03/05の日記

17:29
【必読書150】スピノザ『エティカ』(7)―――「愛」と感情のダイナミズム

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アムステルダム、プリンセングラハト(王子の濠)   











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(6)からのつづきです。








 【29】理性は感情を把握しきれない



 スピノザは、「第4部」で、次のように書いています:



「〔定理56〕喜び、悲しみ、そして欲望、したがってまたこれらから形成されている心の迷いのようなすべての感情も、あるいはこれら3つのものから派生してくる感情、すなわち愛、憎しみ、希望、恐れなどの感情には、われわれが動かされる対象の種類に匹敵するほど多くの種類が存在する。

   〔証明〕喜びと悲しみ、したがってこれらから形成され、あるいはそれらから派生する感情は、〔この部の定理11の註解より〕受動感情である。ところがわれわれが、非十全な観念をもつかぎり、〔この部の定理1より〕はたらきをうけるのは必至である。また、そのような非十全な観念をもつがゆえに、〔この部の定理3より〕われわれははたらきをうける。いいかえれば、われわれは想像するかぎり、あるいは自分の身体の本性と、外部の物体の本性とをふくんでいるような感情にうごかされるかぎり〔第2部・定理17とその註解を見られたい〕、はたらきをうけるのは必至である〔第2部・定理40・註解を見られたい〕。

       したがって
〔…〕たとえばAという対象から生ずる喜びは対象A自身の本性を、また対象Bから生ずる喜びはBという対象自身の本性をふくんでいる。このことから、この2つの喜びの感情の本性は、本性の異なった原因から生まれているものであるから、異なったものである。〔…〕したがって、喜び、悲しみ、愛、憎しみなどのすべての感情の種類は、われわれが動かされる対象の種類だけ多くなければならない。

       
〔…〕したがって、各人が外部の原因によって、このあるいはあの種類の喜び、悲しみ、愛、憎しみなどに動かされるに従って、〔…〕その欲望は各自〔対象ごとに――ギトン注〕別々のものであり、〔…〕異なっていなければならない。かくて欲望の種類は、喜び、悲しみ、愛等々の種類だけ、したがって〔すでに示されたことにより〕われわれが動かされる対象の種類の数だけ多くなる。かくてこの定理は証明された。

 〔定理57〕いかなる個人の感情でも、他の個人の感情とはけっして一致しない。その不一致の度合はちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだけ大きくなる。

   〔註解〕
〔…〕

       かくて、
〔…〕各個体が満足して生きるこの生とその楽しみは各個人の観念あるいは心以外の何ものでもない。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.255-259.



 前回に見たように、「理性」“種類”によって思考しますが、「感情」は、人類の数に、ものの種類の数を掛けた数だけあります。私の“喜び”は、あなたの“喜び”とは性質が同じではないし、あなたの“悲しみ”と私の“悲しみ”が一致するのは、ほんの表面的な部分においてのみかもしれません。

 したがって、「理性」「感情」をその性状に則して把握することなど、そもそも不可能な企てと言わなければならない。『エティカ』に書かれている「感情」の分析は、あくまで「理性知」による一般的・概略的な分類と記述にすぎない。おそらくはそれに反する数多くの例外が起きているにちがいない――ということは、スピノザにとっては最初から織りこみ済みなのでしょう。

 さて、前節【28】で見たように、人間は、《神=自然》すなわち外的環境の圧倒的な「必然」の流れの中で生きているわけですが、そのために、人間の「精神」もまた多くの場合には、外部由来の「観念」から、はたらきを受けて活動する、すなわち「受動」的にならざるをえません。

 「想像知」による「非十全」な「観念」をもつ〔第2部・定理29・系〕ことによって、「精神」「はたらきをうける」。すなわち、「想像知」は、「精神の受動」をもたらします。「精神の受動」とは、端的に言えば、受動的な感情、すなわち「受動感情」です。図式化すると:



 「想像知」→「非十全観念」→「受動感情」(喜び、悲しみ、欲望、それらの派生感情)



 このような“原因”→“結果”の連鎖が想定されます。

 しかし、「受動感情」は、かならずしも有害なものではありません。人間の活動と生存維持にとって、有害な場合もあれば有益な場合もあります。













「   〔感情の一般的な定義〕

 心の受動と言われる感情は、混乱した観念である。その観念を形成することによって精神は、自分の身体全体あるいは身体のある部分の存在力について、以前よりもより大きいあるいはより小さい存在力を肯定する。

      
〔…〕

 〔説明〕
〔…〕

     身体のすべての観念は、外的な物体の本性よりも、〔第2部・定理16・系2より〕われわれの身体の現実的な状態をより多く表示する。しかし、感情の形相の基礎をなす観念は、身体全体、あるいはその部分の活動力、あるいは存在力を増大あるいは減少させ、あるいは促したり抑えたりすることによって、身体の全体の、あるいは部分の状態を表示するか、あるいは表現しなければならない。

 
〔…〕精神が、身体について以前より大きい、あるいは小さい実在性をじっさいにふくんでいるものを肯定するときには、精神はより大きな、あるいはより小さな完全性へ移行することになる。〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.291.



 前回の復習をしますと、人間が、外部の物体を認識するには、自分の「身体」に起こった「変状」を通じて認識するのでした。スピノザはそのしくみを、外部の物体からの光波や音波の作用で、最終的には、脳髄に、その外部の物体の特有の痕跡(へこみ)ができるのだ、と理解していました。それは外部の物体そのものではなく、あくまでも、われわれの身体の「変状」です。したがって、その「変状」が「精神」面に現われた「観念」は、外部の物体の本性よりも。、「われわれの身体の現実的な状態をより多く表示」しています。

 これが、「想像知」によって「非十全」な「観念」が形成されるしくみでした。したがってそれは、「われわれの身体の状態をより多く表示」している以上、環境でおきたできごとを認識した結果として、「身体」の活動力・存在力が、より大きく活発になったり、より小さく萎縮してしまったときには、そうした変化をも表示することになります。こうして、「身体」の活動力を増大/減少させるような「身体の変状」(脳内および身体各部の変化)が認識されます。これが、「感情」と呼ばれるものにほかならないのです。



「〔定義3〕感情とは、身体そのものの活動力を増大させたり減少させたり、あるいは促したりまた抑えたりするような身体の変様であると同時に、そのような変様の観念でもあると私は理解する。
〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.176.



 こうして、さきほどの図式は、↓つぎのように補充することができます。



 「想像知」→「非十全観念」→「受動感情」(喜び、悲しみ、欲望、それらの派生感情)→「身体」の活動力/「精神」の思考力の増大または減少



 すなわち、「受動感情」は、人間の活動力――また、人間精神の思考力(定理11↓)――を、減退させてしまう場合もあれば、増大させる場合もある。いずれにせよ、活動・思考のエネルギー水準を変化させる「観念」(および身体の変状)のことを、われわれは「感情」と呼んでいるのです。

 すなわち、「感情」を、エネルギーそのものとして把えるのではなく、エネルギー水準を決定する「観念」[ないし身体の変状]と捉える点に、スピノザ感情論の特徴があります。



「〔定理11〕身体の活動力を増大させ、減少させ、あるいは促し、抑えるものの観念は、精神の思惟する力を増大させ、減少させ、あるいは促し、抑える。

   〔註解〕
〔…〕喜びとは、私は以下において、精神がより大きな完全性へ移行するような精神の受動と理解し、他方悲しみとは、精神がその過程でより小さな完全性へ移行するような精神の受動と理解する。

 次に、喜びの感情が精神と身体とに同時に関係している場合、私はそれを快感、あるいは爽快と呼ぶ。他方悲しみが精神と身体に同時に関係している場合には苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.194-195.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 「喜び」と「悲しみ」、そして、「コナトゥス」の精神への現れである「欲望」―――この3つが、スピノザによれば、3つの“基本感情”であり、他の諸感情は、この3感情から派生したものです。

 なお、スピノザの「悲しみ tristitia」という用語は、“苦痛”に近いニュアンスです。スピノザは、「苦痛 dolor」という言葉を、身体の一部が痛む(頭痛、腹痛、etc.)場合に使っているので、「喜び laetitia」に対立する基本感情のほうは、苦痛まで含んだ広い意味で「悲しみ」と呼んでいるのです。






 






 【30】感情のダイナミズムは、環境と「コナトゥス」の鬩ぎあい



 しかし、スピノザの感情論には、もうひとつ大きな特徴があります。

 ↑前節の図式を見ると、まるで、人間の「感情」も活動力も、外部環境からの影響のままに、水に落ちた木の葉のように、どうにでもされてしまうかのように見えますが、それは、ことがらの半面にすぎません。

 人間には、その“現実的本質”としての「コナトゥス」(自己保存力、恒常性維持機能)がありました。「コナトゥス」は、外部環境からの圧力に対して、つねに、反作用としてはたらきます。のみならず、「コナトゥス」は、必然性の中の《自由》として、みずからの活動力を、できるかぎり増進させる方向に“努力”するのです。したがって、



 …… →「身体」の活動力/「精神」の思考力の増大または減少



 の矢印は、じつは一方向ではありません。右向きの矢印は、つねに、「コナトゥス」の抵抗にあい、外部からの影響力は、弱められたり、向きを変えられたりします。このような、たいへんダイナミックなしくみが、想定されているのです。



「〔定理12〕精神は、身体の活動力を増大させあるいは促すようなものを、可能なかぎり想像しようとする。

 〔定理13〕精神は、身体の活動力を減少させ、あるいは抑えるようなものを想像するときは、可能なかぎり、そのようなものの存在を排除してくれるものを思いうかべようと努める。

    〔系〕このことから、精神は、精神自身と身体の能力を減少させ、あるいは抑えるものを想像するのを拒むことになる。

   〔註解〕このようなことからわれわれは、愛が何であり、憎しみが何であるかを明瞭に把握する。すなわち愛は、外部の原因の観念をともなっている喜びにほかならない。また憎しみは、外部の原因の観念をともなっている悲しみにほかならない。

       さらに、愛する者が彼の愛しているものを現状のままで所有し、維持しようとつとめるのは当然であり、反対に憎しみを持つ者が彼の憎んでいるものを、除去し否定しようと努力することは当然であることを知る。
〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.196-198.

青字は、原書のイタリック、訳書の傍点付き文字。



 「コナトゥス」は、「身体」の活動力と「精神」の思考力(思惟の能力)を、できるだけ増加させようとします。個体の自己保存という「コナトゥス」の本性がそう向かわせるのです。

 そこで、「コナトゥス」は、可能なかぎり、「想像力」が活動力を高めるものを想像する(知覚/回想/空想する)ように働きます。海へ行きたい、映画を見たい、おいしい料理を食べたいという「衝動」は、それが生じて「想像」が起きるだけで活動力を高めるのです。

 よく、啓発本などに、自分が成功しているようすを想像するとモチベーションが高まる、などと書いてありますが、まさにスピノザ倫理学と同じです。

 「衝動」が「精神」に反映すると、「欲望」と呼ばれます。「精神」が自分の衝動を意識することによって、活動力はさらに高まります。

 逆に、活動力を低めてしまう「想像」が起きたときは、「コナトゥス」は、その「想像」を変えようとします。試験の前日になると、地震が起きて休校にならないかと空想したりするのは、そのためです。あるいは、いやな人を思い浮かべた時は、その人に災いがふりかかったり、死んだりすることを願う「想像」が起きます。

 あるいは、かんたんに除去できないような有害な強い「想像」が起きようとした時は、それを想像すること自体を拒否する“抑圧”が起きます。人は無意識のうちに、悪いことはなるべく考えないようにしているものです。

 さきほどの図式に書き加えますと、↓次のような一種のフィードバック機構が働いていることになります。



 「想像知」「受動感情」(喜び,悲しみ,欲望,…)→「身体」活動力/「精神」思考力の増大/減少

   ↑                                 ┃
   ┃                                 ┃
   ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

     ←←←「コナトゥス」(恒常性維持機能)によるフィードバック←←←



 都合の悪いことがあると、それは起きないという“希望的観測”をしたがったり、いやなことは考えないようにしたりするのは、「コナトゥス」の作用であり、私たちの生存のために有益な身体/精神のしくみです。

 しかし、この機構のために、「想像知」が“真”の認識からかけ離れたものになってしまうことも、たしかです。このしくみに盲目的に従ってしまうと、対策をとるべき問題に対策をとれないこととなり、やってくる災いを、より大きなものにしてしまいます。

 すでに見たように、「想像知」に関してスピノザは、それが私たちに見せているものは現実ではないということを、知っている必要があると言っていました。現実ではないことを知ったうえで、「想像」を楽しみ、その恩恵を受けることは有益であると。













 ところで、このように、私たちに“喜び”を与えるものをもっと「想像」しようとし、逆に“悲しみ”を与えるものは、できるだけ「想像」しないようにする私たちの傾向が、対象の観念を明確に伴なった「感情」を形成すると、それは、「「憎しみ」などと呼ばれます。

 「」と「憎しみ」は、たんに想像力を刺激するだけでなく、それらが大きくなると、対象に直接働きかけようとする「衝動」「欲望」を高めることになるので、それらの感情は、たいへん強力なものです。



「精神がわれわれの身体の活動力を増大させ、あるいは促すようなものを想像していると、その間の身体のこうむる動揺は、自己の活動力を増大させあるいは促すような仕方に従っている〔この部の要請1を見られたい〕。したがって、〔この部の定理11より〕その間の精神の思惟する力は増大させられ、あるいは促される。このようにして〔
[ギトン注―――コナトゥスに関する]この部の定理6あるいは9より〕精神は、可能なかぎり、そのようなものを想像しようとつとめる。〔第3部、定理12、証明〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.197.



「〔定理54〕精神は、自分自身の活動力を基礎づけるものだけを想像しようと努力する。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.251.



 活動力を高める対象―――自分の好きな人、物―――の「想像」は、それ自体が「精神」の思考力を高めることになるので、「精神」は、レベルアップした思考をつぎこんで、ますます、その対象の「想像」に集中することになります。また、活動力をレベルアップさせた「身体」は、対象に向って働きかける行動を起こすでしょう。

 こうして、「」と「憎しみ」は、特定の対象に向って、私たちの身体と精神を駆り立てます。注意すべき点は、「「憎しみ」という感情には際限がないことです。これらの感情は、みずからを加速させてゆくばかりで、これらの感情自体に限界は設定されていません。外部の障碍によってはばまれるとか、「理性」が介入して抑えるとかいったことがないかぎり、感情そのものは、どこまでも突き進んで行こうとします。

 したがって、「」も「憎しみ」も過度になりやすい。また、対象に集中する結果として、“まわりが見えなくなる”。スピノザによれば、過度になりやすい特性は、「」のほうが大きいのです。

 「憎しみ」のほうは、「憎しみ」それ自体によってブレーキがかかるしくみが、ないことはありません(〔定理47〕。のちほど詳説します)。「憎しみ」は、対象を破壊する衝動を促しますから、「憎しみ」がどこまでも加速してしまったら、種族全体が亡びることになります。なので、人類の心身には、自滅を阻止する機構が備わっているのです。

 しかし、「」は、そのようなことはありませんから、どこまでも過度になっていきます。「」は、対象を得たい、所有したいという「欲望」を促し、過度になった「欲望」は、容易に「」を「憎しみ」に転換させることがあります。「」から転換した「憎しみ」は、最初から「憎しみ」であった場合よりも、はるかに大きい〔定理38〕。もっとも、このようにして「」は、ブレーキのかかる「憎しみ」に転換することによって、ようやく終息する、とも言えるわけです。



「〔定理18〕喜びから生ずる欲望は、他の条件が同じであれば、悲しみから生ずる欲望よりも強力である。
   〔証明〕
〔…〕喜びから生ずる欲望は、喜びの感情そのものによって促され、あるいは増大される〔…〕。しかし反対に、悲しみから生ずる欲望は、悲しみの感情そのものによって減少させられ、あるいは抑えられる。〔…〕〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.321.



「〔定理37〕悲しみや喜びのために、あるいは憎しみや愛のために生ずる欲望は、それによる動揺が大きければ大きいだけ、また強いものになる。

   〔証明〕悲しみは、〔この部の定理11・註解より〕人間の活動力を減少させ、あるいは抑える。いいかえれば、〔この部の定理7より〕自分の存在に固執しようとする人間の努力
コナトゥス――ギトン注〕を減少させ抑えるのが、悲しみである。このことからコナトゥスは、悲しみに対して抵抗し――ギトン注〕〔…〕悲しみが大きくなればなるほど、ますます大きな活動力によって、人は反対に悲しみを除去しようとつとめるようになる。いいかえれば、〔この部の定理9・註解より〕ますます大きな欲望や衝動によって、悲しみを除去しようと努力するであろう。

       次に、〔定理11・註解より〕喜びによって人間の活動力は増大し、あるいは促されるのであるから、
〔…〕喜びに動されている人は、その喜びをもちつづけることを何にもまして願い、しかも喜びが大きくなればなるだけ大きな欲望によってもとめるようになる。

       最後に、
〔…〕同じ方法で憎しみや愛のために生ずる努力コナトゥスの抵抗力や推進力――ギトン注〕、衝動、あるいは欲望が憎しみや愛に比例して大きくなるということも導きだされる。かくてこの定理は証明された。〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.229-230.



「〔定理44〕愛と欲望は、過度になることがある。

  〔註解〕
〔…〕感情は、たいてい過度になりうるし、しかも精神がただ一つの対象ばかりを注視するようにし、そのために精神が他のものについて視野を開くことを不可能にしてしまう。〔第4部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.359-360.






 






 【31】「」と「憎しみ」のフーガ



 スピノザの言う「「憎しみ」の対象は、人や、飼い猫や、お気に入りのマグカップ、ローンで建てた自宅家屋、といった特定の物のようです。「チョコレートが好き」「トマトが嫌い」というような場合の“種類のもの”に対する好悪は、ふくまれていないようです(ジャレット,pp.170-171)。

 また、スピノザ感情論の大前提として言えるのは、ある「感情」を生じさせる原因は、客観的な“事実”ではなく、あくまでも事実に関するその人の「想像」――信念、思いなし――だということです(ジャレット,p.184)。おそらく、事実の世界(「延長」の世界)と観念の世界が、スピノザの場合には二分されているために、そうなるのだと思われます。

 以下の引用からもはっきりわかるように、ある人がある対象を「」したり「憎」んだりするのは、対象がじっさいに好ましいものかどうかではなく、その人が対象に関して、どんなことを「想像」しているか、‥もっぱらその人の主観的な観念によるのです。



「〔定理19〕自分の愛するものが否定されることを想像する人は、悲しみを感じるであろう。ところがもし愛するものが保護されているのを想像するならば、喜びを感じるであろう。

 〔定理20〕自分の憎んでいるものが否定されることを想像する人は、喜びを感じるであろう。

   〔証明〕精神は、〔この部の定理13より〕人間の身体の活動力を減少させ、あるいは抑えるようなものの存在を排除してくれるいろいろなものを想像しようとつとめる。いいかえれば、〔同じ定理の註解より〕精神は、自分の憎んでいるものの存在を排除してくれるようなものを想像しようと努力する。

       したがって、精神が憎んでいるものの存在を排除してくれるようなものの像は、
〔…〕精神に喜びを与える。

 〔定理23〕自分の憎むものが悲しみに動揺することを想像する人は、喜びを感じるであろう。もし反対にその同じものが喜びに動かされることを想像する人は、悲しみを感じるであろう。
〔…〕

   〔註解〕このような喜びはけっして純粋なものではない。したがってこの喜びは、心の内的な争いなしには存在しえない。なぜなら、〔やがてこの部の定理27で明らかにするように〕自分の同類が悲しみに動かされるのを想像するだけで、人は悲しみにつつまれるにちがいない。また、もしその同類が喜びに動かされるのを想像するならば、反対に、喜びを感ずるにちがいない。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.206-207.



 〔定理23・註解〕には、興味深いことが書かれています。「憎しみ」は、憎む対象人物の不幸や、その人物を排除してくれるものを想像して喜ぶが、ある場合には、その「喜び」は、「悲しみ」をともなってしまう。つまり、心の葛藤を惹き起こすことになるというのです。

 心の葛藤を惹き起こす場合とは、憎む相手がたんに災いをこうむるだけでなく、災いによって「悲しみ」に動揺するのを想像して(あるいは、見て)喜ぶ場合です。というのは、人間には、「同類」の感情を“模倣”する性質がある〔定理27〕からです。

 つまり、「同類」が悲しんでいるのを想像すると、自分も悲しくなり、喜んでいるのを想像すると、自分にも「喜び」が生じてしまう。人間は、自分の「身体」内部(脳髄)に生じた“痕跡”を通じて他人を認識するので、その他人の「本性」と自分の「本性」とが似ていると、“痕跡”には、相手の情動の様態を“模倣”した・自分の情動の様態がふくまれることになります。すなわち、想像された「感情」に似た自分の「感情」を持つことになってしまうのです〔同・証明〕。これは、人が自分の意志でどうにかできるような性質のものではありません。
 
 スピノザは、この現象を、あくまで現象として、人間内部の“力関係”で説明しようとしています。“良心の呵責”といった道徳的判断を持ちこむことを拒否します。なぜなら、このような“心の葛藤”は、例外なく起きることだと言いたいからなのです。たとえ、憎んで当然というべき・悪魔のような人物であっても、例外にはならないと言いたいのです。

 逆にいえば、ほんとうに狡猾な“悪人”ならば、たいして気に留めていないような災いであっても、ことさらおおげさに悲しんで見せることによって、自分を批判する人びとの「憎しみ」を減殺しようとするでしょう。それによって、批判者たちに“心の葛藤”を与えて、反対派を切り崩そうとする―――世論操作の常套手段として、これはしばしば利用されます。

 ここから、さらに次の定理では、「憎しみ」が相手の不幸を喜ぶすべての場合について、やはり多かれ少なかれ“心の葛藤”が生じてしまうことを論証しています:



「〔定理47〕われわれの憎む者が否定されたり、あるいは他の禍をこうむっているのを想像することから生ずる喜びは、必ず心の悲痛をともなっている。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.298.



 こうして、「」と「憎しみ」は非対称であることがわかります。「」とはちがって、「憎しみ」には、人間精神の構造(コナトゥスによる自己保存機構)に反する部分があって、そのために、「憎しみ」は、しばしば憎しみを抱く人に“心の葛藤”を引き起こします。すなわち、「憎しみ」は、精神の病いを惹起する感情だと言えます。













「〔定理33〕われわれは、自分たちと同類のものを愛するとき、そのものもまたわれわれを愛してくれるように、できるだけはたらきかける。

 〔定理40〕自分では他の人から憎しみをうけていると想像し、しかも自分がそのように他人から憎しみをうけるいかなる原因でもないと信じるものは、かえってその人に憎しみをいだくであろう。

 〔定理43〕憎しみは、憎みかえすことによって増大し、また逆に愛によって除去されることができる。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.224,234,238.



 愛する人は、相手も自分を愛してほしいと願う‥‥この願い、じつは「欲望」そのものであって、限度というものを知らない強烈な「欲望」です(なぜ限度がなくなるのかは、すでに説明しました)。そこで、相手への働きかけも、しばしば常軌を逸したものとなります。それもこれも、「」を発生させる心身の機構を知っていれば、十分に理解できることでしょう。

 “憎み合い”が起こるしくみは、“愛し合い”が起こるしくみ(↓〔定理41〕)とよく似ています。“憎み合い”は、相手が自分を憎んでいるという「想像」から生じます。したがって、最初のきっかけは、どちらかの誤解であることも多いのです。いったん誤解が生じると、理由のない「憎しみ」を向けられたほうは、理由がないゆえにこそ、相手を憎み返します。こうして、“憎み返し”の相乗効果によって「憎しみ」が増大してゆく負のスパイラルが発生します。

 この負のスパイラルから抜け出すには、どちらかが相手を憎むのをやめて、相手に「」を向ければよいのですが、これは、そうかんたんにできることではありません。人間は《自由》ではありませんから。



「〔定理40・系1〕愛しているにもかかわらず、その人が彼自身にたいして憎しみに動かされていると想像するような場合、彼には憎しみと同時に愛のために内心の衝突が起こることになろう。じっさい、その人から自分が憎まれていると想像するかぎり、〔前定理により〕彼はその人を憎み返す以外にない。ところが、〔仮定によれば〕それにもかかわらず彼は、自分の憎むものを愛する。したがって彼には、憎しみと同時に愛のために内心の衝突が起こることになろう。

 〔定理41〕もしだれかが、他のものから愛されていると想像し、しかも自分にはそのようにされる原因が何もないと信じているならば、彼はその人を逆に愛するであろう
〔…〕

    〔系〕自分の憎むものから、愛されていると想像するものは、憎しみと同時に愛のために内心の衝突を感じるであろう。
〔…〕

   〔註解〕もし憎しみが愛にまさるときには、彼は愛してくれるものにたいして禍をもたらそうとつとめることになるであろう。このような感情はたしかに残忍と呼ばれるが、とりわけ愛するものが憎しみの原因に何らかかわりがないと考えられるとき、それは顕著である。

 〔定理44〕愛によって完全に克服された憎しみは、愛に変わる。しかもそのために、この愛は、憎しみが先行していなかったときよりも大きくなる。

 〔定理38〕もしだれかが自分の愛しているものを憎みはじめ、その結果、愛がまったく消え失せてしまうならば、しかもそのとき愛と憎しみと原因がひとしいならば、それをまったく愛していなかったときよりも、憎しみははるかに大きくなるであろう。そしてその憎しみは、その愛が以前大きかったとすれば、それだけまた大きくなるであろう。
   〔証明〕
〔…〕憎しみの原因となった悲しみのほかに、ものを〔以前には――ギトン注〕愛したというそのことから、もう一つ別の悲しみが生まれてくる〔ので、悲しみ(苦痛=憎しみ)の大きさは2倍になる。―――ギトン注〕〔…〕〔第3部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.235-239,230-231.






 






 同じ対象に対する「」と「憎しみ」が同時に起こることは、めずらしくありません。↑上のように、さまざまなケースがありますが、いずれの場合でも“心の葛藤”に苦しめられることになります。

 自覚できない“心の葛藤”によって異常な行動に出ることも、まれではなく、「残忍」と呼ばれるのは、その一つのケースです。すなわち、「憎しみ」が「」よりも大きい場合には、その人は相手をいたぶる行動に出ます。「憎しみ」に屈服した「」は、たんなる「憎しみ」の場合にはありえないような、異常に残虐な行為に進むことになります。なぜなら、この捩じれた「」は、相手をいたぶることによって倒錯した“喜び”を追求し、しかも「」は「憎しみ」とは異なって、内在的な限界というものを知らないからです。

 スピノザの言う「残忍」とはサディズムにほかなりませんが、そこから私たちは、マゾヒズムについても、理解することができます。マゾヒズムもサディズムと同様に、より小さな「」がより大きな「憎しみ」と同居する場合です。ただ、マゾヒズムの場合には、その「」と「憎しみ」は、相手のみならず自分にも向けられています。“愛のムチ”とは、意識されないサディズムです。“愛のムチ”を拒まない人は、意識しまたは意識していないマゾヒストです。両者を結んでいる感情は、「」よりも「憎しみ」にほかなりません。

 しかしながら、「」が完全に「憎しみ」を圧倒した場合には、全体が異常に高いレベルの「」に変わります。はじめは“敵”として出遭った相手と「」で結ばれた場合には、きわめて強い「」になる‥‥という、お決まりのラブロマンスは、たしかにウソではないのです。

 しかし、ひとつ前の「残忍」との違いは紙一重だということを、私たちは知っておくべきでしょう。映画のラブロマンスを地で行こうとすると、―――やめろとは言いませんがw―――どんな危険な目に合わないともかぎりません。

 逆に、「」が全面的に「憎しみ」に変った場合にも、その「憎しみ」は、最初から憎んでいる通常の場合よりも、はるかに大きくなります。というのは、“かつては、この相手を愛していた”ということが、「後悔」ないし「恥辱」となって、相手に結びついた悲しみ(苦痛)を倍加させるからです。スピノザによれば、「後悔」は有害な感情なのです〔第3部・諸感情の定義27:工藤・斎藤訳,p.277f〕。

  




【必読書150】スピノザ『エティカ』(8)―――につづく。   










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