01/22の日記

16:08
【宮沢賢治】“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(4)

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偶蹄類の骨格標本(ハナイズミモリウシ)
更新世・ウルム氷期 一関市花泉町出土 
岩手県立博物館 レプリカ   









 こんばんは (º.-)☆ノ






“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(1)
“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(2)
“異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(3)

 のつづきです。






 【5】 心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想 ――― 富山英俊さん



 2日目の講演者は、浜垣誠司さん、富山英俊さんのお二人でしたが、こちらの章の長さの都合で、富山さんの講演を先に扱わせていただきます。



 富山さんは、仏教の角度から賢治の《心象スケッチ》を解明する方向で講演されました。仏教の専門家ではない方のようでしたが、むしろ仏教にはズブの素人である私たちにも解りやすく、また関心に見合うお話だったと思います。

 以下、例によって、お話の趣旨とは相当に違うギトンの独断をまじえた“要約”になることをお断りしておきます。


 富山さんは、まず、宮沢賢治の文学は、《客観⇔主観》という近代の世界像のなかで、その枠組みに抗して形成された、と述べて、柄谷行人の『日本近代文学の起源』を引用しておられます↓



「明治20年代の正岡子規の『写生』
〔…〕『写生』とは、それまで詩の主題となりえなかったものを主題とすることなのである〔…〕『描写』とは単に外界を描くこととは異質ななにかだった。『外界』そのものが見出されねばならなかったからである。

      
〔…〕

 風景が、それまでの外界に対する疎遠化、同じことだが、極度の内面化によって見出される過程
〔…〕それが全面的な規模において生じるのはロマン派においてである。〔…〕ルソーは、1728年アルプスにおける自然との合一の経験を書いている。〔…〕人々は、ルソーがみたものをみるためにスイスに殺到しはじめた。アルピニスト(登山家)は、文字通り『文学』から生まれたのである。

      
〔…〕

 風景がいったん成立すると、その起源は忘れさられる。それは、はじめから外界に存在する客観物のように見える。ところが、客観物なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。」



 文学系の評論には、しばしば人を驚かす言葉や極端な誇張が紛れこんでいるので、私たちは注意して著者の真意をさぐる必要があります。

 客観物が、正岡子規やルソーよりも前から存在してるのは、明らかなことです。机は、人間が机を使うようになった先史時代から在るものです。ルソーが机を発明したわけではありませんw 山は、少なくとも「山」という言葉ができるよりも前から存在していました。

 風景が、絵や詩文の主題となったのも、すくなくとも東アジアでは、近代よりずっと以前で、六朝時代の江南(長江下流域)においてだったと言われています。宋代に盛行する水墨画は、その顕著な発展です。

 しかし、風景のとらえ方が、時代によって異なるのもたしかです。ルソーや、正岡子規は、風景の新たなとらえ方を発見したのです。このように読むと、↑上の文章は、宮沢賢治の《心象スケッチ》という風景のとらえ方について、重要な洞察を提供してくれます。賢治の《心象スケッチ》もまた、彼以前には無かった・風景の新たなとらえ方を提供するものだからです。

 富山さんによれば、近代的世界観における《客観》とは、自然科学が認める事実のことです。賢治は、その《客観⇔主観》の枠組みに抗して自らの文学世界を創り上げた‥‥ のだとすれば、彼が新たな眼によって世界をとらえ直し再発見した《心象スケッチ》という方法は、「心象」以上に「スケッチ」に力点をおいて理解されなければならないでしょう。なぜなら、そこに「心象」の語をかぶせたのは、一種の謙遜だからです。科学の認める世界だけが客観的事実だ…という枠組みのもとでは、科学に認められないような描画は、これは主観です、の中に見えた形です――と、一歩譲って主張するほかはないのです。しかし、その実、賢治自身にとっては、それは、新たな眼でとらえた“外界”の現実そのものだったのだと思います。







白神連山 中央:向白神岳  津軽峠より






 賢治のとらえた新しい風景とは、中村三春さんが「否定的-統合的組成のレトリック」と呼んでいるものにほかならないと思います(⇒:『銀河鉄道の夜』(6)【1.13】争異するコンシストロジー



「"y は x から成るのではなく、かつ『ほんたうは』y は z から成る"という命題を、このテクストの根底に認めてもよいだろう。対象の組成を示す函数を P(comPosition の P)と書けば、函数表現風には、〔y≠x, y=P(z)〕と要約できる。

 世界の組成はいったん否定され、しかる後に別の《統合》の主張がなされるのである。〔…〕世界の否定的−統合的組成を示すレトリックの一般的形式にほかならない。

     
〔…〕

 空間の成分がまるで『蛍烏賊の火』の『化石』や『金剛石』のようであり、銀河の材質を『水晶』『黄玉』『鋼玉』と見なすレトリックは、通常の物理学を否定し、散乱する鉱物的材料の《統合》として世界の組成を呈示する、否定的−統合的組成論の表現なのである。」

中村三春『修辞的モダニズム』,2006,ひつじ書房,p.75.






 “宮沢賢治の文学は、《客観⇔主観》という近代の世界像のなかで、その枠組みに抗して形成された、”という富山さんの指摘の中で、「枠組みに抗して」という部分が重要です。《客観/主観》の近代的枠組みに従ってではなく、「抗して」なのです。

 つまり、宮沢賢治にとって「客観的」なものは、科学が認めるものだけではなかったのです。富山さんによれば、賢治は、科学者の面をもつだけでなく、宗教者、幻視者でもあり、幻視もまた、本人にとっては“客観的事実”の一部を構成しており、それは“客観的”に記載されました。

 ただ、ここでまたギトンの考えを注として挿れますと: そこでの賢治の“客観性”は、科学や心理学の客観性とは異なるものだったと思います。賢治自身は、科学と科学でないものの区別が非常におおざっぱで、『銀河鉄道の夜』の〔第3次稿〕で、「黒い大きな帽子」の「おとな」に、


「おまへがほんたうに勉強して、實驗でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その實驗の方法さへきまれば、もう信仰も化學と同じやうになる。」


 と言わせているくらいですが、自分の見方――幻視で見えるものに対する扱いが、ジェイムズ、ベルグソンなどの心理学と異なることは自覚していました。



「先生先生山地の上の重たいもやのうしろから
 赤く潰れたおかしなものが昇
(で)てくるといふ

    (それは潰れた赤い信頼!
     天台、ジェームスその他によれば!)」

『春と修羅・第2集』#152「林学生」1924.6.22.〔下書稿(三)〕より。



 「天台、ジェームスその他によれば!」という作者の言い方は、ジェイムズ心理学に対する傾倒というより、むしろ斜
(はす)に構えた態度を感じさせます。

 賢治の『心象スケッチ 春と修羅』を読んだ生徒たちが、その特有の言葉遣いを真似して、岩手山・柳沢登山道から見える夜景と夜空を、おもしろおかしく叙景します。賢治は、自分の真摯な《心象スケッチ》を、揶揄されているようにも感じています。

 「赤く潰れたおかしなもの」は、地平から昇った“赤い月”です。地上付近の浮遊粒子による散乱効果で、夕日と同じ原理で月が赤く見える現象です。しかし、それが「潰れたおかしなもの」と彼らに見えるのは、心理学的には、教師に対する「潰れた」信頼感情の反映なんだ、と自嘲するのです。「天台、ジェームスその他によれば」、おれと生徒たちとの関係は、そういうことになるんだろう、というわけです。

 つまり、心理学は、どこまでも“外側から”しか見ないのであり、それは、《心象スケッチ》の見方とは異なるものです。賢治の《心象スケッチ》は、「赤く潰れた」月や太陽を、人間の錯視、ないしその時々の気分による“見え”とみなすのではなく、「赤く潰れたもの」そのものとして、つまり現象する当体(Erscheinendes)として、正面から受け止め、記述するのです。



 さて、富山さんは、宗教者・幻視者としての宮沢賢治を解明する手がかりとして、《十
(じっ)界互具》,《一念三千》という大乗仏教の教義を取り上げます。

 《十界互具》,《一念三千》は、六朝時代の中国で、《法華経》などの大乗仏教典の解釈として創唱された教義で、もともとのインドの仏教には無いもののようです。「十界」は、人間道、畜生道、餓鬼道、修羅道、地獄、天道、という6つの世界(「六道」)に、声聞、縁覚、菩薩、仏の「四聖」を加え、これらは、じつは外界というよりも、人間の心の境地なのだとしました。それゆえに、どのひとつの「界」にも、他の9つの「界」が備わっている(「互具」)ことになります。

 《一念三千》は、「一念の心に三千の諸法を具えることを観ずること」とされ、これを根本教義とした中国の天台宗では、「諸法」とは、「凡夫に教えてあたりまえによくわかる法」「あたりまえの教え」と理解されました(天台智『摩訶止観』,村中祐生・訳, in:『大乗仏典 中国日本篇 6』)。つまり、


「凡を捨てて聖に向うべからず。」


 常識的な当りまえの教えから離れてはならないと理解されていたのです。誰にでも見える、理解できる世界が「凡」であり、心眼の見る瞑想世界や“異空間”などにとらわれてはならない――ということになります。ここには、中国仏教らしい現実主義が表れています。






 
  比叡山横川 恵心堂






 ところが、この教義が日本に持ちこまれると、その内容は大きく変貌することになります。日本天台宗では、《一念三千》の意味は、“一切衆生は、あるがままで成仏する”という意味に理解されました。それは、一面では、誰もが現に生きているそのままの状態で、すでに仏になっているのだ、とすることになります。これを「本覚
(ほんがく)」思想と言います。



「『本覚』とは、人は誰しも、もともと生まれながらに、悟っているという考え方である。
〔…〕おもに日本天台宗の本拠だった比叡山において構築された〔…〕

 生まれながらに悟っているのに、通常人はそれを認識できない。
〔…〕この不覚さえ、とりのぞくことができれば、ひとはみな覚れると説く。その行き着く先は、現状の全面的肯定にほかならない。〔…〕

 自然のなかに聖なるものを見いだす日本仏教の精髄と絶賛する見解もあれば、理不尽な差別をまるごと肯定してしまう超保守思想の権化と非難する見解もある。」

『宮澤賢治イーハトヴ学事典』,p.450ℓ.



 つまり、《一念三千》の教義に基づく「本覚思想」は、一面では、社会の現実をそのまま肯定することにつながり、他面では、「自然のなかに聖なるものを見いだす」自然観とむすびつくことになります。

 賢治が座右に置いていた島地大等・編『漢和対照 妙法蓮華経』に附載された大等の「法華大意」には、《一念三千》について、


「一念とは
〔…〕吾人刹那の心念なり。〔…〕三千の森羅は此一念中より生ずとの意に他ならず」


 と解説されています。「自然のなかに聖なるものを見いだす」日本天台宗の自然観が、賢治に大きな影響を与えていたことがわかります。

 ところで、天台本覚思想の現状肯定的な面は、日蓮宗によって、また大きな変形を加えられます。日蓮においては、《一念三千》は、単に思う、見る、観照することではなく、「南無妙法蓮華経」と唱題することでした。



 日本天台宗の「本覚」は、
「読経のとき即ち断惑成仏す可し〔…〕殊に観念修業をするの要なく、読経の時即時に成仏すといふにある。これを更に厳密に言へば、真理に対する純粋直感の刹那に成仏するの意である。

      
〔…〕

 此の本門思想が整理されて鎌倉時代に独立の宗教となったものが日蓮宗である。」

島地大等『日本仏教教学史』より。



「万民一同ニ南無妙法蓮華経ト唱ヘ奉ラバ、
〔…〕今生ニハ不祥ノ災難ヲ払ヒ長生ノ術ヲ得、人法共ニ不老不死ノ理顕レン時ヲ御覧セヨ現世安穏ノ証文疑ヒアルベカラズ」
日蓮『如説修業抄』より。



「一念三千の理を観想して、内智を研き、心証を高め、行い澄ますのを『理の一念三千』と称し、一念三千の妙理を直ちに人生事実の上に発揮して、人を救ひ、国を治め、世を利して行く所の活方面に応用するのを『事の一念三千』といふのである。」

田中智学『日蓮上人及教義』より。



 日蓮の「一念三千」は、天台宗にはなかった終末論的、救済論的な色彩を帯びています。日蓮によれば、「万民」がみな法華宗信者となり、一同に唱題すると、この現実世界はそのまま仏国土となる、というのです。これは、「読経の時即時に成仏す」――読経をするだけで、誰でも即時に仏となる――という、天台宗の中にあった考え方を発展させたものでした。

 しかし、『国柱会』の田中智学の場合には、日蓮以上に現実的、実践的であり、政治主義化しています。智学は、中国天台宗の「理の一念三千」に対して、「事の一念三千」を唱え、「一念三千」の精神で、単に唱題するだけでなく、「人を救ひ、国を治め、世を利して行く所の活方面に応用する」ことを主張したのです。これは、具体的には、天皇を中心とする日本“帝国”臣民の活動によって、世界を教化し征服することを意味しました。国柱会員・石原莞爾が仕掛けた“満洲事変”による軍事侵略は、この教義の実践を標榜したのです。







花巻・清水観音堂 内陣






 宮沢賢治の場合には、智学の「事の一念三千」は、非政治的に、より感覚的・理想的に理解されたようです。それは、自由絵画運動やモダニズムとも、“満洲事変”に反発する反戦思想とも、矛盾なく同居しうるものでした。

 【参考】(〔みんな食事もすんだらしく〕〔下書稿(二)〕の反戦思想)⇒:【ギャルリどタブロ】ハームキヤ(17)



 富山さんによれば、賢治にとって「事の一念三千」は、「仏の世界が人の世界に流れこむ経路であり、かれの宗教の根幹に属した」のです。つまり、賢治は日蓮宗の教義に従って、「一念三千」の精神で文学活動を行なったと言えます。すくなくとも本人は、その建前を持していました。

 しかし、↓このあと見るように、賢治の文学の“中身”は、仏典にも教義にもとらわれない独自のものでした。賢治は、彼独自の《心象》世界を、「仏の世界」が「流れこ」んでくる「経路」として追究し表現したのですが、そのさい、教義による先入見をも排して、虚心に対象へ向ったのだと思います。その結果表現されたのは、かならずしも仏教のものではない“異空間”でした。



 “異空間”に関する賢治のメモを年代順に見てゆくと、1931年(その 9月に満洲事変!!)以後に大きな変化が現れます。

 まず、↓最初のメモは、1927年〜1928年春までに書かれたもの。《羅須地人協会》時代のものとみてよいでしょう。



「一、異空間の実在、天と餓鬼
    幻想及夢と実在

 二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在
    内省及実行による証明」

宮沢賢治「思索メモ1」


 ↑これは、論文執筆構想のメモと思われますが、「幻想及夢」に現れる世界は、「異空間」として「実在」すること、それらは仏教の言う「天界」「餓鬼界」などにほかならないことを主張する構想のようです。「依正
(えしょう)」は、辞書を引くと、「心をもつ諸存在が、過去の行為の結果として受けとる環境世界と自分自身。」「身のよるべき山河大地衣服飲食と、前世の業によって享けた心身のこと。」とあります。

 この「依正」ということから、宮沢賢治は、心から独立した自然的世界や歴史的社会が実在することを、考え方の前提として認めていたことがわかります。そしてその延長として、「異空間」もまた実在すると考えたようです。



「三十八度九度の熱悩
 肺炎流感結核の諸毒
 汝が身中に充つるのとき
 汝が五蘊の修羅
 を仕して或は天或は
 菩薩或佛の国土たらしめよ
 この事成らずば
 如何ぞ汝能く
 十界成仏を
 談じ得ん」

『雨ニモマケズ手帳』,pp.9-10.


 『雨ニモマケズ手帳』は、1931年の満洲事変――賢治の生活史で言えば、東京での発熱と帰郷――の直後に書き始められています。病気による発熱の苦しみを利用して、“十界”を認識し、自分の体を菩薩界または佛界とすることを述べています。この時期にもやはり、“十界”の実在を重要な認識としていることがわかります。

 ところが、1933年、亡くなる直前の最晩年期に書かれたメモは、↓つぎのようになっているのです。



「科学より信仰への小なる橋梁

 一、物質、世界/生物/我>分子―原子―電子―真空―異単元―異構成物―異世界」

「思索メモ2」


 「小なる橋梁」というタイトルは、科学と信仰のあいだのギャップがごく小さなもので、両者はすぐ近くで隣り合っていると主張しているように見えます。しかし、「一、」以下のメモは、科学と整合的に、「信仰」の世界、つまり「異世界」ないし“異空間”の存在を考えようとして、ひじょうに苦労しているのがわかります。

 “物質世界”の全体から、次第にミクロの世界に下りて行って、最後は「電子」。当時はまだ素粒子のことはほとんど解っていませんでしたから、「電子」の下のレベルは、「真空」となっています。しかし、そのあとは、→「異単元」→「異構成物」となり、今度は「異世界」に向って、極微の単位からより大きな単位が構成されてゆくようです。「異単元」は、こちらの世界の電子、原子にあたるものでしょうか。それらが組み合わさって、「異構成物」つまり、分子にあたるものになり、「異世界」を造ってゆく。つまり、「異世界」ないし“異空間”は、極微の世界の中に? ……その向う側に? ……隠れて存在することになります。

 どうして、このように考えたかと言えば、これ以外には考える余地がないからです。科学の認識する世界は、宇宙のすみずみまで科学的に定義されてしまっていて、「異空間」のような未知の領域をどこかに容れる余地はないのです。20世紀の宇宙には、神も仏も、居る場所がないw 残っているのは、電子よりも極微なミクロの領域だけです。

 あるいは、賢治は、こう考えたかもしれません:プラス(「電子」までの物質界)とゼロ(「真空」)が存在する――そこまでは科学で言える――ならば、マイナス(「異単元」以下)も存在すると考えるのが自然ではないか、と。だから「異世界」の実在は、科学的にも当然の真理だと。






 
盛岡・宣教師館(ドイツ人宣教師宿舎) 大正時代 






 現代物理学の「超弦理論」では、極微の量子レベルに、空間3次元と時間以外の 6ないし 7次元が折りたたまれて存在すると考えられています(正確な説明は:⇒超弦理論)。ミクロの領域に未知の空間を想像するのは、昔も今も珍しいことではないのです。

 もっとも、現代物理学における多次元の想定は、ミクロよりも、私たちのいる宇宙の“外側”に広がる超マクロの世界で、より盛んなようです(⇒多元宇宙論)。なぜ、賢治が、マクロの方向で「異世界」を構想しなかったのかと言うと、‥おそらく、当時はまだ、宇宙は無限な3次元空間だというニュートン物理学の宇宙観が支配していたためだと思います。アインシュタインの一般相対論からは、宇宙の有限性が帰結するのですが、それは当時はまだ一般に知られた知識ではありませんでした。

 無限な宇宙の“外側”というのは、いかに空想にたけた頭脳でも、考えにくいでしょう。

 ビッグバンに始まって膨張し続けている宇宙という現在の宇宙観は、有限の体積を持つ宇宙を想定しています。私たちのいる宇宙は有限だということになってから、‥それでは、その“外側”には、何があるのだろう? 私たちのとは別の有限宇宙が存在するのではないか?………という想像がしやすくなったので、さまざまな多元宇宙論が唱えられるようになったのではないでしょうか?

 しかし、賢治の時代には宇宙は無限でしたから、科学と矛盾しないような形で、この宇宙の“外側”を想像することは困難だったのでしょう。

 『銀河鉄道の夜(最終稿)』でも、「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか」と鳥捕りに言わせています。賢治は、じつのところ“銀河世界”の置き場所に困っているように見うけられます。その結果、科学的世界の中に「異世界」を容れ込むテクニックとして活用されたのが、《否定的-統合的組成のレトリック》なのだと思います。

 そういうわけで、宮沢賢治としては、↑上の図式は、科学と矛盾なく「異世界」の実在を主張するために、相当に無理をした結果なのだと思います。

 ところで、この図式には、驚くべきことがひとつあります。ここには、「十界」も「六道」も出てこないのです。天界も仏界も、ここにはありません。仏教は、放棄されてしまったのでしょうか?

 おそらく、極微のレベルに押し込まれてしまった「異世界」に、『倶舎論』で述べられているような壮大な仏教的宇宙を想像することはできなかったのではないでしょうか? もし、賢治が、多元宇宙論が唱えられる時代にまで生き延びたとしたら、『倶舎論』の宇宙観に非常によく似た科学的な理論を多数目撃することになったでしょう。

 ともかく、宮沢賢治の生涯の中では、「異世界」を、仏教の「十界」として理解しようと努力しつづけたものの、結局、科学と整合性ある枠組みで構想することはできなかった。そのため、最晩年には、仏教の教える「異世界」の枠組みから、離れようとしていたかもしれません。

 なるほど、作品の中でも、早い時期に書かれた『ひかりの素足』などでは、通俗的な地獄のありさまや、《法華経》に描かれた天界のイメージに近いものが描写されています。しかし、そのような作品はむしろ稀れで、多くの作品(たとえば「小岩井農場 パート9」)では、仏典由来のイメージが、賢治独自のイメージと混合しています。さらに多くの、大部分の作品では、仏教とはほとんど関係なく、独自の“異世界”イメージが描かれているのです。ある場合には「阿耨達池」という名前がついたり、ある場合には「劫(カルパ)」という語が使われたりしますが、仏教は、《見者》の幻視を容れる“枠組み”として利用されているにすぎないようにも見うけられます。

 宮沢賢治個人の日常生活は、“熱烈な仏教者”としてつらぬかれたようですが、彼の草稿、作品に即して見たときには、信仰生活の熱烈さとは裏腹に、ここでは仏教は“外被”にすぎなかったのではないか?‥そう思えてくるのです。そして、その“外被”も、晩年に向うほど、次第に希薄になって行った‥‥



「天台の一念三千や十界互具の思想」「は世界観として、心に現れるさまざまな現象を自在に描く枠組みとなった。特定の仏説や世界像を典拠を引いて書き写したのではない。それらは賢治の独自の想像力の現れであり、また日本人の死生観や民俗的伝承の事例としても読解されうる。」

富山英俊講演要旨より。











   こちらへつづく↓

 “異世界”に踏みこむ充実のセミナー――7/28-29 イーハトーブ館にて(5)






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カテゴリ: 宮沢賢治

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