06/04の日記

01:53
【必読書150番外】ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(3)―――理性と情動と共同社会

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  ピーテル・ブリューゲル(父)『暗い日』1565年  










 こんばんは。(º.-)☆ノ



 ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(2)―――意識と存在、本質と生存、理念と現実の生 からのつづきです。






 【7】《理性》状態と《社会》状態






「社会(SOCIÉTÉ)―――集団としての人間が、ひとりひとりの力能をひとつに合わせて、高次の力能をもつ1個の全体をかたちづくる状態(共同社会
(キウィタス)の状態、国家状態)。この状態は、各人がつねに自分のそれより大きな、自分が破壊されてしまうような力に出会う危険にさらされている自然状態の弱さ、無力さを払いのけてくれる。この共同社会の状態すなわち社会状態は、理性状態に似てはいるが、あくまでもこれはそれに似ているというにすぎず、たんにそれを準備する、あるいはその代わりをするものでしかない[EWP35Sc,P54Sc,P73,TPP§16]。

 理性状態においては、人々のそうした合一は、各個の構成関係の内発的結合―――共通概念や、この共通概念から生じるもろもろの能動的な感情(とりわけ自由、堅固さ、寛容さ、第2種の認識における仁愛(pietas)や敬虔の念(religio))によって決定される結合―――にもとづいて成立をみる。

 ところが人々のそうした合一つまり全体の形成は、共同社会の状態においては、なんらかの外発的秩序―――希望と恐怖(自然状態にとどまることにたいする恐れ、そこから脱け出ることにたいする希望[TTP§16,TP2:15,TP6:1])という受動的な感情によって決定される秩序―――にもとづいて成立をみるのである。

 理性状態においては、法とは永遠の真理、いいかえれば各人の力能の全面的展開に向かう自然の法則である。

 共同社会の状態においては、法は、各人の力能を制限あるいは制約し、命令や禁止としてはたらき、全体の力能が個人の力能を越えて強大なものとなればなるほど、この傾向は強まる[TP3:2]。これは、ひとえに服従と服従の根拠にかかわり、善と悪、正義と不正義、褒賞と懲罰を決める『道徳的な』法〔掟〕にほかならない[EWP37Sc2]。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.124-125.



 例によって、いきなり最初の段落に取っかかると意味がよくわからない。これ、辞書形式の記述の宿命なのでしょうね。2段落以下を書いてから、先頭の段落を書いてまとめる‥→ 先頭の段落は、総合的というか、ごちゃごちゃ盛った話になってハッキリしなくなる。―――ということではないかと思います。

 なので、↑引用文は、うしろから読んだほうが、よくわかりますw

 第2段落以下は、「理性状態」と、「共同社会の状態」(ないしつづめて「社会状態」)を比較して、どこがどうちがうんだということを書いています。そもそも「理性状態」とか「社会状態」て、いったい何だ?‥ということは、『エチカ』に書いてあります(〔第W部定理37註解2〕 詳しくは、こちら⇒:【必読書150】スピノザ『エティカ』(10)【40】; 【必読書150】スピノザ『エティカ』(11)【41】【42】)

 かんたんに言うと、まず《自然状態》があります。「社会」も国家もない、いわばそれ以前の原始状態。人間どうしは《自然》から与えられた力と衝動のままに、気に入らない他人を殺したり、気に入った奴は抱えこんだり、勝手気ままに暮らしています。何が“善い”ことで何が“悪い”ことかは、各人が感情のままに勝手に判断しますから、およそ正義も不法も罪も、この世界にはありません。所有権のような法的な権利もないし、借りたものは返せといった義務も存在しません。すべては、し放題、され放題。

 しかし、これでは皆が困るのです。いつ他人に殺されるかわからないし、《自然》の中では、どんな個物にも「それよりも強力で有能な他のものが存在」するのですから[EWAx]、どんなに強い者も、いつかは倒されます。つまり、社会が安定しない。

 それならば、皆が理性的になって、殺しあうのをやめればいいじゃないか、とまず考えてみる。(その場合、殺しあいをしないのは、人を殺すのは悪いことだ、という道徳規範に従うからではなく、各人が自分の《理性》にもとづいて、殺さないほうがよいと判断するからです。)そうやって想定されるのが「理性状態」:



「〔定理37・註解2〕
〔…〕もし人間が理性の導きによって生活していたら、だれでも、〔この部の定理35・系1より〕他の人にまったく危害を加えることなしに、このような自分自身の権利を享受することができたであろう。

 しかし人間は、〔この部の定理6より〕人間的能力と徳をはるかにこえた強い感情に隷従しているのであるから〔この部の定理4・系による〕、したがって〔この部の定理33より〕しばしば異なったほうへひきまわされる。すなわち、〔この部の定理34より〕たがいに敵対的になる。そのようなときこそ、たがいに援助しあうことが彼らには必要であるのに〔この部の定理35・註解による〕。〔第4部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.350-351.



 「理性状態」は、現実にそんなことがありうるかどうか疑わしい。人間は「感情に隷従している」からです。スピノザの「理性状態」の記述は、ラテン語の接続法で述べられていて、可能性ともとれるし、非現実(不可能性)ともとれますが、ドゥルーズは、「理性状態」は非現実仮想だと解釈しているようです。私たちも、ここではそう考えましょう。













 ドゥルーズは、つぎのように↓書いていました。



理性状態においては、人々のそうした合一は、各個の構成関係の内発的結合―――共通概念や、この共通概念から生じるもろもろの能動的な感情(とりわけ自由、堅固さ、寛容さ、第2種の認識における仁愛(pietas)や敬虔の念(religio))によって決定される結合―――にもとづいて成立をみる。
〔…〕

 理性状態においては、法とは永遠の真理、いいかえれば各人の力能の全面的展開に向かう自然の法則である。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.125.



 「共通概念」とは、ざっくり言えば《理性》と同じことです。自分と他の個物や個人とのあいだに共通するものを見つけ、たがいに結合し、高めあう感情を体験すること。「自由、堅固さ、寛容さ」、理性知「における仁愛や敬虔の念」といった「能動的な感情」によって人びとの活動力能は飛躍的に高まり、《自然》の脅威にひるまない社会を建設してゆくことができます。

 「理性状態」には、国家も社会もありません。各人が《理性》に従っているので争いが起きず、法律や窮乏に促されなくとも協力しあってゆけるので、国家は必要ないのです。そこにもし「法」があるとすれば、それは「永遠の真理」すなわち「自然の法則」だけです。

 「理性状態」とは、このような空想的なまでに理想的な人間たちのありかたであり、カントのいう《統整的理念》(⇒:柄谷行人『世界史の構造』,岩波現代文庫,pp.372f; 同『柄谷行人インタヴューズ 2002-2013』,講談社文芸文庫,pp.97f, usw.)です。






 【8】「希望と恐怖」の《共同社会



 これに対して「社会状態」とは何か?

 「理性状態」は、たしかに理想的ではあるけれども―――国家も支配も暴君もいない世界なのですから理想的です―――、じっさいにはありえない。それならば、「理性状態」に近い状態を実現するような“しくみ”、あるいは「理性状態」の代りになるようなものを考えようじゃないか。それが、「共同社会」すなわち「社会状態」です:



「〔定理37・註解2〕
〔…〕したがって、人々が心を和して生き、たがいに助けあって生きうるためには、彼らの自然権を譲歩して、他人に危害を与えるようないかなる行為もなさないという保証をたがいにもつことが必要である。

 ところが、このようなこと、すなわち〔この部の定理4・系より〕感情にいやおうなしに隷従し、したがって不安定で〔この部の定理33より〕変わりやすい人間が、たがいに保証しあい、たがいに信頼しあうということがどのような根拠によっておこりうるのか、
〔…〕いかなる感情もそれより強力で、しかも反対の感情によってでなければ、抑えられえないのであり、また各個人は自分により大きな危害の加わる恐れ※がなければ、他人に危害を与えようとするのを思いとどまれないものである。

 そういうわけで、もしも各人がもつ復讐する権利、また善悪を判定する 権利(ius)を、社会(societas)が要求して独占することにすれば、社会(societas)は、このような法(lex)によって強固なものとなるだろう;それぞれの社会(societas)が、〔市民の〕共通の生活規則を定め、さらに法(lex)を制定し、それらを、感情をなだめることができない理性によってではなく、威力(minae)※によって維持する力(potestas)をもつあいだは。ところで、もろもろの法(lex)と自己保存の力(potestas)によって確固たるものとなった・この社会(societas)は、市民国家(civitas)と呼ばれ、市民国家の権利(ius)によって防護される者たちは、市民(cives)と呼ばれる。〔第4部〕」

a.a.O. 第3段落はギトン訳出。



 ここで「市民国家」と訳したのが、ドゥルーズの言う「共同社会」(キウィタス)です。

 善悪を判断したり、憎むべき敵を殺したりする権利を、市民各人には持たせず、「市民国家」ないし「共同社会」がすべてを判断し、命ずることにする。具体的には、「共同社会」は、市民の「生活規則」―――モーセの“十戒”のような―――を定めて市民に守らせます。そうやって、たがいに危害を加えることのない状態を実現するのです。

 「共同社会」では、市民に「生活規則」や「法」を守らせるのは、《理性》ではありません。それは「威力」であり、もし守らなければ、「自分により大きな危害が加わる」と「各個人」が感じるような「恐怖」です。それは必ずしも刑罰の威嚇である必要はなく、たんなる“集団の恐怖”――従わなければ、自分以外の者に恨まれて、何をされるかわからない、という漠然とした「恐れ」で十分なのです。それがスピノザの考えです(詳しくは、こちらに書きました:⇒【必読書150】スピノザ『エティカ』(11)【42】)。



 ところで、ドゥルーズの解釈をみると、この「共同社会」は「理性によってではなく、威力によって維持」されるという部分を、つぎのように説明しています:



「合一つまり全体の形成は、共同社会の状態においては、なんらかの外発的秩序―――希望と恐怖(自然状態にとどまることにたいする恐れ、そこから脱け出ることにたいする希望)という受動的な感情によって決定される秩序―――にもとづいて成立をみる」



 これは、ちょっと楽天的ではないでしょうか? ↑この解釈では、人びとを「共同社会」の「法」に従わせている「恐れ」とは、皆が従わなければ「自然状態」に戻ってしまうという恐怖であり、また、皆が「法」に従えば「自然状態」から「脱け出る」ことができるという「希望」が、人びとに「共同社会」を維持させているというのです。

 たしかに、そういう面もあるでしょう。まぁ‥、オモテ向きは、そうでしょう。しかし、どんな社会にも、自分のことしか眼中にない人や、抜け駆けをしようとする狡い人は、いるものです。全体が「自然状態」に戻ってしまうのはいやだけれども、他の人たちが「法」に従うのなら、それを利用して自分だけは好き勝手をしたほうがトクだ!‥そう思うかもしれません。そして、社会の成員全員が、そういう考えを抱いたとしたら、「共同社会」は崩壊するでしょう。






 






 ドゥルーズがここで言う「共同社会の状態」は、あまりにも理性的で、ほとんど「理性状態」と変らないのではないか? そういう疑問が生じます。

 ここには、スピノザの冷徹な人間観とは異なるものが見えるのです。一言でいえば、“権力”というものに対する甘さが感じられます。

 スピノザの考えを極端にすれば、すべての“権力”は、集団権力です。ある“権力”が成立している場合、それは、“権力”のもたらす恩恵への「希望」や、“権力”のない状態への「恐れ」のためではありません。そこまで理性的な人びとならば、“権力”など必要としない。“権力”が成立するのは、集団の恐怖集団の暴力に対する恐怖のためであって、それ以外ではないのです。

 ここに見られるドゥルーズのオプティミズムは、ガタリとの共著『千のプラトー』等にまで、またドゥルーズの影響を受けたネグリ、ハートの諸著作にまで尾を曳いている―――と言ったら、言いすぎでしょうか?

 とはいっても、↓つぎのように、「共同社会」とひとくちに言っても、成員の《理性》が高い場合も、低い場合もあって、その程度に応じて、「法」による強制―――各人の力能に対する「制限」―――の程度も異なってくる。それはたしかに、まちがえのないところでしょう。



共同社会の状態においては、法は、各人の力能を制限あるいは制約し、命令や禁止としてはたらき、全体の力能が個人の力能を越えて強大なものとなればなるほど、この傾向は強まる[TP3:2]。これは、ひとえに服従と服従の根拠にかかわり、善と悪、正義と不正義、褒賞と懲罰を決める『道徳的な』法〔掟〕にほかならない[EWP37Sc2]。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.124-125.






 【9】コナトゥスと《共同社会






「とはいうものの共同社会の状態も、それが自然権を保持しているという点では理性状態と変わらない。
〔…〕〔ギトン注――理性状態でも共同社会でも〕各個の力能の合一によって形成される全体は、それそのものがその自然権によって規定される[EP50イェレス宛]。

 他方、共同社会の状態において共通なものとなるのは、積極的・肯定的な『共通概念』の対象としての全力能ではない。共通概念の定立は〈理性〉を前提としている。

 共同社会の状態で共通なものとなるのは、あくまでもすべての人々をその共同社会の成員たらしめている触発=変様や受動的感情にすぎない。今度は、私たちはすでに形成された社会にあるから、これは褒賞を得ることにたいする希望、懲罰を受けることにたいする恐れ(第2の種類の希望、恐れ)のかたちをとる。

 しかしこの共通の触発=変様は、どこまでも各人の自然権ないしコナトゥスを決定しているのであり、それを抹消してしまうわけではない。誰もがみなおのれの存在〔生存〕を保持しようと努めている。ただ、そうした共通の触発=変様にもとづいて、あるいはそれに応じて、そうしているにすぎないのだ[TP3:3]。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.125-126.



 ドゥルーズは、さきほど引用した部分で「社会」を定義して、



「集団としての人間が、ひとりひとりの力能をひとつに合わせて、高次の力能をもつ1個の全体をかたちづくる状態(共同社会
(キウィタス)の状態、国家状態)。この状態は、各人がつねに自分のそれより大きな、自分が破壊されてしまうような力に出会う危険にさらされている自然状態の弱さ、無力さを払いのけてくれる。」



 と書いていました。つまり、「共同社会」の場合、各人はそれぞれの「力能」を合わせることによって、より大きな「力能」をもつ全体をかたちづくり、《自然》の脅威や、他の集団(共同社会)からの攻撃に対処することができるのです。この、全体としての「力能」は、それ自体が、より大きな《自然》の中で「自然権」として発揮されます。すなわち、自然法則の制約は受けるけれども、それ以外のものには何ら制約されない“なまの力”として行使される。ひとつの「共同社会」をつつみこむ外側の世界は、依然として《自然状態》である、と言ってもよいのです。

 ただ、「共同社会」の場合には、成員の「自然権」は制約されます。成員が「自然権」を「社会」に委譲し、「社会」の決定に従うことによって成立しているのが「共同社会」だからです。

 他方、「理性状態」の場合には、各人の「自然権」は何ら制約されません。ただ、各人みずからが理性的にふるまう結果として、争いのない状態が現出し、この理想的状態のもとで、各人は自己の「力能の全面的展開」↓をみるのです。



理性状態においては、法とは永遠の真理、いいかえれば各人の力能の全面的展開に向かう自然の法則である。」



 スピノザというよりは、初期マルクスの疎外論みたいなユートピア思考ですが、ともかくドゥルーズは、↑このように考えているわけです。













 これに対して、「共通概念」に関しては、「理性状態」と「共同社会」のあいだに大きなちがいがあります。「理性状態」では、各人の「全力能」が「『共通概念』の対象」となります。スピノザの言う「共通概念」(第2種:EUP39)とは、いわば認識者の身体を中心とした“ローカルな普遍性”といったものの認識ですが、それが成立した場合には「十全」な認識(理性知)であり、自己と対象たる個物(または個人)それぞれの「全力能」を認識するに至ります。

 しかし、「共同社会」の場合には、そうではありません。各人は「十全」な認識をもつわけではなく、ただ外部から(「国家」ないし「共同社会」から)与えられた「触発=変様や受動的感情」を、各人が共有しているにすぎません。具体的にはドゥルーズが言うように、「褒賞を得ることにたいする希望、懲罰を受けることにたいする恐れのかたちをとる。」この「希望」「恐れ」が、人びとを「共同社会」につなぎとめる紐帯となります。

 そうは言っても、「共同社会」の場合にも、各人は「自然権」をまったく失ってしまうわけではないのです。



「この共通の触発=変様は、どこまでも各人の自然権ないしコナトゥスを決定しているのであり、……誰もがみなおのれの存在〔生存〕を保持しようと努めている。

 ただ、そうした共通の触発=変様にもとづいて、あるいはそれに応じて、そうしている」



 各人が、「褒賞」を求めたり、「懲罰」を回避したりするのは、各人の「コナトゥス」によってそうするのであり、そのかぎりで、なお各人は「自然権」を保持しているといえるのです。

 ですから、―――スピノザによれば―――「国家」の与える「褒賞」や「懲罰」があまりにも恣意的で、成員にとって耐えがたいものであった場合には、各人は本来の「自然権」を発揮して反乱を起こし、「国家」を転覆することもありうるのです。



「いまや、なぜ、スピノザにおいては社会状態契約にもとづくものとされるかが理解される。

 この契約は2つの契機をもっている。すなわち、 (1) まず人々はおのれの力能を断念しなければならない。それもこの断念自体をとおして彼らが形成する〈全体〉のためにそうしなければならない(〔力能の〕委譲はまさにこの点にかかっている。人々は希望や恐れを共有する共通の触発=変様によってみずからが『決定』されることに同意するのである)。 (2) こうして形成された全体のもつこの力能(絶対的な統治権[absolutum imerium])は、専制、貴族制、民主制のいかんを問わず国家に委ねられる(〔スピノザによれば、治者と被治者が同一で理論上主権に対する反対勢力が絶対的に存在しない〕民主国家こそ、この絶対的統治〔権〕に最も近い政体であり、恐れや希望、さらには安堵(安全の思い)さえ含めたすべての受動的な感情や情動を、〈理性〉の情動として自由への愛でもって置き換えてゆく傾向をもつものである[TTP§16参照])。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.126-127.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 「共同社会」は《社会契約》によって形成されます。「市民」たちが集まって契約書に署名する、というような手続きが行われない場合であっても、「共同社会」が形成される場合には常に、実質的には「契約」、すなわち成員たちの同意が成立しているのだ、とスピノザ=ドゥルーズは考えます。

 たとえば、モーセが“絶対的な神”の指示を受けた者だと称して、ユダヤ人たちをエジプトから連れ出してゆくような、およそ「契約」とは見えない場合であっても、実質的には「契約」なのです。なぜなら、ユダヤ人たちは、さまざまな奇跡を見せられて、モーセの“神”は自分たちを救うと信じた結果、絶対服従することに同意しているのだからです。

 このような《社会契約》は、まず、人びと全員が、それまでは各自が“善いこと・悪いこと”を判断していた「自然権」を断念し、「共同社会」に委譲しなければなりません。その場合、じっさいに善悪を判断する(裁判をする)のは、モーセという一人の絶対的権力者であったり、モーセが任命した数人の裁判官(士師)であったとしても、人びとは、「共同社会」という「〈全体〉」に対して「自然権」を委譲するのです。すなわち、誰か他人に服従するのではなく、“自分たち”に服従するのです。

 さらに、この「共同社会」である「国家」の形態が、独裁制や貴族制でなく「民主制」である場合には、文字どおり治められる「市民」たち自身が治めるわけですから、「自然権」を“自分たち”に委譲する――というタテマエに限りなく近づくことになります。

 スピノザの言う「民主制」とは、代議制ではなく、より直接民主主義に近いイメージです(スピノザは『国家論』執筆中に亡くなったために、「民主制」の章は未完で、よくわからないのですが)。スピノザの「貴族制」のほうが、議院内閣制の民主政体に近いシステムです。

 ここで注目されるのは、そのようにして《社会契約》の「契約」たるゆえんを最もよく体現している「民主制」のもとでは、人びとはより理性的に生きるようになると、ドゥルーズが考えていることです:



「民主国家こそ、……恐れや希望、さらには安堵(安全の思い)さえ含めたすべての受動的な感情や情動を、〈理性〉の情動として自由への愛でもって置き換えてゆく傾向をもつものである」



 一般に、「共同社会」では、人びとは、権力によって与えられた法律や「生活規則」に服従し、「恐れ」「希望」などの不安定な《受動感情》のままに生きているのですが、「民主制」のもとでは、そうした《受動感情》も、しだいに、「〈理性〉の情動」「自由への愛」へと置き換えられてゆく―――というのです。






 
Michel Gourlier    






「コナトゥスによって、存在する様態権利が定義される。しかじかの触発による変様(対象の観念)に応じて、しかじかの情動(喜び悲しみ、愛や憎悪……)のもとに、この私が自己の存在保持のためにするよう決定されるすべてのこと(自身に合わないもの・害になるものの除去、自身に役立つもの・合うものの保守)、これはすべて私の自然的権利である。この権利〔自然権〕は私の力能とまったく同一のものであり、
〔…〕
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.213.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 「存在する様態」すなわち現実の世界に存在する個物(個人)はみな、「コナトゥス」すなわち自己保持の努力を行使して生きています。この「コナトゥス」こそ、人間だれしもが持つ「自然権」にほかなりません。

 しかし、この「自然権」を行使するしかたは、人によってさまざまです。人のもつ「力能」は、さまざまであるからです。



「理性をそなえた人間と無分別な人間とは、
〔…〕変様や情動に即して自己の存在保持に努めるという点では変わりがない。〔…〕両者のちがいは、力能のちがいでしかないのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.213-214.



 「力能のちがい」とは、かんたんに言えば、“出会い方”の上手/下手ということです。「理性の導き」にしたがう場合には、上手に出会うことができ、「理性」にしたがう度合いが少なければ少ないほど、「情動」のままに動かされて下手な出会い方をすることになります。:



「存在する様態は、ただ行きあたりばったりに他の様態と出会い、外部から決定される変様や情動に身をまかせる場合でも、その自然的権利にしたがって自己の存在を保持しようとしつづけることだろう。それを脅かすものをただ破壊するのだとしても、その様態はそれなりに自己の活動力能を増そう、喜びの情念を味わおうと努めているのである[EVP13,P20,P23,P26]。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.214.



 ↑上で言う「無分別な人間」の場合です。「行きあたりばったり」に出会っては、自分に合わない対象だとわかると破壊します。この破壊ということも、「コナトゥス」が力能を発揮する一つのありかたにはちがいありません。自分と合わない対象は「悲しみ」ないし「憎悪」をもたらすので、そこに固執すればますます「悲しみ」に陥り、自分の活動力能を減退させることになります。しかし、その結果として対象を消滅させることができれば、受動的な「喜び」を味わうことができます[EVP20]。

 とはいえ、その「喜び」はその場かぎりのものです。人間は《受動感情》に支配されているかぎり、他の人間と「本性上一致」することはありえず[EWP32-34]、つねに反目と敵対のうちに他の対象と次々に出会うこととなります。そして、悪くすれば、自分より強い対象と敵対的に出会って、自分のほうが破壊されてしまう危険にさらされます。

 すなわち、「出会い」は「行きあたりばったり」ではなく、「秩序立てようと努める」必要があるのです。



「出会いを秩序立てるとは、他の諸様態のなかからみずからの本性に適
(かな)い、みずからと合一するようなものと、それもまさにそれらが適合・合一をみる局面で、出会うよう努めることである。

 ところでそうした努力は、まさに〈共同社会〉の努力そのものであり、さらに根本的にいえば〈理性〉の努力である。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.215.



 「出会いを秩序立てる」ことは、「理性の導き」にしたがって、よりよく適合する対象と、適合する局面で出会うことであり、そうして互いの活動力能を高めあうと同時に、より広範な「構成関係」を形成してゆくことです。それは、別の言い方をすれば、「共同社会」を形成することにほかならないのです。

 あるいは、「恐れ」「希望」といった《受動感情》に支配された成員からなる、専制国家のような「共同社会」から、より各人が「理性」にしたがって結合しあい、能動的に活動しうるような、「理性の情動」としての「自由への愛」が支配する「民主制」的「共同社会」へと変貌させてゆくことにほかなりません。

 それというのも、「理性に導かれる人は、……孤独の中にいるよりも、むしろ共同の決定に従って生活する国家の中にあってこそ、はるかに自由である」[EWP73]。そして、「共同の決定」が、実質的に成員が関与してなされる文字どおりの「共同の決定」に近づけば近づくほど、「自由」の度合いが大きくなることもまた明らかです。



 スピノザの政治論は、たいへん現実的で、ホッブズ、ロック、ルソーなどとちがって、理想的なフィクショナルな部分がないとされています。スピノザは《社会契約》説を否定している、とする論者もいるくらいです。

 しかし、ドゥルーズの理解するスピノザは、一面でユートピア的、と言ってよいくらい理想主義的で、「共同社会」論の中に、「理性状態」論を何割か浸透させて、現実の社会状態の改良ないし変革を展望しているように見えます。たぶんこれが、ドゥルーズら“1968年以後”の新しいスピノザ解釈の、根幹となっている精神なのでしょう。

 すでに指摘したように、現実ベッタリの古いスピノザから見ると、“新しいスピノザ”には“甘っちょろいオプティズム”が目立つように思えるのですが、それは偏見かもしれないw 私たちとしては、なお結論は保留しながら、ドゥルーズ、さらにネグリらの“新しいスピノザ”像を、しばらくのあいだ追いかけてみたいと思います。













 ところで、いまドゥルーズの文に現れた「理性の情動」という言葉に注目したいと思います。スピノザの言う「理性」は、たんなる冷たい理論や硬直した推論ではなく、人間の「情動」「感情」と深いかかわりをもっています。スピノザは、「理性」から、「欲望[EWP61Dm]」「満足[EWP52]」「好意[EWP51]」「名誉[EWP58]」のような感情が生ずるとし、また、精神が「十全」な観念をもつときには、《能動感情》としての「喜び」を感じるとしています[EVP58Dm]。



「理性は人間を導いてその活動力能を増大させるばかりではない。
〔…〕理性はさらに人間を導いて自身のそうした力能そのものを形相的に所有するにいたらせ、理性の形成する十全な諸観念から生じる能動的な喜びを味わわせてくれるのである。

 こうして存分に達成された努力としてのコナトゥス、あるいは自身に所有されるにいたった力能としての活動力能こそが(たとえ死によってそれがとだえることになろうと)、〈徳〉と呼ばれるのだ。」

a.a.O.



 スピノザによれば、人は自分の活動力能を理解するときに「喜び」を感じます[EVP53]。この「喜び」は、他人から褒められるとますます強められる[EVP53C]――と述べられていることから、たしかにそういう自信というか励ましになる「喜び」が、もともと自分の中にあることがわかります。

 ところで、《理性知》によって何らかの「十全」な、真なる観念をもったときには、精神はそれが真だということをも同時に知ります[EUP43 真理の内在性]。すなわち、真理を知りうるという自分の力能を観想し理解しているのです。これが、「自身の……力能……を形相的に所有する」ということの意味です。その結果、人は自分の力能を「十全」に認めて「喜び」を味わうのです。

 こうして、「理性」による真理の獲得と行動は、「喜び」《能動感情》をもたらし、それがさらに人の力能を高めてゆくことになります。






 【10】情動と音楽と《共同社会






「スピノザにとって、ひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者ならば誰でも知っている。
〔…〕ひとつの様態とは、身体における、また思考における、速さと遅さのひとつの複合関係であると同時に、その身体や思考のもつ、ひとつの触発しまた触発される力であるからだ。

 具体的に個々の身体や思考を、ひとつひとつの触発しまた触発される力として規定してみたまえ。ものごとはずいぶんちがってくるだろう。動物であれ人間であれ、これをそのもろもろの形や器官や機能から規定したり、主体として規定したりせずに、それがとりうるさまざまの情動
(アフェクト)から規定するようになるだろう。どれほどの情動をとりうるか。その触発しまた触発される力の最大および最小の強度閾はどこにあるか。スピノザにはつねにこの考え方がある。どんな動物でもいい。順序はかまわないから、情動のリストをつくってみたまえ。子どもたちにはそれができる。〔…〕農耕場とと競走馬のあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕場はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。

 こうした情動群を配分している内在的プラン、この大いなる自然の平面
(プラン)〔…〕この自然の内在的プランの上では、どんなものも、それを構成するもろもろの運動、もろもろの情動の組み合い(アジャンスマン)によって規定されるのであり、この組み合いが人工的か自然的かは問題にならない」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.239-240.



 《神すなわち自然》以外には、この宇宙に「実体」はない。宇宙の中にある個物は、「様態」であって、「実体」である宇宙そのものに生じては消える“波”のようなもの。。。

 しかし、ドゥルーズのスピノザ解釈は、もっと過激です。ここで言う「実体」とは、およそ“かたち”のあるもののこと。私たちは、この世にあるものはみな、人も犬も建物も、みな一定の“かたち”をそなえていると思っている。しかし、「ひとつひとつの身体や心は」、すべての個物は、「実体」ではない、“かたち”のあるものではない、とドゥルーズは言う。

 また、「人」も「人の心」も、「主体」ではありえない。意識があって対象を認識し、対象へ働きかけてゆく“自我”―――そういうものは無いと言うのです。

 それでは、個物は、どんなイメージでとらえられるのか?‥それが、「速さと遅さのひとつの複合関係」「触発しまた触発される力」という個物の規定です。一言でいえば、個物(様態)とは、「力能」であり「情動」です。






 






「〔公理1〕すべての物体は運動しているか、それとも静止しているかのどちらかである。

 〔公理2〕あらゆる物体はあるときはよりゆっくりと、またあるときはよりすみやかに運動する。

 〔補助定理1〕物体は運動と静止、ならびに運動の速度が速いか遅いかによって相互に区別され、実体によっては区別されない。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.196-198.



 すなわち、個物を他の個物から区別しているのは「運動と静止」および運動している場合のその「遅速」です。これは「延長」属性において見た場合ですが、「思惟」属性においては、「運動と静止」および「遅速」の「観念」によって区別されます。

 「運動と静止・遅速」は、個物を構成している無限数の「構成素体」の運動であり、同時に、その複合体としての個物がなす運動でもあります。

 しかし、別の見方をすれば、個物とは、「触発しまた触発される力」にほかなりません。「触発」は、個物を構成する要素のあいだでも起き、個物と他の個物のあいだでも起きます。「触発」によって物体には「喜び」「悲しみ」「欲望」等の「情動」が生じ、また、これらの「情動」は物体を新たな「触発」へと促します。



「この自然の内在的プランの上では、どんなものも、それを構成するもろもろの運動、もろもろの情動の組み合い
(アジャンスマン)によって規定される」



 すなわち、この世界は、さまざまな“かたち”あるものや、“意識”あるものが編成されてできあがっているのではなく、運動し静止する無限数の“かたちも大きさもない”点、そこに働く「力」ないしエネルギー、すなわち誰のものでもない「情動」どうしの激しい“せめぎあい”だけが世界の実相なのだ―――そういう世界観です。



「ここにはもうものの形はない。形をなしていない物質〔素材〕の微細な微粒子群のあいだに成りたつ速度の複合関係があるだけだ。

 ここにはもう主体はない。無名の力がとる、個体を構成する情動状態があるだけだ。

 ただ運動と静止しか、力動的な情動負荷しかとどめないこの平面
(プラン)は、それが私たちに知覚させるものと一緒に、それに応じて知覚されてゆくのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.247-248.



 そこで、このような世界の見方を実践してみると、私たちの世界は、どのように見えてくるでしょうか? ここで、ドゥルーズの言う「器官なき身体」(⇒:(1)【3】参照)すなわち「子ども」が登場します。“かたち”あるもの、“意識”をもった「主体」――という“大人の思考”から自由な「子ども」たちは、しばしば世界をありのままに観想し、表現します。「子ども」は、世界を、「情動」のせめぎあいとして認識することができます。

 ここで言及されている「競走馬」「農耕馬」「牛」の例は、スピノザ。引用では省略しましたが、フロイトが、ある子どもから聞き取った馬の「情動リスト」の観察例も書かれています。

 ところで、このように「情動」によって動物を認識しようとする考え方は、20世紀には一部の生物学者によっても実行されました。ドゥルーズはこれを「エトロジー」と呼んでおり、代表的な学者はユクスキュルです。

 馬、犬、人などの高等動物の場合、そのもつ「情動」は種類も多く、また働きかたも複雑ですが、ユクスキュルは、「情動」の単純な下等動物を対象として、動物と環境(環世界)との働きあい―――スピノザの「触発」―――の関係を研究しました。

 たとえば、森に棲んでいるダニは、@走光性、A嗅覚、B熱反応、という3つの「情動」をもっています。ダニは、この3つの「情動」だけで生きてゆくことができます。光へ近づこうとする走光性によって、ダニは、木の枝の先端に移動します。哺乳動物が下を通った時に、その匂いに反応して落下します。そして、哺乳動物の体表で、暖かい場所、すなわち毛の少ない場所を探して移動し、そこに貼りついて血液を吸収します。



「動物であれ人間であれ、その身体をそれがとりうる情動群から規定してゆくこうした研究にもとづいて、今日エトロジー〔éthologie =動物行動学、生態学〕と呼ばれるものは築かれてきた。それは動物にも私たち人間にもそのまま通用する。
〔…〕スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。〔…〕

 エトロジーとはまず、個々のものがそれによって特徴づけられるような速さと遅さの複合関係、触発しまた触発される力についての研究である。個々のものについて、こうした複合関係や触発=変様能力には一定の変異幅や強度閾(最大・最小)があり、固有の変動、変移がある。そして、個を特徴づけているこの関係や力が、世界のなかで、この自然のなかで、
〔…〕これを触発しまたはこれによって触発されるもの、これを動かしまたはこれによって動かされるものを、選択しているのである。〔…〕

 その動物が、
〔…〕何を自分の世界に『とらえる』か。どんな音符も、それと対位法の関係をなす音符をもつ。植物と雨、クモとハエというように。

 すなわち、どんな動物も、どんなものも、それが世界と結ぶ関係を離れては存在しない。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.241-242.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。













 ドゥルーズは、エトロジーの研究分野を3つに分けて示しています。第1の分野は、↑上で述べられている、個々の動物が環境とのあいだで働きあう関係。すなわち、「触発」するものと、「触発」されるものとのあいだの関係です。

 ドゥルーズはここで音楽を引き合いに出していますが、これはおそらく単なる比喩ではありません。音楽そのものが、「情動」による「触発」関係の格好の例なのです。

 音楽では、「対位法」によって、ある音程と親和する音程や反発する音程が決まっています。それは、前後の音程の推移によっても変ってきます。つまり、局面ごとに異なる個物と個物との出会いなのです。(「対位法」をご存知ない場合は、和音でもコードでも同じです。)

 ところで、「植物と雨、クモとハエ」の例を出していますが、さきほど要約した森のダニのような・きわめて単純な「情動」しかもたない場合でも、生物は他の個物との「出会い」を選択して――「出会いを秩序立て」て生きていることがわかります。しかも、「理性」によってではなく本能によって。

 「出会いを秩序立てる」賢い生き方は、“理性的人間”だけの専売特許ではないのです。

 そうすると、ここから、人間の場合の「出会い」の選択についても、重要な認識が導かれるでしょう。人間の場合にも、「出会い」の秩序立ては、かならずしも意識的に行なわれるわけではないのです。「出会い」を秩序立てなければならないからといって、《自由意志》がなければならない――ということにはなりません。「理性の導き」にしたがう、と言っても、それはかならずしも熟考のすえの《自由》な選択である必要はない。訓練と習慣によって、「理性」的な選択がなされることも可能です。また、そのほうが、《自由》選択よりも安定していてまちがえがないと言えるでしょう。

 『エチカ』全体の文脈から推しはかると、スピノザは、単独の“賢者”のような人が、自分だけの判断によって「理性」にしたがう、という場合よりも、社会の人々が全体として少しずつ「理性」的になっていき、時には《受動感情》に押し流されながらも、多くの場合には、当たり前のように「理性」にしたがった判断をする――そういう場合を想定しているように思われるのです[EWP73参照]。

 「共同社会」の形成について述べた〔第4部定理37註解2〕でも、成立した「共同社会」が、まず最初になすべきことは、「市民」が守るべき「生活規則」を制定することでした。「市民」は、「恐れ」によってその「規則」にしたがうのですが、もし「市民」が、そうした「生活規則」によって、十分に長い時間、「理性」にしたがった生活をする訓練を受け、それが習慣になった場合を考えてみたらどうでしょうか。その場合には、もはや「規則」がなくとも、「市民」は、当然の習慣によって「理性の導き」による生活をするのではないでしょうか。それは、「理性状態」にかなり近づいた社会であるはずです。



 さて、エトロジーの第2の分野は、触発=変様能力の、状況に応じた現れ方を研究します。しかし、重要なのは、↓つぎの第3の分野です:



「エトロジーはまた、相異なった個体間で、それぞれのもつ関係や力のあいだに成り立つ複合的構成を研究する。
〔…〕今や問題は、各個を形成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『拡がりの大きい』構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『強度の高い』力、力能をつくりあげることができるかどうか、にある。もはや個的利用や捕捉ではなく、社会を形成する力、共同体の成立が問われているのだ。

 さまざまの個体がどのように複合して、より高次の1個体を形成し、(さらにこの高次の個体がまた複合を重ねていって)ついには無限にいたるか。いかにして一個の存在は他を、相手のもつ固有の構成関係や世界を破壊せずに、あるいはそれを尊重しながら、しかもみずからの世界にとらえることができるか。

 またこの点で、たとえばどのようなちがう型の社会形成がありうるか。人間の社会と理性的存在の共同体とのあいだにはどんなちがいがあるか……。これはもう対位法的な関係や、1世界の選択形成の問題ではない。大いなる自然の交響楽、次第に拡がりを増し強度を増してゆくひとつの世界の構成の問題なのだ。どんなオーダーで、どのようにして、さまざまの力能を、さまざまの速さと遅さを複合・構成〔作曲〕してゆくか。

 音楽的構成〔作曲〕の平面。おのおのの部分は無限に多様に変化しながら、その全体において最大の強度と拡がり幅をもつひとつの〈個体〉をかたちづくっている、大いなる自然の平面。エトロジーの主要な創設者の一人、ユクスキュルは、まず個々のものに対応するメロディー・ラインや対位法的な関係群を規定し、ついで、次第に拡がりを増す、高次の内在的統一をもった交響楽がかたちづくられるさまを描き出している(『自然界の作曲理論』)が、この行き方はまさしくスピノザ的であるといっていい。まさに『エチカ』全篇にわたってこうした音楽的構成(作曲)が用いられている
〔…〕
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.243-244.



 エトロジーの第3の分野では、多数の個体による集団の形成が問題とされます。「どんな構成関係をもつものどうしが」、どんな条件のもとで「触発」しあった場合に、各個体の「力能」を高め、強固な“社会”を形成することが可能になるのかが問われます。



「各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『強度の高い』力、力能をつくりあげることができるかどうか、……社会を形成する力、共同体の成立が問われているのだ。」



 そこでまた、「社会形成」のさまざまなタイプや、それら「人間の社会と理性的存在の共同体との……ちがい」が問題になります。この「理性的存在の共同体」とは、「理性状態」にほかなりません。「理性的存在」とは、天使のようなものでしょう。つまり、現実にはありえない架空の理想的な共同体です。それを、「人間の社会」すなわち「社会状態」と対比するのです。

 また、「理性的存在の共同体」の対極にあるものとして、アリや蜜蜂の共同社会、また哺乳類の“群れ”の成立と内部構造、集団としての力能のありかたなどが問われてよいでしょう。






 






 ところで、ドゥルーズは、ここでも音楽に言及します。第1分野の個物間の「触発」関係には、「対位法」が照応していましたが、「社会形成」に相応するのは「交響楽」です。



「おのおのの部分は無限に多様に変化しながら、その全体において最大の強度と拡がり幅をもつひとつの〈個体〉をかたちづくっている、大いなる自然の平面。……まず個々のものに対応するメロディー・ラインや対位法的な関係群を規定し、ついで、次第に拡がりを増す、高次の内在的統一をもった交響楽がかたちづくられる」



 「交響楽」のなかでは、個々の音符は、「対位法」にしたがって「秩序立て」られた のもと他の音符と「合一」し、そうした音符の組み合わせが多数、多様なしかたで出会うことによって、いくつもの「主題」、「メロディー・ライン」といった「関係群」が形成され、それら、異なるトーンに彩られた強度の「情動」をもつ巨大な音集団が、たがいにより速くまたより遅く進行して絡み合うことによって、最高の強度をもった楽曲全体のまとまりが現出し、進行する。

 音には“かたち”も「主体」もないので、私たちは音楽を聴くときには、そうした観念に目くらましされることなく、「力能」「情動」の絡み合いである・この世界の実相を、ありのままに受け取ることができるのです。

 あるいは、楽譜のある「交響楽」よりも、楽譜は無く、演奏者の・そのときどきの感興のままに音の出現と「出会い」が進行するジャズ・セッションの場合を考えてみたら、よりドゥルーズの意図にふさわしいかもしれません。その場合、いつ、どんな音の「出会い」があるかは、プレイヤーも観客も、まったく予期することができません。そのようなセッションが、無限の持続(時間)の中で進行します。実際のジャズ・セッションは、適当な時間ののちに終了しますが、それはリーダーが合図をして終わらせるからであって、セッション自体には終了はないのです。

 人間の社会という持続的存在も、これとよく似ています。未来の「出会い」、それによって個人のどんな結合が成立し、または変質し、破壊されるのかは、誰にもわかりません。そのような「社会」という生き物のような持続的存在は、いつ終了するという定めもなく進行してゆくのです。



「要するに、私たちは、スピノジストならば、なにかをその形やもろもろの器官、機能から規定したり、それを実体や主体として規定したりしないということだ。
〔…〕

 『プラン』ということばないし観念には、
〔…〕対立する2つの考え方がある。〔…〕

 何らかの超越的契機に結びついている上からの組織化はすべて、神学的プランと呼ばれてよい。
〔…〕深い自然の奥底の進化〔論〕的展開も、1社会における権力の組織形成もやはりそうなのだ。〔…〕つねに、なんらかの形態とその発展、主体とその形成にかかわっている。形態の発展と主体の形成、これはこの第1種のプランの本質的特徴である。

 つまりは組織化のプランであり、発展的展開のプランなのだ。したがってこれは、
〔…〕すべての形態や主体を取りしきっている超越的なプランであり、それ自身は隠れたまま、けっして所与となって現れてこないプラン、〔…〕ただ推定され、帰納され、〔遡及的に〕推論されるしかないプランなのである。じじつ、こうしたプランは〔…〕所与のとるもろもろの次元に対して補足的なひとつの次元を必ずともなっているのだ。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.246-247.


 生物の「進化」、社会発展の理論など、歴史的理論はみな「超越的なプラン」「神学的プラン」です。また、共時的なプランとしては、官僚制、軍隊、学校、メディアなどを梃子とする「社会権力の形成」は、「神学的プラン」です。

 たしかに、これらの「プラン」は、最初から計画してそうなっているわけではなく、あくまでも“あと智恵”として、理論家が推論して、そういうプランがあると皆が信じるようになったものにすぎないのです。

 したがって、現実社会(「所与」)のなかのどこかに、これらのプランが書きこまれているわけではない。あくまでも、“理念の世界”とか、学者の頭の中や、本の中に、現実とは別の「次元」を設けてはじめて、これらのプランは存在しうるのです。

 これに対して、「出会い」「触発」の構成関係が織りなす秩序――秩序なき秩序――は、「内在的プラン」であり、現実と別の「補足的次元」などは必要としません。「補足的次元」に書きこまれるべき、発展的な図式などは、構成関係の秩序には存在しないからです。

 どんな「出会い」が、どう重なって積み上がってゆくか、崩壊してゆくのか、誰にもわかりません。だからといって、偶然が起きているわけではないのです。起きることはすべて必然的に起きるのです。それを誰も予知できないし、予知させうるような発展図式も存在しない、というだけです。



「これとは逆に、内在的プランは補足的なひとつの次元など備えていない。構成、複合のプロセスは、どこまでもそれ自体として、その所与をとおして、所与のなかでとらえられなければならないからだ。それは組織化のプランでも発展的展開のプランでもなく、構成の平面
(プラン)なのである。色彩は第1のプランを指し示しているかもしれないが、音楽、沈黙〔間(ま)〕と音のつくりだすプロセスは、この第2のプランに属している。

 ここにはもうものの形はない。形をなしていない物質〔素材〕の微細な微粒子群のあいだに成りたつ速度の複合関係があるだけだ。

 ここにはもう主体はない。無名の力がとる、個体を構成する情動状態があるだけだ。ただ運動と静止しか、力動的な情動負荷しかとどめないこの平面
(プラン)は、それが私たちに知覚させるものと一緒に、それに応じて知覚されてゆくのである。〔…〕

 ゲーテや、またヘーゲル
〔…〕彼らは本当のスピノジストではない。彼らはプランを絶えずひとつの〈形〉の〔有機的〕組織化や、ひとつの〈主体〉の形成に結びつけてやまなかったからだ。

 スピノジストとはむしろ、ヘルダーリンであり、クライスト、ニーチェである。彼らは速さと遅さ、緊張症的凝固と高速度の運動、形をなさない要素群、主体化されない情動群をもって思考しているからだ。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.247-248.












【必読書150番外】ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』―――終り。










ばいみ〜 ミ




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