01/08の日記

16:27
【宮沢賢治】「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(6)

---------------
.




 









 こんにちは (º.-)☆ノ




 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(1)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(2)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(3)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(4)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(5)

 からのつづきです。






 【13】 ギリヤーク民話の世界から



 宮沢賢治の『サガレンと八月』に登場する「ギリヤークの犬神」をめぐって、“賢治研究圏”では、ニヴフほか北方諸民族の民話や日本内地の民間信仰にその起源を探索する努力が重ねられているようです。「犬神」は、比喩としてですが、『春と修羅』収録の詩「真空溶媒」にも出てきます。語り手である「おれ」が、迷い込んだ幻想世界から、「北極犬のせなかにまたがり犬神のやうに歩」いて、もとの世界に戻って来るというのです。

 『サガレンと八月』の「ギリヤークの犬神」は、逆に、主人公のタネリを、日常の世界から海の底の異界へ拉致して行きます。また、「ギリヤークの犬神」は、「口のむくれた三疋びきの大きな白犬に横よこっちょにまたがって」いる「恐ろしいばけもの」と描かれています。どちらの場合も、「犬神」は、犬に跨って、現実の世界と“異界”のあいだを移行する存在である点が共通します。

 しかし、調べてみると、「犬神」は日本の民間信仰としては、中国、四国以西に見られるもので、東北にはないようです。また、「犬神」の形姿は、ネズミ大、米粒大とされる小さいもので、賢治作品の「犬神」とは共通点がありません。たとえば『ブリタニカ』には、次のように説明されています:



「犬の霊がつくとされる憑依の一種。四国,中国,九州の諸地方で,特定の家もしくは個人に憑依し,その家や,人に仕えると信じられていた。形状はねずみ大,数は雌雄1対ともまた一族 75匹とも,地方により種々いわれる。いったん憑依すると,その家筋の子孫に伝わり,その家系は犬神筋と呼ばれて,婚姻はおろか交際さえも避けられるようになる。これは犬神筋が婚姻により増加することが嫌われたこともあるが,それとともに犬神が,憑依した人の意をはかって他者に害を及ぼすと信じられたところから,迷惑がられ嫌悪されたものでもあった。」



 なんか、ぜんぜん賢治の「犬神」とは関係なさそうですね?w

 それでは、北方民族の神話や伝説には「犬神」は無いのかというと、やはり、これが賢治童話のもとになった……と言えるような、ぴったりのものは見あたらないのです。

 そこで、以下、北方先住民関係の習俗や民話を見ていきたいのですが、まず、前回取り上げたチェーホフの旅行記『サハリン島』について補充しておきます。

 チェーホフの小説類は、早くから和訳書が出ているのですが、『サハリン島』の翻訳が出たのは、かなり遅かったようなのです。国立国会図書館デジタルコレクションに、つぎの本がありました↓


 チェーホフ著
 三宅賢訳
 『サガレン紀行』
 出版社 大日本文明協会事務所
 出版年月日等 大正14年(1925年)



 この訳書は、『サハリン島』の前半部:第14章までを訳したものですが、旅行記とサハリンの自然、社会、住民に関する記事は、ほとんど収められています。省略された後半部には、流刑者の実態調査結果が書かれています。そして、訳出された前半部は、樺太アイヌとニヴフについての詳しい記述を含んでいます。ただし、民話伝説や宗教儀礼習俗については何も書かれていません。もちろん「犬神」も。

 訳者と出版所の前書きには、つぎのように書かれています:



「アントーン・チェーホフの樺太島巡行記は、可成り早くから日本にも知られたものではあるが、チェホフ全集とは云はるゝものが日本でも刊行されたにも拘らず、其の中にも編入されて居ないやうである。欧州大戦後ドイツのロシヤ書房から出版された全集の中にも、矢張り入つてゐない。英訳があるか何うかさへも疑はしい。此の本を手に入れるのは、訳者は可成り苦心したが、最後にハルビンの本屋へ注文して、半年以上も掛つて手に入れる事が出来た。其れはペテルブルグのマルクス出版所の旅行記叢書中の一冊である。」

訳者「巻頭に」,p.1.



「併し何故か今日迄でも本書は我国に見られなかつた。文学的価値から行つても相当に此の方面の人々の間には云為されたものではあるが。」

大日本文明協会「例言」,p.1.







アントン・チェーホフ シベリア・サハリン旅行の前年






 つまり、この訳書が出版された 1925年以前には、日本語訳は無かったらしいのです。それどころか、1925年の時点で、英訳、独訳もまだ無かったような。。。 すくなくとも、日本で容易に入手できる範囲には無かったようです。したがって、賢治が《サハリン旅行》前にチェーホフの旅行記を読んだことは、ちょっと想定できそうにありません。

 しかし、チェーホフのサハリン旅行や、旅行記『サハリン島』の存在については、↑上の前書きでも、「可成り早くから日本にも知られたものではあるが、」「文学的価値から行つても相当に此の方面の人々の間には云為されたものではあるが。」と書いていて、早くから紹介され、論じられていたことがわかります。具体的に、当時、賢治の“守備範囲”にあった『中央公論』『改造』『白樺』などの雑誌記事を調べてみれば、関係記事が見つかるかもしれません。

 そういうわけで、賢治の《サハリン旅行》の動機として、チェーホフの旅に刺激されて‥という前回の想定は、今後の調査で補強する必要はありますが、やはり維持してよいと考えています。



 それでは、《旅行》の動機はともかく、「ギリヤーク」の神話、伝説などについては、賢治は《旅行》前に知る機会は無かったのでしょうか?



「私の調べたかぎり、ギリヤーク民話の採取・紹介は、大正年間どころか昭和10年を遡ることすらできない、」

鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』,p.157.



 鈴木健司氏や、佐藤栄二氏が注目して取り上げているニヴフ、ウイルタの民話は、いずれも 1940-45年に南樺太で採取されたもので、出版されたのは戦後になってからです。そういう民話は昔からあったでしょうけれども、賢治が本などで知ることはできなかったことになります。

 鈴木氏らが挙げている民話の内容は:


@「子供を盗る化け物の話」

A 2人の男の子を連れて狩猟に出かけた偉いシャーマンが、犬を連れた化け物「ヌムリ・アンバニ」に襲われるが、自分は石になり、子供たちの前には「柳の棒」を立てて姿を隠し、難を逃れた。

B「ギリヤークの男たち6人」が舟に乗って見知らぬ浜へさまよい、仲間の1人は「大男のお化け」に食べられてしまい、3人は「お化けを見るな」という注意を守らずに声のするほうを見たために魂が抜けて死んでしまう。生き残った2人は、神様らしい老人に会い、採った魚や貝の生命を無駄にしないよう教えられ、2艘の舟に乗せられて自分の家に帰される。そこで老人の指示通り、舟に黒い犬と白い犬、木幣1本ずつを乗せると、舟は戻って行った。


 @Aは、化け物が子供をさらう点が、『サガレンと八月』の「犬神」に似ています。「柳の棒」を立てるという“呪術”によって化け物の難を避けることができる点も重要でしょう。Bは、「お化けを見るな」という禁忌が、『サガレンと八月』の「くらげ……で物をすかして見てはいけないよ。」という禁忌と似てないこともない。。。 そのていどです。

 鈴木氏によると、Bの話は、水平線の向こうに“異空間”がある点で、水平線の向こうから「犬神」が現れる『サガレンと八月』に通じるというのですが、「犬神」がタネリをさらって連れて行くのは、水平線の向こうではなく海の底なので、どうもピッタリあてはまらない気がします。

 戦後、サハリンから北海道に“引き揚げ”た
(↓【註】)ニヴフのひとり、中村チヨが口述した『ギリヤークの昔話』という本があります(村崎恭子・編,ロバート・アウステリッツ編・訳,1992,北海道出版企画センター)。収録された話数は多く、上の@ABのヴァリエーションと思われる話もあります。

【註】サハリンに生まれてそこから離れたことのない南樺太のニヴフ、ウイルタの先住民も、終戦時には、ソ連にスパイと疑われて迫害される恐れがあるなどの理由から、多くが、日本人と一緒に北海道に渡った。そして、環境の違いや戦後日本の食糧事情によって、移住者の大部分が死亡する悲劇があった。






 






 宮沢賢治が、北方民族の口承からどんな影響を受けたか?―――という観点で比較しても、あまり成果はないかもしれませんが、東北のエゾ〜北海道〜サハリンにかけての広い範囲の土着宗教文学‥というような広い視野の中で、賢治童話も近代のそうしたもののひとつとして比較したら、稔り多いのではないか?―――という気もします。

 例えば、『ギリヤークの昔話』には、行方不明になった子供が鳥になって現れる話があります。


C「母親が赤ん坊をおぶって山へフレップを採りに行った。」空に雲が一つあったので、その雲の下の地面に赤ん坊を置いてフレップを採り、晩になったので帰ろうと思って赤ん坊を捜したが、雲の下にはいないし、いくら捜しても見つからなかった。翌日、村の人たちを集めて捜したが、赤ん坊は見つからなかった。「やがて春になってその赤ん坊は山鳩になってこの世にあらわれたそうだ。」

中村チヨ・述『ギリヤークの昔話』,pp.147-149.〔ギトン要約〕


D 昔、一軒の家があり、夫婦と3歳くらいの男の子がいた。父親が魚を捕りに出かけている時、男の子が、自分も行くと言って駄々をこねたので、母親が叩いたら、唇から血を出して倒れてしまった。母親は子供を置き去りにして家に入り、5分くらいして出て来て見ると、子供がいなかった。母親が捜しても、帰って来た父親と二人で捜しても、子供は見つからなかった。「春になった。アフヤルという雀が飛んで来て、『アフヤルズィルズィル』と鳴いた。その子供が雀になったということだ。」

『ギリヤークの昔話』,pp.204-206.〔ギトン要約〕



 これらとの比較で考えると、賢治の『サガレンと八月』の語りが中断しているのは、作者の事情で未完成に終ったというよりは、それ以上先のことは、この世の人間には知ることができないし、“波と風”も語ってはくれない、ということではないのか? 主人公タネリが“異空間”に連れ去られ、語り手と読者の属する世界から見えなくなる地点で、この語りは当然に途切れざるをえない。此岸の語り手が語るという、この語りそのものの性質によって、このテイルは中断しているのではないか?―――そういうことが、考えられてきます。

 ↓次の話は、『サガレンと八月』のタネリと同じように、海の底の“異空間”へ移って行ってしまう話ですが、拉致ではなく、自ら進んでの「嫁入り」です。しかし、“異空間”に去ってしまって行き来ができなくなる点は、チョウザメの下男にされてしまうタネリと、そう変らないかもしれません。


E「ある村に本当に可愛がって育てられた二人の娘がいた。」一人の娘には、トッカリ〔鮭〕の背中の皮だけで作った服を着せ、もう一人には、腹の皮だけで作った服を着せていた。

 「この娘達は海の神様に嫁に行く事になった。ある夜、二人共、海に入ってしまった。二人が海へ入った後、ドンドン大きな音が何回もするので、見ると、宝物や干したトッカリの皮やその外色々な物が海から陸へ打ち上げられていた。それらは、海の神様から娘たちの両親へのお礼だったということだ。」

『ギリヤークの昔話』,pp.52-53.〔ギトン要約〕



 つまり、此岸の人間には、ひとりひとり、程度の差はあれ“異空間”からの引力が、いつも働いていて、その力の強弱は、人間の服装や持ち物(タネリの「くらげ」、また「藤蔓」)や、その人間のシャーマン的な霊力によって左右される。「藤蔓」や「柳の棒」やシャーマンの霊力は、“異空間”の引力に対する人間の抵抗力を強める。逆に、霊力の乏しい者が、不用意に“異空間”を視ようとすると、たちまちその引力に捉えられてしまう。

 そして、人間はみな、いつかは“異空間”からの引力に捉えられ、引き込まれて逝ってしまう―――そのような共通の観念が想定できます。



 鈴木健司氏は、民話以外に、ギリヤークなどの宗教習俗の記録にも触れています。その中には、賢治の《サハリン旅行》以前の 1917年に発行された『樺太の話』に書かれているものもあります:



「神に色々種類があります。一番上の神は非常に大きな神であります。
〔…〕それは唯一人しかない大神で、見ることの出来ない大神であると言つて居ります。それから次には悪魔と言ひますか鬼神と言ひますか、少し恐しい神があります。〔…〕アンバと言ひます。山にもアンバがあるし、河にもアンバがあり、色々なアンバがあります。これは少し恐ろしい神であります。」
鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』,p.159. 所引:中目覚『樺太の話』,1917,三省堂.





 ↑これは、ウイルタの民俗として書かれているものですが、民話から推測できるように、ニヴフの「神様」「化け物」の観念とも共通する面があります。「神様」とは区別された神格としての「化け物」が、山や河などの各所に居るとされる点です。

 賢治が、当時文献で読むことが可能だったのは、このレベルのおおざっぱな知識にとどまっていたと言えます。






 【14】 金田一京助の影



 秋枝美保氏によると、ポーランド人の民族誌研究者ピルスツキ
(ブロニスワフ・ピウスツキ。「ピルスツキ」はロシア語読み)が、当時、樺太アイヌのシャマニズムに関する論文を発表していたとのことです。


「当時、
〔ギトン注―――ロシア帝国の〕政治犯として樺太の刑務所に送られていたブロニスラフ・ピルスツキは、アイヌの文化に深く傾倒し、生活を共にしながら、その文化について民族学的な文献や資料を多く残した。その中に、1909年に『グローブス』誌上に掲載した論文『樺太アイヌのシャ−マニズム』という文章がある。〔…〕ピルスツキについては、『アイヌの言語及び説話研究資料』(昭和2年)の著者として、『本邦で広く知られており』、またこの論文は、『わが国で比較的取り上げられることの少ないものであった』と言う。賢治が見た可能性は薄い」
秋枝美保『宮沢賢治 北方への志向』,pp.236-237.













 ピルスツキの論文は、当時翻訳されてはいませんでしたが、その内容は、秋枝氏によると:


  アイヌのシャーマンは、世襲ではなく、思春期の若者が「物思いに沈んで海辺をさまよう様なことが続くと、身内の者はすぐに、『あれは精霊に宿所として選ばれ』」たと考える。忘我状態で海で溺れたり、森の中で行方不明になってしまう者も多いが、その時期を生き延びた者は、シャーマンとして認められ、儀式に必要な道具や太鼓を与えられ、踊りや祈祷を行うようになる。
〔ギトン要約〕



 アイヌのシャーマンの生い立ちに関する↑この記述は、宮沢賢治の詩人ないし宗教者としての素質の芽生えと関連させて見ると、たいへん興味深いものです。

 ピルスツキの『アイヌの言語及び説話研究資料』が日本で出版されたのは、賢治の《サハリン旅行》よりも後ですし、それ以前に、賢治が自分で外国の専門論文を読んだとは考えにくいのも確かです。






 しかし、誰かが賢治に、北方民族に関するこれらの知識を伝えて、関心を喚起した可能性はないのだろうか?‥そこで、サハリンの民族誌の知識を賢治に伝えた可能性のある人物として、クローズアップされてくるのが、アイヌ語研究者の金田一京助なのです。



 【参考】⇒:《ギャルリ・ド・タブロ》トキーオ(21)


 ↑こちらで書いたように、1921年に宮沢賢治が東京に半年余り滞在していた時、賢治の下宿のすぐそばに‥‥徒歩 2,3分の至近距離に、金田一京助宅がありました。金田一は盛岡の出身で、弟の金田一他人
(おさと)は、盛岡中学校の賢治の同級生で、賢治とよく知り合っていましたから、賢治と京助は面識があったのです。そして、上野公園での『国柱会』田中智学の辻説法の場で、奉仕に来ていた賢治が、通りかかった京助の姿を認め、再会しています。

 金田一京助は、東京帝国大学の大学生時代にアイヌ語を研究テーマに選び、4年生だった 1907年サハリンのオチョポッカ(落帆)
(↓【註】)に滞在して樺太アイヌ語を調査し、文法と語彙を採集。日本の学者として初めてアイヌ語学研究に向う決意を固めました。

【註】現・レスノエ:コルサコフ(大泊)の近く。



 サハリンの先住民に関する専門家の知識を、賢治が金田一から、断片的にでも聞いていたとすれば、賢治が樺太鉄道終点(当時)の栄浜で降りた後、内淵(ナイプーチ)アイヌ部落のほうへ向った理由がわかるのです。また、ピルスツキの上記論文についても聞いていたかもしれません。

 内淵は、ピルスツキがアイヌのための識字学校を建てた村のひとつでした。栄浜周辺のアイヌにキリスト教信者が多かったのも、ピルスツキによる文化的感化と無関係ではなかったでしょう。

 (4)で見たように、賢治の散文『花椰菜』から、彼がギリヤークの夏季用住居「ケルフ」について、ある程度の知識を持っていたことがわかります。『花椰菜』が書かれたのは《サハリン旅行》以前ですが、「ケルフ」の写真を見ていたとすれば、『花椰菜』の記述は納得できます。この点でも、賢治に専門文献に接する機会を与えた、金田一京助のような人物の存在が、考えられるのです。

 ギリヤークなど、北方民族の民話、宗教についての知識も、金田一からの示唆があったとすれば、賢治がこれらに接していたことを、もっと確実に言えると思われるのです。。。







 








ばいみ〜 ミ



 
同性愛ランキングへ
.
カテゴリ: 宮沢賢治

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ