01/03の日記

06:18
【宮沢賢治】「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(5)

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 新年おめでとうございます (º.-)☆ノ




 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(1)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(2)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(3)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(4)

 からのつづきです。






 【11】 辺境から日本を視る



 「ギリヤーク」のシリーズを始めてから、この国にいる自分を外から眺める眼ができてきたというか‥、この国の習慣の中にいる自分が見えるようになってきて、毎日の生活が意外に日本特有の習慣に染まっていることに驚いています。

 “新年”だからといって、カドマツも立てず、鏡餅も置かないギトンの家(??)ですが、それでも、お正月はお雑煮を作って食べています。カズノコや栗きんとんも買ってきて並べます。お正月の食卓にすることで、なんとなく気持ちが刷新されて、また1年がんばろうか、という気分になるから不思議です。

 “日本特有”とは言っても、それはこの島国の古来からという意味ではなく、そこには、西洋や、中国や、その他さまざまな発祥の伝統が流れこんでいる、さまざまな出自を持つ多様な文化の複合なのです。たとえば、1太陽年のこの時期を“年のはじめ”とする習慣だって、明治時代に西洋から取り入れたグローバル・スタンダードにすぎません。もともとは、節分の前後が新年だったのですから。いや…それとて、6世紀以後に中国から取り入れた暦によるもので、それ以前の弥生時代は、雪が解けて水田の耕起を始める時期が、地方ごとに違う時期が、1年の初めだったのではないでしょうか? というのは、中国の歳時記では「正月初耕」という言葉が古くからスタンダードになっているからです。それなら、稲作が伝わる前は、どうだったのか?

 そして、現在でも、たとえば、イスラム歴を使っている国々では、“年の初め”は、真冬のこの時期ではなく、季節のなかを毎年移動しているのです。




 ところで、宮沢賢治を読んでいると、この人は、中学生時代から生涯にわたって、いつも、自分の暮らしている世界を、その外部に出て、外側から眺めようとする志向を持っていたのではないか―――という気がするのです。

 人口の大部分が農民であった時代に、地方で生活していましたから、当然に農業も、彼の視野には入ってくるわけです。ところが、稲作も水田も、彼の書いたものの中にはめったに出てきません。すくなくとも、農学校教師を辞めて自分で耕作を始めるまでは、ずっとそうです。穀物のなかに稲が出てこなくて、かわりに出てくるのは、アワやヒエです。



      ※

 粟ばたけ
 立ちつくしつゝ青びかり
 見わたせば
 百合雨にぬれたり。

     
〔…〕
 
     ※
 
 しろがねの
 あいさつ交すそらとやま
 やまのはたけは
 稗しげりつゝ。
 
     
〔…〕

     ※
  
 まくろなる
 岩鐘の下
 あらはれて
 稗ばたを来る
 郵便脚夫

『歌稿B』#581,582,583a



 ↑こんな短歌が目につきます。また、(2)で見たように、「火薬と紙幣」でも、明らかに収穫期の稲田を前にしているのに、稲も、田んぼそのものの風景も、あえて描かれていないのです。






 






 高等農林学校卒業を目前に控え、就職と将来の職業が問題となった時期に、賢治は父あてに、↓こんな希望を書き送っています:



「七月頃よりは沃度製造或は海草灰の製造、或は木材乾溜乃至は炭焼業に直手致しつゝ今後の研究を致したくと存じ候
〔…〕
宮沢賢治書簡[43]1918年2月1日付 宮澤政次郎宛て より。



「依て先づ暫らく名をも知らぬ炭焼きか漁師の中に働きながら静かに勉強致したく若し願正しければ更に東京なり更に遠くなりへも勉強しに参り得、或は更に国土を明るき世界とし印度に御経を送り奉ることも出来得べくと存じ候

 依て先づ暫らく山中にても海辺にても乃至は市中にて小なる工場にても作り只専に働きたく又勉強致したくと存じ候
〔…〕
宮沢賢治書簡[44]1918年2月2日付 宮澤政次郎宛て より。



 しかし、同じ時期に同人誌《アザリア》には、↓こう書いています。こちらが賢治の本心でしょう:



「春が来ます、私の気の毒なかなしいねがひが又もやおこることでせう、あゝちゝはゝよ、いちばんの幸福は私であります

 総てはわれに在るがごとくに開展して来る、見事にも見事にも開展して来る。土性調査、兵役、炭焼、しろい空等

 われは古着屋のむすこなるが故にこのよろこびを得たり

 総ての音は斯く言へり

 総ての光線は斯くふるへり

 総ての人はかくよろこべり

 海浜か林の中の小さな部落で私はお釈迦様のおまつりをしたいお菓子を一つづゝ、又はとれるだけ人人のとるにまかせつゝうまい、冷めたいのみものを人々の飲むに任せまた釈迦様のあたまから浴びせるに任せ、

 私はさびしい、父はなきながらしかる、かなしい、母はあかぎれして私の幸福を思ふ。私はいくぢなしの泣いてばかりゐる、あゝまっしろな空よ、

 私はあゝさびしい
〔…〕
『復活の前』より。






 『春と修羅』の巻頭詩では、1月6日という“正月明け”の時期に、住み慣れた生活圏となじみの人々に背を向けて、雪と雲におおわれた山々のほうへ、とぼとぼと向かってゆく自分の姿を描いています。それは、楽しかったお正月の団欒をあとにして、自らの存在がそうであると信ずる“召命の旅”へと向ってゆく姿なのだと思います:





「七つ森のこつちのひとつが
 水の中よりもつと明るく
 そしてたいへん巨きいのに
 わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
 このでこぼこの雪をふみ
 向ふの縮れた亜鉛の雲へ
 陰気な郵便脚夫のやうに

    (またアラツディン、洋燈
(ラムプ)とり)

 急がなければならないのか」

『春と修羅』「屈折率」

 1行空けの段落は引用者。


 【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》1.1.1










 そうしてみると、賢治の《サハリン旅行》もまた、単なる出張や観光ではもちろんなく、亡くした肉親を追想する鎮魂の旅でもなく、自分とその生活圏を、その国家と伝統の外から眺めようとする彼の生涯の“旅”の一環だったのではないかと思えてくるのです。






 【12】 “転機”としてのサハリン



 宮沢賢治がサハリンを訪れた 1923年当時、日本領南樺太の中心地には、「豊原」(現ユジノサハリンスク)という新たな都市が建設されていました。丘の上には、日本の伝統と近代技術の粋を集めた巨大な鳥居を持つ「樺太神社」が造営され、そこから見下ろすと、整然とした碁盤の目のような街路が四方に延びているのが眺められたのです。

 ペレストロイカによって、稚内からサハリンへの直接渡航が可能になった 1996年夏、日本の旧島民らに混じってこの地を訪れたオーストラリアの日本研究者テッサ・モーリス=スズキは、↓こう記しています:



「短い海を越えれば、そこはもう事実上のヨーロッパだった。国家語はロシア語であり、建物はキエフやブカレスト郊外にあるものと変わらず、モスクワにあるのと同じ土産物を売る店がある。
〔…〕町に漂う匂いさえ、ヨーロッパなのだ。〔…〕

 フェリーでの同乗者たちは、みな首をかしげていた。想い出にあるものは何もない、すべてが変わってしまった、と。

 日没近くに、戦勝記念碑
〔第2次大戦で使われた戦車と巨大なソ連軍兵士の像がある――ギトン注〕のあるユジノ・サハリンスク北端にやっと辿り着いた。〔…〕この道をさらに登れば、神社があった場所に辿り着く。もちろん神社は取り壊されていたが、その後方の山々と、そして見おろす市街の碁盤の目状の町なみは、昔のままだ。

 フェリーで同室した妹の方が、この時、突然、声をあげた。彼女は憶えていたのである。

 あっ、あそこで大運動会をやったのよ。私の学校は、その右側になるんだ。

 『わあっ、懐かしいですねぇ』

 とどのつまり、物事はあまり変わっていなかったのかもしれない。ソ連邦下のサハリンでも、中央政府は『理想的な環境建設』を目指したのである。そして失敗した。
〔…〕

 日本もまた、単なる『近代化』の提供者たろうとしただけではなかった。この荒々しい原野をなだめ、屈服させる『特別な近代化』の導入をはかったのであった。したがって、神社をはじめとする特定の記念碑的建築物は、日本的伝統(およびそれが導いた「近代化」)の勝利を意味する声明書としての目的をもって、当時の建築技術の最良部分を駆使して建造されたのであった。」

『辺境から眺める』,pp.235-239.

 青字は、原文の傍点付き文字。




 じっさい、日本統治当時樺太へ旅行した日本人には、そうした植民地的“記念碑”に感動し賞讃することが期待されたし、北原白秋はじめ多くの旅行者は、国家的期待に応えたのでした。

 ところが、宮沢賢治は、これらの目覚ましい「日本領樺太」の姿には、1行たりとも言及していないのです。賢治の正式の旅行目的であった製紙工場についてさえ、一言の印象も語っていません。彼が書き残しているのは、もっぱら、樺太の自然と動植物と鉄道についてです。登場する人間は、作者本人を除けば、アイヌらしき一人の青年と、先住民の少年「タネリ」とその母‥‥ほかにはいないのです!

 植民に関しては、「樺太鉄道」の末尾に↓つぎのように書かれているだけです。この家の持ち主とて、新天地を求めて入植した日本人―――内地では自分の家を持つこともかなわなかった―――なのか、それとも近代化の波を吸収しようとしている先住民なのか、定かではありません。
(おそらく、南樺太が日本領となった後、北海道から再移住した樺太アイヌではないかと、ギトンは考えています。)



「またえぞにふと桃花心木
(マホガニー)の柵
 こんなに青い白樺の間に
 鉋をかけた立派なうちをたてたので
 これはおれのうちだぞと
 その顔の赤い愉快な百姓が
 井上と少しびつこに大きく壁に書いたのだ」

『春と修羅』「樺太鉄道」より。













 むしろ、のちに書かれた作品から見ると、賢治は、植民の結果について、否定的な見解に傾いていたのではないかと思われるのです。

 たとえば、文語詩「宗谷(二)」では、サハリンから稚内に戻る連絡船の甲板で、


「髪を正しくくしけづり
 セルの袴のひだ垂れて
 古き国士のおもかげに
 日の出を待てる紳士」


 が、日の出と思って柏手を打ったのは、じつは虚像で、見るまに潰れてしまい、


「その虚の像のま下より
 古めけるもの燃ゆるもの
 湧きたゝすもの融くるもの
 まことの日こそのぼりけり
 
 舷側は燃えヴイも燃え
 綱具を燃やし筒をもし
 紳士の面を彩りて
 波には黄金の柱しぬ」


 と書かれています。ご来光、かしわで‥‥という日本人の観念をあざ笑い、圧倒するかのような北方の自然の強大さが示されています。

 また、つぎの未完成の文語詩には、サハリンから功成らず戻ってきた植民者と思われる老人の、悲惨な境遇が描かれています。



「     谷

 木炭窯
〔すみがま〕の火をうちけみし
 花白き藪をめぐりて
 面
〔おも〕瘠せしその老〔おい〕のそま
 たそがれを帰り来りぬ

 よべはかの慈悲心鳥
(じふいち)の族
 よもすがら火をめぐり鳴き
 崖よりは朽ちし石かけ
 ひまもなくまろび落ちにき

 ぜんまいの茂みの[群]も
 いま黒くうち昏
〔く〕れにつゝ
 焼石の峯をかすむる
 いくむらのしろがねの雲

 いま妻も子もかれがれに
 サガレンや 夷ぞ
〔えぞ〕にさまよひ
 われはかも この谷にして
 いたつきと 死を待つのみ

 とろとろと赤き火を燃し
 まくろなる樺の梢
〔こずえ〕
 瞳
(まみ)赤くうち仰ぎつゝ
 老のそま かなしく云ひぬ」

『文語詩未定稿』「製炭小屋」〔下書稿(一)〕


 ↑この詩の題材メモらしい賢治の覚え書には、

「岩手山麓の谷の炭焼小屋、
 その老人、カラフトの話、夜、灌木の白き花
 羊歯 鳥の声
 石のくづれ落つる音
 いたゞきの風」

 とあります。


 【音源】⇒:ジュウイチのさえずり






 
サハリン アレクサンドロフスク  






「間宮林蔵が19世紀初頭にサハリン(樺太)に到着したとき、アイヌの鍛冶屋が徳川期日本にあったのとはまったく異なる技術を使っているのを記録している。彼の記録によれば、こうした型の金属加工は最近になるまでアイヌの生活圏の他地域(現在の北海道の北部も含む)にもあったが、日本の金属加工品が移入される事態に接して、しだいに消滅していった。」

『辺境から眺める』,p.61.



 明治以後の日本人の多くの著述では、アイヌや、他のサハリン先住民は、青銅器・鉄器以前の“狩猟採集”経済の段階で進歩が止まってしまった原始民族であるとされてきました。間宮林蔵が幕府に提出した報告書を見れば、それがまったく理由のない偏見であることは明らかなのですが‥

 日本の知識界のこの異常な誤認識は、現在でも十分に改善されたとは言えません。林善茂、高倉新一郎氏ら戦後の研究者は、江戸時代以前のアイヌが農耕を行なっていたことを精力的に立証していますが、その彼らでさえ、間宮の著述を知らないのか?! 偏見に覆われて見えないのか、アイヌは金属加工技術を知らなかったと断定しているのです。

 私たちの先駆者である間宮林蔵は、先入見のない眼で北方諸民族を観察していたというのに、近代の日本人は、現在に至るまで、ぶあつい偏見の覆いを払拭するには至っていません。



「サハリンが一つの島であるとの」
情報を、間宮は「サハリン北部のニヴフの村人」から得たが、「この村人は 1809年に間宮を先導してアムール川を下降する旅をおこない、この地域一帯の小社会どうしの緊密な相互交渉を間宮に観察させた。たとえば、アムール川下流域の附近に住むすくなからぬ村人は多言語を話し、また、ある村の人びとは小舟造りの名手としてことのほか有名で、アムール川流域と西サハリン全域の人びとに、船体用に加工した松の延べ板を売っていた。」
『辺境から眺める』,p.72-73.



「間宮が『ヲロッコ』と呼ぶ人びと
〔ウイルタか?―――ギトン注〕は、記述では、腕のいい猟師や漁師であり、川で利用するための念入りに設計された舟をつくる。〔…〕『スメンクル』〔ニヴフ―――ギトン注〕はおもに漁撈を生計にしているが、とりわけ熱心に交易を営む者として描かれている。『男女の差別なく悉く交易を勤む』〔…〕

 間宮は『スメンクル』社会で出会った男と女が平等であることに驚きの念を隠さなかった」

『辺境から眺める』,pp.99-100.



 明治以後よりもジェンダーの差別が厳しかった江戸時代の武家社会から来た間宮にとって、女が男とともに“外の仕事”に従事する点だけを見ても、先住民社会での女性の地位の高さは、驚異であったはずです。半世紀後にサハリンを訪れたロシアの民族誌学者シュレンクは、多数箇所で間宮の記述を引用しながら、この点については、間宮とは逆に、ニヴフの社会は「残酷で抑圧的な家父長制であると非難」しているのです(『辺境から眺める』,p.100.)

 おそらく、両者の見解の違いは、それぞれの出自した社会でのジェンダーの相違によるものでしょう。しかし、それにしても、間宮の曇りのない眼は、鎖された国土の外側に、北方の異民族の間にさえ、幕藩制封建社会を超える、より広い世界がひろがっていることを看取したのです。



 それでは、宮沢賢治の場合は、どうだったのでしょうか? 彼は、“帝国”と“近代”が、外部の世界に接する最果ての地で、何を得てきたのでしょうか?

 賢治は、「オホーツク挽歌」で、荷馬車のアイヌ青年の異邦人に対する開放的な態度に驚き、讃嘆の気持ちを


「(その小さなレンズには
  たしか樺太の白い雲もうつつてゐる)」


 と表現しました。そして、そのあとにつづく詩行↓は、この青年と賢治の交歓が至福にみちたものであったことを示しています:



「おほきなはまばらの花だ
 まつ赤な朝のはまなすの花です

  ああこれらのするどい花のにほひは
  もうどうしても 妖精のしわざだ
  無数の藍いろの蝶をもたらし
  またちいさな黄金の槍の穂
  軟玉の花瓶や青い簾

 それにあんまり雲がひかるので
 たのしく激しいめまぐるしさ」













 栄浜からの帰途の車窓風景と思われる「樺太鉄道」では、高揚した気分のもとで、サハリンの衝撃的な落日の風景が描かれます。


 【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》【69】樺太鉄道



「結晶片岩山地では
 燃えあがる雲の銅粉

    (向ふが燃えればもえるほど
     ここらの樺ややなぎは暗くなる)

 こんなすてきな瑪瑙の天蓋
(キヤノピー)
 その下ではぼろぼろの火雲が燃えて
 一きれはもう錬金の過程を了へ
 いまにも結婚しさうにみえる」



 「いまにも結婚しさうにみえる」―――賢治は、サハリンというこの辺境、その住民を含む異境との合体を体験しているかのようです。しかし、燃え上がるように高揚した気分の一方で、「ここらの樺ややなぎ」の暗さが、作者の心に影を落とします。



「  (灼かれた馴鹿の黒い頭骨は
    線路のよこの赤砂利に
    ごく敬虔に置かれてゐる)

  そつと見てごらんなさい
  やなぎが青くしげつてふるえてゐます
  きつとポラリスやなぎですよ

 おお満艦飾のこのえぞにふの花
 月光いろのかんざしは
 すなほなコロボツクルのです

   (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)

 Van't Hoff の雲の白髪の崇高さ
 崖にならぶものは聖白樺
(セントペチユラアルバ)
 青びかり野はらをよぎる細流
 それはツンドラを截り」



 「ポラリスやなぎ」「ツンドラ」―――どちらも、現実にはサハリンのものではなく、もっと北方の極地でなければ見られないものです。しかし、サハリンの大地を極地とみなしたことによって、作者の精神はいわば極北に振れているのです。

 「灼かれたトナカイの黒い頭骨」は、植民地化によって破壊され傷ついてゆく大地とその住民を指しています。不条理な力によって破壊されるものに、かえって“聖”を見出していると言えます。「灼かれた……頭骨」が「ごく敬虔に置かれてゐる」のは、理不尽な破壊と不正義に対して抵抗もしない姿への崇敬ではないでしょうか?

 理解しにくいかもしれませんが、《法華経》の「不軽菩薩品」への賢治の傾倒と通じ合うのかもしれません。西谷修氏は、賢治の戦争観について、


「戦争の残酷さから反戦思想のようなものを紡ぎ出すのではなく、むしろ屠られる牛を見るようにしてこの残酷さに向き合い、それをどう生きるかという問いを切実なものとして引き出している。」

『宮澤賢治イーハトヴ学事典』,2010,弘文堂,p.165r.


 と指摘しています。それは、かならずしも現状肯定ではないのです。むしろ、この「樺太鉄道」の場合に即して言えば、「屠られる」“辺境”の側、先住民の側から“帝国”の“中心”を見据える視線にほかならないと言えます。というのは、上に引用した部分の 8行あとに、↓つぎのように書かれているからです:



「 (こゝいらの樺の木は
   焼けた野原から生えたので
   みんな大乗風の考をもつてゐる)

 にせものの大乗居士どもをみんな灼け」



 極北の“辺境”から“帝国”の中心部を見透かしたとき、賢治の眼がとらえたのは、慣習と妥協の上に安住する内地の宗教の状況だったのではないでしょうか?「にせものの大乗居士ども」とは、「居士」つまり在家信者を本位とする「国柱会」を指すのか、それとも浄土真宗の在家信者を指すのか、わかりませんが、それらを含めた現状の日本仏教全体に批判を向けているのではないかと思います。

 もっとも、読者としては、ここで作者以上に切実な問いを持たざるを得ません。批判している作者自身の足は、いったい、どこに立っているのか? と。西谷氏の上の論評では、賢治は、屠殺場の見学者のように局外者の立場に身を置いているかのようです。しかし、賢治が戦争について考えたのは、自分が徴兵検査を受けようとする時でしたし、《サハリン旅行》もまた、樺太の製紙工場への就職あっせんという、新たな植民者を送り出す使命を帯びた旅でした。賢治は、つねに問題の渦中に身を置いていましたし、可能な限りそのことを意識し、かつ可能な限り“屠られる側”に立って、そこから“屠る側”を透視しようとしていたと思います。「オホーツク挽歌」に挿入された↓つぎの自嘲のつぶやきが示すように、それは決して容易なことではなかったのですけれども‥


「(Casual observer! Superficial traveler!)」



 ともかく、「みんな灼け」とは、おそろしく過激な言葉です。しかし、焼き殺されたトナカイの「敬虔に置かれ」た頭蓋骨に定位したとき、この言葉は賢治の筆からごく自然に生じたと思うのです。







ヤコブス・ヘンリクス・ファント=ホッフ(1852-1911)






「Van't Hoff の雲の白髪の崇高さ
 崖にならぶものは聖白樺
(セントペチユラアルバ)



 【印刷用原稿】では、このすぐあとに:


「  (O, my reverence, Sacred St. Vetura alba!)」


 という1行がありました。「Vetura」は「Betula」の誤記。「my reverence」も、正しくは「Your Reverence」で、キリスト教の高位聖職者に対する敬称です。「おお、神聖なる聖白樺師よ!」

 「ファント・ホッフの雲」は、おそらくこの化学者の秀でた白髪の肖像画↑を連想しているのでしょう。

 この3行は、近代的・西洋的なものへの崇敬を表しているように思われます。唐突に思うかもしれませんが、当時、「栄浜一帯のアイヌはキリスト教信者が多かった」(『宮澤賢治イーハトヴ学事典』,p.445ℓ)ことを考えれば、おかしくはありません。「オホーツク挽歌」でも、浜辺でアイヌの青年と再会したあとの部分に、海へ出て行った舟の残したわだちに、十字架の形を認めるところがあります:



「ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
 砂に刻まれたその船底の痕と
 巨きな横の台木のくぼみ
 それはひとつの曲つた十字架だ」



 この十字架形から、賢治の想念は、トシと遊んだ「HELL → LOVE」のマッチ棒遊びに向います(⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》7.6.30〜)。たしかに、ここで作者の思いは、亡き妹のほうへ向ってゆくのですが、そうなったきっかけ、「曲つた十字架」を認めたきっかけは、ここで現実に出会ったアイヌの青年にあるのではないでしょうか?

 このアイヌの青年もキリスト教徒(おそらくカトリック)で、賢治と彼との間には、宗教に関する会話も交されたと想像してみると、イメージがふくらみます。

 宮沢賢治がサハリンで感銘を受けたのは、豊かな自然と植物だけではなかった。サハリンの大地そのもの、そこには大地に根ざして生きる人びとがいた。賢治の出会った先住民は、“文明から取り残された狩猟民”ではなかったのだと思います。彼らのなかには、ロシア人に感化されてキリスト教を受け入れた人もいれば、日本風の姓をなのり、日本式の木造家屋を建てて近代化をめざす人もいたのです。

 
(こう考えてくると、「ナモ サダルマ プフンダリカ サスートラ」[南無 妙法 蓮華 御経]と、不正確ながらサンスクリット語の唱題が入っている理由も、明らかになります。ここは日本でも中国でもないのだから、漢字語では天に通じないのです!! なお、栄浜周辺のアイヌにキリスト教徒が多かった理由については、次回説明するでしょう。)

 他面で、鮭の皮で服を造る習慣や、「藤蔓」から繊維を採る技術も、なお失われずにありましたが、賢治にとってはそれらも、岩手県の山の民が伝えてきた生活技術と通じ合うものであったはずです。



「(こんどは風が
  みんなのがやがやしたはなし声にきこえ
  うしろの遠い山の下からは
  好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
  すきとほつた大きなせきばらひがする
  これはサガレンの古くからの誰かだ)」

『春と修羅』「鈴谷平原」より。



 今夜は連絡船に乗ってサハリンを去ろうとする日、賢治はこのように書いて、サハリンの曠野を、岩手山麓の好摩のひろ野のように感じ、「サガレンの古くからの誰か」―――サハリンの大地の背後にいる巨きな意志ある者の存在を、畏敬と親しみをもって認めるのです。








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カテゴリ: 宮沢賢治

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