01/15の日記

09:05
【BL週記】一年の計か、数年の計か。。。

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 こんばんは。(º.-)☆ノ





【1】



 いつもご愛読ありがとうございます。

 また、たまたま風の吹き回しでこちらに寄られたというかたも、お目にとめていただけたことに御礼申し上げます。ご関心に沿う記事を選んで一瞥していただければと存じます。

 さて、このブログは、多分に個人の趣味にしぼって、とことん追求しているものでして、読者が読んでどう思うか、などということはほとんど執筆者の頭にはございません← (もう少し読者を気にしたブログはほかにありますが、そちらもまあ、わけのわからない部分は音楽を聴いてもらって、適当にごまかしておりますw)

 でも、このような勝手書き放題、きわどい画像も出し放題は、海外のゲイ・ブロガーでは、ごく当たり前のようでして、ネット社会での市民権を得ているようであります。ならば、ユーラシアの東の端のこの地でも、早くこれがトレンドになればいいと、日々念願しつつ書き続けている次第なのであります。ゲイのブログは、自らの性生活や、カップルのラブラブの日常などを見せるためのもの(←それはもちろん好いことで、おおいに応援しているのでありますが)、ゲイはそれだけやってろ、などというのでは、あまりにも嘆かわしく思うのであります。。。

 筆者は、10年以上前に、菅原千恵子さんの『宮沢賢治の青春』(このリンクは kindle版あり)を読んだのがきっかけで、中学以来愛読していた・この詩人を、とことん追求してみる気になりました。そして、宮沢賢治の作詩と童話創作の根底には、同性愛者としての隠された生きざまがある―――という菅原さんの議論に、深く惹きつけられました。

 菅原さんの議論は、現在までの“賢治研究圏”では、残念ながらあまり広い支持を受けてはおりません。ギトンのブログを見てくださった地方の賢治研究家らしい方のメールにも、驚くべきすぐれた内容だが、こういうきわどいブログでは、仲間に話すこともできない、というお叱りがございました。宮沢賢治は同性愛者だった―――という意見を、ひとつのまじめな見解として堂々と議論できるようになるのは、いったいいつのことなのでしょうか? いまはまだほど遠いようにも感じます。。。

 しかし、菅原さん以前にも、また以後にも、宮沢賢治に関しては分厚い研究の蓄積があり、“同性愛者としての賢治”を正しく位置付けるためには、それらの批判的検討が欠かせないのです。それは、菅原さんひとりの手に余る課題であったでしょうし、彼女のあとに続く研究者が出ていないために、彼女の議論自体が十分に理解されず、生かされていないうらみがあります。これは、ぜひとも、私たち同性愛者が引き継ぐべき課題なのです。

 そういうわけで、筆者としては、“有名人の誰かれはホモだった”式の猟奇的な扱いは断乎として避けるべく、何でもかんでも同性愛と結びつけようとするような牽強附会を自戒し、同性愛に限定せずに、広く宮沢賢治の文学について研鑽を積もうとしてきたつもりなのです。“賢治”に関するギトンの主たる関心は、明治末から昭和初年という時代の流れの中に、彼の詩人としての軌跡を位置づけることにあります。“時代の流れ”としては、単なる文学史、文化史ではなく(賢治は、文学史一般の流れとはかなり隔たった位置にあったようです)、一般の政治社会経済史を見ているのです。なぜなら、どんな時代と社会においても、マイノリティとしての同性愛者の生きざまは、政治・経済の動き、その影響を受けた社会思潮のさまざまな圧力と波動のなかに常にある―――と考えるからであります。おおげさに言えば、同性愛者の場合には、その生の一挙手一投足が、社会に対する“ねじれた”反応であったり、屈服であったりせざるをえないのです。






【2】



 これまでにこのブログで扱ってきたテーマは、こちらの分類目次を見ていただければわかるように、かならずしも“宮沢賢治”だけを書いているわけではありません。しかし、シベリア派兵や、満洲事変はもちろん、化学者ラヴォアジェも、旧英国共産党の史家ホブズボームも、ルバイヤートもフッサールも、賢治について深めることを意識して考察を進めてきました。【BL週記】を別にすれば、ブログ記事のすべては、“賢治”を中心とするものと言ってもよいのです。

 最初に取りかかったのは、こちらで、賢治の生前唯一の公刊詩集である『心象スケッチ 春と修羅』に収録された全作品について、自分なりの理解と解説を書くことでした。というのは、この詩集は、口語詩集であるにもかかわらず、そもそも見てすぐには解らない単語、術語があまりにも多いのです。化学用語、仏教用語だけでなく、植物の名前、外国人名、岩手のローカルな地名など、調べてみると、それだけで詩の内容が生き生きとした分かるものになって甦ってくることに驚きました。













 賢治の令弟・故宮澤清六氏が述べておられるのですが、賢治詩に出てくる「アラツディン」「テナルディ軍曹」などの人物名は、それ一語で、『アラジンの魔法のランプ』や『レ・ミゼラブル』の広大な世界を参照させているのです。つまり、こんにちのネット社会の用語で言えば、これらはそれぞれが“リンク”なのです! さらに重要なのは、賢治自身の作品への参照です。他の賢治詩、童話、短歌などを参照して分かるようになる語も少なくありません。作品解説集『ゆらぐ蜉蝣文字』では、これらの語解、注釈を、本文に昇格させて、細大漏らさずに調べた結果を盛り込みました。そのため、たいへんにゴテゴテした読みにくいものになってしまっているのですが、一種のコンメンタールとしては使えると思っています。いずれ、記事を取捨して通読できるようにしたものを作ろうと思っているのですが、なかなかそれを果たす余裕がありません。。。

 現在出している解説は、どの作品についてもまだまだ考察が不十分で、もっと考えてみる余地があるのですが、‥それでも、全作品を扱うと決めて、やりとげたことによって、自分としては大きなものを学ぶことができたと思っています。関心のあるものを拾って、そこだけ掘り下げる―――というのもひとつのやり方だとは思いますが、やはり、ひとまとまりの全作品を、漏らさず検討する、ということをしないと、この人の全体像は見えてこないのではないかと思いました。それほどに、この詩人は、懐が深く、また多面的なのです。







【3】



 こちらでは、フッサール現象学、中原中也の詩論、吉本隆明氏による賢治詩の特徴づけ―――この3つのものを、おもな手がかりにして、『心象スケッチ 春と修羅』の諸作品を、なんとか“分かる”ものにしようと努力してみました。作者自身がこの詩集の「序」で


「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
      
〔…〕
 ある程度まではみんなに共通いたします」

『春と修羅』「序詩」


 と述べているように、人間の書いたものなのですから、他の人間にも理解できるはず、たとえわかりにくくても、絶対に分からないなどというものはないと思うのです。しかし、その「ある程度まではみんなに共通」するものが、なかなか見えてこないのもたしかです。

 わかりにくさの最大の原因は、賢治が人間の深層意識にまで降りて行こうとしたことにあると思います。だから、「わけのわからないところ」は、「わたくしにもまた、わけがわからない」と『注文の多い料理店』の「序」に書いているように、作者である賢治自身にも、解説を書くことはできなかったのではないでしょうか。

 中原中也は、この点を鋭く看破し、人間の深層意識に降りてゆく宮沢賢治の詩作方法を取り入れて、“ことば以前”の「現識」の世界を感じ取って、詩という手段で表現するという独自の詩論に結晶させました。

 しかし、中也の詩論を読めば賢治の詩がわかるようになるかと言うと、なかなかそれも難しいのです。そこで、フッサールを参照しました。フッサールの現象学で宮沢賢治の詩を理解しようとする試みは、何人かの方がしておられるのですが、哲学の中では、フッサールとメルロ=ポンティあたりが、賢治詩の理解には、もっとも助けになるようです。関心のある方は、↓こちらをお読みいただけたらと思います。ギトンの理解もまだ十分ではないので、いま読み返すと、ぐだぐだと行論が経巡っていて、なかなか真髄に達しないうらみがあります。それでも、数ページを一気に読んでいただければ、言いたいことは読み取れるのではないかと思います。

 【参考】⇒:【序説】宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ【第3章】(ii)フッサール

 【参考】⇒:フッサールと宮沢賢治―――宗教と科学の位置(1)

 【参考】⇒:フッサールと宮沢賢治―――宗教と科学の位置(2)






 







 さて、これからの計画ですが、まず近いところでは、昨年夏の花巻でのセミナーの2日目を早めに上げたいと‥‥思いつつ、先延ばしになっています←

 2日目には、精神科医・浜垣誠司さん、明治学院大学教授・富山英俊さん、お二人の講演がありました。とくに、浜垣さんは、《宮沢賢治の詩の世界》という、賢治関係サイトの頂点と言ってもよい素晴らしいHPを運営しておられる方で、その浜垣さんが本業の専門知識を生かして賢治の《心象スケッチ》を解明するお話をされました。賢治について精神医学や心理学からのアプローチは、これまでも何人かの専門家が手がけていますが、浜垣さんのお話は、“精神医学もここまで進歩したか”と思うような斬新なものであったと思います。会場では、文学系の賢治研究者の方々から、「とてもわかりやすかった」「考えるヒントがたくさんあった」と、好評の感想が次々に寄せられておりました。

 浜垣さんと富山さんの講演の要約は、近々上げたいと考えております。



 最前から課題として意識しつつ、なかなか着手できないでいるのが、『春と修羅・第2集』の作品解説集です。『第1集』と同様に、やはり全作品を網羅的に検討しなければ意味がないと考えているのですが、着手にまごついているのは、いったいどういう形で書いたらいいのか、という問題があるからです。そもそも、作品の呈示のしかたをどうするか?

 というのは、『第1集』と違って、どの作品も、いくつもの異稿――逐次草稿を擁しているのです。浜垣さんの《詩の世界》のような草稿ごとの呈示でよいか。それならば、自分で作る必要もないわけですが、あるいは、ハイパーテクストにすることも検討しています。つまり、ひとつの草稿用紙に、いくつかの改稿の段階が、抹線や挿入語句によって重ねて書かれている賢治草稿そのものを電子化した形になるわけです。テクストの呈示のしかた次第で、解説の進め方も変ってきます。

 いずれにせよ、これまでの作品解説の多くが、最終形を中心にしてきたのとダブらないように、逆に、現存する最初期の草稿(〔下書稿(一)〕など)を中心に検討するつもりです。そして、最終形については、杉浦さんの研究に従って、賢治がガリ版刷りでの公刊を計画した【第2集・印刷用原稿】を復元するような形にしたいと思っています。

 テクストをまとめるだけでも遠大な計画になりそうなのです。



 賢治の時代の戦争についての調べも、引き続きやっていきたいと思います。シベリア出兵は、このあとの《尼港事件》で一山越えますが、まだあと2次(3次まであったかな?)にわたる済南出兵があります。とにかく戦争の多い時代だったんですね。これからの日本がそうならないことを祈って‥ その意味でも、日本“帝国”の派兵戦争とその国内人心への影響は、いまぜひとも話題にしたいことだと思います。













 ところで、最近よく引用しているオーストラリアの日本研究者テッサ・モーリス=スズキさんの本に、おもしろいことが書いてありました。ドイツのハンブルクには、ナチス・ファシズムに関する“対抗記念碑”――カウンター・モニュメントというものがあるんだそうです。初耳だったんですが。。。 ここは、ファシズムを糾弾するんではなくて、訪れた人は、その逆のことをイタズラ書きして、記念碑をけがさなければならないんだそうです。

 これ、冗談でも皮肉でもないんです。訪れる人の大部分は、ファシズムの犠牲者を悼む気持ちで訪れるんですが、自分の気持ちと逆のことをここでは書かなければならない。なぜそんなことをするのかと言えば、風化させないため、忘れないためです。あえて心の葛藤を起こすことによって、事件の記憶を持ち続けようとしているのです。

 ということはですね‥‥ いま、慰安婦の云々は無かったとか、自分から行ったとか言っている学者(と称する者)たち、ネトウヨの諸君たち、何も言わないと約束したんだから黙ってろと言う外務大臣、それを指示している首相‥、こういう人たちは、記憶を風化させないためにどれだけ貢献しているかわからないことになります。なまじ謝罪などするよりも、どれだけ効果があるかわかりません。謝罪すれば、幕引きになって、忘れられてしまうかもしれない。しかし、彼らは謝罪しない。繰り返し繰り返し、彼らのおかげで怒りは再燃焼してゆくのです。。。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: BL週記

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