02/21の日記

06:57
【必読書150】スピノザ『エティカ』(4)―――“異世界”のはざまに立つ生き物たち

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アムステルダム中央駅  











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】スピノザ『エティカ』(3)からのつづきです。






 【15】《自然すなわち神》という“全体”



 「第1部」で、スピノザの《神すなわち自然》の全体の姿については、イメージが与えられました:

 すべての「物体」と、すべての「思想」「観念」「精神」をふくむ無限の全体、しかもそれは、「物体」の特性である「延長」(体積があること)、「思想」の特性である「思惟」(考えられること)のほかにも、無限の数の「属性」をもっているのでした。

 注意しておきたいのは、“全体”―――という言葉をスピノザは使っていません―――と言っても、全体主義や社会主義のようなものとは大きく違っていることです。スピノザの《自然》には、“指導”や指令をする主体はありません。《自然》全体の“利益”のようなものがありえないからです。《自然》にとっては、すべてが“必然”であり、しかも、方向性のない“必然”です。方向性がない以上、特定の支配的な“理念”もありません。いわば、“秩序あるアナーキー”とでもいうような状態が、スピノザの宇宙の姿です。

 神秘主義とも違います。《自然》ないし《神=自然》からのインスピレーション(啓示)のようなものは何もありません。理詰めの論証が延々と重ねられて行って、その最後になってようやく、「第5部」の後半で、人間の「神にたいする永遠の、不変の愛」「人間にたいする神の愛」が語られますが、それらは、「神が自分自身を愛する無限の愛」つまり神の“自己愛”にほかならないとされるのでした〔第5部・定理36、およびその系と註解〕。

 ナルシズムに最高の価値を与える宗教ないし倫理!‥‥誤解をおそれずに言えば、スピノザの形而上学とは、そういうものです。

 当時のキリスト教世界の人びとのなかで、スピノザひとりがユニークであったのは、神は物質的なものだ―――ないし、物質的であるとともに精神的なものだ―――と考えていた点です。“神は《自然》とイコール”だとする以上、神が物質、物体をふくむと考えることは避けられないからです。しかし、当時は、デカルトのような最先端の哲学者も、ボイルのような科学者も、こと神に関するかぎりは伝統に忠実で、神は純粋に精神的な存在だと考えていたのです。

 およそ宗教―――神道のような自然宗教を除く―――というものは、神をかぎりなく精神的なものとみなすようです。仏教でも、人間や動植物が、“輪廻”をくりかえす物質的(肉体的)なものであるのに対して、天上の神的存在は、高位になればなるほど物質性(肉体性)が希薄になり、精神だけの存在になってゆく。如来(仏)ともなると、もう肉体も精神もなくなって、“宇宙の外”にある「無」である―――ということになります。

 ですから、キリスト教でも、神が物体だなどと主張するやつはとんでもない、神に肉体があるなどと思うのは無神論者だ、ということになるわけです。



「〔定理1〕思惟は神の属性である。あるいは神は思惟するものである。

 〔定理2〕延長は神の属性である。あるいは神は延長するものである。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.85-86.



「神が本質的には思惟する事物である、ということは一般に受け入れられていた。だが、神が延長されたものである、というのはほとんど普遍的に拒絶され糾弾された。
〔…〕スピノザはさまざまな反論に対して物理的なものとしての神という概念を守ろうとする。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.114.



「スピノザの考えによれば、神は物理的なものであり、心的なものでもある。
〔…〕神は『延長』という『属性』を持っている(あるいは『延長』という『属性』である)という意味だ。〔…〕延長される(あるいは、延長を持つ)ということは、長さ、幅、奥行きを持つ、つまり三次元に延長されるということである。また、神は、『思惟』という、人間が認識しているもうひとつの属性でもある。

 神は物体であるのではなく、物体を持っている、
〔…〕同じように、神は精神であるのではなく、精神を持っている。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.61.



 ジャレットの最後の文の意味は、“神は物質ではない”と言う批判者たちの糾弾に対して、スピノザが答えている反論を見ると、わかりやすいです。

 まず第1に、彼ら批判者たちは、まったく物質性のない“純粋精神”の神が、この世のあらゆる物体や動植物、人間の身体を創造したと主張するが、物質的でないものから、どうして物質的なものが生み出されようか? 精神は物体を生まないし、物体は精神を生まないのである、と〔第1部・定理15・註解〕〔第2部・定理6〕。

 第2に、批判者たちは、「物質的な実体は部分から構成され、分割可能である」ことになるから、不条理が生ずると主張する(ジャレット,pp.73-74)。たとえば、ある人は言う:無限の物体を2つの部分に分割すると、分割された各部分は、有限なのか? 無限なのか? 有限だとすると、有限+有限=無限 となって不条理である。無限だとすると、“無限の2倍の無限”が存在することになって、やはり不条理である。したがって、無限の物体は存在しない。よって、無限の実体である神は、物体ではない、と。

 スピノザは反論する:〔第1部・定理13〕が明らかにしているように、「無限の実体は分割されない」。物質的実体も、精神的実体も、分割することはできない。《神すなわち自然》は、物体のような、分割することのできる、あるいは部分から構成されているようなものではないのだ、と〔第1部・定理15・註解〕。《神=自然》そのものは、無限の「延長」(ひろがり)であって、無限数の有限「物体」と無限数の有限「精神」を、そのなかにふくんでいるのだ。







Daniel Barkley






 《神すなわち自然》そのものは、物体(のような分割可能なもの)ではなく、無限の「延長」という「属性」をもつ「実体」だ、というスピノザの・この主張については、さまざまな解釈が行なわれているようです。ある人は(Jonathan Bennett: A Study of Spinoza's Ethics, 1984)、スピノザの《神すなわち自然》とは、無限の宇宙空間のことだ、と理解しています。そこから、“場の宇宙論”としてスピノザを理解する人もいます。逆に、「すべての事物」だと主張する人もいます。

 チャールズ・ジャレットは、スピノザの《神すなわち自然》は、空間ではなく、“物質”だと解釈しています。つまり、スピノザは、水のように切れ目のない物質的な広がりとして、《自然》を捉えている、というのです。



「私自身は、スピノザが実体を『延長』の属性のもとで把握する
〔…〕ときは、実体を物質と捉えている、と考えている。〔…〕

 『もし……我々が量
〔水や空気のような、数えられない物のこと―――ギトン注〕を把握する場合、その量が実体である限りは……無限で、単一で、不可分のものであることがわかる。〔…〕つまり、物質はどこにあっても同じであり、その中にある部分は区別されないこと。我々がその物質をさまざまに変状されているもの〔すなわち、物体――ギトン注〕として把握する場合は例外だが、〔…〕〔スピノザ『知性改善論』〕
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.90.






 【16】「神」から物体へ、人間へ



 スピノザの《神すなわち自然》を、無限に広がった水のようなイメージで理解すると、《自然》“必然”とは、水の中に流れが生じ、水面に波――個体としての「物体」「精神」――が現れるようなものでしょう:



「物質はいたるところ同一であり、またそこに諸部分の区別が生ずるのは、物質がいろいろの仕方で変様すると考えられるかぎりのことである
〔…〕たとえば、水は水であるかぎりにおいて分割され、その諸部分はたがいに分離されると考えられる。だが物体的実体と見なされるかぎりの水は分離も分割もされない。さらに水は水であるかぎり、生成し消滅する。だが実体であるかぎりの水は生成も消滅もしない。〔第1部、定理15、註解〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.32.



「 『個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態、にほかならない』〔第1部・定理25・系〕

 様態とは定義によって『実体の変状』のことだった。だから、もしそうなら、猫だの台風だの戦争だの、私をも含めたこれらすべての現実は神が属性ごとに『どうにかなった(変状した)』ものだ、
〔…〕リンゴが実体で、色つやがその様態〔“モード”――ギトン注〕だ、というふうに考えると、猫も台風もわれわれもいわば神の色つやみたいなものになってしまいそうだ。

 当時のふつうの考えでは、世界は神がつくったということになっていた。ところがスピノザでは、『つくる』という言葉が完全に消えている。神はつくらない。事物に様態化し、変状するのだ。」

上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,p.97.



 いわば、人間も動植物も物体も、この世界のすべては、彫像を造るようにして、「神」の頭の中のイメージを形にしたものではなく、「神」自身の“必然性”の結果として、「神」の表面に現れたシワのようなもの―――“そうならざるをえない”結果として“そうなった”にすぎないものだというのです。

 ヨーロッパのキリスト教徒が長いあいだ‥20世紀に至るまでイメージしてきた「神」は、「つくる神」(天地を)、「破壊する神」(都市ソドムを)、「命ずる神」、癒しを与えて「平和にする神」……、つまり、「する神」でした。しかし、スピノザの神は、「する神」よりも圧倒的に「なる神」なのです。「する」主義と「なる」主義というものがあるとしたら、「する」主義は西洋のもので、「なる」主義は東洋的とも言えるのではないでしょうか?

 第2次大戦で敗戦したあと、日本では、「する」主義と「なる」主義をくらべて、「なる」主義を一方的に軽蔑し、すべからく西洋のまねをして「する」主義者になれと、詰め寄って威圧する風潮が一世を風靡しました。政治学者丸山真男氏の「『である』ことと『すること』」という議論がもてはやされました。「〜である」は「〜なる」と同じことです。

 ところが、20世紀末になると、西洋のほうで反省が起きて、「する」主義のもたらした自然破壊などの害悪が批判され、「なる」主義が再評価されてきました。そうなると、日本でも、かつて「なる」主義をボコボコに張り倒したことを忘れてしまったエピゴーネンたちが、宗旨替えしましたとも言わずに、いまや「なる」主義一辺倒に奔りまくっています。まったく、これほどばかげたことが他にあるだろうかと言わざるをえないのです。

 それと比較しても、圧倒的な「する」主義者の軍勢に囲まれながら、それでもひるまず、単身「なる」主義を唱えつづけたスピノザの勇気と“強さ”には、脱帽せざるをえません。 






 







「スピノザが様態化を具体的にどんなふうに考えているか見てみよう。

 神を神であるようにしている本質は永遠で無限である。すると、それを表現している属性から出てくる様態も永遠で無限なものでなければならない。
〔…〕

 神の無数にある属性のうち、われわれ人間に知られているのは『延長』(物質的広がりであるという性質)と『思考』
〔思惟――ギトン注〕(何かの考えになっているという性質)の2つである〔…〕。延長属性ではまず『運動と静止』という根本規則が出てくる。現代の物理学者たちが追究している究極の物理法則みたいなものだ。いつどこであろうとおよそ物質的なものすべてに及ぶという意味で、それはたしかに無限な様態である(直接無限様態)。

 そしてここから『全宇宙のありさま』が必然的に出てくる。要するに物理的な無限宇宙の全体である(間接無限様態)。
〔…〕

 猫だの台風だの戦争だの、これらいろいろの有限の様態は
〔…〕無限様態〔間接無限様態――ギトン注〕の一部分だということになる。」
上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,pp.100-102.



 無限の実体である《神=自然》から、さまざまな「物体」「精神」、すなわち「様態」が、どのようにして「出てくる」のかというと、まず、無限の実体から出てくるのは、窮極の普遍法則である「直接無限様態」です。そこから、やや具体化された「間接無限様態」が生じ、さらに個別の有限の「様態」が、無限様態の個々の部分として出てくる。

 ↑上の引用部分では、「延長」属性のほうの「様態」の導出が説明されているわけですが、「思考(思惟)」属性についても、並行した形で同様に説明されます:



「さて、属性はおのおのが同じ神の本質を表現するのだった。だから思考属性でも同じプロセスでなければならない。われわれ人間の知っている思考属性、つまり考えになっているという性質は、すべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。そこで、まず出てくるのは物理法則についての理解(直接無限様態)、そしてそこから法則に従って変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解(間接無限様態)が必然的に出てくると考えられる。

 スピノザが『無限の知性』と呼んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことである。
〔…〕

 「延長」属性の場合と
「同じ必然性で、『猫』観念、『台風』観念、『戦争』観念が神の無限知性のどこかに一部分として出てきている。」
上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,pp.101-102.



 以上を図示してみると、↓次のようになります。「究極の物理法則」は、スピノザの時代には物体の「運動と静止」でしたが、現在はどうかわかりません。仮に、物質とエネルギーの転換式「E=mc2」だとしておきましょう:



        《神すなわち自然》


 「延長」属性           「思考」属性

    ↓                ↓
 究極の物理法則
  E=mc2           E=mc2 の理解
(直接無限様態)         (直接無限様態)

    ↓                ↓ 
 全宇宙のありさま        全宇宙のありさま の知
(間接無限様態)        (間接無限様態)「無限知性」

   Ψ  Ψ  Ψ          Ψ     Ψ
…… 猫 台風 A氏 ……  ……「猫」観念 「台風」観念
                    「A氏」観念 …… 
(有限様態)諸物体         (有限様態)諸観念





「猫と台風と戦争は出てきている限り、たがいに無関係でなく、みな法則に従った物理的因果関係の網目の中で存在と作用へと決定されている。

 そしてその決定の必然性を無限知性は『原因→結果』の『→』であまねく感じている、というわけだ。」

上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,p.102.






 【17】“心身並行論”と“汎心論”



「実体とは『存在するために他のいかなるものをも必要としない、というふうに存在するもののことである』(デカルト『哲学原理』第1部第51節)。これを本気に取るなら
〔スピノザは、本気に取った。以下のように:―――ギトン注〕、人間の身体はいうまでもなく精神すら実体でないことは明らかだ。厳密な意味でそういうふうに存在するのは〔…〕『神』だけで、それ以外のものはすべて神に依存するからである。すると、考えている私、精神は、神という実態の様態であって、何か神の中にある観念に似たものになるであろう。〔…〕

 同じものが、対象とその観念と両方の位置で表現されている、
〔…〕言い換えると、同じ事物が、真なる観念の中に対象化されてあるあり方と、事物自身の属性のもとで表現されるあり方、その両方のあり方をしている、と考える。〔…〕

 事物はみなこんなふうに2つの属性のもとに二重に存在するのだから、
〔ギトン注―――真なる観念が対象と〕一致するのは当然だ、

 『思考する実体と延長された実体とは同一の実体であって、それがときにはこの属性、またときにはかの属性のもとに理解されるだけ』である
〔第2部・定理7・註解―――ギトン注〕

 すると、実体にいわば貼り付いている様態についても同じことが言える。『延長の様態とその様態の観念とは同一の事物であって、ただそれが2つの仕方で表現されている』、ただそれだけのことである
〔同所―――ギトン注〕。」
上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』,2005,講談社,現代新書 1783,pp.107-110.



「〔定理7〕観念の秩序と連結は、もの
〔物体――ギトン注〕の秩序と連結と同じである。

  〔註解〕
〔定理7の意味は、2つの秩序・連結があるということではない。――ギトン注〕前に述べたことをここで、思い出さなければならない。すなわち、〔…〕思惟する実体と延長する実体とは同じ実体であること、そしてこれがあるときにはこの属性、また他のときにはあの属性のもとで理解されるということである。

 
〔…〕したがって自然が、延長の属性のもとで考えられようと、思惟の属性のもとで考えられようと、また他の何らかの属性のもとで考えられようと、われわれは同じ秩序を、あるいは諸原因の同じような連結を、すなわち同じものが相互に〔「相互に」は不適訳。各属性で―――ギトン注〕継起するのを見いだすであろう。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.91-92.













 つまり、物理的な「物体」の世界の諸要素と、「観念」の世界の諸要素は、1対1に対応している。というより、両世界は、同じひとつの事物連関が「2つしかたで表現されている」にすぎない。

 しかし、そうだとすると、おどろくべきことが結論されます。「神」については、両者が一致するのはいいでしょう。人間についても、「精神」の側が、「身体」について真なる認識をもつ場合には、「身体」の中で起きているのと同じことが、意識の中でも起きているといえるでしょう。

 しかし、動植物、さらには、岩や山のような無生物はどうか?‥スピノザは、植物はもちろん、無生物にも、‥およそすべての「物体」には意識があることを認めるのです。それどころか、台風のような自然現象にも、それぞれの自己意識があって、活動しているのだとします。つまり《汎心論》(万有霊魂論)なのです。



「スピノザは、
〔…〕人間の身体が『延長』の属性のもとで把握される神の様態であるのと同様に、精神は『思惟』の属性のもとで把握される神の様態なので、あなたの精神は神の観念のひとつである(実際には、あなたの精神はあなたの身体に関する神の観念なのだ)、と主張する。

      
〔…〕

 スピノザはまた、人間の身体と精神の関係性は我々だけのものではないとも主張する。それぞれの身体が存在しているときは、神がそれぞれの身体の観念を持っている
〔…〕からである。〔…〕スピノザは〔…〕、すべての事物には魂が吹き込まれている〔“animata sunt”―――ギトン注〕と言っている。事物にはそれぞれ「魂が吹き込まれている」、あるいは霊魂がある、生きているとさえ言えるかもしれない。

 この見解は、
〔…〕スピノザが人間を自然の一部と(つまり他の事物と異なる原理の中にあるのではないと)みなす傾向の一例である。ただし、〔…〕人間が他の種よりも大きな思惟力ないし理解力を持っていることはスピノザも認めている。スピノザはこの違いを、人間の身体の方が複雑なことや、人間の身体には、多くのことをしたりされたりしても消滅しない能力があることによって説明しようとする。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.108-109.



 つまり、人間の精神と、沼や草の“精神”は、同じではないけれども、程度の違いにすぎないと言うのです。(人間の精神と他の物体の精神との違いは、〔第2部・定理13・註解〕で論じられている。)

 また、同じ前提から、人間の身体が死んだときに、精神ないし“霊魂”がどうなるか、ということも帰結します:



「あなたの精神はあなたの身体に関する神の観念なのだ
〔…〕

 ただし、
〔…〕観念は肯定ないし否定するものである。あなたの身体に関する神の観念は、あなたの身体という現実的な、一時的な存在に関する神の肯定である。〔…〕そこには神が(あなたの身体が存在する限り)あなたの身体の存在を肯定する、ということが内包される。だから、あなたの精神は、あなたの身体が存在を始めるときに存在を始め、あなたの身体が消滅するときに存在をやめる。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.108-109.



 別の言い方をすると、《神=自然》「延長」属性から流れ出るものと、「思惟」属性から流れ出るものは、厳密に1対1対応しているのですから、ある人間の「精神」は、その人間の「身体」が存在しはじめた時に存在しはじめ、「身体」が消滅した時に消滅する、ということになります。

 “思考のない物体はない”のと同様に、物体(身体)のない“霊魂だけ”の存在はありえない。



「だから、スピノザは、人間の精神は身体が消滅しても生き残ることができる
〔…〕という、〔…〕正統的な宗教的見解を拒絶する。天国や地獄は、〔…〕存在しない。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.110.






 






 【18】“多世界宇宙”の認識論。“異世界”で起きたことが、どうしてわかるのか?



 スピノザによれば、《神イコール自然》の2つの属性に基く“物体界”と“精神界”は別々のもので、ある意味でたがいに無関係な世界です。同じことは、“物体”“精神”以外の属性の世界についても言えます。

 前回に、“多世界宇宙”のモデルを出しましたが、スピノザの宇宙は、この“多世界宇宙”のSFによく似ています。ある世界と別の世界(およびその他無限数の世界)は、同じ場所に同時に重なって存在し、同じように進行してゆくのに、たがいに、自分以外の世界があることは知らないし、行き来することもできない。そういう宇宙なのです。

 そうすると、ちょっとやっかいな問題が起きます:


 物体と精神は、たがいに原因/結果とはならない


 ということですから、私たちの精神は、なぜ外界の事物を認識することができるのか?‥また、いかにして外界に働きかけることができるのか?‥特別な説明が必要になってきます。



「ほとんどの学者は、スピノザは精神と身体の間のいかなる因果律も拒絶しているとしている。スピノザの見解によれば心的事象は物理的事象の原因にはならないし、物理的事象は心的事象の原因にはならない、と想定している。」

チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,p.144.



「これは意見の分かれる主張だ。

 我々は皆、あなたが部屋を歩いて横切ろうと決意するなら、あなたのその(心的な)決意が、あなたが歩くという(物理的な)ことの原因であると想定するように見えるし、同様に、あなたに木の倒れる音が聞こえるのは、木が倒れることが原因であると考える。

 ところが、スピノザは、木の音を聞くというのは精神が経験することではあるが、これは物理学的な言い方でも神経生理学的な言い方でも描写できると考える。」
木の倒れた音が耳に達して鼓膜をふるわせるのは物理現象だし、内耳から脳に信号が送られて音の像をむすぶのは神経生理現象だと考えることができる。つまり、音が“聞こえる”プロセスは、全部が“物体界”のできごとだと見なせる。「脳の事象は、それが物理的である限り、空気の振動が原因で起こると言えるが、同じ事象であっても、経験として把握されるのであれば、空気の振動が原因で起こるとは言えない、ということである。」
op.cit.,p.116.



「▽定理5 神はある観念の原因となるが、これは神が思惟する事物である場合のみに限る。
 ▽定理6 神はあらゆる属性の様態の原因となるが、これは神がその属性を持つ場合のみに限る。

 第2部の定理6は定理5を一般化したものだ。ここから導かれるのは、精神的なものと物理的なものの間に因果的相互作用はない、ということだろう。」

op.cit.p.115.



 ジャレットが掲げている定理は、要約したものなので、原文を見ておきましょう↓。意味は、ジャレットの要約のとおりです。



「〔定理5〕
〔…〕神の属性の観念も、個物の観念も、観念されたもの自身あるいは知覚されたもの自身を動力因とはみとめず、むしろ思惟するものであるかぎりの神自身を動力因とみとめる。

 〔定理6〕あらゆる属性の様態は、みずからがその様態となっている属性のもとで神が考察されるかぎりにおいてのみ、神を原因とする。そして他の属性のもとで考察されるかぎりの神を原因としない。
   〔系〕このことから、次のことが帰結される。すなわち、
〔…〕観念の対象となるものは、すでに示したように、観念が思惟の属性から生ずるのと同じ仕方、同じ必然性によって、みずからの属している属性から生じ、結論されてくるということである。〔第2部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.89-91.













 “物体界”と“精神界”のあいだには、交渉はない。つまり、木という「物体」、木が倒れるという物理現象と、“木が倒れる音を聞く”という人間「精神」の経験との間には、直接の因果関係はないわけですが、“精神界”と“物体界”は完全に並行している―――両世界は、重なって存在しているわけです。“物体界”で起きたことは、“精神界”でも起きている;“精神界”で起きたことは、“物体界”でも起きている。

 そこで、人間の「精神」には、自分の「身体」に起きた


 鼓膜の振動→神経刺激の伝達→脳での音像形成


 という因果プロセスが、そのまま“観念”として生起します:


 鼓膜が振動した(と思う)→神経刺激が伝達された(と思う)→脳での音像(を心中に聴く)


 もちろん、私たちは自分の身体の中のすべての生理現象を意識しているわけではありません(しかしそれも、窮極的には不可能ではないと、スピノザは考えます〔第2部・定理12〕)。それは“神の認識”でしょう。さしあたって、人間が認識するのは結果だけ……心中に聴く音像だけです。

 ところで、人間の「精神」は、木が倒れる音や、何かが倒れる・さまざまな音を経験していて、それらの「共通概念」を記憶に貯えていますから、脳に生じた音像を照合して、“木が倒れる音”だと知ることができます〔第2部・定理39:理性的認識〕。これが、“木が倒れる音を聞いた”という人間「精神」の「経験」です。

 この“認識”プロセスのかなめというべき:



“物体界” 脳で音像を形成 = 脳の音像(を心中に聴く) “精神界”



 ↑この部分は、因果関係ではないことに注意してください。たがいに交渉はないけれども、同一事象の両面である“異世界”どうしの対応関係によって、「精神」は自分の「身体」に起こる変化を認識している。それによって、“外界”のできごとを認識することが可能になるわけです。

 つまり、



 人間精神が認識する対象は、自分の身体である。

 人間精神は、自分の身体の変化の認識をつうじてでなければ、外部の物体を認識することができない。



 これが、重要な定理になります:



「〔定理13〕人間精神を構成する観念の対象は身体である。
〔…〕

 〔定理26〕人間精神は、自分の身体の変様の観念によってでなければ、外部の物体を現実に存在するものとして知覚しない。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.101,129.






 【19】“必然世界”の綻び? 人間が存在する/しないは偶然か?





「〔公理1〕人間の本質は、必然的な存在をふくまない。すなわち、この人間、あの人間が存在するもしないも、同じように自然の秩序から起こりうる。

 〔定理10〕人間の本質には実体的存在が属さない。あるいは、実体は人間の形相を構成しない。
    〔系〕この帰結として、人間の本質は、神の属性のある様態的変様から構成されることになる。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.85,96-97.



「この公理
〔第2部・公理1―――ギトン注〕によれば、自然の秩序から、ある人が存在することと、その人が存在しないことは同じだけ起こりうる。ということは、それぞれの事物は神によって絶対的に必然性を与えられているという命題を否定する(あるいはその命題と矛盾する)ように考えられるかもしれない。

 この一見矛盾に見えるものは、解決できると私は思う。まず、人間は必然的に存在するということの否定は、ここでは単に、人間の本質には存在を『伴う』ということの否定でしかない。次に、ある人があるときは存在し、別のときには存在しないというのは、自然の秩序から起こることである。したがって、自然の秩序から、ある人が存在することと、その人が存在しないことは同じだけ起こりうる。これは、自然の秩序が
〔…〕神によって必然性を与えられたものであるということや、〔…〕自然の秩序がある時におけるその人の存在ないし非存在に必然性を与えるということとは矛盾しない。」
チャールズ・ジャレット,石垣憲一・訳『知の教科書スピノザ』,2015,講談社,選書メチエ592,pp.120-121.



「この人間、あの人間が存在するもしないも、同じように自然の秩序から起こりうる。」



 という〔第2部・公理1〕を額面どおりに受け取ると、なにか、両面の「必然的」因果連関と厳密な1対1対応で、ギシギシになってしまったスピノザの宇宙に、小さな隙間を見つけたような、ホッとした気分に誘われます。

 これは、“神の「必然性」”のほころびなのでしょうか?

 人間の「存在」が「必然」でないとしたら、その行動にも自由度があるのではないか? 《神イコール自然》の必然的因果連関のなかで、その存在も行動も、がっちりと決定されてしまっている「人間」というイメージは、どこかやるせないものがあります。






 






 ところが、ホッとしたのもつかのま、ジャレットの解説によると、スピノザはべつに、《神イコール自然》必然性に、例外を認めたわけではない。人間は、神と違って、必然の・永遠の存在ではない、あるときは存在し、あるときは存在しない、そういうことを言っているだけだ‥‥ということのようです。ある人間が、いつからいつまで存在するか――生存するかは、《神イコール自然》必然的秩序によって決定されているのだ、と。

 なんだそうだったか‥‥と重い腰を上げて、先へ進んでもよいのですが... かんたんにはあきらめきれないのが、シロウト読者のサガですw 折角見つけた“ほころび”を、ちょっとほじくってみたい‥ということで、今日のおしまいに、しばし素人の哲学談義を。。。



 もし、ジャレットの言うように、〔公理1〕の意味が、人間は“必然的存在”ではない、というだけのことだとしたら、それは、〔公理〕にするまでもなく、〔第1部〕の諸定理から容易に導出できるのではないか? ―――「実体」つまり《神すなわち自然》が、いついかなるときにも存在する“必然的存在”であるのに対し、人間は、自然の秩序(《神すなわち自然》必然性)にしたがって、あるときは存在し、あるときは存在しない、というだけならば。

 たとえば、〔定理13〕(神から産出されたものの本質には存在がふくまれない)から、「神から産出された様態」である「人間」の本質には、「必然的な存在」がふくまれない、と言えないだろうか?

 にもかかわらず、〔公理1〕はどうして、〔公理〕として立てられているのか? しかも、「人間」を扱う〔第2部〕の第1〔公理〕として? ‥‥むしろ、〔第1部〕でカッチリと組み上げられた「必然性」の宇宙に、「人間」という、ちょっとツムジ曲がりで反抗的なやつをぶちこんで、新たな趣向を加えようと言うのではないのか?‥

 そこで、こんどは逆に、スピノザは「偶然性」ということを、どう考えていたのか、調べてみます。スピノザは、いっさいすべては「必然」で、「偶然性」などありえないと考えていたのか?: 



「〔定理29〕自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。
   〔証明〕存在するものは神のうちにある〔定理15による〕。しかし神を偶然的なものと呼ぶことはできない。なぜなら、〔定理11より〕神は必然的に存在し、偶然的には存在しないからである。
       次に、神の本性の様態もまた神の本性から必然的に生じ、偶然的に生じてくるのではない〔定理16による〕。
〔…〕
       さらに神は、これらの様態が単純に存在するかぎりにおいても〔定理24・系による〕、それらの様態の原因であるばかりでなく、それらがあることをなすように決定されていると見られるかぎりにおいても〔定理26による〕、それらの様態の原因となっている。もしそれらが神によって決定されなかったならば、それらは自分自身を決定することが不可能であるし、また偶然そうなるということもない〔同定理による〕。
〔…〕
       それゆえ、いっさいは神の本性の必然性から存在するように決定されるばかりでなく、一定の仕方で存在や作用へと決定されているのであって、偶然的なものは何一つ存在しないのである。かくてこの定理は証明された。〔第1部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.54-55.



「〔定理33〕ものは現に産出されているのとは異なった仕方で、また異なった秩序によって神から産出されることができなかった。
  〔註解1〕以上によって私は、ものには偶然といわれるものが絶対に存在しないことをきわめて明瞭に示したから、いま少し偶然をいかに理解すべきかをここに説明しておきたい。
〔…〕
       ものはわれわれの認識の欠陥以外にはいかなる理由によっても偶然といわれない。なぜなら、
〔…〕原因の秩序がわれわれにわかっていないため、その存在について何一つ確実なことを主張できないようなものは、われわれにとって必然とも不可能〔不可能=必然的に不存在――ギトン注〕とも思われない。したがってわれわれは、そのようなものを偶然とか、可能とか呼ぶのである。〔第1部〕」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.60-61.



「〔定理31〕われわれは、われわれの外部にある個物の持続について、きわめて非十全な認識しかもちえない。
    〔系〕この帰結として、すべての個物は、偶然的で可滅的であるということになる。なぜならわれわれは、個物の持続について十全な認識を何一つもつことができず〔前定理より〕、そしてこのようなことこそ、ものの偶然性とか消滅の可能性として理解しなければならないからである〔第1部・定理33・註解1を見られたい〕。というのは、〔第1部・定理29より〕これ以外には偶然的なものは何一つ存在しないからである。〔第2部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.134-135.



 つまり、《神イコール自然》の眼で見れば、この宇宙のすべては、その片隅にある人間社会までふくめて、何もかも必然で動いており、「偶然的なものは何一つ存在しない」。「ものには偶然といわれるものが絶対に存在しない」―――スピノザは、そう言いきっています。

 しかし、人間にとっては、この世は「偶然」だらけ。どうしてそうなるのかというと、「原因の秩序がわれわれにわかっていないため」だという。

 たとえば、スピノザよりずっと後の話ですが、19世紀に発見された統計力学によると、物質の中の分子は、みな同じ速度で運動するわけではない。速い分子もあれば、遅い分子もある。速度の順に並べてグラフにしてみると、統計学の分布曲線を描いて並ぶ。

 そこで、分子の運動については、ひとつひとつの分子の動きをつかまえることはできないが、物質を構成するたくさんの分子の統計量の動きとしてとらえれば、法則どおりになっていることがわかる。

 その場合、個々の分子は、偶然のランダムな運動をしているように見える。しかし、それは、個々の分子の初期条件をわれわれが知りえないから、偶然の動きに見えるだけ。じっさいには、個々の分子は、物体の運動の法則にカッチリ従って運動しているのだ―――と説明されるわけです。

 スピノザが述べている「偶然性」の説明は、これと同じようなことを言っているのだと思います。













 しかし、そういうことになると‥、やはり《神=自然》の眼で見れば、すべては必然――ということになりそうです。分子運動でさえ必然的なんだから、それがもっと複雑になった生物の生化学反応だって、さらに数段複雑な人間の大脳生理学反応だって、どこまで行っても、《神すなわち自然》の「必然性」が支配しているのか。。。

 “ラプラスの悪魔”から逃れるすべはないことになります‥

 しかし、‥まだ、あきらめない←

 すこし飛ばして〔第3部〕をめくっていたら、↓ちょっと面白いことが書いてありました。〔定理2〕自体は、“物体界”“精神界”は、たがいに原因・結果の関係になることはない、という、これまで何度も繰り返してきた話ですが、その〔註解〕に、気になることが書いてあります:



「〔定理2〕身体には、精神の思惟活動を決定する能力はないし、また精神にも身体の運動や静止、あるいは他のものを〔もしそのようなものがあるとしても〕決定する能力はない。
  〔註解〕
〔…〕
      ところが、
〔…〕彼らは、身体がときに運動し、ときに静止するのは、ただ精神の命令によってのみであり、身体の行動の大部分はたんに精神の意志や思考のたくみさによってきまると、頑強に思いこんでいるのである。
      じっさい、身体は何をなしうるのかを今日まで明確にした者はいなかった。
〔…〕身体のすべての機能を説明しつくすことができるほど、身体の構造の正確な知識をもちあわせる者がこれまでなかったのである。
      人間の知恵をはるかにしのぐ多くのことが、動物の中に観察されることや、また夢遊病者が、覚醒中はつとめて抑止しているようなことを睡眠中にしばしば行なっていることなど
〔…〕は、明らかに精神でさえ驚くような多くのことを身体自身が自己の本性の法則のみに従ってなしうるという事実を、あますところなく示している。
      ところで、精神は、どのような仕方で、またどのような経路で身体を動かすか、またどの程度の運動を身体に与えうるか、またどのような速度でそれを動かすことができるか、このようなことについてだれも知るものはない。〔第3部〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.179,181-182.



 〔註解〕は、「精神」「身体」に命令して操縦しているというデカルト主義者にたいする批判を書いています。デカルト主義者は、人間や高等動物の行動が巧みなのは、もっぱら「精神の意志や思考のたくみさ」のおかげだと主張します。「精神」は支配する者、「身体」「精神」に命じられて働く奴隷のようなものだと考えるから、「精神」を褒めたたえ、「身体」を貶すのです。

 しかし、スピノザはむしろ、「身体」の働きに注目します。ほとんど「精神」と言えるほどのものをもたない人間以外の動物が、「人間の知恵をはるかにしのぐ多くのこと」をしてみせるのは、なぜか? また、「精神」が停止状態にある夢遊病者が、本人の「精神」が知ったら驚くような行動をする事実に注意を向けます。



「精神でさえ驚くような多くのことを身体自身が自己の本性の法則のみに従ってなしうるという事実」



 「自己の本性の法則」とは、ここでは、“本能”に近い概念でしょうか? この箇所のスピノザは、“本能”や“衝動”といった身体的な情動に対して、ことさら注意を払っているように思われます。“本能”によって動かされることを、外部的な原因への“隷属”として否定するのではなく、むしろ、「身体」自身の「本性の法則」に従った有意味な行為として取り上げています。夢遊病者のほうはともかく、動物の本能行動については、「人間の知恵をはるかにしのぐ多くの」優れた行動が見られるとしているのです。

 さらに、そのあとの文では、「精神」「身体」の因果関係を認めているかのような表現が見られます:



精神は、どのような仕方で、またどのような経路で身体を動かすか、またどの程度の運動を身体に与えうるか、またどのような速度でそれを動かすことができるか、」



 つまり、「精神」「身体」を「動かす」こと、「身体」に「運動を与える」ことは、認めているのではないか??

 もっとも、これはデカルト主義者に対する批判ですから、スピノザ自身はあくまでも、「精神」「身体」を「動かす」ことなどありえない―――“精神界”のものは“物体界”のものの原因とはなりえない―――と考えているのかもしれません。論敵たち(デカルト主義者)に対して、あなたがたは、「精神」「身体」を動かしていると主張しているけれども、ただそう言うだけで、法則的・量的な関係が、まったく不明ではないか。どのように、またいかなる量的関係で運動を与えうるのか、物体の運動法則 F=mα のような式を示して説明できなければ、真理ではない、‥と批判しているだけかもしれません。

 そうすると、やはり、人間に関しても、「身体」「精神」の両面において、《神イコール自然》から流れ出る無限の“必然的”な因果連関が、かっちりと貫いているのでしょうか‥

 しかし、「身体自身が自己の本性の法則のみに従ってなしうる」行動の数々に注意を喚起していた・さきほどの部分にふたたび注目すると、これは〔第1部〕の《自由》の定義を想起させます。ジャレットの言う「自己決定権としての《自由》」です。

 前々回見たように、《自由》とは、「必然」にしたがうことでした。外部の事情に突き動かされて、衝動のままに行動する場合は、「必然」というよりも、「強制」と呼ばれるべきなのでした。






 






 そうすると、“「必然」に従うことが《自由》だ”と言うときの「必然」とは、―――他の事物との因果連関ではなく―――その事物の「本性」としての必然性のことで、それに従うことが、《自由》なのだろうか?

 事物自身の「本性」としての必然性とは、何か? 《神イコール自然》の秩序としての必然性とは、別のものなのか?



「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されるものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるものである。〔第1部、定義7〕」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.4-5.



 ↑この意味で完全に《自由》なのは《神=自然》だけですが、自己の“本能”にしたがう動物や昆虫、自己の「本性の必然性」―――それが具体的に何なのかは、まだ述べられていませんが―――にしたがう人間にも、完全ではないが《自由》が認められる。―――そう考えてよいのではないか?



「この定義
〔第1部・定義7―――ギトン注〕を読み解くポイントは2つあります。

 一つ目は、必然性に従うことが自由だと言っていることです。
〔…〕

 ここで言われている必然性を、その人に与えられた身体や精神の条件であると考えれば、スピノザの言わんとするところが見えてきます。
〔…〕腕は可動範囲を持ち、その内部には一定の構造がある。これらの条件によって、腕の動きは必然的な法則を課されています。それを飛び越えることはできません。むしろ、腕を自由に動かしていると言えるのは、その必然的な法則にうまく従い、それを生かすことができている時です。

 ここでもまた実験の考え方が大切になります。というのも、その人の身体や精神の必然性は本人にもあらかじめ分かっているわけではないからです。誰もがそれをすこしずつ、実験しながら学んでいく必要があります(第2部定理24)。ですから、人は生まれながらにして自由であるわけではありません。人は自由になる、あるいは自らを自由にするのです。

 
〔…〕2つ目のポイントは、自由の反対の概念が『強制』であることです。〔…〕

 強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態といえます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。」

国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,pp.68-69,71.



 国分さんの解説本、わかりやすいし、薄くてラクだし、たいへんよいのだけれど、ひとつ気になる表現がある。それは、「従う」というコトバだ。

 「必然性に従う」―――スピノザは、「従う」なんて言ってただろうか? 〔第1部・定義7〕、原文を参照してみる: ex sola suae naturae necessitate existit et a se sola ad agendum determinatur 「従う」なんて言ってないぞ!

 「自分の本性の・まったき必然から(ex)存在し、まったき自分から(a)、行為に向って決定される」

 「従う」というと、外部から制限してくる「必然」に屈従するニュアンスがある。でも、スピノザは、「から」と言っている。"ex" は out of で、感情的な原因。“心の中から”ということ。"a" は from で、もっと一般的な原因。いずれにしろ、「必然性」は、外からの制約じゃなくて、そのものの(人なら人の)内部から溢れ出てくる感じだ。

 国分さんも、腕の例を出したりして、自己内部の「必然性」として説明しているのだが、「従う」は誤解を招く。

 行為に向って決定する「本性の必然性」は、"ex" を "a" に変えているから、“こころ”ではなく、身体的な「自分」だろう。それは、具体的に何だろうか? 情念や、多分に身体的な衝動、人によって違うその性向のようなものか? 自分がほんとうは何を望んでいるのか、人はなかなか知りえないものだ。

 ……というわけで、次回は、感情論に入って行きます。。。

 










【必読書150】スピノザ『エティカ』(5) ―――につづく。   










ばいみ〜 ミ




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