03/15の日記

14:57
【必読書150】スピノザ『エティカ』(9)―――「理性」とは何故かくもドラマチックなのか?

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ピーテル・ブリューゲル(父)「雪の中の狩人」(1565)   











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(8)からのつづきです。






 【36】想像知から理性知へ



 前回、私たちは、人間の他の人間との関係、また社会との関係を考えると、「理性」「感情」が重要な意味をもつことを見てきたと思います。

 「感情」は、「観念」としては「非十全」(“真らしさ”が不完全)なものであり、その点で「想像知」と密接な関係がありました。また、「感情」の多くは、外部からの影響を受けて生ずる「受動」的(「はたらきをうける」)なものであり、この点でも「想像知」とかかわっています。

 これに対して、「理性」は言うまでもなく「理性知」であり、認識として「十全」性をそなえ、また、「能動」的な(「はたらきをなす」)ものとされていました。

 「想像知」「理性知」の関係については、「第2部」を見た時((6))に、ざっと検討しましたが、ここであらためて整理しておきたいと思います。

 同時に、「想像知」「理性知」に対して「第3種認識」とされる「直観知」についても、位置づけを得ておく必要があります。スピノザは『エティカ』「第5部」後半で「直観知」を扱っており、著者としては、「直観知」について語ることが、この著作全体の目標であったとも言えるからです。

 「想像知」「非十全」かつ「受動」的な認識であるのに対し、「理性知」「直観知」は、「十全」かつ「能動」的な認識であるとされます。図式化すると、↓つぎのようになるでしょう〔第2部・定理40・註解2,定理41;第3部・定理1,定理3〕:



┏━━━━━┯━━━┯━━┯━━━━━━━━━━━━━━┓
┃「想像知」│非十全│受動│⇒ 日常生活,芸術,宗教  ┃
┠─────┼───┼──┼──────────────┨
┃「理性知」│ 十全 │能動│⇒ 数学,物理,哲学,倫理 ┃
┠─────┼───┼──┼──────────────┨
┃「直観知」│ 十全 │能動│⇒ 個物の真なる認識(至福)┃
┗━━━━━┷━━━┷━━┷━━━━━━━━━━━━━━┛



 つぎに、それぞれの認識方法が、どんなものを対象にしているのかを考えてみます。

 ここで、私たちの認識の対象となりうる森羅万象を、ざっくりと3つのカテゴリーに分けます:



 T 時空の個物  時空の一点に存在する。

 U “種類”   分類に対する名称。存在する物ではない。

 V  イデアル  “理念の世界”に存在する。



 T(個物)は、時間のある一点において、宇宙空間のある一点に存在する物、つまり、物理的な存在です。「この木」「あの人」「太平洋」といったものが、ここに所属します。

 U(種類)は、個物を、共通する特質で分類して付けた“名前”です。「木」「人」「馬」「水」といったものです。「種類」は、そういうものが現実に存在するわけではありません。「このモミの木」「あのヤマザクラ」は存在しますが、「木」「モミの木」「ヤマザクラ」という物は存在しません。

 V(イデアル)は、「点」「直線」「正三角形」「256」「π」「最高善」といった理念的なものです。これらは、いつかどこかに存在したわけではありません。しかし、誰かが勝手に考え出したとも言えない。まったく異なる文明が、同じ概念を持っているからです。もし知的な宇宙人に出会ったら、彼らも、これらの概念を持っているかもしれません。つまり、現実世界とは別の、理念的な世界に存在するもの――と考えることができます。

 しかし、スピノザは、「イデアル」を、どう考えていたのでしょう? 《神すなわち自然》宇宙に、「イデアル」の存在する場所はあるのでしょうか? 「イデアル」を、たんなる「観念」だと考えると、スピノザの“物心並行説”―――「物体」「観念」の1対1対応―――に反します。おそらくスピノザは、「イデアル」も、さまざまな物体の“特性”として、物理的な宇宙(「延長」の世界)に存在すると、考えていたのでしょう〔第2部・定理38・系〕。スピノザは、これらは「永遠の相のもとで観想」されると言っています〔第2部・定理44・系2〕。













 それでは、これら認識対象のカテゴリーと、「想像知」「理性知」「直観知」の関係は、どうなるでしょうか。これは、若干こみいった関係になります:



         (現代風の見方)  原則   例外
┏━━━━━━━┯━━━━━━━┯━━━━┯━━━━┓
┃T 時空の個物│時空に存在する│ 想像知 │ 直観知 ┃
┠───────┼───────┼────┼────┨
┃U “種類” │ 存在しない │ 想像知 │ 理性知 ┃
┠───────┼───────┼────┼────┨
┃V イデアル │理念として存在│ 理性知 │(直観知)┃
┗━━━━━━━┷━━━━━━━┷━━━━┷━━━━┛



 まず、時空に存在するふつうの「物体」を対象とする認識ですが、これまでに見てきたように、その大部分は「想像知」です。

 このことは、たとえば公園で、そこにある樹木を認識するような場合を考えてみれば、明らかです。

 人間の精神は、外界にある木を直接認識することはできないのであり〔第2部・定理26〕、その木からの影響(音波、光波)で自分の「身体」にできた“痕跡”を知る――“痕跡”のせいで体液の反射角度が変わる―――というしくみによってのみ、認識することができます〔定理17・系・証明〕。そうやってできる木の「観念」は、外界の木よりも、その人の「身体」の性質をより多く反映していますから〔定理16・系2〕、「十全」(真らしい)なものとはなりえません〔定理25〕。したがって、「想像知」です〔定理26・系〕(⇒:『エティカ』(6)【26】)。

 しかし、時空の「個物」の認識も、ある場合には、「十全」な認識となることがあります。それは、《神》、すなわち《自然》そのものの認識にかかわる場合です:



「〔定理45〕現実に存在するあらゆる物体あるいは個物についての観念は、神の永遠・無限の本質を必然的にふくんでいる。

 〔定理46〕あらゆる観念がふくんでいる神の永遠・無限の本質についての認識は、十全であり、完全である。

 〔定理47〕人間精神は、神の永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている。

   〔註解〕
〔…〕いっさいは神のうちにあり、神によって考えられるから、その帰結としてわれわれは、この認識〔神の永遠・無限の本質についての認識――ギトン注〕からきわめて多くの十全な認識を導き出し、したがってまた第3種の認識〔直観知――ギトン注〕を形成できるようになる〔第1部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.154-156.



 すなわち、時空のあらゆる「個物」は、《神すなわち自然》の様態ですから、あらゆる「個物」の観念は、「神の永遠・無限の本質を必然的にふくんでいる」というのです。したがって、私たちは、自分の体験として、ある“人”や、ある“物”を「十全」に知る場合には、そこに「神の永遠・無限の本質」を確実に見てとることになります。

 これは、理化学的な言い方をすれば、質量のある物体の“静止と運動”という、宇宙の「永遠・無限」の法則を、身の回りの物体や、その動きの中に見る、ということであり、すこしも神秘的なことではありません。

 しかし、スピノザは、書物や、人からの伝聞や、想像によってではなく、あくまでも自分の体験として《神すなわち自然》の現れを見たときに、その認識は「十全」でありうる、と言っているのです。それゆえに、「個物」に対する「十全」な認識は、理論的思考による「理性知」ではなく、瞬間的にすべてを理解する「直観知」なのです。



「〔定理24〕われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する〈あるいはそれだけ多く神を理解する〉。

 〔定理27〕この第3種の認識から、存在しうる精神の最高の満足が生じてくる。

   〔証明〕精神の最高の徳は、神を認識することである〔第4部定理28による〕、あるいはものを第3種の認識によって認識することである〔この部の定理25による〕。
〔…〕〔第5部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.-.



「『エチカ』第5部定理24は、『我々は、個物をより多く認識するに従って、それだけ多く神を認識する』と述べ、その理由を、
〔…〕個物というのが神の一部であり、それゆえ、神の本質を何らかの仕方で分ち持っていることに求めている。」

 「私は思惟する、ゆえに私は存在する」というデカルトの命題に対してスピノザが述べていることを、
「神の認識の成立の問題に当て嵌める」と、〔…〕第二に、神の認識は、『個物の認識とともに』あるいは『個物を認識しつつ』成立すること。それゆえ、第三に、神の認識というのは、分節的な前提‐帰結の関係を含まぬ認識でなければならぬこと。

 『エチカ』の場合、神の認識に携わる人間精神の働き」
「、飽くまでも直観でなければならず、それも、一切の分節を含まぬ単一の直観でなければならないのである。『神学・政治論』は、〔…〕個物の確実な認識が、神の認識の確立を俟って初めて可能になること、神の認識が成立する以前に行われる個物の把握は、了解のレヴェルに留まるものであり、〔…〕それゆえ、神の認識というのが直観によってのみ成立することを間接的にではあるが、しかし明瞭に物語っている。

 そして、『エチカ』における第三種認識
「直観知」――ギトン注〕が、〔…〕神を認識し、それとの関連のうちで個物を捉え直すという困難な、しかし重要な、かつ卑しからざる使命を担うものであるがゆえに、これに対して最高認識の地位が与えられたのであろう。」
清水禮子『破門の哲学』,1978,みすず書房,pp.120,122-123.



 なお、清水禮子氏の↑この著書は、スピノザの生涯のスケッチを織り交ぜながら、彼の哲学について、単なる入門書を超えた独自の考察を打ち出したもの。初学者にもわかりやすく、またスリリングな関心にも応えうる好著です。解釈の立場が多少違うために、あまり引用できないのが残念なくらいです。

 出版当時はたいへん評判だったのですが、現在では手に入りにくくなっています。しかし、スピノザに関心のある方は、ぜひ公共図書館等で手にしてみられるよう、強くお勧めします。






 






 【37】スピノザの言う「理性」とは何か?



 次に、“種類”は後回しにして、「イデアル」の認識について考えてみます。



「〔定理38〕すべてのものに共通で、部分の中でも全体の中でも同じように存在するものは、十全なものとしか考えられない。

    〔系〕この帰結として、すべての人間に共通ないくつかの観念あるいは概念が存在することになる。なぜなら〔補助定理2より〕あらゆる物体は、いくつかの点において一致し、しかも〔前定理より〕これらの点は、あらゆる人から十全に、あるいは明瞭・判明に知覚されなければならないからである。

 〔補助定理2〕すべての物体は、いくつかの点において一致する。

    〔証明〕なぜならすべての物体は、同じ属性の概念
「延長」――ギトン注〕をふくんでいる点において一致している〔第1部定義1による〕。次に、物体は、あるときはよりゆっくりと、またあるときはよりすみやかに運動しうる点で、一般的にいえば、あるときは運動し、あるときは静止しうるという点で一致している。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.139-140,106.



 「全体」とは、《神すなわち自然》全体のことです。



「『事物が部分として考察されようと、全体として考察されようと、
〔…〕神の永遠で無限の本質の認識を与えるようなものはすべてのものに共通なのであって、部分のなかにも全体のなかにも等しく在るのであり、よってこの認識は妥当「十全」――ギトン注〕であるであろう」〔第2部定理38証明〕〔…〕

 かくして、すべての物体は幾つかの点で一致するのであり、しかもそれらの共通する点はすべての人から妥当に知覚されねばならぬのであるかぎり、『すべての人間に共通の幾つかの観念、言うなら概念』が存する、と言われねばならない〔第2部定理38系〕。すべての物体(身体をも含めて)は、たとえ互いに対立して適合しない物体どうしでも(たとえば、毒と、それで中毒する身体の如く)、何か或る共通のものをもっている。それが延長であり、運動と静止なのであった。」

福居純『スピノザ「共通概念」試論』,2010,知泉書館,pp.75-77.



 「延長」―――つまり、点、直線、平面、空間といったもの、また、さまざまな速さの運動と静止、そうした“公理的な概念”が「共通概念」と呼ばれ、「理性知」の対象とされています。これらは、私たちの時代の言い方で言えば「イデアル」にほかなりません。「点」という概念が、どこかにあるわけではない。強いていえば、“理念の世界”にあるのです。

 こうした“公理的な概念”は、誰かが勝手に考え出したり、空想しているものだとは見なしがたい。なぜなら、「すべての人間に共通」であり、誰が考えても同じになるからです。

 また、〔第2部・定理40・註解2〕では、“比”の計算の例で、「想像知」「理性知」「直観知」の違いを説明していました(⇒:『エティカ』(6)【25】)。スピノザの説明は、“比”や“小数”や“無理数”などをふくむ「数」というものも、「4つのリンゴ」といった・物の様態ないし関係であることから離れて、「数」そのものが“主題化”し“理念化”した場合には「理性知」の対象になる、と理解することができます。“比”の計算公式を証明するというのは、そういうことだからです。

 したがって、スピノザの「共通概念」――すなわち「理性知」の対象――には、「数」もふくめてよい。「数」も、「イデアル」の重要な一部です。

 そういうわけで、「イデアル」を対象とする認識は、基本的に「理性知」だと言ってよいでしょう。

 ただ、上の〔定理40・註解2〕の例では、かんたんな“比”の場合には、計算するまでもなく即座に答えが出てしまう、として、その場合は「直観知」が働いていると述べていました。したがって、例外的な場合には、「イデアル」「直観知」によって認識されると考えます。













 さて、少しやっかいなのは“種類”を対象とする認識です。まず、スピノザの基本的な理解としては、“種類”を対象とする認識は、混乱した「非十全」な認識であり、「想像知」にすぎないというものです。この点はあまり問題がありません:



「〔定理40・註解1〕
〔…〕これらの名辞〔「超越的名辞」のこと――ギトン注〕が生ずるのは、人間身体がその有限性のために一定数の像〔…〕しか同時に判明に形成しえないからである。この一定数をこえれば、これらの像は混乱しはじめるであろう。〔…〕

 次に、同じような原因から、たとえば人間、馬、犬などのように、普遍概念とよばれるものが生じてくる。すなわち、それは、想像力をはるかにこえるほど多くはないが、ある程度それをこえるくらい多い像、たとえば人間の像が、人間の身体の中に同時に形成される場合である。この場合精神は、個人のささいな相違〔すなわち各人の肌の色、大きさなど〕や一定数の人間を想像できない、ただ
〔…〕すべての人が一致する点だけを判明に想像するであろう。というのは、その一致点において身体はもっとも多く各個人から刺激されたからである。この一致点を人間という名辞で表現し、それを無数の個人に帰せしめるのである。〔…〕

 だが、次のことに注意しなければならない。すなわち、これらの概念は、すべての人たちによって同じような仕方で形成されたのではなく、むしろ身体をしばしば刺激するもの、したがって精神がいっそう容易に想像し想起するものに応じて、各人のあいだでまちまちに表現されるということである。
〔…〕すなわち、人間は笑う動物、羽根のない二本足の動物、理性的な動物であるなどと想像するであろう。かくて他のことがらについても、各人はその身体の状態〔各自の身体がその対象からより多く受けた刺激―――ギトン注〕に応じて、ものの一般像を形成するであろう。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.142-144.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 つまり、「人間」とか「馬」「犬」といったものは、対象となる「個物」の数が多すぎるために、それらを脳裡に全部並べて、共通する本質的なもの――「共通概念」――を究めようとしても、人間精神のキャパシティを超えてしまってできない。そのため、目立つ特性にだけ注目して、不完全な概念を作ることになってしまう。つまり、「人間」「馬」「犬」などの“普遍概念”(一般名辞)は、人によってその意味内容は千差万別になってしまう。それらはみな「想像知」にすぎないと。

 『エティカ』(6)【25】で見た“モロッコ羊”の例も、これに重なるでしょう。不注意なヨーロッパ人にとっては、「羊」とは尾の短い動物だが、モロッコの住民にとっては尾の長い動物なのだと。

 同じことを、スピノザは、「存在」「もの」「あるもの」といった“超越的名辞”についても言っています。これらも、内容不定のコトバであって、「想像知」にすぎないと。



「定理40備考1は、もの、存在といった「超越的名辞」、人間、馬、犬のような「一般的概念」というのは、身体がその許容量を超える過剰な刺激を受けたために生じる物理的な混乱の結果であることを説明している。」

清水禮子『破門の哲学』,1978,みすず書房,pp.103.



 ところで、↑上の〔定理40・註解1〕の議論は、〔定理29・系・註解〕から続いているように思われます。↓〔定理29・系・註解〕では、次のように、「想像知」「理性知」を比較して論じたうえ、「このことについてはのちに示すであろう。」と、議論が続くことを予告しているのです:



「〔定理29・系〕
〔…〕人間精神は、ものを自然の共通的秩序から知覚するたびに、自分自身や自分の身体あるいは外部の物体について十全な認識をもたず、むしろたんに混乱し、そこなわれた認識のみをもつことになる。〔…〕

     〔註解〕私ははっきりという。精神は、自然の共通的秩序からものを知覚するたびに、いいかえれば、外面的に、ものの偶然的な出会いから、このこと、あのことを観想するように決定されるたびに、自分自身や自分の身体そして外部の物体についての十全な認識をもたず、ただ混乱した〈そこなわれた〉認識しかもたない。

         だが内面的に、いいかえれば、多くのものを同時に観想することによって、ものの一致点、差異、反対点を知るように決定される場合には、そのかぎりではない。なぜなら精神が、このあるいはあの仕方で、内面的に決定されるたびに、ものは明瞭・判明に観想されるからである。このことについてはのちに示すであろう。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.132-133.



 ↑〔系〕から〔註解〕前半までは、「想像知」について書いています。列車の窓から風景を見るように、自然の秩序に従ってランダムに現われる対象を知覚していても、対象を比較考察することはむずかしい。そこからは、混乱した「想像知」しか生じない。

 しかし、内面で、精神の秩序に従って、対象を思い浮かべ、比較検討すれば、「ものの一致点、差異、反対点」を知ることができ、「ものは明瞭・判明に観想される」―――すなわち、「理性知」による「十全」「観念」を得ることができる。

 このようにして得られる“「十全」「観念」”が、“種類”、すなわち「普遍概念」であることは明らかでしょう。

 つまり、「普遍概念」は、内的な精神の秩序に従った比較検討の結果として得られた場合には、「十全」なものとなるのであって、その場合には、「想像知」であることを超えて「理性知」たりうる。なぜなら、そうした内的秩序に従った思考は、精神の「能動的」活動にほかならないから。―――そう言っているように読めるのです。

 この議論の“つづき”と思われるのは〔定理38〕以下です。さきほど見たとおり、〔定理38〕とその〔系〕では、「延長」「運動」「静止」のような“公理的概念”が取り上げられ、それらは「共通概念」であり、「十全」であって「理性知」に属するとされました。






 






 問題になるのは、これに続く〔定理39〕です:



「〔定理39〕人間身体ならびに常に人間身体を刺激するいくつかの外部の物体にとって共通で特有なもの、そしてこれらの各物体の部分の中でも全体の中でも同じように存在するものについての観念もまた、精神のうちにおいて十全であるだろう。

   〔証明〕A
〔という特質――ギトン注〕が、人間身体にとっても、また外部のいくつかの物体にとっても、共通で特有なもの、そして人間身体のうちでもこれらの外部の諸物体のうちでも同じように存在するもの、最後に外部の各物体の部分のうちでも全体の中でも同じように存在するものと仮定しよう。A自身については、〔…〕神のうちに十全な観念があるであろう〔この部の定理7・系による〕。

       いま、人間身体が外部の物体と共通にもっているもの、たとえばA
〔という特質――ギトン注〕によって外部の物体から刺激されると仮定しよう。この変様の観念はAという特質をふくむであろう〔この部の定理16による〕、したがって〔この部の定理7・系より〕このAという特質をふくむかぎり、この変様の観念は、〔…〕人間精神の本性を構成するかぎりの神のうちで、十全であるだろう。したがって、〔この部の定理11・系より〕この観念も人間精神のうちで十全である。かくてこの定理は証明された。

    〔系〕この帰結として、身体が他の諸物体と共通なものをより多くもつにつれて、精神は多くのものをそれだけ十全に知覚することができる。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.140-141.



 ここで言われている「共通で特有なもの」というのも、「共通概念」に属するものと思われるのですが、具体的にどういう「特性」がそれにあたるのか、いまひとつわからないのです。「精神のうちにおいて十全である」ということですから、「理性知」であることはまちがえないでしょう。

 しかし、〔定理38〕(公理的概念)の場合に「すべてのもの」「あらゆる物体」であったのに対し、ここでは、「人間身体」と「いくつかの……物体」に「特有なもの」とされています。

 つまり、「物体」の数は少なくて、しかも、「人間身体」がそれらの「物体」から、「常に」直接刺激される場合―――人間がそれらを日常的に“体験”する場合が、想定されているようなのです。そのような場合には、――「人間」「馬」「犬」の場合のように――対象の数が多すぎてキャパシティを超えてしまうということはないので、精神の内的秩序に従った比較検討によって、「十全」「理性知」を得ることができる‥‥そう言っているように読めます。

 つまり、このような場合ならば、“種類”の認識は「十全」「理性知」であると‥‥。

 しかしながら、この部分、ふつうはそのようには解釈されないようなのです。多くの人は、この〔定理39〕の「共通概念」も、〔定理38〕と同じ“公理的概念”――「延長」「運動」「静止」のことを述べているのだと解釈しています。(私が見た限りでは、わずかに、上野修『スピノザの世界』,pp.127-129.だけが例外でした)

 しかし、その“通説的理解”だと、「理性知」の対象になるのは、「イデアル」だけ、しかも、「延長」「運動」「静止」、それにせいぜい「数の比」‥‥そんなものだけになってしまいます。それ以外はすべて「想像知」「非十全」なのだとしたら、人間の知識は、ずいぶん心もとないことになってしまわないでしょうか?

 しかも困ったことに、↓つぎのように、「理性」の対象は「イデアル」だけだと言っているように読める定理もあります:



「〔定理44・系2〕理性の本性は、ものをある永遠の相のもとで観照することである。

      〔証明〕理性の基礎は概念であり〔この部の定理38による〕、その概念はすべてのものに共通なものを説明し、そして〔この部の定理37より〕如何なる個物の本質も説明しない。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.153.



 なるほど、〔定理40〕が、



「精神のうちの十全な諸観念から精神のうちに生じてくるあらゆる観念もまた十全である。」



 と言っていますから、それらの“公理的概念”から、さまざまな概念や命題を推論、演繹することは、できるのでしょう。しかし、それで救われるのは、数学と物理学の一部だけ。“種類”による思考ができなくては、「化学」「生物学」「天文学」などはすべて諦めなくてはなりません。つまり、“帰納法”による経験科学の全否定になってしまう。レンズ研きを仕事にしていたスピノザが、経験科学無視の態度をとっていたとは、私には思えないのです。。。

 いや、…そればかりではない。前回【35】で見たように、社会倫理を扱った〔第4部〕では、「理性」は大きな役割を果たしていました。まさに「理性」大活躍。しかし、“公理的概念”の認識と、そこからの推論しかできない「理性」が、どうひっくりかえったら、「感情」を導いて、人を“真に有益なもの”に向かわせ、共同社会を構築してゆく、などということができるのでしょうか?

 “自分さえよければいい”“自分の力の及ぶ限り、他人を傷つけてでも、すべての富をひとり占めしたい”などと叫んでいる人々に向って、



「他の人間もあなたと同じように、長さと幅と高さのある物体で、より速く、あるいはよりゆっくりと運動したり静止したりしているのですよ。」



 などと言って、いったいどんな“導き”になると言うのでしょうか ?!

 通説には反しますが、やはり、「理性知」としての“種類”認識、また、“種類”による帰納的思考も、スピノザは否定していなかったと考えたい。













「〔定理40・註解1〕以上によって私は、共通概念と呼ばれ、われわれの推論の基礎となっている概念の原因を説明した。

           しかし、ある種の公理あるいは概念には、それ以外に原因がある。この原因を、われわれのこの方法によって説明することは有益であろう。なぜなら、このことによって
〔…〕、いかなる概念が共通であり、またいかなる概念が偏見にとらわれない人々にのみ明瞭・判明であるのか、最後に、いかなる概念が不安定な基礎の上にたっているのかということが明らかとなるからである。〔…〕〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.141-142.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 スピノザは、↑ここでも、@「共通概念」以外に、A「偏見にとらわれない人々にのみ明瞭・判明である」概念、B「不安定な基礎の上にたっている」概念があると述べています。

 Bは、「存在」「もの」「あるもの」などの「超越的名辞」を指しているのでしょう。これは、「想像知」

 しかし、Aは、〔定理29・系・註解〕で予告されていた、

 精神の内面的秩序に従って
「多くのものを同時に観想することによって、ものの一致点、差異、反対点を知る」場合、

 すなわち「理性知」による「十全」“種類”認識だと考えてよいのではないでしょうか?






 【37】「理性」の跳躍―――“体験”から科学へ、社会と人間倫理へ



 人間の精神は、自分の「身体」に生じた「変状」を通じてのみ、外部の「物体」を認識することができるので、
「『われわれが外部の物体について有する観念は、外部の物体の本性よりもわれわれの身体の状態をより多く示す』〔第2部定理16系2〕〔…〕それはすなわち、身体とそれを取り巻く外部の物体とのあいだに成り立つ〈触発し触発される〉という相互関係において、身体がそれを取り巻く外部の物体の中心になろうとする傾向を有する、ということを意味する。〔…〕

 このような事態は、人間身体とそれを取り巻く外部の物体とを〈働き〉の相のもとに捉えない、ということと相即している。
〔…〕

 この〈人間身体がそれを取り巻く外部の物体の中心になろうとする傾向〉は、人間が目的論的思考と常に深くかかわっている〈現実〉と切り離すことができない。
〔…〕スピノザによると、われわれのうちに〈目的性〉なる概念が生じ来る所以は、われわれはすべて『生まれつき事物の原因を知らない』こと、およびわれわれはすべて『自己の利益を求めようとする衝動を有し、かつこれを意識している』こと、にあると言う〔第1部附録〕。〔…〕

 各々の事物をその『普遍的観念』〔第4部序文〕によって理解しようとする
〔ギトン注――われわれ人間の〕態度〔…〕そのような観念〔「普遍的観念」:「馬」「犬」など普通名詞で表される“種類”の観念―――ギトン注〕は偶然の産物として現われるにすぎないのであって、対象として存在する様態的事物がいかにして実体《神すなわち自然》――ギトン注〕から生じかつ関係しあっているかということを捨象して、当の事物に適用されるのである。かくして、われわれの認識にあっては、われわれは〔…〕あらゆる事物について普遍的概念を形成してそれを事物の『範型』とみなす〔第4部序文〕。

 そのように、われわれは生起するいっさいが自らのために生起すると思いこんでからは、すべての事物について、自らにとってもっとも有用な点を重要と判断し、自らをもっとも快く刺激するものをもっとも価値あるものと評価しなければならなくなり、かくて、われわれは事物の本性を説明するために、善、悪、秩序、混乱、暖、寒、美、醜の如き概念を形成しなければならなくなったのである〔第1部附録〕。」

福居純『スピノザ「共通概念」試論』,2010,知泉書館,pp.78,79,81,88-89.



 スピノザが「普遍的観念」と呼ぶのは、「人」「馬」「犬」など普通名詞(一般名辞)で表現される“種類”の観念のことです。考えてみれば、私たち近代人の考え方は、このような「普遍的観念」が、現実世界の事物と1対1に対応しているという思いこみの上に成り立っています。近代の哲学者は、それらの観念は“「理性」の導き”だという信念の上に、彼らの哲学体系を作りあげてきました。

 しかし、「普遍的観念」は、決して客観的なものではありません。どこまでも、人間が自分に都合よく作り上げたものにすぎないのです。

 たとえば、「テーブル」と「いす」は、どこが違うのでしょうか? 材質で区別することはできないし、形で区別しようにも、背もたれのない「いす」は「テーブル」と区別できません。背もたれのある「デーブル」は、あまりありませんが、そういうものを作っていけないわけではありません。われわれが「いす」として使うものが「いす」であり、「テーブル」として使うものが「テーブル」である―――そう言うほかに定義のしようがないのです。

 私たちの使う名詞には、私たちが考えている以上に、“地上に二本足で立って生活する”という・人間の動物生態学的特性が刻印されています。「上」「下」「左」「右」「前」「うしろ」「おもて」「うら」という概念がそうです。覆いに囲まれて生活するという人間の習性を離れたら、「中」「外」という概念も怪しくなります。

 スピノザは、これら「普遍的観念」の「十全」性――“真”らしさ――を、ほぼ全否定しています。それらは、“人間中心主義”による偏見だ、「理性知」ではなく、誤りだらけの「想像知」にすぎないのだ、と。






 






 しかし、スピノザは、「普遍的観念」――“種類”――による思考を貶めているわけではありません。非常に困難ではあるけれども、ある場合には、「普遍的観念」によって「十全」「理性知」に達しうる場合がある。それが、〔第2部・定理39〕が説明する“第2種”の「共通概念」です:



「ここで『共通概念』に関する第2の定理である〔第2部定理39〕の問題に戻ろう。人間身体が幾つかの外部の物体から触発を受けるとき、当の身体の変状の観念は2つの仕方で理解されうる。すなわち、観念は『外的特徴』のもとでか、それとも『内的特徴』のもとで捉えられうる。
〔…〕

 前者においては、観念は対象との関係において解されて、言うなら、
〔…〕観念は『眼底に形成される像』〔第2部定理48註解〕の如くに解されて、あたかも『画板の上の絵の如く無言のもの』〔第2部定理43註解〕に貶められる。『像』としての観念とは外部の物体が人間の身体の上に残す〈痕跡〉としての〈結果〉を意味するのであって、それは人間身体とそれを取り巻く外部の物体とのあいだの触発の関係を、人間身体を中心にして秩序づけるという事態に他ならなかった。そのような事態のもとで生まれる諸観念の連結は、〈原因〉としての他の観念〔第2部定理19証明〕との連結に達することなく、唯ひたすら『自然の共通の秩序』、〈外在的決定〉の秩序、『偶然的出会い』の秩序に従っているにすぎなかった〔第2部定理29註解〕。

 他方、後者においては、『観念』が『観念の観念』と同一事物として捉えられるということ〔第2部定理21註解〕、観念が真実〈働き〉として、言うなら『思惟様態、すなわち知解することそれ自体』〔第2部定理43註解〕として捉えられるということ、を意味する。そのようにして、対象は〈働き〉そのもののなかで〈自らを開展する(自ずから説明される)〉ことになる。」

福居純『スピノザ「共通概念」試論』,2010,知泉書館,pp.112-113.



 最後の「後者」―――「内的特徴」による把握、すなわち、「理性知」に達するような“種類”の認識―――の説明が、すこしわかりにくいですが、およそ、こういうことだと思います:

 私たちのまわりの世界では、さまざまな「物体」が、「運動と静止」という自然法則に貫かれて活動しています。しかし、それを漫然と、「人間身体がそれを取り巻く外部の物体の中心になろうとする傾向」つまり“人間中心主義”によって理解するならば、‥‥ギリシャの自然哲学者のように‥‥“愛によって近づいたり、憎悪によって反発したりして運動している”“高貴な物体は上方へ向い、下賤な物体は真直ぐに落下する”などと解釈することになります。

 そうではなくて、それらの「物体」そのものに即して理解するには、どうしたらよいのでしょうか? ‥‥そのためには、私たちは、それぞれの「物体」の“運動”というものを、もっと抽象化、一般化して、およそ重さのある「物体」というものは、どのような法則に従って運動しているのか?‥という観点から、さまざまな場合に即して、虚心に観察してゆく必要があるでしょう。つまり、さまざまなことがらに通じるような、一般的な「観念」――「観念の観念」――を考えてゆく必要があるのです。

 つまり、高度な“種類”的・理論的な思考が必要です。それが「理性知」にほかなりません。そこで使用する“種類”概念も、漫然と思いついたものでなく、きちんと定義づけられたものでなければならないでしょう。

 そうしてはじめて、事物を、それ自体の「働き」――「能動」性――の中で理解することができ、その時、「対象は〈働き〉そのもののなかで〈自らを開展する〉」ことになるのです。



「妥当な観念
「十全」な観念、すなわち「理性知」―――ギトン注〕を主題化するためには、『内部から決定されて、すなわち多くの事物を同時に観想することによって、事物の一致点・相違点・反対点を知解する』〔第2部定理29註解〕のでなければならない。そのようにして、人間身体とそれを触発する或る外部の物体とに〈固有の構成関係〉を〈構成関係一般〉として捉えることが重要なのである。〔…〕

 かくして、観念がわれわれの思惟する力能によって自ずから説明され(自らを開展し)、諸事物の本性を表現するとき、われわれは『第2種の認識』、言うなら『理性』を主題化する。すなわち、『われわれが共通概念を、かくて事物の特質に関する妥当な観念を、有するということから』〔第2部定理40註解2〕、一般的概念を主題化する。

 『共通概念』とは、既に述べた如く、実在的な構成関係相互の〈複合上の統一〉を表わすものであって、そのような複合上の統一をみる構成関係のもとに個々の存在する様態間の〈内的な出会い〉〔第2部定理29註解〕を選択し秩序づけようとする『理性』の努力である。言い換えるならば、〈持続〉
〔≒時間―――ギトン注〕に服する〈各々の様態に固有の構成関係〉を、〈構成関係一般〉として、『なんら時間との関係なしに、或る永遠の相のもとに』〔第2部定理44系2証明〕捉えようとする『理性』の努力である。〔…〕

 『共通概念』は、そのように、
〔…〕持続に服して変化する〈個々の構成関係〉を〈構成関係それ自体〉として一般的に捉えたもの、であって、部分のうちにも全体のうちにも同様に存在している〔…〕かぎり、必然的に『妥当』「十全」―――ギトン注〕である。」
福居純『スピノザ「共通概念」試論』,2010,知泉書館,pp.112-113,119,125,73.



 一見すると千差万別な・さまざまの現象のあいだには、統一的な法則が貫いている。すなわち、たとえば「運動と静止」のような・基本法則が貫いているという「複合上の統一」が、この世界の諸「物体」には、もともとあるわけです。なぜなら、すべては《神すなわち自然》という唯一の「実体」の・さまざまな「様態」にほかならないからです。

 スピノザが「共通概念」と呼んでいるのは、この「複合上の統一」のことです。あるいは、「複合上の統一」を究明するために「理性」が目標として想定する概念です。“原子”というものが、ほんとうに存在するかどうか、われわれは(17世紀には)見た者がいないけれども、そういうものが存在すると考えて研究を進めることは有益である。そういったものです。「共通概念」によって、「理性」は、諸現象を整理し、物の「内的な出会い」を演出して、バラバラに見える諸現象のあいだに、法則的な秩序をもたらすのです。

 したがって、こうして解明される「共通概念」は、時間を超越した「或る永遠の相のもと」にあると言えます。「運動と静止」「点」「正三角形」「π」といった「イデアル」はもちろん、もっと下位の“種類”概念にしても、時間を超えた一般的なものが想定され、追究されるのです。

 しかも重要な点は、こうした“一般的なもの”の解明が、それぞれの「物体」「はたらき」において、かつ人間「身体」「はたらき」において、……すなわち、実験、観察(自然が相手の場合)などの“直接体験”によってなされる。人間「身体」と、それが「常に接触する物体」との交渉によってなされるという点です。







スピノザの家(ハーグ) このアパートで
遺作『国家論』を執筆中に没した。






 スピノザが考える「理性」の認識は、経験的・実践的なものなのです。自然の「物体」に関することであれば、観察や実験によることになるでしょう。しかし、おそらくスピノザは、社会に対しても同じことを考えていました。あるいは、人と人との関係についても、同じ方法が適用できると考えていたようです。こうして、『エティカ』の後半では、「理性知」にもとづく社会理論と倫理学が展開されることになります。



フーコーは『主体の解釈学』という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しています。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。
〔…〕

 この考え方が決定的に変ったのが17世紀であり、
〔…〕デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。」
国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,pp.108-109.



「何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力
〔理解する力。「わかった」という状態が、どんな状態なのかという感覚―――ギトン注〕をも認識し、それによって変化していく。〔…〕スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられているわけです。」
国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,p.105.



 「理性」による認識とは、スピノザにとっては、認識主体を変容させてゆくような体験的・実践的な認識であり、試行錯誤と挫折と勝利をつらねたドラマチックな行為の展開にほかなりませんでした。

 のみならず逆に、「理性」に従った生活の努力とは、認識することのほかにはない。認識を追求することが、「理性」の指示するすべてである、とスピノザは言いきるのです:



「〔定理26〕われわれが理性に従って努力することは、すべて認識するということである。精神が理性を用いるかぎり、精神は認識に役だつもの以外は自分にとって有益であると判断しない。

 〔定理27〕われわれは、認識にじっさい役だつものだけが善であり、また他方認識をじゃまだてしうるものだけが悪であると認める。〔第4部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.332-333.






【必読書150】スピノザ『エティカ』(10) ―――につづく。   










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カテゴリ: 必読書150

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