05/12の日記

01:24
【必読書150番外】ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(1)―――子ども、無意識、アモルフな身体

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スピノザ像、デン・ハーク  










 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】のリストには、ドゥルーズ&ガタリの共著『アンチ・オイディプス』が掲げられていますが、今回は、スピノザ(⇒:【必読書150】スピノザ『エティカ』(1))からドゥルーズへの“つなぎ”として、文庫本1冊の手軽な本書↓を取り上げてみることにしました。



   ジル・ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー.






 スピノザが遺した諸著と書簡類については、同時代の 17世紀から現在に至るまで、さまざまな解釈が行なわれ、また、哲学研究界の外でも、ゲーテ、マルクスからロマン・ロランまで、日本でも宮沢賢治から三木清まで、広範な分野の人びとにインスピレーションを与えてきました。しかし、1968年以後、フランスを中心に起こった“スピノザ・ルネサンス”は、従来(スピノザ以後)の近代哲学の枠組みから解き放たれた本来のスピノザ自身の思想の姿を、白日のもとに晒したといえます。フランスのゲルーマトゥロン、ドゥルーズ、P=F・モロー(⇒:『スピノザ入門』,クセジュ)らによる・原典に即したスピノザ思想の哲学的展開、また、バリバール、イタリアのネグリ、アメリカのハートらによる政治思想としての敷衍・発展は、汎神論という神秘のヴェールに覆われていたスピノザ像を一新させました。

 しかし、この方向は、現在も途上にあります。さまざまな論者による理解の相違は解決にはほど遠く、描かれたスピノザの思想像は、いまだ矛盾に満ちていると言ってよい。スピノザ自身の本来の思想が衆目の前に明らかになるのは、はたして今世紀中にありうることなのか?‥とさえ思われるのです。



「わたし以外にも、多くの人びとが未来の共産主義のエピステーメーの構築へ向けて働いた。なかでも、スピノザを扱った者としてはマトゥロンとドゥルーズがいた
〔…〕。かれらもまた、欲望という基礎から民主主義の革新という高みへと向かう人間の歴史の再構築という分野に取りくんでいた。〔…〕スピノザと『68年』、『68年』とともにあったスピノザ、そして『68年』以降のスピノザの再読解、これは哲学史的にはいいサブタイトルであり、格好の『地勢図』だろう。〔…〕われわれがプラグマティックに(理性の批判的冒険を通じて、マルチチュードの活動の経験を通じて)自由の実現へ向かう歩みを手助けしてくれるような哲学史にとってである。

 われわれは新たな時を迎えている。『現実的社会主義』の崩壊後、
〔…〕ネオリベラリズムとそのエリートたちは、新たな戦争と破壊を通じて、世界を新たな危機へと導いてきた。〔…〕スピノザの思想の布置は、近代の始まりにおいて『異形』として登場したが、いまや近代の終わり〔…〕に、根本的に『オルタナティブ』なもの、じっさい的に革命的なものとして姿を現わす。」
アントニオ・ネグリ「日本語版への序文」, in:アントニオ・ネグリ,杉村昌昭・他訳『野生のアノマリー』,2008,作品社,pp.10-11.



「ネグリはスピノザの進化を提起している。つまり、『進歩主義的ユートピア』から『革命的唯物論』へ、という進化である。ネグリは、おそらくスピノザがナポリの革命家マサニエロに似せて自らの自画像を描いた
〔遺されているスピノザの自画像(↓)は、マサニエロの肖像に似ており、スピノザは自分を、当時有名だったこの革命家になぞらえて描いたとする説がある。―――ギトン注〕、という逸話に、その十全たる哲学的意味を与えた最初の人間である」
ジル・ドゥルーズ「序文」, in:アントニオ・ネグリ,杉村昌昭・他訳『野生のアノマリー』,2008,作品社,p.15.



「ネグリがわたしを最も引きつけるのは、かれのまばいばかりの直観であり、その直観は、スピノザ主義の『本質』そのものを、絶えず刷新される第3種の認識
〔スピノザが『エチカ』において、最高の認識形態とする《直観知》―――ギトン注〕の閃光のように、われわれに見えるようにしてくれるのである。それは、おそらくネグリの理論的考察やかれの実践が、ずっと以前から真正のスピノザ主義のものにほかならないことに由来する(ほかの多くの点におけるのと同様に、この点でもわたしはドゥルーズに同意する)のだろう。」
アレクサンドロ・マトゥロン「序文」, in:アントニオ・ネグリ,杉村昌昭・他訳『野生のアノマリー』,2008,作品社,p.32.







(左)スピノザ自筆『自画像』(右)ナポリ画派(1647年頃)『マサニエロ』






 1968年5月、パリ、カルチエ・ラタンの騒動に端を発したいわゆる『学生反乱』は、たちまち世界を席巻し、日本では翌69年の“東大・安田講堂攻防戦”を頂点とする異議申し立ての嵐となって現れました。あとから見れば一時の熱病のようだった一連のできごとも、現代の文化現象と思想史に与えた影響という面から見ると、極めて大きな意義を持っていたと言わざるをえません。

 かつて、ロシア「十月革命」は、レーニン流のマルクス主義だけを突出させて「社会主義」とイコールで結び、それ以前の「社会主義」が含んでいた多様な潮流をほとんど死滅させてしまったと言えます(柄谷行人『柄谷行人インタヴューズ 2002-2013』,2014,講談社文芸文庫,pp.9-11)。1917年以前には、石川啄木も、ウイリアム・モリスも、ロシアのナロードニキも「社会主義者」でした。

 1968-69年は、こうして地下に埋もれてしまっていた諸潮流が、ふたたび陽の目を見るきっかけとなった点で重要だと思います。それによって、スピノザの解釈も一新されました。ネグリが“出発点”ないし画期としての「68年」をしきりに強調し、ドゥルーズが、革命家として自身を描くことを好んだ“革命家スピノザ”の実像に注意を喚起するのも、故なしとしないのです。



「私にとって思想史とは、様々な概念のアーカイヴの中から、通念とされている見方に代わるオルタナティヴな思考の可能性を見出いだしていく実践以外のものではない。多くの読者は、本書の諸考察に通底する思考の形を比較的造作なく把促できると思うが、それを一つの跳躍台
(スプリングボード)にして、『スピノザの』という限定からも解放された『もう一つのあり得る思考』を探究する試みに漕ぎ出す人が向後現れたとしたら、それは望外の幸運というほかない。」
「あとがき」,in:浅野俊哉『スピノザ〈触発の思考〉』,2019,明石書店,p.380.



 スピノザ政治思想のすぐれた解説者である浅野氏が↑こう述べられているように、ドゥルーズ、ネグリらによって開始された現代のスピノザ読解は、私たちが自らの同時代に切り込むための導きとして、スピノザの思考をたどる作業なのであり、“もうひとつのありうる思考”“もうひとつのありえた近代”を探る試みにほかならないのです。







 【1】意識と無意識



 『スピノザ――実践の哲学』は、ドゥルーズの5篇の小論文を収めたうえ、訳書本文 241ページ中 139ページは「『エチカ』主要概念集」として辞書のような体裁になっています。『エチカ』を読むための用語解説がアルファベット順に並んでいて、日本語訳ではそれが、アイウエオ順に組み直されている。

 このような本を、初めのページから順に要約・紹介してゆくのは、あまり意味のあることに思えません。そこで、レビュー記事としては破格ですが、こちらの興味のおもむくままに、気になった箇所を内容別にまとめて論じることにしたいと思います。






「この心身並行論の実践的意義は、意識によって情念(心の受動)を制しようとする〈道徳的倫理観〉がこれまでその根拠としてきた原理を、それがくつがえしてしまうところに現れる。
〔…〕心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。だとすれば、身体をモデルにとりたまえというスピノザは、それによって何を言おうとしているのだろう。

 それは、身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれについてもつ意識を超えているということだ。身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの意識を超えたものがある。

 したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむことができるようになるだろう。身体のもつもろもろの力能についての認識を得ようとするのは、同時にそれと並行的に、意識をのがれているもろもろの精神の力能を発見するためであり、両力能を対比する〔対等に置いて理解する〕ことができるようにするためなのだ。
〔…〕無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。

 それというのも、意識はもともと錯覚を起こしやすくできている。その本性上、意識は結果は手にするが、原因は知らずにいるからだ。
〔…〕ある体が他の体に、ある観念が他の観念に『出会う』とき、この両者の構成関係はひとつに組み合わさってさらに大きな力能をもつあらたな全体を構成することもあれば、一方が他を分解しその構成諸部分の結合を破壊してしまうこともありうる。〔…〕原因の秩序とは、したがってそうした個々の構成関係すべての形成〔合一〕と解体〔分解〕の秩序であり、全自然がその無限の変様をとおしてとる秩序にほかならないのだ。

 だが私たちは、意識をそなえた私たち人間は、どこまでもそうした合一や分解の結果を手にしているにすぎない。ある体〔身体または物体〕がこの私たちの身体と出会いそれとひとつに組み合わさるとき、ある観念がこの私たちの心と出会いそれとひとつに組み合わさるとき、私たちは喜びをおぼえ、また反対にそうした体や観念によってこの私たち自身の結構が脅かされるとき、悲しみをおぼえる。私たちはみずからの身体に『起こること』、みずからの心に『起こること』しか、いいかえれば他のなんらかの体がこの私たちの身体のうえに、なんらかの観念がこの私たちの観念〔私たちの心〕のうえに引き起こす結果しか、手にすることができないような境遇に置かれているのだ。

 そもそも自身の身体や心が、その固有の構成関係のもとにどのように成り立ち、他の体や心または観念が、それら個々の構成関係のもとにどう成り立っているのか、またそうしたすべての構成関係がたがいにどのような法則にしたがって合一や分解をとげるのか――そうしたことは、私たちがみずからの認識や意識の所与の秩序にとどまっているかぎり、何ひとつわからない。」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,pp.34-37.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。






  






 スピノザの「心身並行論」については、こちら(【必読書150】スピノザ『エティカ』(4)、とくに【17】)に書きましたが、ざっとおさらいしておきましょう。

 『エチカ』の体系によれば、この宇宙全体、存在するものすべてを含んだ究極の“全体”が《神すなわち自然》であり、したがってそれは無限であって外部は無く、唯一つしかない。そして、これがスピノザ体系の独創的なところ――デカルト哲学及びその上に発達した近代科学とは大いに異なる点――なのですが、この《神すなわち自然》だけが「実体」である。人間も動植物も天体も、また観念とか思考と言われるようなものも含めて、すべての個々の事物は「実体」ではなくて、《神すなわち自然》という「実体」に生じた波、あるいは襞(ひだ)のようなものにすぎない。スピノザは、



「個々のものは『実体の変様』ないし『様態』である。」



 という言いかたをします(ETDf5,P14C2,P15,P28,P28Sc)。「実体」とは、「それ自身において存在」するもの、というような意味です(ETDf3)。《神》以外の個々の事物は、「それ自身において存在」しているわけではなく、「実体の変様」として、《神》または他の個物が原因となってはじめて存在することができる。いかなる個物も、「神なしには存在しえないし、また考えられることもできない。」(ETP15)

 こうして、《神すなわち自然》を起点として、あらゆる事物が産出されてくるのですが、《神すなわち自然》は、「延長(ひろがり)」「思惟(思考)」という2つの「属性」をもっています。したがって、一方では《神》からさまざまな「物体」が累次に生じ、他方で《神》からさまざまな「観念」が累次に生じてくるという、2系列の産出系列があることに(見かけ上は)なります。しかしこの2系列は、厳密に“1対1対応”しており、けっきょくのところ“ひとつの系列”にほかならないのです(EUP7)。

 たとえば、ひとりの人間は、「延長」属性からいえば「身体」であり、「思惟」属性からいえば「精神」ですが、「身体」「精神」は完全に対応しています。人間の「身体」はたくさんの個体――器官や血球や体液――からなり、そのそれぞれはまた無数の(ドゥルーズによれば文字どおり無限数の)「構成素体」からなっています(⇒:『実践の哲学』,pp.246,271[註4];EUL7Sc)。しかし、「精神」もまた、「身体」に完全に対応した個々の「観念」からなっていて、「身体」の活動と「精神」の活動は、リアルタイムで完全に一致しているのです。

 私たちはよく、精神が身体を制御するとか、活動させる、あるいは、身体(感覚器官)が精神に対して物の像を与える、世界を認識させる、などと考えます。つまり、「精神」「身体」は、たがいに影響や作用を与えあう存在だと考える傾向があります。これは、じつはデカルト流の考え方で、デカルトが近代思想のメジャーになったために、近代人はみな、そう思いこむようになっているのです。(たとえば、儒教や仏教では、これとはかなり違う考え方をします。)

 しかし、スピノザの「心身並行論」は、この“影響しあう”という考えとはまったく違います。「延長」と「思惟」、「身体」「観念」のあいだには、いかなる交渉も無いのです。影響や作用を及ぼすということは一切ありえません(EUP5,P6;VP2,P2Sc)。まったく交渉は無いけれども、厳密に“1対1対応”している、すなわち「同じもの」なのです(EUP7Sc)。したがって、ドゥルーズの言い方を借りれば、



「心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。」



 ということになります。このことの実際的な効果は、「意識によって情念を制しようとする〈道徳的倫理観〉」の否定です。「精神」が、何か与えられた徳目にしたがって、「身体」や、「身体」に近いとされる「情念」に作用を及ぼす、などということは絶対に不可能です。ある人間が、法律や他人の命令に従って行動する――あるいは行動を断念する――場合には、「精神」「情念」「身体」も、すべてが同時に従うのです。どれかが主になって他を動かす、あるいは制するということはありません。

 ところで、「身体」の活動と「精神」の活動は、完全に“1対1対応”しているのですが、「精神」のなかで起こっているこうした活動を、人間はすべて「意識」しているわけではありません。われわれは「身体」の中でおきる現象すべてを認識できるわけではないのと同じことです(EUP23,P24,P27,P28,P29)。



「したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむことができるようになるだろう。」



 すなわち、私たちは、自分が気づかないでいる「身体」の「力能」を知ることによって、同時に、私たちの「精神」《無意識》の「力能」を知ることができます。それは、「心身並行論」の当然の帰結でしょう。

 スピノザによれば、「十全」な認識とは、ものごとをその「原因」とともに認識することです。しかし、私たちの認識は、日常ふつうには、「原因」を認識するところまでは達しえない。ただ、結果だけを、私たちは眼で見、聞き、感じて、あることに対してイメージや意見を抱くことになります。それはつねに「非十全」な「混乱した」認識とならざるをえません。

 ところで、ドゥルーズがここで強調して述べているのは、その「原因」とは、具体的にどういうものかということです。とりわけ、私たちがみずからの「身体」「精神」に起こる現象――皮相的にしか把握できない、潜在意識に基いているような現象――について、私たちが注意を向けないで過ごしている、それらの「原因」とは、どういったものなのか? 私たちの「精神」「身体」の活動の「原因」関係は、私たちを取りまく世界や他の人びととのあいだの、複雑で流動的な「触発」と交渉のプロセスを含んでいます:



「ある体が他の体に、ある観念が他の観念に『出会う』とき、この両者の構成関係はひとつに組み合わさってさらに大きな力能をもつあらたな全体を構成することもあれば、一方が他を分解しその構成諸部分の結合を破壊してしまうこともありうる。
〔…〕原因の秩序とは、したがってそうした個々の構成関係すべての形成〔合一〕と解体〔分解〕の秩序であり、全自然がその無限の変様をとおしてとる秩序にほかならないのだ。」













 こうした「構成関係」の「形成」プロセスの結果として、より大きな「構成関係」が形成されてゆく場合には、私たちの「活動力」は増大し、私たちは「喜び」の感情を獲得します。反対に、「解体」のプロセスによって、私たちの「構成関係」の一部が破壊されたり、そもそも私たちの身体を作っている「構成関係」が全面的に解体してしまう(=死亡する)脅威にみまわれるときには、私たちは、「悲しみ」「恐れ」の感情を受けることになります。(「恐れ」は、不安定な「悲しみ」の感情です。EVP18Sc2)

 私たちが通常の場合に意識するのは、この最終的な結果、すなわち、「喜び」または「悲しみ」の感情だけなのです。わたしたちは、結果としての《感情》を認識するだけで、その「原因」関係について「十全」な認識をもたないので、それら《感情》の「原因」について、しばしばとんでもない見当違いの想像をしてしまいます。

 したがって、ドゥルーズがここで示しているのは、「無意識」の解明という問題の先には、人間の、他の人間たちとの「構成関係」「合一」または「分解」に至る《触発》のプロセスがあること、ひいては《共同社会》の「構成」と「解体」をひきおこす社会的、政治的なパースペクティヴをひらく問題群がある、ということなのだと思います。



「そういうわけで、幼な児は幸福であるとか、最初の人〔アダム〕は完全だったなどとは私たちにはまず考えられない。彼らはものごとの原因も本性も知らず、ただ起きてくる出来事を意識するばかりで、その法則はつかめないままひたすら結果をこうむることを余儀なくされているために、なにごとにも一喜一憂を強いられ、その不完全さに応じた不安と不幸のうちに生きているのだからである」

ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.37.



 この↑「幼な児」の問題については、節を改めて、少し検討しておきたいと思います。






 【2】子供と大人



 『エチカ』は、スピノザ自身が、同時代に一般的だった言説の二分法にとらわれた書き方をしているために、わかりにくくなっている局面が、しばしばあるような気がする。彼の真意が読みとりにくくなってしまっているのだ。その一つが、“子供と大人”という主題、あるいは“成熟”にまつわる問題群だろう。

 古今東西多くの思想家は、子供から大人への心身の“発達”は、あるべきことであり、必要なことでもある、という前提のもとに子供を考察する。いきおい、子供は大人に比べて未発達な、劣った状態と見なされ、否定的に把えられることになる。スピノザも例外ではない。

 婦女子や子供は、外部からの影響や受動的感情に「隷従」しやすく愚かである。それとは対照的に、「理性の導き」にしたがって生活する「自由な人」とは、自立した「強さ」をもつ成熟した男子である、と。スピノザのこの二分的な思いこみが、緻密な論証の紙背に読みとれてしまうのだ。

 そのために、スピノザの理想とする“成熟”とは、じつは、単に大人になること、社会に順応することとは、まったく別のことだ―――という、見逃してはならない一面が、見えなくなってしまっている。

 ドゥルーズもまた、『スピノザ――実践の哲学』では、前節で見たように、「子ども」の「不完全」ゆえの不幸を強調し、「幼な児は幸福であるとか、‥‥まず考えられない。彼らはものごとの原因も本性も知らず、‥‥ひたすら結果をこうむる‥‥その不完全さに応じた不安と不幸のうちに生きているのだからである」と述べていた。これに先立つ著『スピノザと表現の問題』(1968)では、〈子ども〉をさらに貶めており、「子ども時代」は「無力」で「愚かな状態」だとまで決めつけていた:



「『スピノザがしばしば言うように、子ども時代は無力と隷属の状態、極度に外部の原因に依存し、どうしても喜びよりも悲しみのほうを多く抱いてしまう愚かな状態である。これほど私たちが自らの活動力から分離されている時は決してない。』」

浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,2006,洛北出版,p.117 所引。



 たしかに、「自由と隷従」「受動的感情」「活動力の増減」といった『エチカ』の論理にしたがえば、このような結論が帰結せざるをえないかもしれない。

 ところがその一方で。『千のプラトー』では、ドゥルーズは、次のように言う:



「『子どもたちはスピノザ主義者である。
〔…〕スピノザ主義とは、哲学者が子どもに〈なる〉ことに他ならない。』」



「『アンチ・オイディプス』においても『千のプラトー』においても、欲望のゼロ点ないし極限点として絶えず言及されたのが、いわゆる『器官なき身体』である。器官なき身体とは、早い話、あらゆる組織化を拒否する、身体における差異化の運動の極限のことであろう。持つための手、歩くための足、見るための目といった器官に組織される以前に、私たちの身体は未だ何ものでもないエネルギー態としての胚を持ち、あらゆる組織化を未決定のものとして準備し続けている。同様に、主体や国民や男や女に組織される以前に私たちは、いわば不定代名詞〈on〉
〔〈何者か〉――ギトン注〕の状態を生きており、そこでは多数多様体としての生のありようがそのままで肯定されている。その時、特権的な位置を与えられるのが、いわゆる〈子ども〉なのである。」
浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,pp.115-116.



 つまり、「器官なき身体」とは、私たちの欲望を整序するメカニズムにとらえられる以前の、欲望の無定形な原初的状態、また隠喩として、社会的規定を受ける前の、はだかの生き物としての私たちの「生のありよう」を指している。そして〈子ども〉こそ、「器官なき身体」だというのだ。






 






「未分化で多型倒錯的、いまだ主体化されず、性別不能で、否定的な契機を持たず、純粋な喜びを享受する多様性としての〈子ども〉。『器官なき身体は子ども時代に結びついている。
〔…〕器官なき身体は子ども時代のブロック、なにかに〈なること〉である。』[ドゥルーズ,ガタリ『千のプラトー』]

 
〔…〕ドゥルーズとガタリは、子どもや器官なき身体を話題にするときに、まるでお決まりのようにスピノザを参照する。『最終的に器官なき身体についての偉大な書物と言えば、『エチカ』に他ならないのではないだろうか』、あるいは『すべての器官なき身体はスピノザを讃える』……等々。

 もし、このようなドゥルーズとガタリの主張を文字通りとれば、
〔…〕スピノザ主義とは、端的に『子どもになること』を目指す哲学だということになる。だとすれば、あらゆる組織化から自由で、規範や法という概念からは最も遠いところにある子どもになることが、スピノザ哲学の真骨頂なのだろうか。〔…〕

 この懸隔をどう説明したらよいのだろう。
〔…〕

 〈子どもになること〉がスピノザ主義であるという立場と、子どもこそ無力と隷属の状態であるという記述の間には、表面上のはっきりした齟齬とは別に、私には何かしら奇妙な調和のようなものがあるように感じられてならない」

浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,pp.116-118.

青字は、引用元の傍点付き文字。






 【3】子どもはみなスピノザ主義者



 この、〈子ども〉に対するスピノザ=ドゥルーズの評価いかん、という問題を、浅野氏の論文に沿って見て行きたいと思います。



「認識とは、主体のおこなう作業ではない。観念が精神のうちに定立をみることである。『けっして私たちが、事物についてなにごとかを定立したり否定するのではない。事物みずからが、私たちのうちで、自身についてなにごとかを定立または否定するのである。』(『短論文』U,16章の5)
〔『短論文』はスピノザ最初の哲学論文。1661年頃執筆―――ギトン注〕〔…〕認識とは、観念の自己定立、観念の『開展』すなわち発展であり、〔…〕
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,2002,平凡社ライブラリー,p.167.



 「心身並行論」から明らかなように、スピノザにとって「思惟」属性界に存在する諸観念は、誰か人間が考えたとか、発見したということとはかかわりなく、《神すなわち自然》の「様態」として、もとから客観的に存在するものです。「延長」属性界に存在するすべての物に対応する観念が、そこにはあります。

 したがって、「認識」とは、人間の行なう主体的な営みではない。事物のほうが、人間の「精神」の中に「観念」として自己展開するのです。



「〔定理17〕神はみずからの本性の法則によってのみ活動し、だれからも強制されて活動することがない。

   〔系1〕以上の帰結として、第1に、神それ自身の本性の完全性のほかに、神を外部からあるいは内部から活動させようとするいかなる原因も存在しない、ということになる。〔第1部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.35-36.



 すなわち、誰か人間の「精神」が、《神すなわち自然》を強制して、その個々の「様態」の本質や特性なりとも開示させるなどということはできないのです。もしも《自然》が何者かに強制されうるとしたら、「自己原因」という《実体》の本性(ETP6L,P7Dm)に反します。(だからといって、「実験」を否定しているわけではないのですが。)



「あらゆる出来事は、それを把握する主体の意向にかかわらず、おのずから私たちに生起してくるのであり、こうした出来事についての観念の総体が私たちの精神なのである。認識はするものではなく、生起するものである。
〔…〕したがって、これからの議論で何度も出てくる〈観念〉という言葉は、ものについて私たちが名づける名称や知覚する形象のことではなく、そのものが自らを表現するありようそれ自体のことであるということを、しっかりと銘記しておきたい。」
浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,p.120.



 もちろん、こうして存在する「観念」を、私たちは当然に知りうるわけではありません。むしろ、私たちが知ることができているのは、そのうちごく一部であり、しかも、私たちの認識は多くの場合、「非十全」な《想像知》にすぎません。

 私たちは、さまざまな事物を“種類”にまとめ、“名前”をつけて、それでそれらの事物を知ったと思いこんでいます。しかし、“種類”は、ほんの表面的な特徴をすくっただけであり、“名前”は、なんらそのものの特性とはかかわりのない音声記号です。この種の「一般概念」―――「人間」「犬」など―――は、事物の実際のありよう―――「構成関係」や、その生成、また他の物と関わる特性―――を何も表現していません(EUP40Sc1)。“ものの名前”による認識は、「十全」な認識ではないのです。



「静的
(スタティック)かつ多義的なこれらの認識は、何ら表現的でないという点で必然的に非十全な観念である。ある事物を、他のものから孤立した一つの実体としてとらえるとき、わたしたちはこの第1種の認識〔《想像知》――ギトン注〕の状態にいる。『人間』も『馬』も『犬』も、『存在』や『もの』といった概念ですら、スピノザによれば『きわめて混乱した観念』[EUP40Sc]にすぎない。〔…〕そのような非表現的でスタティックなイマージュを、ゆさぶり、解体し、組み換える力。そしてそのような力そのものとなった私たちのありよう。それが十全な観念であり、スピノザの実践的認識論の持つ破壊力なのである。」
浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,pp.123-124.













 私たちは、このような静的で常識的・表面的な言葉による世界の理解に対して、果敢に立ち向かい、それを「ゆさぶり、解体し、組み換える力」を行使した「破壊力」ある認識者を、たとえば、一部の詩人や童話作家のなかに認めることができるでしょう:



「子供の時に、深く感じてゐたもの、―――それを現はさうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐた …… 元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて」

中原中也「河上に呈する詩論」in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.120-121.



「一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が感じてゐられゝばよい。」

中原中也「宮澤賢治の世界」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.154-155.



「一、生命の豊かさそのものとは、必竟小児が手と知らずして己が手をみて興ずるが如きものであり、つまり物が物それだけで面白いから面白い状態に見られる所のもので、芸術とは、面白いから面白い境のことで、かくて一般生活の上で人々が触れぬ世界のことで、謂はば実質内部の興趣の発展によつて生ずるものであり、
〔…〕

 名辞以前、つまりこれから名辞を造り出さねばならぬことは、既に在る名辞によつて生きることよりは、少くも二倍の苦しみを要するのである。」

中原中也「芸術論覚え書」(遺稿), in:『新編 中原中也全集』,第4巻・本文篇,pp.139-153.



「そして間もなく、あの汽車から見えたきれいな河原に来ました。

 カムパネルラは、そのきれいな砂を一〔つ〕まみ、掌にひろげ、指できしきしさせながら、夢のやうに云ってゐるのでした。

 『この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。』

 『さうだ。』どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。

 河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
〔…〕

 二人は、ぎざぎざの黒いくるみの実を持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の渚には、波がやさしい稲妻のやうに燃えて寄せ、右手の崖には、いちめん銀や貝殻でこさえたやうなすすきの穂がゆれたのです。」

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』「七、北十字とプリオシン海岸」



「  《幻想が向ふから迫つてくるときは
    もうにんげんの壊れるときだ》


 わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
 ユリア、ペムペル、わたくしの遠いともだちよ
 わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
 きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
 どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

   《あんまりひどい幻想だ》

     
〔…〕
宮沢賢治『春と修羅』「小岩井農場・パート9」



「そらの澄明 すべてのごみはみな洗はれて
 ひかりはすこしもとまらない
 だからあんなにまつくらだ
 太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず
 おれは数しれぬほしのまたたきを見る
 ことにもしろいマヂエラン星雲

     
〔…〕

  (もしもし 牧師さん
   あの馳せ出した雲をごらんなさい
   まるで天の競馬のサラアブレツドです)

  (うん きれいだな
   雲だ 競馬だ
   天のサラアブレツドだ 雲だ)

 あらゆる変幻の色彩を示し
 ……もうおそい ほめるひまなどない
 虹彩はあはく変化はゆるやか
 いまは一むらの軽い湯気になり
 零下二千度の真空溶媒のなかに
 すつととられて消えてしまふ

     
〔…〕
宮沢賢治『春と修羅』「真空溶媒」



 中原中也の場合には、言葉が生成する原初の境域に遡ることによって、また、言葉を音楽として、リズムとして、感覚的に扱うことによって、「破壊力」を創り出していたと言われています。中也自身の説明によれば、そうなります。(⇒:「心象スケッチ」論序説 3“もの”と名前 (i)中原中也

 宮沢賢治の場合には、通常は結合しないような言葉どうしをぶつけあうことによって「破壊力」を創り出し、世界の常識的な組成を否定して独自の組成をもったイメージ世界を構築するという手法――「否定的‐統合的組成のレトリック」――を駆使しています。しかし、賢治自身、世界のこうしたイメージは、自分が考え出すのではなく、世界のほうからやってきて、自分はそこから逃れることもできないと言っています (⇒:「心象スケッチ」論序説 4“こころ”と世界 (i)「心象」)。

  (「否定的‐統合的組成のレトリック」⇒:『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(6)【1.13】 『銀河鉄道の夜』――ブルカニロとは何者か?(7)【2.1】 【BL週記】自然の信号、受信の記憶【4.1】


 さて、こうしてようやく、話は〈子ども〉に近づいてきました。






 






 上に挙げた詩人たちは、通常ならば「十全」な認識を邪魔する言語というものを、いわば逆手に取って、特別な感覚と裏ワザによって、「十全」な観念に達していたということができるかもしれません。しかし、それは本人だけがなしうる“秘儀”であって、余人がかんたんに真似できるような方法ではないでしょう。

 それでは、私たちはいかにしたら、「十全」な観念に達することができるのでしょうか? 誰もが習い覚えることができるような方法は無いものでしょうか? スピノザは、どんな方法を述べているでしょうか。

 芸術家ではない一般人が、「十全」な認識をめざす方法として『エチカ』に書かれているのは、《共通概念》という手法(⇒:【必読書150】スピノザ『エティカ』(9)【37】)です。《共通概念》については、「第2部」〔定理38〕と〔定理39〕に書かれていますが、ここで重要なのは、〔定理39〕のほうの《共通概念》です。



「〔定理39〕人間身体ならびに常に人間身体を刺激するいくつかの外部の物体にとって共通で特有なもの、そしてこれらの各物体の部分の中でも全体の中でも同じように存在するものについての観念もまた、精神のうちにおいて十全であるだろう。

    〔系〕この帰結として、身体が他の諸物体と共通なものをより多くもつにつれて、精神は多くのものをそれだけ十全に知覚することができる。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.140-141.

 

 〔定理38〕のほうでは、「すべてのものに共通で、部分の中でも全体の中でも同じように存在するもの」とされていたのが、ここでは、「すべてのものに共通」の部分が、「人間身体ならびに常に人間身体を刺激するいくつかの外部の物体にとって共通で特有なもの」となっています。

 「すべてのものに共通」な特質とは、「延長」属性ならば、物体の“運動と静止”がそれであるような、もっとも基本的で一般的な特質でしょう。その認識が「十全」なのは、当然のこととも言えます。

 しかし、一方が「人間身体」の場合には、それを「常に刺激する」「いくつかの外部の物体」に共通であればよいのです。いわば、とてもローカルな「特質」であり、一般性の低い特殊な性質です。その認識が「十全」でありうるのは、いつも「人間身体を刺激」しているという、日常的・継続的な“触発”の関係があるからです。

 たとえば、その「物体」が人間ならば、毎日顔を合わせている同居人や同僚、また、濃厚な接触を重ねている恋人どうしや家族、といった関係が考えられます。たがいのあいだに共通点(性質の合致)があって、共同体的な紐帯を構成するのでなければ、永続きする接触関係は保てませんから、@「共通」な特質があることと、A共同的に結合することと、B親しい、つまり「十全」な認識をもつこと、この3つは、ほぼイコールです。



「2つの体は、互いの構成関係がひとつに組み合わさるとき、より高次の力能をもつ1個の集合体、部分を越えた1個の全体を構成する
〔…〕共通概念は、2つまたはそれ以上の体のあいだの構成的合一を、そしてそのような合一にもとづく構成上の統一を表している。〔…〕共通概念が各個の精神にとって共通であるということは、あくまでもそのうえでいえる二次的なことにすぎないが、その場合でもやはり共通性には大小の範囲がある。精神にとってそれが共通であるのは、その精神の〔対象たる〕身体がそうした構成的合一や構成上の統一にかかわっているかぎりでのことだからだ。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,pp.103-104.



 つまり、「すべてのものに共通」する“運動と静止”のような特質を理解する、という〔定理38〕の普遍的場合とは異なって、この〔定理39〕のほうの《共通概念》は、人間身体と物体とのあいだ、人間身体と人間身体とのあいだの現実の接触と、“共通特質”にもとづく「合一」を必要としています。むしろ、「合一」が先にあって、《共通概念》の成立は、「合一」の二次的結果にすぎない、とまでドゥルーズは言います。

 このような「合一」は、「より大きな完全性への移行」を意味しますから、かかわった各「身体」に「活動力」の増大をうながし、各「精神」に対して「喜び」の感情を生じさせます。この「喜び」の感情が、各人に対して、他人(または他の物体)との「構成的合一」を、したがって「十全」な認識を求めさせる誘因として働くのです:



「この私たちは、みずからの身体と適合する体と出会うとき、そこにある何が自身と共通であるかはまだ十全に認識するにはいたらなくとも、すでに受動的情動としての喜びの感情を味わっている。
〔…〕活動力能、理解〔包括〕する力能の増大にほかならないこの喜びの感情は私たちをそれ〔《共通概念》――ギトン注〕に向かわせてくれる。喜びの感情は共通概念の誘因となるのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,p.105.



 また、〔定理39〕の〔系〕が述べているように、このような・他の身体や物体との「構成的合一」を「より多くもつにつれて」、「精神」の“思惟する能力”はそれだけ高まってゆくのです。たとえば、上に引用した宮沢賢治のような詩人は、故郷の野山や自然のなかに潜り込んで、草木や岩石、昆虫や動物、そして地元の人々との接触を日常的に数多く体験することによって、それらの環境に対する、より「十全」な認識能力を身につけて行ったと言えます。

 また、相手がもっぱら人間の場合には、仲間や集団を構成して日常的な《触発》を重ねてゆく活動が、人間関係に関する思考能力を高め、さらにより有益な集団形成を可能にしてくれることは言うまでもないでしょう。






 






「以上のことを踏まえると、冒頭に挙げたようにドゥルーズはなぜ子どもをスピノザ主義者であるとし、スピノザ主義とは哲学者が子どもに〈なる〉ことである、と述べたかの意味もはっきりするだろう。スピノザ主義者である限り私たちは、自らが喜びを感じみずからの活動力を高めるものと結びつくことを、まるで子どもがそうであるように、止めようとはしないからである。そこにはこの原理に超越しそれを制限するいかなる審級もない。
〔…〕

 大人になればなるほど私たちは、いくつもの強制や自己規制によって、自らの欲望の限りなく多数・多様な連結を断念してしまう。『千のプラトー』の中でドゥルーズらが肯定しようとしていたのは、まさしくこの純粋で活動的な欲望の流れを原理的に解放し得る力能を秘めた〈子ども〉の立場を擁護することであり、そこにスピノザ主義的な主題の展開を見いだすことであった。」

浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,p.131.



 こうして、まだ〈道徳的倫理〉も社会の規則も知らず、好奇心と“気に入ったもの”を探す意欲にあふれた〈子ども〉こそ、スピノザの倫理をそれとは知らずに実践する“哲学者”にほかならない。―――そう言ってよいでしょう。

 しかし、それでは“子ども万歳”なのか? “成熟”は無意味なのか? 死ぬまで子どもでいるほうが、すぐれた生き方なのかというと、それは一面的に過ぎる考え方です。というのは、他の「身体」や「物」との“出会い”には、良い出会いもあれば、悪い出会いもあるからです。共通点を見いだせない“悪い出会い”―――たとえば、毒のある野草に出会って食べてしまったなど―――は、「悲しみ」「恐れ」を抱かせて、「活動力能」を減少させてしまう、場合によっては、「構成関係」を破壊して死に至らせるでしょう。「十全」な《共通概念》も、思考能力も、もたらしてはくれません。

 したがって、たんに受動的に、環境から与えられてくるものとランダムに接触するのではなく、“良い出会い”を選択し組織することが必要です。そのためには、「もろもろの構成関係を理解」し、「そこから他のもろもろの構成関係を推論」して、どんな“出会い”が可能か、どこに行けばどんな“出会い”があるかを見きわめてゆく必要があります。

 さらに、“良い出会い”と「合一」を重ねることによって、より一般的な共通概念》を形成し、対象となる「物」や「人」の範囲を、ローカルなものから、より広い領域に拡大してゆくことが可能になります。すなわち、「人」に関して言えば、より寛容になり、よりさまざまな性質や異なる意見の人びととも、結合することが可能になるのです。

 これらはみな、《理性》の能力にほかなりません。つまり、“成熟”によって身につけることのできる能力なのです。



「〈理性〉が以下に述べるような2通りの仕方で定義されるのもそのためであり、これは人間が生れながらに理性的なのではないこと
〔訓練ないし経験が必要だということ――ギトン注〕を、いかにしてそうなるのかを、示している。〈理性〉とは、(1) いい出会いを、いいかえればこの私たちとひとつに組み合わさり、私たちに喜びの受動的情動(理性と適合する感情)を起させるような諸様態との出会いを、選択し秩序立てようとする努力であり、(2) 共通概念を、いいかえればそうした合一をとげるようなもろもろの構成関係を、知覚し理解することである。そこから他のもろもろの構成関係も演繹され(理性による推論)、またそこから出発してあらたな、今度は能動的な感情(理性から生まれる感情)も味あわれるのである。」
ドゥルーズ,鈴木雅大・訳『スピノザ――実践の哲学』,pp.105-106.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



「スピノザが子ども時代を決して讃美しないのは、一般にその時期が、よい出会いを積み重ねる技術
(すべ)を知らず、たやすく他の諸力に従属して精神の動揺を来すような、圧倒的に精神の弱さによって特徴づけられる時代だからである。もちろん〔…〕大人には想像できないような喜びをいろいろな対象との間に見つけ、強度に満ちた生を満喫する時代もこの時期であろう。〔…〕

 しかし概して子どもは、単なる『快』ではない喜び
〔…〕を持続させ、より強固にしていく術に関しては必ずしも熟達しているとは言えない。〔…〕スピノザが『エチカ』の中で繰り返し訴えているのは、〈束の間の刹那的な喜びをいくら積み重ねても、人は能動的にはなれない〉ということである。〔…〕

 自覚的に喜びを組織化するシステムを作る努力をしない限り、強度が持続され、真に能動的な状態を存続させることはできないという点のみが、子どもと成熟した有能な人間とを分かつ違いなのである。
〔…〕
浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,pp.133-135,140.













「スピノザは共通概念を理性と等置している[E2P40Sc2]。とするなら、私たちが他の身体と出会い、その間に共通するものの表現をみるとき、すなわち十全な観念が生じるとき、そこにはすでに理性があることになる。
〔…〕スピノザの理性は、私たちの日常的な営み〔…〕の中に、すでに内在している。〔…〕

 アランは言う、『スピノザの理性、それは感情であり、喜びである』。理性的なものはそれが
〔ギトン注――喜びの〕感情として人を動かす力にならない限りは、決して私たちの行動を決定する要因にはならない。〔…〕

 大文字の〈大人〉になるということは、自身の存在以前に確立されていた外在的な規範や秩序におさまるような形に自らの欲望を制御し、馴致していくことである。
〔…〕その意味で〈大人〉になるということは、単なるルールを守った『よき市民』『よき社会人』として共同体なり社会なりに〈適応する〉ことにすぎない。

 成熟するということは適応ではなく、他者との間でまさしく十全な観念を形作りながら、そこに成立する能動的な力を表現していくことであり、それを実現する社会的仕組みを形作っていこうとする欲望に、具体的かつ建設的な仕方で形を与えていくことである。」

浅野俊哉『スピノザ 共同性のポリティクス』,pp.135,141-142.






【必読書150】ドゥルーズ『スピノザ――実践の哲学』(2) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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