11/28の日記

22:20
【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(2)―――“生れたまま”のはだかの魂

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岩手山 盛岡市・岩山より   











 こんばんは。(º.-)☆ノ





 【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(1)

 からの続きです。






 【4】“代用教員”時代の啄木―――教育を越えて



 1907年5月はじめ、啄木は、就職からわずか1年で渋民尋常小学校を退職し、北海道・函館に移ります。

 その直前に、学校で生徒たちの“ストライキ”を“指導”していることから、学校の体制に反抗して飛び出したようにも見えます。しかし、啄木は、“ストライキ”より以前に、函館の小学校に代用教員の職を確保したうえで辞表を提出しており、校長は退職を慰留していたところ、生徒の“ストライキ”が起きたために、辞表を受理せざるをえなくなったのが事実でした。

 啄木はなぜ、故郷の渋民小学校を退職したのでしょうか?

 ひとつには、就職の当初から、この職にとどまるのは1年程度と決めていたことによります。前回引用した就職前後の手紙には、つぎのようにあります:



「就職前、与謝野鉄幹氏に送った手紙
〔…〕

 『来る4月より当村小学校に教鞭をとる筈に相成居候。
〔…〕これは私自身より望んでの事に御座候。但し、自己流の教授法をやる事と、イヤになれば何時でもやめる事とは、郡視学も承知の上にて承諾せしのに候えへば、〔…〕

 
〔…〕つぎは就職後1ヵ月、友人小笠原氏への手紙〔…〕

 『
〔…〕我が在職は蓋し長からざらむ、しかも我は、その長からざる間に於て、十分に人格的基礎を有する善美なる感化を故山の子弟が胸奥に刻まむことを期す。これ詩人たる予の本能的要求なり、これ実に何らの報酬をも予期せざる我が心霊の希望なり、〔…〕

  予は就職以来日猶浅し。しかも誰かまた予の如く生徒の心服を買ひうるものぞ、予が就職以前の杞憂は、放浪に慣れたる予が、果して中途にして倦怠に陥らざるをうるや否やの問題なりき、而して現在の心配は、予は果して予定の1ヶ年位にてこの神聖なる教壇を退きうるや否やの問題なり、兄よ、詩人のみよくひとり真の教育者たりうるには非ざるか。』」

上田庄三郎「青年教師としての啄木」,in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.214-215.



 すなわち、じっさいに“代用教員”となってからは、啄木の意欲をみたして余りあるほどの子供たちと村民の支持を受け、啄木は、対応に忙殺されました。このまま渋民小学校で続けても、おかしくはなかったはずです。にもかかわらず、“予定”どおりに退職した理由は、頑迷な人びとによる妨害――それは就職前から一貫してありました――といった環境条件よりも、彼自身の内的な欲求に求めなければならないと思います。

 渋民での教育実践に手応えを感じれば感じるほど、啄木は、彼自身のより大きな“課題”に向かって行きたい意欲をもてあましたのではないでしょうか? そのために、“新天地”を求めて北海道への移住を試みたのではなかったか?‥

 そのへんの啄木の“内的”事情をさぐるために、ここでふたたび、渋民“代用教員”時代の中途で書かれた『林中書』から、彼のことばを拾ってみたいと思います:



「戦争に勝った国の文明が、負けた国の文明よりも優っているかどうか?
〔…〕近代文明の特色は、(いにし)えの希臘(ギリシア)と同じく人種の抑圧を否定して個人の自由を尚(たつと)ぶ点に存する。そして、露西亜〔ロシア〕は実に君主独裁国なんだ。露人の最大多数はその一切の自由を、政治上並びに宗教上の主権者なるザーに奪われている。これに反してこの日本は立憲国である。日本人は露人に比して、実に幾倍と知れぬ多大の自由を与えられている。と云うと、どうやら日本が文明国で露西亜が野蛮国のようだが、それは表面の事。日本人は与えられた自由と権利とを、どれだけ尚んでいるか。いかにして保持しているか。時として彼等は、その天の賜(たまもの)を金力や官力の前にすこぶる安直に売って、得るところの若干金を早速酒に代え、女に代えるような事はないか。無智な民衆ならまだしもの事、何万という人間の権利と自由とを代表する堂々たる代議士までが、その高貴なる賚物(たまもの)を自己の利害や野心のために捨てて顧みざるようの事はないだろうか。

 諸君、露西亜は野蛮国であるかも知れぬ、しかしながら予は、かくの如き三百の代議士を荘麗なる議会場裡に立たせ得る日本人よりも弾丸雨飛の巷、革命の健児の陣頭に立って聖架をフ
(ささ)げたるただ一人のガポン僧正を有するロシア人の方が、却って天の寵児ではあるまいかと考える。〔…〕

 カンという露西亜の一地方の農民共は、飢饉救助のために政府で与えた若干宛
(ずつ)の金をもって、麺麭(パン)を買わず衣を需(もと)めず、皆挙(こぞ)って銃と弾丸とを購(あがな)ったと云うではないか、銃と弾丸とは、説明するまでもない、彼等の奪われたる自由を取戻すべき武器であるのだ。」
「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.17-18.







ロシア第1革命 嘆願書を朗読するガポン神父






 ここには、“自由”に関する啄木の思想がよく表れています。啄木によれば、“自由”の本質は、勝手気ままでも、禁欲自律でもなく、圧制に対する抵抗にあるのです。

 「ガポン僧正」は、当時のロシアの聖職者ですが、日露戦争中に勃発した《ロシア第1革命》の引き金になった人物です。日露戦争が日本優勢の状態で終結したのは、日本が強かったからではなく、ロシアの国内で《第1革命》が起り、戦争を継続できなくなったためでした。

 ガポン神父は、民衆とともにツァーリを崇拝しており、皇帝の力で圧制をなくしたいという民衆の希望を代弁していました。その運動が、結果的には革命の導火線となったのです。

 しかし、革命が進行してゆくと、指導権を握った社会民主主義者や共産主義者(ボリシェヴィキ)は、こうした民衆の思想を理解できず、ガポンを“皇帝のスパイ”と決めつけて糾弾しました。それがソ連でも公式見解となったために、ガポンの果たした歴史的功績は、かえりみられることがありませんでした。とくに日本では、左翼が公式主義を信奉し、ガポンのみならず“民衆に最も近い”指導者すべてを、まるで悪魔のように口汚く罵る風潮が、1世紀近くにもわたって蔓延したのでした。いや、いまでもそれは無くなっていない。



「ゲオルギー・アポロノヴィチ・ガポン(1870-1906)は、ロシア正教会の司祭。1905年第一次ロシア革命において指導的な役割を果たした。

 ガポン神父は、サンクトペテルブルクの労働者を集め、労働者組織を作り上げた。組織の目的は産業革命が始まりつつあったロシアの労働者の権利を保護し、モラルと信心を高めることにあった。

 日露戦争中の1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)、前日のゼネラル・ストライキに続き、ガポン神父の組織した労働者たちが、冬宮にいるニコライ2世への嘆願を目的に、ペテルブルクの大通りでデモを行なっていた。この列に、警備の軍隊が発砲し、数千人の犠牲者がでた(血の日曜日事件)。

 嘆願書の内容は、憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、日露戦争の中止、各種の自由権の確立などで、搾取・貧困・戦争にあえいでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。

 ロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、素朴な皇帝崇拝の観念をもっていた。民衆は、皇帝ニコライ2世に直訴すれば、すべては改善されると堅く信じていた。行進参加者は6万人ほどに達した。

 当局は軍隊を動員して、デモ隊を中心街へ入れない方針であったが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲した。発砲による死者の数は、反政府側によれば 4,000人以上、慎重に概算した報告でも、死傷者1,000人以上とされる。

 この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、全国規模の反政府運動がこの年勃発した(第一次ロシア革命)。

 しかし、ガポンを皇帝のスパイと見なす人も多く、翌年、彼は社会革命党員に暗殺された。」

Wiki:ゲオルギー・ガポン Wiki:血の日曜日事件より抜粋、一部改。






「露国の農民は実に『自由の民』である。現在ではなお野蛮な奴隷的な境遇にあるにしても、この烈火の如き自由の意気は、やがて一切の文明を吞吐し淘溶すべき一大鎔鉱炉ではないか、人生の最大最強なる活力ではないか。噫、諸君、日本人が長夜の夢から醒めたばかりの十何年前は、自由という最高価の賚物を享
(う)くべく、未だその時期に達していなかったのではあるまいか。袴着の祝済したばかりの小児が家宝の鎧を着せられ三間長柄の鎗を持たされたようなものではなかったろうか。着ては見、持っては見たものの、その価の知らなければ用法も知らぬ、つまり一切の用意を欠いている。日本人は近代の文明を衣服にして纏うている、露人はこれを深く腹中に蔵している。〔…〕

 更にだ、学問の自由、信仰の自由、言論の自由、これらの高価なる自由は、露人の一も有せざるところにして、しかして日本人の悉く有するところである。にもかかわらず、レオ・トルストイ伯は何故日本に生れずして露西亜に生れたであろうか?

 予は云うた、日本三百の代議士よりも、一人のガポン僧正の方が豪いと。同じ意味において、日本人に与えられたる一切の自由よりも、一切の不自由の中にいて真の自由を絶呼した杜翁〔トルストイ――ギトン注〕の一老躯の方が貴いと云う事が出来る。又同じ意味において、予は華やかな明治一切の文物よりも、浮浪者上りの幾度となく監獄の門をくぐった、肺病患者のゴルキイの方が、真の文明のために、遥かに遥かに祝すべきであると考える……。」

「林中書」, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.18-19.






 
  ロシア第1革命 銃撃隊と向いあうデモの民衆
    (ヴラジミル・エゴロヴィチ画)






 “自由”(freedom, Freiheit, liberté)の概念は、多義的であり、また歴史的(時代ごとに意味内容が異なる)なものです。

 中世以前のヨーロッパで「自由」とは、奴隷でないこと、つまり他人に支配されないことを意味しました。その反面をいえば、「自由」とは、他人を――奴隷を支配することにほかならない。

 その意味の「自由」が内面化すると、自己を支配すること、自律、すなわち近代哲学・倫理学での「自由」の概念となります。

 他方、近代における政治的「自由」は、圧制からの解放、専制に対する抵抗としてイメージされます。「自由」という窮極状態よりも、「自由」を求めて戦う意欲が重視されるのです。

 啄木のイメージする「自由」は、もっぱら第3の意味――政治的「自由」だったといえます。しかし、こうした「自由」の概念をもっている人は、日本の近代文学者のなかではむしろ少数でした。

 啄木以外の文学者、たとえば夏目漱石は、どんな「自由」の概念をもっていたでしょうか?



「『然るに茲に今回の戦争
〔日露戦争――ギトン注〕が始って以来非常な成功で、〔…〕連戦連捷という有様――〔…〕斯う勝を制して見ると国民の真価が事実の上に現われた心地がする。〔…〕この自信自覚が開けてくると、この反響はあらゆる方面に波及して来る。

  サ、こうなって来ると、文学の方面にも無論この影響は来るのである。
〔…〕

  吾々は国民として全世界の何所までも通用する。我邦の過去には文学としては大なる成功を為したものはないが、これからは成功する。これからは大傑作が製作される。
〔…〕西洋のに比較され得るもの、いやそれ以上のものを出さねばならぬ。出すことも出来得るという――気概が出て来る。』〔夏目漱石『戦後文学の趨勢』1905年〕

     
〔…〕

 日本はロシアとの戦争に勝つことによりロシアと対等な位置に立ったのみならず、かえって自分たちがロシアより上だという自信を持つようになりました。彼
〔夏目漱石――ギトン注〕が文学の発達しうる背景として示した『自由な感じ』とは、対等感とともに優越感からも来るということを推測するのもそれほど難しくありません。

 ちなみに、『自由な感じ』は漱石だけが抱いたのではありません。
〔…〕二葉亭四迷も日露戦争後に大連を訪れ、〔…〕

 『道行く人は皆我が同胞である。
〔…〕誰に遠慮もなく大手を揮(ふ)って大道を闊歩される、僕は嬉しくて嬉しくて堪らなかった〔…〕

  僕は愉快でこたえられん、
〔…〕浴衣掛けの人〔つまり日本人――ギトン注〕がぞろぞろとぞろめきながら行く。ハイカラの束髪と連立ったのも尠(すくな)くない。其間を薄汚ない支那人の物売が間の脱けた声を振立てて変な日本語で善哉々々と呼んで行く、〔…〕僕は愉快々々たまらない。』〔二葉亭四迷『入露記』1908年〕
゙泳日・著,高井修・訳『世界文学の構造』,2016,岩波書店,pp.59,61-62.



 夏目漱石も、日露戦後の満洲・大連を訪れて、その印象を記しています:



漱石が満洲に何を見、また何を感じたのか
〔…〕

 ひとつは満洲という空間に対する驚きです。当時、満洲は大々的に都市整備がなされ、産業基盤施設が入り込んでいる最中だったのですが、それらはみな最先端のものであり、かつて彼が見たことのなかったものでした。
〔…〕

 満州は日本人によって平原から巨大な都市ないし産業団地に変貌しつつある、とても活気に溢れた空間でした。
〔…〕

 もうひとつの感情は中国人/朝鮮人に対する軽蔑です。眩
(まばゆ)い満洲の発展像と対比して、汚く乱暴な中国人/朝鮮人の姿がところどころに登場します。

 『河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。
〔…〕支那の家に固有な一種の臭が、たちまち鼻に感じたので、〔…〕いかにも汚ない国民である。

      
〔…〕

  人力は日本人の発明したものであるけれども、引子が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。
〔…〕高麗(こま)の故跡を見に行った時なぞは、尻が蒲団上に落ち付く暇がないほど揺れた。〔…〕しまいに朝鮮人の頭をこきんと張つけてやりたくなったくらい残酷に取扱われた。』〔夏目漱石『満韓ところどころ』1909年〕
゙泳日・著,高井修・訳『世界文学の構造』,2016,岩波書店,pp.50-51.







盛岡城跡・本丸からの風景






 つまり、漱石、四迷にとっての“自由”とは、“植民地”(※註)を、その地の“主人”として、「大手をふって闊歩」する“自由”――解放感であり、「汚ならしい」中国人/朝鮮人を支配し軽蔑する無上の優越感なのです。これは、「自由」の最も古典的な意味に照応するでしょう。

 これは決して彼らに限ったことでも、日本に限ったことでもありません。あらゆる帝国主義国の国民文学は、この優越感の上に成立している―――と、現代韓国の批評家・゙泳日は言います。

 そして、国民文学とは、帝国主義国――他の民族を支配する国家――にのみ成立するものなのです。

 しかし、この鋭い指摘に対して、私たちは、……でも、それでも、日本には“もうひとつの国民文学がある”と言って、啄木を呈示することができるかもしれません。

 啄木は、漱石以上に「自由」ということばを多用しますが、その意味するところは、もっぱら前述の第3の意味―――圧制に対する抵抗という、近代の政治的「自由」なのです。

 啄木はその短い生涯を、東京から北海道までの空間の中ですごしました。朝鮮にも満洲にも行ったことはありません。しかし、彼がもし、満洲を訪れたら、二葉亭や漱石と同じ感想をもらしたでしょうか?

 そんなことはないと思うのです。啄木は、中国人の労務者を「汚ない」と言って軽蔑することはできなかったでしょう。そう思う理由は、2つあります。

 ひとつは、啄木の詩人としての感覚です。「汚ならしい」ということでいえば、岩手県渋民村の農民も、子供たちも、そこで育った彼自身も、大連のクーリーに劣らぬほど「汚ならし」かったはずです。そのせいか、啄木の文には、「汚ない」ことを恥とせず、むしろ「汚なさ」に誇りを感じているような部分が散見します。

 もうひとつは、彼が、北海道に対して抱いた印象です。北海道もまた、当時の日本人の一般的な感覚では「植民地」(※註)でした。啄木が北海道にどんな印象を抱いたかについては、のちほど見てゆくことになりますが、漱石や四迷が満洲に対して述べた感想のようなことは、まったく見いだすことができません。優越感や軽蔑の感情は、まったく見ることができません。(啄木はアイヌには触れていないので、対象はもっぱら和人ですが)そこに見られるのは、むしろ、古い内地社会の“因習”から自由になった「はだかの」人間に対する共感だったと言えます。


※註「植民地」: 日露戦後の段階では、朝鮮も満洲も、いまだ法的には「植民地」ではありませんでした。しかし、当時の日本人は、これらの地をしばしば「植民地」と呼んでいます。他の外国も、中国・朝鮮の正統な政府も斥けて、日本の権力が自由にまかり通るようになったという意味で、これらの地はすでに「植民地」だったのです。同じことは、北海道についても言えます。もともと道南以外は日本の版図ではなかった以上、そこは「植民地」と呼ばれたのです。

 当時の日本人の観念では、日本は《日露戦争》によって朝鮮と満洲を「植民地」にしたと言えるでしょう。






 【5】災害と復興の経験から



 1907年5月、函館に移った啄木は、商工会議所に短期間勤めたあと、ここでも尋常小学校の代用教員となります。8月には新聞社の遊軍記者を兼ねますが、8月25日の《函館大火》により、勤務先の小学校・新聞社が、ともに焼失し、啄木は職を求めて札幌へ移ることになります。

 しかし、《函館大火》は、啄木の社会思想に対して、大きなヒントを与えることになりました:



「二三日前の事である。途で渇を覺えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さい卓
(しよく)を圍んで語つてゐる三人連の紳士が有つた。〔…〕

 やがて彼等は復語り出した。それは『今度の事』に就いてゞ有つた。今度の事の何たるかは固
(もとよ)り私の知らぬ所、又知らうとする氣も初めは無かつた。〔…〕――今度の事と言ふのは、實に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈彈事件〔《大逆事件》――ギトン注〕の事だつたのである。

 私の其時起した期待は然し何れだけも滿たされなかつた。何故なれば彼の三人は間もなく勘定を濟して出て行つたからで有る。

 ――明治四十年八月の函館大火の際、私も函館に在つて親しく彼の悲壯なる光景を目撃した。火事の後、家を失つた三四萬の市民は、何れも皆多少の縁故を求めて、燒殘つた家々に同居した。如何に小さい家でも二家族若くは三家族の詰込まれない家は無かつた。

 其時私は平時に於て見ることの出來ない、不思議な、而も何かしら愉快なる現象を見た。それは、あらゆる制度と設備と階級と財産との攪亂された處に、人間の美しき性情の却つて最も赤裸々に發露せられたことで有つた。彼等の蒙つた強大なる刺戟は、彼等をして何の顧慮もなく平時の虚禮の一切を捨てさせた。

 彼等はたゞ彼等の飾氣なき相互扶助の感情と現在の必要とに據つて、孜々として彼等の新らしい家を建つることに急いだ。そして其時彼等が、其一切の虚禮を捨てる爲にした言譯は、『此際だから』といふ一語であつた。

 此一語はよく當時の函館の状態を何人にも理解させた。所謂言語活用の妙で有る。

 ――そして今彼の三人の紳士が、日本開闢以來の新事實たる意味深き事件
〔《大逆事件》のこと――ギトン注〕を、たゞ單に『今度の事』と言つた。これも亦等しく言語活用の妙で無ければならぬ。『何と巧い言方だらう!』私は快く冷々(ひや\/)する玻璃盃(コツプ)を握つた儘、一人幽かに微笑んで見た。

 間もなく私も其處を出た。さうして

 兩側の街燈の美しく輝き始めた街に靜かな歩みを運びながら、私はまた第二の興味に襲はれた。それは我々日本人の或性情、二千六百年の長き歴史に養はれて來た或特殊の性情に就いてゞ有つた。――此性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ廣いもので有る。彼の偏へに此性情に固執してゐる保守的思想家自身の値踏みしてゐるよりも、もつともつと深く且つ廣いもので有る。――そして、千九百餘年前の猶太人が耶蘇基督の名を白地
(あからさま)に言ふを避けて唯『ナザレ人(びと)』と言つた樣に、恰度それと同じ樣に、彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯『今度の事』と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかつた。」
「所謂今度の事」1910年6月か, in:石川啄木『時代閉塞の現状 食うべき詩 他十篇』,1978,岩波文庫,pp.123-124.






 
啄木歌碑 函館公園  
「函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌 矢ぐるまの花」 






 この文章には、代名詞と、“かかる”語の関係が不明確で、たいへんわかりにくい部分がありますが、おそらく啄木は筆禍をおそれて、あえて曖昧に書いているのではないかと思います。そこで、文脈と大意を重視して強引に読みこむと、つぎのように理解できます。

 啄木は、「我々日本人の或性情」「二千六百年の長き歴史に養はれて來た或特殊の性情」に注目しています。「此性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ廣いもので有る」とも言っています。2600年の歴史の中で培われてきた日本人の「性情」とは、何を指しているのでしょうか? 啄木は、それを、《函館大火》ののちの復興の過程での、民衆のあいだの「相互扶助」の状況から知りました。


「火事の後、家を失つた三四萬の市民は、何れも皆多少の縁故を求めて、燒殘つた家々に同居した。如何に小さい家でも二家族若くは三家族の詰込まれない家は無かつた。」


 このような状況では、誰もが「平時の虚禮の一切を捨て」て、持てる余力を差し伸べ、必要に応じて取るほかはありませんでした。そこには、贈与と“お返し”の秤量をしている余裕もなく、税も供出も命令も規則もありませんでした。ただ、「相互扶助の感情」と「現在の必要」だけが優先されたのです。

 この状況を一言でいえば、引用の終りに名指されている「無政府主義」にほかなりません。

 《大火》ののちという特別な状況のもとで、


「あらゆる制度と設備と階級と財産との攪亂された處に、人間の美しき性情の却つて最も赤裸々に發露せられた」


 というのです。

 この《函館大火》の経験は、北海道――「植民地」に対する啄木の印象と理解を決定づけたと言えます。

 さまざまな因習や気兼ねや慣例や極まり事によってがんじがらめになった内地の窮屈な社会からの“自由”と解放を、啄木はそこに見ました。彼にとってそれは、人間の本来のありかたであると同時に、未来のありかたでもあったのです。かれは、この「無政府主義」的状況について、


「彼の偏へに此性情に固執してゐる保守的思想家自身の値踏みしてゐるよりも、もつともつと深く且つ廣いもので有る。」


 とも言っています。「此性情に固執してゐる保守的思想家」とは、村人の「相互扶助」の“美風”を称揚する人たち、あるいは、「均田制」「井田制」などの原始共産主義的な体制をほめたたえる儒学者のことでしょう。民衆の心の中に眠っている無政府主義的ユートピアは、儒教倫理や村の“しきたり”などを超えて、もっともっと「深く且つ廣い」ものだと言うのです。

 《幸徳事件》以後の啄木は、この函館での経験をてこに、「無政府主義」(啄木の理解は、共産主義やユートピア社会主義を含んでいる)に対して理解を深めてゆくことになります:



「歐羅巴に於ける無政府主義の發達及び其運動に多少の注意を拂ふ者の、先づ最初に氣の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の
〔…〕、其理論に於ては、〔…〕殆ど何等の危險な要素を含んでゐない事で有る。(唯彼等の説く所が、人間の今日に於ける生活状態とは非常に距離の有る生活状態の事で有るだけで有る)。〔…〕

 若しも世に無政府主義といふ名を聞いただけで眉を顰
(ひそ)める樣な人が有つて、其人が他日彼の無政府主義者等の所説を調べて見るとするならば、屹度、入口を間違へて別の家に入つて來た樣な驚きを經驗するだらうと私は思ふ。

 彼等の或者にあつては、無政府主義といふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで發達した状態に對する、熱烈なる憧憬に過ぎない。

 又或者にあつては、相互扶助の感情の圓滿なる發現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言つてるに過ぎない。

 
〔…〕世にも憎むべき兇暴なる人間と見られてゐる無政府主義者と、一般教育家及び倫理學者との間に、何れだけの相違も無いので有る。人類の未來に關する我々の理想は蓋し一(いつ)で有る〔…〕無政府主義者とは畢竟『最も性急(せつかち)なる理想家』の謂でなければならぬ。」
「所謂今度の事」,pp.128-129.







小樽〜余市の海岸






 【6】「植民地」と“はだか”の民衆



 1907年9月、啄木は札幌へ移り、『北門新報社』に校正係として就職しますが、そこでの同僚に誘われて小樽へ移り、『小樽日報』の創刊に参加します。しかし、12月には社の内紛のために退社を余儀なくされ、さらに釧路へと移ります。

 小樽での滞在は短かったのですが、記者として健筆をふるうことができたようで、『小樽日報』に注目すべき文章や詩作品を掲載しています。



自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。

 これ他なし、幾十年もしくは幾百年幾千年の因襲的法則をもって個人の権能を束縛する社会に対して、我と我が天地を造らむとする人は、勢いまず奮闘の態度を採り侵略の行動に出なければならぬ。四囲の抑制ようやく烈しきにしたがってはついにこれに反逆し破壊するの挙に出る。階級といい習慣といい社会道徳という、我が作れる縄に縛られ、我が作れる狭き獄室に惰眠を貪る徒輩は、ここにおいて狼狽し、奮激し、あらん限りの手段をもって、血眼になって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。かくて人生は永劫の戦場である。
〔…〕

 ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児は、相率いて無人の境に入り、我みずからの新らしき歴史を我みずからの力によって建設せんとする。植民的精神と新開地的趣味とは、かくて驚くべき勢力を人生に植えつけている。

     
〔…〕

 我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱の大森林、広漠としてロシアの田園を偲ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先墳墓の地を捨てて、勇ましくも津軽の海の速潮を乗りきった。

 
〔…〕小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

     
〔…〕

 北海道人、特に小樽人の特色は何であるかと問われたなら、予は躊躇もなく答える。曰く、執着心のないことだと。執着心がないからして都府としての公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一事ならずんばさらに他の一事、この地にてなし能わずんばさらにかの地に行くというような、いわば天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の気魄を、双手を挙げて讃美する者である。自由と活動と、この二つさえあれば、べつに刺身や焼肴を注文しなくとも飯は食えるのだ。

 予はあくまでも風のごとき漂泊者である。天下の流浪人である。
〔…〕予はただこの自由と活動の小樽に来て、目に強烈な活動の海の色を見、耳に壮快なる活動の進行曲(マーチ)を聞いて、心のままに筆を動かせば満足なのである。」
石川啄木「初めて見たる小樽」(『小樽日報』創刊号初出),in:『石川啄木全集』,第8巻『啄木研究』,1978,筑摩書房,pp.359-361.



 啄木が、北海道に対してもった印象は、未開の“自由”な天地、そこに生きる“自由”で活動的な人びと、―――ということだったようです。

 北海道という「植民地」に住んだ経験によって大きく羽ばたいたという点で、啄木もやはり、“帝国主義的拡張”に支えられた“国民文学”だった、という規定はできるかもしれません。しかし、上で見た漱石二葉亭四迷が満洲で得た“植民地支配者”としての「自由」と、啄木が北海道民に見た“自由の気風”とは、大きく異なっています。

 漱石の「自由」が“支配する自由”だったとすれば、啄木の「自由」は、因習からの自由、支配の“くびき”からの自由だったと言えるでしょう。一箇所に拘束されて精神が固定するのを好まないならば、いつでも立ち去って、新たな地を求めてゆく自由、その意味での「執着心のないこと」が「北海道人の特色」だと、啄木は言うのです。


「天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の気魄」


 とは、まさにそれを指します。






 






「     
〔…〕
 若き産声
(うぶごゑ)打揚げて
 此処澎湃と潮白き
 北大海
(おほうみ)の岸の上
 ああ創生の曙
 真素裸荒
(ますはだあら)の神の子が
 地韜
(ぢたゝら)踏みて競ひ出(で)
 其
(その)有様を見るが如(ごと)
 見よや雄々しく気負ひたる
 戦闘
(たゝかひ)の子ぞ生れたれ

 旧き思想と悪徳と
 心腐れし迷信と
 虚偽と偽善と圧制の
 狭く苦しく濁りたる
 此世
(このよ)にありて人は皆
 其
(その)本性(ほんじやう)を擲(なげう)ちて
 足ること知らぬ貪婪の
 奴隷
(しもべ)となれる今日の時
 こはそも如何に赤裸々の
 新肌
(あらはだ)太く力ある
 叫びの声は雷
(らい)の如(ごと)
 躍り出でたる眩
(まばゆ)さは
 さながら遠き大漠
(たいばく)
 獅子の猛
(たけ)るに似たりけり

 右手
(めで)に翳すは何の剣
 左手
(ゆんで)に執るは何の筆
      
〔…〕

 ああ今ここに生れたる
 戦闘
(たゝかひ)の児(こ)よ願はくは
 隠すことなく飾るなく
 ありのままなる心もて
 我が光明と信念に
 弓ひくものを踏みつぶし
 何憚
(はゞから)ぬ声あげて
 力の限り叫べかし
 旧き思想は覆へり
 奸邪迷信はた偽善
 世の圧政も悪徳も
 朝
(あした)の露と消え失せて
 初めて茲に玲瓏の
 新しき代
(よ)は造られむ

      
〔…〕 
 洸瀁として涯もなき
 万古の濤
(なみ)の起伏(おきふし)
 足下
(あしもと)近き巌(いは)鳴りて
 進めとばかり鞺鞳の
 海潮音ぞ轟ける」

石川啄木「無題」(『小樽日報』創刊号初出),in:『石川啄木全集』,第8巻,1978,筑摩書房,pp.362-363.



 北洋の海中から全裸の「神の子」が誕生して、岸に上がって来るというイメージは、「自然」「ありのまま」「隠すことなく飾る」こともない素朴さを尊ぶ精神を表しています。そしてこの「神の子」は、“自由”を求めて「旧き思想と悪徳」「迷信」「虚偽と偽善と圧制」に対して戦うのです。

 ルソー流の「自然」主義と、圧政への抵抗という意味での“自由”とが、神々しい裸体のイメージによって、みごとに結合していることに注目したいと思います。

 前回、渋民小学校での啄木の教育方針について、


「人を生れた時の儘で大きくならせる方針」

「大きい小児を作る事! これが自分の天職だ!」

「小児を殺す大人の教育を排し」、
子供を「できるだけ成人化させないように」


 心がけたことを見ました。

 “生れたままの裸体”こそは、まさに“自由”そのものの無垢な魂のイメージにほかならないのです。









【必読書150】石川啄木『時代閉塞の現状』(3) ―――につづく。   






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カテゴリ: 必読書150

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