08/01の日記

12:45
【必読書150】アリストテレス『詩学』

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 こんばんは。(º.-)☆ノ



 『悪霊』がまだ途中ですが、この1冊を、先に片づけておきます↓



アリストテレス・著,三浦洋・訳『詩学』,光文社古典新訳文庫,2019.







 【1】『詩学』という題名



 日本では慣用的に『詩学』と訳されていますが、この、なにか難しい学問の教科書のような邦訳題名は、二葉亭四迷によるものだそうです。

 原題は


「作詩術について(ペリ ポイエーティケー)」


 ないし


「創作術について」


 しかし、「作詩」といっても、私たちがイメージするのとは、かなりちがうものを対象にしています。

 現在の日本で「詩」と呼ばれているものは、詩集の本にしろ、ネットに出ている素人の詩にしろ、おおざっぱに言って「抒情詩(Lyric)」のなかに入ります。

 ところで、英語で Lyric と言えば、まず「歌詞」ですよね。外国のヒット曲の歌詞をネットで探したことのある方は、ご存知でしょう。つまり、リリックとは、「うた」なのです。

 古代ギリシャでもそうで、およそ「抒情詩」はすべて、歌いながら踊るものでした。詩人が詩を棒読みする‥なんてことは、なかったのです。踊り手がひとりの場合は「哀歌」、おおぜいでにぎやかに踊る場合は「ディテュランボス(ディオニュソス讃歌)」といいました。

 しかし、その時代の「詩」の中心は、それらではなく、なんといっても「悲劇」でした。古代ギリシャの「劇」も、最初は、おおぜいの「コロス(合唱隊)」が歌ったり踊ったりしていたのですが、合唱隊長と「コロス」が、かけあいで歌う場面がそこに加わった。さらに、セリフを言う俳優が何人か登場するようになった。それでも、ふつうは、「コロス」以外の俳優は3人以下です。こうして「悲劇」が始まりました。

 だから、コロスの唄う「うた」だけでなく、俳優のセリフもすべて、韻文(音律と脚韻のある詩の文)になっています。「ふし」がついていなくても、韻文ですから、舞台では抑揚たっぷりに朗誦することになります。ちょうど、歌舞伎や人形浄瑠璃のセリフと同じですね。

 それと、古代ギリシャで「悲劇」と並んでさかんだったのは、ホメロスのような「叙事詩」です。「叙事詩」も、日本で『平家物語』を琵琶法師が伝えたのと同じように、竪琴や縦笛で伴奏しながら歌われました。

 だから、アリストテレスの言う「作詩術」とは、悲劇叙事詩を作る技術のことです。しかも、彼はこの本の中で、「作詩術」で最も大切なのは、きれいなリズムでうたうことではなく、美しい言葉を使うことでもなく、すぐれた《ストーリー》を作ることだと言っています。

 ですから、この本の中身は、「詩学」という題名とはうらはらに、むしろ小説や戯曲を書く場合に役立つことが書いてあるのです。













 【2】『詩学』の章立てと大意



@ 第1〜3章 「詩」ジャンルの分類――喜劇と悲劇、叙述する方式と演じる方式

A 第4,5章 「詩作」の発生原因――「模倣(ミメーシス)」と、音階・リズム

B 第6章 「悲劇」の本質――《ストーリー》

C 第7〜14章 《ストーリー》の構成法、各論

D 第15章 人物の「性格」

E 第16〜18章 《ストーリー》・「性格」各論――過去の劇作例に学ぶ

F 第19章 「思考」と「語法」

G 第20〜22章 「語法」論

H 第23〜24章 「叙事詩」論

I 第25章 「詩人追放論」に反駁する

J 第26章 悲劇は叙事詩に劣るか?



 @とAは、Bで「悲劇の本質」を定義するための基礎考察。「模倣」することは、人間という動物種の本性だとしたうえで、すぐれた人の行為を模倣するのが「悲劇」で、劣った人の行為を模倣して笑わせるのが「喜劇」、また、「悲劇」「喜劇」という「演じる方式」に対して、「叙事詩」は「叙述して伝える方式」だとします。

 そして、「悲劇の本質」の定義では、ひとまとまりの・すぐれた「行為」を「模倣」すること、すなわち、すぐれた《ストーリー》を組み立てることに、作詩(作劇)術の要諦があるとします。

 つづくCDEは、具体的に、どのようにしたら、すぐれた《ストーリー》を組み立てることができるか、という実践的な各論。私たちが読んで直接役に立つのは、もっぱらこの部分ですから、のちほど内容を紹介することにしましょう。

 Fの「思考」とは、『弁論術』と重なる部分、FGの「語法」は、ほとんどギリシャ語の文法概説の内容です。

 Hは、「悲劇」と「叙事詩」を比較して、「悲劇」とは異なる「叙事詩」ならではの問題を論じています。たとえば、「叙事詩」は舞台で演じる必要がないので、観客がびっくりするような異様な事態を述べて、楽しませることができると言っています。SFのような荒唐無稽な神秘に、「叙事詩」――物語の本領はある、ということでしょうか。

 IJは、プラトンの「詩人追放論」・「悲劇」否定論に対する反論です。アリストテレスは、「叙事詩」よりも「悲劇」の方が優れていると結論づけています。






 【3】「模倣(ミメーシス)」ということ



「模倣することが人間には幼少期から自然本性的に備わっているため、他の動物とは違って、最も模倣を得意とし、最初期の学習も模倣を通じて行う。それがゆえに、人間なら誰もが模倣像を喜ぶということも、自然本性的に備わっているわけである。

 その証拠は、現実に経験されるできごとのうちにある。例えば私たちは、下等動物の姿や死体など、実物を目にするのが苦痛な対象であっても、それらをきわめて精緻に描いた像を鑑賞するときには喜びを感じるのである。

 それはなぜなのか。さらに大本の原因に遡ってみると、
〔…〕学習してわかることが最も快いという事実がある。〔…〕わかることの快さゆえに模倣像を喜んで鑑賞するとはどういうことかといえば、『この像は、あの人を模倣したものだ』というように、個々の像が何であるかを推論し、わかることが鑑賞者に生じるという意味である。」
アリストテレス,三浦洋・訳『詩学』,光文社古典新訳文庫,2019,pp.32-34.






 






 アリストテレスは「模倣」という言葉を、たいへん広い意味で使っていることがわかります。アリストテレスによれば、人の「行為」を「模倣」することが、“詩作”の基本です。‥‥たくさんの「行為」が連なって、ひとまとまりをなしているもの――つまり「できごと」――を「模倣」すること、すなわち《ストーリー》を作ることが、創作術の本質なのです。

 ここで、「模倣する」とは、人の行為を、身振り手振りで真似することだけではありません。絵や彫刻にすることも、人やその行為の「模倣」だし、文章によって描くことも「模倣」です。音楽を作ったり、うたにして歌うこともまた、「模倣」なのです。

 しかも、「模倣する」ことは人間の本性であること―――それは、一方で叙事詩や劇や音楽を作る活動を基礎づけていますが、他方では、それらを鑑賞する観客の側の条件をも規定しています。人は、実物を見て喜ぶ以上に、「模倣像」を見て喜ぶ性質があるのです。

 ここでアリストテレスは、「下等動物の姿や死体など」の汚らしいものと、それを描いた絵画を比較していますが、文章や物語の例を挙げることもできたでしょう。たとえば、トロイア戦争と、都市国家トロイアの陥落は、その現場に居合わせたとしたら、あまりにも凄惨で眼を覆いたくなる状況だったにちがいありません。誰でも、二度とこんなものは見たくないと言うでしょう。

 しかし、その同じ事件が、叙事詩として物語られると、人は聞いて感動するのです。そして、何度でも聞きたくなります。

 同じことは、壇ノ浦での平家の滅亡と、それを描いた『平家物語』、また、フランス革命を描いた多くの物語や小説についても、言えるはずです。

 それでは、いったいどうして、そういう違いが生ずるのか、‥‥実物を見ると不快な場合でも、その模倣像を見ると快いのは、いったい、なぜなのか? この問いに対するアリストテレスの答えは、非常に理知的なものです。

 「『この像は、ナニナニを模倣したものだ』というように、個々の像が何であるかを推論し、わかることが」「快い」からだ。つまり、人間は、学習して「わかった」時に、もっとも気持よく感じるというのです。アリストテレスにとって、人間とは、学習する動物、理知的動物なのです。

 しかし、ほんとうに、そう言えるのかどうかは、わかりません。たしかに、何が描いてあるのやら、皆目見当がつかない抽象絵画は、見ても快くない、という人が多いでしょう。「じつは、何々を描いているのだ」と説明されると、“わかった”気になる、ということもあります。しかし、それによって果して「快」が生じるでしょうか? 感銘を受けるでしょうか? それは、はなはだ疑問です。

 ともかく、これが、西洋の芸術諸芸に長いあいだ影響を与え続けてきたアリストテレスの芸術観なのです。それは、「模倣」ということと本質的に結びついています。

 訳者の「解説」によると、このような芸術観は 19世紀以後に強い批判を浴びることになりました。たとえば、ニーチェは、『詩学』の理知的な芸術観を批判して、ディオニュソス(酒神)的な陶酔こそが、根源的な芸術衝動であるとしました。

 このニーチェの考えによれば、もともとの「ディオニュソス讃歌(ディテュランボス)」‥「コロス」による合唱舞踏は、陶酔的なものであったのに、そこに理知的な俳優のセリフを加えて悲劇を誕生させたことは堕落であり、その堕落を主導した悲劇詩人ソフォクレスが“主犯”とすれば、『詩学』でソフォクレスを擁護したアリストテレスは“共犯”なのです。

 しかし、「ディテュランボス」は単なる合唱舞踏ですから、そこに《ストーリー》はありません。《ストーリー》の組み立てを、創作術の要諦とした点に、アリストテレスの理知的芸術論の優れた特徴があったのだと思います。



 ところで、『詩学』にはもっぱら悲劇叙事詩について書かれていて、「喜劇」はあまり論じられていません。

 アリストテレスは、悲劇と「喜劇」の違いについて、悲劇は、すぐれた人物の行為を「模倣」するのに対し、「喜劇」は、劣った人物の行為を「模倣」する点に違いがあると言っています。

 芸術のジャンルとしても、「喜劇」は悲劇よりも劣ったものであると考えていたのかもしれません。悲劇は、すぐれた行為の「模倣」によって観客を教育する効果があるけれども、「喜劇」は、逆に、劣ったものの「模倣」によって観客を堕落させてしまう―――アリストテレスはそこまでは言っていませんが、そう思っていたかもしれません。

 しかし、かりにアリストテレスの言うように、劣った行為の「模倣」なのだとしても、演じ方、描き方によっては、悲劇以上の“教育効果”を期待できる場合があるかもしれません。「劣っている」ということは、観客は、登場人物をつきはなして見ることができる、それだけ理知的になりうる、ということだからです。

 もちろん、「喜劇」の観客は、つねに理知的なわけではありません。「劣った」登場人物を笑い飛ばして、自分はあんなにバカではないと安心しきって、自省を忘れてしまうこともあるでしょう。要は、《ストーリー》の作り方次第なのだと思います。残念ながら、アリストテレスは、「喜劇」のストーリーの創り方については、ほとんど何も書いていないのですが。。。

 そこで、『詩学』からは離れますが、ギリシャの「喜劇」について、少し考えてみますと…













 たとえば、アリストパネスの喜劇『雲』には、ソクラテスが登場して、おかしなことをさんざんやって観客を笑わせます。ソクラテスは、宙を歩いて舞台に登場します。綱で吊り下げた篭に俳優が乗って演じるのですが、とにかく登場のしかたからして異様です。そして、町を歩いている青年に向って、頭の上から問答をしかけるのです。当然に、その口調は高圧的で、問答というより、くだらないコトバ尻の揚げ足取りで、相手を論破してしまいます。一種の風刺ですね。高いところから偉そうに見下ろして、議論を吹っかけるやつ‥‥ということなのでしょう。

 つまり、「劣った人の行為を模倣する」というのは、その模倣される人が、劣った人だとは限らないのです。「劣った人の行為として模倣する」と言ったほうが正確でしょう。ソクラテスのように、ふつうの人よりも「すぐれている」からこそ、その「すぐれている」点を「劣ったもの」として描き(「模倣」し)、風刺する場合もあるわけです。

 このように、「喜劇」が「模倣」するソクラテスは、プラトンが『対話篇』で描く(「模倣」する)ソクラテスとは、真逆なくらい異なっています。

 しかし、ぼくはむしろ、ソクラテスを風刺するなら、プラトンの『対話篇』をそのまま舞台で演じるような劇を書いたほうが、よかったんではないかと思っています。というのは、『対話篇』でソクラテスの対話の相手は、多くの場合、彼の弟子である青年たちです。ソクラテスは、弟子の青年を「運動競技場」に訪問して、そこで対話をしています。つまり、いつもソクラテスの相手の青年は、すっ裸なのです。

 アリストパネスは、その状況をそのまま舞台にするだけでよかったと思います。ソクラテスを演じる俳優の視線が、相手の顔ではなくオチンチンにいつも向けられているとか、つねにほほえみを絶やさないとか、対象が大きくなるにしたがって、ソクラテスの眼は輝きを増すとか‥‥、具体的な演技は、俳優がよろしくやってくれることでしょう。ともかく、ソクラテスの頭の中にあるのが“哲学”ではないということは、何も言わなくても観客には分かるはずですw

 また、そのようにすれば、事実を捻じ曲げて、ソクラテス裁判(理由のない告発で、ソクラテスを死刑に処した)で有罪にするのに一役買った、などと非難されることもなかったでしょう。






 【4】《ストーリー》の「逆転」と「再認」



「詩人の仕事とは、実際に起こったできごとを語ることではなくて、起こるであろうようなできごとを語ること、つまり、もっともな展開で、あるいは必然的な展開で、起こりうるできごとを語ることにある
〔…〕すなわち、〔…〕歴史家と詩人の違いは、〔…〕歴史家は実際に起こった出来事を語り、詩人は起こるであろうような出来事を語ることにある。」
『詩学』,光文社古典新訳文庫,2019,p.70.



〔ギトン注――登場人物が〕このようなタイプの性格なら、このようなタイプのことがらを述べたり行なったりするのが必然的、もしくは、もっともな展開であり、したがってまた、この出来事があの出来事の後に起こるのも必然的、もしくは、もっともな展開であるというようになっていなければならない。

     
〔…〕

 ストーリーを構成するさまざまな出来事には、決して脈絡上の不合理があってはならない。」

『詩学』,p.110.



 つまり、恣意的な、わざとらしい展開、作者の“都合”しか見えないような筋書きは、もっとも拙劣な《ストーリー》の作り方だと言うのです。

 あるいは、じっさいに起きたバラバラな出来事を、時間順に述べてゆくだけならば、“歴史叙述”にはなるかもしれないが、《ストーリー》にはならない。ある出来事が起きた結果として、次の出来事が起きる、あるいは、ある性格の人物がある行為をした結果として、次の行為をすることになる……そういう、脈絡のある展開が必要なのです。

 しかし、その一方で、《ストーリー》は、必然的で・もっともな展開でありさえすればよい、というわけではありません。それだけでは、おもしろくないからです。

 何の意外さもない展開は、読者を飽きさせてしまいます。すべてが予想されたとおりに展開するのであれば、読者は、それ以上読む必要もないと感じるでしょう。

 アリストテレスが論じる、すぐれた悲劇の《ストーリー》とは、観客に“意外さ”を感じさせる戦略をもった展開であったと言えます。






 






「さらに悲劇は、
〔…〕恐れや憐れみを呼び起こす出来事の模倣でもあるわけだから、この観点からすると、悲劇に特有の憐れみや恐れの感情が生じるのは、とりわけ出来事が予想に反する展開で、しかも相互に因果関係を持って起こるときである。実際、そのようなしかたで起こったときのほうが、ひとりでに起こったり運良く偶然に起こったりしたときよりもいっそう驚くべき出来事となるであろう。

 このようにいう理由は、運良く偶然に起こった出来事においてですら、何らかの意図的な因果関係から生じたように見える場合、最も驚くべき出来事になると思われるからである。」

『詩学』,p.76.



 「相互に因果関係を持って起こる」できごとが、「予想に反する展開」でもあるというのは、一見すると矛盾したことのようにも思えます。しかし、それが、どういう場合かということは、次の引用部分で明らかにされます。つまり、ある・もっともな因果関係にしたがって出来事が起きるのだけれども、その因果関係が観客の眼からは隠されていて、のちになってそれが明らかになり、観客は納得する、という場合なのです。

 ところで、ここでアリストテレスが、「運良く偶然に起こった出来事」が「何らかの意図的な因果関係から生じたように見える場合」の例として出しているのは、つぎのような逸話です。むかしアルゴスで起きた党派争いで、ミテュスという人が殺されたのですが、その死後にミテュスの彫像が広場に展示されたとき、たまたま彫像の下を通りかかった殺害犯の上に倒れて、殺害犯は息絶えた、というものです。

 つまり、一種の「神罰」なのですが、迷信深い古代ギリシャ人は、この“因果関係”――因果応報?――に納得したかもしれません。が、現代の観客や読者を納得させることはできないでしょう。むしろ、恣意的で、わざとらしい筋書きと思われてしまうかもしれません。

 ただ、ここでアリストテレスが言いたいのは、たとえば劇の最後の場面で、“全知の神”が空から降りて来て、「この者はミテュス殺害の犯人であるから成敗する。」と告げるような、何の因果関係もない筋書きよりは、偶然とはいえミテュスの霊が復讐を遂げたように見える展開のほうが、まだマシだということです。

 似たような筋書きは、近代の小説にもあります。『神判』というドイツの小説なのですが、いまネットで探してみても、どうしても見つからないので、記憶で再現しますと‥



 ある殺人事件の犯人として捕らえられた男が、どうしても身に覚えがないと言い張る。物的証拠もなく、現場を見た者もいない。しかし、被害者の遺族は、この男が犯人に違いないと、これまた強固に主張する。裁判官は、困り果ててしまった。

 そうしたところ、ある晩、この容疑者が監房で夢を見たと報告する。裁判所の玄関の階段の下にあるライオンの石像の口に手を突っ込んだら、噛まれた夢だという。裁判官は、何の証拠もないし、この男は無実だと思っていたので、さっそくこれを口実に無罪放免することを考える。この夢は「神意」に相違ないから、被告人は、公衆の前で、くだんの石像の口に手を入れてみよ、もしも無事であったら「神判」にしたがって無罪とする、と宣告する。

 勝ち誇った容疑者は、衆人環視のなか、ライオン像の口に手を入れたが、そのとたん、叫び声をあげて倒れ、まもなく死んでしまった。調べたところ、この石像の口の中は、サソリの巣になっていた。そして、まもなく殺人事件の証拠も挙がって、この男が犯人であることが判明した。




 この小説でも、石像の中にサソリがいたのは、まったくの偶然にすぎません。しかし、犯人自身の見た「夢」というきっかけがあるので、一種神秘的な“因果関係”を感じさせることになります。近代の読者の場合には、この「夢」のように、“迷信深さ”を喚起するための“しかけ”が、何かなければならない、―――ということがわかります。




「『複雑に絡み合わされた行為』とは、その行為が逆転再認の一方ないし両方を伴うことによって、そこから登場人物に境遇上の変化が生じる場合である。この逆転再認は、ストーリーの組み立てそのものから生じるのでなければならない。つまり、先に起こった出来事から必然的な展開で、あるいは、もっともな展開で逆転再認が生じるようになっていなければならない。
〔…〕

 まず『逆転』とは、先ほど述べたしかた[つまり予想に反するしかた]で正反対の方向へ行為の成り行きが変転することであるが、しかもこの変転は、私たちが主張しているように、もっともな展開、あるいは必然的な展開で生じるのでなければならない。
〔…〕

 次に『再認』とは、その名も示すように認知していない状態から[再び、あらためて知り直すしかたで]認知へと変転することであるが、幸福もしくは不幸へ向かう定めにある人々は、認知に伴い、愛情を抱くようになるか、あるいは憎悪を抱くようになる方向へ変転することになる。最も優れた再認は、逆転と同時に起こる場合であり、『オイディプス王』の例がそれに当たる。

 
〔…〕この種類の再認こそは、逆転と相まって、観劇者に憐れみや怖れを生じさせることになる〔…〕それというのも、不幸に転じることや幸福に転じることが、そうした愛憎の変転に際して起こるだろうからである。

 かくして、再認とは何よりも人物同士の再認であるから、ある場合には、一方の人物が他方の人物に対してただ一方向的に再認する。これは、一方が誰であるのかが他方には明らかなときである。また、ある場合には、双方向的に再認しなければならない。」

『詩学』,pp.78-84.













 ここで、ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』のあらすじを、おさらいしておきましょう。


「テーバイ王ライオスは、『お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす』との神託を受けたため、妻イオカステとの間に生まれたばかりの男の子を、従者に預け、山へ連れて行って殺すように命じた。従者は、幼い王子を殺すにしのびず、山中に捨てた。この赤子は、隣国コリントスの王夫妻に拾われ、オイディプスと名付けられ、コリントスの王子として育てられた。

 成長したオイディプスは、『王子は実は、王と妃のあいだの本当の子ではない』というコリントス国内の噂を聞き、真偽を確かめるために神託を求めたところ、テーバイ王ライオスに下ったのと同じ神託が下りた。すなわち、『お前がお前の父を殺し、お前の母との間に子をなす』と。自分の両親はコリントス王夫妻だと信じていたオイディプスは、神託が実現することをおそれてコリントスを去った。

 オイディプスは、隣国テーバイに、スフィンクスという怪物が現れて、旅人を迫害していることを聞き、スフィンクスを退治しに向かったが、その途中で通りがかりの王侯と言い争いになり、この王侯を殺してしまった。

 みごとにスフィンクスを退治したオイディプスは、テーバイの王宮に迎えられた。テーバイ王は、旅先で遭難して死亡していたため、摂政クレオンが国を守っていたが、クレオンは、王妃イオカステにオイディプスを娶
(めあ)わせ、先王のあとを継がせた。

 (ここから劇の場面)テーバイのオイディプス王は、国内に疫病と飢饉が続くため、デルフォイに神託を求めたところ、『先王ライオス殺害の穢れのためだから、殺害者を国外に追放せよ』との神託を得た。

 そこで、オイディプスはライオスの殺害者を捜索するとともに、ライオス死亡の報せをもたらした従者を捜させた。その時、オイディプスのもとに、コリントスから使者が訪れた。使者は、コリントス王が死んだため、コリントス王の座はオイディプスのものになったと伝え、オイディプスにコリントスへの帰国を促した。

 しかし、オイディプスは帰国を断った。『お前がお前の父を殺し、お前の母との間に子をなす』との神託を怖れていたからだ。コリントス王は自然死だったとしても、母である妃はまだ生きているので、帰国すれば近親相姦をするかもしれないと恐れたのである。

 そこで、使者は、『あなたは、じつは、コリントス王夫妻の実の子ではない。夫妻が山の中で拾ってきた捨て子なのだ。だから、神託が実現する恐れはないのだ』とオイディプスに言って、安心させようとした。

 ところが、これを聞いたイオカステは、オイディプスが、自分たちがかつて従者に命じて山中で殺させようとした赤子であることを悟る。すなわち、彼女は、自分の子と交わってしまったこと、神託が実現したことを知り、自室にこもって首をくくる。

 そうとは知らないオイディプスは、まもなく連れて来られたライオス遭難を報せた従者と謁見し、殺害者について問いただす。『お前の知っていることを、何もかも隠さずに言え!』

 この従者は、先王ライオスに子の殺害を命じられてコリントスに逃がした従者と、同一人であった。彼は、オイディプスがスフィンクス退治に行く途中で殺してしまった王侯は、先王ライオスにほかならないこと、オイディプスは、ライオスが殺そうとした赤子の成長した姿であることを告げた。

 真実を知ったオイディプスは、イオカステの部屋を訪れたところ、イオカステはすでに息絶えていた。オイディプスは、自身の眼を刺して盲(めしい)になり、クレオンに命じて自らを追放させた。





 さて、アリストテレスが「最も優れた再認は、逆転と同時に起こる場合であ」ると言っているのは、上のオレンジ色の部分です。使者は、コリントス王は自然死したから、オイディプスの恐れるような《神託》の実現は無かったこと、また、オイディプスはコリントス王の実子ではないから、母子相姦の恐れも無いことを言って、オイディプスを安心させようとした。しかし、その行為は、逆に、オイディプスとイオカステに《神託》の実現を知らせることになるのです。これが、行為者の意図とは逆の結果になる逆転。そして、オイディプスとイオカステは、たがいに相手が自分の母であり自分の子であることを知る、夫婦であるのに母子でもあるという衝撃的事実を知るのです。これが再認です。

 また、アリストテレスは、「ある場合には、一方の人物が他方の人物に対してただ一方向的に再認する。」「また、ある場合には、双方向的に再認しなければならない。」と言っていますが、このオイディプスとイオカステの場合は、「双方向的再認」が必要な場合です。イオカステは、子捨てをした当事者であるだけに、コリントスの使者の話だけで、オイディプスは自分の子だと「再認」することができます。しかし、オイディプスには赤子のときの記憶はないので、そのあと、子捨てをした従者の話まで聞かなければ、イオカステを母と「再認」することができません。






 






「さて、最も優れた悲劇作品の組み立ては、単線的なものではなく複雑に絡み合わされたもの(逆転再認の一方ないし両方を伴うもの)でなければならないし、しかもそれは、怖れや憐れみを呼び起こす出来事の模倣でもなければならない。」

『詩学』,p.90.



 それでは、劇中の出来事は、どんな場合に「怖れや憐れみを呼び起こす」、すなわち、「悲劇」にふさわしい《ストーリー》となるのだろうか?

 ここでアリストテレスは、逆転再認によって運命を変転させられる人物の性格ごとに、この問題を考えようとする。

 まず、「きわめて有徳な善き人物が幸福から不幸へ転じる」場合は、どうか?「この場合、怖れも憐れみも呼び起こさず、忌まわしいだけ」だから、悲劇にはふさわしくないという。つまり、このような理不尽な成り行きは、「必然的」でも「もっともな展開」でもなく、およそ、あってはならないことだから……というのです。

 ここにも、ギリシャ人らしい調和的な正義観念が現れていると思います。

 では逆に、「悪人が不幸から幸福に転じる」のは、どうか? これも、まっこうから正義に反するので、「憐れみや怖れ」を呼び起こさない。「あらゆる構成のうちで、最も悲劇にふさわしくない」。

 

「では今度は、並はずれた悪人が幸福から不幸へ転落するのならよいかといえば、そうではない。このような構成は、
〔…〕憐れみや怖れを呼び起こさないからである。」
『詩学』,p.92.



 つまり、“勧善懲悪”にはなるかもしれないが、「悲劇」にはならないわけです。なぜなら、不幸になるべきでない人が不幸になったのを見て、人は「憐れみ」を感じるのだし、自分と同じような人物(徹底的な悪人ではない人物)が不幸になるのを見て、人は、自分もそうなるかもしれないという「怖れ」を感じるのだからです。



「それゆえ、残るのは、以上挙げた善人と悪人の中間に位置する人物である。つまり、徳と正義において特段に傑出した人物ではなく、さりとて、悪徳や邪悪さゆえに不幸へ転じる人物でもなく、ある種の失敗が原因となって不幸に陥るタイプの人物である。
〔…〕

 このように見てくると、素晴らしいストーリーというのは、
〔…〕第一に、〔…〕幸福から不幸への変転であること、第二に、不幸の原因が悪徳ではなく、大きな失敗であること、第三に、不幸になる人物は、上に述べたような中間的な人物であるか、もしくは、劣った人物よりはむしろ優れた人物であるのが必然的だということになる。」
『詩学』,pp.92-94.



 つまり、アリストテレスの見立てでは、すぐれた「悲劇」の主人公とは、善人でも悪人でもない「中間的な人物」、‥どちらかといえば「すぐれた人物」、‥すぐれた徳性のある人物が、その性格上の欠点のために失敗し、不幸に転じてゆくような場合だ、ということになります。オイディプスは、その適例だというのです。

 ここには、“人間の運命”もなければ、“宇宙の摂理”もありません。ただひたすらに、作品を作品として、「悲劇」を人間の作り上げたものとして分析し、解明した結果だけを述べるアリストテレスの確乎たる態度に―――しかも、2千数百年むかしに―――、私たちは戦慄するほかないのではないでしょうか?






 【5】アリストテレス以後の“詩学”―――ホラティウスと『サテュリコン』



 “すぐれた人物の行為を「模倣」する”という『詩学』の創作芸術論は、ローマ時代になると、ホラティウスによって継承され、芸術とは教化である、教育である、という考え方になっていきました。


「詩人は読者を改善するか、快を与えるか、その両方を行なうかすべきである。」


 とホラティウスは言っています(Epistles, book 2II.3 – Ars Poetica – 334-346)。

 この方向は、ルネサンスで復活し、近世・近代のアリストテレス芸術観に受け継がれていきます。文芸は人の感情を浄化し(カタルシス)、倫理的完成に向って教化する、という考え方が、西欧近代人の教養の根底にはあります。

 もっとも、ホラティウス以後のローマ、とくにローマ帝国時代の文芸は、かならずしも“文芸による教化”の方向には進まなかったようです。

 紀元2世紀には、“世界最初の小説”とされる『サテュリコン』が書かれます。『サテュリコン』の誕生が、文学ジャンル史上の大きな画期であったことは否定できないでしょう。しかし、その内容は、「すぐれた人物の行為を模倣」するもの、あるいは「読者を倫理的完成に向って教化」するものとは、お世辞にも言えません。













 しかし、ここでちょっと考えるのですが、『サテュリコン』の登場人物たちにも、アリストテレスが「悲劇」について述べていたことの幾分かは当てはまると思うのです。―――フェリーニの映画のせいで、この作品は誤解されすぎています.....

 『サテュリコン』の登場人物たちは、幸福にも不幸にもなりません。不幸に転落するかと思うと、持ち前の粘り強さ、したたかさで、這い上がってきます。幸福になろうとしても、かならず何か失敗をやらかすか、悪行の報いを受けて、沈没します。

 しかし、彼らはやはり、アリストテレスが“悲劇の主人公にふさわしい”と言う「中間的な人物」なのです。全体として、悪いことをしつづけているのですが、しばしば原石のダイヤモンドを見るような徳性の輝きがひらめきます。とくに、限界状況に置かれたときのその輝きはみごとです。

 さいごに、『サテュリコン』(ただし要約)から一例を引用して、この小論を締めくくりたいと思います。

 身体と身体で愛し合う同性の二人づれエンコルピウスギトンは、嵐に見舞われた船の甲板に置き去りにされ、まもなく沈没という状況。ふたりは、(なぜか)素っ裸になって抱き合い、互いの身体が離れないようにしっかりと縛りつけるのでした:



「   第114節

 嵐は船から、マストも、帆も、舵も、何もかも、オール1本残さずに奪い去って行きます。エンコルピウスギトンの身体を抱き締めて泣き叫びました:

 『これは、神々の思し召しか?ぼくらは死んではじめて結ばれる運命だったのか?それどころじゃない!幸運の女神の悪意は、それさえ邪魔するつもりだ。見ろ!…海は忽ちぼくらの抱擁を断ち切るだろう!』

 「ギトンは、着ているものを全部脱ぎ捨て、エンコルピウスのチュニック(下着)の中に潜り込んで、キスのために顔を上げ」、帯でふたりの身体をきつく縛ります。ギトンいわく:

 『こうすれば、いかに波が荒れ狂おうとも、海は私たちを、少なくとも繋がったまま運ぶでしょう。そして、もし同じ浜辺に打ち上げてくれたなら、心ある通行人が、私たちの遺体の上に石を積んでくれるかもしれません。あるいは、風で飛んで来た砂が、私たちの埋葬式を執り行なってくれるでしょう。』


 ……幸か不幸か、まもなく嵐はおさまり、船は無事海岸に流れ着きました。と、驚いたことに、ボートで避難したと思っていた“ひひ爺い”のエウモルプスが、船倉の底で、巨大な羊皮紙相手に大格闘の真最中。助け上げようとすると、野獣のような唸り声をあげて抵抗します。大嵐もどこ吹く風、シーザーを讃える一大叙事詩を書き下ろしているんだとか。。。」

⇒⇒サテュリコン(23)。    



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