06/12の日記
18：10
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(3)
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芦ノ湖と駒ヶ岳 元箱根港から
こんばんは。(º.-)☆ﾉ
【ＢＬ週記】志賀直哉と里見弴―――同性の愛慾と葛藤(2)からのつづきです。
【７】小谷野敦氏の里見弴・詳細年譜と伝記本
前回のぶんを上げたあとで、小谷野敦氏の伝記本『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社. を入手しました。この本は、現在絶版になっていますが、電子書籍(無料立ち読み)で読むことができます。
しかし、この本の里見青年期の部分は、ネットに上げておられる詳細年譜と比べて、残念ながらあまり詳しくないです。
前回にとりあげた、1905年夏・元箱根の部分については：
「｛1905年｝5月13日に、壬生馬は絵画の勉強のためイタリア留学に旅立つが、〔…〕壬生馬は留学に当たって、英夫｛里見弴｝と安子〔壬生馬の情婦――ギトン注〕のことを、志賀｛直哉｝と黒木｛三次｝に託した。〔…〕
こうして英夫｛里見弴｝は、志賀、黒木らとしばしば遊ぶようになり、夏には彼らと元箱根へ旅行した〔…〕
この頃、志賀と柳沢が恋しあっていて、英夫は嫉妬を覚えているが、どちらにというより、その関係に嫉妬していたのだろう。8月に歌舞伎座で志賀と『業平文治』を観た時も、小山内｛薫｝が来ていて志賀と親しく話しているのを見て嫉妬を覚えたという。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,pp.42-43.
となっています。やはり、志賀と柳沢が“恋仲”になっていたのは、1905年元箱根でのことであり、彼らはそれを里見に見せつけ、里見はショックを受けるとともに激しく嫉妬した‥ということのようです。
里見は、志賀と小山内（同性愛関係はないが）にも嫉妬していた、ということで、志賀は、あらゆる機会をとらえて、里見が自分に嫉妬するよう仕向けていたことがわかります。里見は、わかりやすいくらい純に、志賀の術策に嵌って一喜一憂していたのです。その結果、志賀を怨むのではなく、かえって志賀を崇拝する方向に誘導されていることは、前回引用の『君と私』で見たとおりです。すべては、完全に志賀の意のままに進行していたと言えます。
もう少し前の 1904年あたりから、小谷野伝記本を引用しますと、
「若い頃の里見の動静は、志賀の日記と書簡でおおよそ分かるようになっており、〔…〕」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.41.
とあります。どうやら、元箱根の“柳沢事件”の解釈も、志賀の日記と書簡が典拠のようです。
「明治38年(1905)2月3日に、志賀は宮戸座で『蟒於由高評仇討〔うわばみおよしうわさのあだうち〕』という実録ものの歌舞伎を観て、４代目澤村源之助(1859-1936)の毒婦ぶりに感嘆し、素晴らしいという葉書を英夫｛里見弴｝によこした。〔…〕英夫は、〔…〕志賀ももう一度誘って一緒に観に行き、自分も源之助びいきになったという。この時初めて志賀と一緒に料理屋に入ったというが、かくして、英夫は志賀と、同性愛的ともいうべき関係になっていき、半ば志賀に耽溺するようになっていく。」
a.a.O.
「毒婦」を賞讃し、自分を「毒婦」になぞらえるのは、現在でも一般的な日本のゲイ・テイストのひとつだと思います（オネエとか‥‥）。明治期末の青年のあいだで、それが、いわば“同性愛”に馴染んでゆく１階梯となっていることは興味深いといえます。
「一緒に料理屋に入った」という体験も、それと関連します。いまのゲイのあいだで、こんな習慣はありませんが、ギトンはかつて、昔びいきのゲイと付き合った時に、それを知りました。料理店の個室に入ると、年下の同性に、パンツを脱がせたり、全裸踊りをさせたりして楽しむのです。まったくアホくさいだけですが、戦前の“男色”では、それも一風俗であったのかもしれません。
とはいえ、里見弴は、これより３年前、15歳の時から、自家の書生「山川」との同性セックスに耽溺していましたから、“男色”の初心というわけではない。志賀が苦心したのは、すでに同性愛馴れした里見の関心を、いかにして自分に向けさせるか、ということでした。
【８】１対１の付き合い―――里見19-20歳、志賀23-24歳
1906年、里見弴（19歳）は学習院中等科を修了し高等科へ進学、志賀直哉（23歳）は、学習院高等科を卒業して東京帝大文科大学（文学部）英文科へ進学します。
「もう、二人の間の話題は以前のやうに芝居とか錦絵とかに限られてはゐなかつた。お互に自分たちの友達の噂、その人たちの性質などまで語り合ひ、また自分自身の性分も話してみた。〔…〕恋愛とか性慾とか人生とかいふ題目でも、いくらか私も話し相手にされるやうになつた。少しづつ文学の話しも出た。〔…〕芝居は相変らずよく一緒に見に行つた。君と会つて、半日ぐらゐは喋るたねに事缺かなかつた。
この時分｛1906年｝から私は君の家を訪ねる度毎に、西洋の、特に独逸の画家の画譜を見せて貰つて〔…〕君が大学の方で教つて来る心理や支那哲学の話も私を喜ばせた。或る時君に引つ張られて、それまでは私に未見の土地であつた深川、本所の方も見て歩いた。〔…〕
一度も信仰にはいつたことのない私は、つひに一度君の前に宗教の話などもち出したことはなかつた。それがこの頃になつて時々君の口から批評的に基督教の説かれるのを聞いた。私は自分などが一度も見たこともなかつた尊い珠にでも触れるやうにオヅ＼／した心持で聞いてゐた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.101-103.
青字は、原書の傍点付き文字。
この頃、里見は、ゴーリキーを英訳で読み、またラフカディオ・ハーンの『怪談』(英文）を志賀に貸しています。里見、志賀、ともに、小説の創作を始めるのはこの翌年からですが、里見は、創作のほか、モーパッサンなどの小説の翻訳（英訳からの重訳）を各同人誌に載せており、里見の翻訳は、同人に評判がよかったといいます。
英訳によるヨーロッパ文学の渉猟は、志賀直哉に倣ったと思われます。志賀は、高等科2年（1904-1905）ころからアンデルセン、イプセン、モーパッサン、トルストイなどを英訳で読破して行ったといいます（阿川弘之「志賀直哉」『阿川全集』p.106）
志賀が内村鑑三の門を離れるのは、翌年の結婚問題をきっかけにしてですが、すでにこの 1906年から、キリスト教に対する疑問を抑えられなくなっていたことがわかります。
「｛1907年初め｝君は小説を書き始めた。私は君の部屋で大きな宣徳火鉢に手をかざしたり、机に凭りかゝつたりして、君の読んでくれるのを聞いた。未定稿が多かつた。半分しか出来てゐないのは、そこまで来るとあとは筋で話してくれた。〔…〕君は筋を話すことが上手だつた。〔…〕まるで出来上つたもののやうに細かく物語つた。『岩に腰かけて足の尖〔さき〕だけ水に浸してゐるとネ、小さな魚がちよろ＼／泳いでゐるのが、浅い川底の沙の上へ映る影と一緒にあつちこつちに動いて行くんだ。それをぢつと見てゐるうちに……』こんな調子だつた。『ダイナマイト』なども出来上つて見せて貰つた時より話で聞いた時の方が面白かつた。〔…〕読み終つた時や、筋なら話し終つた時、君はきつと肩をそばめるやうにして、首を後に引く加減で体をそらせ、〔…〕片手でやけに頭をかいた。そして『どうだネ』と云つて私の顔を見る。私はきまつて『面白いネ』と答へた。〔…〕
私も小さいスケツチのやうなものを書き始めた。夏休には同級の大内、田島、北小路などと鹿野山に行った。〔…〕こゝで私は初めて纏〔まとま〕った短篇が３つばかり出来た。〔…〕
君は私が持って帰った小説に叮嚀な評を書いてくれた。山の上で始終出会った白痴の、想像で書いた身の上の話は褒められたが、若い後家の情慾を写したのは大不評だった。性慾と、性慾に打ち克つだけのものとの間の争闘が写されてゐない点を君は手ひどく非難して、最後に、『兎も角好奇心からあゝいふことを書くのは邪道だよ』と書いてあった。私は君のゐないところで顔を赤くした。もう一つ自分のことを書いたものは君に見せる勇気がなかった。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,pp.104-105.
青字は、原書の傍点付き文字。
やはり天分のある小説家は、すごいものですね。「岩に腰かけて足の尖だけ水に浸してゐるとネ、小さな魚がちよろ＼／泳いでゐるのが、浅い川底の沙の上へ映る影と一緒にあつちこつちに動いて行く」というような、まるで映画のような映像が、書く前から頭の中に仕舞いこまれているんですねえ。
それをまた、一度聞いただけでずっと覚えていられる里見のほうも、文章を書く才能は互角なのでしょう。里見が鹿野山で書いた短篇『お峯』（志賀に酷評された後家情慾小説？）について、小谷野敦氏は、
「この頃書かれた『お峯』『お庄』などは、習作ながら既に十分な文章力を発揮しており、素人離れしている」
と評しています。
里見の、志賀とちがう点は、純文学だけでなく、大衆小説にも最初から天分があったと思われる点です。わいせつな内容を「好奇心から……書くのは邪道だ」という志賀の忠告にもかかわらず、里見はのちのち、純文学小説のかたわら、遊郭を舞台とした大衆小説も量産してゆくのです。
鹿野山で書いた３篇のうち、「自分のことを書いたもの」は、志賀に「見せる勇気がなかった。」と書いている点も眼を惹きます。この心理は、里見から見ると、志賀はあまりにも「エラ」すぎるために、志賀の前では自分をさらけ出すことができない二人の関係を示しています。しかも、志賀は、細かく「叮嚀」ではあるけれども何の遠慮もない批評を、里見の作品に対して向け、里見には、その批評は、まことにもっともだとしか思えないのです。
これは、志賀と里見という２人格の関係を特徴づける中心問題であり、これ以後いよいよ密接になってゆく二人の仲に対して、良くも悪くも作用することになります。
「かくして数え年 19歳の山内英夫｛里見弴｝が年長者たちによるエリート教育とも言うべき薫陶を受けて文学の大海へ乗り出すべき年となるはずだったが、〔…〕それ以前に、多くの青年を悩ませる『性』の問題が英夫を襲った。家にいた母親ほどの年齢の、八重という女中に童貞を破られ、以後数年、後に繰り返し里見が書いた『墨汁５合も飲んだような気持』『ずるずるべったりズム』『自己嫌悪』などの語に形容される、恋愛ではないのに肉体に惹かれる状態が続くのである。」
小谷野敦『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』,2008,中央公論新社,p.45.
年譜によると、1906年の欄（里見弴・満19歳）に、
「この年、四十前後の女中八重に童貞を破られる。」
とあります。里見が、15歳ころから、自家の書生「山川」との同性性愛に耽っていたことは、すでに触れましたが、19歳からは、これに女中との性行為が加わるわけです。あるいは、書生との身体関係は、「八重」の“圧力”で消滅したのか？
いずれの関係も、弴のほうの性的自己決定権は、ほとんど主張する余地がなかったように思われます。
【９】“傷だらけ”の出発(1)―――里見20-21歳、志賀24-25歳
その一方で、翌 1907年には、志賀のほうに、女中との“結婚問題”が発生します。相手の女性「千代」は、1889年生まれで直哉より6歳下。「千葉県小見川に何代も続く古い職人の家の次女」で、「行儀見習い」として志賀家に住み込んだのが、その1年ほど前のことでした（阿川,op.cit.,pp.131f.）。
「千代」は本名ではありません。この結婚はけっきょく実現しなかった上、直哉との肉体関係が公表される結果になったので、「千代」の子孫のプライバシーを慮って、第２次大戦後に全集編集者が彼女の名前を伏せたのです。そのため、公刊資料では常に仮名で表示されています。「千代」は、志賀の小説『大津順吉』で付けられた仮名です。
「千代」に愛情を持ちはじめてから、志賀は、「社会的階層のちがふことが支障になるものだらうかとか」考えるようになります：
「結婚するにしても今の千代には2,3年の学校教育が必要ではなからうかとか、色々思ひ悩む。〔ギトン注――自分の家の〕雇人の生活についても、初めて関心と同情とを抱いた。千代は毎日台所でどんな物を食つてゐるのかと考へる。何の楽しみも無く、ろくろく休みも取らず、粗食をしながらただ忠実に主家のため働き通して、それでも尚、主人側からのべつ叱られる。千代が、自分の入るやうな垢の浮いてゐない澄んだ風呂へ入ることなぞ、絶対無いのだと思ふ―――。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.132.
こうした志賀の「女中」に対する気持ちは、住み込みの雇い人というものが存在しなくなった現在の社会からは、想像の難しいことです。理論的に理解できても、実感としてはわかりません。しかし、当時の青年が耽読したトルストイの『復活』にしても、富裕家の若様と女中の関係をテーマにしているわけです。当時の青年は、書物からも、こうした雇い人に対する一種捩じれた心情を注入されていたと言えます。
麻布三河台・志賀邸跡（港区六本木4-3-13）
「｛1907年｝8月の中旬過ぎ、やうやく心が固まつて、千代の気持も確めた上、亡き母の指輪を与へ、結婚の約束を交し、キスを一つし、翌朝そのことを祖母に告げたあとで騒動が持ち上つた。
〔…〕祖母の留女〔るめ〕も、あとから同席した義母の浩〔こう〕も、最初格別の異議を唱へなかつた。留女は前々から千代が好きで、よく気の廻る気の早い女だと言つてゐたし、浩もあれはやさしい子だと言つてゐた。それが、当主直温〔直哉の父――ギトン注〕の猛反対に遭つて、二人とも態度が変り、事態も急変する。直温は、息子の言ひ分を直接聞くことすら拒否した。次の日、直哉の部屋へ直接上つて来た留女は、平民の娘を入れて嫁にしたといふ例は志賀家にかつて無いことだ、口約束だけなら何でもないからすぐ断つてしまへと言ひ出した。
平民の娘と結婚したために志賀家の血統が汚れるといふなら自分の方で家を捨てると、直哉は言ひ返した。人類の王イエス・キリストはナザレの大工の子ではないか、小見川の職人の娘を嫁にして何が悪い、千代の父親の職業は、金を道具の如く扱つて遊び暮す株屋よりはるかに正業だといふのが、直哉の主張であつた。
〔…〕その晩直哉と千代とは事実上の夫婦になつた。直哉は初めて女の身体を識つた。
此のあと、周囲の者がうまく言ひ繕つて千代を千葉の実家へ連れ去つてしまふ〔…〕
千代の一件で、直哉と直温の関係は極度に悪化した。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.132-134.
志賀は、この疾風怒濤の中で、やはり同年代の友人たちには相談し、ある友人には旅行先に手紙を出して、すぐに帰京してほしいと頼んでいるほどです。しかし、里見弴に対しては、このできごとを話すことさえしませんでした。里見とは、この間もしばしば会っていたというのに。↑上で述べたように、里見が鹿野山で短篇３作を書き、帰京してから志賀に見せて批評を受けたのは、まさに志賀が“結婚騒動”の渦中にあった 1907年夏のことなのです。
秋になって、共通の友人である田村寛貞※が里見に会って、志賀をこのままにしておくと「今に気違ひになつちまふぜ」と言って協力を求めると、里見は、何も聞いていなかったと言って驚いています（「君と私」『里見全集』pp.105-106）。
※ 田村寛貞：のち東京音楽学校教授。西洋古典音楽の受容に努めた。著書に『リッヒァルト・ワークナー』1916。訳書に、ハンスリック『音楽美論』1924。
志賀は、里見を、たとえ親しくなっても“稚児”として、一種の愛玩物として扱っていた面があると言えます。しかしそれにしても、志賀は、これほどの騒動の渦中にいて、年下の里見の前では、まったく異変を感じさせない落ち着いた態度でいたことになります。志賀の意志の強さには、やはり感嘆しないわけにいきません。
「その時分君は人を避けてゐた。私も久しく遇はなかつた。たまに東久世君｛武者小路実篤｝の所などで一緒になつても別に普段と変つたところも見えなかつた。それから三四年後まで、君はこのことに就いて私に何も話さうとしなかつた。私も聞かうとしなかつた。然し君は別段私に隠さうとはしてゐなかつた。私も知つてゐることを後めたくは思はなかつた。」
「君と私」, in：『里見弴全集』,第１巻,1977,筑摩書房,p.106.
「久しく会わなかった」と書いていますが、会わないと言っても数か月以内のことでした。里見は、田村から志賀の「ラブ・アフェア」を聞いたあと、11月に志賀に会っていますが、そこでも、やはり千代とのできごとは話題にならなかったようです。里見もあえて訊かず、志賀もとくに触れようとはしなかったということです。
二人の関係は、やはり男どうしの親友というよりも、同性愛にふさわしい間柄として進んで行ったのだと思います。
「8月末、千代が無理矢理暇を取らされ、実家へ連れ戻されたあと、直哉は度々彼女あてに手紙を書いた。千代の方でも、その都度返事をしたためるのだが、それを読むと必ず直哉の癇癪が起る。下手なら下手なりに、思ひのこもつた文面であれば満足出来るのだけれど、千代のは、只形式通りの便りで、文章からも文字からもありきたりな感じしか受けなかつた。〔…〕次の手紙でつい怒りを爆発させる。誤字や当て字が多すぎると、その指摘訂正もする。したがつて、片方は恋文が届く度に腹が立つ、一方は恋文が届く度叱言だらけの内容を読まされるといふ関係が１ヶ月半つづいてゐた。」
志賀は 10月に小見川の千代の家を訪れるが、「小見川を訪れた直哉は、あらためて、似たやうな不満を感じた。こちらが、家も捨てる親も捨てる、家族全員を敵に廻すくらゐの緊張した気分でゐるのに、千代のところでは誰も神経をピリピリさせたりしてゐない。よく言へば平和そのもの、悪く評すれば如何にもダルであつた。千代の気持が、張りつめた直哉の心にちつともぴつたり来なかつた。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,pp.137- .
この阿川伝記によると、千代の実家の界隈では、
「千代の身内が今〔阿川伝記が書かれた 1994年ころ――ギトン注〕も語り伝えへてゐる話によると、志賀家の若旦那と彼女との間柄は、その頃小見川で中々の評判だつたらしい。〔…〕近所の人々が噂するし、親たちも、
『何しろ殿さまのところへ嫁にやるんだから』
と、もはやそのつもりになつてゐた。」
という状況でした。「小見川」は現・香取市の利根川べり。志賀直温が経営に参画していた「総武鉄道」は、当時この地域唯一の交通動脈でしたから、「殿さま」は比喩でも誇張でもありませんでした。志賀家のような士族の家に“嫁ぐ”ということじたいが、水郷の僻村の人びとにとっては、前代未聞の一大事で、志賀家に何が起きようと、そんなことまでは気が回らないのでした。
それは千代にしても同じで、志賀家から暇を出された際も、「周囲の者がうまく言ひ繕つて」とあるように、“追って御沙汰があるから、安心して実家で待っていらっしゃい”みたいなことを言われたのでしょう。玉の輿に乗った気分でいたにちがいありません。
しかし、それにしても、志賀直哉が千代の手紙を見て「癇癪」を起こしたというのは、信じがたいほどの無理解と言わざるをえません。「思ひのこもつた文面」とは、「思ひ」さえあれば書けるというものではありません。「思ひ」をこめるには、それなりの技術が必要なのです。しかも、当時の学校教育では―――学習院はそうではなかったかもしれませんが、一般には―――、美文を真似ることだけが教え込まれ、自分の気持を書くなどということは、許されることではないと教育されていたのです。
小学校しか出ていない千代は、「若旦那さま」の手紙に、まっとうに返答しようと努めれば努めるほど、緊張すればするほど、「只形式通りの……、文章からも文字からもありきたりな感じしか受け」ないものを書くほかはなかったのです。それに対して、叱責を加えつつ「誤字や当て字が多すぎると、その指摘訂正もする」ということでは、千代はますますシャチホコ張って、形式的な対応に終始することとなるでしょう。志賀の態度は、千代に対して、彼が望むのとはまったく逆の効果をもたらすだけだったと思われます。
この点は、直哉より３年遅く出生した石川啄木のほうが、はるかに庶民の実情を知っていたと言わなければなりません。
啄木は、
「彼等〔「日本の教育者」――ギトン注〕は、人はその顔の違う如く心も同じでない事を忘れている。」
と言って、生徒の個性を伸ばす教育を主張していました。啄木にとっては、生徒の「誤字、当て字」などは、二の次であったはずです。
ところで、志賀は、こうした渦中にいた 1907年9月23日、内村鑑三を訪ねて、千代との結婚のことを相談しています。しかし、内村の忠告は志賀には受け入れがたいものであり、またショックでした。内村は、家族が同意しない結婚には反対だという意見でした。
「先生は周囲の者が誰れも認めない内に夫婦関係が出来れば、それは矢張り罪だといふ意味の事を云はれた。私は周囲の者が認めないのは私を少しも理解しようとせず、只、世俗的な慣習からそんな事を云つてゐるので、さういふ事は私の方からも認めるわけには行きません。〔…〕先生は腰かけたまま机の横桟に足を突張つて、椅子ごと仰向けになられ『困つたなあ』と大きい歯を露はし、笑ひながら嘆息された。
私は7年間に此時程先生を親しく身近かに感じた事はなかつた。先生は『ピュワ・リーゾンとしてはそんな事も云へるかも知れないが、プラクティカル・リーゾンとしてはそれでは困る。仮りに僕がそんなことを認めたとすればどうなると思ふか』と云はれた。私にはそれは分らなかつた。黙つてゐると、先生はしんみりした調子になつて、『僕にもさういふ経験はある。その時は死を想つた事さへある』といはれた。〔…〕先生がさういふ事で死を想はれたといふのは私には大いに意外な感じがした。私は尚よく考へます、考へがきまるまでは参りません、と云つて帰つて来た。
〔…〕
それから幾月かして、私は先生の所へ行き、はつきりお断りして、それきり行かなくなつた。〔…〕先生は又来たくなつた時は来てもいい、と云はれたと記憶する。」
「内村鑑三先生の憶ひ出」, in：『志賀直哉全集』,第７巻,1974,岩波書店,pp.301-303.
その年 10月に志賀が小見川の千代の実家で２泊３日を過ごしたさい、次のようなことがあったといいます（阿川伝記。典拠はおそらく志賀の『日記』）。志賀が、２日目の夕方に二人で散歩しながら、千代の教養を高める話をしようとして、
「『秋の日は釣瓶落とし、といふ言葉がある』」
と言ったところ、千代は、
「『男心と秋の空つてね』」
と言って応じたというのです。
「自分でもいやな顔をするのが分るほど直哉はがつかりし、翌日気を滅入らせて東京へ帰つて来た。」
阿川弘之「志賀直哉」, in：『阿川弘之全集』,第14巻,1977,新潮社,p.138.
千代としては、志賀の言葉と並ぶような名文句を返そうとして、しかしそんなものは流行り歌の文句以外には思いつかないので、こういう文句が出たのでしょう。千代は、自分の言った言葉の意味さえ理解していたとは思われません。暮れゆく澄みきった空を眺めながら、直哉の男らしい立派な気持ちを胸いっぱいに感じて、この文句を吐いたにちがいないのです。
しかし、志賀は千代の返句を、世間で通用するとおりの意味にしか理解しなかった。その結果、ショックを受けて引き下がった。恋人どうしのあいだでは、言葉はパロールであり、世間で通用する意味と違っていても何ら差し支えないのです。そのことが、志賀にはまったくわかっていなかったようです。
志賀直哉という人は、意外に狭量な性格だということがわかります。生まれ持った性格を責めることはできないかもしれませんが、しかし、この特質は、このあとに展開する里見弴との関係においても発揮されるでしょう。
その後、志賀は千代に自分の小遣い銭から送金して、学費を援助し、千代を、佐原にあった女子裁縫学校の速成科に入学させます。子女が裁縫学校に通うということ自体、小見川の住民には絶えて無いことでした。小見川からは通えないため、千代は学校の寄宿舎に入ります。
しかし、志賀の気持は次第に冷めてしまい、そこへ千代の側でも、世間を知った親戚筋からのアドバイスがあったようで、千代の修学が終った約1年後「此女とはつきり別れた」と志賀は書いています（小説『過去』）。
今回は、志賀直哉の“結婚騒動”について、やや詳しく見てきましたが、これは本稿のテーマである里見弴との同性愛と無関係ではないからです。志賀が千代との結婚問題で家族ともめていたあいだも、里見は自家の女中「八重」とのセックスを続けており、しかもそのことを家族にも友人にも誰にも打ち明けることができない悩みに煩悶していました。
煩悶が頂点に達するのは翌 1908年で、次節で見るように、里見は自死しかけたほどでした。
“富裕家の若さまと女中”という、同じ構図でありながら、志賀直哉のケースと里見弴のケースは、なんと対照的なことでしょうか。両ケースを比較することによって、私たちは、二人の性格の対照的な違いも、社会的（ないし家族内的）立場の相異も、如実に見ることができます。そういう見通しから、今回は志賀の“結婚騒動”を、次回は、里見の 1908年を中心とする煩悶を、見て行くこととします。
ばいみ～ ミ
彡
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