05/31の日記
06:56
【必読書150番外】ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(2)
―――意識と存在、本質と生存、理念と現実の生
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山梨県都留市小形山、富春寺
こんばんは。(º.-)☆ノ
ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(1)―――子ども、無意識、アモルフな身体 からのつづきです。
【4】《意識》は、いかにして生ずるか?
前回は、ドゥルーズ=スピノザ哲学の《無意識》について検討しましたが、それでは逆に、《意識》というものは、なぜ存在するのでしょうか?
「存在」においても「思惟」においても唯一の《実体》である《神すなわち自然》の中で、その内部に波のようにただよう私たちに、《意識》というものが、なぜ生ずるのでしょうか? なにゆえに、またいかにして、私たちは、自然や宇宙について、あれこれ考え、哲学するなどということができるのでしょうか?
「それにしても、意識には意識それ自身の原因がなければならない。〔…〕(『私たちは、あるものがいいと判断するから〔意識〕それをもとめる〔努力・意欲・衝動・欲望〕のではない。反対に、私たちはあるものをもとめているからこそ、それがいいと判断するのである』[EVP9Sc])。意識は衝動の過程でいわば穿(うが)たれるのであり、〔…〕
ところで〔…〕衝動とはまさに〔…〕自己存続の努力(コナトゥス)以外のなにものでもない。けれどもこの努力〔コナトゥス――ギトン注〕は、出会ったその対象に応じてさまざまに異なった行動に私たちを駆り立てるから、そのありようは、対象が私たちに引き起こす変様(アフェクチオ)によってそのつど決定されているといわなければならない。私たちのコナトゥスを決定するこうした触発による変様こそ、このコナトゥスに意識が生じる原因でなければならない[EVADf1Ex]。しかもこうした変様は〔ただたんに継起しているのではなく〕その出会いの相手が私たちとひとつに組み合わさるか、それとも反対にこの私たちを分解してしまうようなものであるかに応じて、より大きなあるいは小さな完全性へと私たちを移行させる動き(喜びや悲しみ)と不可分に結びついているために、意識は、そうした〔完全性の〕より大きな状態から小さな状態への、より小さな状態から大きな状態への推移の、連続的な感情の起伏として現れてくる。
意識は、他の体や観念との交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定をものがたっているのである。私の本性と合う対象は、それ自身と私の両者をともに含む高次の全体をかたちづくるよう私を決定する。〔…〕意識は、力能のより小さな全体からより大きな全体への、またその逆の、そうした推移というか推移の感情として現れてくるのであり、どこまでも過渡的なものなのだ。〔…〕
ニーチェは厳密にスピノザ主義的である。彼は書いている。『主要な大半の活動は無意識的になされている。意識はふつう〔私なら私という〕ひとつの全体が高次の全体に従属しようとするときにしか現れてこない。なによりもまずそれは、そうした高次の全体に対する意識、私の外部にある実在に対する意識なのだ。意識は、私たち自身がそれに左右されてしまうような存在に対して生まれるのであり、そこに私たちが自身を組み入れてゆく手段なのである』と。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.39-41.
青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。
「コナトゥス」すなわち「自己存続の努力」は、《様態》――個物――の“現実的本質”である[EVP6,P7]。人間の「衝動」ないし「欲望」は、「人間の本質そのもの」であり[EVADf1]、したがって「コナトゥス」そのものであるといえる[EVP9Sc,ADf1Ex]。
私たちは、あることが「よい」とか「わるい」とか判断し、その判断にしたがって―――すなわち衝動的にではなく意識的に―――行為したり、あるいは行為することをやめたりする‥‥私たちはふつう、そのように自分が行動していると思っています。しかし、事実は、「いい」「わるい」という“判断”は、あることをしたい、したくないという「衝動」の結果として、「衝動」を正当化するために生じているのです。
そうだとすると、私たちの《意識》というものは、“判断”において生じるのではなく、「衝動」において生じる。「衝動」が無意識に湧き起こる過程で生じているのが《意識》である―――《意識》とは、「衝動の過程で」脳裡に「穿たれ」た痕跡、ないし“しるし”なのだ、と考えなければなりません。
ところで、「衝動」とは、「コナトゥス」すなわち「自己存続の努力」そのものです。そして、「コナトゥス」は、外部の物体や個体が私たちと触発しあい、私たちに「変様(アフェクチオ)」を加えるのに応じて、具体的な行動に駆り立てられる‥‥すなわち「衝動」となって現れます。したがって、私たちの「コナトゥス」を行動に向って決定する、外部のものによる「触発」と「変様」こそが、私たちの「コナトゥス」に意識が生じる「原因」だ、と言わなければなりません。
こうした「触発」と「変様」は、ただたんに私たちの知覚や感性を刺激するだけではありません:
「その出会いの相手が私たちとひとつに組み合わさるか、それとも反対にこの私たちを分解してしまうようなものであるかに応じて、
より大きなあるいは小さな完全性へと私たちを移行させる動き(喜びや悲しみ)
と不可分に結びついている」
すなわち、私たち(「身体」=「精神」)が外部の「個体」と出会って合一し、あるいは不適合により分解・死滅してしまう・絶えざる「構成」過程の一齣にほかならないのです。
「意識は、そうした〔完全性の〕より大きな状態から小さな状態への、より小さな状態から大きな状態への推移の、連続的な感情の起伏として現れてくる。
意識は、他の体や観念との交渉のなかで私たちのコナトゥスが受けるさまざまな変動や決定をものがたっているのである。……
意識は、力能のより小さな全体からより大きな全体への、またその逆の、そうした……推移の感情として現れてくる」
《意識》とは、なによりもまず「感情」なのであり、「推移の感情」――「どこまでも過渡的な」感情なのです。私たちは、自分の脳裏に字幕のように推移してゆく“ことばの列”が《意識》だと思ってしまいがちですが、それは最終的な「結果」を見ているにすぎません。私たちは、いつも「原因」には眼をふさいで、「結果」だけを見ようとします。
しかし、私たちは、自分が《意識》だと思ってとらえたコトバの“考え”を、それと結びついて生じた(「行なっている」と思いなした)行動とともに、しずかに反省してみれば、ことの次第を理解できるはずです。《意識》として生じたものの“本体”は、なんらかの「衝動」ないし「感情」であり、それが“考え”の「原因」であり、行動の誘因でもあったことがわかるはずです。
(もちろん、人間には「反省(リフレクション)」の能力がありますから、「衝動」そのままに行動するとはかぎりません。むしろ「結果の考え」に対して「反省」を介入させ、制約はあるものの一定程度、行動を変更ないし中止することが可能です。介入のどあいが大きいほど、「理性」的ふるまいに近づくと言えます―――これは、スピノザというより、ドゥルーズら現代の“スピノジスト”の考え方ですが)
こうして、私たちの《意識》とは、《神すなわち自然》世界のなかで「個体」としての私たちが、他の「個体」とのあいだで触発しあい、合一/分解をとげるダイナミックな過程と深く結びついています。このようなドゥルーズ=スピノザの《意識》のとらえかたは、きわめて実践的なものです。
《意識》とは、また「思想」とは、私たち人間が無から創造するようなものではないし、誰かから記号(コトバ)によって習い、それを頭の中で復唱するようなものではもちろんありません。《意識》は、自然の中での、また社会の中での、私たちの絶えざる実践のなかにある・つねに「過渡的な」推移の一齣なのです。
このように考えれば、↑上の最後で引用されているニーチェの言葉(『道徳の系譜』)もまた、理解可能なものとなります。ニーチェのこの言説は、一見すると、全体主義的な滅私服従をうながしているように受け取られかねませんが、けっしてそうではないということがわかるでしょう。
《意識》というものは、世界の外から世界を眺めるような超越的なものではなく、現実の「存在」界の中での《様態》どうしの“せめぎあい”から生じてくるのだ―――という、ドゥルーズ=スピノザのこの考え方は、
「存在は意識に先立つ」(マルクス)
という唯物論のテーゼに、忠実に従っているように見えます。スピノザ哲学の全体系は、‥‥したがってまたドゥルーズの哲学も、けっして唯物論一辺倒ではありません。それは、次の節で確認することができるでしょう。しかし、こと《意識》の発生に関しては、ドゥルーズの考えは唯物論的だと言えます。
「ある外発的な状態〔受動的変様〕が私たち自身の活動力能の増大を含む場合には、かさねてそこに、それを裏打ちするかたちで、この力能自身にもとづくもうひとつの状態〔能動的変様〕が生まれてくる。〔…〕外発的状態は、もはや私たち自身にしかもとづかない〔外部に依存せずに生まれてくる〕幸福によって裏打ちされるのである[EXP1-10]。
これとは反対に、外発的な状態が私たちの力能の減少を含む場合には、その状態は連鎖的に他の非十全で隷属的な状態へとつながってゆくことしかできない。〔…〕
まさにその意味で、存在〔現実の生〕は試練である。しかしそれは物理的・化学的な実地の試練であり、実験であって、〔道徳的善悪による〕〈審判〉とはまるでちがう。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.72-73.
青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。
「構成関係の合一という場では、論理的推論だけがものをいうのではない。あらゆる手だてを傾け、じっさいに物理・化学的、生物学的な実験の算段を重ねてゆかねばならないのだ。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.228.
「共通概念〔「『共通概念』とは「身体または物体相互に共通ななにか」であって、それは「存在する体どうしの適合・一致や構成的合一の関係を表現している」p.103―――ギトン注〕はこの私たちの力能に応じた実践的な理念である〔…〕共通概念の形成の秩序は情動にかかわり、いかにして精神が『みずからのさまざまな情動を整え、それらを互いに結びつけることができる』かを示しているのである。共通概念はひとつの〈術〉、『エチカ』そのものの教える術なのだ。〈いい〉出会いを組織立て、体験をとおして構成関係を合一させ、力能を育て、実験することである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.231-232.
すなわち、「実験」は自然科学の専売特許ではないのです。私たちにとって“生きる”とは、つねに新たな「試練」に遭遇することであり、絶えざる「実験」を重ねることにほかなりません。
このように考えれば、かつてわが国の不遇な詩人が童話草稿のなかに書きつけた、↓つぎのような、やや舌足らずな言葉の意味も、よりよく理解されるのではないでしょうか?
「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、おまへがほんたうに勉強して、実験でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その実験の方法さへきまれば、もう信仰も化学と同じやうになる。」
Ferenczy Béni (1890-1967)
【5】個体と構成素、個体と全体
「個体(INDIVIDU)―――〔…〕任意の属性において存在する様態がかたちづくる複雑な編成を、このことばは指し示している。
じじつ、まず (1) 様態は、個的・特異的な本質をもつ。いいかえれば、ある力能の度、強度的・内包的な部分―――永遠な部分(pars aeterna)[EXP40]―――をもっている。どの本質も、それらひとつひとつは絶対的に単純で〔部分には分かれず〕、他のすべての本質と一致・適合をみる。 (2) こうした本質は、各様態特有の構成関係のうちにおのずから表現されるが、この構成関係も(たとえば延長における運動と静止の一定の構成関係)、それ自体はやはり永遠の真理――存在にかかわる永遠の真理である。 (3) 様態は、この構成関係が現実に無限に多くの外延的諸部分を包摂するとき、存在〔存在する様態〕へと移行する。それらの外延的諸部分は、これにあずかる外延的なさまざまの決定要因のはたらきによって、その様態の構成関係のもとにはいるよう、あるいはそれを具現するよう決定されるのである。様態は、こうした外延的諸部分が別の構成関係―――その様態のそれとは相容れない構成関係―――のもとにはいるよう、外部から決定されるとき、存在することをやめる。〔…〕ひとつひとつの力能の度も、それが様態おのおのの本質をなしているかぎりでは、すべてがたがいに他と一致・適合をみるが、存在においては、必然的に闘争状態にはいることになる。ある構成関係のもとにひとつの力能の度に帰属している外延的諸部分は、あらたな構成関係のもとに、他の力能の度にそれを奪い取られることがありうるからである[EWAx,EXP37Sc]。
したがって1個体〔存在する個体〕は、つねに無限に多くの外延的諸部分から―――それらの部分が、1個の様態の個的・特異的な本質に、特有の構成関係のもとに帰属するかぎりにおいて―――成り立っている[EUP13f]。これらの部分(最単純体〔構成素体〕corpora simplicissima)それ自身は、しかし個体ではない。それらは、個々には本質をもたず、ひとえに外的な決定条件によって規定され、どこまでも無限に多数が組となって進行するからである。それらは、それ自身は個体ではないが、そのなかの無限数がしかじかの様態の本質を特徴づけるしかじかの構成関係のもとにはいるとき、そのかぎりにおいて一個の存在する個体をかたちづくる。存在において様態のとる無限に多様な様相の質料を、これらの外延的要素はかたちづくっているのである。〔…〕
むろん2つの様態が存在において出会えば、そこでは、両者の構成関係がたがいに他の分解にはたらくか、それともたがいに他と直接ひとつに組み合わさるかに応じて、一方が他方を破壊することも起こり、一方が他方の存続をたすけることも起こりうる。しかしどんな場合にも、どのようなかたちで出会おうと、必ずそこには合一・形成をみる構成関係がある。そこには、永遠の真理〔自然の法則〕としての構成関係の合一・形成の秩序があるのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.114-117.
青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。
引用部分の結論は、最初の段落のさいごの、下線をひいたところにあります。ざっくり言えば、「個体」と「個体」、すなわち《様態》どうしは、「本質」においては――つまり理念の世界では――「たがいに…一致・適合」するが、現実の「存在」の世界では、「必然的に闘争状態にはいる」ということです。
したがってこれは、ドゥルーズ=スピノザの《共同社会》論、《国家》論を見るうえで基礎になる重要な部分です。諸「個人」が「闘争状態にはいる」という結論は、「万人の万人に対する闘争」というホッブズの社会観――《自然状態》を想起させます。
しかし、どうして「個人」は現実の世界では争うのか? いったいどうして、そうなるのか?‥、そのおおもとの部分で鍵をにぎる「力能の度」とは、何なのか?‥‥ということになると、この叙述だけを読んでもよくわかりません。
そこで、引用の後半部分――のほうが話が具体的でわかりやすい――を先に読みとったうえで、「力能」というドゥルーズのタームについて探究し、そのうえに立って、問題の第1段落を攻めることにしたいと思います。
「1個体〔存在する個体〕は、つねに無限に多くの外延的諸部分(最単純体〔構成素体〕corpora simplicissima)から……成り立っている」
この物質観は、《原子論》に似ています、一種の《原子論》だと言ってよいでしょう。あらゆる物体(スピノザの《心身並行論》によって、それは「精神」でもある)は、「無限に多くの……構成素体から」成っている。
しかし、この「構成素体」には大きさがありません。つまり、大きさはゼロです。大きさがゼロのものを有限個集めても、全体の大きさはやはりゼロにしかなりません:
0×n=0 (0<n<∞,n=1,2,3,...)
したがって、大きさのあるものを作るには、「構成素体」が無限箇集まらなくてはなりません。「個体」は、無限箇の「構成素体」から成っているのです。わかりやすくイメージするには、「個体」は、さまざまな大きさの線分で、「構成素体」は、線分を構成する無限箇の「点」だと思えばよいでしょう。「個体」とは、有限な大きさをもつ無限集合です。
0×∞=a (0<a<∞,a∈R)
ところで、ドゥルーズは↑上の引用文で、「個体」をつくっている「構成素体」ひとつひとつは、「個体」ではないのだと言います。‥‥だとすると、「個体」であるものと、「個体」ではないものとは、どこがちがうのか?
ここに、ドゥルーズがスピノザの理論に加えた重要な解釈――ないし、新たな思想と言ってもよい――があります。
スピノザの場合、「個体」(個人)とは何か?‥ということが、ひじょうにあいまいであるように見えます。人間「個体」を構成している器官や皮膚、内臓、体液といったものも、彼は「個体」と呼んでいます[EUL7Sc]。
しかし、「構成素体」との関係では、「個体」の「個体」たるゆえんは、はっきりしています。「個体」が、たんなる一時的な「構成素体」の集合と異なるのは、「構成素体」どうしがたがいに「接合」して「合一」し、つねにひとつの「形相」――かたち――を保って運動する点にあります[EUDf(post Ax2),L6.L7]。
「個体」は、その一部分が入れ替わった場合でも、全体の「形相」が変らなければ、同一性を維持することができます[EUL4]。こうして、生物の「新陳代謝(物質交替)」が説明されます。また、「個体」は、同一の「形相」を保ったまま、新たな物体を取り入れて大きくなったり(成長)、逆に、分解して小さくなったりすることができます[EUL5]。
つまり、「個体」を「個体」たらしめているのは、各「個体」が有している「形相」――別の言葉でいえば「本質」――なのです。
「最単純体〔構成素体〕corpora simplicissima それ自身は、しかし個体ではない。それらは、個々には本質をもたず、ひとえに外的な決定条件によって規定され、どこまでも無限に多数が組となって進行するからである。それらは、それ自身は個体ではないが、そのなかの無限数がしかじかの様態の本質を特徴づけるしかじかの構成関係のもとにはいるとき、そのかぎりにおいて一個の存在する個体をかたちづくる。」
つまり、「本質」とは、個々のものに固有の特質です。「本質」を特徴づけているのは、その個物の「構成関係」です。すなわち、どれだけの無限の「構成素体」が、どのように「接合・合一」して、個物を構成しているかという、その編成のなりたちです。そして、それをまた別の表現で言うと、それは個物の有する「力能の度」にほかならないのです。
ドゥルーズは「個体」に特別の地位を認めています。スピノザはその点がややあいまいだったかもしれません。
無限にさまざまな《様態》のなかで、一定の構成関係によって「個体」として成立したものだけが、「個体」としての《本質》――すなわち「形相」、かたち――をもち、現実の世界における構成関係の“せめぎあい”のなかで、自分の“かたち”を保っていこうとする。ドゥルーズの主張は、そのように読めます。
だとすると、そのようにして自分の「形相」=《本質》を保持しようとする力を、すべての「個物」は、持っているはずです。その力こそが、「コナトゥス」にちがいない。それこそが、「力能の度」であろう。―――議論のなりゆきは、そのように予想することができます。
【6】本質(理念)と存在、個体と生存
「『エチカ』の根本的なポイントのひとつは、神について〔…〕いっさいの権力(ポテスタス)を否定しているところにある。〔…〕神の知性といえどもひとつの様態にすぎず、それによって神はみずからの本質と、そこから帰結するもの以外のなにものも包括しているわけではない。〔…〕それゆえ神は、権力(ポテスタス[potestas])をもつのではなく、たんにその本質にひとしい力能(ポテンチア[potentia])をもつにすぎない。この力能によって、神はその本質から生じるいっさいのものの原因となり、また自己自身の、すなわちその存在が本質に含まれるような神みずからの存在の、原因となるのである[ETP34]。
様態〔ひとつひとつの身体や精神〕もまた、その本質は1個の力能の度であり、神的力能の一部分、1個の内包的・強度的な部分である。『人間の力能も、〔…〕神、すなわちこの自然の無限な力能の一部分である』(EWP4Dm)。
この様態が存在へと移行する〔存在する様態となる〕のは、無限に多くの外延的諸部分が、その様態の本質あるいは力能の度に対応する一定の構成関係のもとにはいるよう、外部から決定されるからである。〔…〕そのときはじめて、この本質それ自身もコナトゥスあるいは衝動として規定されることになる。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.203-204,206.
《実体》に生じた波である個々のものは、人間も動植物も天体も、それぞれが、《神すなわち自然》全体の「力能」の・ごく一部分を分有しています。
『人間の力能も、……神、すなわちこの自然の無限な力能の一部分である』
それが、各《様態》の「本質」であり、「力能の度」にほかならない。個物は、それぞれに特有の「力能の度」を持っています。それぞれが「力能」である個物どうしは、その「度」によってしか区別されない。
「様態各個の本質はどこにあるのだろう。神〔実体〕の力能が各様態の本質をとおしておのずから開展〔説明〕されるかぎり、この本質ひとつひとつはみな、神の力能の一部分なのである[EWP4Dm]。〔…〕
各様態の本質、これは、〔…〕〔神=実体の〕力能の部分、いいかえれば物理的な強度〔ある度合(高さ・大きさ)の力能〕である。〔…〕この本質ひとつひとつ〔ひとつひとつの個物の本質――ギトン注〕は一定の力能の度に対応し、他のすべての〔個物の――ギトン注〕本質から区別されるのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.195-196.
しかし、そうした個物が「存在へと移行する」と、現実に、無限に多くの「構成素体」を包摂して、自己特有の編成を維持していこうとします。すなわち、各個物は、それぞれの「現実的本質」として「コナトゥス(自己保持の努力)」を持つことになります。
個物が、「存在」に生まれ落ちるのは、みずからの“意志”や誘因によって生まれるのではありません。あくまでも、外部の必然性に規定されて産み落とされるのです。しかし、いったん産み落とされて生存をはじめた個物は、どこまでも自己の「コナトゥス」を主張して存続しつづけようとし、同一の“かたち”――本質――を維持しようとする「衝動」をもちつづけます。
「コナトゥス」には、“いつまで”という限度はありません。「個体」自身は永久に存在しつづけようとします。「個体」の誕生が外部から決定されたように、「個体」の終り――死――もまた外部からやってくるのです。
個物は、「存在へと移行」したとき、「そのときはじめて、この本質それ自身もコナトゥスあるいは衝動として規定されることになる。これ〔存在する様態の本質〕は、存在に固執する、いいかえればそれ特有の構成関係のもとにこれに帰属している諸部分を保持し更新して、存在しつづけようとする傾向をもつのである(コナトゥスの第1の規定――EWP39)。〔…〕
ひとたびその様態が存在するよう決定されれば、すなわちその構成関係のもとに無限に多くの外延的諸部分を包摂するよう決定されれば、この本質は存在に固執してどこまでも存続しようとする。
存在に固執するとは持続するということである。したがってコナトゥスは無際限の持続をそのうちに含んでいる[EVP8]。
〔…〕個々の存在する様態の場合には、その変様の力量〔他の個体からの触発に応じて変様しうる力量(アプトゥス[aptus])=有能さの度合い―――ギトン注〕〔…〕を満たすのは、〔…〕他の諸様態によって〔…〕産み出されるもろもろの変様(アフェクチオ)や情動(アフェクトゥス)である。この種の変様や情動は、したがって想像〔触発による表象像の形成〕であり、受動的感情である。情動(アフェクトゥス)(感情)とは、まさにコナトゥスが、自身に起こる変様(アフェクチオ)によってあれこれするよう決定されれる際にとる、その姿にほかならない。コナトゥスを決定するそうした変様が意識の原因であり、しかじかの変様のもとで自身を意識するにいたったコナトゥスが、欲望とよばれる。欲望とはつねに何かについての欲望なのである[EVADf1]。
そういうわけで、1個の力能の度としての様態の本質は、その様態が存在し始めたときから、コナトゥスとして、いいかえれば存続しようとする努力もしくは傾向として規定されることになる。〔…〕その存在を維持し確立しようとする傾向である。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.206-208.
スピノザの、というよりは多分にドゥルーズの考え方だと思いますが、
存在(実存) vs 本質
という 20世紀哲学の基本的な枠組みに沿って理解を組み立てていることがわかります。
「本質」とは、ざっくり言ってしまえば“イデア”です。「善」とか「美」とか「真」とかいうものが、天上の“イデア界”にはあって、そうした理念的な「本質」が、現実の物質的な衣装をまとって現れたのが、「存在」界のあれこれの事物だ、というわけです。
個々の事物(スピノザの言う《様態》)も、もともとは“イデア”としての「本質」を持っているのであって、《様態》の「本質」とは、「力能の度」である。《実体》である《神すなわち自然》は、無限の「力能」を持っているが、その全体的な「力能」のごく一部分を、《実体》に生じた波である各個物は、それぞれの度合いに応じて分有している。それが各個物のもつ「力能の度」であり、各々の「本質」である。
ところで、各個物が“イデア界”から、「存在」の世界に生まれ落ちると、‥‥すなわち、《実体》に波が生じてひろがってゆくように、《様態》として存在しはじめると、各個物のもつ「本質」も、現実のかたちをとるようになる。
「本質」とは、さまざまな「力能の度」であり、いわば各個物に特有の“かたち”なのだが、各個物―――つまり“波”――は、いったんある“かたち”をとって存在しはじめると、自分の“かたち”を可能なかぎり維持しようとする。それはちょうど、水面に生じた波が、減衰しながらも、可能なかぎり同じ形を維持して伝わっていこうとするのに似ている。
もちろん、波どうしがふつかりあえば、たがいに影響を受けないわけにはいかない。形や性質のちがう波どうしがぶつかりあえば、相殺しあって消えてしまうこともあり、一方の波が他方の波に吸収されて消えることもあるだろう。しかし、波自身としては、できることなら自分の形を保ったままで他の波と合一して、より大きな波になろうとする。
このようにして、可能なかぎり自己を保持し、より大きな完全性に向かおうとする傾向ないし努力――すなわち「コナトゥス」――は、およそ波として存在することになった《様態》すべてが必然的にもつ「本質」であると言える。すなわち、「コナトゥス」は、《様態》の「現実的本質」なのである。
「しかし純粋にその本質〔「存在へと移行」する以前の本質――ギトン注〕だけからみれば、すべての様態の本質は、たがいに神的力能の内包的部分として適合・一致しあう。
存在する様態については、それとはわけがちがう。〔…〕ここでは、したがってすべてが力能間のたたかいとなる。存在する様態どうしは、必ずしもたがいに適合・一致をみないのである。『自然のうちには、それよりもっと力能も大きくもっと強い他のものが存在しないようないかなる個物もありえない。どんなものにも、それを破壊しうるような他のもっと力能の大きいものが必ず存在する』[EWAx]〔…〕
1個の力能の度としての様態の本質は、様態が存在し始めたそのときからもはやそれを保持しようとする努力つまりコナトゥスでしかなくなるが、これは本質の域では(内包的部分としては)必然的に適合・一致をみていた各個の力能が、存在の域においては(一時的に外延的諸部分がそれら個々に帰属しているかぎりでは)もはや適合しあわなくなるからである。そうなればもう現実態の本質は、存在においては自己保持の努力としてしか、いいかえればいつそれを凌駕するかもしれない他のもろもろの力能とのせめぎあいとしてしか規定されえないのだ[EWP3,P5]。〔…〕
存在する様態は、自分と適合し、たがいの構成関係が合一をみるような他の存在する様態(たとえば、〔…〕食べ物、愛するもの、友など)に出会う場合もあれば、適合せずにそれによって〔自分が――ギトン注〕破壊されてしまうおそれのある他の存在する様態(毒物、嫌悪するもの、敵)に出会う場合もある。第1の場合には、その様態の触発に対する変様の力量は、喜びや愛を基調とする一群の愉悦の情動(感情)によって満たされるが、他方の場合には悲しみや憎悪を基調とする一群の暗いの情動(感情)によって満たされる。〔…〕
悲しみ〔や憎悪――ギトン注〕の場合には、コナトゥスとしての私たちの力能はその苦痛となる痕跡(悲しみや憎悪を引き起こす対象の観念)にかかりきりになり、その原因となっている対象を排除するか破壊する役目しか果たさない。〔…〕
喜び〔や愛――ギトン注〕の場合には、これとは反対に私たちの力能はひろがって、相手の力能と一体となり、愛する対象とひとつに結び合う[EWP18]。そういうわけで、〔…〕私たちの力能は、悲しみの情動によって減少をみるあるいは阻害される、喜びの情動によって増大をみるあるいは促進される〔…〕コナトゥスはこのとき、そうした喜びを味わい、活動力能を増そうとする努力、喜びの原因となるもの〔…〕を見いだそう、想像〔表象〕しようとする努力であり、また同時に、悲しみを遠ざけ、悲しみの原因を消滅させるものを見いだそう、想像〔表象〕しようとする努力でもある[EVP12,P13,ほか]。じっさい情動(感情)とは、触発による変様の観念によってあれこれするよう決定されるかぎりにおけるコナトゥスそのものなのだ。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.208-212.
「純粋にその本質だけからみれば、すべての様態の本質は、たがいに神的力能の内包的部分として適合・一致しあう。」
つまり、「本質」(理念)の世界では、個物はみな、《神》の同じ「力能」を分有している。個物がなしうることはすべて、それぞれが分有するその「力能」のなせるわざです。どんな個物も《神すなわち自然》の《様態》として「適合・一致しあう」はずなのです。
しかし、個物がいったん、現実のものとして「存在」しはじめるやいなや、個物と個物はたがいに対立しあい、絶えざる「力能」のせめぎあい――“力の闘争”の渦中におかれます。各個物は、個物としての自分の「形相」を維持して「存在」しつづけようとするので、必然的にたがいに争わざるをえないのです。
「本質」の適合・一致と、「現実的本質」(コナトゥス)の矛盾・相剋。この二面性に、どこまでも刺しつらぬかれているのが、《様態》としての個物の・逃れようのない運命です。
「 《みんなむかしからのきやうだいなのだから〔…〕
〔…〕
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ」
原文の行順を入れ換え。
“自分の書いたものは自分でもよくわからない”と言う[『注文の多い料理店』序]、この日本の詩人の霊感的な表現は、スピノザによって解くと、ふしぎなほどよく理解できます。(『エチカ』の和訳は、当時すでに出版されていましたし[『スピノザ哲学体系エチカ』1918年,岩波書店]、『春と修羅』「蠕虫舞手」には、「ナチラナトラ」[natura naturans; natura naturata 能産的/所産的自然] というスピノザ哲学用語も出現します)
ばいみ〜 ミ彡
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