09/17の日記

01:35
【必読書150】アンダーソン『想像の共同体』(2)―――日本ナショナリズムの特質は?

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韓国、水原、堤岩里キリスト教会(再建) 
と「殉国二十三位墓」 1919年3月15日、
3・1独立運動に“報復”して、   
日本軍警は、堤岩里(チェアムニ)の非武装の  
キリスト教徒・天道教徒を教会に押し込め
放火と銃撃で殺害。死亡者37名。うち、
現場に埋められていた遺骸は 23基の 
「殉国墓」に改葬されている。  











 こんばんは。(º.-)☆ノ



 【必読書150】の4冊目。

 【必読書150】アンダーソン『想像の共同体』(1)―――ナショナリズムと、どう向き合うか?

 からの続きです。






 【4】ナショナリズムを生んだもの――公定ナショナリズム



「南北アメリカにおける国民解放運動成功の時代の終わりはまたヨーロッパにおけるナショナリズムの時代の始まりでもあった。
〔…〕ここではほとんどすべての場合に「国民出版語」がイデオロギー的、政治的に、中心的な重要性をもった〔…〕

 もうひとつは、これら新しいナショナリズムがすべて、遠くの、そしてフランス革命の激動以後はもっと近くの先例を現実的モデルとすることができたということである。こうして『国民』は、
〔…〕はじめから意識的に達成すべき対象となった。〔…〕そしてときにはまったく思いがけない人々が海賊版を作りうるものとなった。」
『想像の共同体』,pp.120-121.


 著者が「海賊版」と呼んでいるのは、ハンガリー、ポーランドなどに起きた独立をめざす「国民」運動のことです。そこでは、フランス革命やアメリカの諸革命が模範(モデル)とされ、また、自民族の独自性を象徴する出版語(ハンガリー語、ポーランド語、…)が称揚されました。しかし、フランス革命が、貴族支配の打倒と、自由で平等な「国民」の創出をめざしたのに対し、これらの諸国には、近代的市民階級(ブルジョワジー)はまだなく、没落貴族と学者が「国民」運動の担い手であり、いきおい、「国民」のあいだの平等の実現――《農奴制廃止》など――は、後回しにされざるをえませんでした。民族言語に関しても、ハンガリー語にしろポーランド語にしろ、当時それらを話す人びとは、「国民」の半分にも達していなかったのです(pp.134-138,144-146.)

 しかし、ここで重要なことは、「国民国家(ネーション=ステート)」モデルというべきものが、19世紀半ばにはできあがっていて、西ヨーロッパの《帝国》の支配を跳ね除けようとする東欧の人びと、さらにヨーロッパ外の植民地の人びとや、植民地化を防ごうとする人々が、このモデルを《模倣》できるようになっていたことです。

 インドで、のちの独立運動につながる“セポイの反乱”が起きたのは、そのような時であり、日本が“開国”から“王政復古”に至る激動を経験していたのも、まさにこの時でした。

 ロシアでは、被支配諸民族の勃興と、急激な“西欧化”によって瓦解しそうになっていた《帝国》を引き締めるために、ツァーリ政府が、このモデルを導入しました。その重要なメルクマールは、1861-63年の《農奴解放》でした。

 インドでは、植民地住民の反抗に直面したイギリスが、このモデルを導入して、植民地支配を強化しました。じつに、イギリス(大英帝国)が国民国家(ネーション=ステート)となったのは、著者によれば、まさにこの時でした。ピューリタン革命や名誉革命の時代ではなかったのです。

 日本では、英国やロシアのような《帝国》に併呑されることをおそれた国内支配層が、先制的にこのモデルを導入し、支配の強化と「富国強兵」に努めました。

 タイは、日本とは逆に、軍隊の創設を遅らせながら、西洋列強に対して巧みな外交を展開し、周辺の植民地の支配を《模倣》しました。そして、華僑を利用して経済開発を進めました。しかし、中国で《辛亥革命》が起きると、タイ王権は、民主主義に傾く華僑を敵視して、反中国ナショナリズムを宣揚し、義務教育、国史編纂、強兵など、日本と同様の政策を推進しました。

 これらの諸国で、18-19世紀の南北アメリカ、フランスのモデルを《模倣》して起きた国民主義・近代化運動は、「公定ナショナリズム」と呼ばれます。

 「公定ナショナリズム」は、民衆(場合によっては、ごく一部の上層住民)による自然発生的な動きではなく、政府によって「上から」、意識的に、“マキャベリズム”を伴なって起こされたものです。「公定ナショナリズム」が可能になったのは、そのために政府が利用できるモデルが、すでに存在していたことによります。



公定ナショナリズムは、共同体
〔ここでは、≒国家――ギトン注〕国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略なのだ。

 
〔…〕民衆の想像の共同体から排斥されるか、そのなかで周辺化されそうになった権力集団―――それは主として、王朝、貴族であったが、いついかなるところでもそうだったというわけではない―――による応戦だった〔…〕公定ナショナリズムは、それに先立つ、主として自然発生的な民衆ナショナリズムのモデルを翻案した、反動的とは言わないまでも、保守的な政策であった。〔…〕

 ほとんどすべての場合において、公定ナショナリズムは国民と王国の矛盾を隠蔽した。」

『想像の共同体』,pp.165,174-175.







韓国、堤岩里(チェアムニ)虐殺事件
日本軍警に破壊された堤岩里集落(1919年)








「1854年
〔日米和親条約、開国―――ギトン注〕以降、幕府の自信と内的正統性は、西洋の侵入に対するその明らかな不能性により、急速に侵食されていった。尊王攘夷の旗の下、薩摩藩と長州藩出身者を中心とする中級武士の一団は、1868年、ついに倒幕に成功した。その一つの理由は、かれらが、〔…〕西欧の新しい軍事科学を、1860年以降、ずば抜けてうまく創造的に吸収したことにあった。」
『想像の共同体』,p.157.



 しかし、権力掌握後、明治政府を支配した薩長藩閥は、単に軍事的能力を高めるだけでは、列強に対抗するにも、また、国内を支配するためにも、十分ではないことに気づいたのです。

 こうして、西洋の国民モデルの模倣、すなわち、《公定ナショナリズム》の導入が開始されます。



「藩閥政府がその国内的地位強化のために採用した基本政策のひとつが、ホーエンツォラーン家のプロイセン・ドイツを意図的にモデルとした世紀半ばの公定ナショナリズムの一変形であった。」

『想像の共同体』,pp.158-159.



 1868-1871 「封建的藩兵の解体」「東京が暴力手段を中央集権的に独占した」 戊辰戦争終結。廃藩置県。
 1872 「男子の一般教育促進が命じられた」 太政官布告『学制』。
 1873 「徴兵制を導入した」 徴兵令。
 1875 「特権階級としての武士階級を清算した」 秩禄処分。
 1889 「プロイセン式憲法の制定」 大日本帝国憲法制定。



 なお、並行して 1872年「琉球藩設置」(琉球王国の併呑)、1874年「台湾出兵」、1875年には「朝鮮・江華島に侵攻」「千島樺太交換条約」、1879年「琉球処分」、1884年「甲申政変」(朝鮮でクーデターを援助)と、対外侵略も着々と進められています。



 これらの明治政府の政策は、
「半ば偶然の3つの要因によって助けられた。〔…〕

 日本は、その記録された歴史の全時代を通じて単一の王朝が王位を独占してきた
〔…〕これによって、公定ナショナリズム発揚のために、天皇を容易に利用することができた。〔…〕

 そして第三に、夷人が突然、一挙に脅迫的に侵入してきたため、大多数の政治的意識をもつ住民は、新しい国民的枠組みで構想された国防計画に容易に結集することができた。ここで強調されるべきは、こうした可能性が、西洋侵入のタイミング―――1760年代ではなく 1860年代であった―――によるところが大きかったということである。というのは、このときまでには、ヨーロッパの主要部では、『国民共同体』が、民衆的ナショナリズムにもとづくものも公定ナショナリズムによるものも、すでに半世紀にわたって存在していたからである。実際、国防は、いまや『国際的規範』となりつつあるものに沿って編成することができたのだった。

 
〔…〕かれら〔藩閥政府―――ギトン注〕が支配したのは、幸いなことに、軍事技術がなお比較的ゆっくりと進歩していた時代のことであり、したがって、追いつき追い越せの強兵政策で、日本は、世紀末までに独立の軍事強国になることができた。」日清・日露の戦捷と、台湾・朝鮮の併合、「これらはすべて、学校出版を通して意識的に広く喧伝され、保守的な藩閥政府が、〔…〕国民の正統な代表であるとの一般的印象を創出するのに大きく貢献した。」
『想像の共同体』,pp.158-160.



 すなわち、《公定ナショナリズム》が国民に浸透し、日本人が
「みずからを日本国民として想像するようになった」まさにその時に、日本人たちは、もともと一部の地方の武士にすぎなかった“藩閥政府”を、国民の正統な代表」と見なしたのでした。それは、明治“藩閥政府”による対外侵略の華々しい成功、そして、「学校」「出版」などの《公定ナショナリズム》のイデオロギー装置によって、それが、国民の脳髄に滔々と吹き込まれた結果だったのです。

 そのことは、逆に、明治政府の対外的な、ほんのちょっとした譲歩でも、日本じゅうの中層から下層までの民衆を激昂させ、“藩閥政府”の存立を危うくしかねなかったことによって、明らかです。日露戦争後の《ポーツマス講和条約》において、日本がロシアに対して賠償金の要求を取り下げた時、近代日本最初の民衆暴動である《日比谷焼き打ち事件》が起きました。暴徒と化した下層民衆は、新聞社と警察署を次々に襲って炎上させ、抗議のため地方から上京した中層、上層の人びとは、暴徒に声援を送りながら、それを“見物”したのでした。

 それにもかかわらず、“藩閥”政権が明治期を通じて存続しえたのは、“藩閥ではなく、天皇が支配している”、“藩閥がヘマをすれば、天皇が首相のクビを挿(す)げ替えてくださる”という、実態に反した“まやかし”、“天皇親政”という幻想のおかげだったと言えます。じっさいのところ、明治だけでなく、古代から現在までの日本の歴代の支配者たちは、天皇という“無謬の偶像”を祭り上げ、崇めることによって、つねに責任を回避しうるシステムを維持してきたのです。






 
     《日比谷焼き打ち事件》
 炎上する京橋警察分署と、見物する群衆(手前)
 見物人がみな「カンカン帽」(中・上流階層の象徴)を
 かぶっていることに注意。






 しかし、こうして露わになった、日本のナショナリズムの侵略的、攻撃的、帝国主義的性格―――支配者ばかりでなく、民衆においてこそ、いっそう侵略的な、その特性―――については、さらに数段の考察を必要とするでしょう。

 著者アンダーソンがここで引証するのは、丸山真男による考察です。すこし長くなりますが、引用しましょう:



「こうして創り出された日本ナショナリズムが」
民衆においてすら「攻撃的な帝国主義的性格をもったということは、2つの要因、すなわち、日本の長期にわたる孤立〔江戸時代の「鎖国」―――ギトン注〕の遺産と、公定国民モデルの力によって説明できる。丸山真男は、ヨーロッパにおけるすべてのナショナリズムが、相互に作用する複数の王朝国家の伝統的多元性という文脈の中で生まれてきたこと〔…〕を指摘している。

 『ヨーロッパ〔で〕は、
〔…〕ナショナリティの意識の勃興は初めから国際(international)社会の意識によって裏付けられていた。主権国家間の闘争はこの国際社会の独立の構成員間の闘争であるということは自明の前提であり、さればこそ、グロチウス以来、戦争は、国際法の中に重要な体系的地位を占めてきたのである。』

 しかし、数世紀にわたる日本の孤立は、以下のことを意味した。

 『そこでは国際関係における対等性の意識がなく、むしろ国内的な階層的支配(ヒエラルヒー)の眼で国際関係を見るから、こちらが相手を征服ないし併呑するか、相手にやられるか、問題ははじめから二者択一である。このように国際関係を律するヨリ高次の規範意識の希薄な場合には、力関係によって昨日までの消極的防衛の意識はたちまち明日には無制限の膨張主義に変化する。』〔丸山真男『現代政治の思想と行動』,p.155〕」

『想像の共同体』,pp.160-161.



 つまり、「鎖国」していたために、国際関係の経験が乏しく、しかも国内の社会は、タテのヒエラルヒーだけで“ヨコの関係”の無い社会なので、国際関係も、タテの関係でしか見ることができない。ヨーロッパ列強のように、対等の関係で“衝突”し、また“和解”するという駆け引きができない。相手に呑まれるか、相手を併呑するか、そのどちらかしか考えられない―――というのです。

 この丸山真男説に、ぼくは疑問があります。イスパニア、ポルトガルの船が貿易と布教に来ていた安土桃山時代ならともかく、その後の国際環境で「鎖国」しないでいたら、“対等”ということが、果たしてありえたかどうかです。“対等”がありえないからこそ、インドもインドネシアもベトナムも、ヨーロッパ人の植民地となったのではないでしょうか?

 また、ヨーロッパを除外して考えても、中華帝国(明、清)を中心とする古い政治秩序(冊封体制)の中では、中華>周辺(朝鮮、ベトナム)>辺境(日本、カンボジア等)という厳然たるヒエラルヒーがあって、「対等な国家間の関係」などというものは、とても観念できるものではなかったと思うのです。

 しかし、著者の議論を追って、つぎに行きましょう。



「次に、藩閥政府の主たるモデルとなったのは、みずから国民に帰化しつつあったヨーロッパの王朝だった。これらの王朝がみずからをますます国民的用語で定義し、しかも同時にその権力を、ヨーロッパ外へと拡大しつつあったとなれば、モデルが帝国主義的に理解されたとしても驚くにはあたらない。
〔…〕国民とは世界の征服者であった。とすれば、日本が大国の仲間入りをするには、たとえ〔…〕追いつくのに大変な努力がいったにせよ、日本もまた天皇を皇帝とし、海外へと雄飛せねばならぬと主張することは、きわめて説得的であった。」
『想像の共同体』,p..



 「説得的であった」とは、政府部内、官僚内部で説得的であっただけでなく、書物、新聞を通じて、一般の読書人、‥いやもっと広く、字を読める日本人すべてに、このような「帝国主義的」認識が共有されていたのです。







朝鮮3・1独立運動(1919年)
「万歳示威」行進する京城女子学校生






 引用の最初に戻りますと、日本が“開国”した時期の特殊性のために、国民国家モデルが、「帝国主義的」に理解されてしまった―――と、著者は言うのです。

 もともと、中世以来のヨーロッパ各国の王家はインターナショナルです。イギリスのウィンザー朝(ハノーバー朝)は、ドイツ出身ですし、オーストリアのハプスブルク王家は、スペインの王家でもあります。国々の王家の間には姻戚の網の目が広がっていて、どこの王家がどこの国の人やらわかりません。しかし、この 19世紀半ばには、イギリスでもドイツでもオーストリアでも、王家は、自国民の中に“同化”する努力をし、国民の王室としてアピールしていました。

 こうして、ヨーロッパ諸国は、国民国家の体裁を整えながら、その実、「国民」の枠を越えて領土拡張を狙い(普仏戦争によるドイツのアルザス領有など)、ヨーロッパの外に向っては、植民地帝国として進出していました。

 この状態を、「国民」と「国家」の区別のつかない明治政府・官僚の眼で見るならば、“国民国家とは、膨張するものだ”“繁栄する国民とは、他の国民を征服する国民だ”と思ってしまっても、しかたがないのです。

 ぼくの見るところでは、明治〜昭和戦前期に、このような“帝国主義思考”を免れていたのは、石橋湛山、内村鑑三など、ごく少数の人びとだけだったと思います。

 このような、戦前日本の思想状況の中では、やや頭の弱い読書人のひとりが、↓つぎのように書いたとしても、決して驚くにはあたらない。当時の日本の文脈では、これは、後世の私たちが思うほど、とびぬけて異常な思想ではなかった。むしろ、“どうかしていた”のは、極右とされるこの人物である以上に、当時の日本全体なのです。



『正義とは利己と利己との間を確定せんとする者』
である。〔…〕国際間の開戦が正義なる場合〔と〕は〔、〕現状の不義なる画定線を変改して正義に画定せんとする時なり。英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり。〔…〕国際間に於ける無産者の地位にある日本は、正義の名に於て彼等の独占より奪取する開戦の権利なきか。〔…〕国内の無産階級が組織的結合をなして力の解決を準備し又は流血に訴へて不正義なる現状を打破することが彼等に主張せらるるならば、国際的無産者たる日本が力の組織的結合たる陸海軍を充実し更に戦争開始に訴へて国際的画定線の不正義を匡すこと亦無条件に是認せらるべし。
北一輝『日本改造法案大綱』






 さらに、日本のナショナリズムと植民地支配の大きな特徴である《同化政策》《排外主義》も、アンダーソンによれば、《公定ナショナリズム》が要求する特質にほかなりません:



「ほとんどすべての場合において、公定ナショナリズムは国民と王国
〔ここでは、≒「帝国」つまり他民族を支配する国家――ギトン注〕の矛盾を隠蔽した。

 こうして、世界的規模で矛盾が起こった。スロヴァキア人はマジャール化
〔「マジャール」は、ハンガリーの主要民族――ギトン注〕され、インド人はイギリス化され、朝鮮人は日本化されることになった。しかし、かれらには、マジャール人、英国人、日本人を統治する地位につくような巡礼〔役人のキャリア・システム――ギトン注〕に参加することは許されなかった。〔…〕

 帝国の中枢
〔イングランド本国、日本内地、ハンガリー中心部――ギトン注〕に、ハンガリー人、英国人、日本人という国民が生れつつあったのも事実だった。そしてこれらの国民は、本能的に、『外国』支配〔「日本人化」した朝鮮人の役人に支配されること――ギトン注〕に抵抗した。」
『想像の共同体』,p.175.



 他民族を排斥する《排外主義》だけでなく、他民族を自民族化〔朝鮮人を日本人化、など〕して受け入れる《同化政策》もまた、日本だけがしていたわけではなく、「世界的規模で」見られたことなのです。

 私たちは、自民族に対する批判、ないし“自省”のあまり、「単一民族主義」「自民族中心主義」、それらに基く差別的《同化政策》(日本語の強制、神社崇拝の強要等)を、私たち特有の野蛮な“黒歴史”だと思いがちです。逆に、“皇国”を無根拠に礼賛したり、“黒歴史”を無かったことにする人たちも、実はその逆立ち反応をしているにすぎません。

 しかし、それは“反省”すべきことではあっても、決して日本だけの“罪悪”ではない。むしろ、世界の“流れ”のなかに位置づけて、どうしたらよいかを考えたほうが生産的である。―――アンダーソンの議論は、そうした見方を提案しているように思いました。






 






 【5】ナショナリズムを生んだもの――学校と植民地教育



 20世紀のナショナリズム。

 20世紀には、他民族支配、植民地支配の中から、それらを覆して、多くの国が独立しました。第1次大戦の終結とともに、ヨーロッパを支配していた王朝―――ロシア・ロマノフ家、オーストリア・ハプスブルク家、プロイセン・ホーエンツォラーン家、トルコ・オスマン家―――が倒壊しました。

 19世紀・露土戦争後の「ベルリン会議」(1884-85)は、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割の取引の場でした。アフリカ諸民族はもちろん、インドも中国も、そこに代表を送る権限は認められませんでした。しかし、第1次大戦後の「国際連盟」は、ヨーロッパ諸国だけでなく、当時独立していた非ヨーロッパ諸国にも門戸を開いていました。原加盟国には、ペルシャ、中華民国、日本、タイ、ラテン・アメリカ諸国が加わっており、アフガニスタン、イラク、エジプト、トルコが後から加盟しました。⇒:国際連盟加盟国(Wiki)



「このとき以降、国民国家(ネーション・ステート)が正統的な国際規範となり、したがって国際連盟にあっては、残存する少数の帝国といえども帝国のユニフォームではなく国民衣装
(コスチューム)をまとって出席した。」
『想像の共同体』,p.188.



 イギリスは、「大英帝国」としてではなく、「ブリテン・アイルランド連合」として加盟し、自治を認められたインド、南アフリカは、イギリスと並んで「インド帝国」「南アフリカ連邦」として加盟しました。3国とも元首として、同じジョージ5世王を戴いているにもかかわらず。

 残された植民地帝国も、しだいに崩壊して行き、1970年代に、最後の「ポルトガル帝国」が植民地(モザンビーク等アフリカ諸領と東チモール)を手放して、「ポルトガル共和国」となりました。

 これら、植民地から独立した《20世紀の国民国家》には、共通する特徴があります。著者によれば、それらはいずれも、「民衆ナショナリズム公定ナショナリズムの混合」によって成立しているのです。



 これら
「新興国家の『国民建設(ネーション・ビルディング)政策に、正真正銘の民衆ナショナリズムの熱情と、マス・メディア、教育制度、行政規則その他を利用した体系的でときにはマキアヴェリ的な国民主義イデオロギーの注入〔すなわち公定ナショナリズム―――ギトン注〕とがしばしば認められるのはこのためである。」
『想像の共同体』,p.189.






「近年の『植民地ナショナリズム』の起源について考察するとき、我々はただちに、最近の植民地ナショナリズムと初期の時代の植民地〔南北アメリカ〕ナショナリズムとの中心的類似性に気がつく。それは、それぞれのナショナリズムの領域的広がりと、それに先立つ帝国の行政単位との一致である。」

『想像の共同体』,p.189.



 つまり、(1)【3】で見たような、植民地官吏のキャリア・システムによる《巡礼の旅》によって「国民」意識が形成されたのと同様の関係が、ここでも、フランス、オランダ、ポルトガルなどの植民地で見られたのです。

 しかも、《20世紀の国民形成》においては、《旅》の手段は、植民地官僚システムにかぎられず、18-19世紀のラテン・アメリカにはなかった多くの《旅》が、国民の形成に寄与しました。

 そのことを、以下、著者とともに、インドネシアとインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)の例で見てゆくことにしましょう。







インドネシア独立戦争
竹槍で“武装”するジャカルタの人びと






「19世紀半ば以降、そしてとりわけ20世紀には、旅はもはやほんの一握りの旅行者によってばかりでなく、ますます多くの、そしてますます多様な群衆によって行われるようになった。」

『想像の共同体』,p.190.



 ひとつには、20世紀の植民地帝国は、19世紀のスペインよりもはるかに広大な地域と大量の植民地人口を抱えるようになったことです。オランダの東インド植民地(現インドネシア)は、ラテン・アメリカよりはるかに高い人口密度をもっていました。膨大化した植民地支配機構は、もはや、本国人と白人クレオールだけでは、充員できず、2か国語のできる大量の現地人事務員を必要としたのです。同じことは、本国から進出してきた法人企業についても言えました。

 必要とする人員も、19世紀とは異なって、事務官僚だけでなく、
「医務官、灌漑技術者、農業指導員、学校教師、警察官」(p.191)など、多種多数にわたりました。

 こうして、植民地において、現地人に対しても《学校教育》を行なう必要性が、植民地当局に痛感され、《学校教育》機構が整備されていきました。



〔…〕植民地国家、さらには民間の宗教、世俗団体による近代的教育の普及である。こうした拡大が起こったのは、政府、民間企業に幹部を供給するためばかりでなく、植民地の住民に対してすら近代知識を与えることの道徳的重要性がますます受け入れられるようになったからであった。」
『想像の共同体』,p.191.



「植民地の学校教育制度が植民地ナショナリズムの促進において果たした独特の役割」


 独立した
「インドネシアの〔…〕領域的広がりは、植民地時代以前に成立したいかなる王国の領域ともまるで一致せず、それどころか、〔…〕その国境線は、オランダの最後の征服(1910年頃)の結果として残された境界線そのものであった。

 スマトラ東海岸のいくつかの民族は、狭いマラッカ海峡」
の対岸の住民と、言語も宗教も変わらない。彼らは、インドネシアの東の端にあるニューギニア島、モルッカ諸島の住民とは、まったく共通点がない。にもかかわらず、彼らは 20世紀には(独立以前でも!)、モルッカ、ニューギニア(西イリアン)の住民を、「同胞とし、〔ギトン注――対岸の〕マレー人を外国人として見るようになった。

 こうしたきずなは、なによりもまず、20世紀初頭以来、バタヴィア
〔ジャワ――ギトン注〕の植民地政府がますます各地に開設するようになった学校により育成された。〔…〕植民地政府の設立した新しい学校が、」在来のイスラム式寺子屋をはるかに凌駕する「巨大な、高度に合理化され厳格に中央集権化されたヒエラルキーを構成して、国家官僚機構それ自体と構造的に相似形をなしていた〔…〕画一化された教科書、標準化された卒業証書と教員免状、年齢集団によって厳格に規制された学年制、学級の編成、教材、こうしたことは、おのずと独立の経験の宇宙を創出した。〔…〕

 標準化された小学校は植民地全域の村々と小さな町々に分散し、中学校、高校は大きな町と州都に、そしてさらに高等教育機関(教育ピラミッドの頂点)は植民地の主都バタヴィアと、
〔…〕バンドゥンとに設立された。〔…〕20世紀の植民地学校制度は、〔…〕役人の旅と並行する巡礼の旅を生み出した。〔…〕バタヴィアで〔…〕かれらは、さまざまの、そしておそらくかつては敵対していた土地からやってきた旅の同伴者、〔…〕巡礼仲間と巡り合った。そしてかれらは、たとえどこからやってきたにせよ、おたがい同じ本を読み、同じ算数をしてきたことをよく承知していた。〔…〕かれらの共通の経験、そして教室での競争から生まれるほほえましい友情は、かれらの学んだ植民地の地図に、〔…〕想像の現実性を付与していた。

 こうしてかれらはみんな一緒にいる。ではかれらは一体なにものなのか。
〔…〕かれらはインランデル〔「原住民」「土民」にあたるオランダ語――ギトン注〕であり、それはどうしようもないことであった。〔…〕それは、この植民地において、〔…〕この言葉で言及される人々が『劣等』でしかも『そこに属している』〔…〕ことを意味した。〔…〕この言葉はまた、かれらが」出自のいかんにかかわらず等しく卑しむべき存在であることをも言外に意味していた。」
『想像の共同体』,p.196-198.



 こうして、オランダが植民地統治に役立つ現地人を養成するために整備した学校教育体系は、皮肉にも、植民地を単位とする「民族」の“覚醒”――じつは創出(想出)ないし誕生――をうながし、インドネシア人の独立意識を勃興させたのです。

 (なお、第2次大戦中短期間の日本による支配は、そのような効果をまったくもたなかったことも、銘記する必要があります。日本の支配は、インドネシアの独立を、その一歩手前で邪魔しただけでした。)






 







 植民地学校教育の偉大な役割は、それ自体の中で行われた《巡礼の旅》の効果に限られません。むしろ、ナショナリズムの形成にとって、より大きな意義をもったのは、こうした《公定ナショナリズム》の効果以上に、《民衆ナショナリズム》的な影響でした。



「一般に、植民地ナショナリズムの勃興にとって、インテリゲンチアが決定的役割を果たしたことはよく知られている。
〔…〕インテリゲンチアが前衛的役割を果たすようになったのは、かれらの二重言語読み書き能力〔…〕によったということも一般に認められている。〔…〕2つの言語を使いこなすということは、すなわち、ヨーロッパ国家語を経由して、もっとも広い意味での近代西欧文化、とくに〔…〕ナショナリズム国民国民国家モデルを手に入れることができるということであった。」
『想像の共同体』,pp.191-192.



 そして、この頃には、オランダでも、イギリスでも、フランスでも、過去の革命や独立戦争の事績が、「国民」の輝かしい歴史として教えられるようになっていました(じっさいには、ネーデルラント独立戦争の当時、スペインからの独立を求める低地[ネーデルラント]のプロテスタント貴族はいても、「オランダ人」などはどこにもいなかったのですから、それはフィクションなのですが‥)。その同じ歴史が、画一化された教科書を通じて、植民地の「土民」にも教えられました。教えられた「土民」の子供たちが、“オランダ人は偉い。オランダ人の支配に服すべきである”ということだけをそこから学ぶと思うのは、オランダ人の見当違いでしょう。

 “われわれはみな独立すべき精神をもっている。オランダ人が圧制支配に反抗したように、われわれもオランダ人の圧制支配を覆してよいのだ”と、生徒たちは胸に刻んだのです。



 こうして、つぎのようなパラドキシカルな事態が、植民地に現出します。

 1913年、バタヴィアの植民地政府は、フランス(ナポレオン)支配からのオランダ解放100周年を祝って、植民地全土で祝典を催し、「原住民」に対しても、祝典への参列と寄付が命令されました。これに抗議したジャワのナショナリスト・スワルディ・スルヤニングラットは、新聞論説「もしも私がオランダ人であったなら」をオランダ語で書いて、つぎのように訴えました。


「『もし我々が(ここで私は想像上オランダ人なのであるが)原住民に対して我々の独立を祝うようにすすめるならば、それはたんに不適切だというばかりでなく、見苦しいことでもある。まずなによりも我々はかれらの名誉心を傷つけることになる。なぜなら、我々は、現に我々が支配している国で我々の独立を祝うからである。

  我々は100年前に我々が外国人の支配から解放されたことを歓喜の念で迎えようとしている。そしてそれをいま、我々が支配している人々の面前で行おうとしている。かれらもまた我々と同様、かれら自身の独立を祝福する時が訪れることを待ち望んでいるのではないだろうか。
〔…〕

  もし、私がオランダ人であったならば、私は我々自身がその独立を剥奪している国で独立の祝典を行うことはないであろう。』」

『想像の共同体』,pp.192-193.






 【6】社会主義と《公定ナショナリズム》



 フランスの植民地であった「インドシナ」の場合にも、インドネシアと同様に、“植民地支配機構”と“植民地教育制度”の効果としてのナショナリズム形成が進行しました。

 ただ、インドネシアの場合と違うのは、この地域が等しくフランスの支配を受けていたにもかかわらず、インドネシアのように、“ひとつのインドネシア国民”という意識が形成されず、3つの国家に分かれて独立したことです。しかも、独立直後に、これらの諸国は、たがいに戦争する事態に陥りました。

 ベトナムとカンボジアの争いを、前近代における「大越」王朝の「占城(チャンパ)」征服(1471年)に遡って理解するのは、当を得ていないように思われます。社会主義の路線の相違で説明しようとしても、やはり不十分です。

 アンダーソンは、フランスによる植民地支配がそこに刻印されていることを見るのです。







ディエン・ビエン・フー、A1高地
ヴェトナム民兵とフランス軍の決戦が
行われた(1954年)






 たしかに、1910年代までは、フランスの植民地政府は、「東インド」のオランダと同様の政策を行なっていました。植民地教育制度上、リセ(高等中学校)はハノイとサイゴンにしかなく、大学はハノイにしかありませんでした。「インドシナ」全体が、“単一のピラミッド”をなしていたのです。ハノイとサイゴンの学校では、山脈の西から来たクメール人、ラオ人の子弟が、ベトナム人、中国人、フランス人と机を並べていました。もちろん、教育はすべてフランス語で行われており、フランス語だけが生徒たちの共通の言葉でした。

 ところが、1920年代以後、フランスは政策を転換し、小学校低学年においてローマ字表記による
「ヴェトナム語による授業に特別の力点をおく教育が行われた。」(p.204)フランス語は、そのローマ字・ヴェトナム語を習得した後で、外国語として教えられるようになったのです。

 これは、ヴェトナム人子弟が、王朝時代の“科挙”で培われた能力を発揮してフランス語に堪能になり、リセや大学の合格者を独占して、フランス人植民者の子弟を締め出すようになったためでした。「原住民」に必要以上にフランス語を学ばせてはならない―――と、フランス人は考えはじめました。

 並行して、ラオス領域ではラオ語、カンボジア領域ではクメール語の教科書が奨励され、使われるようになりました。

 もうひとつの《巡礼の旅》である植民地キャリア・システムについて見ると、そこでは学校教育以上に「インドシナ」の“一体性”は破壊されていました。



「フランス人は、ヴェトナム人が
〔…〕クメール人、ラオ人よりはるかに精力的で知的だよいう見解をはばかることなく表明した。したがって、フランス人は、西インドシナ〔ラオスとカンボジア――ギトン注〕においてヴェトナム人の役人を大いに利用した。」
『想像の共同体』,p.205.



 ヴェトナム人の役人は、ヴェトナムでも、カンボジア領域でも、ラオス領域でも、植民地官吏として手腕を発揮することができましたが、クメール人は(ハノイのリセや大学を出ているのに)カンボジアの領域内でのみ、ラオ人はラオス領域内でのみ官吏になることができたのです。

 こうして、ヴェトナム人ナショナリストが、「インドシナ」全域の一体性と独立を胸に描いているときに、カンボジア人ナショナリストは、カンボジアだけの「国民」意識を醸していたのです。

 ちなみに、カンボジアでは、ヴェトナム語の表記に使われる字上符(^)に対する嫌悪が、非常に大きいと聞いたことがあります。国際語エスペラントを広めようとしたカンボジア人が、エスペラントで使われる「^」を、カンボジア王家の紋章に変えて書くようにしたというのです。字上符のある言語を、カンボジアの人びとは忌まわしく思うからだというのでした。

 しかし、20世紀のナショナリズムは、民衆ナショナリズム公定ナショナリズムの混合です。

 「インドシナ」紛争の事態を、《公定ナショナリズム》の側面から見ると、それは果して、民衆の意識・感性と、どれだけの関わりがあるのだろうと、疑わざるをえないのです。



「現代のナショナリズムは、二世紀におよび歴史的変化の相続者である。
〔…〕《公定ナショナリズム》は最初から、意識的な自己防衛政策であり、帝国・王朝的利益の維持と密接にむすびついていた。しかし、ひとたびそれが『だれにでも見てとれるようになると』、〔…〕等しくさまざまの政治・社会システムによって複写できるものとなった。そして、このスタイルのナショナリズムのひとつの変わらぬ特徴は、それが公定であるということ、―――つまり、それが、国家から発散して、なによりもまず国家の利益に奉仕するものだということにある。

 したがって、公定ナショナリズムモデルは、まさに革命家が国家の掌握に成功し、かれらの夢を実現するためにはじめて国家権力を行使しうる地位についたとき、とりわけ妥当なモデルとなる。
〔…〕

 革命に成功した指導者はまた、旧国家の配線―――ときには、役人、情報提供者をふくめて、しかし、常に、ファイル、関係書類、公文書、法律、財務記録、人口統計、地図、条約、通信、覚書その他―――を相続する。まえの所有者が逃げだしてしまった大邸宅の複雑な配電システムのように、国家は、新しい所有者がスイッチを入れ、ふたたびあのまえとかわらぬ輝かしい自己をとりもどすことを望んでいるのだ。

 したがって、革命的指導部が、意識的あるいは無意識的に、領主のふるまいをするようになったとしても、あまり驚くにはあたらない。
〔…〕「公定ナショナリズム」は、〔…〕巧妙に革命以降の指導のスタイルのなかに入りこんでいる。〔…〕そのような指導部が、いにしえの君主と王朝国家のナツィオナルノスチ〔国民性〕とされるものを容易に採用するようになる〔…〕革命的国民運動とはきわめて対照的な、革命以降の体制のあのきわだった特徴、『国家』のマキアヴェリ主義が現れてくる。〔…〕

 わたしがここで指導部を強調するのは、古い配電盤と宮殿を相続するのが指導部であって、人民ではないからである。
〔…〕クメール人とヴェトナム人の農民が、両人民のあいだの戦争を望んだとか、これについて相談を受けたとかいうことはありえない。これらの戦争は、まさに文字通りの意味で、『書記局の戦争』であり、民衆のナショナリズムは、事後的に、そしてつねに自己防衛の言語で、動員されたのである。」
『想像の共同体』,pp.265-267.






 
 ディエン・ビエン・フーの戦い(1954年) 
   ヴェトナム民兵と作戦を練る   
   ヴォー・グエン・ザップ司令官  






 【7】ナショナリズムは言語を越えて



 ここで、ふたたびヨーロッパに戻って、スイスの例を見ておきたいと思います。

 周知のように、スイスには、ドイツ語、フランス語、イタリア語、レト・ロマン語―――という4つの言語地域があり、4つの言語はみな公用語で、優劣はありません。使用人口は、ドイツ語が 64%で(1910年には 73%だった!)、レト・ロマン語が 0.5%。ドイツ語を公用語に定めてしまえばいいのに、と思うかもしれませんが、そうはならないのです。“多数決万能”の日本人とは、考え方が違います。⇒:スイス・言語(Wiki)

 

「19世紀後半―――公定ナショナリズムの時代に―――ドイツ化が試みられなかったということはおそらく驚くべきことだろう。もとより 1914年までの時期には、強力な親ドイツ感情が存在した。
〔…〕しかし、スイスは、他の2つのヨーロッパの大国、フランスとイタリアとも国境を接しており、ドイツ化の政治的危険は明白だった。つまり、ドイツ語、フランス語、イタリア語の法的対等は、スイス中立のコインの表だったのである。」
『想像の共同体』,pp.216-217.



 つまり、言語の統一よりも、“永世中立”という国際政治的選択が優先されたのです。

 (なお、“日本は、中国、ロシアという大国と隣り合っているから、地政学的に中立は不可能だ”などと言って“対米隷従”を正当化する学者がいますが、無知そのものですねw スイスは、たえまなく戦争をくり返す大国に挟まれているからこそ、永世中立が必要であり、また可能であったのです。)

 ここで、ぜひ認識しておきたいのは、スイスでナショナリズムが勃興したのは、たいへん遅くて、著者によれば 19世紀末(1891年)です。日本より 20年以上遅く、ビルマ、インドネシアのナショナリズムよりも、10年と早くはない。これは、スイスの保守的な政治構造(絶対君主のいない、いわば中世的な貴族共和制)と後進的な社会経済構造のためです。

 つまり、スイスのナショナリズムは、民衆ナショナリズム公定ナショナリズムが混合する《20世紀のナショナリズム》に入ると言ってよい。しかも、上に述べた“永世中立”の維持という制約、また、保守的な政府は中央集権化に消極的だった、などの理由で、公定ナショナリズムの採用は、著しく抑制されたのです。

 もうひとつ重要なのは、20世紀に入ると、ラジオ放送の開始によって、書物、新聞に代る大衆コミュニケーションの手段が登場したことです:



「20世紀のコミュニケーション革命の前夜にスイス・ナショナリズムが出現したことにより、言語的一体性なしに想像の共同体を『表現する』ことができたし、またそれが実際的なことともなったのである。」

『想像の共同体』,p.217.



 現在でも、
「スイスの公共放送・SRG SSR(スイス放送協会)は、4つの公用語を使用して放送している。」
Wiki(上記リンク)



 書物や新聞とは異なって、ラジオ放送ならば、複数の言語で放送することによって、たがいに理解しあえない言語使用者を、一体的に結びつけ、「国民」共同体を想像させることができるのです。

 (新聞だって、各言語版を発行すればできるじゃないかと思うかもしれませんが、現代のIT植字ならできるとしても、活字印刷の時代には無理です。活字は拾わなければならない。ドイツ語しか書けない植字工に、フランス語の正確な綴り字を拾わせることは、不可能です。)



「多重言語放送は、文盲者とさまざまな母語をもつ住民の心のなかに想像の共同体を浮かび上がらせることができる。」

『想像の共同体』,pp.212-213.



 公用語を理解できる者が、住民のうち一握りにすぎないアフリカ諸国にとって、「国民」の一体性を保つために、「国語」の強制という強権的政策によらなくてもよいとすれば、それはまたとない吉報であるにちがいありません。



「20世紀のナショナリズムは、
〔…〕すぐれて『モジュール』〔規格化された組み立てユニット――ギトン注〕的性格をもっている。〔…〕

 国民主義指導者は、公定ナショナリズムをモデルとして文武の教育システムを、19世紀ヨーロッパの民衆的ナショナリズムをモデルとして選挙、政党組織、文化的祝典を、そしてさらに南北アメリカによってこの世にもたらされた市民の共和国の理念を、意識的に展開しうる立場にある。そしてなによりも、『国民』という観念それ自体が、いまでは、
〔…〕政治意識と分かち難く結びついてしまっている。

 国民国家が圧倒的規範となっている世界において、こうしたことすべてが意味することは、いまや国民
〔…〕言語の共同性なしに想像されうるということである。」
『想像の共同体』,p.212.







1945年8月15日「光復」
きょうからは韓国語を
自由に話せる
喜びに沸く人びと。






      ◆      ◆





 さて、最後に、アンダーソンは述べていませんが、彼の理論を応用して、《東アジア諸国のナショナリズム》について考えておきたいと思います。

 日本のナショナリズムが、19世紀後半という、その誕生時期に強く制約されて、《公定ナショナリズム》として展開してきたということは、すでに本書の中で述べられていました。

 それでは、中国、朝鮮(韓国)については、どうでしょうか?

 ぼくは、この2国は、インドネシア、ヴェトナムなどと同様に、《20世紀のナショナリズム》と言ってよいと思うのです。つまり、《公定ナショナリズム》《民衆ナショナリズム》が混合しています。

 たしかに、この2国でナショナリズムが起こった時期(中国の「変法自彊」運動、朝鮮の「愛国啓蒙運動」)は、日本に比べてそれほど遅れてはいません。そして、その後の経過は、3国が並行して進行しています。
〔なお、ナショナリズムに関しては、「遅れて」始まることは、「後進性」を意味しません。むしろ、早く“誕生”した国民のほうが、古い伝統が固定してしまうので、より保守的になりやすい。〕

 しかし、日本が独立国として「富国強兵」、さらには帝国主義的膨張の道をたどったのとは対照的に、2国のナショナリズムは、多かれ少なかれ国家の主導から離れたところで形成されていきました。日本の植民地となった朝鮮で、植民地キャリア・システムによるナショナリズムの形成がありえたかは疑問です。

 他方、学校教育ナショナリズムの形成に果たした役割は、決して小さくありません。朝鮮について言えば、《日韓併合》以前から外勢への抵抗として行われた民族的私学教育が準備段階としてあり、その上で、差別的な植民地教育が、パラドキシカルに民族意識の自覚を促したと言えます。1919年の《3・1運動》は、ナショナリズム形成の大きな画期でしたが、そこにおいても、またその後においても、学生が大きな役割を果たしています。中国の《5・4運動》等も、同様でしょう。

 しかし、より下層まで含む民衆に眼を向けると、アンダーソンが《20世紀ナショナリズム》の第1の要因として挙げる「物理的移動のけたはずれの増加」(pp.190-191)が、朝鮮では重要な意味をもったと思われます。

 すなわち、植民地支配による“窮乏化”にともなう出稼ぎから、強制徴用まで、さまざまなヴァリエーションをもった移住労働のなかで、「民族」意識が形成されたと思うのです。

 こうして、1945年までの段階では、《民衆ナショナリズム》の面が非常に強く現れたと言えます。

 しかし、第2次大戦後の独立、また中国では「革命」後の、支配の安定にともなって、《公定ナショナリズム》が前面に出てきました。

 とりわけ、中国と北朝鮮についていえば、(アンダーソンも述べていたように)社会主義政権は《公定ナショナリズム》を強める傾向があると言えます。というのは、《民衆ナショナリズム》のような、自然発生的な運動は、レーニン以後の共産主義者(レーニン、スターリン、毛沢東、金日成)にとっては、たいへん都合が悪いからです。“自然発生的はいけない。意識的、計画的でなければならない。”と、口を酸っぱくして彼らは言います。では、だれが「計画」するのか? もちろん「人民」ではありません。書記局と幹部です。

 そういうわけで、現在の中国、北朝鮮では、ほとんど純然たる《公定ナショナリズム》が支配しているように見えます。つまり、日本に似てきています。もし、最近日本の政権のやっていることが、習政権、金政権に似てきたと思う人がいたら、それは、双方が等しく《公定ナショナリズム》の特徴をもっているからです。

 韓国は、どうか?

 軍事独裁政権時代(李→朴→全)には、《公定ナショナリズム》が優越していましたが、“民主化”以後、巷の書店には「民族」関係の本があふれています。《民衆ナショナリズム》に大きく傾いたと言えます。そして、最近の《ロウソク革命》は、一面において、《民衆ナショナリズム》が“政権”を取った事件―――とも言えるでしょう。

 それでは、政権をとったとたんに、(社会主義国のように)《民衆ナショナリズム》《公定ナショナリズム》に変質するのか?

 その答えはまだ出ていません。注意深く見守る必要があるでしょう。

 そして、《公定ナショナリズム》ひとすじに来た私たちの国も、これからどうするのか? ―――自分の姿は、鏡に映さなければ、見えないもの。日本ナショナリズムの姿を、まずご覧ください:


   アジアの教科書に書かれた日本の戦争(Youtube)


 この極端なまでの《公定ナショナリズム》《民衆ナショナリズム》に変えて行く道は、あるのか? それとも、そもそも「ナショナリズム」という枠を超えることをめざすべきなのか?

 ぜひ、アンダーソンの本を手に取って、読者それぞれが、考えてみてください。






【必読書150】アンダーソン『想像の共同体』―――終り。   









ばいみ〜 ミ




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