02/03の日記

00:59
【必読書150】スピノザ『エティカ』(1)―――思想とは自由の別名であり、自らの生存を危険にさらすことである

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アムステルダムのポルトガル・ユダヤ教会(シナゴーグ),祭壇。 
ユダヤ人だったスピノザの両親は、迫害を避けてポルトガルから  
オランダに移住し、アムステルダムでスピノザを生み落とした。  










 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】、今回は、17世紀オランダの哲学者スピノザの代表的著作『エティカ』に挑戦します。



 まず、日本語訳テクストとして、


   スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中央公論新社.


 を選びました。岩波文庫でなく、中公クラシックス(『世界の名著』収録版の再版)にしたのは、字が大きくて読みやすいという単純な理由です。

 しかし、学校で哲学を習ったこともない身で、デカルト、カントと並ぶ近代哲学の大御所にいきなり挑戦しても、敗退するだけですからw、参考書として、↓次を座右に置いて読み進めることにしました:


   国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,2018,NHK出版,NHKテキスト「100分de名著」.






「『エチカ』という本は
〔…〕書き方がちょっと変わっています。〔…〕まるで数学の本のように、最初に用語の『定義』が示され、次に論述のルールを定める『公理』が来て、それからいくつもの『定理』とその『証明』がひたすら続き、そこに『備考』という補足説明がついて……という形式が繰り返されるのです。〔…〕

 そこでまずはじめにお伝えしておきたいのは、別に冒頭から読み始めなくてもいいということです。ぱらぱらと本をめくったり、巻末の索引を見たりしながら、気になる定理から読んでみればいいのです。定理という断章が連なるこの本はむしろそのような読み方に向いています。なぜなら、どこから読み始めてもある程度理解できるからです。もっと知りたいと思ったら、そこから遡ったり、あるいは読む進めたりすればいい。
〔…〕

 私が提案したい読み方は、
〔岩波文庫の――ギトン注〕下巻から読むことです。第4部の序文が、ちょうど『エチカ』全体の序文として読むこともできる内容になっているからです。〔…〕

 彼が実際に『研究』を進めた順序と、『エチカ』の『叙述』の順序
〔第1部第1章→第2章→第3章‥‥という順序―――ギトン注〕は同じではないのです。」
国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,pp.25,28-29.



 このアドバイスに従って、第4部の「序文」から読んでみることにします。‥‥おお、意外に解りやすいではないか !! しかも、その内容の強烈さに、圧倒されるほかはない。。。






 【1】「第4部 序文」――《隷従》とは何か? 権力は、なぜ人びとを支配することができるのか?



 「序文」の最初から見ていくことにしましょう。

 スピノザが最初に書いているのは、《隷従》とは何か? ということです。「善・悪」について考えるにあたって、スピノザは《隷従》の定義から出発しているのです。これは、たいへん特徴的な思考だと思います。つねに権力(以下で述べるように、広い意味での)との緊張関係の中で思考するという、スピノザの根本姿勢が、ここに表れています。



「私は、感情を導いたり、また感情を抑えたりすることについての人間の無力を隷従と呼ぶ。というのは、感情に支配される人間は、自分自身を支配する力をもちあわせず、むしろ運命の力に自分をゆだねてしまっているからである。そのため自分にとってより価値あるものを見ながら、外からの強制によって、より劣るものに追従してゆくことがしばしばある。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.294.



 《隷従》というと、私たちはふつう、権力や、他の人間に対して従属することだと考えます。しかし、スピノザは、ここで、もっと広い立場から見ているのだと思います。広い、ということは、そういう普通の意味での社会的な支配従属も含んでいるということです。

 社会的な従属関係の場合にも、《隷従》は、王様や独裁者が自分で出て来て、殴りつけて従わせるわけではありません。権力には、権力を執行する刑吏や兵士や官僚が必ずいます。権力の従わせ方が暴力による場合でも、じっさいに暴力をふるうのは、刑吏や兵士です。彼ら自身が、権力に《隷従》する者なのです。権力に《隷従》する者の思い込みや感情なくして、権力というものはありえません。

 あるいは、たとえそういう暴力が加えられなくとも、加えられることを予期する人びとは、自分から進んで権力に《隷従》する場合もあるでしょう。じっさいには、剥き出しの暴力が人びとを従わせるよりも、人びとはその思い込みや感情によって、すすんで権力に《隷従》する場合のほうが多いはずです。

 つまり、《隷従》とは、何か物理的な力が人びとに加えられることではなく、人びとが自分の感情や思い込みにとらわれることなのです。







ヘリット・ベルクヘイデ「ハーグの
ビネンホフ(オランダ議会・首相府)の眺め」






 しかし、スピノザの↑この定義が、もっとも如実に――本質そのままの外形で――現れるのは、権力に《隷従》する群衆によって、暴力がふるわれ、権力に逆らう人を抑えつけ、《隷従》させる場合でしょう。

 スピノザはユダヤ人であり、幼少の時からヘブライ語と『旧約聖書』を熱心に学んでいましたが、24歳の時に、ユダヤ教会から、「悪しき行ないと意見」のために破門されます。



「破門の理由とされる『悪しき行いと意見』の具体的内容ははっきりしません。しかし、スピノザのようなきわめて知的で批判的な精神を持った若者が、伝統に寄りかかるだけの保守的な教会のあり方に疑問を持ち、それに対して服従の態度を示すのを拒否するというのは容易に想像できます。教会側としては生意気な若者にちょっとお灸を据えてやろうという程度の軽い『破門』だったようです。ところがスピノザは改悛の勧めを受け入れるどころか、自説を擁護する弁明書をスペイン語で書いて教会に送りつけたといいます。
〔…〕それにより彼は故郷のユダヤ人社会と決定的に袂を分かつことになります。」
国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,p.10.



 しかも、破門の直後、スピノザは、街頭で暴漢に襲われ、ナイフで切りつけられて怪我をしています。暴漢は、狂信的なユダヤ教信者でした。



「真理を追究しようとする立場は、必ずしも世間の人々を喜ばせない。それどころかきわめて強い反発すら生み出す。この事件はその証拠であり、『我が民族』が私にくれた最後の教えである。そのことを私は忘れてはならない。」

国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,pp.11-12.



 けがの手当てをしてくれた医師に、スピノザは、そう言って、ナイフで切られた外套を、修理しないでそのまま着ていたということです。

 事件以来、スピノザは田舎に移って、姿を隠すようにして暮らしました。14年後の 1670年に『神学・政治論』を匿名で出版しますが、その内容は、思想・言論の自由を主張して『聖書』を科学的に研究し、また、当時は危険な進歩思想とされた社会契約説を論じるものでした。そのような著書を出版すれば身が危うくなるので、匿名で、しかも出版地も偽って公けにしたのですが、彼が著者であることはすぐにばれてしまい、4年後に禁書とされます:



「スピノザは危険な要注意人物とされ、世間では『スピノザ主義』という文句が人を侮辱する言葉になっていきます。

 このような現象はいまと変わりありません。週刊誌で誰かが叩かれたら、猫も杓子も他人の尻馬に乗って叩き始める。インターネットで誰かが『炎上』すると、我も我もと批判を始める。スピノザもまた、彼の思想に触れたこともなければ、彼の著書を読んだこともない人々によって批判されたのです。」

国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,pp.18-19.



 現代フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、スピノザが『神学・政治論』を書いた問題意識について、



「なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を『もとめて』闘うのだろう。なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどこれほどむずかしいのだろう。」

国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,p.18.



 ということだったと述べています。



「また 1672年には、スピノザが住んでいたハーグで、彼も共感を寄せていた共和派の指導者が、煽動された群衆によって広場で虐殺されるという凄惨な事件もありました。」

国分功一郎『スピノザ「エチカ」』,p.19.



 「共和派の指導者」とは、事実上政権の最高権力者であったホラント州法律顧問ヤン・デ・ウィット。当時オランダの内政は、オラニエ公を中心とする貴族派と、ヤン・デ・ウィットを中心とする共和派が争っていた。第1次英蘭戦争の結果、共和派は、イギリスとの間で、オラニエ公をオランダ総督の地位に就かせないという条項を含む和約(ウェストミンスター条約)を結んで、国政を掌握した。ところが、1672年に第3次英蘭戦争が起きると、イギリスは、フランス王ルイ14世と密約を結んで両国同時にオランダに攻め入り、デ・ウィット共和派政権のオランダは、存亡の危機に立たされた。

 同年8月の民衆クーデターでデ・ウィット政権は倒れ、オラニエ公が政権を掌握して戦線の立て直しに奮闘した。ヤン・デ・ウィットは、辞任後も、在職中の公金横領疑惑などが噴出して指弾の的になった。さらに、対フランス前線で祖国を救うべく奮闘しているオラニエ公に対して、デ・ウィットらが暗殺の陰謀を企んでいるとの風説が広がり、民衆は激昂した。

 デ・ウィットを取り囲んで、殴る蹴るの暴行を加えて惨殺した群衆は、自分たちが正義を行なっていると思っていたでしょう。デ・ウィットは、殺されてもしかたないほど「悪」く、自分たちの憤りは、棒力という手段に訴えても許されるほど「善い」ものだと思いこんでいたにちがいありません。しかし、“暗殺”陰謀に関するかぎり、群衆の憤激は、まったくの誤解に基いたものでした。民衆は、ウィットを良く思わない勢力が言いふらした非難を、事実と思いこみ、ウィットは、敵と組んでオランダ軍の壊滅を狙っていると信じたのです。

 こうした、衝動的な「善・悪」の判断は、理性ではなく感情にかられたものです。ふだんは神を信じて平和に暮らしている人々が、一国の運命を左右するような重大な「善・悪」の判断になると、どうして、このように感情にとらわれてしまうのか? なぜ、落ち着いて指導者の弁明を聞いて、判断することができないのか? ‥‥そもそも、「善い」とか「悪い」とは、どういうことなのか? 何が「善」で、何が「悪」か、絶対的でまちがえのない基準は、あるのだろうか?






 






 「序文」の最後のところで、スピノザは、「善」「悪」も人間の思いこみであって、絶対的な「善・悪」の基準など存在しない。ある人にとって「善い」音楽は、それを聞いている別の人にとっては、耳ざわりな「悪い」雑音でしかない。“神すなわち自然”そのものには、「善」「悪」も含まれてはいないのだ、ということを述べています(p.298)。



「スピノザは、
〔…〕第4部で〔…〕まず、伝統的なの概念の絶対性を否定し、本来にたいして相対的な概念であるとする。もそれ自体では、人間がそれに従ったりさけたりしなければならないような絶対性をもたない。人間が個人や集団のために考えだしたもの」にすぎない。「したがって人間が有限で相対的な存在にとどまるかぎり、も相対的なものにとどまると考えられる。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.300[訳者註].



 しかし、だからといって、善・悪は無意味だ、どうでもよい、などとは言えない。

 さきほど見たように、スピノザは、この「序文」の最初で、



「感情を導いたり、また感情を抑えたりすることについての人間の無力を隷従と呼ぶ。」



 と言い、「感情に支配される人間は、自分自身を支配する力をもちあわせず、」自分にとって価値あるものがあってもそちらへ向わず、「外からの強制によって、より劣るものに追従して」しまうことになる、と述べていました。そして、



「私はこの部で、このような事態の原因は何か、さらに感情には、どのような善い点、どのような悪い点があるかを証明しようと意図した。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.294.



 と述べています。感情には、「善い点」と「悪い点」があって、「善い点」を増大させることができれば、「自分にとってより価値あるもの」に近づいて行くことができ、「悪い点」が増大すれば、それは妨げられてしまうのです(p.298)。

 たしかに、「善い」「悪い」は、人間が評価する主観的なもの――《自然》に、そういう性質が備わっているわけではない――であって、誰が評価するかによって、その判断は異なってくる。

 しかし、われわれは、そうした相対性を認めたうえで、何が「善い」感情で、何が「悪い」感情なのかを分析してゆくことができ、それによって、われわれ自らの望む「価値あるもの」に、どうしたら近づいて行けるのか―――“倫理”の方法を知ることができる、というわけなのです。



〔…〕も相対的なものにとどまると考えられる。しかしスピノザは、それが相対的であるがゆえにすてさるのではなく、そのかぎりであらためてこのの概念を彼自身のエティカ〔倫理学―――ギトン注〕のために用いる。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.300[訳者註].






 【2】「第4部 序文」――何が「完全」で、何が「不完全」か。それも人間の思いこみではないのか?



 スピノザは、「善」「悪」について考察する前に、その前提問題として、「完全」と「不完全」について考えます。ここでも彼は、数学の証明問題を解くように、まず比較的扱いやすい命題を解いておいてから、その結果を利用して本題の証明に向う‥という方法を取ります。

 「善」「悪」か、ということになると、非常に問題が大きくて扱いにくい。主観的になりやすく、感情をまじえた議論になってしまいがちです。しかし、「完全」か「不完全」か、ということならば、もう少し客観的な、理性的な判断ができそうな気がします。

 また、より緻密に検討するために、「完全」「不完全」が問題になる場合をいくつかに分けて、順に考察していきます。

 まず、「完成されている」という意味で、「完全」という言葉が使われる場合です。

 たとえば、私たちが近所を散歩している時に、建築中の建物を見かけたような場合、私たちは、それがどのような状態であれば「不完全」だと考え、どのようであれば「完全」だと思うのでしょうか?



「何ものかを作りあげようと決心し、それを完成した人は、そのものが完成されたというであろう。
〔…〕もしだれかが、ある作品〔まだ完成されていないものと仮定する〕を見て、その作品の製作者の意図が、ある家を建築することにあることを知るなら、彼はその家が未完成であるというであろう。ところが反対に、その作品に製作者が与えようと意図したことが、作品に実現されたのを見るやいなや、彼はそれを完成されたと見るであろう。

 
〔…〕こういうことが、この完全・不完全ということばの最初の意味であったと思われる。」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.294-295.


 つまり、この場合、「完全」「不完全」を分ける分かれ目は、「その作品の製作者の意図」が何であるか―――見る人の認識するかぎりでの「製作者の意図」によることになります。私たちがその建て前について、漠然としたことしか知らない場合には、いちおう躯体と外装ができあがっていれば、「完成している」と思うでしょう。しかし、建て主の建築計画をよく知っている人の場合には、囲いの柵や植え込み、玄関の装飾や1階の商店の細部まで備わっていなければ、「完成した」とは認めないかもしれません。

 そうすると、見る人の認識が極端な場合、‥たとえば、竪穴住居で生活している縄文人が、いきなり現代に現れたような場合には、どうなるでしょうか? 彼は、目の前にある物が、人間が中に入って生活するものだとは思わないかもしれません。むしろ、人間を取って食べる巨大な怪物だと思うかもしれないでしょう:



「しかし、今度は、もしある人がこれまでそれに類似したものを見たこともなく、その製作者の意図も知らないようなある作品を見たとすれば、もちろん彼にはその作品が完成されているのか、未完成なのかを見わけることができないであろう。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.295.













 さて、「完全」「不完全」の第2の場合は、人間の「一般的な観念」との関係で、これらの言葉が使われる場合です。

 スピノザは、ここで、言葉の具象的な意味からはじめて、より抽象的・一般的な意味へ、という順序で考察を進めています。



「しかし、人間が一般的な観念を形成し、同時に家や建築物や塔などの典型を考案し、しかもあるものの典型を他のものの典型よりもすぐれたものとして選びはじめるようになってからは、そのような同種のものについて形成した一般的な観念と一致するように見えるものを完全と呼ぶようになった。

 これに反して、たとえそれが製作者の意図を十分に具体化しているように見えても、自分の心に描かれている典型とあまり一致しないものができあがったときは不完全と呼ぶ。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.295.



 「一般的な観念」とは、「家」とか「建築物」とか「塔」といった概念のことです。それぞれの概念について、人は「典型」のイメージをもっています。こういうものが“家らしい家”だ、“塔と言うにふさわしい塔”だ、といったような。

 この「典型」との距離を測って、人は、あるものが「家」として「完全」なものだ、とか、「塔」として「不完全」だとか言うのです。つまり、「完全」「不完全」というのも、あくまで人間がものに与えた判断です。人ごとに相違があるでしょう。「完全」だ、「不完全」だ、と言われる物が、それ自体として、「完全性」「不完全性」を備えているわけではない。スピノザは、このように考えます。

 そうである以上、有限で相対的な存在でしかない人間が与えた「完全」「不完全」の判断は、どんなにがんばっても、絶対的なものとはなりえない。
 
 ところで、「家」「建築物」「塔」は、人間が作った物であって、製作者の意図があります。しかし、「一般的な観念」として「完全」「不完全」を言う場合には、製作者の意図ではなく、見る人の「一般的な観念」にしたがって判断されます。

 だとすれば、この意味での「完全」「不完全」は、人間が作った物だけでなく、人間の手が加わっていない自然物についても、言うことができる―――ようにも見えます。じっさい、人びとは、そのように思いこんで、自然物についても、これは「完全」なもので、あれは「不完全」なものだ、などと呼んでいるのです。

 たとえば、当時の一般的――支配的――な観念では、アリストテレスにしたがって、天上を運行する太陽その他の天体――天動説!――は「完全」であり、大地は「不完全」な物であると考えられていました。

 しかし、スピノザによれば、「完全」「不完全」などというのは、人間が勝手に、そう見なして呼んでいるにすぎないのです。



「人びとが自然物が完全であるとか、あるいは不完全であるとかと、呼びなれているのは、自然物についての真の認識にもとづくというよりも、偏見によっている」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.296.



 なぜ、このような偏見が生ずるのか? スピノザによれば、それは、人びとが、自然を、人工の「建物」や「塔」と同じように、誰か製作者がいて、製作者が自分の意図にしたがって造ったものだと見なしているからだ。つまり、“天地創造の神”というような架空の人格があって、そういう人が自然を造ったと思いこんでいるから、完全無欠に造られた物もあれば、誤って不完全にしか造られなかった物もある―――そういう誤解が生ずるのだ、と。

 そして、この誤解こそが、――スピノザは具体的に言ってはいませんが――あらゆる差別と偏見の温床になっているのは明らかでしょう。白人は、神様が精魂込めて造ったから「完全」な人間だが、黄色人種や黒人は、片手間によそ見しながら造ったから「不完全」な人間だ。云々。



「人々は自然物についても、人為的なものについてと同じく、一般的な観念を形成することになれており、このような観念を彼らのあいだではものの典型と見なし、そして自然がこのような観念を〔彼らのあいだでは自然はなんらかの目的がなければ、何事もみずからはなしえないものと思われている〕考案し、彼らに典型として提示すると確信している。

 したがって、このようにして形成された典型にあまり一致しないものが自然の中に生ずると、彼らはそれを見て、自然自身の背理であるのか、あるいは自然自身が誤りを犯し、そのために自然はそのようなものを不完全なままに残したのだと信じこんでいる。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.295-296.



 あからさまに“神様が自然を造った”と言わなくとも、同じような観念は、現代に至るまで私たちのあいだに根をおろしています。生物の進化には“目的”がある、すぐれたものになりたいという“意志”ないし“目的”が、生物を進化させてきた、などなど。このような、《自然》に“目的因”を認める考え方――アリストテレスが典型――は、スピノザによれば、自然物を、人工物になぞらえて考えることから生じています。

 このような《自然》に対する誤解、偏見は、もっとも素朴で自然な発想から生じているだけに、ひじょうに根深いものです。このような誤解を払拭するためには、スピノザは、《自然》に対して、《神》に対して、大胆な発想の転換をしなければならないと考えました。その大転換をもたらすテーゼこそが、《自然》すなわち神、‥神とは《自然》そのもののことである、という彼の《汎神論》だったのです。





 
アムステルダム、旧・中央郵便局とニーウェゼイズ・フォールブルグワル通り 






 【3】「第4部 序文」――大転換:「神」とは《自然》そのもののことである。



「第1部の付録で、自然が目的のために活動しないことを、すでにわれわれは明らかにした。つまり、われわれが神あるいは自然(Deus seu Natura)と呼んでいる、あの永遠にして無限なる存在者は、それが存在するのと同じ必然性によって活動している。
〔…〕神はなんらかの目的のために存在するのでないと同じように、なんらかの目的のために活動しているのでもない。神には存在の原理や目的がないのと同じように、またいかなる活動の原理も目的もないのである。

 ところが、目的因といわれるこの原因は、人間の衝動があたかもものの原理、あるいは第一原因とみられているという条件のもとでは、人間の衝動そのものにほかならない。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.296.



 「神は、なんらかの目的のために存在するのではない」―――これは、あらゆるキリスト教徒‥‥いや、すべての宗教が認めざるを得ない命題でしょう。もし、「神」が何らかの目的のために―――人間を教化するためとか、おとなしくさせるため、etc.―――存在する、などと言ってしまったら、それは宗教そのものの自己否定になってしまいます。「神」とは、為政者や坊さんたちが、自分の言いたいことを都合よく権威づけるために、「神」を存在させているのだ、と言っているに等しいからですw

 しかし、スピノザにとっては、“自然すなわち神”です。「神」とは、《自然》そのものの別名にほかならない。すなわち、《自然》は、何らかの目的のために存在しているのではない。《自然》は、何らかの目的のために活動するのでもない。

 人は、人工物について、その作られた目的に照らして、「完全」なものか、「不完全」なものかを判断します。しかし、《自然》には“目的”がなく、“目的”をもった創造者が造ったり動かしたりしているのでもないとすれば、自然物について―――たとえば人種について―――「完全」とか「不完全」とか言うことはできない!

 そればかりではない。スピノザは、人工物についても、「完全」とか「不完全」という性質をもつことを否定します。ある人工物が、「完全」あるいは「不完全」なものであることは、ありえない。それは、たんに見る人が、その物に与えている観念にすぎない‥



「住むことが、このあるいはあの家の目的因であったというならば、その場合、われわれの理解することは、人が住居生活の快適さを想像したために家を建てるという衝動をもったということにほかならない。したがって居住することは、それが目的因であると考えられるかぎり、このような個別的な衝動以外の何ものでもない。じっさい、この衝動は動力因であって、これが第一原因と考えられるのは、人々が一般に自分たちの衝動の原因を知らないのである。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.296-297.



 人は、家は住むために建てるのだと言う。住むためのものだと言う。しかし、屋根のある場所に住んで快適に生活したい、というのは、人間の衝動にすぎない。家は、“人間が住むためのもの”という性質をもつから建つのではない。家は、それが建てられるたびに、誰か人間が、快適に暮らしたいという衝動をもつから建てられるのだ。そして、人間の衝動にはすべて、生理的、物理的、等々の原因(動力因)がある。人は、“住みたい”という衝動を意識しているだけで、その衝動がどうして生じて来たのかを知らないし、衝動の原因に注意を払うことさえしない。しかし、家が建てられるのは、人間が衝動を感ずるからであり、衝動は原因があるから生ずる。

 偉い学者や坊さんや政治家が、人間社会には目的がある、われわれは目的に向って努力している、などと言うのは、みんなウソである。ほんとうは、人間たちの活動を生じさせているのは、彼らの衝動である。人間たちは、原因(動力因)に突き動かされて活動しているにすぎない。

 そう言って、スピノザは、人類に対して冷厳な判決を下すのです。



「したがって、完全性と不完全性は、じっさい、思惟の様態にすぎない。すなわち、われわれが同じ種あるいは類の個体を、たがいに比較することによってつくりだすことになれている概念である。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.297.



 「完全」「不完全」は、ものの性質ではなく、ものを見る人間が頭の中で考える「思惟の様態」にすぎない―――ということを、スピノザはここでもう一度強調します。そうした「完全」「不完全」という思惟は、「同じ種あるいは類の個体を、たがいに比較することによって」作りだされます。「完全」な人種、「不完全」な人種、等々の概念は、人びとが自分の欲望や都合を基準にして“比較する”という、人間の営みから発した偏見にほかならないのです。



に関しても、それらは、ものがそれ自体で考察されるかぎり、その中になんら積極的なものを示さない思惟の様態、すなわちものをたがいに比較することから形成される概念にほかならない。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,p.298.







アムステルダム、運河






 【4】「第1部 付録」―――自然物の活動には目的があるという偏見について



 人間は、いつも自分は、何か目的があって行動しているのだと思っています(それは、まったく誤った思いこみであることを、スピノザは、繰り返し述べていましたが)。政府や国家のような人間の集団も、何か目的があって、戦争をしたり命令や取り締まりをしているのだと主張します。全体としての人類も、ある目的に向かって進歩・発展しているのだと、ある人びとは信じています。

 そのために、人間は、自分と同様に、自然物もまた、目的があって存在している、活動しているのだと考えがちです。動植物は、人間に食料を与えるために、森林は、人間に休息を与えるために、海洋は、輸送の船を浮べたり、環境を浄化したり、海水浴の機会を与えるために存在するのだと、無意識に考えてしまいがちなのです。

 しかし、スピノザは、ここで、そのような人間の思いこみが、とんでもない偏見だということを明らかにし、また、どうしてそのような偏見が生ずるのかを考察しています。スピノザによれば、この偏見こそは、もっとも根本的なものであって、人びとのさまざまな偏見と誤解は、これがもとになって派生しているのです。




「さて、ここで私が語ろうとするすべての偏見は、次の一事にもとづいている。すなわち、人々は一般に、すべての自然物が、自分たちと同じように目的のためにはたらいていると思っているばかりか、神自身がいっさいをある一定の目的に導いているのはまちがえのないことだと主張していることである。なぜなら彼らは、神がいっさいを人間のために創造し、また神を崇拝させるように人間を創造したといっているからである。
〔…〕

 ここでは次のことを基礎にして議論を進めるならば十分であろう。すなわち、すべての人が認めなければならないこと、いいかえれば、すべての人は、ものの原因に関して生まれつき無知であること、また自分の利益をもとめようとする衝動をもち、しかもそれを意識しているということである。なぜなら、これらのことから次のことが帰結されてくるからである。

 まず第一に、人間は自分を自由であると思っているということである。というのは、彼らは自分の意欲と衝動とを意識しているが、自分を衝動や意欲に駆りたてる原因については知らないから、夢にもその原因については考えつかないのである。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.69-70.

 青字は、原文のイタリック体(訳書の傍点付き文字)。以下同じ。



 人は、自分の“自由”を妨げているのは、因習や、悪い政治や、口うるさい学校や職場や家庭の人々、といったものだと思っている。それらがなくなれば、自分は自由になれるのだと思う。しかし、スピノザは、人間は自由ではないのだと言う。人間は、さまざまな意欲や衝動に駆り立てられて行動しているが、それらの意欲や衝動は、けっして本人が自由に抱いているものではなく、外部の原因によって生じているのだと言う。

 お金をたくさん稼いで自由になりたいと思う、船に乗って故郷の土地から脱出して自由になりたいと思う、悪い支配者を失脚させ、圧制を覆して自由になりたいと思う。しかし、そうしたときに、彼らはつねに衝動に動かされている。いずれの衝動も、人間の外部にある原因(動力因)によって生じている。広い海の向こうには、未開拓の豊かな土地や産物があるという当てにならない噂や、誰やらが自分の利益のために悪政を行なっているという煽動が、かれらを動かしている。ところが、彼らが意識するのは、自由になりたい、金が欲しい、広い世界を見たい、悪者を懲らしめたいという自分の衝動だけで、衝動をもたらした外部の原因については、彼らはいつも忘れている。



第二に、人間はいっさいをある目的のため、すなわち自分の欲する利益のために行なうということである。このことから、彼らは常に完成したものについての目的因だけを知ろうとつとめ、それを聞けば安心してしまうのである。
〔…〕

 さらに彼らは、自分の利益をもとめるために、すくなからず有用な手段を数多く自分の内外に発見する。すなわち、ものを見るための目、ものを噛むための歯、栄養のための植物と動物、ものを照らすための太陽、魚を養うための海などを発見する。〈そして他のすべてのものに関しても同じであって、彼らにはそれらの自然的原因を疑うべき理由は何もないのである。〉これらのことから、彼らはすべての自然物をいわば自分の利益のための手段と考えるようになったのである。

 そしてこれらの手段は、
〔…〕自分たちの調達したものでないことを知っているため、他のだれかがそれらの手段を自分達の使用に供するようにとりはからってくれたと信ずるようになった。なぜなら、彼らは一度でもものを手段と考えるようになると、そのものが自然にできたということを信じにくくなり、むしろ彼らがいつも自分のために手段を調達することから、人間的な自由に恵まれた一人あるいは幾人かの自然の支配者が存在し、これらの支配者が彼らのためにすべてを配慮し、そしてそれらを彼らが使用するように創造したと結論しなければならなかった。〔…〕

 そしてこのことから、彼らは人間が神々に義務を負い、また最高の尊敬をはらうように、神々はいっさいを人間の使用に供するために定めたのだと主張することとなった。この結果、各人は、神が自分をほかの誰よりも愛し、全自然を自分の盲目的な欲望と飽くことを知らない貪欲に向けてくれるように、神崇拝のさまざまな様式を、自分の性格からおしはかりながら考え出したのである。こうしてこの偏見は迷信におちいり、人間の心に深い根をおろしてしまった。」

スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.70-71.



 赤頭巾の少女は、お婆さんになりすましている狼から、「大きな耳は、おまえの声がよく聞こえるように大きいのだ。」「大きな眼は、おまえがよく見えるように大きいのだ。」と言われて、安心してしまう。なぜ安心するのかといえば、少女は、いつも「自分の欲する利益のために」行動しているからである。自分の利益のために生きているから、どんなものでも、それは“神様が、おまえの利益になるように創ってくれたから、そうなっているのだ”と説明されると、安心してしまうのである。

 逆に、「大きな口は、おまえを食べるため!」―――自分の不利益にもなることがわかると、とたんに恐怖にとらえられることになる。

 ここには大きな欺瞞が2つあります。食用になる動植物も、太陽も、海も、オオカミも、誰のために存在するわけでもない。それなのに、人間は、それらが自分の役に立つ以上、自分のために存在するのだと思いこんでしまう。これが第1の欺瞞。

 第2の欺瞞は、動植物を食べる人間に栄養を与えているのは、当の動植物であるのに、人は、動植物に感謝する代わりに、それらを与えてくれた「神さま」がいるのだと考え、「神さま」に感謝をささげることです。つまり、(汎神論ではない)正統キリスト教信仰では、利用する対象と、感謝し崇拝する対象が、別々になっているのです。利用する対象――自然物は、どこまで行っても“手段”でしかない、けっして、まっとうな相手(“他者”)として扱われないしくみになっているのです。

 このような信仰のあり方、自然観が、とめどない自然破壊や、命を命とも思わないような動物の扱い(ブロイラー・チキン, etc.)を生むのは、当然のなりゆきだと言えるでしょう。

 ちなみに、世界には、このような宗教ばかりがあるわけではありません。たとえば、仏教の“如来蔵(にょらいぞう)”思想によれば、自然物は、それ自体が“如来”(ほとけさま)です。人間が魚を取って食べると、魚は、自分の命を犠牲にして、人間の命を救ったことになります。この功徳(善い行ない)によって、魚は“如来”になります。すなわち、成仏(じょうぶつ)するのです。このような信仰ならば、魚や動植物を粗末に扱っていけないことは、よくわかります。自然物はみな、人間の命を生かしてくれる仏様なのですから、人間は自然物に対して、崇敬の心をもたなくてはなりません。






 






 ところで、上述の「第1の欺瞞」の効果として、自然物には(それぞれの物の本性として)「善い」物、「悪い」物、「美しい」物や「醜い」物があるという、人類の“不治の病い”ともいうべき根強い偏見が生じます。

 すなわち、人びとは、自然物の中に、より多く自分の役に立つものと、あまり役に立たないもの、自分にとって都合のよいものと、そうでないものがあるのを発見すると、それらを比較して、役に立つもの、都合のよいものは、より「完全」で、より「善」く、役に立たないもの、都合の悪いものは、「不完全」で、「悪」いものだと見なすようになるのです。



「人間は、生じてきたすべてのものが自分のために生じてきたのだと一度でも思いこむと、あらゆるものについて、自分にもっとも都合のよいものを重要なものと判断し、彼らがもっともここちよく刺激をうけたすべてのものをもっとも価値があると評価しなければならなかった。このことから彼らはものの本性を説明する手段として、善、悪、秩序、混乱、暖かさ、寒さ、美、醜などの概念をつくらなければならなかった。そして彼らが自分たちを自由であると思うことによって、賞讃非難罪業功労というような概念が生じてきたのである。
〔…〕

 彼らは健康と敬虔に役だついっさいのものを、その反対をと呼んだ。そしてものの本性についてただ想像するばかりで認識しない人
〔つまり、無知な人―――ギトン注〕は、〔…〕秩序〔秩序正しさ――ギトン注〕がものの中に内在していると確信している。

      
〔…〕

 次に、その他の概念
〔暖かさ、寒さ、美、醜など―――ギトン注〕についていえば、それらも〔…〕想像力の様式にほかならない。だが無知な人たちから見れば、それらはものの主要な属性と見なされている。

 なぜなら、いまわれわれが語ったように、彼らはあらゆるものが自分たちのためにつくられていると信じ、ものから影響をうける度合いに応じて、そのものの本性を善いあるいは悪い、健康あるいは腐敗、頽廃というからである。

 たとえば、目にうつる対象から神経がうけとる運動が健康に役だつならば、その運動をひきおこす対象は美しいといわれ、その反対の運動をひきおこすものは醜いといわれる。
〔…〕

 人間の身体は多くの点で一致するが、それよりももっと多くの点で不一致である
〔人による違いが大きい―――ギトン注〕。したがって、ある人間に善いと思えるものも他人には悪いと思えるし、またある人に秩序正しいと思えるものも他人には混乱したものに思え、ある人に快適なものが他人には不快なものになる」
スピノザ,工藤喜作・斎藤博・訳『エティカ』,2007,中公クラシックス,pp.76-78.






【必読書150】スピノザ『エティカ』(2) ―――につづく。   








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