01/01の日記

18:12
【宮沢賢治】「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(4)

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 こんばんは (º.-)☆ノ




 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(1)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(2)
 「ギリヤーク」――“起源”か? 中心⇔辺境か?(3)

 からのつづきです。






 【9】 「ギリヤーク」との接点



 賢治は、ギリヤークをどのようにして知ったのでしょうか?

 日露戦争後、1905年のポーツマス条約で日本帝国がサハリン島の南半部を獲得したあと、そこにどんな民族がいるのか、政府が本格的に調査をはじめたのは、1910年代に入ってからのことでした。1912年に民族誌学者鳥居龍蔵による現地調査が行われ、同年、東京上野で開かれた《拓殖博覧会》には、「ギリヤーク(ニヴフ)」住民が、ウイルタ、樺太アイヌ、ほかの人々とともに招かれ、会場で生活状況を見せていました。



「この博覧会では、新たに日本帝国の版図に組み込まれた地域の異民族も招かれ、それぞれの展示場附近に自分達の伝統的家屋を建て、会期中はそこで寝泊まりをしていた。招かれた人は、『オロッコ、ギリヤック、樺太アイヌ、北海道アイヌ、台湾土人、台湾蕃人の諸種族男女長幼総数十八人』であった。
〔…〕

 この博覧会は大変な評判になったようである。」

山路勝彦「拓殖博覧会と『帝国版図内の諸人種』」(PDF)p.26.


 翌1913年に大阪で開かれた《拓殖博覧会》でも、ニヴフとウイルタの住民8名とトナカイ3頭が、北海道アイヌ、台湾先住民とともに“展示”されました。


 樺太などの
「住民はこの会場に招かれ、会場内に建てられた家屋で生活し、一般大衆の視線を浴びたのである。植民地からの住民に対しては好奇の眼差しが向けられたであろう」
同上PDFp.27.


「1914年の東京大正博覧会では、これまでの博覧会同様にアイヌや台湾人と同時に、南洋諸島や東南アジアのベンガリ人・クリン人・マレー人・ジャワ人・サカイ人を集めた南洋館が作られた。博覧会主催者が配った冊子によれば、これらの人々は食人種と紹介され、鰐や大蛇、象などの展示に混じって生活の展示をさせられたという。」

wiki:人間動物園



 このような博覧会の“展示”は、“帝国”が領土拡張によって“獲得”した異民族に対する大衆の好奇心に応えるとともに、植民・開発への関心を高め、天皇に近い血統日本人(和人)を進歩の先頭とし、異民族を落伍者、先住民を未開・野蛮とする“近代化”の序列―――いわば“日本型ダーウィニズム”のイデオロギーを、臣民に教育する意図がありました。

 ともかく、こうした動きによって、「ギリヤーク」についてのあまり正確でない知識やイメージも、1920年代には、日本の大衆にかなり浸透していたと見ることができます。



 しかし、「ギリヤーク」についてのより詳しい知識は、とりわけ賢治がサハリンを訪れる直前の時期に、一般の新聞を通じて供給されました。

 《シベリア出兵》につづく《北サハリン占領》のために、盛岡からも工兵隊と歩兵隊が派遣され、1923年4-5月の『岩手日報』ほかの新聞は、派遣・帰還を大々的に報道するなかで、サハリンの風物や住民風俗についても、詳しい紹介記事を掲載していたのです:


「賢治が樺太へ行く三ヶ月前、岩手県からは、『サガレン派遣隊』なる軍隊が樺太に向け出発していた。そのことは、岩手日報紙上でも 10日ばかり関連記事の連載があり、トップニュースであった。

 それは 大正12年4月23日の5面トップの、『柳の芽ぐむ盛岡から、雪のサガレンへ日曜の晴れた朝を 万歳と歓呼声裡に 工兵中隊出発』という大見出しと、行進する一行の写真とに始まる記事である。派遣されたのは、『盛岡工兵隊第八大隊第二中隊』の 162名で、『当市民の熱誠なる見送りと各中等学校小学校生徒の万歳声裡』に、盛岡駅を出発したという。5月9日には、この8師団と交替に帰還した第2師団歩兵第4連隊、第32連隊が盛岡駅に到着したという記事が載っている。」

秋枝美保『宮沢賢治 北方への志向』,pp.239-240.


 出発当日 4月22日の紙面には、「サガレンの土人 盛岡工兵隊第二中隊が今日派遣されるサガレンのギリヤーク族」と題して、ニヴフの家族が映っている写真が掲載されていました。













「派遣隊の追跡記事に加えて、一方、興味深いのは、『北の果てサガレンとは?』と題して、サガレンの生活全般を紹介する記事が 11回に渡って掲載されていることである(大正12年4月19日〜4月30日)。

      
〔…〕

 (3) ギリヤー族 魚皮の衣服を着、海豹の袴を穿つ

 (4) ツングース族 日本人とは確に血族関係がある
      五、交通の景況

 (5) 『水の火』の大倉庫 監獄で掘る炭鉱
      六、石油はあるか 七、石炭は出るか

 (6) チリヤコの森林 中央平原の耕作地
      七、石炭は出るか 八、森林はどんなか 九、農政は駄目だろうか

 (7) 曠原の牧畜と国境の砂金
      九、農政は駄目だろうか 十、その他鉱物 一一、漁業

 (8) らっこが二束三文 
〔…〕

 (11) 平和の楽土に州民喜悦す」

秋枝美保『宮沢賢治 北方への志向』,pp.240-241.


 ↑このような見出しで、紹介記事が連載されているそうです。最後の見出しなどは、のちに“満洲国”の恐怖支配を隠蔽するために使われた宣伝文句を先取りしています。天皇の“帝国”に併呑されれば、異民族は泣いて喜ぶという、当時の日本臣民が信じなければならなかったリクツ抜きの絶対論理を表示しています。

 「ギリヤーク」を紹介した「(3)」の記事を、秋枝さんの本から再引用しますと:


「対岸の『ソフィスク』『マリンスク』『アムール』の一帯から北樺太の東西北の海岸に犬を家畜とし漁業をしてゐる。その人口は露国帝政時代の調査に依ると 2800位でアムール一帯に住んでゐるものを『アムールギリヤーク』、樺太に住んでゐるものを『サハリンギリヤーク』と云ひシベリヤを追はれて樺太を南下したが丁度『アイヌ』族が我北辺から圧迫されたのと北緯五十度の国境付近に出会ひ其儘両者共現在の状況になつた様である。

 彼らは主として漁業か運搬業に従事し副業としては狩猟をする。平常居住する家は丸太小屋又は半土窟式の小屋で、四角に土地を一丈位掘り下げ二丈位の柱四本を立て之に梁を張り、各方面から丸太を梁に掛け渡して壁とし最上部に煙出しを兼た天窓をつけて部屋の中央に爐を設け暖房や炊事の為に用ふる。夏期は海岸に近く居住するが冬は森林内に移転する。
〔…〕男の子は十一歳になると父と共に野で労働し女の子は母に従つて家事を見習ふのである。

      
〔…〕

 衣服は魚皮又は獣皮のみで造つてゐたが近来木綿製支那服を用。元アザラシの皮で造つた袴を穿ち一寸一見は支那人の様である。運搬具の主なるものは犬橇、馬橇又は馬車で海路は独木船又は妙な形ちの漁船を用ゆる。」

秋枝美保『宮沢賢治 北方への志向』,pp.242-243.






 
ニヴフの刳り舟  






 衣と住について詳しい説明がありますが、内容が不正確なだけでなく、“原始的な生活をしているにちがいない”という先入見の想像で補ったと思われる部分が見られます。

 「シベリヤを追はれ」てサハリンに渡ったと書いているのは誤りで、18世紀初めに間宮林蔵は、大陸側アムール河口とサハリン北部の双方でニヴフ
(間宮は、アイヌの呼称に従って「スメレンクル」と呼んでいる)の村を訪ねています。ニヴフが海峡の両側に住んでいたのは、彼らが交易に従事していたことと関係があります。↑上の新聞記事には「運搬業」とありますが、正しくは、大陸とサハリン島を結ぶ商業交易です。とくに、冬は間宮海峡が氷結するので、ニヴフの犬橇による交通の好機でした。

 ニヴフの交易路は、サハリン北部でアイヌの交易路とつながり、南サハリンを経て北海道まで延びていました。1855-56年にロシアの民族誌学者シュレンクが、サハリンでの交易の状況を記録しています:


「1855年の初春と 1856年に、シュレンクは橇を使い、凍結した海を越えてサハリンまで行った。2度目の旅で彼は」
東海岸の「トゥイミ川にまでたどり着いた。〔…〕この地は島のなかでももっとも人口密度の高い地域で、交易路の中心地であり、島のいたるところやその他の地域から、荷積み犬を連れトナカイ橇に乗った人びとが集まってくるのだった。トゥイミ川のギリヤークは測り知れないほど大量の凍った魚を集荷する。その大量の魚には、〔…〕アイヌ、オロチョン、そして大陸に住むギリヤークとアムール川流域に住むマングンとの交易の品も含まれていた。

 『アイヌはトゥイミ川の谷に、日本の品々、オロクの毛皮製品、そのほか銅やアザラシ、ロシアやマンジュ(満洲)の商品を持ってくる。』
〔と、シュレンクは記している。―――ギトン注〕
テッサ・モーリス=スズキ『辺境から眺める』,pp.97-98.







サハリン トゥイミ川






 ↑上の新聞記事で、「半土窟式の小屋」として説明されているのは、ニヴフの冬季用住居「トルフ」のことで、じっさいには、「壁」の丸太の上に土をかぶせて、その上に雪が積もるようにします。そして、「煙出し」が雪の上に出るようにします。こうすれば、真冬でも家の中はたいへんあたたかくなるわけです。

 これは、原始的どころか、非常に合理的な耐寒建築です。ソ連時代末期にセントラルヒーティングが動かなくなった時に、北東シベリアの多くの先住民が、鉄筋コンクリートの労働者住宅を放棄して、庭に伝統住居を建てて住んだと言うくらいなのです(『辺境から眺める』,p.132.)。

 なお、夏は夏季用住居「ケルフ」に住みました。(⇒:wiki:ニヴフ

 「衣服は魚皮又は獣皮のみで造つてゐた」というのは、疑わしい記載です。管見の限りの資料では、衣服は古くから綿入れの中国服で、アザラシ皮のズボンを着用します。また、木綿の下着を着ます。そうでなければ防寒できないでしょう。wiki:ニヴフを参照。






 そういうわけで、1923年当時容易に眼にすることのできた資料では、ニヴフについて正確なイメージを持つことは困難だったと思われます。童話の素材になるようなニヴフの“民話・伝説”のたぐいも、紹介されてはいなかったようです。

 「ギリヤークの犬神」は、宮沢賢治のまったくの創作なのでしょうか?

 




 【10】 《サハリン旅行》の前と後



 しかし、北方の風土や諸民族についての宮沢賢治の認識は、1923年8月の《サハリン旅行》によって、大きく変化します。

 当時日本軍は、ロシア領だったサハリン島北部まで占領しており、モスクワの共産党政府が壊滅すれば、島全体を領有できると思っていました。日本の政府も、そのつもりで国民の“樺太開発熱”“植民熱”を煽っていました。駐屯軍の往き来を機に、新聞が大々的に樺太紹介記事を出したのも、その流れでした。

 もっとも、じっさいに、サハリンが民間の注目の対象になるのは、まだもう少し先になります。摂政の宮(昭和天皇)の樺太行啓は 1924年8月、北原白秋が招待された鉄道省の樺太観光団旅行は、翌25年8月のことです。賢治の旅行は、それらよりも1年以上早いのです。

 現在、“宮沢賢治圏”では、賢治の《サハリン旅行》と言えば、亡くなったトシの魂を追い求めて。。。 と想定する人が多いのです。そういう面もあったことは否定しませんが、それが主目的だったとは、ギトンは思いません。

 正式の旅行目的は、樺太の王子製紙工場に生徒たちの就職をあっせんすることでした。賢治の心中で、それだけが目的でなかったことは明らかです。サハリンに5日間滞在していますし、南端の大泊(コルサコフ)の港に着いてすぐ、製紙工場を訪ねるよりも前に、樺太鉄道の終点だった栄浜(スタロドゥプスコエ)へ、まっしぐらに赴いています。

 《サハリン旅行》は亡きトシを追い求めての鎮魂の旅だったとみなす人たちは、賢治の行動を、トシの魂が北方へ向かったと思っていたからだと説明します。そして、当時の地図で栄浜の近くに「白鳥湖」という沼があるのを見つけて、トシは白鳥になったと思っていたので、この沼へ行ったのだと主張します。しかし、直接の根拠はありません。

 賢治が、まっしぐらに鉄道の終点まで行った理由は、ひとつには、彼が鉄道マニアだったからです。また、大泊に着いた日が日曜日だったので、工場へ行っても、会社の人に会うことはできないと思ったかもしれません。

 賢治の《サハリン旅行》は、ロシアの作家チェホーフが大きく影響していたと思います。チェーホフの名は、『春と修羅』収録の詩「マサニエロ」にも出てきており、弟・清六氏によると、賢治は中学校時代からチェーホフを愛読していました。サハリン旅行が、チェーホフの文学的転機になったことを、賢治は知っていたと思うのです。そして、サハリンを体験することが、彼自身にとっても“転機”になることを、期待していたのではないでしょうか。

 チェーホフのルポルタージュ『サハリン島』は、作家としての予断と先入見を排して、ひたすら取材対象の住民たちに関する事実を、虚心に記録する姿勢に貫かれていたと言えます。


「サハリンでは文字通りすべてが彼を魅了した。気候から農業から地元の人々、そして少数民族の工芸、暮らし、風習、学校教育、監獄の収監条件から日本総領事館の仕事まで、チェーホフはあらゆることに興味を示している。」

「チェーホフ ロシアのバイカー」



 つまり、サハリンという土地そのものが賢治の目的でした。また、『サハリン島』で描かれているこの島の入植者と先住諸民族にも、賢治は関心を持ったと思います。

 じつは、「白鳥湖」のすぐそばに、「内淵(ナイプチ)」というアイヌ部落が、当時はありました。賢治は、このアイヌ村へ行ったか、その途中の海岸まで行って、内淵の住民と接触したと、ギトンは推測しています。いちおう作品上の根拠もありますが、これはのちほど説明します。



 【参考】⇒:
(内淵アイヌ村について)《ゆらぐ蜉蝣文字》7.6.38


 (1)で説明したように、当時までのサハリンの先住民は、各民族にはっきりと種別されてはいませんでした。ひとつの部落に複数の民族が住み、ひとりの先住民が、アイヌ語もニヴフ語も話す、血統はウイルタでもニヴフでもある、といった状態がむしろふつうだったのです。

 賢治が目指した樺太アイヌの村にも、「ギリヤーク(ニヴフ)」の住民がいたかもしれないし、少なくとも、「ギリヤーク」の習俗や伝説に通じた人はいたはずです。



 そういうわけで、ここではまず、《旅行》の前と後での賢治の“変化”、とくに北方先住民に対するイメージの変化を、作品によって追いかけてみたいと思います。《旅行》前の作品として『花椰菜』、《旅行》後の作品として、「オホーツク挽歌」『サガレンと八月』『タネリはいちにち噛んでゐたやうだった』を取り上げます。






 






 旅行に行く前の賢治の“北方民族観”が表れている作品として、散文『花椰菜』を見たいと思います。

 『花椰菜』は、《初期短篇綴》草稿群の1篇で、現存稿(清書後手入れ稿)の表題の下に、「一九二二・一二・」、篇末に「1922.1.―」と記されています。《初期短編綴》の他の草稿にも同様の2種類の年月表示が書かれていて、漢数字のほうは、題材となる出来事のあった時期、算用数字は、清書した時期と推定されています(『新校本全集』第12巻・校異篇)。ところが、『花椰菜』草稿では、漢数字の表示のほうが後の年月なので、困ってしまいますw。

 どちらかの年月が、誤記か思い違いだとすると、たとえば、出来事(カムチャッカに行った夢を見た日)は 1921年12月で、清書は 1922年1月、あるいは、出来事は 1922年12月で、清書は 1923年1月、などが考えられます。いずれにしろ、1923年8月の《サハリン旅行》よりは前です。

 同じことは、草稿に使われている用紙の種類からも推定できます。用紙は「10/20(広)イーグル印」で、1922-23年ころ使われたと推定される「10/20」や、『春と修羅』の印刷用原稿を清書するために 1923年に一括購入された「丸善特製二」よりも前の時期に使われていたものです(並行して使われた時期もあったかもしれませんが)。「10/20(広)イーグル印」に書かれた書簡が1通あって(書簡番号[199])、1921年12月のものです。

 以上から、『花椰菜』が書かれたのは、《サハリン旅行》より前で、農学校に就職した 1921年12月以後、1923年はじめまでのあいだと考えて、まちがえないでしょう。






「そこはカムチャッカの横の方の地図で見ると山脈の褐色のケバが明るくつらなってゐるあたりらしかったが実際はそんな山も見えず却ってでこぼこの野原のやうに思はれた。

 とにかく私は粗末な白木の小屋の入口に座ってゐた。

 その小屋といふのも南の方は明けっぱなしで壁もなく窓もなくたゞ二尺ばかりの腰板がぎしぎし張ってあるばかりだった。

 一人の髪のもぢゃもぢゃした女と私は何か談してゐた。その女は日本から渡った百姓のおかみさんらしかった。たしかに肩に四角なきれをかけてゐた。

 
〔…〕畑には灰いろの花椰菜(はなやさい)が光って百本ばかりそれから蕃茄(トマト)の緑や黄金(きん)の葉がくしゃくしゃにからみ合ってゐた。馬鈴薯もあった。馬鈴薯は大抵倒れたりガサガサに枯れたりしてゐた。ロシア人だったん人がふらふらと行ったり来たりしてゐた。全体祈ってゐるのだらうか畑を作ってゐるのだらうかと私は何べんも考へた。

 実にふらふらと踊るやうに泳ぐやうに往来してゐた。そして横目でちらちら私を見たのだ。黒い繻子のみじかい三角マントを着てゐたものもあった。むやみにせいが高くて頑丈さうな曲った脚に脚絆をぐるぐる捲いてゐる人もあった。

 右手の方にきれいな藤いろの寛衣をつけた若い男が立ってだまって私をさぐるやうに見てゐた。私と瞳が合ふや俄に顔色をゆるがし眉をきっとあげた。そして腰につけてゐた刀の模型のやうなものを今にも抜くやうなそぶりをして見せた。私はつまらないと思った。それからチラッと愛を感じた。すべて敵に遭って却ってそれをなつかしむ、これがおれのこの頃の病気だと私はひとりでつぶやいた。そして哂った。考へて又哂った。

 その男はもう見えなかった。

 その時百姓のおかみさんが小屋の隅の幅二尺ばかりの白木の扉を指さして

 『どうか婆
(ば)にも一寸遭っておくなさい。』と云った。私はさっきからその扉は外へ出る為のだと思ってゐたのだ。もっとも時々頭の底でははあ騒動のときのかくれ場所だななどと考へてはゐた。〔…〕

 私はふっと自分の服装を見た。たしかに茶いろのポケットの沢山ついた上着を着て長靴をはいてゐる。そこで私は又私の役目を思ひ出した。そして又横目でそっと作物の発育の工合を眺めた。一エーカー五百キログラム、いやもっとある、などと考へた。人がうろうろしてゐた。せいの高い顔の滑らかに黄いろな男がゐた。あれは支那人にちがひないと思った。

 よく見るとたしかに髪を捲いてゐた。その男は大股に右手に入った。それから小さな親切さうな青いきものの男がどうしたわけか片あしにリボンのやうにはんけちを結んでゐた。そして両あしをきちんと集めて少しかゞむやうにしてしばらくじっとしてゐた。私はたしかに祈りだと思った。」

『花椰菜』より。



 【参考記事】⇒:《過去日記倉庫》2013/07/05



 






 夢で見た「カムチャッカ」のようすを書いていますが、まるで、東北か北海道の農村と変らない風景です。

 作者はまず、日本から来た植民者の家にいるようですが、その「小屋」は、「南の方は明けっぱなしで壁もなく窓もなくたゞ二尺ばかりの腰板がぎしぎし張ってあるばかりだった。」とあります。これは「ギリヤーク」の夏季用住居「ケルフ」↓ではないかと思います。

 賢治は、当時の新聞記事か本で、「ケルフ」の写真を見たのでしょう。





ニヴフの「ケルフ」 『辺境から眺める』,p.127.
「干し魚をつくるための覆いのついたテラスが
備え付けられている」




 「南の方は明けっぱなし」の部屋は、魚を干して干物にする作業場で、南側を開放して日が当たるようにし、また雨を防ぐための屋根もあります。
人の住む空間は、その奥にある扉の向こうです。「ケルフ」は、たいへん大きな高床の木造家屋なのです。丸太ではなく、「白木」で建てられています。

 賢治は、「白木の扉」の向こうは「騒動のときのかくれ場所だな」などと書いていますが、住空間は、そんなに狭くはありません。表てから見えているのは、屋根付きテラス(えんがわ)の部分だけです。(風景写真の好きな人にはわかると思いますが、カメラは、長屋のような建物を短辺の方向から写すと、奥行きが寸詰まりになってしまう――長屋に見えなくなる――欠点があります。)

 「ははあ騒動のときのかくれ場所だな」という賢治の誤認は、現地ではしばしば原住民の騒擾が植民者を襲うという、日本人一般の根拠のない観念を反映しています。原住民は“恐いもの”だ、“何をするかわからないものだ”というのが、当時の日本の一般的な先住民観だったのだと思います。

 そして、じっさいに夢に登場する現地住民は、「ロシア人」「だったん人」「支那人」です。「ふらふらと行ったり来たりしてゐた。全体祈ってゐるのだらうか畑を作ってゐるのだらうかと私は何べんも考へた。/実にふらふらと踊るやうに泳ぐやうに往来してゐた。」と、異様なふるまいのさまが描かれます。「黒い繻子のみじかい三角マントを着てゐたもの」「むやみにせいが高くて頑丈さうな曲った脚に脚絆をぐるぐる捲いてゐる人」など、奇妙な服装の人物が往来します。

 「きれいな藤いろの寛衣をつけた若い男」は、作者と目が合うと、腰の「刀の模型のやうなもの」を抜くそぶりを見せ、闘争寸前になりますが、作者は相手に「チラッと愛を感じた」とあります。明らかに同性愛感情です。異性愛にも共通して言えることですが、攻撃・被虐の衝動は、愛欲と近い位置にあるのです。賢治は、先住民との愛欲の交歓を、無意識にも期待していたかもしれません。

 作者自身の服装は、「茶いろのポケットの沢山ついた上着を着て長靴をはいてゐる。」と書かれています。探検家か軍人の服装。草稿の最後で「曹長」と行き会い、部下に対するように会話していますから、准尉、少尉以上の上級軍人なのでしょう。賢治が望んでいる理想の自己認識なのかもしれません。(2)で見た詩「不貪欲戒」の「執政官」と比べても興味深いですねw

 自分の服装を見て、「私は又私の役目を思ひ出した。そして又横目でそっと作物の発育の工合を眺めた。一エーカー五百キログラム、いやもっとある、などと考へた。」とあります。農産の調査のために、カムチャッカへ派遣されていると思っているようです。

 このように、じっさいにサハリンへ行く前の賢治の認識では、北方民族の種別も、「だったん人」というだけ、あとは「支那人」「ロシア人」などといいかげんです。全体に、奇妙なふるまいをする奇妙な服装の変な人たちがふらふら行き来しているイメージ。そして、いったい何をしているのかわからない。いつ攻撃を仕掛けてくるかわからない。色濃い先入見が膨れてできあがった先住民像と言えます。

 ただ、ニヴフの夏住居の描写は、『岩手日報』の記事とは違って、かなり詳細で正確です―――魚干しのテラスを、住空間だと思いこむ見まちがいをしてはいますが。一般の新聞だけでなく、何か専門的な文献を見る機会があったようにも思われるのです。






 つぎに、《サハリン旅行》の後で、旅行中の“スケッチ帖”からまとめられた「オホーツク挽歌」詩篇を見たいと思います:



「いまさつきの曠原風の荷馬車がくる
 年老つた白い重挽馬は首を垂れ
 またこの男のひとのよさは
 わたくしがさつきあのがらんとした町かどで
 浜のいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時
 そつちだらう 向ふには行つたことがないからと
 さう云つたことでもよくわかる
 いまわたくしを親切なよこ目でみて

  (その小さなレンズには
   たしか樺太の白い雲もうつつてゐる
)」

『春と修羅』「オホーツク挽歌」より。

 1行空けの段落は引用者。



 この部分は、いつ読んでも不可解です。

 「この男」が、いきなり現れて、すぐそのあと、「親切なよこ目でみて」の文は途中で切れてしまって、それっきり「この男」については書かれなくなってしまうのです。賢治の口語詩に、このような例はほかにありません。うがって考えれば、「親切なよこ目でみて」の後にあったことを、隠してしまったようにも見えます。

 「この男」が、「曠原風の荷馬車」を挽く馬の手綱をとってやってきたことは、文脈から明らかですが、それさえもはっきり文字にして書いてあるわけではありません。

 ↓こちらでは、この詩の不可解な不連続部分について、前後の手がかりから、賢治はこの若い男とのあいだで、海岸で性的な接触があったと考えてみました。


 【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》7.6.7

 【参考】⇒:《ゆらぐ蜉蝣文字》7.6.12


 「若い」というのも、いまよく見れば、テクストには「この男」の年令について何も書いてありません。しかし、この後の、咲き誇る海岸の花々や、その強烈な香り、「妖精」の現れる描写から考えて、「この男」は青年だと思われるのです。






 






 宮沢賢治が砂浜で同性愛のアオカンをしたなどという想像は、賢治ファンの誰にも賛成してもらえないかもしれませんが、それなら、〜という心象を持った、〜と幻想した、というのでも構わないのです。事実を確かめることはできないのですから。いずれにせよ、この荷車を挽いた「男」と賢治の間に、なんらかの接触があり、賢治は、そこから好意的で豊かな印象を受け取ったことはまちがえないでしょう。

 「その小さなレンズには/たしか樺太の白い雲もうつつてゐる」というカッコ書きが、賢治の受けた新鮮な印象を物語っています。


「この男のひとのよさは
 わたくしがさつきあのがらんとした町かどで
 浜のいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時
 そつちだらう 向ふには行つたことがないからと
 さう云つたことでもよくわかる」


 この若者について具体的に書いてあることは、これだけですが、よく読めばこれも不可解な記述です。にぎやかな場所を訊かれて、「そつちだらう 向ふには行つたことがないから」と答えると、どうして人が好いことになるのか!?

 朝の栄浜の集落には、ほとんど人通りがなくて、さびしく感じていた時、この若者の鷹揚でざっくばらんな態度に救われたように感じた、ということかもしれません。

 しかし、もうひとつの推測は、「そつちだらう 向ふには行つたことがないから」という若者の言い方が、賢治と若者の向った方向、そして、この若者がアイヌ村の住人であることを暗示しているのではないかということです。

 ギトンがざっと調べた結果にすぎませんが、栄浜の海岸は、集落から北へ向かうと砂浜海岸、東へ向かうと石浜で、日本人の漁船が着く波止場は、石浜のほうにありました。北の砂浜海岸のほうには、「内淵」アイヌ村と、「白鳥湖」があります。「オホーツク挽歌」に書かれている海岸のようすを見れば、賢治が行ったのは、砂浜海岸のほうにまちがえありません。とすると、青年は、自分の向かってゆく砂浜の方向、アイヌ村のあるほうを「そつちだらう」と言い、日本人の漁民などでにぎわう石浜海岸には「行つたことがない」と言っているのです。

 この青年は、荷馬車を挽いてアイヌ村に帰るアイヌ住民だと考えることができます。にもかかわらず、初対面の日本人旅行者に対して気を許し、自分らのほうに来るよう誘っていることになります。もしそうだとすると、賢治が「この男のひとのよさ」に激しく感動したことは、たいへんよくわかるのではないでしょうか?

 日本内地の村の閉鎖性とは、いちじるしい違いがあります。もともとアイヌは、日本人を含む異邦人を「シシャム(大きな隣人)」と呼び、どんな異邦人に対しても「不安も気後れも」なく、つねに歓待の態度を示す人びとであったことが、ロシア人探検家によって記録されています。
「異邦人に対する開かれた態度……交易に大きく依存するアイヌのような小規模社会にはよく見られる態度である。」(テッサ・モーリス=スズキ著,伊藤茂・訳『日本を再発明する――時間、空間、ネーション』,2014,以文社,p.15.)

 さきほど引用した『花椰菜』には、往来する異形の住民たちが、「横目でちらちら私を見た」と書かれていました。異国に迷い込んだ作者を、異国の住民はみな好奇の眼で、よそよそしく眺めるにちがいない、という想像が、そこにはあります。

 「オホーツク挽歌」には、荷馬車の青年が、「いまわたくしを親切なよこ目でみて」と書かれています。「よこ目」で見るという点が、『花椰菜』の「ロシア人」や「だったん人」と同じですが、作者との関係は、好意的なものに変化しています。事前に想像していた異国の住民は、たいへんよそよそしく不可解な人々だったが、じっさいに出会った樺太のアイヌの青年は、驚くほど人が好かった、ということなのではないでしょうか?






「タネリが指をくわいてはだしで小屋を出たときタネリのおっかさんは前の草はらで乾かした鮭の皮を継ぎ合せて上着をこさえていたのです。『おれ海へ行って孔石
(あないし)をひろって来るよ。』とタネリが云いましたらおっかさんは太い縫糸(ぬいいと)を歯でぷつっと切ってそのきれはしをぺっと吐いて云いました。〔…〕
『サガレンと八月』より

 原文は旧仮名遣い。



 童話のほうでも、《旅行》後は、先住民の少年と母親を登場させます。そこには、《旅行》前に見られた“異国の住人”に対する異和感や偏見はありません。

 「鮭の皮を継ぎ合せて上着をこさえ」るという記述は、『岩手日報』に掲載されていた「ギリヤーク」についての記事を想起させます。あるいは、じっさいに行ったサハリンで、より具体的な見聞があったかもしれません。

 ともかく、ここからわかることは、『サガレンと八月』の「タネリ」は、アイヌではなく、「ギリヤーク」の少年として設定されているらしいことです。つまり、「ギリヤークの犬神」は、タネリにとって“異形の他者”ではなく、むしろ、タネリと同族の信仰の中にある存在なのです。そのことは、タネリが「犬神」に連れて行かれる世界が、海も浜も青い空もある、タネリの日常と同形の世界であることと関係するでしょう。













「ホロタイタネリは、小屋の出口で、でまかせのうたをうたいながら、何か細かくむしったものを、ばたばたばたばた、棒で叩いて居りました。

     
〔…〕

 タネリが叩いているものは、冬中かかって凍らして、こまかく裂いた藤蔓でした。

     
〔…〕

 ところがタネリは、もうやめてしまいました。向うの野はらや丘が、あんまり立派で明るくて、それにかげろうが、『さあ行こう、さあ行こう。』というように、そこらいちめん、ゆらゆらのぼっているのです。

 タネリはとうとう、叩いた蔓を一束もって、口でもにちゃにちゃ噛みながら、そっちの方へ飛びだしました。

 『森へは、はいって行くんでないぞ。ながねの下で、白樺の皮、剥いで来よ。』うちのなかから、ホロタイタネリのお母
(っか)さんが云いました。」
『タネリはたしかにいちにち噛んでいたやうだった』より。

 原文は旧仮名遣い。
 青字は、原文の傍点付き字。



 ↑この童話は、『サガレンと八月』の発展形なのですが、こちらの「タネリ」は、アイヌのようです。「藤蔓」から繊維をとって衣類を織る習慣が、アイヌにあったか、岩手県の山奥の習慣だったか、もっとよく調べてみないとわからないのですが‥‥、このように樹皮から繊維をとって布を織る習慣は、ニヴフにはありません。アイヌには、オヒョウ、ハルニレ、シナノキなどの樹皮から取り出した繊維でアツシ(アットゥシ)布を織る伝統技術があります。

 先住民の少年が主人公であり、『サガレンと八月』ではまだ見えていた先住民の神格「ギリヤークの犬神」に対する過度の恐怖感、異和感も、ここにはもうありません。








ばいみ〜 ミ



 
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カテゴリ: 宮沢賢治

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