06/14の日記
21：15
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(4)
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有島邸・址 千代田区六番町3番
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(3) からのつづきです。
【10】志賀邸跡と有島邸跡
本稿で扱う時期に限っていえば、志賀直哉の住んでいた志賀家の豪邸は、麻布三河台（現・六本木4丁目3）に、里見弴の住居である有島家の邸は、六番町にありました。
どちらも建物は残っていませんが、「居住の跡」を示す表示が設置されています。
志賀邸跡の写真は、前回出しましたが（⇒：同性の愛と葛藤(3)【９】）、広壮な集合住宅の無味乾燥な一角になってしまっています。というより、もともとそういう土地柄ではなかったかという印象を持ちました。現在は「ブリジストン・アパート」の入口に案内板があります。
たしかに、麻布だけあって、付近には、旧藩邸の公園やカトリック・チャペル・センターなど由緒には事欠かないのですが、歓楽の六本木に近いためか、街路のふんいきも、行きかう人も、せちがらい印象のみ与えます。標示板を撮影中も、ずうたいのデカい無遠慮なスポーツ・カーが何台も来て、排気ガスを浴びせられたり、どかされたり、まるで嫌がらせをされているようでした。
志賀直哉自身、ここに住んでいた時の家庭内のできごとについては、たくさん小説に書いているのに、屋敷やその周囲の街と風景については、まったく触れていません。この町には、よい印象も思い出も無かったのでしょう。
それと対照的だったのが、有島邸のあった六番町です。何かにつけ対照的な・この二人の性格と環境の特徴が、本稿のための調べが進むにつれ際立って見えてきているのですが、‥住んでいた場所まで対照的だとは｡｡｡
六番町も、「山の手」という点で、三河台と同じ地域に属してはいるのですが（つまり、「下町」ではない）…… 六番町の有島邸の場所は、今回の口絵↑写真に出しましたが、その赤いダイヤ形のプレートの隣りに設置されている「奇数番地街づくり憲章」という標示板↓を読んで驚きました。
「私たちはこの街を業務ビル街ではなく、多くの人が住む街として認識し、愛しています。人が安心して住むことができる環境は都心にとって有限で貴重な資源です。そして、安心して住み続けられる街であることは六番町に住む皆の願いです。
私たちはこれからも六番町の街を大切に想い、自分達の手で街づくりを進めてゆきます。何代にもわたり受け継がれてきた地域の文化を守り、良好な住環境に住み続けられる権利を守るために、私たちは『六番町街づくり憲章』を宣言します。
〔…〕
一、土地は投機の対象とはせず、生活の基盤と考えましょう。
〔…〕
一、住宅としての用途を引き続き維持することに努めましょう。
一、この街に誇りを持ち、この街にふさわしい美しい街並みをつくりましょう。
一、子供も、お年寄りも安心して歩ける安全な街にしましょう。
〔…〕」
たしかに、六番町の旧有島邸付近は、閑静な住宅街という表現がぴったりの界隈でした。歩く人、自転車で通りすぎる人の姿も、六本木とは異なって、「安心して歩」いているふうでした。ここも集合住宅が増えてはいますが、建物の規模は小さく、なによりも、六本木の高層アパートのように殺風景ではありません。
直哉と弴が――また弴の兄たちが――通っていた四谷の学習院・中高等科は、六番町から歩いて５分もかからない至近にあります。
『憲章』はもちろん最近のものですが、明治・大正以来ここに住んで来た住民の意志なくしてはありえない、ある意味大胆な“人権宣言”だと言えるでしょう。
北海道で、所有の有島農場を小作人に解放した長兄・有島武郎の事績も想起されます。
【11】“傷だらけ”の出発(2)―――里見20-21歳、志賀24-25歳
「｛1908年｝春休の前から君｛志賀直哉｝と上方の旅行を計画した。小林君｛木下利玄｝も一緒に行くことになつた。〔…〕出発の日私たちは〔…〕歌舞伎座で落ち合つた。〔…〕〔ギトン注―――芝居が〕はねてから夜汽車で新橋をたつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.108.
青字は、原書の傍点付き文字。
※ 木下利玄は、白樺派の歌人、岡山県・足守藩最後の藩主の甥。学習院で武者小路実篤、志賀直哉と同級。
３人は、伊賀上野→笠置→宇治→京都→奈良→吉野→和歌山→大阪と回り、和歌山で、郷里（岡山）へ向かう木下が別れ、直哉と弴の二人で大阪に４日滞在し、15日ぶりに帰京します。
「奈良の博物館で、鼻息に硝子をくもらせながら龍燈鬼の立像を眺めてゐた君が、
『どうもあの褌のたるみの工合がなんとも云はれないネ』と云つて、頻りに褒めだした。それをまた側で聞いてゐた小林君が、『褌のたるみ工合や春の風』などと云つて私たちを笑はせたりしたが。〔…〕
夜晩く和歌山へ着いた。停車場で、郷里（くに）の方へ行かうとする小林君と別れて、君と私とは嵐のなかへ出た。私たちの身なりを見て、汽車のなかで聞いて来た宿屋の番頭は部屋がないと云つて断つた。〔…〕
大阪では公園一つ見ようともせず、毎日芝居へ通つた。〔…〕
この旅行以来、君と私との間は目に見えて近づいて来た。これまで君が私に対して知らず識たず現はしてゐた『子供扱ひ』も殆ど消えて了つた。〔…〕回覧雑誌の『望野』も見せて貰へるやうになつた。〔…〕漱石の講演があると云へばすぐに誘ひに来てくれる、丸善に今こんな本が来てゐる、といふやうな具合に、なんとなく君たちの仲間同士と同じやうに扱はれるのが嬉しかつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.111-113.
「郷里（くに）」と言っているのは、木下は岡山の小藩主の子孫だからです。
『望野』は、志賀直哉が学習院で同級だった武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と４人で回覧していた文芸回覧誌（1908-）。これと、里見弴らの回覧誌『麦』（1908-）、柳宗悦らの『桃園』（1909-）が合体して、同人誌『白樺』が創刊されます（1910年）。
「龍燈鬼立像」 現・興福寺蔵
お〇んぽの 締まり工合や 春の風
「英夫｛里見弴｝の八重との交情は続いていた。年上の醜い女と思いつつ、初めて知ったセックスの味は20歳ほどの英夫を捕らえて離さなかった。この頃のことを弴は何度か小説にしているが、この夏、鎌倉の別荘で、菅田、園池、児島ら※と自炊して暮し、志賀も一度ほど来たが、英夫はこの時、『復活』を英訳で読み、深い自己嫌悪と慚愧の念に捕らえられた。しかも自分の女はカチューシャのような若くて美しい女ですらない。夜半、友達が寝静まった後で、英夫は自刹を試みたが果たさなかった。自刹の方法は感電自刹だったようだ。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.52.
※ 児島喜久雄、菅田敏光、園池帆七は、学習院の里見弴の友人。児島喜久雄は、のち白樺派の画家、美術史家、東北帝大助教授等。レオナルド・ダ・ヴィンチ研究により知られる。
瀬戸内寂聴によると、晩年の里見は、この自刹未遂について、↓こう語っていました。
「筆おろしは 19歳の時、家にいたいい加減年増の醜い女中に犯されて、それが情けなくて、自分の純潔も人生もこれでお終いになったと、本気で自刹しようと思い、感電自刹を計ったが、失敗したなど淡々とおっしゃる。
『情けなくて泣いていると、そいつが泣くほどのことじゃありませんよと言いやがる。口惜（くや）しくってね』」
瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』,2008,日本経済新聞社,pp.186-187.
『君と私』で、もう少し詳しい前後の経過を見てみます：
「その夏、赤松家｛有島家｝の鎌倉にあるぼろ別荘で書生流儀な自炊生活をしたのはみんな私と同年配の友達だつた。〔…〕
私がモウドの英訳でトルストイの『復活』を読んだのはこの時だつた。『悪行は悔ゆるを得べし、されど悪心は悔ゆるを得可からじ。そは総ての悪行の母なり』こんな意味のところを読みながら私はまたもや自分を苦しく思ひ始めた。何時間にも亙る水浴の昼の労れにも拘らず、寝つかれない夜に苦しめられた。
―――ネフリユドフは、自分がその處女を奪つた女、それが因で次第に暗い深みへ陥つて行つた女、牢獄へ下つた女を救はうとして、どんなに苦しんだか。シベリヤまでついて行つた。名誉も財産も情婦も、総て自分の生活にこびり附いてゐたものを振り捨てて。――私の、年とつた醜いマスロワは幸福を感じてゐた。さうして、私はまだ放埒な若旦那ネフリユドフが享楽したやうな若い美しいマスロワの口を、その滑かな白い肌を、そして互の間の忘我悦（エクスタシー）を十分に享（う）けはしなかつた。而も私は夙（はや）くも既に『罪人』といふ名で誣（し）ひられた。私はまだ一方に貪慾な舌なめずりをする獣を許して置きながら、自分の悪行を苦しまなければならなかつた。あの醜い下賤なマスロワを自分の魂の容器（いれもの）にして、覚醒したネフリユドフの理解を迫らなければならぬとは。――それは俺に死ねと云ふことだ――。
現に私は或る夜自刹しようと思つて友達の寝息を窺ひながら蚊帳の裾をまくつて出た。恐ろしさに手が震へた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.114-115.
『復活』は、レフ・トルストイが 1899年に発表した長篇小説。『アンナ・カレーニナ』のあと 20年ぶりの長篇とあって、同年中に仏訳、翌年に英訳、独訳が出るなど、瞬く間に世界の注目を浴びました。日本語初訳は 1905年（内田魯庵）。ロシア国内で検閲を通過したテキストを発表する一方、検閲前のテキストを英国で発表したため、トルストイは、1901年この作を理由にロシア正教会から破門されています。
「『復活』【あらすじ】貴族地主であり裁判所陪審員であるネフリュードフは、ある日、法廷に立った被告人が、10年前の復活祭の日に自分が誘惑して肉体関係を結んだうえ、たった 100ルーブルを握らせて捨てた侍女カチューシャであることに驚く。
カチューシャは、イェカチェリナ・ミハイロヴナ・マスロヴァの愛称。
カチューシャは、ネフリュードフの子を身籠ったため雇い主（ネフリュードフの叔母）に追い出され、各地を放浪したすえ娼婦に身を落とし、ついには殺人犯として逮捕されたのだった。彼女の運命は、もとはといえば自分が気まぐれに弄んだせいだと考えたネフリュードフは、自責の念から、彼女のために奔走し、彼女には殺意が無かったことを陪審員全員が認めるに至る。ところが、手続上のミスから有罪判決が言い渡されてしまい、ネフリュードフは判決を覆すために奔走するが、この過程で、ロシアの裁判制度の全不条理が露呈する。カチューシャの懲役・シベリア流刑は確定してしまう。
ネフリュードフは、領地を小作人に解放して全財産を捨て、カチューシャに同伴してシベリアへ向かう。しかし、ネフリュードフの結婚申し出を、カチューシャは固く拒否し続ける、彼を愛するがゆえに。別の囚人と婚約したカチューシャに、ネフリュードフは祝福を送り、なおも自分の贖罪のために流刑囚たちとともに働く。」
複雑多岐な筋書きをもった長篇なので、手短で要領のよいあらすじが、なかなか見つかりません。↑上は、ウィキペディア日・英・独語版の混合と、こちらを参考にしました。ただし、これはあくまでも主スジの一部です。
この小説で特徴的なのは、ネフリュードフの罪悪感と贖罪意志の強固さですが、全篇にわたって著者が激しく告発するロシアの制度的不条理に対する怒りが、主人公の自己断罪意識を強める関係にあります。そして、それは読者にも伝わってきます。
私たちは正直言って、里見がなぜ、この小説を読んで自責にかられ、苦しまなければならないのか、理解できません。里見と「八重」の関係は、ネフリュードフとマスロヴァの関係とは、似ても似つかないように思われるからです。むしろ立場は逆で、「八重」に対しては里見のほうが“被害者”だと言ってもいいでしょう。
「有島家」のなかで、里見ひとりは、法律上は他家の子（養子）である――という彼の立場に、里見は付け入られているのではないか？ いわば、庶子に近い立場なのではないか？ 里見を傷つけても、「有島家」の嫡男を傷つけたことにはならない、‥と「八重」はタカをくくっていることができる。そんなことも考えられます。
しかし、里見は、そんなことには気づかない。富裕家の“若さま”の自尊心から、自分をネフリュードフになぞらえてしまうのです。
“情慾に耽っている以上は、愛さなければならない”
“もしも、愛することなく、情慾のみを求めるなら罪人であり、無限の贖罪に身を挺するほかはない”
“自分が決して望まない・どす黒い情慾にのみ身を挺して、しかもそのことのために無限の贖罪をしなければならない、そんな人生に生きる価値があるのだろうか？”
―――里見にとって、『復活』は、そのように読まれたのではないでしょうか？
しかし、鎌倉の夜の自刹は、けっきょく未遂で終ります。それと同時に、里見は生きる力が湧いてくるのを感じ、「八重」と別れようと決心して東京へ向かいます。
「生きたい心が私に妙な勇気を与へた。その明けがた、私はお伽噺の勇者が不思議な剣で武装でもするやうに、久振りに手淫をして、私のマスロワの前へ覚醒したネフリユドフとして帰つて行つた。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.115.
「お伽噺の勇者が……武装でもするやうに」オナニーをしたというのは、象徴的です。里見にとっての問題が、《性的自己決定権》を取り戻すことにあった―――ということが明らかだからです。
ところが、東京の自宅に戻って「八重」に会うと、里見の心は萎えて、別れ話を切り出せず、けっきょくまたセックスをしてしまいます。
絶望にかられた里見は、志賀直哉に救いを求めて、志賀邸を訪ねるのですが、先客がいて、妨げられます。志賀の畏友である武者小路実篤が来ていたのです。
武者小路は、志賀の仲間たちのなかで最も潔癖な人でした。仲間たちが、飲みに行こう、ということになると、武者小路は、「それじゃあ」と言って、ひとりだけ帰ってゆく、そういう人でしたから、その武者小路の前で、じつは女中と性交して……などという話を言い出せるわけはありません（小谷野伝記,p.53）。武者小路は、『荒野』という最初の単行本小説を自費出版したばかりでしたから、里見にとっては聳えるような畏敬の対象、‥ほとんど畏怖の対象だったのです。
里見は、自分の秘密を志賀に打ち明ける機会を、またもや失してしまいました。
「夜ふけてから東久世君｛武者小路実篤｝と二人帰つて来ると、雨を伴はない大雷鳴が急に頭の上に鳴り硠（はため）いて、紫色の光は西北の暗い空を、縦横に切りこまざいた。私はこの畏敬する友達と私との上へ、その光の一ト筋を導きたく思つた。
また鎌倉へ行つた。また寝られない夜が来た。更にみじめな、それで更に自発的でない苦悩が私を捕へた。友達を見るとそれ＼˝／の道へ進んでゐた。」
a.a.O.
けっきょく、東京では「八重」と別れる計画も果たさず、志賀、武者小路という年長者の懐を借りることもできず、居場所のなくなった里見は、鎌倉の別荘にいる同級の友人たちのもとに戻ってきます。
その夜半、ついに里見は２人の友人の前で告白するのですが‥‥
「思ひ悩んでとろ＼／とした。ふと目を開いて見ると勉強家の小川はまだ机に向つてゐた。私はノコ＼／と㡡（かや）を出て行つた。
小川が苦しんでゐることは私を驚かした。夙（はや）く父母に別れた彼には、心のよくない兄があつた。長男ではあつたが父の氣に入らなかつたためか、既に他家の姓を襲つてゐた人であるのに、近頃頻りと上長の暴威を棹〔ふる〕つて小川に遺された財産を犯さうとして来る。小川はその兄に悪意をもち、また従順であり得ぬ己を苦しんでゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.115-116.
夜寝られないほどの悩みは、自分だけでなく友人にもあることを知って、里見は驚いています。「小川」(仮名）は特定できませんが、田中治之助（はるのすけ、雨村、『白樺』同人。のち英十三として邦楽評論家）とすれば、その長兄・武兵衞は東京金網會社社長・東京府多額納税者、次兄・孝之助は山田家に、次々兄・泰之助は坂田家に、それぞれ入養している。
鎌倉、滑川
「ボソ＼／と私たちが話してゐた声で北小路｛正親町実慶｝が起きて来た。私は二人を促して戸外へ出た。砂丘を一つ越すとそこがもう海岸だ。ブロツ、ブロツ、ポオー、ブロツと耳が鳴つた。海も荒れてゐる。夜光虫が、砕ける浪を巨人の白歯のやうに見せた。私は軀（からだ）の内部から寒くなつて来るやうに、胴体が震へた。暗い晩だつた。
『君たちに聞いて貰ひたいことがあるんだ』
私は両腕に力を入れて胸を抱き締めながら、かう始めた。私の告白といふものは誠に容易（たやす）いものだつた。
―――自分は君たちが信じてゐてくれるやうな人間ではない。愛もなくて或る女を犯してゐる。自分は弱い人間だから、君たちの前に以後決してその罪を重ねないとは、今こゝで誓ふわけにはいかない。どうぞ自分を悪人だと思つてくれ。それで私を憎むなら交を絶つてくれてもいゝ。自分は、心では
殺人の罪を犯したこともある……。
私は、自分でさう悪いとも思つてゐないことまで、思ひ出すまゝに片つぱしから挙げた。しかし自分でも恥かしいやうなことは、一つも云はなかつた。例へば、手淫の癖とか、マスロワが四十女であるとか。
二十一二の青年の間にかういふ告白がどう待たれるか。小川も北小路も私に対する友愛に何物かを加へこそしたれ、私を憎みはしなかつた。狡黠〔こうかつ〕な、仲間の友達の間にはヒドく傲岸に構へてゐた私が、また、さういふ結果を心のどこかに予知しなければ初めから云ひ出しはしないのだつた。とは云へ、現にその予知してゐた結果に達した時、ほんとに懺悔した人のそれとは全く正反対な重いものが、私の心にのしかゝつて来た。
―――私たちが意味多げな沈黙を続けながらまた砂丘を越えて帰つて来る時分には、××山の方の空から美しい暁が白んで来た。二人の友は云ひ合せたやうに立ち止つて、大きく胸を張つて、永い息を吸つた。私は、水のやうに踝（くるぶし）まで浸して来る砂の、日中に受けたほとぼりが生ぬるく皮膚に触れるのを感じた。―――あがけばあがくほど、私は微温のなかに沈んで行く者であつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.116-117.
青字は、原書の傍点付き文字。
※ 正親町実慶：おおぎまち・さねよし。青蜩、日下諗[くさか・しん]。『白樺』同人。小説のほか、初期の写真撮影マニアで、白樺派同人らのスナップを遺す。正親町家は藤原北家閑院流の公家で、明治以後は華族・伯爵家。21代当主の兄・公和も『白樺』同人。
里見が“苦しまぎれの告白”の聞き手にした２人の友人は、一方は堅実だが無趣味な平民の家の子であり、もう一人は世間離れした公家の出であり、いずれにせよ里見を襲っていた“文学的な苦悩”とは無縁の人たちでした。そもそも里見の同級生には、志賀の同年代の面々とは異なって、個性の強い人はいなかったようです。
本人が書いているように、里見の“告白”も中途半端なものでした。ただ抽象的に「愛もなくて或る女を犯してゐる」と言うだけで、彼自身が“罪深い”と思っている事実内容は、ほとんど聞き手に伝わっていません。
ただ、里見としては、とりあえず“誰にも言えずに一人で秘密を抱えている状態”からは解放され、しかも友人たちに見放されるリスクも負わずにすんだわけです。「生ぬるい」かもしれないが、いっときの安心を得たことはたしかでしょう。
その反面、小規模な群生地震が起きて大地震が回避されたかのように、“志賀直哉への告白”という「永い間企ててゐた」ことを決行する意欲も、失われることとなったのです：
「この予習の結果を見ては、永い間企ててゐた君の前の告白も、私は擲〔なげう〕つよりほかないと思つた。
〔…〕私の積極性は種ぎれになつて了つた。暗い所にぢつと竦〔すく〕んで何物かを待たなければならなかつた。相変らず君の前に秘密を包みながら。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.117.
里見としては、志賀直哉に対して、「八重」との交情を隠して付きあっているということが、この前後からたいへんに負担になってきたようでした。直哉と弴のあいだに、同性愛の性愛関係が結ばれるのは、もう少し後のように思われます。しかし、里見はすでにこの時点で、この尊敬すべき年上の親友と心理的に近づけば近づくほど、対等に融和すればするほど、自分の「罪」と「ほんとうの醜い姿」をさらけ出せないことが、苦痛になってきたのです。
1908年暮れ、里見弴は大島に旅行し、そのあと熱海へ渡ってそこで両親と正月を過ごし、湯河原に滞在していた志賀直哉にも会いに行く計画を立てました。しかし、海が荒れて船が欠航したため、里見は大島で正月を過ごすことになり、熱海に到着したのは正月明け、湯河原へは行けませんでした。
「あの時、私は幾度自分を君の側〔そば〕に想ひ描いたらう。私は君に聞いて貰ひたい苦しい秘密をこの秋からもつてゐた※。
私たちは性慾を自然のよき贈物として感謝し、交媾を劣（いやし）まなかつた。たゞ愛の伴はない肉交だけは殆ど宗教的に『姦淫』と見て、堅く許さなかつた。二人は性慾の問題が出るごとに、まるで誓ふやうな言葉でこの点を明言し合つた。他に考へやうはなかつた。
この真理を蹂躙した私は急に暗い世界に住む人となつた。温泉の夜※※が更けて、灯を消して床に就いてから、隣りに寝てゐる君の耳に、私はこの破戒を告げやようとしてゐた。なんの爲めに、――私はそこまでは考へなかつた。〔…〕たゞ話して了ひたかつた。話すと同時に自分は明るみへ飛び出せるもののやうに。そして話さない限り始終君を偽つてゐる自分である、と。而もこれより以前にもつと積極的に君を偽つたことはさして氣にもしないで。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.106-107.
※ 「秘密」とは、「八重」との肉体関係を指していますが、「八重」とのセックスが始まったのは 1906年秋からだったようです。ところが、この箇所は、1908-09年の年の瀬に、嵐で伊豆大島に滞留するはめになった時に生じた想いとして、書かれています。伊豆大島滞留の時期について、里見は記憶違いをしているようです。
※※ 「温泉の夜」：この時までに、志賀と里見が二人で「温泉」に泊まったことは無いと思われます。おそらくこの場面は想像で、このあと予定していた湯河原温泉訪問で、起きてほしいことを夢見ているのでしょう。
「性慾の話をしてゐた時、
『手淫をするだらう』
自分自身に厳酷な人の言葉が屡〻〔しばしば〕さうであるやうに、君もどうかすると平手で打つやうな口の利き方をした。
『しないヨ』
かう云つて了つて私は苦しい沈黙から逭〔のが〕れるために、表情の辜負（うらぎり）をもみ消すために、『夢精はどうかするとするけれど』かう、ドギマギしながらつけ加へた。
〔…〕弱いために、つまらない矜持（プライド）を守るためとか、高慢心を満足させるためとかでは、数へきれない偽りを云つた。〔…〕然るにさういふ虚言の数々は私を苦しめずに、いつて見れば、たゞ常々の云ひ草に反した行為があるといふ、たゞそれ丈のことが一番私を苦しめた。殊に大島に十日以上も島ながしにあつて、自分の考へる『罪』〔「八重」とのセックスを指す―――ギトン注〕から永く遠ざかつてゐた間に一番烈しく。
東京へ帰ると、私はまづ、心の暗い片隅で待つてゐたいち｛八重｝の抱擁に会つた。この、母親にもてるほど年長の女中は巧に朋輩の目をくらまして夜私の部屋に来た。
私は折々自分の怯懦な心を鞭うつて、どうかして君の前にこのことを懺悔しようと考へてゐた。さうして自分を苦しめてゐなければ苦しいのだつた。少くも苦しいと思つてゐなければいけないのだつた。それがその当時の私の最上の道徳だつたから。そして苦悶が唯一の贖罪だつたから。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.107-108.
こうして、「八重」との“どす黒い交情”から逃れたい気持ちが、弴を直哉に近づけて行ったと言えます。
自分の望まない年上女性の慾情から受ける恐怖にみちた嫌悪感。それと比較すれば夢のようにピュアですがすがしい快楽の世界を披いてくれる、しかも、若い女性と違って、精神的にも頼れる硬玉のような対象‥‥そういうものが得られる点で、男どうしの“愛のある身体関係”にまさるものはないのです。世間の多くの人は、そう思わないでしょうけれども、私たちは、そう思います。
ばいみ～ ミ
彡
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