02/23の日記

04:30
【宮沢賢治】1975年という画期

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 こんばんは (º.-)☆ノ




 『春と修羅・第1集』の“全詩解読”と銘打った『ゆらぐ蜉蝣文字』のイントロで、ギトンはかつて、宮沢賢治の死後、現在までの受容史を3つの時代に区分してみたことがあります。⇒:宮沢賢治の読まれ方──3つの時代

 そこでは、


〔第T期〕1933年〜1950年頃 伝説的“聖人崇拝”の時代

〔第U期〕1950年頃〜1990年頃 “悩める修羅”の時代

〔第V期〕1990年頃〜 ???の時代


 という区分を、‥なんとも大雑把な思いつきのものですが、示していました。いま見ると、〔第V期〕というのが何だかよくわかりませんし、それは、〔第U期〕がいつ終わるか、ということにも関係します。

 最近考えているのは、〔第U期〕は、1970年代半ばには終っていたのではないか‥ということです。というのは、1970年代を通じて、あの画期的な『校本宮澤賢治全集』が出版されているからなのです。それまでの 40年間、専門研究者の目にも触れない歴代全集編集者の手のうちにあった作者の遺稿の全容が、一般読者の前に、一挙に公開されたのでした。これが“宮沢賢治のすべて”だと思われていたものの数倍以上の分量の原稿が、活字となって、まるで投げ出されるように衆目の前に現れたのですから、この“事件”が、賢治作品の鑑賞、理解、そこから各自が受けとろうとするものに、影響を及ぼさないはずはないのです。

 しかもそれだけではなかった。“宮沢賢治圏”の外側の、この国の文学や読書界一般の状況も、この時期に大きな変容を被っていました。一言でいえば、“これが文学だ”“「純文学」だ”という永い間の常識が崩れ始めていたのです。その常識では、宮沢賢治などは、「文学」の枠外に締め出されていたのです。

 現在では、どこの大きな書店にもある宮沢賢治のコーナーが、‥そのもっともささやかなものが現れ始めたのは、1980年代以後ではないかと思います。当時、宮沢賢治を「文学」として扱う大学など、どこにもありませんでした。大学へ行って宮沢賢治について教えてもらうことなど、まったく考えられなかったのです。もしも、そうでなかったら、…現在のように、いくつかの大学には賢治研究者としても知られる教授がいて著書を出している、という状況があったとしたら、ギトンの人生は大きく違っていたとさえ思います。






 昨年の「宮沢賢治学会」の夏季セミナーでの富山正俊さんの講演に促されて、柄谷行人の文庫本を読んでみたのですが、そこにはやはり、1970年代の半ばが大きな画期であったということが書かれていました:



「1970年代の半ばに、大きな転換期があったことは明らかである。
〔…〕そこに近代文学が決定的に変容する光景を見いだした。一つの特徴を言えば、それは、『内面性』を否定することだったと言える。文学といえば、暗くどろどろした内面といった一方的なイメージが、この時期に払拭された。別の側から言えば、それは意味や内面性を背負わない『言葉』が解放されたということである。それは、『風景の発見』によって排除されたものが復権されたということだ。言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語、つまり、近代文学が締め出した全領域が回復しはじめたのである。」
柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』,2008,岩波現代文庫(原2004,岩波),「文庫版あとがき」,pp.281-282.


「1970年代の後半に『日本近代文学の起源』を書いたときも、私は『日本近代文学の終焉』を感じていた。しかし、それは、旧来の文学に代わって、別の文学が台頭するだろうという予感であった。事実、1980年代には、近代文学の支配下で排除されていたような形式の小説が多く書かれたのである。
〔…〕

 実際、1980年代の日本の文学には一種の文芸復興(ルネサンス)があった。
〔…〕1990年代に入って、ソ連邦が崩壊しグローバルな世界資本主義の浸透が進むにつれて、文学は新たな力を持つどころか急激に衰え、社会的なインパクトを失い始めた。文字通り、『近代文学の終焉』が生じたのである。しかも、それは日本だけの現象ではなかった。」
『定本 日本近代文学の起源』「岩波現代文庫版への序文」,pp.1-2.




 柄谷氏の言う“近代文学”の「内面性」――「文学といえば、暗くどろどろした内面といった一方的なイメージ」――は、宮沢賢治にも無いわけではありません。しかしそれは、賢治以外の日本近代文学の作家のようなしかたでは表出されなかったのです。島崎藤村も、国木田独歩も、読んでみると、決してその「内面性」を、「どろどろ」とは表出していません。どろどろとした表出のしかたが好まれるようになったのは、志賀直哉あたりからではないかと思います。

 











 1970年代以前の読まれ方では、宮沢賢治は、戦前の東北農業の実践家、あるいは禁欲的で真摯な仏教者、求道者としてのみ見られていました。「雨ニモマケズ」「永訣の朝」「作品709 春」など、よく知られた詩篇に、そういう賢治像が表れています。〔第T期〕にはそれが全面的に肯定的に、〔第U期〕には半ば否定的に受け取られていたと言えます。

 しかも、一般に読まれていた“宮沢賢治”は、宗教的な著述でも農業に関する文章でもなく――それらは分量は少ないながら存在するのに、現在でもほとんど読まれてはいない――、童話と、賢治詩のごく特殊な一部だけでした。そこに大きな矛盾があったと言えます。

 上記の「いんとろ」に引用した佐藤通雅さんの回想でも、



「作家の実人生が下敷にあって、作品が読まれるという行為が。賢治の場合も例外ではない。むしろ典型的にそれがあって、一人物の〈伝説〉が作品に混入してきた面がある。やがて天沢退二郎らの出現によって、〈伝説〉も地上性も排除されたうえで作品そのものを読むことがはじめられた。」

佐藤通雅『宮沢賢治から〈宮沢賢治〉へ』,1993,学藝書林,pp.36-37.



 と述べられています。1970年代は、賢治作品のすべてが、宮沢賢治という“偉人”、あるいは“悩める人”を読むための手段としてではなく、物語、詩、和歌そのものとして読まれるようになった初めなのではないかと思います。

 そうすると、さきほどの時期区分は、つぎのように改めることができるのではないかと思うのです:



〔第T期〕1933年〜1955年頃 伝説的“聖人崇拝”の時代

〔第U期〕1955年頃〜1975年頃 “悩める修羅”の時代

〔第V期〕1975年頃〜1995年頃 再発掘の時代

〔第W期〕1995年頃〜 “異界を見た人”の時代



 便宜的にですが、今回は時期区分を 20年ごとにしてみました。

 1970年代の『校本全集』出現から 20世紀末までは、いくつかの新しい傾向が放射状に伸びて、どれかが主流になるということはなく、いわば、“宮沢賢治ルネサンス”と言ってよいような活況を呈していたと思います。一つは、『校本全集』によって公開された草稿に基づく基礎的な分析研究、それとは別の大きな流れとして、地質学、動植物学、物理学、心理学、社会学などの専門家による、それぞれの専門分野からの賢治作品の解明、宮澤清六氏の『兄のトランク』をはじめとする、生前の賢治を知る人々による回想記やその総集編の公刊、また、この時期に読書界を席巻した神秘主義、霊界ブームの影響を受けた作品鑑賞が挙げられます。

 賢治の同性愛者としての側面に光を当てた菅原千恵子さんの『宮沢賢治の青春』も、1994年に出ています。

 これらはいずれも、これ以後の賢治鑑賞と研究の土台となるもので、この〔第V期〕は、変貌してゆく時代環境の中で賢治作品が読み継がれてゆくための、新たな基礎が据えられた時期だったと思われるのです。

 そして〔第W期〕ですが、〔第V期〕に基礎を据えられた各分野が花開くなかで、全体としてはとくに、神秘主義の傾向が強まってきたのではないかという気がします。栗谷川虹さんの『宮沢賢治 異界を見た人』の原著は 1983年に――地方出版社から出たのは、さらに以前で、1976年広島県福山市の出版社から『気圏オペラ』の題名で――出ていましたが、しばらくは日の目を見なかったこの傾向が、次第しだいに“賢治圏”全体に浸透してきたように思われます。ただ、全体的な傾向としてはありながら、現在でも、基礎的な解析が十分ではないと思われるのが、この分野なのです。

 また、菅原千恵子さんによって先鞭をつけられた“同性愛文学”の側面については、まだまだ芽が出るのはまったくこれからという状況です。






 もともと、日本近代文学は、社会的・政治的な動きとは一線を画した垣根の中に閉じこもって営まれてきた――少なくともそう言われてきました。しかし、その“日本近代文学”からはみでた存在であった宮沢賢治は、垣根に引きこもる必要はなかったわけです。したがって、政治的、社会的な世の中の動きと関連させて賢治作品を読むことは、十分に意味があると思われるのです。

 〔第V期〕以後、とくに《シベリア出兵》との関連で、いくつかの童話を新しい光のもとで読み解こうとする論考が現れてきました。いずれも、斬新な読み方として注目を集めているのですが、まだ十分な考察がなされたとは言えない段階です。《シベリア出兵》という一点だけでなく、全体的な大正史、昭和史のなかで、賢治の文学活動が、どう営まれたのかを解明してゆく必要があります。

 取り上げられる作品も、現在までのところ『氷河鼠の毛皮』と『月夜のでんしんばしら』に限られています。しかし、なによりも、同時期に準備・出版された童話集『注文の多い料理店』収録の諸作品が、時代史の中で論じられなければならないでしょう。ギトンは、こちらで『料理店』収録の『烏の北斗七星』について、現実の当時の“戦争”との関係に光を当てた読解を試みたことがあります。

 しかし、それ以上に重要なのは、童話よりも作者自身との結びつきが大きいと思われる『春と修羅』の詩作品ではないでしょうか。この方面の追究も、栗原敦氏、天澤退二郎氏、秋枝美保氏の論考の端々で、少しずつ進んではいるのですが‥

 〔第U期〕における近代主義的な、あるいは“現代病理”的な諸論考は、賢治作品を掘り下げて、そこに、他の近代文学作家と同じような「内面」を読み取ろうとしたと言えます。〔第V期〕以後の神秘主義的な傾向は、さらにその「内面」のレベルにとどまらず、作者の無意識ないし深層意識にまで分け入って賢治を見ようとしました。

 しかし、さらにそのもっと向うを見たい。いわば、賢治の「内面」と深層意識をもたらした社会環境のみならず、政治社会的な諸事件に彩られた歴史の枠から“宮沢賢治”を見ていきたいと、いま新しい時代の敷居に立って念願しているのです。






 








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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