくしてゐた東久世君｛武者小路実篤｝、北小路君｛正親町公和。弴と同級の実慶の兄｝、小林君｛木下利玄｝などとほゞ同じ水準で君は私を友とした。〔…〕君に『友達の弟』といふ心持が消えて了つたやうに、私には『兄の友達』といふ氣がしなくなつて了つた。この標準｛志賀から対等の友として扱われること｝は、然し折々私を苦しめた。私は君の意を迎へることにいつか特別の習練を重ねて了つた。真面目くさつた幇間※ではあるまいか。或は、巧に生一本な君を綾なしてゐる手練女ではあるまいか。この考へが〔…〕屡〻〔しばしば〕私の心に暗い閃きを投げた。〔…〕腋の下を冷い汗が流れくだるのを感じるやうな、また一時に顔がほてつて来るやうな場面も度々あつた。が、同時にまた、君と私との心がピッタリと合つて、鼓動を共にするやうな瞬間をも屡〻経験するやうになつて来たのだ。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.121-123.
※「幇間」：ほうかん。別名「太鼓持ち」「男芸者」。豊臣秀吉の御伽衆を務めた曽呂利新左衛門（とんちそろり）を伝説的祖とする。宴席などの酒席で主客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる男性の職業。芸者置屋に所属していた。
「私は相変らず苦しんでゐた。顔つきまで、22と云ふ年齢にしては老て了つた。二日ぐらゐ額の筋肉が堅くなつて、眉間の縦皺がとけないやうなこともあつた。女を殺す空想、女の死を願ふ心、さういふ夢、さま＼˝／に私は悩まされた。
或る日私は内田の姉｛弴の姉２人のいずれか｝を尋ねた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.126.
姉の３歳の子を連れて２階にいた時、弴は突如として、縁側の手すりに後ろから抱えて立たせた子が墜落する幻想に襲われます。
「この、水のやうに清い幼児がどうかしたはずみに私の手からずりぬけて、ドシンと一つ廂へ弾むと、そのまゝ庭石の上へ落ちて行くところがはつきり想像された。次の瞬間には階下（した）の座敷で針仕事をしてゐた姉が何か鳥の聲に似た叫びをあげながら転がるやうに庭へ飛び出して来て、子供の上へ被ひかゝつた姿の鳥観図がまざ＼／と眼前に浮んだ。
『死ねるナ』
続いて私にはかういふ考へが閃いた。〔…〕私も亦その惨事を、―――砕ける脳骨、流れ出る血潮と脳味噌とを目前に見たならば、いかに卑怯な自分でも、その瞬間の心の顛倒を利用してならば死ねる。―――思はず私は子供を抱きおろした。そして、『まア助かつた』といふ太息（といき）をついた。
〔…〕
この事実を私は『二階』といふ小説にして『麦』〔12号。1909年4月1日―――ギトン注〕へ出した。
その次の号には前年の夏鎌倉の海岸で私が犯した偽りの告白を、例の全く愛のない筆で鞭うつた。〔…〕
私が性慾の問題に就いて感想文〔『麦』12号「所感」――ギトン注〕を書いた時の冒頭に、
『吾々は自然の大きな意思を認めないわけにいかない』
と、かう標語のやうに書いた。〔…〕生殖作用に伴ふ快楽を、自然が種の永続のために人間に与へた策励と見、生殖作用やその機関に対する羞恥心を、これに耽ることを防遏するための安全弁と見た。そして恋愛を生殖作用の露骨を飾る花であると考へ、育児の本能は必ずその後に来るべき必然であるとした。かくて肉交は相愛の男女が夢のやうな忘我悦（エクスタシー）の状態に於て果す時のみ自然の意思に順（かな）ひ、仮令夫婦でもこれを賞味するやうな場合には自然の意思に悖る、―――大体こんな風に書いた。〔…〕これも私にとつては形の変つた一つの自己鞭撻だつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.126-128.
青字は、原書の傍点付き文字。
しかし、「所感」に対する志賀の評は、例によって手厳しいものでした。
「『自然の意思といふものも認めるけれど、あゝ書かれるとなんだか問題が中途から考へられたやうな氣がするネ。根本まで突つ込んで行つてないやうに思つた』
私はだしぬけに突ツ離されたやうな気がした、〔…〕
いつからともなく、私の童貞でないことは知れて了つた。〔…〕月経の夜、執拗な男を拒む、女の情慾などを写して『麦』へ出した。
『君はどういふつもりであれを書いたんだい』
かう君に尋ねられて私はヒドくまごついた。いつか、鹿野山で書いて来た性慾小説を手ヒドく攻撃されてから、私はすつかり懲りて了つた。〔…〕
『然しサ、君はあゝいふ内容に対してどういふ風に思ふのサ』
『どうつて、別に……まア、劣（いや）しいと思ふネ』
『さうかナ、僕はあれを読んで一種の美感を感じたヨ。女がうめく、なんてところはいゝぢやないか』
『ウム……』
私は云ふべき言葉を見失つた。吐いた唾をいかに悔やんだらう。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.128-129.
青字は、原書の傍点付き文字。
里見は、志賀の言動のままに、いいように振り回されている状態でした。彼は志賀の攻撃を予想しては、防衛し、ひたすら自分の性趣向を隠そうと努める。すると、志賀にほうは、逆に慾情を肯定し正当化するようなことを言う。いつも志賀の意を得たい気持ちでいつぱいの里見は、‥こんなことなら、自分を偽らないでいれば、ありのままを認めてもらえたのに、と思つて悔しがる｡｡｡
志賀としては、彼なりに一貫しているつもりなのです。里見を翻弄しようとする意図など無いのです。しかし、志賀の考えはいつも、“自分の好悪感情のまま”を、もっともらしく言い換えているにすぎないように見えます。志賀が、どんなことに対して、どんな感想を抱いて、どう“裁く”やら、里見にはまったく予想もつかないのです。
パリにいる里見の次兄・壬生馬から、志賀宛てに手紙が来て、パリでフランス人女性と情交関係にあることが書いてありました。志賀は、それを里見に話します。その話は里見にとって衝撃的であるとともに、羨望をそそらないではいませんでした。若い美しい女性との「恋愛」は、志賀、壬生馬らが独占している特権世界であり、里見のような者には近づくことも許されない、‥‥そういう思いが、里見の脳裏を占めたのです。
壬生馬は、1905年5月洋行に出発するにあたって、自分の情婦「関安子」(元電話交換手、西洋画モデル、有島家女中）を志賀と黒木三次（学習院同級、華族）に託して行きます。彼女に悪い虫がつかないように、また、壬生馬がいなくても生活して行けるように、よろしく頼む、というのです。
しかし、壬生馬と安子の関係は親（有島武）には内緒でした。壬生馬が日本を離れたあと、まだ学生でしかない志賀、里見らが、このことでどれほど苦労したか知れません。けっきょく、壬生馬と安子の関係は、壬生馬洋行中に武に発覚してしまい、武は激怒します。
そういう経緯があるにもかかわらず、壬生馬は、パリでフランス人“現地妻”と内縁を結んで楽しくやっているというのです。しかも、壬生馬は、その若い美女の全裸写真まで同封してくる念の入りよう。勝手のし放題とは、このことでしょう。
ところが、志賀も里見も、壬生馬に対して憤慨するどころか、壬生馬への畏敬と礼讃の言葉を交わし合っています。彼らの西洋人を崇める美意識と、性慾に基く羨望が、そうさせるのでしょう。
しかし、里見にとって重大な問題は、それ以外にありました。里見は、志賀から次兄の野放図な「恋愛」に関するこの話を聞いて、生来の“道徳意識”を根底から揺さぶられることになります。いくら性慾は「自然の大きな意思」だとは言っても、里見の観念では、それはあくまでも愛情とともになければならず、また、セックスのあとには育児の本能が続くべきものでした。彼は、その考えを、志賀らから習ったつもりでいたのです。
ところが、壬生馬は日本に情婦を遺棄したまま、花のパリでフランス女と宜しくやっている。それを、イイデスネ、イイデスネって崇めないとならない。その理不尽さを、理不尽と言うことさえ許されないのですから、里見の気が変になるのは当たり前なのです。
これはもう、“道徳”以前の、正常なメンタリティーの問題と言うべきかもしれません。
「安井君｛柳沢保承 ⇒：同性の愛慾と葛藤(2)【６】｝で纔〔わずか〕に経験したかしないの『恋愛』の話となると、丁度一度も私がはいつたことのない信仰の話と同様、いつも私には身がしまるやうな、不思議に壮烈な感慨が湧いて来た。その亢奮はうちへ帰つてからも、床に就いてからも続いた。私は明がた君に手紙を書き始めた。
『〔…〕実は今夜私は自分を赤裸々にして君の前に泣きたかつたのです。〔…〕私は心から告白などの出来る男ではありません。第一鎌倉で小川｛田中治之助｝や北小路｛正親町実慶｝の前で告白して許して貰つてから、矢張り肉慾の爲に打ち克たれてゐたのです。だから、その前※、湯河原に君を訪ねたら矢張り偽りの告白をしてゐたらうと思ふのです。私は後悔してゐます。然し私は後悔の苦みをすぐ忘れて了ふほど肉慾の強い男、意思の弱い男です。それだから私の告白は（若し今夜君の前で、それを敢てしたとすれば、）過去のこととして〔今後はしないという決意表明として――ギトン注〕するだけの決心は出来てゐませんでしたらう。「自分はかういふ男だからこれからも君たちを偽り、今後もこんなことを続けるかも知れない」と云ふしか請け合へませんでした。それはきつと君に非常にいやなご心配をかけなければならなかつたでせう。』」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.130-131.
※ ここでも、里見は、1908年夏の鎌倉・自刹未遂と、その年初の「湯河原」との前後関係について、記憶違いをしています。09年に書かれたこの手紙での記憶違いが拡大して、『君と私』叙述での時期の混乱を引き起こしたと考えられます。
壬生馬のパリでの“現地妻”囲いも、志賀の女中との“結婚騒動”も、里見の「八重」との交情と、何の違いがあるというのでしょう？ 一方は、恥ずかしくて他人には言えないような年上女に強いられたセックス、他方は、他人に吹聴して有頂天になれるような若い女とのセックス、それ以外には、何の相違もないはずです。
しかし、里見は、自分にふりかかっている情交の罠から逃れたい一心で、それを否定する美意識として、志賀らの「恋愛」を一も二もなく肯定せざるをえない。志賀らの「恋愛」の論理にひそむ欺瞞に気づくことはないし、その欺瞞が無意識のうちに彼の精神を蝕んでいることにも気づきようがないのです。
「『帰つてから私は非常に苦悶しました。〔…〕私は散々苦んで、遂に夢のなか以外に久しく私の眼に浮ばなかつた涙が流れました。私は先刻やつと決心しました。私は決して再び自分と人とを偽るまい、賤しい肉欲には打い克たれまいと決心しました。〔…〕私を信じてください。私は君の信用に対しても再び罪を重ねない決心を堅くします。私は若しこんど罪を重ねたら死ぬより他はありません。〔…〕』
〔…〕少しでも具体的な話は出来なかつた。部屋の呼鈴を一つ押せば君たちの目の前に現はれて来る醜い四十女を自分の相手であると告げることは、いかにしても私の虚栄が許さないことだつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.131.
里見は、胸の奥から搾り出したようなこの手紙を、志賀宛てに投函しました。ところが、志賀は、読んだのか読まないのか、その後しばらく、この手紙には触れることもなく、そしてある日突然里見を訪ねて来て、あの手紙の内容を壬生馬に書き送ったら、壬生馬は、「大変喜んで」いたなどと言うのです。
「一夜の亢奮のあまり君に書いたあの長い手紙の一句一句が私を責め訶（さいな）んでゐる最中、『若しこんど罪を重ねたら死ぬより他はありません』といふ言葉が中でも私の心を苛立たせてゐる最中、〔…〕君は私の部屋に来た。
『実は君のあのことを兄貴｛壬生馬｝へ言つてやつたんだ。大変喜んで〔返事が――ギトン注〕来たヨ。それから起る特別な不幸がない限り、さういふことは大変いゝことだつていふやうな意味だつたかナ』
君は私のあの手紙に返事もくれず、それに就いて一ト言も云はず、まるで受け取つたこともないやうな顔をしてゐて、突然こんなことを云ひに来た。私が死を賭けて誓つた言葉などは、夙うに破れてゐる〔里見はとっくに誓いを破っているだろうと――ギトン注〕、―――それア当前（あたりまへ）だ、といふ風にまるであたまの隅にも置いてゐなかつたやうに見えた。〔…〕何もかも見透かされて、私は煙のやうに他愛ないものになつて了つた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.132.
青字は、原書の傍点付き文字。
志賀も壬生馬も、里見の情交の相手が自分の身の回り係の女中であることも、「醜い四十女」であることも知らないので、里見の婚姻外性交に対して寛容な態度を見せてやれば、里見の“無駄な”苦悩は解消するだろう、などと思っているのです。
しかし、里見にとっては、その“親切”は、あまりにも残酷な仕打ちであったと言えます。里見は、年上の志賀らから命じられるであろう“道徳意識”をただ一つの命綱にして、独力ではいかんともしがたい奈落の淵から、這い上がろうとしているのです。ところが、肝心の志賀らは、その命綱をゆるめて、「悩むことはない。そこでもっと楽しんでいたまえ」などと囁いているのです。
結果的に、志賀らは、里見が必死に頼りにしていた彼自身の“道徳意識”を破壊してしまうことになります。
これは、より広く、時代的、社会的に見れば、日露戦争後の日本に蔓延していた《アノミー》のひとつの現れだったと言うことができるでしょう。
「日露戦争の勝利によって不平等条約が撤廃され、他の帝国主義諸国と対等な立場を獲得した日本は、明治維新以来の国家的独立の達成とそのための富国強兵という国家目標を喪失する。その結果、それまで国家目標に支えられた人びとの価値・規範意識が低下し、日本社会に急速な社会的アノミー（規範解体）が到来した。人びとのあいだで社会不安が瀰漫し、青年層には一種の神経症的緊張が広がった。個人主義や自然主義が大都市に住む知識人や青年を捉え、社会主義運動が台頭する。」
大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか？』,2019,講談社,p.180.
「或る時君は私にかういふ意味のことを云つた。―――どんな過ちでも、『あゝ、こいつはしくじつたナ』と氣がつきさへすれば、その瞬間からそれはもう自分にとつて罪でも過ちでもない。自分はそれに対して、一つの経験に対する態度に変れる。だから自分はいつでも過去を楽観してゐる〔…〕
『然し僕のはそれとは場合が違ふんだ』
私がかう云つた。『僕のは悪いと知つてゐながら、どうしてもその同じ行為から逭〔のが〕れられないんだ。だからやりきれないんだ』
『それだつて、僕なら同じだと思ふネ。悪いと知つてゐてやることなら、少くとも自分だけにはそれはもう悪いことではないんだ。然しこれア僕だけの考へ方だヨ』」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.133.
志賀のような恵まれた立場の人には、里見が陥っているような境遇は、まったく想像することもできなかったのでしょう。それだから、「悪いと知つてゐてやることなら、少くとも自分だけにはそれはもう悪いことではないんだ」などという楽観を吐くことができます。
ギトンの【必読書150】を読んだ方は、“善悪の基準は、自分のほかにない”と断定しているような志賀直哉の考え方は、スピノザに似ていると思うかもしれません。しかしそれは表面上の類似にすぎません。もしスピノザがこの場にいたとしたら、こう言って志賀を非難するでしょう：「おまえの眼の前に《神》がいるのが、見えないのか、おまえの時代の苦悩を一身に苦しむ魂が？」と。
「君の言葉は悪魔の私語（ささやき）のやうに思はれた。私の『道徳』がさういふ考へ方を私に強ひたのだ。然し私の『心』は却つて君の悪魔的な考へ方に惹かれた。〔…〕私の『道徳』は土台から揺〔ゆす〕られてゐた。
第一君は以前から善悪といふ言葉を餘り使ひたがらなかつた。〔…〕正義の念の強い生れだが、それがいつも君のは自分の好悪の感情から出てゐた。君の好きなものはなんでも善いものだつた。君の嫌ひなものはなんでも悪いものだつた。さういふ我儘な、私の考へてゐた善悪などとはまるで別のものだつた。私のは貨幣のやうにどこへ持つて行つても通用するかはり、私の肌の浅さほどにも深い所から出て来るものではなかつた。〔…〕
私はもう泣きツ面ばかりしてゐなかつた。泣き言も聞かせなくなつた。そのかはり、今まで大切にしてゐた『貨幣』を見失つて了つた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.133-135.
ばいみ～ ミ
彡
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